カテゴリー「書評:歴史/地理」の345件の記事

2025年11月 5日 (水)

アンディ・グリーンバーグ「サンドワーム ロシア最恐のハッカー部隊」角川新書 倉科顕司・山田文訳

本書では、サイバー戦争によってディストピア化を進行させているならず者の最も明確な例として、サンドワームの話を紹介する。
  ――はじめに

【どんな本?】

 2015年のクリスマスイブ。ウクライナは大規模な停電に陥る。事故ではない。事件だ。物理的な攻撃ではない。サイバー攻撃である。目標はサーバでもパソコンでもない。制御システムだ。そして目的は愉快犯でも金銭でもない。政治的・戦略的・経済的にウクライナに打撃を与えることだ。単独犯による犯行ではない。組織によるものだ。それも、大規模で高度な技術を擁する。

 以前から、連中にはコードネームがついていた。サンドワーム。

 雑誌 WIRED のシニアライターを務める著者が、ウクライナ政府のみならず世界中の港湾施設や病院などのコンピュータを停止させた謎のサイバー・テロ組織サンドワームを追い、世界を巡ってその被害者やセキュリティ関連企業に取材した、迫真のドキュメンタリー。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Sandworm: A New Era of Cyberwar and the Hunt for the Kremlin's Most Dangerous Hackers, Andy Greenberg, 2019。日本語版は2023年1月10日初版発行。新書版で縦一段組み本文約423頁に加え、著者あとがき7頁。9ポイント41字×16行×423頁=約277,488字、400字詰め原稿用紙で約694枚。文庫なら厚い一冊分。

 文章は比較的こなれている。内容も、少なくとも技術的には難しくない。というか、著者はあましITに詳しくない。取材相手からDNS(→Wikipedia)の講義を受けてたり。そのためか、多少IT系の言葉遣いがあやしい。と思えば、幾つかの用語を説明なしに使ってたり。その例は以下。

  • マルウェア:不正プログラム(→Wikipedia)
  • フォレンジック:証拠の保護およびシステムの保全?(→Wikipedia)
  • ハクティビスト:政治目的を掲げる(広い意味での)ハッカー(→Wikipedia)
  • ゼロデイ攻撃:修正プログラム配布前の脆弱性を突く攻撃(→Wikipedia)

 あと、「ハッカー」は悪党の意味で使ってる。かと思えば、.vbs(→Wikipedia)やDNSは簡潔な説明がある。また、ド「メインコントローラ」(→Wikipedia)って言葉も出てくるんだが、これマイクロソフトのシロモノだよね。同様に「ワード」も、マイクロソフト・ワードを示すんだろうけど、KWord(→Wikipedia)やEGWORD(→Wikipedia)とかもあったんだぜ。最近は~WORDではなく~Writerが流行りみたいだけど。いったい、どういう読者を想定してるんだろう…って、雑誌 WIRED の読者か。

 という事で、索引か用語集が欲しかった。

【構成は?】

 前の章を踏まえて後の章が展開する構成なので、なるべく頭から読もう。

クリックで詳細表示
  • はじめに
  • プロローグ
  • 第1部 出現
  • 1 ゼロデイ
  • 2 ブラックエナジー
  • 3 アラキス
  • 4 戦力倍増
  • 5 スターライト・メディア
  • 6 ホロドモールからチョルノービリまで
  • 7 マイダンからドンパスまで
  • 8 停電
  • 9 視察団
  • 第2部 起源
  • 10 回想 オーロラ
  • 11 回想 エストニア
  • 12 回想 ジョージア
  • 13 回想 スタックスネット
  • 第3部 進化
  • 14 警告
  • 15 ファンシー・ベア
  • 16 Fソサエティ
  • 17 ポリゴン
  • 18 インダストロイヤー、あるいはクラッシュオーバーライド
  • 第4部 神格化
  • 19 マースク
  • 20 エターナルブルー
  • 21 ノットペチャ
  • 22 全国規模の大災害
  • 23 崩壊
  • 24 損害
  • 25 事後分析
  • 26 距離
  • 第5部 アイデンティティ
  • 27 GRU
  • 28 離反者
  • 29 情報敵対
  • 30 ペナルティ
  • 31 バッド・ラビット、オリンピック・デストロイヤー
  • 32 偽旗
  • 33 74455
  • 34 タワー
  • 35 ロシア
  • 36 ゾウと反乱者
  • 第6部 教訓
  • 37 ブラックスタート
  • 38 回復力
  • エピローグ
  • 付録 サンドワームとフランス選挙ハッキングのつながり
  • 謝辞/著者あとがき/出典について/参考文献

【感想は?】

 つくづく、ロシアはロクな事をしない。

 ロシアのサイバー・テロ組織「サンドワーム」を雑誌 WIRED の記者が追ったドキュメンタリーだ。その過程で最大の標的となったウクライナはもちろん、ジョージア・オランダ・イギリス・米国などを飛び回り、被害者やセキュリティ企業そして国家の治安機関などに話を聞いている。

 残念ながら技術的な詳しい話は出てこない。そもそも著者はプログラマじゃないし。また、情報セキュリティ関係者に役立つネタも、ほぼ出てこない。だから、その辺は期待しないように。あくまでも「記者がテロ組織を追ったドキュメンタリー」であって、技術書じゃないのだ。

 冒頭から、標的にされたウクライナの悲惨な状況が切々と描かれる。マルウェア(不正プログラム)が蔓延しているのだ。

「ウクライナでは、攻撃されていない場所がありません。どの岩をひっくり返しても、コンピュータネットワークへの工作の痕跡が見つかるんです」
  ――第1部 出現

 素人が面白半分で仕掛けてるんじゃない。組織的に、ウクライナを標的として攻撃を仕掛けているのだ。その結果、ウクライナでは大規模な停電が起きた。

長年身を潜め、能力を高め、偵察活動をしてきたサンドワームは、これまでそのハッカーも踏み出したことのない一歩を踏み出した。実際に停電を引き起こし、数十万人の民間人が利用する現実世界のインフラを無差別に破壊したのだ。
  ――第1部 出現

 実質的な被害を考えれば、戦略爆撃みたいなモンだろう。犯罪どころか戦争行為である。これには、予兆があった。2007年4月のエストニアだ。DDoS(→Wikipedia)攻撃で、エストニア国内の多くのサイトが使えなくなった。

エストニアで起こったこの2カ月間の出来事は、一部の専門家のあいだでは、史上初のサイバー戦争、あるいは、刺激的に“第一次ウェブ大戦”と言われるようになる。
  ――第2部 起源

 政府が大胆にITを活用する国として有名なエストニアだが、悪党にとっては魅力的な標的だったのだ。もっとも、エストニアを狙った理由は、もっと下世話なものだけど。だってNATO加盟国だし。

 また、ロシアは実際の軍事侵略にサイバー攻撃を組み合わせた先例も作った。2008年のジョージア南オセチア戦争(→Wikipedia)だ。北京オリンピック期間中でもあり、軍事衝突ばかりが話題になったが、その陰でロシアはサイバー攻撃もしていたのだ。

(2008年8月のジョージアに対する)サイバー攻撃の実際の効果よりも重要なのは、ロシアが歴史的前例をつくったことだ。ハッカーによる破壊工作と伝統的な戦争をこれほど公然と連携させた国はこれまでになかった。
  ――第2部 起源

 この時はサイバー攻撃による大きな被害はなかったが、ニュース・メディアはサイバー攻撃について大きな報道をしなかったし、各国の政府も表向きは問題視しなかった。

ジョンズ・ホプキンス大学で戦略と軍事を研究しているトマス・リッド教授の指摘によると、そのように(攻撃への非難や反撃を)放置された状況のもとでロシアは技術力の限界を押し広げるだけではなく、国際社会が許容する限界を探っているという。
  ――第3部 進化

 つまり、ツケあがらせてしまうのだ。平和を維持するには、小競り合いでもキチンと反撃してメンツを保つのも大切なんです(「戦争と交渉の経済学」)。

 さて、ロシアのサーバー・テロ組織としては、「情報セキュリティの敗北史」でファンシー・ベア(→Wikipedia)が挙がっているが…

サンドワームのハッカーは、姿を見せないプロの破壊活動家だ。一方、ファンシー・ベアは恥知らずで下品なプロパガンダ活動家のようだ。
  ――第3部 進化

 「140字の戦争」にはロシアが運営するトロール(荒らし)工場が出てくる。著者もセキィリティ関係者も、その三者は見分けにくいというか、どうも連携してる雰囲気があったり。

 さて、本書の主な舞台はウクライナだが、他国の情報セキュリティ企業の関係者も、テロリストが武器として使った不正プログラムを手に入れ、解析している。その結果、かなりヤバい事がわかってきた。

「このマルウェア(CRASHOVERRIDE,→IPA 独立行政法人情報処理推進機構/pdf)のすばらしさは、どの国でも、どの変電所でも実行できることです」
  ――第3部 進化

 変電設備は国により様々なメーカーや機種があり、操作・命令系統も異なる。この違いを吸収するために、ロシア製の不正ソフトウェア CRASHOVERRIDE は、設備への命令部分をモジュール化していた。他国を攻撃する際は、そこだけ差し替えればいい。つまり、わが国がいつ攻撃されても不思議じゃないのだ。

 更にロシアはよりより凶悪な不正プログラム NotPetya を発動、2017年6月27日にウクライナ中のパソコンが狂ってしまう。

ウクライナのインフラ相ヴォロディミール・オメリヤン「政府が機能停止しました」
  ――第4部 神格化

 ばかりではない。NotPetya は世界中で猛威を振るい、例えば世界トップの海運企業マースク(→Wikipedia)の社内でもパンデミックを起こし、各国の港湾が麻痺状態に陥った。病院も被害を受けたというから恐ろしい。

 この被害を…

ホワイトハウスの評価では、結果として合計100憶ドルを超える損害があったという。
  ――第4部 神格化

 これはあくまでも表沙汰になったモノだけで、水面下でどれぐらいの被害が出たのかは不明だ。最近も日本じゃアスクルやアサヒグループホールディングスが被害を受けてたり(→YaHoo!ニュース)。いや犯人はサンドワームじゃないようだけど。

 さて、これらの不正プログラムの感染源となったのは、会計支援アプリケーションのアップデート・サーバだ。脆弱性を塞ぐために最新版にアップデートしたら、おまけに不正プログラムまでついてきたのだ。病院でワクチンを受けたら病気に感染した、みたいな話で実に怖い。その会社の担当者曰く…

単に狙われるとは思っていなかった
  ――第4部 神格化

 発電所などのインフラでもなく、軍のような安全保障のキモでもない、ただの民間企業だから、と油断してたワケです。ありがちですね。

 これらの事故というより事件の裏にはロシアのスパイ組織GRU(→Wikipedia)がある、そう情報セキュリティ企業が明言しているにも関わらず、西側の政府はダンマリを決め込んでいたが、2018年にやっと…

ジェレミー・ハント英外相「同盟諸国とともに、われわれは国際社会の安定を脅かそうとするGRUの企てを明らかにし、それに対応する」
  ――第5部 アイデンティティ

 と、声明が出た。それまで、オバマ政権もトランプ政権も黙っていたのだ。その理由の一つは、イランの核燃料濃縮施設を狙い明国とイスラエルが共同開発した不正プログラムStuxnet(→Wikipedis)だろう、と著者は推測している。「俺たちが使えなくなったら困るじゃないか」、そういう理屈だ。

 先に述べたように、ロシアが狙うのはウクライナだけとは限らない。というか、既にマースク社などが巻き添えで大きな被害を受けている。幸か不幸か、当時のウクライナはあまりコンピュータが浸透しておらず、従来のアナログな技術が多く残っていた。そのため、コンピュータを切り離すことで復旧できたのだ。

 だが、現代の米国や日本は、もっとIT化が進んでいる。加えて、若い担当者はアナログな時代を知らない。これが示す現実は怖ろしい。

「アメリカの送電網を停止させるのは、ウクライナでやるよりむずかしいでしょう」
「でも停止させたままにしておくのは簡単かもしれません」
  ――第6部 教訓

 などの本筋の迫力に加え、情報セキュリティ企業が不正プログラムを集めるため敢えて囮とするサーバを運営しているとかの、情報セキュリティ系のゴシップも山盛りで楽しかった。技術的にはあまり役立つ内容ではないが、ロシアの悪辣な手口や、それに対する西側各国の甘い対応、そして被害を受けた現場の状況などは、実に身につまされる本だった。マウスが勝手に動く場面とかね。いやマウス操作の自動化は、まっとうなソフトもあるのよ、おーとくりっか~ (→窓の杜)とか。

 そんなワケで、ロシアを警戒する人にお薦め。

【関連記事】

【蛇足】

 技術的にも情報セキュリティにもあまり役に立たない本だが、二つほど気が付いた事がある。先の「ワード」や「ドメインコントローラ」が示すように、本書で被害を受けたのは、みな Windows なのだ。というか、著者はコンピュータ=Windows、と思い込んでるフシがある。

 マースク社は Windows のドメインコントローラを潰され、会計支援ソフトの企業はアップデートサーバが感染源になった。なら、サーバとクライアントやバックアップと日常用は、異なるOSにすりゃいんじゃね、と思うのだ。クライアントや日常用がWindowsならサーバやバックアップはLinuxやMacintoshやAWSとか。まあ、それはそれで管理が面倒ではあるんだろうけど。

 もう一つ気づいたのは、感染のパターンだ。電子メールの添付ファイルについてたワープロ文書のマクロに不正プログラムが入ってた、そういうケースが多いのだ。

 そもそも、なぜワープロ文書なのか。地図や構成図などの絵があるならともかく、文章だけなら電子メールの本文に書けばいいじゃないか。本当にワープロ文書である必要があるのか。「屈辱の数学史」には、「某社の表計算ファイルの42.2%には一つも数式がなかった」なんて記述もある。「なんかカッコいいからワープロを使う」みたいな風潮が、社内に蔓延してたんじゃないか。

 と思ったら、ソコを指摘してるサイトもあった(セキュアSAMBAワードをメール添付で送るリスク)。やっぱりそうか。

 ヤバいマクロが勝手に動く危険もあるし、メールサーバの容量も無駄に食うしね。下手すっと一桁多くなるのだ、メールの容量が。だもんで、ネットワーク管理者には嫌われるのだ。

 そのうち、マクロ機能がないワープロソフトとかが出回るんじゃないかなあ。セキュア・ワードみたいな名前で。

 そんなワケで、マナー講習とかでも、「電子メールはなるたけ添付ファイルを使わないように」とか広めてほしいな、と思うのであった。

 以上、駄文でした。

| | コメント (0)

2025年10月19日 (日)

スヴェン・カート「綿の帝国 グローバル資本主義はいかに生まれたか」紀伊國屋書店 鬼澤忍・佐藤絵里訳

本書はヨーロッパ人が支配した<綿の帝国>の興亡の物語である。(略)この物語はグローバル資本主義の構築と再構築の物語でもある。
  ――はじめに

「商品連鎖」の起点あるいは終点に位置すると、相対的に弱い立場となるのが普通なのだ。
  ――第8章 グローバルな綿業へ

世界はいま、かつてないほど大量の綿をつくり、消費している。
この本を読んでいるあなたは、綿製のシャツかパンツか靴下を身につけているかもしれない。
  ――第14章 エピローグ 織り地と織り糸

【どんな本?】

 産業革命はジェニー紡績機(→Wikipedia)に始まると考える人は多い。この機械が人類史に与えた影響は、単なるテクノロジーの進歩だけではない。綿の紡績および織機の自動化は巨大な産業を生み、綿の商取引きが牽引するアフリカ・アジア・新大陸を巻き込む全地球的な貿易の活性化を促すとともに、綿花を求める商人と政府が、従来の自給中心の農村社会を破壊し、資本が支配する労働力へと変えてゆく過程でもあった。

 多くの人々が賃金労働に従事する現代社会の枠組みを整えた産業革命の姿を、そのきっかけとなりまた先導した綿を焦点に据えて描く、一般向けの衝撃的な歴史解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Empire of Cotton: A Global History , Sven Beckert, 2014。日本語版は2022年12月28日第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約679頁に加え、訳者あとがき5頁。なお原註と索引もたっぷりで、最後のノンブル(頁番号)は848。鈍器ですね。9ポイント43字×17行×679頁=496,349字、400字詰め原稿用紙で約1,241枚。原註と索引を含めて文庫ならたっぷり上中下巻の大容量。

 文章は比較的にこなれている。内容も特に難しくない。敢えて言えば、産業革命前後の世界史に詳しければ、更に楽しめるだろう。

【構成は?】

 ほぼ時系列順に進むので、素直に頭から読もう。

クリックで詳細表示
  • はじめに
  • 第1章 グローバルな商品の誕生
  • 第2章 戦争資本主義の構築
  • 第3章 戦争資本主義の報酬
  • 第4章 労働力の獲得、土地の征服
  • 第5章 奴隷制の支配
  • 第6章 産業資本主義の飛躍
  • 第7章 工業労働者の動員
  • 第8章 グローバルな綿業へ
  • 第9章 戦争が世界中に波紋を広げる
  • 第10章 グローバルな再建
  • 第11章 破壊
  • 第12章 新たな綿帝国主義
  • 第13章 グローバル・サウスの復活
  • 第14章 エピローグ 織り地と織り糸
  • 謝辞/訳者あとがき/原註

【感想は?】

 ひとつの技術・産業の勃興と変転をたどる本だと思ったが、まったく違った。

 あ、いや、確かに綿産業の変転を描いた本なのだ。ただ、それが及ぼす影響が、とんでもなく広く深い。現代の南北問題をはじめとする世界情勢から国家という枠組みや役割、ご近所付き合いや地域社会の在り方、そして私たちの生き方・考え方まで、綿が変えてしまったのだ。

 綿そのものは昔からあった。それも世界各地に。様々な地域で栽培され、紡がれ織られてきた。多くの国や地域で、綿花は畑の片隅で、食用作物の「ついで」に栽培され、地元で紡がれ織られてきたのだ。現代のような巨大なプランテーションではない。

三つの大陸(アフリカ,アメリカ,アジア)に見られる多様性にもかかわらず、この巨大な製造業の中心地には多数の共通点があった、特に重要なのは、綿花の栽培と加工はほとんど常に小規模にとどまり、もっぱら家族単位で行われていたことだ。
  ――第1章 グローバルな商品の誕生

 その技術の進歩は微々たるもので、せいぜい糸を紡ぐ紡ぎ車ぐらいだろう。具体的には…

18世紀になってもなお、たとえば東南アジアの一人の女性が1ポンド(約454g)の綿を紡ぐのに1ヶ月、さらに長さ10ヤード(約9m)の布を織るのに1ヶ月を要した。
  ――第1章 グローバルな商品の誕生

 別の表現だと、「熟練の紡ぎ手がブラウス1枚分の糸を紡ぐのに、手紡ぎ用の紡錘で約11時間」だとか。これが紡ぎ車だと生産性は約3倍に上がる。

 そんなこんなで、18世紀初頭まで綿製品の最大の産地そして輸出国はインドだった。当然、手織りである。

1766年には、イギリス東インド会社の輸出額の75%超を(綿製品が)占めていたのだ。
  ――第2章 戦争資本主義の構築

 イギリスはインド製の綿織物をアフリカ西海岸へ運び、奴隷と交換するのだ。

(奴隷貿易の奴隷は)綿織物と交換されることのほうが多かった。
  ――第2章 戦争資本主義の構築

 当時のイギリスのインド支配は重要な港湾とその近辺を抑えるだけで、内陸までには及ばなかった。だもんで、綿花の生産や織物への加工そして流通は、地元インドの農民・職人・商人が担い支配していた。商いを拡大したくとも手が出せないイギリスには面白くないが、地元インドの者にとっては…

17世紀後半には綿布の価格の最大1/3が織り手に渡っていた可能性がある。それが18世紀後半になると、歴史家のオム・プラカーシュ(→英語版WIkipedia)によれば、織り手の取り分は約6%にまで減ったという。
  ――第2章 戦争資本主義の構築

 そこに機械化の波が押し寄せる。これがどれぐらいの影響か、というと。

18世紀のインドでは、紡ぎ手が100ポンド(約45kg)の綿花を紡ぐのに5万時間を要していた。
1790年のイギリスでは、100個の紡錘を備えたミュール紡績機1台を用いて、同じ量の綿花をわずか1000時間で紡ぐことが出来た。
1795年には、水力紡績機を使えば300時間しかかからなくなった。
さらに1825年以降は、リチャード・ロバーツが発明した自動ミュール紡績機のおかげで、たった135時間あれば十分になった。
  ――第3章 戦争資本主義の報酬

 およそ370倍の効率だ。紡績機や工場の設備投資や地代も費用に勘定する必要があるとは言え、従来の手紡ぎじゃ太刀打ちできない。これは技術の革新だけではなく、産業そして世界の枠組みを揺るがす大きな変革だった。

史上初めて、製造業者という新たな登場人物が舞台に現れた。製造業者とは、奴隷を働かせたり領土を拡大したりする(略)ためではなく、機械を基盤とする生産の巨大なシステムへと労働者を組み込むために、資本を使う個人だった。
  ――第3章 戦争資本主義の報酬

 世界の力関係に、新しいプレイヤーが登場したのだ。そして、彼らは人々の生活も変えてゆく。これまでの夜明けとともに起き日没まで働く暮らしから…

機械装置が人間の労働のペースを規定しはじめたのだ。中核となるエネルギー源に依存し、大きなスペースを必要としたことから、生産の場は家庭から工場に移った。機械装置とともに、かつてない数の労働者が生産拠点に集まった。
  ――第3章 戦争資本主義の報酬

 手紡ぎなら、効率は悪いとはいえ自分の暮らしの隙間時間で紡げる。だが、機械が工場で紡ぎ始めると、機械のペースで働かなくちゃいけない。定時に出勤する暮らしだ。出勤は定時だが退出は…。

 さて、機械が紡ぎ織る事の嬉しい点は、安上がりな事だ。なぜ安上がりかというと、人の手間が省けるすなわち人件費が安いからだ。この理屈は、工場労働者にも適用される。いかに人件費を安く上げるかが、綿業の避けがたい性質となる。

 これは材料である綿花にも言える。綿花の栽培に適した地域は世界各地にある。だが、栽培と収穫には多くの人手が要る。これをいかに安く上げるか、が当時の西欧の綿業の課題となった。その解を示したのが新大陸だ。つまり奴隷制である。

1780年代には、西インド諸島と南米の奴隷が、世界市場で売られる綿花の大半を生産していた。この奴隷制と征服の爆発的な融合が、1861年に至るまで産業革命に活力を与えつづけた。
  ――第4章 労働力の獲得、土地の征服

 やがて同様の仕組みが北米南部でも整ってくる。既にインドの綿布をアフリカに送り奴隷と交換する仕組みはあった。これが北米の綿花をイギリスで加工しアフリカで奴隷と交換し、奴隷を北米に送り綿花を栽培させる仕組みへと変わってゆく。やがて米国の綿花は世界の市場を席捲するのだ。

アメリカ経済が世界で台頭したのは、まさに綿花のおかげ、したがって奴隷のおかげだったのである。
  ――第5章 奴隷制の支配

 その綿花農場を発展させるには、土地と奴隷が必要だ。奴隷を買うにはカネが要る。ここで登場するのが信用貸し、つまりは金貸しである。商人が農場主に元手を課し、奴隷を買わせ綿花を作らせるのだ。貸すったって、ちゃんと担保は確保する。その担保は…

信用貸しの多くは奴隷が栽培する商品の先物か、奴隷そのものの価値を担保とした。
  ――第8章 グローバルな綿業へ

 かくして、綿を扱う商人が大陸と大洋を越えて商いを展開し、地球規模の経済体制を創り上げてゆく。

商人が世界の真のグローバル経済を構築し、その主役が綿だったのである。
  ――第8章 グローバルな綿業へ

 これらを可能としたのは、単なる工業技術だけではない。原材料を調達し、製品を他国に売りつける外交能力も必要だった。それも、往々にして武力を背景にして。また、原材料や製品を運ぶ鉄道や港湾の整備も必要だ。何せ当時の西欧以外じゃ主な輸送手段は馬や牛などの家畜だし。そのためには、中央集権型の強力な政府と、綿業に有利な法を整備しなければならなかった。

スキル、市場、資本、テクノロジーといったものは、世界中のほかの多くの地域で利用できたが、国内市場を保護し、遠方の市場へのアクセスを確保し、製造業を後押しするインフラ整備ができる国こそ、初期の産業先進国の際立った特徴だった。
  ――第6章 産業資本主義の飛躍

 産業革命が成功するためには、技術のみならず、商人の要望に応え、実行できる政府が必要だったのだ。

当時のヨーロッパの諸国家が日本や中国など同時代の国家を引き離していた理由は、国力だけでなく、産業資本のニーズに応えたことにもある。
 商人はあらゆる事柄について時刻の政府に対するロビー活動をしたが、なかでも重要な案件が、貿易のためのインフラだった。ドック、倉庫、鉄道、水路の建設が商人たちにとっての優先課題だった。
  ――第8章 グローバルな綿業へ

 先に書いたように、綿業のキモは人件費の削減だ。原材料の綿花は北米南部の奴隷制で賄えたが、紡ぎと織りの工場労働者は国内で調達せにゃならん。安く上げる手立ての一つは、女と子供を使う事だ。

綿業労働者の半分近くが子供であり、彼らは親から強制されていたのだが、この親たちもまた新たな経済的現実によって強制されていた。
  ――第7章 工業労働者の動員

 本書が描く工場労働者の勤務事情は現代日本のブラック企業を遥かにしのぐ。そこで労働者も声を上げ始め、様々な闘いを繰り広げ、少しづつマシな条件を勝ち取ってゆく。

現代の経済学の教科書で理想化されているような労働市場は、往々にしてストライキ、団結、暴動などの結果もたらされたものなのである。
  ――第7章 工業労働者の動員

 さて、当時の西欧は綿花の多くを米国南部から調達していた。そこに戦争の暗雲が立ち込めてくる。

南北戦争前夜、綿花はアメリカから海外への出荷総額の61%を占めていた。(略)
1850年代後半まで、アメリカ産綿花は、イギリスで消費される8憶ポンドの綿花の77%を占めていた。また、フランスで使用される1憶9200ポンドの90%、ドイツ関税同盟で紡績される1憶1500ポンドの60%、ロシアで製造される1憶200ポンドの92%を占めていた。
  ――第9章 戦争が世界中に波紋を広げる

 この危機に際し、西欧は他の国から綿花を調達しようとする。例えばイギリスは…

南北戦争の最初の年だけでも、イギリス政府のインドにおけるインフラ事業への支出はほぼ倍増している。
  ――第9章 戦争が世界中に波紋を広げる

 植民地を持つ他の国も同様に、植民地での綿花生産を増やそうとする。現地住民の利害や安全は無視し、村落共同体を破壊し、換金作物である綿花栽培を押し付けるのだ。

綿花栽培に労働力を動員したいという国家の強い意欲は、市場の規則制定と施行につながり、(略)各国の政府と法律は、放牧や狩猟のように昔から住民全体に認められてきた資源への権利を弱体化し、農民に綿花生産への専念を強要した。
  ――第10章 グローバルな再建

 その結果、昔からの家族単位での糸紡ぎや手織りは壊滅し…

ほかの歴史家たちも、1830年から60年までに、インドだけでも製造業で200万~600万ものフルタイムの職が失われたと示唆している。
  ――第11章 破壊

 ガンジーが糸車を回したのには、そういう意味があるのだ。ばかりではない。それまで、現地の農民たちは食用作物の隙間に綿を植えていた。それを全面的に綿花に切り替えさせた。結果、食料が足りなくなり…

1877年と、1890年代後半にも再び、(インドの)ベラールとブラジル北東部で何百万という農民が飢餓に見舞われる。
  ――第11章 破壊

第一次世界大戦までに、階級構造の再編と、農業における換金作物への方向転換のせいで、大規模な食用作物不足から悲惨な飢餓が起こり、かなりの人命が失われた。たとえば、トルキスタンでは1914年から21年までに人口が130万人、すなわち18.5%減った。
  ――第12章 新たな綿帝国主義

 ブリカスと罵りたくなるが、似たような真似を太平洋戦争当時に帝国陸海軍がインドシナでやり、戦後ベトナムあたりは戦時中以上の苦しみを味わったそうだ。

 話がそれた。それまで植民地で綿花栽培が流行らなかった理由は多々あるが、その一つがインフラの不足だ。牛の背に載せて綿花を運び港まで6カ月とか、そんな状況である。そこで宗主国は植民地に鉄道や道路を整備する。

領土の編入は、土地の獲得はもちろん、インフラの進歩の賜物でもあった。インドやアフリカと同様に、綿花は鉄道に沿って開花していった。
  ――第12章 新たな綿帝国主義

 とかやっているうちに、現地の商人たちも考え始める。「俺も工場を作って商売を始めよう」。実際、これで成功する人も出てくる。それは、幾つかの条件が重なったからだ。

グローバル・サウスのどこであれ、資本家がグローバル綿業に自らの生存領域をつくることに成功したのは、ふたつのプロセスが同時に起きたからだった。
つまり、第一次産業革命の中心となった国々で社会的対立プロセスが全国に拡大して労働コストが上がったこと、
グローバル・サウスで建設された国家が国内工業化計画を優先し、労働コストを低く抑えたことだ。
  ――第13章 グローバル・サウスの復活

 西欧は工場労働者の賃金が上がり、費用がかさむ。対して植民地は人を安く使える。だから植民地に工場が増える。なんか、今世紀の話みたいだが、これは100年前の話。

 そんな現地の商人に対し、現地の政治指導者も協力した。

1920年代を通じて、上海の工場主たちは国民党の指導者だった蒋介石の支援を得て、左寄りの労働運動指導者を何千人も殺害している。
  ――第13章 グローバル・サウスの復活

 そんな風に、植民地資本の綿業/工業も育っていくのだが、幾つか欧米とは異なる点がある。現地の商人たちは、植民地国家/宗主国政府と闘わなければならなかったのだ。そこで、独立運動の闘士たちと手を組むのである。闘士ったって、たいていは農民か労働者だ。そのため、独立後の現地商人はいささか複雑な立場に立たされている。

(グローバル・サウスの)資本家は、植民地国家との闘いで労働者(と農民)に頼ったために、いまでは力を失いつつあった。
  ――第13章 グローバル・サウスの復活

 労働者の賃金は抑えたいが、あまし無茶すると独立運動の英雄に目を付けられる。そういうことです。

 もっとも、今世紀に入ってからは、その無茶に成功した国も出てくる。例えばウズベキスタンだ。21世紀に入っても、児童労働・強制労働が行われていた(→ヒューマン・ライツ・ウォッチ/ウズベキスタン:世界銀行が関係する強制労働)。

 ばかりでなく、20世紀最大の環境破壊とまで言われる暴挙も。

綿花の輸出高では世界で10本の指に入るウズベキスタンでは、農家の綿花製品を強制し続けている。乾燥した土地には灌漑が必要なため、アラル海(→Wikipedia)がほとんど干上がり、そのせいで国土の多くが実質的に塩原と化している(略)。
  ――第14章 エピローグ 織り地と織り糸

 そのウズベキスタン以上に綿花で存在感を誇示しているのが米国だ。これには仕掛けがあって、つまりは補助金である。自国の産業を守るのは責められないよな、と思っていたが、こんな影響も。

補助金まみれの綿花は世界市場に放出され、アフリカなど競争の激しい地域の綿花栽培者にとっては価格を押し下げる要因となるのだ。
  ――第14章 エピローグ 織り地と織り糸

 そういう効果は気が付かなかった。

 20世紀は国家レベルで安い賃金を求め綿業が移動した。これが今世紀に入ると、綿業に限らずあらゆる産業で、国家ではなく企業単位で、工場が移転する。綿業だと、GAPとかのブランド単位で。トランプが関税を引き上げるのも、そのためだ。おかげでリーバイスなどの製品を作っていたレソトの工場が閉鎖になるとかのニュースも。

今日の労働者は、あらゆる形の生産の拠点をいとも簡単に世界各地へ移す企業のなすがままだ。
  ――第14章 エピローグ 織り地と織り糸

 この辺を読んで、私はやっと共産主義者が世界に革命を輸出したがる理由が解った。工場=仕事は安い賃金で労働者をコキ使える国に移動する。世界規模で賃金を底上げしなければ、工場は自国から賃金の安い国に移るだけなのだ。もっとも、その共産主義も、独裁者の道具になっちゃったんだが。

 つまりグローバル経済とは、費用の安さを求めて資本と仕事が世界を渡り歩く経済なのだ。とはいえ、費用は賃金だけじゃない。綿花が鉄道に沿って開花したように、インフラや治安も費用に大きな影響を与える。エネルギーを求めて米国に行く資本もある(→「新しい世界の資源地図 」)。

 そんなグローバル経済を、18世紀から先取りしてきたのが綿業であり、21世紀の現在もなお安い労働力を求め衣料ブランドが世界各国を渡り歩いている。日の出から日没のリズムで生きていた私たちの暮らしを時計が支配する定時出勤のリズムに、自給自足の暮らしを会社勤めの労働者に変えた綿業。お陰で私たちのクローゼットは豊かになったが、失ったものも大きい。

 産業革命のもうひとつの側面をじっくり描いた労作であり、世界の形を改めて認識させてくれる問題作でもある。歴史好きはもちろん、経済問題に関心のある人にもお薦め。

【関連記事】

| | コメント (0)

2025年9月29日 (月)

ジョセフ・メイザー「数学記号の誕生」河出書房新社 松浦俊輔訳

本書は今の数学で確立している記号の起源と進化をたどるもので、数を数えるところから始まって、現代数学の主要な演算子までたどる。
  ――序論

【どんな本?】

 現代の数学は、様々な記号を使う。0~9の数字。+-×÷の演算子。等しいを示す=。優先順序を変えるカッコ()。定数を示すabc,変数を示すxyz。右肩の小さい数字(例::x2)はべき乗。

 これらの記号は、いつ、どこで、誰が、何のために編み出し、どのように流布したのか。そして、それを使うことで、どんな得があったのか。記号の普及と数学の発展には、何か関係があるのか。

 数学科の名誉教授が、数学記号と数学の発展の歴史を語る、一般向けの解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Enlightening Symbols: A Short History of Mathematical Notation and Its Hidden Powers, Joseph Mazur, 2014。日本語版は2014年9月30日初版発行。単行本ハードカバー横一段組み本文約286頁に加え訳者あとがき2頁。9.5ポイント30字×29行×286頁=約248,820字、400字詰め原稿用紙で約623枚。文庫なら少し厚め。

 文章はややぎこちない。また訳文に少しクセがある。ユークリッドがエウクレイデスとか。

 数学の本だから、数式も容赦なく出てくる。が、解く必要はない。この式は連立方程式か連分数か二次・三次方程式か微分方程式か、などの種類が分かれば充分だ。数式にアレルギーがなければ、中学卒業程度でも楽しめるだろう。

【構成は?】

 ほぼ歴史をたどって進むので、素直に頭から読もう。終盤に行くに従ってより高度な概念が出てくる。

クリックで詳細表示
  • 序論/定義/図版に関する註
  • 第1部 数字
  • 第1章 奇妙な始まり
  • 第2章 古代の数の体系
  • 第3章 絹の道と王の道
  • 第4章 インドからの贈物
  • 第5章 ヨーロッパへの到来
  • 第6章 アラビアからの贈物
  • 第7章 「リベル・アバチ」
  • 第8章 起源への反論
  • 第2部 代数
  • 第9章 記号なし
  • 第10章 ディオファントスの「算術」
  • 第11章 偉大なる技
  • 第12章 幼い記号
  • 第13章 おずおずとした記号
  • 第14章 威厳の階層
  • 第15章 母音時と子音字
  • 第16章 爆発
  • 第17章 記号のカタログ
  • 第18章 記号の達人
  • 第19章 最後の魔術師
  • 第3部 記号の力
  • 第20章 頭の中でのランデブー
  • 第21章 良い記号
  • 第22章 見えないゴリラ
  • 第23章 頭の中の像
  • 第24章 結論
  • 付録A ライプニッツの表記法
  • 付録B ニュートンによるxnの流率
  • 付録C 実験
  • 付録D 複素数の視覚化
  • 付録E 四元数
  • 謝辞/訳者あとがき/原註

【感想は?】

 数式はややこしい。でも、数式がないと、もっとややこしい。

 エウクレイデス(ユークリッド)の「原論」(→Wikipedia)には、こんな文章が出てくる。

直線を任意に切れば、全体の上にできる正方形は、各線分の上にできる正方形と、線分で囲まれる長方形の二倍に等しい。

 これを数式で表すと、こうなる。

(a+b)=a+b+2ab

 数危機は簡潔で要領を得ている。と同時に、少ない文字数に多くの意味や情報を詰め込んでいる。だから、数式は難しくて当たり前なのだ。

 また、数式は移項や約分などの操作もできる。とても便利だ。これにより、幾つかの式が実は同じ解法で解けることが分かったりする。また、「aの右肩のは分数や負数もあり?」なんて発想はひらめいたりする。こういった性質が、数学の発展にもつながった。

 そんな感じの主題を、歴史上の多くの例を挙げて語るのが本書だ。

 全体は3部で、第1部では数の表し方をじっくり辿ってゆく。第2部では加減乗除や等号などの代数記号の発明と普及の物語だ。第3部はだいぶ毛色が違い、私たちの脳が数式をどう扱うか、数式が私たちの考え方にどんな影響を与えるか、を探ってゆく。

 さて、第1部は数字だ。私たち日本人がアラビア数字と呼ぶ、0~9の数字である。どうやら数字は文字と同時に誕生したらしく、最古の文献は「会計、名前、レシピ、旅日記だ」。

書く必要が生じたのは、記憶を記録する必要によるのであり、物語でないのは意外なことではない。
  ――第1章 奇妙な始まり

 数字は国や地域により色とりどりだが、共通している点もある。

ほとんどの古代文化にとって、最初の三つの数を表す記号は縦か横かの線で…
  ――第3章 絹の道と王の道

 漢数字でも最初は一,二、三だしね。

 一桁ならいいが、二桁以上になると、面倒くさい事になる。ローマ数字は5がⅴで10がⅩ、と多くの文字を憶えなきゃいけない。漢数字だと十,百,千,万,十万…となる。いずれにせよ、位取りと零はなかった…ワケじゃない。

(古代バビロニアのニブル石板では)「空白」が記号として用いられているのだ。
  ――第2章 古代の数の体系

 「その桁がない/ゼロである」と示すために、空白を置いたのだ。もっとも、この方法にも欠点はある。複数の桁がゼロだと、幾つの桁なのかハッキリしない。確かに。

 まあ、文字で数を著すのはインテリだけで、庶民が集う市場じゃ別の方法を使ってたんだが。

文字が市場では不便だった昔には、指で数えるのがあたりまえだった。
  ――第4章 インドからの贈物

 私たち日本人は指を折って数えるんで、片手で数えられるのは5までだ。でもプログラマは31まで数えられる←をい 体の部位で示す方法もあって、インド人は親指で他の指の関節を示す形で片手で16まで数えられる、なんて噂も。

 そのアラビア数字を欧州に紹介したのは12~13世紀イタリアのフィボナッチ(→Wikipediaって話が流布してるが…

フィボナッチの本は、ヨーロッパ社会のある部分にはアラビア数字をもたらしたらしいが、イタリアを旅行したりそこで商売をしていた人々は、すでにこの数字を知っていた可能性も高い。
  ――第5章 ヨーロッパへの到来

 と、もっと前からイタリアの商人たちは知っていたらしい。

 そのイタリア商人たちにアラビア数字を伝えたのは、アラビアの商人たち。彼らはインドから「インド数字」を仕入れた。それをアラブ世界に紹介したのは、9世紀前半のバグダッドのアル=フワーリズミー(→Wikipediaの著作「インドの数の計算法」だ。

インド式の数の表し方がアラブ世界全体、さらにはヨーロッパに広まったのは、主としてこの本による。
  ――第6章 アラビアからの贈物

 と、本書はそういう説を紹介しているが…

ヒンドゥー=アラビア数字の起源は、2世紀近くにわたって専門家によって論じられてきた。
  ――第7章 「リベル・アバチ」

 と、この説に落ち着くまでは、様々な紆余曲折があったようだ。フランス語で書かれた「古代の文献」が登場したりw どの国でも、身びいきが過ぎる人ってのは、いるもんなんだね。

 このアラビア数字、何が嬉しいかというと、簡潔に書けるのはもちろんだが、加えて筆算がしやすいのがいい。嘘だと思ったらローマ数字や漢数字で掛け算や割り算を筆算してみよう。

当時は苦労してローマ数字で数を表し計算をしていたヨーロッパ人は、(アラビア数字という)贈物をもらったようなものだ。
  ――第8章 起源への反論

 もっとも、紙の値段が高かった時代は、算盤を使ってたんだけど。本書には西洋の算盤の写真もあって、なかなか興味深い。

 第2部からは、記号と共に数や数学の概念が拡がってゆく歴史を描く。まずは、かつての世界第2位のベストセラー「原論」の著者から。ちなみにトップは聖書。原論がNo.2なのは、欧州じゃ長く数学の教科書として使われたから。

エウクレイデス(=ユークリッド)の著作(「原論」)には、べき乗やプラス、マイナスを著す代数記号はまったく見あたらない。
  ――第9章 記号なし

 前の引用で示したように、すべて文章で表したのだ。しかも、多くは幾何と関連付けて。

 何を「数」に含めるかは、時代と共に少しづつ広くなってゆく。例えば…

分数や有理数ならかまわないが、16世紀になるまでは、負の数は――負債としてなら文句なく認められたが――ヨーロッパでは本当の数とは認められなかっただろう。
  ――第10章 ディオファントスの「算術」

 数学者はそうだろうけど、商人はどうなんだろ? 要は借金や買掛金なんだけど。あと、負数に負数を掛けたら正の数になる、って理屈も、当時の数学者は苦労した模様。これも「借金してる相手が減った」と考えれば、納得いくよね。

 それはともかく、やはり昔のインドは数学の先進国だったようだ。

(7世紀インドの)ブラーマグプタ(→Wikipedia)は、2次方程式には二つの根が出ることがあり、その方程式が出てくる具体的場面での条件から、一方は排除されることを知っていた。
  ――第11章 偉大なる技

 もっとも、一般的な解き方=二次方程式の解の公式を知っていたワケじゃないようで、個々の例ごとに具体的な解法を文章で書き綴っている。

 が、やはり一般的な解き方=解の公式を求める動きはあった。そして二次方程式の解の公式には、自乗や自乗根=ルートが出てくる。今は標準的な記号や書き方が決まっているが、当時はなかった。

代数の考え方が記号をもたらしたのであって、逆ではない。
  ――第12章 幼い記号

 という事で、第2部では、当時の人たちが考えた様々な記号や記法が出てくる。今の私たちからすればわかりにくいが、それでも当時の人たちにとっては大きな変化だったろう。

 そして、記号の導入は、数学者たちの考え方にも大きな変化をもたらしてゆく。

古い幾何学的な捉え方から代数的表現を解放したのだ。
  ――第13章 おずおずとした記号

((16世紀イタリアのラファエル・)ボンベッリ(→Wikipedia)による)巧妙で本物の記号は、代数を幾何から独立させた。
  ――第14章 威厳の階層

 私が方程式を解く際は、単純に数学のルールに従って式を変形してゆく。「ソレはどんな図形を表すか」は考えない。でも、当時の人たちにとっては、数学と幾何=図形や立体は、分かちがたく結びついていた。二次方程式は図形を、三次方程式は立体を表したのだ。

 更に定数や変数などの概念も。

(16世紀フランスのフランソワ・)ヴィエト(→Wikipedia)の驚異の母音時・子音字表記は、集合としての一般的な、何でも、すべてについて考える方法をもたらす。
  ――第15章 母音時と子音字

 一部のIT技術者には「デカルト座標系」で有名なデカルト。そのデカルト座標系は、幾何学と代数学の関係を更に見直すことになる。

(17世紀前半フランスのルネ・)デカルト(→Wikipedia)は概念化のモードを切り替え、幾何学の問題を代数学的な座標へと移し替える方法を教えてくれた。
  ――第16章 爆発

 と書くと順風満帆なようだが、文句を言う人たちもいた。他でもない、植字工だ。今だってワープロソフトやDTPソフトで数式を扱うのは難しい。HTMLじゃ無理だ。私は累乗を<sup>で誤魔化してるが、分数や平方(ルート)は扱えない。だから本記事でも、その辺が出てこないように書いてる。いやライブラリを使えばイケるらしけど。活字を拾って組んでいた当時の植字工の苦労は、察するに余りある。

デカルトさえ『幾何学』ではときどき、鉄十字✠を使っていたが、これは印刷所で足りなくなった活字を、新しく作らずにすませて、見つかる中でいちばん近い記号でまにあわせたためにそうなったのかもしれない。
  ――第17章 記号のカタログ

組版業者をなだめ、紙面がもっと魅力的に見えるように、(17世紀ドイツのゴットフリート・)ライプニッツ(→Wikipedia)は項をどこまで考えるかを示すためにかっこを用いるというアイデアを導入した。
  ――第18章 記号の達人

 写本の時代にはなかった問題だね。まあワープロが出始めた頃は、外字で似たような問題があったし、今だって住基ネットじゃ姓名でゴタゴタがブツブツ。

 最後の第3部では、これらの記号が数学や数学者に与えた影響や、私たちが数式を見た際に脳がどう反応するかを考察してゆく。

 現代の代数は、幾何から離れ、ルールに従った記号操作になった。変数をxやyで、定数をaやbで表す。なら、xやaは複素数でもいいんじゃね?なんて発想も出てくる。本書には出てこないが、フラクタル理論じゃ整数じゃない次元なんてのもある。xnのnは整数じゃなくてもいいよね、そういう拡張だ。

数学ですばらしいことの一つは、それが進むと――よくできた記号によって――視野が広がることだ。
  ――第20章 頭の中でのランデブー

 とまれ、困った副作用もある。いわゆる「机上の空論」の陥りかねないのだ。

記号による代理には、代理される対象がすぐに見えなくなり、対象がまったく対応しないことも多い記号について演算が続くという不利益もある。
  ――第21章 良い記号

 電気の世界じゃ複素数が必須らしいけど、虚数部の意味はわかっていない、なんて話を聞いたが、そういう事だろうか? いずれにせよ、複雑な式は、多くの人にとってピンとこない。何を表しているのか、その対象が既に頭の中にあるならいいんだが、そうでない時は酷く苦労する。

根源はイメージで、書かれた言葉や数学の記号は考えられたものだ。
  ――第22章 見えないゴリラ

 それでも、やはり数学記号や数式の力は大きい。

数学の美しさ――すっきりした照明、簡潔な提示、巧みさ、複雑なものの単純化、わかりやすい接続――は、大部分、巧妙で整った記号の、わかりやすくする能力によっているのだ。
  ――第24章 結論

 数学が得意な人は、オイラーの等式eiπ+1=0が美しいと言う。私にはわからないけど。でもK&Rこと「プログラミング言語c」を初めて読んだとき、ungetc() の見事さ舌を巻いた。そういう感じなのかな、と思う。

 数学の本でもあるので、相応の歯ごたえはある。とはいえ、別に式を解く必要はないので、その辺は気楽に挑んでもいい。数学記号で数学者の思考がどれぐらい変わったか、という本でもある。だから、言語と思考の関係を、「言語は思考に強い影響を与える」と考える人には、とっても心地よい本でもある。歴史と数学の雑学に興味がある人にお薦め。

【関連記事】

| | コメント (0)

2025年8月22日 (金)

トム・ジャクソン「冷蔵と人間の歴史 古代ペルシアの地下水路から、物流革命、エアコン、人体冷凍保存まで」築地書館 片岡夏実訳

近代都市を成立させているのは、摩天楼や地下鉄や情報ハイウェイではない――冷蔵庫だ。
  ――序

低温を理解するにあたっては、真空が重要な要素になるのだ。
  ――第3章 圧力の発見

ローテクな壺であれハイテクな極低温冷却装置であれ、冷蔵は車輪、印刷、マイクロチップのようなものと肩を並べる人類最大の偉業として称賛されるべきものだ。
  ――第12章 低温の未来

コルクを液体(水素)に落とすと、軽いコルクが浮かぶことなく鉛の固まりのようにまっすぐ沈んだ。液体になっても、水素の密度は非常に小さかったのだ。
  ――第10章 低温を極める

アインシュタインは、ある種の原子、たとえばヘリウムの主要な同位体のヘリウム4は、十分に冷却されていさえすれば、ボソンのようにもふるまうことを明らかにした。そのためには、原子を絶対零度の1700億分の1度上までいやしてやらねばならない。
  ――第10章 低温を極める

【どんな本?】

 私たちの暮らしには、冷蔵庫が欠かせない。また蒸し暑い日本の夏では、エアコンが命綱だ。人類は歴史の黎明期から高温すなわち火を手に入れた。むしろ高温が人類の歴史をもたらした。だが、低温を手に入れるには、長い年月と多くの人々の努力と工夫そして博打が必要だった。

 古代ペルシアの氷室からルネサンス期欧州の錬金術師や科学者、北米や豪州の起業家たちから現代の技術者まで、冷房/冷蔵に挑み、または利用した人々の挿話を語る、一般向けの歴史と科学の解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Chilled: How Refrigeration Changed the World and Might Do So Again, Tom Jackson, 2015。日本語版は2021年9月30日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約278頁に加え、訳者あとがき2頁。9ポイント46字×19行×278頁=約242,972字、400字詰め原稿用紙で約608枚。文庫なら少し厚め。

 文章は比較的にこなれていて親しみやすい。内容も分かりやすい。ただ、ちと説明方法にクセがある。例えば「潜熱」という言葉は使うが、「気化熱」は使わない、など。最近の理科の教科書は、そうなってるのかな?

【構成は?】

 原則として時代ごとに進む。各章は穏やかにつながっているが、美味しそうな所だけをつまみ食いしてもいいだろう、

クリックで詳細表示
  • 第1章 古代の冷蔵法
    マリの王の氷室/氷の都、ペルシア/最古の氷菓子シャルバット/朝鮮王族の冷蔵遺体、モンゴル戦士のアイスクリーム
  • 第2章 冷やす魔法
    王侯貴族と冷たいもの/世界は四元素でできている/錬金術師と水銀と硫黄と塩/城付き魔術師と空気/フランシス・ベーコンの低温実験
  • 第3章 圧力の発見
    ベッヒャーによる物質の再定義/パスカルと真空/ボイル、空気の重さを証明
  • 第4章 温度計と空気
    サントーリオの測温器/進化する温度計/温度計の目盛をめぐる攻防/セルシウス目盛の誕生/世界初の人工冷蔵装置
  • 第5章 熱素ともう一つの「空気」
    物質と熱/熱平衡の解明/生石灰とマグネシアと気体の発見/新たな「空気」の発見/「オキシジェン」誕生
  • 第6章 温度低下を作る方法
    熱量を測る/原始の重さを測る/熱の伝導と動き/馬力攪拌とマグネトー電気機械/永久機関の謎を解く
  • 第7章 氷の王
    チャールズ二世の氷室/氷室とクーデター計画/アイスボックスから氷ビジネスへ/氷輸送船の初出航/通商停止、投獄、米英戦争/アメリカ国内での氷販売開始/アメリカの氷がインドへ
  • 第8章 冷蔵庫の仕組み
    天然氷の終わり/蒸気機関で低温に/冷媒をめぐる試行錯誤/家庭用冷蔵庫の販売開始
  • 第9章 冷蔵がもたらした物流革命
    世界をつなぐコールドチェーン/冷蔵船から鉄道、トラックへ/冷蔵庫がスーパーマーケットを生んだ/冷凍技術の進歩
  • 第10章 低温を極める
    気体を液体にするファン・デル・ワールス力/下がり続ける冷媒温度/超伝導、超流動、ボース=アインシュタイン凝縮
  • 第11章 拡張する低温技術
    エアコンから水爆まで/世界を変えたハーバー法/冷却システムと液体燃料ロケット、MRI、リニアモーター/医薬品、食品、凍土壁に使われる液体窒素
  • 第12章 低温の未来
    燃える氷、海水温勾配のエネルギー利用/旧式の冷蔵技術と金星探査、暗黒物質探究/超知能コンピューター、人体冷凍保存、テレポーテーションも可能に?
  • 訳者あとがき/参考文献/索引

【感想は?】

 前半は歴史物で後半は科学/技術/産業物、といった感じ。全体としては歴史物の印象が強い。

 冒頭に書いたように、人類は歴史の初期から火/高温を操った。だが、低温/冷房や冷蔵は難しかった。それは、金や権力を持つ者だけに許された贅沢だったのだ。逆に言えば、金と権力があれば、少なくとも冷房は手に入った。歴史物としては、様々な工夫が楽しい。

 その一つが、ペルシアのバードギール(→Wikipedia)だ。建物上部の窓から熱い空気を吸いだし、カナート(横井戸、→Wikipedia)から冷たい空気を引き入れる。なんとも賢い工夫である。

ペルシアのバードギールは(略)煙突のような塔を利用して(略)出口は卓越風と反対の方向に向けられている。(略)風が塔のまわりを吹くと、塔の中から空気を引っ張り出す効果が生まれる。
  ――第1章 古代の冷蔵法<

 暑い季節に欠かせないアイスクリームにも、様々な伝説がある。メディチ家からフランス王に輿入れしたカテリーナ・デ・メディチ(→Wikipedia)が、フィレンツェからフランスにもたらした、という伝説だが…

メディチ家の少女がアイスクリームをフランスにもたらした話は、まるっきりの作り話なのだ。
  ――第2章 冷やす魔法

 だそうです。

 などの歴史物語と並行して、科学が熱をいかに扱ってきたか、という物語も綴られる。温度を測る機器は、西欧では遅くとも17世紀にはあった。が、困ったことに…

目盛付き測温器は本当の温度計になる。目盛の起源が何であれ、それはまったく恣意的であり、器具のあいだで相互関係はなかった。そのため温度計制作は標準化を必要とした。
  ――第4章 温度計と空気

 現代のような、世界共通の単位がなかったのだ。ここから摂氏が決まるまでの物語も、紆余曲折があって面白い。

 さて、フロギストンなんてのを想像してた時代だから、学者たちの考え方も今と大きく違う。化学も未発達なので…

ある者はカキの貝殻の「灰」から作れると言い、またある者は石灰岩を「焼く」ことで作ると主張した。(略)当時、同一の物質が外見上異なる原材料から作れることなど誰にもわからなかった。
  ――第5章 熱素ともう一つの「空気」

 いずれの方法でも生石灰を作れるのだが、当時は元素や分子なんて発想はなかったのだ。

 そんな中、なんとか熱を測ろうとする努力が実り始める。

(アントワーヌ・)ラボアジェ(→Wikipedia)が出した結果は、多少はずれていることが多かったが、ともかく何か、つまり熱の定量化を始めたのだ。
  ――第6章 温度低下を作る方法<

 うん、定量化は科学の基本だよね。

 かように科学者たちが努力している間にも、実業家たちは商売に励む。その一人が18世紀終盤から19世紀初頭の米国人フレデリック・テューダー(→英語版Wikipedia)。

 起業家の彼が目論んだのは、氷商売(→Wikipedia)。冬にマサチューセッツで湖や池から採った氷を氷室で保存し、夏に西インド諸島や米国南部で売ろうって発想だ。発想はいいが、先頭走者の常で様々なトラブルに見舞われ、出資者から訴えられて国に帰れなくなったり獄に入れられたりした末に、なんとか事業を成功させる。

アクティブ号の沈没、禁輸、獄中生活、これらはみんな道路のでこぼこにすぎなかった。
  ――第7章 氷の王

 成功者が出れば真似する輩も出てくる。天然氷といえば聞こえはいいが、元は湖や池の氷だから、何が入っているか分からない。採取場所によっては…

 ってな問題を経て、やっと冷却装置の発明へと至る。が、初期の事業は家庭に冷蔵庫を置くのではなく、作った氷を売る形でビジネスを始めた。というのも、装置がデカいのもあるが…

人口冷却装置にはまだ一つの問題があった。爆発しやすいのだ。
  ――第8章 冷蔵庫の仕組み

 冷媒に使いやすい物質には、幾つかの条件がある。1)適切な温度で蒸発すること、2)その際の気化熱が大きいこと、そして 3)取り扱いが楽なこと。当初は 1) と 2) からエーテル・アンモニア・二酸化硫黄・二酸化炭素などを試した末に、フロンにたどりつく。のだが、その顛末はご存知のとおり。

 以降、普及した冷却技術は、世界を変えてゆく。

スーパーマーケットは冷蔵庫登場以前にはありえなかった。これは、客が買ったものをしまっておくのに冷蔵庫が必要だというだけではなく、店自体が生鮮食品を巨大な冷蔵庫に保存する必要があるからでもある。
  ――第9章 冷蔵がもたらした物流革命

 ブラジル産の鶏の胸肉もオーストラリア産の牛肉も、冷蔵庫を備えた貨物船が運んでくるしね。また、加工食品でも冷却技術が活躍している。

液体窒素やドライアイスのような寒剤の主な利用法は、はるかにありふれたもの、粉末スープ、インスタントコーヒー、スナック麺などだ。
  ――第11章 拡張する低温技術

 いわゆるフリーズドライです。

 また、現代の日本には欠かせない天然ガスも、LNGタンカーが液化天然ガスの形で海外から運んでいる。

LNGタンカーは、自己冷却と呼ばれる現象を利用する。タンクはちょうど液体を沸点に維持するのに必要な圧力に保たれる。LNGの表面は常に蒸発して天然ガスになっている。この状態変化がそれ自体を冷やす効果を持つ。
  ――第11章 拡張する低温技術

 終盤では、未来の冷却技術の応用として、あの夢の装置が出てきたり。

元の物体――テレポートした人体も――は、ボース=アインシュタイン凝縮に突入して物質波に変換されると同時に破壊されて死ぬ。反対側では、物質波は正確なコピーを作り出す(少なくともそう考えられている)。
  ――第12章 低温の未来

 現在の私たちは、熱についてよく知っている。暑い/熱いは温度が高く、熱エネルギーをたくさん持っていて、冷たい/寒いは、熱エネルギーが少ない。いずれも「熱エネルギー」の表裏である。だが、昔の人はソコに気が付かなかった、というのが意外だった。熱いと冷たいは、異なる次元の性質だと考えていたのだ。

 などの、昔の人々の考え方や工夫も面白いし、錬金術から科学が生まれ始める頃のフロギストンをめぐる論争と実験の数々も、科学史が好きな人には楽しい。歴史と科学/技術の双方を含む本だが、どちらかといえば技術史が好きな人にお薦め。

【関連記事】

| | コメント (0)

2025年8月13日 (水)

ロベール・ドロール「中世ヨーロッパ生活誌」論創社 桐村泰次訳

本書は、歴史家でなくとも中世の世界に関心をもっているすべての人々、西欧とその文明についてもっとよく知りたいと思っている人々、さらに、私たちの日常生活や、さまざまな技術や宗教、精神生活の中にいまも存在している《中世》と、先祖から伝えられた貴重な遺産であるのに私たちが失い、あるいは忘却した《中世文化》を知りたがっているすべての人々のために生まれた…
  ――はじめに

当時の国王は、廷臣たちを引き連れて、たえず国内を旅していた…
  ――第6章 都市の世界 商人・職人・ブルジョワ

【どんな本?】

 (西)ローマ帝国が崩壊した後の西欧。現代日本人の印象では暗黒時代のように思われていたり、華やかな騎士文化が花開いていたり、また「小説家になろう」などのファンタジイ作品の舞台のモデルとして扱われていたりする。が、その実態はどのような姿なのか。

 イベリア半島・イタリア・フランス・ドイツ・イギリス・スカンジナヴィアなどの広範な地域にわたり、当時の人々の社会や暮らしや考え方を、大量の資料の裏づけから浮き上がらせてゆく、一般向けの歴史解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は二つ。いずれも著者は Robert Delort で、1972年の Le Moyen âge : Histoire illustrée de la vie quotidienne と、それに加筆訂正したペーパーバック版で1982年の La vie au Moyen Age。日本語版は2014年11月20日初版第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約404頁に加え、訳者あとがき2頁。9.5ポイント48字×18行×404頁=約349,056字、400字詰め原稿用紙で約873枚。文庫なら厚い一冊か薄めの上下巻ぐらいの分量。

 文章は比較的にこなれていて読みやすい。内容も分かりやすい。中学卒業程度の歴史の知識があれば読みこなせるだろう。

【構成は?】

 各章はほぼ独立しているので、美味しそうな所だけをつまみ食いしてもいい。

クリックで詳細表示
  • はじめに/第三版への序
  • 第1章 人間と環境
    中世の環境世界/地形の変化/気象の変動/植生/動物相/人間の技術と環境/住居/衣服/食物/中世人の身体的特徴/婚姻と出産/伝染病/死亡率と平均寿命
  • 第2章 精神構造と社会生活
    時間感覚/暦と祝祭日/空間的観念と度量衡/中世人の世界像/符号と象徴/数の象徴性/形の象徴性/色彩の象徴性/星の象徴性/宝石と動物の象徴性/日常生活の振舞い/地獄と悪魔への恐れ/キリスト教的家族/女性の地位/《クルトワジー》の発展/結婚についての考え方/子供の地位/法律の整備/裁判の仕組み/「神の望みたもう秩序」
  • 第3章 働く人々 農民
    鉄の普及と動力の改良/地力回復の工夫/村落共同体の形成/農村の景観/家屋と家具調度/農民の家庭生活/歳時暦/祝い事/社会的分化/農奴と自由農民/富裕農民の台頭
  • 第4章 戦う人々 騎士たち
    騎士階級の形成と発展/騎士階級を危機に陥れたもの/貴族の生活/中世の城塞の生活/領主たちの日常生活/新しい女性観/騎士の叙任と生き様/戦争の実態/武器と防具
  • 第5章 祈る人々 僧たち
    《完徳》への熱望/ベネディクトの規則/クリュニー修道会/シトー会の発展/軍事的修道会/ドミニクスとフランチェスコ/教会と俗世/聖職者の世俗的特権/聖俗の相互干渉/西欧社会の後見役/《民の家》カテドラル/学問と教養/大学の誕生/異端運動/十字軍運動の本質
  • 第6章 都市の世界 商人・職人・ブルジョワ
    ローマの道・中世の道/水上運送/商業活動/定期太市/貨幣経済の隆盛/商人階級の台頭/都会生活/新しい中世都市/膨らむ城塞の環/都市コミューン/都市内部の権力抗争/同業組合の発展/フランドルの織物産業の例/拡大する貧富の差
  • 結び
  • 訳者あとがき/参考文献/略年表/索引

【感想は?】

 「小説家になろう」の諸作品で興味を持った私には、とっても嬉しい本だ。

 なんといっても、歴史の教科書があまり扱わない、人びとの暮らしが生き生きと描かれているのがいい。例えば目次を見てすぐわかるのが、農民にも焦点を当てている点だ。

人口学的に言うと、農村が占める比重は大きく、全人口の90から95%に及んだ。
  ――第3章 働く人々 農民

 と、本来なら歴史の主人公になりそうなモンだが、大抵の歴史書じゃ農民は滅多に描かれない。よくある現実と記録/報道とのギャップだね。それはさておき、平均寿命を押し下げていたのは子供の死亡率だ。これには意外な効果もあって。

幼児死亡率が高かったので、乳母志願者はたくさんいた。
  ――第1章 人間と環境

 当時は粉ミルクなんかなかったし、栄養状態も悪かった。「江戸の乳と子ども」にも、幼子を抱えて苦労する親が出てくる。が、乳母は見つけやすかったのだ。悲しい理由だが。

 ペストに象徴されるように病気も多かった。ただ、最も一般的なのは意外に…

多分、中世の西欧に最大の災いをもたらしたのは、第三世界が今もそうであるのと同じくマラリアであった。
  ――第1章 人間と環境

 「蚊が歴史をつくった」では、ローマ時代からマラリアが猛威を振るっていた様子を描いている。原因が分かっている現代と違い、当時の人たちはお手上げだったろうなあ。

 そんな人々の暮らしの中心にあったのは教会だ。その数は相当なもので。

西欧世界全体では、人口二百人足らずで一つ、ハンガリーやイタリアの幾つかの地域では、百人弱で一つの教会を持っていたことになる。
  ――第5章 祈る人々 僧たち

 もっとも、信仰を広めようにも、元からあった地元の信仰はあながち否定するワケにもいかず、往々にして妥協を余儀なくされた模様。

人びとは、メロヴィング時代にもディアーヌ女神やヴィーナス、ユピテル、メルクリウス(略)への礼拝を続けていたし、さらには、古来、神聖視された泉や木々、巨石などの上に十字架を立てて、これを崇拝しつづけていた。
  ――第2章 精神構造と社会生活

 木々や巨石を崇めるのは、日本の神道と変わらないなあ。

 その教会、当然ながら信仰の中心であるとともに、鐘で時を告げる役目も果たしていた。とはいっても、現代のように正確な時計なんかない。アテになるのは太陽ぐらい。だもんで…

春分と秋分以外は、昼間と夜間との長さが違っている。
  ――第2章 精神構造と社会生活

 そして夜は眠る。今みたいに安く明るい照明はないし。眠る際も…

家族は、素っ裸になって、一つの大きなベッドに一緒に眠った。これは、豊かな人々の場合も同じで、領主や聖職者も、寝巻きなどはなく、裸の身体を、シーツの間か掛け布団の下に滑り込ませた。
  ――第2章 精神構造と社会生活

 この辺を詳しく描いた「失われた夜の歴史」も、なかなか厨二心をくすぐる本だった。

 後には宗教裁判や異端審問などが出てくるが、世俗の司法はけっこういい加減で…

牢獄は滅多になく、あっても無用の長物であった。被疑者は、(略)有罪宣告を受けても、罰金か死刑か、だったからである。
  ――第2章 精神構造と社会生活

 と、かなり極端だった様子。

 さて、本来なら主役であるべき農民の暮らしは、意外なモノに頼っている。

農民の経済は森によって支えられていた。
  ――第1章 人間と環境

 「森と文明」「木材と文明」「『木』から辿る人類史」などが描くように、薪や木材・キノコや栗の実などの食糧・牛や豚の放牧地など、森は様々な役割を果たしていたのだ。

 村は森に囲まれていた。その森は村の共有地のような扱いだった様子。

森の縁に沿って、牧草地と草地、未開墾の荒れ地という三重の帯が、集落から森に向かうにしたがって走っていて、この荒れ地と森が、村で共有されている動物の群れの餌場になっている。
  ――第3章 働く人々 農民

 時代が進むに従って森は開拓されていく。

 農民の本業である農業は、あまり効率は良くなかった。日本の稲作は手間がかかる反面、単位面積当たりの収穫は多い。対して欧州の麦は、というと。

カロリング時代には、播種量に対し収穫量はせいぜい三倍ないし四倍であった。悪いときは播いた種の量と収穫量が同じか、上回っても僅かということさえあった。それが、12世紀、13世紀には、五倍とか六倍とか、ときには八倍の収穫が得られるようになっている。
  ――第3章 働く人々 農民

 と、かなり苦しかった模様。

 現代の農業は土地に加え耕運機などかなりの資産/投資が必要だ。これは当時の農村も同じ。それを誰が担ったか、というと。

領主は、大土地所有者であるとともに、公権力の継承者として、水車や圧搾機、パン焼き窯などを造ったり、種牛や種豚を飼育し、農民たちにそれらを強制的に利用させ、使用料を徴収した。
  ――第3章 働く人々 農民

 強欲なように書いてあるが、それだけの投資ができる者も少なかったんだろう。また、領主領だけでなく、教会領もあって。

領主領の共同体が領主館を核に生活を営んだように、この農民共同体は村の教会を中心に成り立っていた。
  ――第3章 働く人々 農民

 ローマ帝国が滅びた後、世界的な組織は教会しかなかったのだ。

 そんな村や町を仕切ったのが領主たちで、その力の源泉は暴力だ。当時の文献じゃ数十万の将兵が軍を構成していたように書かれてたりするが、実際は…

ドイツ皇帝やフランスやイングランド、シチリアの国王たちでさえも、集めることができた戦闘員は数千でやっと…
  ――第2章 精神構造と社会生活

 と、結構つつましい。代表的な大軍勢でも…

第一次十字軍で動員された騎士は一万から一万二千で、従卒も入れて約五万であったが、これは、記録的な数字だった
  ――第4章 戦う人々 騎士たち

 基盤となる総人口が少なく、その大半が農民だしね。領主に使える臣も、相応の負担がある。

八世紀以降は、歩兵の立場が低落し、乗馬や思い剣、槍などの武器と、兜や鎧、楯などの防具を自前で揃えること、また、理論上、時と場所を問わない全面的奉仕を(家臣は)求められた。
  ――第4章 戦う人々 騎士たち

 私の勝手な分類だが、昔と今の軍の最大の違いが、武器や装備を誰が用意するか、だと思う。昔は戦うにしてもカネがかかったのだ。もちろん、体力も必要で…

鎖帷子、兜、楯は、次第に重い甲鉄のそれとなり、その重さは、鎧が25キロ、面頬付きの兜が5キロという具合である。
  ――第4章 戦う人々 騎士たち

 「騎士は馬から落ちると自力じゃ立てない」ってのは、さすがに言いすぎだけど、立つのに苦労したのは事実らしい。

 その騎士、個人としちゃ強いが、軍としては…

軍旗のもと、整然と隊列を組んでの戦闘といったものは、中世においては稀であった。
  ――第4章 戦う人々 騎士たち

 と、昔のファランクスやレギオンのような整然とした隊形は、集団での充分な訓練が必要だけど、そんな余裕はなかったんだろう。そもそも騎馬は機動力がキモだから、隊形を保つのも難しいだろうし。

 そんな彼らが住まう城や砦での暮らしが書いてあるのも嬉しい。例えば食事。

一日の食事では昼食が最もたっぷりで、食事にかける時間も長かった。基本的に手づかみであったから、食前と食後に手を洗った。
  ――第4章 戦う人々 騎士たち

 貴族と言えど基本は戦う人だから、野性味をたっぷり残していたのだ。食べればその分、出るモノもある。

訳注:(城の)便所は城壁の外へ突き出していて、排泄物は崖の下へ落下するようになっていることが多い
  ――第4章 戦う人々 騎士たち

 なんて下世話なネタも出てくるのも嬉しい。

 そんな戦う人に続いて登場するのが、祈る人すなわち聖職者たち。もっとも、末端の聖職者は意外と慎ましい。

主任司祭は、大きな精神的権威をもっていたが、経済的条件は必ずしも良好ではなく、普段は寄進された土地を教区民と同じように耕した。もっとも、だからこそ、農民たちが持ち込んでくる問題についても理解することができたのだった。
  ――第5章 祈る人々 僧たち

 末端は慎ましいが、バチカンが煌びやかなのはご存知の通り。当時は直轄領も持っていたが、富の源泉は…

彼(法王)が数多くの錚々たる人々によって形成された宮廷を周りに維持することができたのは、法王領からの収入よりも、全西欧から賢明かつ綿密に集められた収入のおかげであった。
  ――第5章 祈る人々 僧たち

 と、個々の教会領などから吸い上げた富が大きかったのだ。その教会領は、とんでもない広さで…

彼ら(聖職者)の土地資産は、メロヴィング時代から急速に増大し、カロリング時代には、全西欧の土地の30%ないし40%に及び、しかも、世俗君主の干渉を受けないという特権をもっていた。
  ――第5章 祈る人々 僧たち

 そりゃ教会の力はデカいわ。となりゃ、聖職者は憧れの職業となりそうなモンだが、誰でもなれるってワケじゃない。

この(聖職者)集団に人員を補給してきたのが主として騎士階級であり、彼らが推挙した有力家門の次三男や、恩を施しておきたい友人、結婚できなかった娘などといった人々が司教だの修道院長、尼僧院長になった…
  ――第5章 祈る人々 僧たち

 と、世俗の権力ともソコソコ結びつきはあった様子。そんな教会の武器は破門だ。

破門《excommunication》とは、教会から追放されることであるが、それは、周囲のキリスト教徒との接触と連帯の基礎であり全てでもある《秘跡》の祝別を奪われ社会から追放されることを意味した。
  ――第5章 祈る人々 僧たち

 日本の村八分より厳しい。

 そんな富と権力を持つ教会は、同時に知識も持つだけでなく、人びとに伝える役割も担った。その象徴が大学だろう。ただ、その講義の風景は現代の大学とは大きく異なっている。

いずれの大学でも、講義は教授の家などの屋内で行われるのが普通だったが、狭くて照明もよくなかったので、とくに聴講生が多い場合とか、教師が学生を集めるのに力を入れたときは、屋外で行われた。
  ――第5章 祈る人々 僧たち

 意外なことに、学舎はなかったのだ。学生街はあったようだが。

 その学生たちは、各地から旅してやってくる。当時の旅行事情は、かなり厳しい。

ほとんどは徒歩で、(略)みすぼらしい馬車も稀にしか見られなかった。(略)砂利を敷いただけの道だったから、(略)車で旅すると、人間が参ってしまったからである。
(略)豊かな人や、権力者たちは、ほとんどがロバやラバ、馬の背にまたがって旅をした。
(略)商品を運ぶにしても、車よりも、動物の背に載せた姿が圧倒的に多かった。
  ――第6章 都市の世界 商人・職人・ブルジョワ

 異世界物の小説じゃ定番の馬車は、意外と使われていない。物資の輸送ですら荷駄である。ちょっと調べたが、馬でも130kg程度までだから、たいした量は運べない。速度もささやかで…

一日の旅程は、約30キロがせいぜいであった。
  ――第6章 都市の世界 商人・職人・ブルジョワ

 そんなんで、よく商売が成り立つなあ、と思ったが、そこはそれ。今でも多くの大都市は川の畔にあるのには、ちゃんと理由があるのだ。

陸上よりも河川や海上のほうがずっと速かった。5ノットで航行する船(時速では九キロになる)は24時間で約200キロ進める。
  ――第6章 都市の世界 商人・職人・ブルジョワ

 と、水上つまり船のほうが速いし楽なのだ。量だって凄い。

中世末には、(略)500トン(例外的には1000トン)も運べる船が活躍している。
  ――第6章 都市の世界 商人・職人・ブルジョワ

 もっとも、これは海や大河を行く船の話。港内を櫂で行く艀はせいぜい12トンだとか。それでも荷駄に比べりゃデカい。これだけ大きけりゃ海賊もでるんで、護衛の弓の射手を雇っていたそうな。この辺は異世界物と同じだね。そんな風に、ロンドンやパリなどの大都市が河の畔にあるのは、大量に出入りする物資を水上輸送するためなんだろう。

 中小の都市でも、水路は必要だ。異世界物の話でも、都市は水路の畔にある。ただ、お話だと水路は都市の真ん中を横切ってるが、実際は…

(都市の)城壁の外周は、河川をそのまま利用したり、河川から引いた水を湛えた壕を巡らしている。そのような取水路には、水車がたくさん設置されていた。
  ――第6章 都市の世界 商人・職人・ブルジョワ

 と、水路は都市の周囲を巡ってるし、水車が立ち並んでいるのだ。

 当然ながら、都市は交通の便がいい所にある。特に街道や大河の交点にある都市は、多くの商人が行き交い、市が立つ。やがて大規模な市が定期的に開かれるようになると、決済方法も発達してくる。

(定期太市での商人の)支払いは、その場で行われるのでなく、手形を交換し、それを最後に債務返済の形で決算した。
  ――第6章 都市の世界 商人・職人・ブルジョワ

 など、高度な決済方法も発達してくる。もっとも、こういうのはごく一部らしい。

11世紀より以前は、西欧の大多数の人にとって、通貨はほとんど無縁の存在であった。
  ――第6章 都市の世界 商人・職人・ブルジョワ

 当時の西欧じゃ金が出るのはハンガリーぐらいなんで、金貨そのものが少なかったし。とまれ、東方との交易でソレナリに金が溜まったり、資本の集積が進んだりすると、新しい資本運用方法も出てくる。

《商会 compagnie》で、資本金に加え、株主でない人々からの預託金も固定的な金利の配当と引き換えに自由に使うことができた。
  ――第6章 都市の世界 商人・職人・ブルジョワ

 って、まるきし銀行じゃん。

 そんな風に、都市にはカネが集まる。となれば、それを頂戴しに来る連中もいる。壁だの壕だのを作るのも、ヒトから都市を守るため。そして、もちろん、都市を守る人もいる。とはいえ、その規模は…

(都市の軍の)配下の人数は、たとえばニュルンベルクの場合は平時の1377年で27人、戦時の1388年でも87人と、そう多くなかった。しかし、その下には、馬丁や蹄鉄工、車大工、鍛冶屋、武器職人、弩の射手、砲兵、大砲の鋳造工などがおり…
  ――第6章 都市の世界 商人・職人・ブルジョワ

 と、意外と慎ましい。だから傭兵を雇うんだが、奴らは不利となれば逃げるんで、あましアテにならない。それでも防衛費の負担は重かった。

たとえばケルンでは、平和時の1379年でさえ、予算の82%を軍事費が占めていた。
  ――第6章 都市の世界 商人・職人・ブルジョワ

 と、当時の都市は大変な軍事社会なのだ。ただ、その予算の源泉は税や借金で、税の負担は金持ちに軽く貧乏人に重い逆累進型。だって都市の顔役は金持ちばっかりだし。

 ちなみに金持ちは商人で、職人は親方でもない限り貧しい。職人のギルドも発達していた。ただ、仕事の進め方は今と大きく違う。

(職人の)作業はほとんど分業化されておらず、原材料の段階から仕上げの段階まで、同じ一つの品は、同じ人間の作業に依った。その反対に、職種間の分業は顕著で、たとえばフランクフルト・アム・マインでは、鉄を扱う職種が50以上あった。
  ――第6章 都市の世界 商人・職人・ブルジョワ

 「下請けに部品を作らせて元請けが組み立てる」って方法は、部品がキッチリ設計上の寸法に合ってるから可能なのだ。この辺は「精密への果てなき道」が詳しい。当時は全部を自分で作り、組み合わせる際に削ったり曲げたりの微調整して合わせたのだ。

 さて、ギルドには仕事の奪い合いを減らしたり価格を維持するなど、相互扶助の側面もあるが、他の役割もあって、こんなルールもあった。

(職人の)作業自体、公衆の前で開放的に行われることが求められた。
  ――第6章 都市の世界 商人・職人・ブルジョワ

 この目的は「ゴマカシできないように」って事らしい。だから、暗い夜には仕事ができないのだ。もっとも、それでも下っ端の職人はコキ使われたようで…

(職人は)毎日16時間も働かされている…
  ――第6章 都市の世界 商人・職人・ブルジョワ

 なんてブラック企業だ。でも、当時はそれが当たり前だったのだ。

 その職人にも親方から見習いまでいろいろあるし、農民にも奴隷/農奴/自由人などの扱いの違いがあるなど、痒いところに手が届くどころか「そんなんありかい!」なトリビアがギッシリ詰まってる。農民など普通の人々の暮らしを懇切丁寧に描いていて、その辺に興味がある人にはたまらない本だ。より写実的に欧州の中世を知りたい人にお薦め。

【関連記事】

| | コメント (0)

2025年7月18日 (金)

ヤン・ルカセン「仕事と人間 70万年のグローバル労働史」NHK出版 塩原通緒/桃井緑美子訳

本書は学問としては労働史の分野のものだが、最近までこの分野が手がけていた範囲をはるかに超えるものである。
  ――はじめに

水平な協力と垂直な従属の両方が包括的な労働史の重要な要素であり、本書の主要なテーマになる。
  ――序章

従属関係だけでなく、協力関係からものを見るのが必須だ
  ――第1章 動物と人間それぞれにとっての仕事

【どんな本?】

 「あなたは何者か」と訊ねられたとき、「銀行員」「飲食店経営」「プログラマー」など職業で答える人は多い。犯罪の容疑者も、「会社員」「教員」などと職業で紹介される。ゲームですら職業がプレイスタイルに大きく関わってくる。現代人にとって、仕事は自らの存在を規定する重要な要素なのだ。

 では。どんな経緯で今の職に就いたのだろうか。親の職を継ぐ人は、ぐっと減った。企業の採用試験を受けたり、転職エージェントを利用する人も多いし、知人の紹介なんて人もいるだろう。

 いずれにせよ、いわゆる「労働市場」で仕事を見つけた人が、現代では大半ではないか。

 だが、人類の歴史を眺めると、このような状況は特異だ。そも市場経済が「世界の各地に何度も出現し、多くはまた消滅した」のだ。

 人間と仕事の関わりを、人類史/世界史レベルの視点で俯瞰し、そのバリエーションと変転を綴る、一般向けの歴史解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Story of Work: : A New History of Humankind, Jan Lucassen, 2021。日本語版は2024年3月25日第1刷発行。単行本ハードカバー上下巻で縦一段組み本文約417頁+324頁=741頁。9.5ポイント41字×18行×(417頁+324頁)=約546,858字、400字詰め原稿用紙で約1,368枚。文庫なら厚めの上下巻か薄めの上中下巻ぐらいの大容量。

 文章はやや硬い。が、内容は意外と難しくない。中学卒業程度の世界史の知識があれば充分。

【構成は?】

 ほぼ時系列順に進むので、素直に頭から読もう。

クリックで詳細表示
  •   上巻
  • はじめに
  • 労働史の系譜と研究成果、そして本書のスタンスについて
  • 序章
  • 第1部 人間と仕事 70万年前から1万2000年前まで
  • 第1章 動物と人間それぞれにとっての仕事
  • 第2章 狩猟採集民の仕事
  • 第3章 狩猟採集以外の活動
  • 第2部 農業と分業 紀元前1万年から前5000年まで
  • 第4章 新石器革命
  • 第5章 農民の仕事
  • 第6章 男女間の分業
  • 第7章 世帯間の分業とそこから生じうる影響
  • 第3部 あたらしい労働関係の出現 紀元前5000年から前500年まで
  • 第8章 「複合」農業社会における労働 不平等の拡大
  • 第9章 最初期の都市の労働 職業の文化と再分配
  • 第10章 国家における労働 多様な労働関係
  • 第4部 市場に向けての労働 紀元前500年から紀元後1500年まで
  • 第11章 貨幣化と労働報酬 ユーラシア
  • 第12章 労働市場と通貨と社会 紀元前500年から紀元後400年の中国、ギリシャ・ローマ、インド
  • 第13章 市場の消滅と再出現 紀元後400年から1000年のヨーロッパとインド
  • 第14章 労働市場をもたない異例の国家の成立 アメリカ大陸
  • 第15章 労働市場の復活 1000年から1500年のヨーロッパとインド
  • 第5部 労働市場のグローバル化 1500年から1800年まで
  • 第16章 労働集約型発展経路 近代初期のアジア
  • 第17章 労働集約型発展経路から資本集約型発展経路へ 近代初期の西ヨーロッパ
  • 原注
  •   下巻
  • 第18章 ヨーロッパの影響下で移り変わる世界の労働関係
  • 第19章 東ヨーロッパの労働粗放型発展経路の道
  • 第6部 労働関係の収斂 1800年から現在まで
  • 第20章 産業革命
  • 第21章 非自由労働の衰退
  • 第22章 自営労働の相対的な減少
  • 第23章 家庭内労働の割合の減少
  • 第24章 自由賃金労働の増加
  • 第7部 変わりゆく仕事の意義 1800年から現在まで
  • 第25章 仕事と余暇
  • 第26章 利益の拡大 個人戦略と集団戦略
  • 第27章 仕事と国家
  • 終章 今後の展望
  • 解説 木下順 大原社会問題研究所嘱託研究員
  • 訳者あとがき/原注/参考文献/図版リスト

【感想は?】

 「労働史」と言うと偉そうだが、つまりは「ヒトはどうやって生きてきたか」だろう。

 そういう点では、本書は世界史の本でもある。歴史というと王や将軍を主役に配し国の興亡を語るもの、と思われがちだが、本書は違う。本書の主人公は働いて糧を得る、私やあなたのような普通の人々だ。歴史書には名を記されない、だがその時代の人間の多くを占める人々の暮らしの変転を綴ったのが、本書なのだ。

 本書の特徴は、その視野の広さだ。なにせ石器時代の狩猟採集生活から始まる。ったって、書類で資料が残ってるワケじゃなく、現代の狩猟採集民の暮らしや考古学的資料から類推するんだが、どうも「バンド」が重要な単位らしい。これは「家族」より大きく「部族/民族」より小さい。「部族/民族」が集まる時期を除き、共に移動する単位だ。

平等主義、互酬、共有、寛容は、無差別に発揮されるのではなく、おもにバンドの内部だけで発揮される。
  ――第2章 狩猟採集民の仕事

狩猟採集民のバンドはたいていそれ自体で一つの労働単位を形成し、同じ集団に属する別のバンドの成員とは接触しない。
  ――第3章 狩猟採集以外の活動

 バンド内部の仕事の分担は、できる人ができることをする、本書では「互酬」と呼ぶ形態だ。他の形態は「独立生産」「賃金労働」「奴隷労働」「貢納-再配分」「雇用」が出てくる。

 やがて農業が始まり、人類の暮らしは大きく変わってくる。

「新石器革命」とは、広範囲を移動して食料をとってくる(「大地を糧にする」)経済から、集約的に食料を生産する経済へと、人間の生活手段が根本的に変化したことを指している。
  ――第4章 新石器革命

北半球の農民は夏のあいだにとんでもなく長期間働き、冬のあいだにたっぷり暇をとることになった。
  ――第5章 農民の仕事

 それで楽になるのかと思ったら、困ったことに…

農作業をするということは、世帯全員の労働が増えるということだった。
  ――第6章 男女間の分業

 …なんか、農業に騙されてね? もっとも、皆が似たような仕事をこなすって暮らし自体は大きく変わらなかったようだ。

考古学的データから推察されるのは、土器職人と織物職人を別にすれば、全般に新石器革命から最初の数千年のあいだは専門職の分化は起こっておらず、この期間の最後になってようやく中国に例外的な分化がぽつぽつ生じていたらしい
  ――第7章 世帯間の分業とそこから生じうる影響

 逆に土器職人と織物職人は特別な「専門家」だったのか。織物が大変なのは感覚的にわかるけど、土器を作るのも専門の技術や知識が要るんだろう。火炎土器とか、やたら凝った形だし。

 そんな農業とは別に、牛や羊を飼って暮らす人たちもいた。そして、考古学者や歴史家は彼らを冷遇してきたらしい。

牧畜社会が他の社会から独立を保って営まれたこと、そして国家形成の先駆的な道を開いたことは、長いあいだ――不当に――歴史の禁忌とされてきた。
  ――第8章 「複合」農業社会における労働 不平等の拡大

 とはいえ、農業も時代が下るに従い分業が増えてゆく。名前ばかりが有名で謎が多いインダス文明も…

(インダス文明では)収穫した穀物は農家自身で脱穀しなかった。このことは生産が共同体に、ことによると中央組織に管理されていたことを物語っていると考えてよい。
  ――第9章 最初期の都市の労働 職業の文化と再分配

 と、かなり組織化されていた様子。

 文書だけでなく、遺跡も多く残っているのがエジプト。そう、かの有名なピラミッドやスフィンクスなどだ。あんな豪勢なシロモノを作るには、相当に分業が進んだ社会が必要だ。そこで働く者も、奴隷ってワケじゃなく…

世界初のストライキはデイル・アル=メディーナ(→コトバンク)の労働者によるものだった
  ――第10章 国家における労働 多様な労働関係

 古代エジプトには様々な職業があったらしいことは「エジプト神話集成」で見当がついていたが、雇用主に組合で対抗する場合もあったのだ。

 その雇用だが、やはり色々な形態があったようで。

「直接労働契約が多く見られるのは、家事労働や家畜(馬、家禽、犬)の世話などにおいてで、同様に、官でも民でも書記の仕事や管理の仕事のような、生産に直接かかわらない仕事全般においては直接雇用が主流となるが……生産にかかわる活動全般、とくに大人数の(「組」にして使う)労働者を必要とする仕事では、下請形式のほうが好まれた」
  ――第11章 貨幣化と労働報酬 ユーラシア

 こういう、直接雇用と下請けの違いは、現代でも似ているなあ。

 現代に生きる私たちは、仕事といえばまず雇用が思い浮かぶが、労働市場が不要な社会もあった。

極論をいえば、完全なカースト社会には――とくに村落レベルでは確実に――市場など必要なく、ましてや硬貨のような交換手段もまったく必要でない。
  ――第12章 労働市場と通貨と社会 紀元前500年から紀元後400年の中国、ギリシャ・ローマ、インド

 どのカーストが何をやるかが決まっていて、必要なカーストが揃っているなら、社会は維持できるのだ。そこで生きる人の幸不幸は別として。そして、市場が不要なら、貨幣も不要となる。逆の言い方をすると、貨幣がないと労働市場も成立しない。

ローマ支配の終焉は、すなわち小銭の終焉だった。(略)信頼できる硬貨が豊富に鋳造されていないと賃金労働が日常的に存在できないのである。
  ――第13章 市場の消滅と再出現 紀元後400年から1000年のヨーロッパとインド

 「小銭」である点に留意しよう。その小銭、素材は銅などだが、中には変わった素材もあった。

(アステカでは)カカオ豆が最少額「硬貨」の役を果たし、ケープとして使われる「クアチトリ」よ呼ばれる綿布が中程度の価格の交換手段、斧を模したT字型の青銅器や、その他の貴重品(ガチョウの羽軸に詰めた砂金や、錫の小さな破片など)が最も価値の高い交換手段だった。
  ――第14章 労働市場をもたない異例の国家の成立 アメリカ大陸

 「チョコレートの歴史」にも少し出てきたが、やはりカカオは特別なシロモノだったのか。布を貨幣とするのも、言われてみれば合理的かも。産業革命前は織った布って、すんげえ手間かかってるし。

 さて、やがて近世になると、特に欧州じゃ都市化もジワジワと進み、ギルド=職業組合もできてくる。

ギルドが出現し、繁栄するのに重要だった四つの要因は、都市化、政治経済、人的資本、社会関係である。
  ――第15章 労働市場の復活 1000年から1500年のヨーロッパとインド

 日本でも江戸時代に入ると各藩で地場産業が発達してくる。ただ、その担い手は都市に住む職人じゃない。

地方における非農業生産の重要性は、藩の人口の約90%が「農民」だったにもかかわらず、地域生産物の40~50%を非農業生産物が占めていた
  ――第16章 労働集約型発展経路 近代初期のアジア

 改めて考えると、この「農民」は、農業従事者というより身分としての農民だろうなあ。で、農民といっても、田んぼで米を作るだけでなく、野菜や果物、または綿や胡麻などの商用作物を育てる農家もあるワケで。

 特に、亜麻や綿などの繊維関係は、産業革命のキッカケとなるぐらい、労働市場では大きなシェアを占めていた模様。

繊維産業はヨーロッパの大半の都市で最大の経済部門を占めていた。
  ――第17章 労働集約型発展経路から資本集約型発展経路へ 近代初期の西ヨーロッパ

 そりゃねえ。布を織るにしたって、まず糸を紡ぐところから始めるワケで。当時の女たちにとっても、糸紡ぎは重要な仕事だった模様。ちなみに産業革命の前では、綿織物はインドの名産だったとか。

 さて、本書では、少なくとも近世までは欧州だけでなく、インドなどの南アジアや中国・日本など東アジアも労働市場が発達していた、としている。対してパッとしないのがアフリカ。それには理由があって。

アフリカの人口密度は他大陸よりもずっと低く、1750年で1km2あたり約4人と、西ヨーロッパの1/6である
  ――第18章 ヨーロッパの影響下で移り変わる世界の労働関係

 その人口密度が低い原因は、土地がやせている上に乾季は土地が使えず、ツェツェバエが媒介する睡眠病(→Wikipedia)に人も牛もやられるから。当時の基幹産業である農業がこれじゃなあ。

 対して北のロシア。「穀物の世界史」によれば、産業化が進む西欧に向け、黒海やバルト海を介して小麦を輸出し存在感を示していた。が、意外なことに…

(ロシアの)最も重要な輸出品である穀物に関して注目すべき点は、面積当たりの収穫量が非常に少ないことである。
  ――第19章 東ヨーロッパの労働粗放型発展経路の道

 と、優れた農地チェルノーゼムを擁しながらも、悪名高い農奴制で生産性は悪かったのだ。そのため多くの濃度は東つまりシベリアに逃げ、帝国の東への拡張に一役買っていたとか。

 などと少しづつ産業化が進んで近代にはいると、やってきました産業革命。それまで農民の代表的な副業だった糸の紡績が…

1750年から1800年までのあいだに綿紡績の労働生産性は200倍に上がり…
  ――第20章 産業革命

 と、桁違いの高効率を誇る機械に奪われてしまう。そりゃガンジーも糸車を回すよね。

 その綿を供給していたのが米国南部のプランテーションで、生産を支えていたのが奴隷だ。かの悪名高い三角貿易ですね。ただ、様々な理由から少しづつ世界全体で奴隷制度は減っていく。が、働かせる側にとっては安い賃金で逆らわず働く労働力は都合がいいワケで、体裁を変えて残そうとする。その一つが年季奉公人。

…年季奉公人(略)と同様に、これらの人々も斡旋人に船賃を払ってもらったうえでプランテーション所有者に引き渡され、その債務を返済するために労働に服した。
  ――第21章 非自由労働の衰退

 似たような話を「アウトロー・オーシャン」が外洋漁船の船員で生々しく描いていたし、現代日本でも外国人技能実習生制度を悪用した例が時おりニュースになったり。

 それはともかく、奴隷と共に自営も減っているのが近代から現代の特徴。とくに変化が大きいのが農家だ。日本でも昭和あたりから農家はガックリと減った。米国や豪州の飛行機で農薬をまくような広大な農場を見ると、ちんまい家族経営の農家には生き残る術がなさそうに思えるけど…

全世界の5憶7千万の農場のうち85%は耕地面積が2ヘクタール以下なので、当然ながら小農と定義される。しかしながら、全世界の食糧供給の大半を担っているのがその小農なのである。
  ――第22章 自営労働の相対的な減少

 日本でも農家の大半は兼業だ。が、本書を読むと、昔から農家は糸紡ぎなどの現金収入を得る副業を兼ねていたのが見えてくる。

 その糸紡ぎは女の仕事とされることが多かった。やがて科学や工学が発達し、男が工場などへ働きに出かけるようになると、女の立場や環境も変わってくる。

19世紀に入ると、(略)医学分野での新しい知見を受けて、(略)命を落とさずにすむ子供の数が大幅に増え、それにともなって家事労働が増大したのである。
  ――第23章 家庭内労働の割合の減少

 インフラなどが整備され医療が普及すると、乳幼児の死亡率が下がる。が、従来の多産の習慣は暫く残るので、子だくさんになり人口は増える。国家には嬉しいかもしれんが、女にとっちゃ子育ての手間が増えるのだ。次の世代あたりじゃ子供の数は減るので、女の仕事は減りそうなモンだが…

家庭における母親の務めという点では、重視されることがそれまでの家事から、子育てに移った。
  ――第23章 家庭内労働の割合の減少

 と、忙しさはあまり変わらなかったりする。そういや白物家電が普及しても、なぜか家事の量は減らないんだよね。

 これは雇われ仕事も似たような傾向があって、例えばパソコンが普及すれば経理や事務の仕事は減りそうな気がするが、なぜか現実には逆に就業時間が増えてたりする。

 働かせる方も、一人当たりの仕事量を増やすために、色々と手を尽くす。その一つが出来高制だ。悪くない案のような気もするが、困った影響が出る時もある。

出来高賃金制で誰か一人が過剰に効率を上げると管理者に生産ノルマを厳しくされるのである。
  ――第24章 自由賃金労働の増加

 効率が上がると最初は儲かるけど、やがて単価が安くなっちゃうんだな。書籍も写本の時代は庶民の家ぐらいの価値があったけど、今じゃ1時間のバイト代ぐらいで手に入るようになった。本好きにはありがたいけど、書生は書写で稼げなくなってしまった。それでも、企業は価格競争を続けるから、社会全体としては単価を下げる圧力が働き消費者には嬉しい世界になっている…はずなんだが、同時に企業は人件費削減の努力もしてるからブツブツ。

 とまれ、前世紀までは労働運動などもあって、例えば先進国じゃ1日の労働時間は12時間から8時間になるなど、少しづつ労働条件はよくなってきた…と思ったら。

日本は残業が非常に多いせいで労働時間が突出して多く、長時間労働によるさまざまな健康上の弊害が生じている。
  ――第25章 仕事と余暇

 日本じゃ組合が業界単位や職種単位ではなく企業単位なためか、労働者同士の仲間意識みたいのが薄いんだよなあ。長時間働くって事は、他の人の仕事を奪ってるって事でもあるんだが。

 まあ、それでも、世界全体で見れば日本はマな方で。

労働組合がとくに発達し成果を挙げた国では、さまざまな理由から組合ができなかった国にくらべて、賃金労働者の待遇ははるかに恵まれている。
  ――第26章 利益の拡大 個人戦略と集団戦略

 これは皮肉な話で、労働者の味方であるはずの共産党が支配する国では、なぜか労働者の暮らしはあまし良くならなず、結局ソ連は潰れ中国は資本主義を取り入れた。そしてカンボジアは…

 そんな現代史を反映してか、先進国じゃ左派の人気はさえない。なにせ、本来は左派の支持層であるはずの労働階級からソッポ向かれてるんだから。

「低学歴層は、いまでは左派政党が高等教育を受けた新しい層とその子供を学歴の低い者よりも優遇していると考えるようになった」
  ――第27章 仕事と国家

 そしてなぜか極右が議席を増やしてるんだよなあ。日本共産党も、裏金疑惑を暴いて与党に大打撃を与えたのに、なぜか議席を減らしてるし。

 特に最近はロボットやAIの進歩に加え、インドなどへの外注で先進国の「仕事」は減りつつある。もっとも、AI技術者は引く手あまたでもあるんだが。かつては「21世紀になれば就業時間は減り余暇が増える」なんて明るい展望もあったが、ふたを開けてみればご存知の通り。今のところ、先進国には閉塞感が漂っているが…

「われわれ」の仕事の報酬が公正になればなるほど、これを民主的に他者とも分かちあおうという機運が高まってくる。そしてそれがいっそう公正さの重要性を知らしめるのである。
  ――終章 今後の展望

 と、著者は希望を捨てていない。

 現代の日本に生きる私たちは、「仕事は労働市場で見つけるもの」と思い込んでいる。だが、人類史レベルの視野・視点で見ると、労働市場が幅を利かした時代や国は比較的に稀なのだ、と思い知らされる。権力者や軍人の歴史ではなく、「働く人びと」の歴史に興味がある人にお薦め。

【関連記事】

| | コメント (0)

2025年6月24日 (火)

トム・スタンデージ「ヴィクトリア朝時代のインターネット」ハヤカワ文庫 服部桂訳

本書で語るのは、この最初にオンラインの最前線に立っていた、変人、奇人、夢想家のパイオニアや、彼らの構築した世界的ネットワーク、つまり「ヴィクトリア朝時代のインターネット」の物語である。
  ――まえがき

インターネットをめぐる期待や懐疑、当惑、また新しい形の犯罪の発生や社会的慣習との軋轢、ビジネスのやり方の再定義といった現象は、電信の発明によって引き起こされた希望、恐れ、誤解などを鏡に映したように似ている。
  ――エピローグ

異論もあるかもしれないが、アマチュア科学紳士の伝統は彼(モールス)とともに消えた。
  ――第12章 電信の遺産

【どんな本?】

 インターネットが一般家庭に普及し始めたころ、私たちはインターネットに大きな期待を寄せた。「これは革命だ。理性の時代がやって来る。やがて世界はひとつになる」。現実は、皆さんご存知の通り。

 19世紀にも、似たような反応を引き起こした技術があった。電信である。モールス符号で有名なサミュエル・モールス(→Wikipedia)が発明した電信は、従来の馬に頼った通信とは比べ物にならない伝送速度を実現し、大西洋横断ケーブルの施設などにより、世界中を席巻してゆく。

 今は祝電などで名残を残すだけとなった電信だが、当時の人々にとっては驚異的な新技術であると共に、様々な悲喜劇や詐欺事件を引き起こした。その多くは現代のインターネットでも再び繰り返されている。

 腕木通信から電信そして電話に至るまで、新しい情報通信技術の登場が巻き起こす騒動を掘り起こし、時代を超えて変わらぬ人間の姿を描き出す、ユーモラスで親しみやすい一般向けの歴史ドキュメンタリー。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Victorian Internet: The Remarkable Story of the Telegraph and the Nineteenth Century's On-line Pioneers, by Tom Standage, 1998。日本語版は2011年12月にNTT出版より単行本で刊行、私が読んだのは2024年5月15日発行のハヤカワ文庫NF版。文庫で縦一段組み本文約216頁に加え、訳者解説10頁+文庫版のための訳者解説「インターネットの前に来たもの 文明を画した電信時代」8頁。9ポイント40字×16行×216頁=約138,240字、400字詰め原稿用紙で約346枚。文庫では薄い部類。

 文章はこなれていて親しみやすい。内容も特に難しくない。基礎的な電気関係の科学・数学知識がほんのわずか必要だが、小学生の頃に豆電球を光らせた程度で充分。

 ただ、単位がヤード・ポンド法なのは慣れない人には辛いかも。最初に換算表はあるんだけど。

【構成は?】

 時系列順に進むので、素直に頭から読もう。

クリックで詳細表示
  • まえがき
  • 第1章 すべてのネットワークの母
  • 第2章 奇妙に荒れ狂う火
  • 第3章 電気に懐疑的な人々
  • 第4章 電気のスリル
  • 第5章 世界をつなぐ
  • 第6章 蒸気仕掛けのメッセージ
  • 第7章 暗号、ハッカー、いかさま
  • 第8章 回線を通した愛
  • 第9章 グローバル・ヴィレッジの戦争と平和
  • 第10章 情報過多
  • 第11章 衰退と転落
  • 第12章 電信の遺産
  • エピローグ
  • 新版あとがき
  • 謝辞/参考文献/訳者解説/文庫版のための訳者解説/電信に関する出来事とヴィクトリア朝時代(年表)

【感想は?】

 歴史物としては極めて親しみやすく楽しい本だ。

 画期的な技術である電信が普及してゆく時代を背景に、ソレを商売はもちろんペテンや色恋沙汰にまで、知恵を働かせて発明者が予想もしなかった形で使う、今と変わらぬ血の通った人々の姿を描く本書は、三面記事やスキャンダル週刊誌みたいな猥雑な面白さが溢れている。

 物語は腕木通信(→Wikipedia)から始まる。SF者にはキース・ロバーツの「パヴァーヌ」でお馴染みのアレだ。フランス政府はほぼ軍専用としていたようだ。

パリとリール間の線は、国家テレグラフ局の初の一部門として1794年5月に稼働し始め、同年8月15日にはオーストリアとプロシアからある町を奪回した報告を、戦闘終結から1時間以内に伝えた。
  ――第1章 すべてのネットワークの母

 現実には霧などで視界が悪くなると通じなくなるなどの制限もあったようだが、従来の馬よりは遥かに速い情報伝達が可能となった。それより前に「電気」は見つかっていたが、その性質はよくわかっていなかった。幸い伝達速度が速いのは知られていて、多くの発明家が電気による通信に挑む。その中の最大の成功者がモールスである。

幸いと言うべきか、モールスは他のテレグラフ開発者が長距離を伝送できずに失敗していたことも知らなかった。
  ――第2章 奇妙に荒れ狂う火

 黎明期の発明の多くが、いわゆるパラレル回線でありながら、最終的にはシリアルなモールスの電信が制するあたりは、SCSIやGPIBなどの乱立からUSBに制される現代のコンピュータ機器の通信規格を彷彿とさせる。でもUSBも規格が複数あるんだよなあ。

 なんであれ、新しいモノが出てくると難癖をつける輩ってのは、いつの時代にもいるようで。

間もなくボルチモアの宗教指導者たちが、新しいテクノロジーは黒魔術に酷似しており疑わしいものだと言い始め…
  ――第3章 電気に懐疑的な人々

 さすがに最近は聞かないが、携帯電話が流行り始めた頃は「電波が云々」と文句を言う人もいた。もっとも、自動車の「ながら運転」などは、実際に害があるんだけど。

 そして、妙な勘ちがいをする人も。

ある女性が息子から送金依頼の電報を受け取って、それはうかつに信じられないと言いだした。彼女は息子の筆跡はよく知っており、局で書かれたメッセージは明らかに違うと主張したのだ。
  ――第4章 電気のスリル

 コンピュータも「ウィルス」は妙な勘ちがいをする人がいたし、こういうのは新しい技術の宿命なんだろう。

 かと思えば、逆に大きな期待を寄せる人たちもいた。

駐米英国大使エドワード・ソーントン「世界のすべての国や国民が常にきちんと交わることほど、平和に寄与するものはないのではないか」
  ――第5章 世界をつなぐ

 これまたインターネット、特に NewsGroup やブログは期待されたのだが、現実はむしろ匿名掲示板が断絶を煽ってたり。

 さて、発足当初は回線にも余裕があったが、利用者が増えるにつれ回線が混んでくる。特に、人に先んじる事が利益につながる商人が使い始めると大変なことになって…

ロンドンでは1850年代の初期からこうした輻輳(→Wikipedia)の問題が起きており、メッセージの半分は証券取引所の関係で、1/3はビジネス関係、「家族関係」は7通に1通の割合だった。
  ――第6章 蒸気仕掛けのメッセージ

 ここでは証券取引所と中継局との混雑の解決法が、なかなかに楽しかったり。今だって距離とデータ量によってはSSDなどの大容量記憶媒体を直接に運ぶ方が速かったりする。

 電信は先方に届くまでオペレータなど多くの人が間で働く。となれば、買収して盗聴しよう、なんて悪事を考える奴も出てくる。だから、政府や軍は暗号などで機密を守ろうとする。ばかりか、民間も…

長距離ケーブルの利用は90%がビジネス関係で、さらのその95%が暗号を使っていた。
  ――第7章 暗号、ハッカー、いかさま

 もっとも、本書の「暗号」は符丁も含んでるんだが。というのも、電信は文の長さで値段が決まる。だから文を短く切り詰めれば安くあがるのだ。そこで双方が示し合わせ、決まり文句は短縮形で送れば安上がりなのだ。Null Pointer Exception を nurupo とか。

 そんな電信のオペレータは、当時の憧れの職業だったようで、かのトーマス・エジソンも凄腕のオペレータとして名を馳せていたとか。

(電信は)出世を夢見る者には小さな町から都会に逃れる道を開き、旅行好きにはどこでも仕事を保証してくれるものだった。
  ――第8章 回線を通した愛

 1990年代までは、プログラマにそんな印象を持つ人もいたような気が。今だとLLMだろうか。ところが、かつての小規模なCOBOLプログラムなら、現代は Excel で充分に使えるシートが作れちゃったりする。そんな風に、電信オペレータにも機械化の波が押し寄せる。

たゆみないテクノロジーの変化によって、電信の仕事は緻密な学習による高い技量を必要とする職業から、誰でもできる技量の不要な職業になった。
  ――第11章 衰退と転落

 商人は目ざとく電信に目をつけ適応したのに対し、役人や軍人は腰が重い。お陰で、困った事も起きる。

1854年3月にフランスと英国がロシアに宣戦布告し、クリミア半島に軍隊が出発したとき、ロンドンの軍事担当者は軍の規模や活動について詳細な情報を出していた。これはそのまま『タイムズ』に掲載されたが、それは読者にできるだけ情報を提供して戦争への意欲をかきたてようとするものだった。
  ――第9章 グローバル・ヴィレッジの戦争と平和

 確かクリミア戦争は写真も世論の形成に大きな影響があったような。それはともかく、世論を誘導するためとはいえ、軍が「詳細な情報を出していた」のは意外。

 そんな政府に対し、商人は積極的に電信を利用していたが、それはそれで困った事に。というのも、

「(商人は)常に興奮状態にあり、静かに休む間もない」
  ――第10章 情報過多

 これまた現代でSNSにハマった人たちが、眠る時間も惜しいと感じるようなモンだろうか。

 などの騒動を引き起こした電信も、やがて新しい技術に取って代わられることになる。そう、電話だ。

「2006年1月27日をもって、ウエスタン・ユニオン社はすべての電報と商用メッセージング・サービスを終了します」
  ――新版あとがき

 このあたり、かつてパソコン通信にハマっていた人たちは、しばらく遠い目になるんじゃなかろか。

 他にも競馬の稼ぎにつかったり、通信相手の正体が意外な人物だったり、娘が胡散臭い男に引っかかったりと、現代のインターネットでも聞いたような話が満載で、下世話な意味でとっても楽しい本だった。三面記事が好きな人にお薦め。

【関連記事】

| | コメント (0)

2025年6月10日 (火)

ジェイソン・K・スターンズ「名前を言わない戦争 終わらないコンゴ紛争」白水社 武内進一監訳 大石晃史/阪本拓人/佐藤千鶴子訳

本書の目的は、なぜ2002年に決定的な和平合意が結ばれた後もコンゴ東部で暴力がやまないのかを説明することだ。
  ――第2章 歴史的背景

組織構造がまとまっていくと、(FDLRからの)自衛の重要性が後退し、機会主義が現れた。
  ――第7章 ライア・ムトンボキ

本書の主なる目的は、なぜコンゴの紛争がこれほど長く続くのかを理解することだ。少なくとも最近までイトゥリはその例外であり、したがって興味深い事例研究となる。
  ――第8章 イトゥリとコンゴ愛国者同盟(UPC)

【どんな本?】

 かつてベルギー国王の私有地として搾取され続けたコンゴは、豊かな資源に恵まれながらも独立後は困難が続き、21世紀に入っても特に東部における戦闘が続いている。

 ややこしい事に、ありがちな内戦と異なり、単純な政府軍vs反政府軍の構図ではない。「2021年には武装勢力の数は120を超え」ているのだ。国軍や地域ごとの勢力に加え隣国のルワンダやウガンダなどが介入し、情勢は複雑にもつれあってしまった。

 「本書の執筆段階で、550万人がコンゴ国内で避難民となっている」にも関わらず、「コンゴ紛争が『ニュートーク・タイムズ』の一面で言及されたのは、2017年にわずか2回だけだった」。日本でもシリア内戦やウクライナ戦争やイスラエルのガザ侵攻は盛んに報じられるが、コンゴは滅多にニュースにならない。

 とはいえ、国際的な支援の手も差し伸べられている。国連をはじめとして多くの国や団体が、開発・安定化・救援を目指し480憶ドルを出資し、「2015年段階で180の国際的な非営利団体がプロジェクトを回していた」。

 それでもコンゴ東部では暴力の応酬が続く。

 なぜこんな状況になったのか。どうして戦闘が続いているのか。政府や国軍は何をしているのか。どんな国のどんな勢力がどんな思惑でどんな武装勢力に肩入れしているのか。

 長く現地で調査を続け、現在はカナダのサイモン・フレイザー大学で国際学部の助教授を務める著者が、混迷を極めた原因と経緯を紐解き、平和への道を模索する、アフリカ的な内戦の解説書。

 なお、本書の「コンゴ」はコンゴ民主共和国(→Wikipedia)であり、コンゴ共和国ではない。旧ザイールであり、ルワンダやフルンジやタンザニアと接している国です。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The War That Doesn't Say Its Name: The Unending Conflict in the Congo, by Jason K. Stearns, 2021。日本語版は2024年6月30日発行。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約328頁に加え、監訳者あとがき8頁。9ポイント46字×18行×328頁=約271,584字、400字詰め原稿用紙で約679枚。文庫なら厚めの一冊分。

 文章は硬い。また、見慣れない言葉、それも主にカタカナの言葉が説明なしに出てくる。意味は文脈からボンヤリとわかる気もするが、一般用語なのか専門用語なのか不明だし、専門用語は一般的な意味とは異なる場合もあるので油断できない。つまり学者の文章なのだ。具体的な例と私なりの解釈を下に示す。

 内用もややこしい。よく知らない地域で聞きなれない多くの勢力が争い合う話で、しかも各勢力とも途中で組む相手や陣営を変え、または分裂するのだ。構成も一部に不満がある。当時のコンゴの政治・経済状況は、始めの方で説明して欲しかった。これが背景事情としてかなり重要なのだ。

 以下、わかりにくいカタカナ言葉の一部。

  • ドナー:資金や物資などの提供者
  • アクター:登場人物
  • インボリューション:社会の停滞→内部抗争、Wikipedia
  • エスニシティ:民族/部族/氏族
  • マインドセット:~のつもり
  • インフォーマル:非公式、影の、闇の
  • パトロネージ:金づる、後ろ盾、取り引き相手
  • モメンタム:勢い
  • フレーミング:設定付け/構図付け
  • チーフダム:なわばり
  • ナショナル:全国的、国家的
  • ガバナンス:統治・管理・運営

【構成は?】

 ややこしい状況を説明する本だ。巻末の「監訳者あとがき」が短い文章で巧みに情勢を説明しているので、最初に読むといいだろう。その後は素直に頭から読もう。

クリックで詳細表示
  • 第1章 序論
  • 第2章 歴史的背景
  • 第3章 コンゴ紛争を説明する
  • 第4章 国家の役割 コンゴとルワンダ
  • 第5章 理論 インボリューション、分裂、軍事的ブルジョワジー
  • 第6章 人民防衛国民会議(CNDP)と3月23日運動(M23)
  • 第7章 ライア・ムトンボキ
  • 第8章 イトゥリとコンゴ愛国者同盟(UPC)
  • 第9章 平和創造とコンゴ
  • 謝辞/監訳者あとがき/注記/文献一覧/索引/略語一覧

【感想は?】

 内戦を描いた本なので、カテゴリーは「軍事」としたが、むしろ「政治」が近い。内容も戦術や軍略のネタはなく、政略レベルの話ばかりだ。

 そもそも、内戦といっても、政府軍 vs 反政府軍の構図ではない。民族/部族/氏族対立もあるだろうが、もっと複雑だ。なにせ…

2021年には武装勢力の数は120を超え、ときにローカルな問題をめぐって激しい戦闘が繰り広げられている。
  ――第1章 序論

 と、眩暈がするほど多くの勢力が乱立し、争っている。その大半は東部で、ウガンダ/ルワンダ/フルンジと接するあたり。首都キンシャサ近辺には、ほぼ影響はない。いや治安は悪いんだけどね。なんでそんなことになり、なぜ続いているのか、ぞれが本書のテーマだ。

 背景事情の一つとして、政府の汚職・腐敗がある。例えば…

政府は(略)ブカンガ・ロンゾの農産物加工工場団地に少なくとも2億8500ドルを投資し、そのうち2憶ドルが行方不明となった。
  ――第9章 平和創造とコンゴ

 予算の2/3以上が闇に消えたのだ。ここまで腐敗が進んだ原因として本書が悪役扱いしているのが、ジョゼフ・カビラ(→Wikipedia)だ。大統領だった父を殺し、その地位を奪った男。共産化を懸念する西側諸国の働きもあり、経済を自由化するが…

この時期におけるコンゴ経済の急速な自由化は劇的な成長をもたらしたが、和平プロセスを傷つけ、略奪的国家に紛争のダイナミクスを植えつけた。
  ――第9章 平和創造とコンゴ

 なんか抽象的で分かりにくいけど、例えばこんな例がある。コンゴは鉱物資源が豊富な国なのだが…

多国籍企業の多くは現地子会社に損失を計上させ、課税率がより低いところに利潤を移転させる。
  ――第9章 平和創造とコンゴ

 と、ハゲタカのような企業が殺到して資源を奪ってゆくのである。もちろん、政治家へのキックバックは忘れない。「俺たちは西側に搾取されている」って理屈にも頷けてしまう。

 そうなった原因の一つは、カビラの立場の危うさにある。

和平合意の規定により、カビラは軍の統合を求められ、かつての敵たちを新生コンゴ民主共和国軍の幹部に迎えた。これによって、カビラ自身が彼らに放逐される可能性は高まった。
  ――第4章 国家の役割 コンゴとルワンダ

 なぜ和平がなったのに、カビラの地位が危ういのか。そもそも、和平とは…

あらゆる和平プロセスの核心は政治的な歩み寄りだ。
  ――第3章 コンゴ紛争を説明する

 政治的な歩み寄りというと経済の自由化か共産化か、みたく思えるかもしれないが、まったく違う。もっと生臭く、ある意味切実なものだ。

政府との交渉にいおいて、武装勢力が自分たちのコミュニティの権利を強く要求したという記録はほぼ皆無である。2009年のPARECOのように政府と合意を締結した勢力にとって、合意締結の際に決定的に重要だったのは地元エリートへの報酬であり、その条件は国軍における階級と地位でほぼ尽くされていた。
  ――第5章 理論 インボリューション、分裂、軍事的ブルジョワジー

 長々と書いているが、要は地位や利権の奪い合いなのだ。国際ニュースでも「和平プロセス」って言葉がよく出てくるけど、その実態は分け前の分配なんだな。山賊かよ。

 実際、武装勢力がやってる事は山賊と大きく変わらない。

「カネを稼ぐ方法はいくつもある。密輸とか、課税とか、大麻とか、木炭とか。鉱物は重要だよ。でもね。まずは影響力と支配を確立することだ。そうすれば、残りはついてくる」
  ――第9章 平和創造とコンゴ

 名を上げればシノギは幾らでもある、そういう事だ。もはや戦国大名かヤクザだ。そんな連中の武装は…

国際専門家グループによれば、CNDPが引き渡した武器は、個人所有の武器2,542個、PKM機関銃7丁、MAG機関銃1丁、RPG-7砲7基、60ミリ迫撃砲4門、82ミリ迫撃砲1門、75ミリ無反動銃6丁、SPG-9無反動銃2丁、多連装ロケット砲4門である。
  ――第6章 人民防衛国民会議(CNDP)と3月23日運動(M23) 注記

 なおCNDPはルワンダ系の大手。"個人所有の武器"は自動小銃かな? PKMとRPG-7とSPG-9はソ連/ロシア、MAGはベルギー。MAGは旧宗主国つながりか? いずれにせよ、そこらのヤクザよりは遥かに重武装だ。

 本書は武器の入手元を明らかにしていないが、恐らくルワンダだろう。PKMとRPC-7がルワンダ陸軍(→英語版Wikipedia)と共通だが、いずれもベストセラー機なので根拠としちゃ弱い。彼らが暴れる理由だが…

二つの母体、すなわちコンゴのトゥチ人からなる軍事的ネットワークとルワンダの治安機関の一部を通じて、CNDPとM23の反乱を生み出した。二つの集団を動機づけていたのは、コンゴの和平プロセスが自分たちの利益を損なうという恐れだった。
  ――第6章 人民防衛国民会議(CNDP)と3月23日運動(M23)

 「自分たちの利益を損なう」とは、最悪の場合で逮捕・処刑、そうでなくとも収入源を失う。そこで見返りとして地位と利権を要求するのだ。政府は和平のため彼らを軍に迎え入れる。のだが、軍の基本給は安い。反面、「手当て」は厚い。手当ては上官の思惑で決まる。特に美味しいのが、東部での鎮圧任務である。東部に派遣してくれるよう、軍人たちは上官に頼むのだ、山吹色のお菓子を添えて。

 つまり、国軍にとっても、東部の紛争は嬉しいのだ。だもんで、鎮圧に向かっても、なかなかケリをつけない。どころか敵と内通して、武器弾薬を融通する始末。今は敵だが、元々は同じ武装勢力にいた仲間だったりするし。

 と、そんな具合に、紛争が続くよう現場の者たちが動くのである。

 こういう構図は、敵が多く立場が弱いカビラにとっても有り難い。曰く、「俺が弱くても敵がもっと弱ければいい」。だから国も軍も腐敗させ、まっとうに機能しないようにした。

 軍の給与体系も、そう計算して設計したのなら、その制度設計の能力は天才と言っていい。困った才能だが。これに東部での影響力を増したいウガンダやルワンダの思惑が重なり、国連などの支援で資金も流れ込み、紛争は半ば永久機関として動き続ける。支援する側も、もちっとキチンと調べろよ、と思うのだが。

 世界銀行の職員曰く「私たちの動機づけは、カネを使うことなんだ」。各国の支援担当者にせよ、自分の予算を減らしたくはない。だから、「巧くいってないっすよ」なんて上司に言う奴は滅多にいないのである。そして上司は…

外交上の失敗は、国際的な陰謀ではなく、関心や関与の欠如によるものなのだ。
  ――第9章 平和創造とコンゴ

 カネを出す欧米にとって、身近に感じるウクライナには関心が深いが、遠くのコンゴはよく知らないし票にもならない。だから知ろうとも調べようともしない。そして今日もコンゴは地獄が続く。

 と、そんな具合に、内戦がこじれるとどうなるかの、実に居心地が悪い実例を分析した本だ。正直言って文章は硬いし慣れない言葉も多い上に、なにせ登場人物が多く状況が複雑でわかりにくい。心地よい読書にはならないが、いわゆる「和平プロセス」の中身をぶっちゃけてたりと、嫌な現実を見せつけてくれる。

 良くも悪くも暴力の実態を明らかにした本だ。今後も増えるであろう低強度紛争に興味がある人にお薦め。

【関連記事】

| | コメント (0)

2025年6月 3日 (火)

スコット・レイノルズ・ネルソン「穀物の世界史 小麦をめぐる大国の興亡」日本経済新聞出版 山岡由美訳

戦争と革命は、過去と同じく現在においても、小麦と大いに関係する。これが本書の主題だ。
  ――はじめに

1918年から22年にかけては、飢餓と内戦と混乱の月日だった。ソヴィエト連邦の人口は1920年み700万人、21年に1100万人、22年には1300万人減少した。
  ――第14章 権力の源泉としての穀物 1916年~1924年

わたしの見るところ、(略)世界についての彼(パルヴス)の認識は、食料の生産や保存や輸送の方法、先史時代の長距離輸送路、そして長距離交易を可能にした金融手段をめぐる奥深い歴史を理解するための手がかりとなる。
  ――第14章 権力の源泉としての穀物 1916年~1924年

【どんな本?】

 一般に歴史は政治家や軍人の活躍や争いを中心に語られる。だが、本書は全く異なった角度から歴史を見る。扱う地域は黒海から地中海そして大西洋であり、注目するのは小麦の流れである。

 ウクライナからロシアには、チェルノーゼムと呼ばれる黒く肥沃な大地が拡がる。ここで栽培された穀物=小麦は、黒海からボスポラス海峡・ダーダネルス海峡を経て地中海へと運ばれ、古代ローマ帝国を養った。

 そう、帝国は穀物が支えている。だから、穀物の流れは帝国の運命を左右する。

 商人で革命家のパルヴス(1867年9月8日~1924年12月12日、→Wikipedia)は、この視点で歴史を分析・解釈し、青年トルコ人に協力してオスマン帝国の改革に協力し、また第一次世界大戦の東部戦線およびロシア革命で暗躍した。

 パルヴスの着目点を引き継ぎ、穀物=小麦が世界のパワーゲームに与えた影響を分析・解釈し、第一次世界大戦までの世界史を語り直し、読者に新しい視点を与える一般向けの歴史解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Oceans of Grain: How American Wheat Remade the World, by Scott Reynolds Nelson, 2022。日本語版は2023年10月13日1版1刷。単行本ハードカバー縦一段組み本部343頁。9.5ポイント44字×18行×343頁=約271,656字、400字詰め原稿用紙で約680枚。文庫なら厚めの一冊分。

 文章は比較的にこなれている。内容も難しくないが、幾つか必要な知識がある。一つは小麦の保存方法、もう一つは小麦からパンを作るまでの工程。麦は収穫したらすぐ干して水分を飛ばす必要がある。また米と違い皮が粒に食い込んでいるので、粉に挽いて皮を取り除いた方が美味しい。この粉に挽く作業はかなりの手間だ。加えて米は家庭で炊けるがパンはパン屋か村の竈で焼く。何かと手間がかかるのである。

 なお、本書が主に扱っているのは19世起以降の世界史、それも黒海から西の欧州大陸の歴史なので、その辺に詳しいと更に楽しめるだろう。

【構成は?】

 ほぼ時系列順に進むので、素直に頭から読もう。

クリックで詳細表示
  • はじめに
  • 第1章 黒い道 紀元前1万年前~紀元前600年
  • 第2章 コンスタンティノープルの門 紀元前800年~紀元1758年
  • 第3章 重農主義的な膨張 1760年~1844年
  • 第4章 ジャガイモ疫病菌と自由貿易の誕生 1845年~1852年
  • 第5章 資本主義と奴隷制 1853年~1863年
  • 第6章 アメリカの穀物神 1861年~1865年
  • 第7章 爆発音と大変化 1866年
  • 第8章 何をなすべきか 1866年~1871年
  • 第9章 穀物の大危機 1873年~1883年
  • 第10章 ヨーロッパの穀物大国 1815年~1887年
  • 第11章 「ロシアはヨーロッパの恥」 1882年~1909年
  • 第12章 オリエント急行、行動軍 1910年~1914年
  • 第13章 パンをめぐる世界戦争 1914年~1917年
  • 第14章 権力の源泉としての穀物 1916年~1924年
  • おわりに
  • 補遺/謝辞/訳者あとがき/原注/索引

【感想は?】

 ロシアがウクライナに侵攻し、米が高騰している今に読むと、陰謀論に入れ込みたくなる。なお陰謀の主はDSではなく穀物メジャー(→Wikipedia)だ。

 都市は人口が密集する。これを養うには大量の穀物=小麦が要る。これを集め保管し運び入れ加工せねばならない。大量の物資を運ぶには、水路が便利だ。

海上輸送のコストは、控えめに言っても馬を使った陸上輸送の1/30だった。
  ――第7章 爆発音と大変化 1866年

 よって、都市は水運に便利な場所で発達する。今だって歴史ある大都市は大河のほとりにある。

(地理学者の主張によれば)帝国は、交易路(たいていは河川や海)の掌握によって定義されるという。
  ――第1章 黒い道 紀元前1万年前~紀元前600年

 順番として、帝国が穀物の流通を促したというより、穀物の流通の拠点で帝国が発達した、そういう関係らしい。

コンスタンティノープルの門を通して世界を見ると、まず交易路が先にあって、繁栄を遂げた帝国群はそこを土台に広がったにすぎない
  ――第2章 コンスタンティノープルの門 紀元前800年~紀元1758年

 流通の拠点には大きな倉庫が立ち並ぶ。倉庫は荷物の預かり証を発行する。やがて、この預かり証は現在の手形のように、貨幣の役割を担い始める。つまり金融が発達するのだ。

ギリシャやローマ、ビザンティンといった帝国のこうした穀物倉庫は、現代の銀行の前身だった。
  ――第2章 コンスタンティノープルの門 紀元前800年~紀元1758年

 そうやって栄え始めると、更に人が寄ってくる。人が増えれば産業が育つ。

労働と資本は、食料が最も安い所に蓄積された。安い食料は水路で届けられたことから、水深の深い港湾を擁する都市が栄えたのだ。
  ――第4章 ジャガイモ疫病菌と自由貿易の誕生 1845年~1852年

産業が生まれたのは、原材料が豊富で食料が安い上に、食料を運んでくる鉄道車両や船に製品を載せて送り出すことが可能な場所だったのだ。
  ――第7章 爆発音と大変化 1866年

帝国というものは、都市に食料を送って農村に帰り荷として製造品を届ける、安価で高速かつ効率的な輸送路を必要とするものだ。
  ――第12章 オリエント急行、行動軍 1910年~1914年

 などと、穀物の流通と都市や帝国の興亡は、深い関係がある。この理屈を19世紀以降の欧州の歴史に適用したのが、本書の本筋だ。例えばナポレオン戦争は、欧州に飢えをもたらした。その結果…

フランス革命戦争とナポレオン戦争はヨーロッパに食糧不足を引き起こし、ヨーロッパの周縁としてのアメリカおよびロシアの両帝国に利益をもたらした
  ――第3章 重農主義的な膨張 1760年~1844年

 ロシアはチェルノーゼムで作った小麦をオデーサで船に積み込み、黒海からボスポラス海峡を経て欧州に小麦を運ぶ。米国の小麦は大西洋を渡りアントワープで降ろされる。オデーサ/アントワープいずれも21世紀の現代でも重要な港だ。プーチンがオデーサにミサイルを撃てば小麦の価格が上がりアフリカ諸国は政情不安定になる。

 米国の南北戦争も、小麦を軸に見ると様相が変わってくる。当時の共和党は奴隷制に反対した。というのも…

カリフォルニアからシカゴ、またニューヨークからペンシルヴァにいたるどの地域でも、共和党のもっとも裕福な支持者の多くは商人や鉄道関係者、そして両者の弁護士だった。
  ――第6章 アメリカの穀物神 1861年~1865年

 そう、鉄道が重要なのだ。

(米国)南部の鉄道の大半は、(略)綿花とタバコを載せて東に移動したが、金物類や穀物、工業製品、輸入品の奴隷州における需要はごく少なかった。東から西に戻る列車はほとんど空で、西から東に送られる商品の価格を実質的に2倍にしていた。
  ――第5章 資本主義と奴隷制 1853年~1863年

 奴隷はカネがない。だからモノが売れない。よって西に向かう列車は空になる。奴隷が解放されれば彼らもカネを手に入れ市場になる。そういう理屈で共和党は奴隷解放に賛同したのだ。

 さて、穀物の流通では輸送の費用が重要な問題になる。宝石や貴金属など高価で腐らずかさばらないモノなら輸送費はたいした問題じゃないが、穀物は重いし腐るしかさばる。だから、輸送費が価格すなわち市場競争力に大きく影響する。

穀物の輸送費が安くなりさえすれば、アメリカは世界の穀物中心地としてロシアに対抗できるかもしれない
  ――第6章 アメリカの穀物神 1861年~1865年

 アメリカで鉄道が発達した理由の一つが、これだ。ただ、輸送費には独特の性質がある。

電気、水、パンのどれを届ける場合でも、最後の1マイルは消費者に製品を届けるのに要する総コストの最大80%を占める。ここには店舗や事務所の家賃のほか、手渡しや積み替え、請求書送付のコストなどが含まれる。しかも、これらは個別かつ具体的な性格をもつ。いずれも人、交渉、生産を必要とする。
  ――第7章 爆発音と大変化 1866年

 いわゆるラスト1マイル問題だね。特に小麦の場合、生地をこねて焼く手間もデカい。発展途上国で携帯電話やスマートフォンが普及したのも、このラスト1マイル問題を回避できるって理由が大きい。

 いずれにせよ、輸送費が下がると、多くの人が利益を得る。

穀物流通に必要な輸送費を下げることでもたらされる恩恵は、物資と時間の両面においてすべての人に利益をもたらすはずだと彼(パルヴス)は説いた。
  ――第9章 穀物の大危機 1873年~1883年

 ただ、不利益を被る人もいる。地主だ。

農業における改善は、個々の地主にこそ短期的に利益をもたらすが、土地の賃貸費および金銭の貸し手としての地主層に打撃を与えるものだった。
  ――第8章 何をなすべきか 1866年~1871年

 奇妙に思えるが、日本でも特に戦後になって農家は大きく減った。農業の効率が上がれば、少ない農地で需要を満たせるので、農地が余る。そんな理屈だと思う。

 工業国の印象の強いアメリカだが、実は昔も今も農産物の大輸出国だ。工業国となった日本は都市化が進み山間部は過疎化しているが、農業国は事情が異なるらしい。

重農主義帝国のロシアとアメリカでは富のほとんどが周縁地域に集まっていたが、ドイツやイタリアのように安価な穀物に課税して消費するヨーロッパの国々は首都に富を集中させていった。
  ――第10章 ヨーロッパの穀物大国 1815年~1887年

 こういう目で見ると、第一次世界大戦の原因もだいぶ違ってくる。ドイツは中東と欧州を結ぶ鉄道を計画していた。これはロシアの穀物戦略を脅かす。だからロシアはドイツとオーストリアにアヤつけた、そういう仮説を本書は提示する。

トルコと中東を結ぶドイツの鉄道の完成は、ロシアやフランスからアラビア半島にいたる輸送路に対する脅威だった。この見方によれば、第一次世界大戦はヨーロッパの中東支配をめぐる争いとして始まった戦争で、最初に脅威を感じ取ったロシア帝国が、戦争を開始すべく兵力を動員したことになる。
  ――第13章 パンをめぐる世界戦争 1914年~1917年

 ロシアにとって輸出する穀物は重要な戦略物資だ。不凍港を求める理由の一つも、穀物にある。穀物の輸出に使える港が欲しいのだ。この野望の手段がシベリア鉄道だった…

満州にいたる鉄道の建設のために、ロシアは1904年時点で世界最大の債務を抱える帝国になった。(ロシアの蔵相セルゲイ・)ヴィッテ(→Wikipedia)にだまされたフランスの投資家の手元には、数十億金フラン相当の債権が残された。
  ――第11章 「ロシアはヨーロッパの恥」 1882年~1909年

 …のだが、日露戦争でポシャってしまった。

日本が旅順・大連からロシアを締め出すと、輸出に使える深水の不凍港をもたないこの帝国は、債務を返済する実際的な方法を失った。
  ――おわりに

現在(2021年)、大国としてのロシアが相対的に弱いのは、結局のところウクライナと別れたためだろう。
  ――おわりに

 それがプーチンがウクライナに攻め込む理由だ。プーチンは東部を齧り取るだけじゃ満足せず、少なくともオデーサを手に入れるまでは戦いを止めないだろう。

 穀物の流通を軸に世界史を見直す本書の視点は、現代の時勢にも充分に応用できる。幸か不幸か21世紀の世界の小麦市場はオーストラリア・フランス・カナダが輸出国として躍進したため、本書のような米露の二国対立ではなくなったが、小麦が世界情勢に大きな影響を与えることに変わりはない。

 書名は「穀物の世界史」だが、「小麦の近代以降の西洋史」が実態に近いだろう。もっとも、それだけ現代に近い時代を扱っている分、より身近なネタとして切実さも増している。技術や産業を軸に歴史を読み解くのが好きな人にお薦め。

【関連記事】

| | コメント (0)

2025年5月19日 (月)

ダニ・オルバフ「ナチス逃亡者たち 世界に潜伏、暗躍したスパイ・武器商人」朝日新聞出版 山岡由美訳

本書は何よりもまず、敗者について、つまり歴史の残骸ともいうべきナチ・ドイツとその情報・治安機関で働いていた多くの個人について語るものだ。
  ――おわりに 鏡に映った亡霊 ナチ浪人の歴史的重要性

わたしはこの本で、第二次世界大戦後から数十年にわたり、金銭目当てでさまざまな仕事を請け負ったナチの動きについてまずは語ろうと思う。さらにそうしたナチが引き起こした現象の重要性を説明したうえで、それが冷戦の全体像や西ドイツ国内で繰り広げられた権力闘争ドラマ、またイスラエル・アラブ紛争や情報機関による秘密戦争と混じりあった経緯を説明したい。
  ――はじめに

【どんな本?】

 ナチス・ドイツは滅びた。連合軍に身柄を拘束された者たちは、ニュルンベルク裁判で裁かれる。だが、当局の追及を逃れ、落ち延びた者もいた。

 ある者たちは、ナチスの思想の一部を捨て、幾つかの欠片を守り続けた。反共思想で西側情報機関で働く者。反ユダヤ思想でアラブ諸国に協力する者。逆に米英仏への恨みで東側の手先となる者。

 または、思想をスッパリ捨て、武器商人として暗躍する者もいれば、誰彼構わず情報を切り売りしてあぶく銭を稼ぐ者もいた。

 元ナチたちは、どこに潜み、どのように生計を立てていたのか。イスラエルやドイツなどは、彼らをどう考え追跡したのか。それにより、冷戦時代の世界はどのような影響を受けたのか。

 軍事史の研究者でありイスラエル軍情報部の勤務経験を持つ著者が、20世紀後半の歴史の闇を照らし出す、一般向け諜報ドキュメンタリー。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Fugitives: A History of Nazi Mercenaries During the Cold War, by Danny Orbach, 2022。日本語版は2024年5月30日第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組み本部約329頁に加え、日本の読者のための著者による解説が豪華15頁。9.5ポイント46字×18行×329頁=約272,412字、400字詰め原稿用紙で約682枚。文庫ならやや厚め。

 文章は比較的にこなれている。ただし、ややこしい内容が多い。というのも、本書はスパイ物の色が濃いためだ。そもそも登場人物が膨大な上に、名前・経歴・目的などを偽る者も多く、その関係も複雑に絡み合っている。幸い、親切な事に各章の頭に「本性の主な登場人物」の項があり、これがとても助かった。また巻末に人名索引があるのも嬉しい。

 が、組織の略称が次々と出てくるのには参った。CIA・KGB・MI6・モサドぐらいは分かるが、次に挙げる名前はなじみが薄い。これも略称一覧などをつけて欲しかった。なお、リンク先は日本語版Wikipedia。

【構成は?】

 ほぼ時系列で進むので、なるべく頭から読もう。

クリックで詳細表示
  • はじめに
  • 第1部 凋落と復活
  • 第1章 荒れ地
  • 第2章 ゴミ溜めのなかから 生き延びたナチ浪人
  • 第3章 乞う者と選ぶ者ゲーレンとCIA
  • 第4章 ブラインドと赤の脅威
  • 第5章 モスクワ、先手を打つ 花火作戦
  • 第6章 チェスと二重スパイ ルードヴィヒ・アルベルトをめぐる謎の事件
  • 第2部 副産物と影響
  • 第7章 漁夫の利
  • 第8章 ハダード通りの家
  • 第9章 オリエント貿易会社 第三世界のネオナチによる目論見
  • 第10章 反撃するフランス
  • 第11章 バイスナー、吹き飛ばされる
  • 第12章 敵の敵は アロイス・ブルンナーの企て
  • 第13章 「懲罰攻撃」 モサドの参入
  • 第14章 シリアの冬 OTRACOの没落
  • 第15章 暴かれる不都合な過去 ゲーレンの苦難のとき
  • 第3部 余震と幻影
  • 第16章 ダモクレス作戦 幻影を追跡するモサド
  • 第17章 目の前の獲物と核の悪夢
  • 第18章 悪魔との取引 ナチを使うユダヤ人国家
  • 第19章 ハエは蜜で取るもの
  • 第20章 沙汰止み
  • おわりに 鏡に映った亡霊 ナチ浪人の歴史的重要性
  • 謝辞/日本の読者のための著者による解説/参考文献/原注/人名索引

【感想は?】

 書名は「ナチス逃亡者たち」だが、読後の印象は「第二次世界大戦後の中欧と中東のスパイ合戦」みたいな感じ。

 逃亡者の皆さん、昔取った杵柄なのか、諜報機関と関係を持ちたがる者が多い。中にはラインハルト・ゲーレンのように出世する者もいるが、多くは情報屋としてネタを売りまくるのである。それも相手かまわずで、CIAもKGBもお構いなし。

 そんな感じで、出てくるのは次のような人物だ。断りがない場合のリンク先は日本語版Wikipedia。

 この辺の名前で食指が動く人向けの本です。

 …で終わっちゃったらアレなので、私が気になった所を紹介する。

 ドイツは日本と同じ敗戦国なので、やはり敗戦後の状況は気になる。どうも敗戦国には他国の軍人だけでなく、情報機関の者も押し寄せるようだ。欧州の人は見ただけじゃ国籍を見分けにくいので、様々な国のスパイが交錯する。そして元ナチたちは、その人脈を使い情報屋として小遣いを稼ぐのである。その報酬は現物支給の場合もあるが…

西ドイツにいたエージェントは同業者が占領国(米英仏)のどの国のために働いているのかを、その人物が吸っているタバコの銘柄をもとに特定したという。
  ――第3章 乞う者と選ぶ者ゲーレンとCIA

 当時はそれぐらい喫煙者が多かったんです。

 そんな状況でも、ドイツ連邦共和国(当時は西ドイツ)が成立した以上、相応の情報機関が要る。よってラインハルト・ゲーレンがゲーレン機関(後のBND、ドイツ連邦情報局)を立ち上げた。そこで人を集めるんだが、二重スパイが潜り込むとマズい。ってんで採用の際は身元を調べるんだが…

ゲーレンのセキュリティ顧問は二重スパイを探すにあたって、ナチの治安機関出身者ではなく、共産党とのつながりをもつ者やドイツのレジスタンス闘士を標的にしたのだ。
  ――第5章 モスクワ、先手を打つ 花火作戦

 一応タテマエとして「ナチ関係者は駄目」となってたんだが、実際にはザルで…。こういう所は日本の公安警察や公安調査庁と似てる。加えて…

終戦時に秘密野戦警察隊の文書のほとんどが廃棄された
  ――第6章 チェスと二重スパイ ルードヴィヒ・アルベルトをめぐる謎の事件

 と、組織的に証拠隠滅してたのだ。これもまた日本とソックリ。だもんで身元調査は難しく、チェックも緩かった。これが祟り、後に醜聞として炎上、首相の怒りを買う。

(西ドイツ首相)アデナウアーの命令を受け、「部会85」という内部組織がBNDの全職員についてナチ時代の経歴の調査に当たり、SDやゲシュタポなどのナチの治安機関に勤務していた数十人を追放した。
  ――第15章 暴かれる不都合な過去 ゲーレンの苦難のとき

 ばかりか、東側の二重スパイの侵入も許す体たらく。こういう「姿勢は強硬だが間抜け」な例は、現代の国際社会にも思い当たる節が幾つか。

 さて、本書のテーマの一つは、元ナチスが世界情勢に与えた影響だ。欧州では、アルジェリア民族解放戦線FLNとフランスと武器商人の関係がある。

 当時、独立を求めるFLNとフランスは対立していた。そのFLNに武器を売っていたのがアロイス・ブルンナーなど元ナチの武器商人である。アルジェリアへの武器流入を止めたいフランスは、SDECEが主体となり武器商人の暗殺を企てる。一時期は功を奏したように見えたが…

(アルジェリア民族解放戦線FLNに武器を売る)ドイツ人武器商人に対する(フランスによる)テロ攻撃は、FLNに供給される武器の流れを止めるどころか、アルジェリア人を共産圏のなかへと勢いよく押しやることになったのだ。
  ――第11章 バイスナー、吹き飛ばされる

 今度はソ連や中国が国家として武器を売り始めたのだ。フランスとしては、まさかソ連に表立って喧嘩を売るわけにもいかず、事態は更に悪化してしまう。つかベトナムといい、この頃のフランスはロクな事してないな。

 そのフランス、イスラエルには比較的に同情的で、それには理由があった。

アルジェリアで戦争が続いていたうえに、イスラエル人が国の存亡をかけてアラブ人と戦っていることにフランスの軍民の指導者は深い同情を寄せていた
  ――第13章 「懲罰攻撃」 モサドの参入

 「激突!! ミサイル艇」でも、フランスやギリシャは(非公式に)イスラエルに同情的なんだが、それは「敵の敵は味方」って理屈なんだろうか。

 ドイツでも、保守本流の人はイスラエルに同情的だったりする。

(西ドイツ元国防相のフランツ・ヨーゼフ・)シュトラウス(→Wikipedia)はイスラエルを中東の反ソ・新欧米の要塞と見なしていた。
  ――第19章 ハエは蜜で取るもの

 当時のドイツは東西対立の最前線だけに、東側への対策は切実な問題だったんだろう。

 かように西欧がイスラエルに好意的なのに対し、敵意剥き出しなのがアラブ。なので、元ナチを様々な形で受け入れる。中でもイスラエルに衝撃を与えたのが、エジプトのナセルが迎え入れたドイツ人ロケット科学者たち。

エジプトの革命記念日に当たる1962年7月23日、(略)ナセル大統領が(略)長距離ロケットをパレードで披露したのだ。
(略)エジプト大統領は、次にイスラエルとの戦闘を余儀なくされたときには、その国の都市に死と破壊の雨を降らせてやるとすごんだ
(略)この恐ろしい武器を開発したのは、エジプトに拠点を置く新世代の雇われドイツ人だった。
  ――第16章 ダモクレス作戦 幻影を追跡するモサド

 これで当時のイスラエル首相ダヴィド・ベン=グリオンはパニックに陥る。実際はエジプトの工業力やドイツ人科学者の能力などが障壁となり、エジプトの予算を無駄遣いするだけに終わるのだが、ベン=グリオンには慌てるだけの原因があったのだ。

ユダヤ人絶滅を企むナチのイメージをイスラエルに敵対するアラブ人、ことにエジプト人、より具体的にはアラブ世界で最高の強さとカリスマ性をもつ指導者、ガマール・アブドゥル・ナセルに投影していたのだ。
  ――第16章 ダモクレス作戦 幻影を追跡するモサド

 それぐらい、この頃のナセルの人気は凄かったのだ。

 有名なナセルに対し、ハーッジ・アミーン・フサイニーは日本じゃあまり知られていない。エルサレム大法官であり、ナチスの高官と親密な関係にあり、第二次世界大戦後はパレスチナの武装蜂起を煽った人物だ。2015年に現イスラエル首相のネタニヤフが暴論を吐いて炎上する羽目になった(→AFP)。そのフサイニ―も、ナチ逃亡者を庇っている。本書に曰く、「中東のナチ逃亡者の守護天使」だとか。

 最近のパレスチナに対するネタニヤフをはじめとするイスラエル右派の、あまりに短絡的で暴力的な対応の裏には、ベン=グリオンがナセルと元ナチに怯えたように、フサイニーとナチの亡霊への怯えがあるんじゃないか、と私は思っている。

 実際、今世紀に入っても、シリアは元ナチを匿っていた。アロイス・ブルンナー、アドルフ・アイヒマンの副官である。一応、シリア政府はタテマエとして「そんな人知らない」って姿勢を保っていたが、ブルンナーは勝手に取材を受け、こんな事を言ってる。

「君はわたしに感謝すべきだ。君たちの美しいウィーンからユダヤ人がいなくなったのだから」
  ――第20章 沙汰止み

 反ユダヤ思想は筋金入りのだ。そしてアイヒマンに対しては「わたしにとって大切な方だった」なんてコメントしてる。裁判じゃ凡庸な役人を演じたアイヒマンだが、ブルンナーの言葉から推し量れば、思想的にも「忠実」だったんだろう。

 書名は「ナチス逃亡者たち」で、実際に元ナチの戦後の暗躍を描いている。が、元ナチの潜伏先として有名な中南米にはほとんど触れず、欧州と中東それも東地中海周辺が主な舞台となる。要は「イスラエルから見た元ナチ」なのだ。そんなワケで、イスラエルを中心とした中東情勢、それもスパイや密輸組織などの裏面史が好きな人にお薦め。あ、もちろん、著者はイスラエル贔屓です。

【関連記事】

| | コメント (0)

より以前の記事一覧