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2025年11月27日 (木)

ロマ・アグラワル「ナットとボルト 世界を変えた7つの小さな発明」草思社 牧尾晴喜訳

宇宙であれ、生物であれ、人間による発明品であれ、それを形作る複雑な仕組みは、より小さくて単純な「なにか」からできている。(略)本書はそのような身の回りの物の根本的で魅力的な仕組みについて、明らかにするものである。
  ――はじめに

【どんな本?】

 私たちの身の回りには、さまざまなモノがある。家・時計・電話・スピーカー・洗濯ばさみ・自転車・水道etc。これらのコノは、幾つかの小さな部品や機構からできている。モノを固定する釘やネジ。くるくる回る車輪。伸び縮みするバネ。鉄を引き付ける磁石。視力を補うレンズ。モノを繋ぐひも。そして水や空気を動かすポンプ。

 これらの部品や機構は、いつ・どこで生まれたのか。それはどのように進歩し、どんな所でどのように使われたのか。そして現代ではどのように進歩し使われているのか。

 エンジニアとして橋や建築物の構造設計に携わってきた著者が、例えばひもならつり橋のような大きなものから防弾チョッキのケプラー繊維そして楽器タンブーラの弦まで、大小さまざまな機構や部品のルーツと歴史をたどり、また現代の最新技術での応用を取材した、一般向けの科学と技術と歴史の楽しい読み物。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Nuts & Bolts: Seven Small Inventions That Changed the World, Roma Agrawal, 2023。日本語版は2024年7月4日第1刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約281頁。9.5ポイント40字×18行×281頁=約202,320字、400字詰め原稿用紙で約506枚。文庫なら普通の厚さ。

 文章はこなれていて親しみやすい。内容も分かりやすく、数式も出てこない。日本の例も少し出てくるのは、インド系である著者の出自ゆえの視野の広さだろうか。

【構成は?】

 各章はほぼ独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。

  • はじめに
  • 1 NAIL 釘 ものを固定することは偉大なり
  • 2 WHEEL 車輪 ものを遠くへ運ぶこと
  • 3 SPRING バネ 力を溜めたり、解放したり
  • 4 MAGNET 磁石 情報が距離を超えてゆく
  • 5 LENS レンズ 小さな生命へのまなざし
  • 6 STRING ひも 巨大な構造から楽器まで
  • 7 PUMP ポンプ 心臓、渋さを超えて宇宙まで
  • おわりに
  • 謝辞/協力者一覧/参考文献

【感想は?】

 著者はハッカー、それもハードウェア・ハッカーだ。ただしハックの相手はコンピュータじゃない。建築物、特に橋である。

 冒頭の幼少期にクレヨンを分解するあたりから、ハッカー魂が炸裂してる。ハッカーの卵は、なんでもかんでも分解して中身を調べて学ぶのだ。代表的な被害者は時計ね。まあ、その後、元に戻せない事も多いんだがw

 そんな著者が最初に紹介するのが、釘。今でこそありふれたモノで…

現在の釘製造機は、1分間に800本以上の金属釘を製造することができる。
  ――1 NAIL 釘 ものを固定することは偉大なり

 と、大量生産している。が、著者は敢えて昔ながらの鍛冶による手作りに挑む。この場面で、かつての釘の貴重さが伝わってくる。そう、真っ赤に熱した鉄をトンカン叩いて釘の形に成型するのだ。そんな釘の歴史は古く…

最古の青銅の釘は紀元前3400年頃のもので、エジプトで発見された。
  ――1 NAIL 釘 ものを固定することは偉大なり

 と、歴史は古い。もっとも、現在の鋼鉄製の釘に比べると頑丈さは劣るが。頑丈さを求めると、リベットを介してナットとボルトに行きつく。そしてもう一つ、ワッシャーも。あれ、私は役割が今一つわかっていなかったが…

ワッシャーは、ナットと接合される鋼製の母材の間に取り付けられ、ナットが締め付ける力を分散させる役割を果たす。ワッシャーを使わないと、ナットを締める際に梁や柱に小さな亀裂が生じ、強度が落ちる可能性がある。
  ――1 NAIL 釘 ものを固定することは偉大なり

 あ、そういう事なのね。ここでは軍ヲタに嬉しい雑学も一つ。

(ホーカー・)ハリケーンは二つのフレーム(構造と外皮)が必要だったのに対し、(スーパーマリン・)スピットファイアに必要なフレームは一つだけだった
  ――1 NAIL 釘 ものを固定することは偉大なり

 機体が軽くなって、いわゆる出力重量比が良くなるのか。他にも昔の船に木釘を使った例も出てきて、水中だと木が湿り膨れてより締まるのが嬉しいそうです。

 続くのは車輪。ところが、発端は意外な分野で。

車輪はもともと陶器のための発明だった。
  ――2 WHEEL 車輪 ものを遠くへ運ぶこと

 もしや…と思ったらその通り、ろくろだった。垂直な回転軸を水平にしたのが、馴染みの車輪。最初は丸い木の板だったけど、年輪に沿って割れやすいとか重いとかで、リムとスポークに進歩する。更に製鉄技術の進歩で鋼鉄製になり…

両面が皿形になった(自転車の)テンションワイヤースポークの車輪は、その軽さと優れた強度や柔軟性(ガタついた地面でも簡単には壊れない)により、車輪の進化の中でも極めて重要なポイントとなった。
  ――2 WHEEL 車輪 ものを遠くへ運ぶこと

 と、ちょっとした形の違いが大きな進歩をもたらす事もあるんです。

 現代の車輪は宇宙にも飛び出し…

ISSの構成要素や実験装置の動力源である太陽電池パドルは壊れやすいため、通常、スラスターを起動する場合は収納してロックする必要があり、ISSの運用に非常に致命的となる。そこで小さく、穏やかな動きで構造体を操縦できるように、エンジニアたちはコントロール・モーメント・ジャイロ(CMG)(→JAXA)と呼ばれる四つのジャイロスコープを使用している。
  ――2 WHEEL 車輪 ものを遠くへ運ぶこと

 なんて意外な所で活躍してる。要ははずみ車だね。はずみ車に溜めた角速度を取り出して、機体の姿勢を変えるのだ。スラスターは貴重な推進剤を使うし。

 車輪の次はバネ。これのルーツも意外で。

弓はバネの一種だ。バネとは基本的に、外力によって変形したときにエネルギーをたくわえる。外力が取り除かれるとバネは弾けるようにして元の形に戻り、その時にエネルギーを放出する。
  ――3 SPRING バネ 力を溜めたり、解放したり

 意外なようだが、曲がったり伸びたりってんなら、今だって板バネがあるよね。その曲がりを極めたのが、ゼンマイだろう。そしてゼンマイ仕掛けの花形が、時計だ。もっとも、初期のゼンマイ時計は…

初期の動力ゼンマイによる時計も正確性では(従来の時計に)むしろ劣っていた。なぜなら、ゼンマイはきつく巻かれた状態で最もエネルギーをたくわえ、ほどけるとエネルギーが減少するからである。
  ――3 SPRING バネ 力を溜めたり、解放したり

 おまけにゼンマイの品質がバラけてると、場所によって強さが違うんで、クロノメーターのジョン・ハリスン(→Wikipedia)は苦労したのだ。

 これらのバネは力を溜めて解放する、いわばバッテリーだが、もっと大きなバネは力を「伝えない」ために使われている。建物に使われる免振装置(→Wikipedia)だ。

構造物においては、バネの役割は(騒音や振動を)遮断することにあり、特に用のない限りは静止して、ひっそりと隠れているのだ。
  ――3 SPRING バネ 力を溜めたり、解放したり

 日本だと地震対策で有名だが、本書の例は音楽ホールの防音構造だ。確かに一つの建物に大小のホールや練習室があると、防音は大事だよね。

 お次の磁石は指南車や羅針盤が有名だが、本書が主に扱うのは情報の伝達と保存…って偉そうだが要は電信・電話そして電子記録媒体です。

近代的な通信手段はすべて、ある地点から別の離れた場所へほとんど一瞬のうちに信号を送るという技術に基づいている。そしてその中心をなすのが「磁石」である。
  ――4 MAGNET 磁石 情報が距離を超えてゆく

 ったって電磁石だけど。とまれ、この章を読むと、機械式に対する電子式の有利さがひしひしと伝わってくる。なにせ速さが桁違いなのだ。また…

初期の電話にはさまざまなデザインがあったが、一つ共通点があった。磁石と電線のコイルを一緒に使って相互作用を生み出していたことである。
  ――4 MAGNET 磁石 情報が距離を超えてゆく

 なんてアッサリ触れてるだけだけど、つまりはマイクとスピーカーね。音を電気に変える、または電気を音に変える機構だ。ここはもう少し突っ込んで欲しかったが、そうするとオーディオの歴史になって一冊の本になっちゃうか。

 そんな磁石も今や…

今ではディスク、メモリーチップ、インターネットポート、洗濯機、電話、ラジオ、時計、メーターなど、磁石は私たちの家庭に何百個も存在するようになった。
  ――4 MAGNET 磁石 情報が距離を超えてゆく

 と、すっかり当たり前のモノになったのだ。

 電磁気の次は電磁波、つか光を扱うモノ、レンズだ。私も眼鏡には日頃からお世話になってる。科学と工学の関係にはよくあるように…

磁石や多くの発見と同様に、レンズの振舞いに関する知識や使い方は、その理論的な解明よりもはるかに先をいっていた。
  ――5 LENS レンズ 小さな生命へのまなざし

 まあ運動方程式を知らなくてもキャッチボールはできるし。

 現代のレンズの応用で身近なのは写真だろう。昔から写真の持つ「人の心を動かす」力を判っていた人はいたようで…

19世紀に最も写真に収められたアメリカ人は、アブラハム・リンカーンではなく、(フレデリック・)ダグラス(→Wikipedia)である。
  ――5 LENS レンズ 小さな生命へのまなざし

 奴隷制度廃止運動家の彼は、写真が人々に与える力を意識して使ったのだ。ここでは、当時のフィルムは白人の肌の色に合わせて調整していたため、黒人はうまく写らなかった、なんて話も。

 さて、当時のカメラのレンズは一つだが、最近のスマートフォンは複数のレンズがついてる。これはハッタリじゃない。

最近では、レンズが二つ、あるいは三つ付いたスマートフォンを見るようになった。一つは遠くのものを撮影するために非常に長い焦点距離を持つレンズであり、一方で、広角撮影が可能な短焦点のレンズ、中間的な撮影ができるレンズもある。
  ――5 LENS レンズ 小さな生命へのまなざし

 スコープドッグのカメラが複数あるのは、そういうことか。いや赤外線や紫外線など広い波長の電磁波を捕える目的かな?

 なんてハイテクなネタに続くのが、ひも。単純だけど、人類の文明に与えた影響は大きいし、今だってあらゆる所に使われている。例の紐とか←をい

今もなお、傷を縫い合わせ、谷に橋をかけ、身体を保護する、そのすべてを静かに支えるのがひもの力なのだ。
  ――6 STRING ひも 巨大な構造から楽器まで

 単純ながら、理屈は意外と複雑だ。そこらの蔦の蔓を持って来たんじゃ、弱くて役に立たない。使い物にするには…

ひもは繊維からできているが、単一の繊維だけでは弱いし有用ともいえない。有用なものにするためには、複数の繊維を互いにこすり合わせるようにして一体化する必要がある。これによって生まれる繊維間の摩擦力こそがひもの強さの源だ。
  ――6 STRING ひも 巨大な構造から楽器まで

 「撚る」必要があるのだ。つか、強さの秘訣は摩擦力だったのか。知らなかった。しかも、撚り方にもコツがある。

S撚りと呼ばれるやりかたで、ひもの長さ方向に沿って、繊維がSの字の中間部のように左上から右下に巻かれている。さらにその撚糸を3本使って、今度は反対向き、つまり右上から左下(Z撚りと呼ばれる)に巻いて、1本のひもを形成している。
  ――6 STRING ひも 巨大な構造から楽器まで

 右回り・左回りの両方で巻くのだ。でないと、巻きをほどく方向にねじれようとする。これも知らなかったぞ。

 そうやって撚ったひもは、織って布になったり、吊り橋を吊るすケーブルになったり。最近は斜張橋が多いよね。

 最後はポンプ。

ポンプとは液体や気体を移動させる装置だ。
  ――7 PUMP ポンプ 心臓、渋さを超えて宇宙まで

 この章では、誰もが体内に持つポンプ、すなわち心臓の話も出てくるが、まずは水を送るポンプ。

革新的なポンプは、もともと乾燥地帯で生まれた。
  ――7 PUMP ポンプ 心臓、渋さを超えて宇宙まで

 つまりは灌漑用ですね。本章は古代メソポタミアのシャドーフ(→英語版Wikipedia)から始まって、これが実に説得力に富んでる。

 現代じゃポンプも宇宙に進出してて、こんな所でも活躍してたり。

宇宙服には大きく分けて2種類あり、一つは打ち上げと再突入の際に宇宙船内で着用するもので、もう一つは宇宙遊泳(NASAが言うところの「船外活動(EVA)」(略))に使用されるものである。
  ――7 PUMP ポンプ 心臓、渋さを超えて宇宙まで

 2種類あるなんて知らなかったぞ。本書で詳しく語るのは船外活動用で、つまりは空調用です。贅沢だと思うかもしれないが、人類初の船外活動を行ったアレクセイ・レオーノフ(→Wikipedia)の逸話を読むと、命に係わる機能だと納得するはず。

 モノにせよ仕組み・仕掛けにせよ、身の回りに溢れていると、ソレは最初からあったかのように思ってしまう。が、ひもや釘のように単純なモノでも、ソレは人類史上の大きな発明と呼べるものであり、また長い時代を経て改良を重ねてきた歴史を持っている。雑学が好きな人はもちろん、科学史・技術史に興味がある人にお薦め。

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2025年11月 7日 (金)

村上柾勝「シェークスピアは誰ですか? 計量文献学の世界」文春新書

本書では、文章の数量的な性質の中から、個人を識別するのに役立つ「文章の指紋」ともいうべき性質を探すことによって、作者の推定を試みた内外の研究を紹介した。
  ――おわりに

著者を推定するということから始まった文章の計量分析の研究は一層の広がりを見せ、現在では文章の数量的性質の変化から、著作年や、著作順序を推定したり、さらには思想の変化や精神状態の変化を探るという方向にも進んでいる。
  ――はじめに

【どんな本?】

 計量推計学は、文章の特徴を統計的な手法で数値化し、著者の真贋や著作年などを調べる技術である。その数値化も、着目点や技法は様々だし、文献の性質により使える技法や問題点は異なる。例えば英語は単語が分かれているが、日本語は分かれていないので、形態素解析が必要だ。

 本書は計量文献学の歴史や手法をザックリと語るとともに、シェークスピアの正体や源氏物語の著者など読者に馴染みの深い事例を披露し、「計量文献学とは何をして何ができるか」を紹介する、一般向けの解説書である。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2004年10月20日第1刷発行。新書で縦一段組み本文約185頁。9ポイント42字×16行×185頁=約124,320字、400字詰め原稿用紙で約311枚。文庫でも薄い部類。

 文章はこなれていて親しみやすい。内容も比較的にわかりやすい。一部に数式も出てくるが、加減乗除と分数までだし、なんなら読み飛ばしても構わない。

【構成は?】

 各章はほぼ独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。

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  • はじめに
  • 1 かい人21面相の脅迫状と文体分析
    グリコ・森永事件/書き手は二人?/作家・内田康夫氏の推理/脅迫状・挑戦状の漢字含有率/かい人21面相の文章の模倣
  • 2 筆跡鑑定にかわる「文章の指紋」
    筆跡鑑定がむずかしくなった/文体から書き手を推定する/「パウロの書簡」をめぐる古くからの疑問/文章の指紋/この三人の作家の正体は?/一人三人作家/三つのペンネームによる文章の共通点 読店の付け方
  • 3 文学作品と哲学書の著者を推定する
    • 1 シェークスピアは誰か?
      Did he exist or did'nt be?/シェークスピアの候補たち/単語の長さの分析から/シェークスピア別人説その後
    • 2 プラトンの『第七書簡』は贋作か?
      贋作説の背景/二重母音、不変化詞を分析すると/文の長さの分析で贋作説を否定
    • 3 マーク・トウェインの戦争経験談?
      南北戦争経験談『Q.C.Sレター』はマーク・トウェインの著作か/単語の長さを分析すると/マーク・トウェインのシェークスピア別人説
    • 4 『静かなドン』をめぐる疑惑
      ショーロホフとソルジェニーツィン/『静かなドン』は盗作か/コンピュータの分析では
    • 5 『紅楼夢』は一人の作者が書いたものか
      /曹雪芹はどこまで書いたか/47の虚詞/81回以降は高蘭墅の作品か
  • 4 聖書と宗教書の著者を推定する
    • 1 『キリストにならいて』は誰が書いたか
      著者はケンピスかジェルソンか/語彙の豊富さを計るK特性値
    • 2 『旧約聖書』の中の『イザヤ書』の著者
      聖の預言者イザヤ/著者は三人か/文章の一貫し性に疑問/分析の問題点
    • 3 『新約聖書』の『パウロの書簡』
      パウロの14通の手紙/本当にパウロが書いたのか
  • 5 政治や犯罪の文献をめぐって
    • 1 英国内閣を攻撃した投書『ジュニアス・レター』
      200年以上謎のままだった著者の正体/人物の識別指標とは/区間推定法を用いた著者の推定
    • 2 『連邦主義者』の著者の推定
      作者は合衆国大統領?/記述内容に関係しない言葉の分析/執筆者の好みが現れる言葉の使用率
    • 3 パトリシア・ハースト誘拐事件
      誘拐、転回そして銀行強盗/法廷でのやりとり/声明文の執筆者は?
    • 4 東京の保険金殺人事件
      深夜のひき逃げ事件/犯人の告白書・遺書/四通の文章の類似点は/犯人逮捕
  • 6 日本古典の謎をめぐって
    • 1 『源氏物語』の計量分析
      古典文学の最高峰『源氏物語』/作者に関する疑問/「宇治十帖」の作者は本当に紫式部か?/数値でみる『源氏物語』の全体像/言葉の使用率で「宇治十帖」をみる/『源氏物語』を品詞から分析する/グラフでみる「宇治十帖」の異質性/「宇治十帖」を書いたのは別人か?/『源氏物語』の成立順序の疑問/助動詞に基づく成立順の推定/安本美典氏の計量分析/本居宣長の犯したミス
    • 2 日蓮遺文の著者の推定
      日蓮遺文の真贋問題/問題となっている五編の文献/日蓮の好みの言葉で/言葉の情報に基づく分析/品詞の情報に基づく分析/五編の文献の真贋は/『三大秘宝稟承事』の異なる写本を用いた分析
  • 7 文体の変化とこころの変化
    • 1 川端康成の文体の変化
      心のありようと文章/読点の付け方の変化
    • 2 日蓮の文体の変化
      佐渡流罪の前と後
  • 8 日本語の計量分析の課題と限界
    日本文の分析のむずかしさ/ワープロ、パソコンと手書きでは文体は異なるか/日本の古典は宝の山
  • おわりに
  • 参考文献

【感想は?】

 本書のテーマはシェークスピアの正体をめぐるミステリではない。いや、それも少し触れてるけど、あくまでもネタの一つとしてだ。本題は、計量文献学の紹介である。まあ、その辺は副題や構成を見ればわかるんだけど。

 計量文献学とは何か。文章から特徴を洗い出して数値化する技術だ。数値化することで、客観的な比較ができる。贋作を見分けたり、真の書き手を見つけたり、成立順を並べ直したり、そういう事ができる。

 私が興味を持ったのは、「どう数値化するか」だ。これが思ったより遥かに色とりどりで、工夫に富んでいる。

 パッと思いつくのは、文の長さだ。私が読む本だと、一般に学者が書いた本は文章が長い。対して新聞記者などジャーナリストの文章は短い。これは書くのが商売か否かの違いだろう。カート・ヴォネガットも、記者時代に「とにかく文を短く」とシゴかれたとか。でないと、読んでもらえないのだ。

 日頃から「読んでもらいたい」と思ってる人なら頷けるだろうが、こんな指摘があった。

「短文というのは、修練がいる」
  ――1 かい人21面相の脅迫状と文体分析

 そうか。やはり意識して訓練しないと、文は長くなっちゃうのか。某カクヨムの作家さんで、やたら文章が短い人がいて感心してたんだが、相当に訓練したんだろうなあ。

 もっとも、商業作家、それも娯楽作品で稼いでる人は文の長さを気にするだろうけど、学者さんは違う。以下は宗教書『キリストにならいて』(→Wikipedia)の分析で得た傾向なのだが…

文の長さの平均値や文の長さのバラツキを示す四分位範囲と呼ばれる統計量は作家間で異なるが、同じ作家の作品ではほぼ同じ値となるという結果を得た。
  ――4 聖書と宗教書の著者を推定する

 だそうです。

 さて、文の長さつまり句点「。」の次は、読点「、」だ。最近読んだ「日本アニメ誕生」は、やたら読点が多いと感じた。栗本薫も多いんだよなあ。この二人は商業作家だから意識して付けてるんだろうけど…

読点は文章を読みやすくするために付けられるが、多くの人はほぼ無意識に読点を付けている。個人の文章の特徴は、このような無意識に書く所に現れやすい。
  ――2 筆跡鑑定にかわる「文章の指紋」

 もっとも、本書の注目点は読点の数じゃない。どの文字の後で読点を使うか、だ。たいてい助詞、いわゆる「でにをは」の後なんだが、この頻度に書き手の特徴が出るのだ。とまれ、この章でサンプルとして出てきた作家の長谷川海太郎(→Wikipedia)のペンネーム使い分けの芸には脱帽した。やっぱプロの作家は凄いや。

 読点・句点の次は、やっと単語だ。でも、最初の例は虚詞。これは中国語の助詞や副詞などを含むシロモノで、単独では意味をなさない。そんなモノに注目するのも、ちゃんと意味がある。

一般に文章の書き手を推定する場合には、虚詞のような記述内容に依存しない言葉で、かつ多数回使用される言葉の頻度に着目することが多い。
  ――3 文学作品と哲学書の著者を推定する

 先の長谷川海太郎のように傾向の違う本だと、出てくる単語の種類は大きく違ってくる。例えば丹下作善は「剣」が、牧逸馬は「銃」が多い…んじゃ、ないかなあ。そういう、テーマに依存する単語は、計量文献学じゃ使いにくいワケです。

 先の引用は『紅楼夢』の話。あれぐらいの大長編だと、統計的にもサンプルが多いので取り組みやすい。対して犯罪の予告状や脅迫状だと、文章の量が少なすぎて計量統計学じゃ扱いにくい。そこで、多数の手法を組み合わせることとなる。

1.どのような助詞がどの程度もちいられているかに関する頻度情報
2.どの助詞の後にどの助詞が出現するかに関する頻度情報
3.どの文字の後に読点がつけられているかに関する頻度情報
  ――5 政治や犯罪の文献をめぐって

 と、様々な角度から分析していくワケですね。

 終盤では、ついに出ました日本文学の金字塔『源氏物語』。いや読んでないけど。しかも作家複数説まであるとは知らなかった。ばかりか…

『源氏物語』に関して問題が指摘されているのは、作者複数説だけではない。54巻の成立順序に関しても、多くの研究者が現在の巻序の順かどうかについて疑問を呈している。
  ――6 日本古典の謎をめぐって

 大長編でよくある、前日譚や外伝的な章を後から付け加えるパターンね。人気が出たので読者のリクエストに応えた的な。

 この分析過程でガツンとやられたのが、紫式部の才女ぶりを示すくだり。いや村上氏の意図は違うんだけど。

『源氏物語』の中に「あはれ」に関する言葉は、「あはれ」(名詞・感動詞)、「あはれがる」(動詞)、「あはれさ」(名詞)、「あはれなり」(形容動詞)など41種類出現する。
  ――6 日本古典の謎をめぐって

 この41種類って所に、彼女の語彙の豊かさが出てるよなあ、などと感嘆したのだ。私なんて二言目には「面白い」「興味深い」ばっかだってのに。

 などと本題とは違うネタばかりになったが、計量文献学の魅力そのものは充分に伝わってくる本だった。何より、従来の文学者による主観的な分析に対し、力づくながらも客観的で数値化できる手法なのが心地よい。コンピュータと相性がよさそうな分野だけに、さすがに2004年と古いのは辛いが、「軽量文献学とは何か」を知るには手軽で楽しく読める格好の紹介書だ。文系と理系の狭間に興味がある人にお薦め。

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2025年10月21日 (火)

関根慶太郎監著 瀧澤美奈子著「読んで納得!図解で理解!『ものをはかる』しくみ」新星出版社

単位のルーツはどの民族でも、だいたい次の3系統に分類できる。
1 体の部分の長さや歩幅を尺度に利用した単位
2 自然の現象や物を尺度に利用した単位
3 生活習慣を尺度に利用した単位
  ――第1章 基本量のはかり方

【どんな本?】

 「日本酒度」ってなに? 電気料金や下水道料金はどうやって決める? 「桜の開花」の基準は? 虹はどれぐらい遠い? 警察のネズミ捕りの仕掛けは? 乱視はどう調べる? 放射線の多寡は? マラソンのコースはどうやって決める? 地球の重さがなぜ判る? 星の重さは?

 キッチンメーターや血圧計など身近な計測機器のしくみから、春のニュースの定番である桜の開花予報、科学と工学の粋である天文学まで、様々なコノ・コトのはかり方・決め方・数値化の方法を、豊富な写真とイラストで親しみやすく語る、一般向けの科学・工学解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2007年7月25日初版発行。単行本ソフトカバー横一段組み本文約253頁。9.5ポイント26字×25行×253頁=約164,450字。各頁の上20%~40%程度はイラストや写真で、また文中にも図版が入ったりするので、文字数はもっと少ない。書名の「図解で理解!」は伊達じゃない。

 文章は比較的にこなれている。ただ内容の分かりやすさは記事によりけり。工学系の学者の著書でありがちなように、得意分野だと高度な話がバリバリ出てくるのだ。数式も容赦なく出てくる。ただし加減乗除に累乗と平方根までなので、理屈では中学生でも理解できる…ハズ。いや私は読み飛ばしたけど。

【構成は?】

 2~4頁の独立した記事が並ぶ構成なので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。各章の末尾にも1頁の独立したコラムがある。

クリックで詳細表示
  • 第1章 基本量のはかり方
  • はかり方の基本
  • 第2章 感覚量をはかる
  • 味覚をはかる
  • 辛味をはかる
  • 日本酒の味はどう表す
  • アルコールの度数って何?
  • 日本酒度をはかる
  • 酸度をはかる
  • においをはかる
  • 包丁の切れ味をはかる
  • 第3章 生活をはかる
  • 重さをはかる
  • 複雑な庭の面積をはかる
  • 体積をはかる
  • 地面の傾斜をはかる
  • 水道使用量をはかる
  • ガス使用量をはかる
  • 電気使用量をはかる
  • 電気料金をはかる
  • タクシーメーターのしくみ
  • パーキングメーターのしくみ
  • 照明の明るさをはかる
  • 電波の周波数をはかる
  • 方角をはかる
  • 磁力をはかる
  • カメラのオートフォーカスのしくみ
  • カメラの手ぶれ防止のしくみ
  • 火災報知機のしくみ
  • 第4章 自然をはかる
  • 山の高さをはかる
  • 海や湖の深さをはかる
  • 川の流れの速さをはかる
  • 水の透明度をはかる
  • 年代をはかる
  • 花の開花度
  • 水質をはかる
  • 地面の水分量をはかる
  • 第5章 天気・気象をはかる
  • 気温をはかる
  • 気圧をはかる
  • 湿度をはかる
  • 風速をはかる
  • 雨量をはかる
  • 震度をはかる
  • マグニチュードをはかる
  • 竜巻の強さをはかる
  • 雷までの距離をはかる
  • 雨雲の移動速度をはかる
  • 積雪量をはかる
  • 視度(視程)をはかる
  • 二時までの距離をはかる
  • 第6章 交通をはかる
  • 自動車の速度をはかる
  • 船と飛行機の速度をはかる
  • 飛行機の高度をはかる
  • タイヤの空気圧をはかる
  • エンジンの馬力をはかる
  • 自分のいる位置を知る
  • スピード取り締まりはどうはかる
  • 道路標識の表示距離
  • 第7章 健康をはかる
  • 体温をはかる
  • ヘルスメーター
  • 血圧をはかる
  • 視力と乱視をはかる
  • 聴覚をはかる
  • 肌年齢をはかる
  • 血管年齢をはかる
  • 体脂肪率をはかる
  • 食品のカロリーをはかる
  • 呼気のアルコール濃度をはかる
  • 心臓の状態を知る
  • 脳波をはかる
  • サーモグラフィのしくみ
  • 第8章 環境をはかる
  • 人工衛星による環境計測
  • 騒音の大きさをはかる
  • 振動の大きさをはかる
  • CO2濃度をはかる
  • 放射線の量をはかる
  • クリーンルーム
  • まな板の汚れをはかる
  • 第9章 スポーツをはかる
  • 歩行数をはかる
  • ゴルフなどで使う距離計
  • 短距離のタイムをはかる
  • マラソンの距離をはかる
  • マラソンのタイムをはかる
  • 第10章 地球をはかる
  • 地球の重力の大きさをはかる
  • 地磁気の大きさをはかる
  • 地球の形や大きさをはかる
  • 大陸の移動をはかる
  • 海流の速度をはかる
  • 地球の重さをはかる
  • 標高の基準
  • 第11章 宇宙をはかる
  • 月や太陽までの距離をはかる
  • 星や銀河までの距離をはかる
  • 星の明るさをはかる
  • 星の重さをはかる
  • 太陽の温度をはかる
  • 宇宙の膨張速度をはかる
  • 惑星でなくなった冥王星
  •  さくいん

【感想は?】

 典型的な科学/工学の雑学本だ。

 そのためか、多くの人に親しんでもらうために、様々な配慮をしている。写真やイラストが紙面の半分近くを占めていて。パッと見ただけでもとっつきやすさを感じる。各記事が独立していて、長さも2~4頁と短いので、スキマ時間でチビチビと読めるし、美味しそうな所だけをつまみ食いできるのも嬉しい。

 ただ、工学系の著者にありがちなパターンで、筆が乗ってくると専門的な話が出てきたり、数式がワンサカと載っているのは、まあそういうモンです。よって読む側にもスキルが必要で、ったって数学や科学の能力じゃない。「わからない所は気にせず読み飛ばす」って能力ね。特に数式。ミステリ小説じゃあるまいし、多少読み飛ばしても無問題。

 幸いにして本書は2~4頁の独立した記事が並ぶ構成なので、前の記事が理解できなくても後の記事には何の影響もないし。

 また、第2章が感覚量で第3章が生活と、身近で暮らしに密着した話題なのも編集の工夫だろう。やはり自分が実際に感じたり、日々の生活に影響があるネタだと、強い興味がわくのだ。

 という事で、「ぼちぼち包丁を研がねば」と感じている私には、こんなネタが嬉しかったり。

研究によると、包丁にモノが当たった瞬間の切れ味は、刃先0.1mmの角度の鋭さで決まり、切断する途中の切れ味は刃面のなめらかさで決まるようです。
  ――包丁の切れ味をはかる

 ちなみに、あんまし刃先を鋭くするとすぐ鈍るんで、プロは加減するそうです。

 こんなのも、「おお賢い!」と感心したり。デジタルカメラのオートフォーカスの「コントラスト検出方式」なんだが…

“ピントが合っているのは、コントラストが最も高いときである”という考え方で、ピントを検出する方法です。
  ――カメラのオートフォーカスのしくみ

 言われてみればその通りなんだが、よく気が付いたなあ。コンピュータの画像処理・演算能力も必要だし、現在ならではの技術だね。ちなみにオートフォーカスには「位相差検出方式」もあって、主に一眼レフで使ってるとか(→Wikipedia)。最近の複数レンズを備えたスマートフォンは、どういう理屈なんだろ? こういう所が、2007年発行の悔しい所。

 やはり身近なネタでは、国土地理院が司る水準点(→Wikipedia)。これは標高の基準となるモノで、思わず Google Map で漁ってしまった。近所にもあるので、散歩のついでに見てこよう。

日本各地には標高の永久標識である水準点が約2万点もあって、あらかじめ正確な標高と位置が測量されています。
  ――山の高さをはかる

 「あれ、そうなの?」も、雑学本の楽しみの一つ。例えば震度(→Wikipedia)。

震度は地震の振動の強さを表す指数で、単純な物理量ではありません。そのため、もともと体感で決めてきた尺度です。
  ――震度をはかる

 数字一つで示されると、ナニやら厳密な規格がありそうな気がしてくるんだよな。でも実際には揺れ幅・周期・継続時間などがあって、数字一つで表すのが難しいのだ。とはいえ、あくまでも「もともとは」であって、現在は気象庁が工夫して計算してるんだけど。

 やはり「そうだったのか!」が、これ。

変速ギアがトップ(変速比1)のとき、速度計の針の「角度」とタコメーターの針の「角度」が同じであるのが正しい習わしである。
  ――自動車の速度をはかる

 クルマに詳しい人は知ってるんだろうなあ。最近のクルマは自動変速が多いけど、上の理屈を知っていれば「今は何速か」が判るのだ。

 「こんな所にお役所が」と感心したのが、脳波計。

脳波計は、頭皮に付けた電極から生じる活動電位の変動を増幅し、波形として記録します。そのため、電極。入力部、増幅部、補助入力部、記録部、電源部から成り立っています。また、安全性を含めてJIS規格で規定されています。
  ――脳波をはかる

 「脳波」も近年はfMRIなどが発達し、あまり聞かなくなった言葉だけど、一時期はオカルト系でよく出てくるネタでした。SFでもポール・アンダースンの小説が、って読んでないけど。

 やはりオカルトとSFの定番が放射線)(→Wikipedia)。これもシーベルト(→Wikipedia)なんて単位があって、一つの数字で表してるけど…

放射線にはいろいろな種類があるだけに、計測器もさまざまな種類(*1)があります。そのため、ふつうは対象によってどの放射線を測定するかをあらかじめ決めて、検出器を選びます。
  ――放射線の量をはかる

 と、中身はフクザツなのだ。

*1:β線=電子,β+線=陽電子,α線=ヘリウム原子核,エックス線=電磁波,γ線=高エネルギー電磁波

 ちなみに放射線測定器はタダで借りられる。

(財)放射線計測協会では、文部科学省の委託を受けて、簡易放射線測定器「はかるくん」(*2)の無料貸し出しを行い、自然放射線への理解増進をはかっている(→簡易放射線測定器の貸出)。
  ――放射線の量をはかる

 これも調べて分かったんだが、今は「はかるくん」もイロイロと進歩している様子。

*2:はかるくんWeb「はかるくん」の種類によると、はかるくんCP-100/はかるくんDX-200/はかるくんDX-300/はかるくんメモリー/はかるくんⅡ/はかるくんGM-100/はかるくんGM-200の7種類がある。

 やはり最近の進歩が凄いのが、万歩計。スマートフォンや時計にも機能がついてたり。私は相変わらずiPod nano を使ってるけど。いやスマートフォンだと電池の減りが気になって。ちなみに…

「万歩計」は同社(山佐時計計器株式会社)の登録商標。
  ――歩行数をはかる

 ということで、スマートフォンとかは歩数計などの表現を使ってる。あと山佐時計計器株式会社は、スマートウォッチ型やバックル型など、様々なバリエーションを出してるなあ。

 などの身近なネタの後、終盤では地球規模や宇宙規模の話題が。話の規模は大きいけど、「はかる」となると、やたら数字が小さくなるから科学者は大変だ。例えば地磁気。

地表での地磁気の大きさは、(略)冷蔵庫に付けるマグネット(フェライト磁石)の1/1万程度です。
  ――地磁気の大きさをはかる

 その程度でさえ動くコンパスも凄いと思う。

 これが宇宙となると、やはり謎も残っていて。

太陽を取り囲むコロナ(太陽大気の上層に太陽半径の10倍以上の距離まで広がっている)は約100万Kという超高温であることがわかっていますが、その理由は太陽系最大の謎とされ「コロナ加熱問題」(→Wikipedia)と呼ばれています。
  ――太陽の温度をはかる

 これも調べたら、2025年現在の今も複数の仮説が並び立っている状態だった。現代の科学でも、こういう細かい?謎がたくさん残っているんだろうなあ。というか、謎が一つ解けると二つの謎が生まれるのが科学だし。

 幅広い分野のネタをたくさん集め、それぞれを2~4頁の短い記事にまとめた、とっつきやすく親しみやすい科学/工学の雑学本。読み終えると個々の記事が短いので食い足りない気もするが、じっくり読むと各記事の中身は意外に濃かったりする。雑学が好きな人にお薦め。

 ただ、進歩の激しい科学/工学系の本なので、さすがに発行が2007年なのは寂しい。改訂版が欲しいぞ。

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2025年9月29日 (月)

ジョセフ・メイザー「数学記号の誕生」河出書房新社 松浦俊輔訳

本書は今の数学で確立している記号の起源と進化をたどるもので、数を数えるところから始まって、現代数学の主要な演算子までたどる。
  ――序論

【どんな本?】

 現代の数学は、様々な記号を使う。0~9の数字。+-×÷の演算子。等しいを示す=。優先順序を変えるカッコ()。定数を示すabc,変数を示すxyz。右肩の小さい数字(例::x2)はべき乗。

 これらの記号は、いつ、どこで、誰が、何のために編み出し、どのように流布したのか。そして、それを使うことで、どんな得があったのか。記号の普及と数学の発展には、何か関係があるのか。

 数学科の名誉教授が、数学記号と数学の発展の歴史を語る、一般向けの解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Enlightening Symbols: A Short History of Mathematical Notation and Its Hidden Powers, Joseph Mazur, 2014。日本語版は2014年9月30日初版発行。単行本ハードカバー横一段組み本文約286頁に加え訳者あとがき2頁。9.5ポイント30字×29行×286頁=約248,820字、400字詰め原稿用紙で約623枚。文庫なら少し厚め。

 文章はややぎこちない。また訳文に少しクセがある。ユークリッドがエウクレイデスとか。

 数学の本だから、数式も容赦なく出てくる。が、解く必要はない。この式は連立方程式か連分数か二次・三次方程式か微分方程式か、などの種類が分かれば充分だ。数式にアレルギーがなければ、中学卒業程度でも楽しめるだろう。

【構成は?】

 ほぼ歴史をたどって進むので、素直に頭から読もう。終盤に行くに従ってより高度な概念が出てくる。

クリックで詳細表示
  • 序論/定義/図版に関する註
  • 第1部 数字
  • 第1章 奇妙な始まり
  • 第2章 古代の数の体系
  • 第3章 絹の道と王の道
  • 第4章 インドからの贈物
  • 第5章 ヨーロッパへの到来
  • 第6章 アラビアからの贈物
  • 第7章 「リベル・アバチ」
  • 第8章 起源への反論
  • 第2部 代数
  • 第9章 記号なし
  • 第10章 ディオファントスの「算術」
  • 第11章 偉大なる技
  • 第12章 幼い記号
  • 第13章 おずおずとした記号
  • 第14章 威厳の階層
  • 第15章 母音時と子音字
  • 第16章 爆発
  • 第17章 記号のカタログ
  • 第18章 記号の達人
  • 第19章 最後の魔術師
  • 第3部 記号の力
  • 第20章 頭の中でのランデブー
  • 第21章 良い記号
  • 第22章 見えないゴリラ
  • 第23章 頭の中の像
  • 第24章 結論
  • 付録A ライプニッツの表記法
  • 付録B ニュートンによるxnの流率
  • 付録C 実験
  • 付録D 複素数の視覚化
  • 付録E 四元数
  • 謝辞/訳者あとがき/原註

【感想は?】

 数式はややこしい。でも、数式がないと、もっとややこしい。

 エウクレイデス(ユークリッド)の「原論」(→Wikipedia)には、こんな文章が出てくる。

直線を任意に切れば、全体の上にできる正方形は、各線分の上にできる正方形と、線分で囲まれる長方形の二倍に等しい。

 これを数式で表すと、こうなる。

(a+b)=a+b+2ab

 数危機は簡潔で要領を得ている。と同時に、少ない文字数に多くの意味や情報を詰め込んでいる。だから、数式は難しくて当たり前なのだ。

 また、数式は移項や約分などの操作もできる。とても便利だ。これにより、幾つかの式が実は同じ解法で解けることが分かったりする。また、「aの右肩のは分数や負数もあり?」なんて発想はひらめいたりする。こういった性質が、数学の発展にもつながった。

 そんな感じの主題を、歴史上の多くの例を挙げて語るのが本書だ。

 全体は3部で、第1部では数の表し方をじっくり辿ってゆく。第2部では加減乗除や等号などの代数記号の発明と普及の物語だ。第3部はだいぶ毛色が違い、私たちの脳が数式をどう扱うか、数式が私たちの考え方にどんな影響を与えるか、を探ってゆく。

 さて、第1部は数字だ。私たち日本人がアラビア数字と呼ぶ、0~9の数字である。どうやら数字は文字と同時に誕生したらしく、最古の文献は「会計、名前、レシピ、旅日記だ」。

書く必要が生じたのは、記憶を記録する必要によるのであり、物語でないのは意外なことではない。
  ――第1章 奇妙な始まり

 数字は国や地域により色とりどりだが、共通している点もある。

ほとんどの古代文化にとって、最初の三つの数を表す記号は縦か横かの線で…
  ――第3章 絹の道と王の道

 漢数字でも最初は一,二、三だしね。

 一桁ならいいが、二桁以上になると、面倒くさい事になる。ローマ数字は5がⅴで10がⅩ、と多くの文字を憶えなきゃいけない。漢数字だと十,百,千,万,十万…となる。いずれにせよ、位取りと零はなかった…ワケじゃない。

(古代バビロニアのニブル石板では)「空白」が記号として用いられているのだ。
  ――第2章 古代の数の体系

 「その桁がない/ゼロである」と示すために、空白を置いたのだ。もっとも、この方法にも欠点はある。複数の桁がゼロだと、幾つの桁なのかハッキリしない。確かに。

 まあ、文字で数を著すのはインテリだけで、庶民が集う市場じゃ別の方法を使ってたんだが。

文字が市場では不便だった昔には、指で数えるのがあたりまえだった。
  ――第4章 インドからの贈物

 私たち日本人は指を折って数えるんで、片手で数えられるのは5までだ。でもプログラマは31まで数えられる←をい 体の部位で示す方法もあって、インド人は親指で他の指の関節を示す形で片手で16まで数えられる、なんて噂も。

 そのアラビア数字を欧州に紹介したのは12~13世紀イタリアのフィボナッチ(→Wikipediaって話が流布してるが…

フィボナッチの本は、ヨーロッパ社会のある部分にはアラビア数字をもたらしたらしいが、イタリアを旅行したりそこで商売をしていた人々は、すでにこの数字を知っていた可能性も高い。
  ――第5章 ヨーロッパへの到来

 と、もっと前からイタリアの商人たちは知っていたらしい。

 そのイタリア商人たちにアラビア数字を伝えたのは、アラビアの商人たち。彼らはインドから「インド数字」を仕入れた。それをアラブ世界に紹介したのは、9世紀前半のバグダッドのアル=フワーリズミー(→Wikipediaの著作「インドの数の計算法」だ。

インド式の数の表し方がアラブ世界全体、さらにはヨーロッパに広まったのは、主としてこの本による。
  ――第6章 アラビアからの贈物

 と、本書はそういう説を紹介しているが…

ヒンドゥー=アラビア数字の起源は、2世紀近くにわたって専門家によって論じられてきた。
  ――第7章 「リベル・アバチ」

 と、この説に落ち着くまでは、様々な紆余曲折があったようだ。フランス語で書かれた「古代の文献」が登場したりw どの国でも、身びいきが過ぎる人ってのは、いるもんなんだね。

 このアラビア数字、何が嬉しいかというと、簡潔に書けるのはもちろんだが、加えて筆算がしやすいのがいい。嘘だと思ったらローマ数字や漢数字で掛け算や割り算を筆算してみよう。

当時は苦労してローマ数字で数を表し計算をしていたヨーロッパ人は、(アラビア数字という)贈物をもらったようなものだ。
  ――第8章 起源への反論

 もっとも、紙の値段が高かった時代は、算盤を使ってたんだけど。本書には西洋の算盤の写真もあって、なかなか興味深い。

 第2部からは、記号と共に数や数学の概念が拡がってゆく歴史を描く。まずは、かつての世界第2位のベストセラー「原論」の著者から。ちなみにトップは聖書。原論がNo.2なのは、欧州じゃ長く数学の教科書として使われたから。

エウクレイデス(=ユークリッド)の著作(「原論」)には、べき乗やプラス、マイナスを著す代数記号はまったく見あたらない。
  ――第9章 記号なし

 前の引用で示したように、すべて文章で表したのだ。しかも、多くは幾何と関連付けて。

 何を「数」に含めるかは、時代と共に少しづつ広くなってゆく。例えば…

分数や有理数ならかまわないが、16世紀になるまでは、負の数は――負債としてなら文句なく認められたが――ヨーロッパでは本当の数とは認められなかっただろう。
  ――第10章 ディオファントスの「算術」

 数学者はそうだろうけど、商人はどうなんだろ? 要は借金や買掛金なんだけど。あと、負数に負数を掛けたら正の数になる、って理屈も、当時の数学者は苦労した模様。これも「借金してる相手が減った」と考えれば、納得いくよね。

 それはともかく、やはり昔のインドは数学の先進国だったようだ。

(7世紀インドの)ブラーマグプタ(→Wikipedia)は、2次方程式には二つの根が出ることがあり、その方程式が出てくる具体的場面での条件から、一方は排除されることを知っていた。
  ――第11章 偉大なる技

 もっとも、一般的な解き方=二次方程式の解の公式を知っていたワケじゃないようで、個々の例ごとに具体的な解法を文章で書き綴っている。

 が、やはり一般的な解き方=解の公式を求める動きはあった。そして二次方程式の解の公式には、自乗や自乗根=ルートが出てくる。今は標準的な記号や書き方が決まっているが、当時はなかった。

代数の考え方が記号をもたらしたのであって、逆ではない。
  ――第12章 幼い記号

 という事で、第2部では、当時の人たちが考えた様々な記号や記法が出てくる。今の私たちからすればわかりにくいが、それでも当時の人たちにとっては大きな変化だったろう。

 そして、記号の導入は、数学者たちの考え方にも大きな変化をもたらしてゆく。

古い幾何学的な捉え方から代数的表現を解放したのだ。
  ――第13章 おずおずとした記号

((16世紀イタリアのラファエル・)ボンベッリ(→Wikipedia)による)巧妙で本物の記号は、代数を幾何から独立させた。
  ――第14章 威厳の階層

 私が方程式を解く際は、単純に数学のルールに従って式を変形してゆく。「ソレはどんな図形を表すか」は考えない。でも、当時の人たちにとっては、数学と幾何=図形や立体は、分かちがたく結びついていた。二次方程式は図形を、三次方程式は立体を表したのだ。

 更に定数や変数などの概念も。

(16世紀フランスのフランソワ・)ヴィエト(→Wikipedia)の驚異の母音時・子音字表記は、集合としての一般的な、何でも、すべてについて考える方法をもたらす。
  ――第15章 母音時と子音字

 一部のIT技術者には「デカルト座標系」で有名なデカルト。そのデカルト座標系は、幾何学と代数学の関係を更に見直すことになる。

(17世紀前半フランスのルネ・)デカルト(→Wikipedia)は概念化のモードを切り替え、幾何学の問題を代数学的な座標へと移し替える方法を教えてくれた。
  ――第16章 爆発

 と書くと順風満帆なようだが、文句を言う人たちもいた。他でもない、植字工だ。今だってワープロソフトやDTPソフトで数式を扱うのは難しい。HTMLじゃ無理だ。私は累乗を<sup>で誤魔化してるが、分数や平方(ルート)は扱えない。だから本記事でも、その辺が出てこないように書いてる。いやライブラリを使えばイケるらしけど。活字を拾って組んでいた当時の植字工の苦労は、察するに余りある。

デカルトさえ『幾何学』ではときどき、鉄十字✠を使っていたが、これは印刷所で足りなくなった活字を、新しく作らずにすませて、見つかる中でいちばん近い記号でまにあわせたためにそうなったのかもしれない。
  ――第17章 記号のカタログ

組版業者をなだめ、紙面がもっと魅力的に見えるように、(17世紀ドイツのゴットフリート・)ライプニッツ(→Wikipedia)は項をどこまで考えるかを示すためにかっこを用いるというアイデアを導入した。
  ――第18章 記号の達人

 写本の時代にはなかった問題だね。まあワープロが出始めた頃は、外字で似たような問題があったし、今だって住基ネットじゃ姓名でゴタゴタがブツブツ。

 最後の第3部では、これらの記号が数学や数学者に与えた影響や、私たちが数式を見た際に脳がどう反応するかを考察してゆく。

 現代の代数は、幾何から離れ、ルールに従った記号操作になった。変数をxやyで、定数をaやbで表す。なら、xやaは複素数でもいいんじゃね?なんて発想も出てくる。本書には出てこないが、フラクタル理論じゃ整数じゃない次元なんてのもある。xnのnは整数じゃなくてもいいよね、そういう拡張だ。

数学ですばらしいことの一つは、それが進むと――よくできた記号によって――視野が広がることだ。
  ――第20章 頭の中でのランデブー

 とまれ、困った副作用もある。いわゆる「机上の空論」の陥りかねないのだ。

記号による代理には、代理される対象がすぐに見えなくなり、対象がまったく対応しないことも多い記号について演算が続くという不利益もある。
  ――第21章 良い記号

 電気の世界じゃ複素数が必須らしいけど、虚数部の意味はわかっていない、なんて話を聞いたが、そういう事だろうか? いずれにせよ、複雑な式は、多くの人にとってピンとこない。何を表しているのか、その対象が既に頭の中にあるならいいんだが、そうでない時は酷く苦労する。

根源はイメージで、書かれた言葉や数学の記号は考えられたものだ。
  ――第22章 見えないゴリラ

 それでも、やはり数学記号や数式の力は大きい。

数学の美しさ――すっきりした照明、簡潔な提示、巧みさ、複雑なものの単純化、わかりやすい接続――は、大部分、巧妙で整った記号の、わかりやすくする能力によっているのだ。
  ――第24章 結論

 数学が得意な人は、オイラーの等式eiπ+1=0が美しいと言う。私にはわからないけど。でもK&Rこと「プログラミング言語c」を初めて読んだとき、ungetc() の見事さ舌を巻いた。そういう感じなのかな、と思う。

 数学の本でもあるので、相応の歯ごたえはある。とはいえ、別に式を解く必要はないので、その辺は気楽に挑んでもいい。数学記号で数学者の思考がどれぐらい変わったか、という本でもある。だから、言語と思考の関係を、「言語は思考に強い影響を与える」と考える人には、とっても心地よい本でもある。歴史と数学の雑学に興味がある人にお薦め。

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2025年8月31日 (日)

リー・アラン・ダガトキン+リュドミラ・トルート「キツネを飼いならす 知られざる生物学者と驚くべき家畜化実験の物語」青土社 高里ひろ訳

キツネの家畜化実験についてはこれまでにも多くの記事が書かれているが、本書は初めてその全貌を詳述する本だ。
  ――序論 なぜキツネはイヌのようになれないのか?

【どんな本?】

 1950年代終盤のソ連。毛皮用のミンク&キツネの飼育・育種で優れた実績を積み名声を得た遺伝学者ドミトリ・ベリャーエフ(→Wikipedia)は、念願の実験を始めようとしていた。キツネを飼いならそう。うまくいけば、人類史における動物の家畜化について、貴重な知見が得られるかもしれない。

 動物の種は多いが、家畜化されたのはごく僅かだ。特に哺乳類の家畜は群れをつくる種が多い。対してキツネはオオカミやイヌに近い種だが、群れをつくらず、野生のキツネは繁殖期以外は単独で生きる。そして滅多にヒトには慣れない。毛皮用キツネを飼育する中で、ベリャーエフはそれを充分に思い知っていた。同時に、ごく僅かの例外的な個体がいることも。

 だが、当時のソ連の生物学会はスターリンに取り入ったトロフィム・ルイセンコとその取り巻きが幅を利かし、まっとうな遺伝学の研究はほぼ不可能だった。そこでベリャーエフは実験目的を偽り、また実験場も彼らの目が届かないシベリアのノボシビルスクにするなどの工夫をこらし…

 SF者など一部で有名なキツネの家畜化実験を、50年代松の黎明期から2016年まで、激動のソ連/ロシアの現代史とワトソン&クリックの二重らせん発見以降の激変する遺伝学会を背景に、卓越した遺伝学者にしてリーダーであるドミトリ・ベリャーエフとその研究パートナーであるリュドミラ・トルート(→英語版Wikipedia)や実験場の飼育員など多くの関係者そして彼らが育てたキツネたちの出演で描く、感動の科学ルポルタージュ。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は How to Tame a Fox (and Build a Dog): Visionary Scientists and a Siberian Tale of Jump-Started Evolution, Lee Alan Dugatkin, Lyudmila Trut, 2017。日本語版は2023年12月10日第一刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約213頁。9.5ポイント45字×19行×213頁=約182,115字、400字詰め原稿用紙で約456枚。文庫なら普通の厚さ。

 青土社の本のクセに、文章はとても親しみやすく読みやすい(青土社の方々、ごめんなさい)。内容もわかりやすい。たいした理科の知識も要らないので、大半は中学生でも読みこなせるだろう。

【構成は?】

 ほぼ時系列順に話は進むので、素直に頭から読もう。

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  • 序論 なぜキツネはイヌのようになれないのか?
  • 1 大胆なアイデア
  • 2 もう火を吐くドラゴンはいない
  • 3 アンバーの尾
  • 4 夢
  • 5 幸せな家族
  • 6 繊細な相互作用
  • 7 言葉とその意味
  • 8 SOS
  • 9 キツネのように賢く
  • 10 遺伝子の激変
  • 謝辞/註

【感想は?】

 ケモノ好きには極めて危険な本だ。

 ヤバさは本を開いてすぐわかる。巻頭のカラー写真だ。ヒトに慣れたキツネの写真が次々と。玩具で遊んでたり、飼育員と共に散歩してたり、ヒトに抱かれてたり。極めつけが最後の子ギツネの写真。可愛い。たまらん。

 いや本来は、そういう能天気な目的で始まった実験ではない。ヒトと家畜の関わりの始原を探るという、極めて真面目で壮大で科学的な目的の実験なのだ。なにせ計画を始めたベリャーエフの仮説が、ダーウィンに逆らうモノだし。といっても、進化論そのものに反対しているワケじゃない。

家畜化はおそらく、ダーウィンの進化論で暗示される標準的な解釈よりも短期間に起きた可能性がある。
  ――1 大胆なアイデア

 ダーウィンの漸進説に対し、スティーヴン・ジェイ・グールドが唱えた断続平衡説(→Wikipedia)ですね。しかも、ベリャーエフの主張はグールドより過激だ。だって、自分の目で「家畜化されたキツネ」を見るつもりだったんだから。グールドの主張より3~4桁も速い。もっとも、中盤以降で明らかになるんだが、ベリャーエフは遺伝子そのものの変化までは考えていなかった。が、それは置いて。

 時は1950年代末。当時のソ連はルイセンコがブイブイいわしてて、本来の目的が悟られたら潰されるのが判ってた。計画はもちろん、自分も。右腕となるリュドミラ・トルートにも、その辺を言い渡している。

ルイセンコ派をかわすために、仕事はキツネの生理学と説明される。少なくとも当面は、実験に関して遺伝学という言葉は一切使えない。
  ――2 もう火を吐くドラゴンはいない

 この実験ではベリャーエフの名が有名だが、実質的に実験を取り仕切ったのはリュドミラらしい。ベリャーエフは細胞学遺伝学研究所の所長で、他にも多くの研究を統括する立場。リュドミラは彼の部下の一人。そういう関係だ。

 いずれにせよ、当時のソ連における科学者の不安定な立場が伝わってくる場面だ。と同時に、モノゴトを慎重に、だが情熱を持って粘り強く進めるベリャーエフの性格も。こういう所はロケットの父セルゲイ・コロリョフ(→Wikipedia、「セルゲイ・コロリョフ ロシア宇宙開発の巨星の生涯」)と同じだね。

 実験はルイセンコたちの目が届かない、シベリアのノボシビルスクで行う。冬の気温は-40℃の極寒の地だ。既にソ連では毛皮用にキツネを飼育していた。というか、ベリャーエフはこのキツネの飼育で優れた実績を積んだのだ。そんな古巣から、実験用のキツネを調達する。

 稀にいるヒトを恐れないキツネ同士かけ合わせると、たった四世代でヒトに慣れた子ギツネが現れる。科学者ではあるが、もともとイヌ好きのリュドミラは…

リュドミラもたまには衝動に負けて、小さな子ギツネを抱き上げることがあった、
  ――3 アンバーの尾

 誘惑に負けとるやんけ。まあ巻頭の写真でも幸せそうにキツネを抱いてるんだけどね。こういうキツネとの関係はリュドミラだけでなく、現地で雇った職員も同じで、中にはキツネを自宅に引き取った職員も。

リュドミラはココを飼育場に戻すのではなく、彼女を深く愛するガーリヤとベーニャと共に暮らすのが幸せだと判断した。
  ――7 言葉とその意味

 この章が描くキツネのココの物語は、まんま映画になりそうなベタな感動物語なんで、ケモノ好きは覚悟しよう。

 ちと急ぎ過ぎた。さて、第四世代じゃキツネは飼育場に住み、ヒトとは暮らしていない。イヌのように家畜とするには、ヒトと暮らせるか否かを調べる必要がある。ということで、リュドミラもキツネと暮らすことに。いや、ちゃんと目的があるのだ。

エリートギツネたちは人の関心を弾くことに夢中だが、まだ人を区別していない。人間なら誰でも等しく喜ぶ。キツネが彼女と同居したら、それが変わるかもしれない。
  ――4 夢

 これは細かい事のようだが、生物学の世界じゃ曰くがあって、学者も慎重になっているのだ。

賢馬ハンス(→Wikipedia)という名前のウマのせいで、動物のコミュニケーション、とくにヒトとヒト以外のあいだのコミュニケーションについての主張には、昔から高いハードルが設けられてきた。
  ――9 キツネのように賢く

 計算しているように見えて、実はヒトの反応をうかがっていた、ってオチ。でもヒトの反応を、そこまで読んでるんなら、ソレはソレで優れた知性と言えるような気も。

 本書には他にもパブロフの犬から始まってジェーン・グドールのチンパンジーの観察やE.O.ウィルソンの社会生物学など、生物学および生物学者の興味深い挿話もチラホラと入ってる。

 それはともかく。リュドミラと、それ以外のヒトを、飼いならされたキツネは区別できるのか? 結果は読んでのお楽しみ。

 などとベタベタに甘いように見えるリュドミラだが、やはり科学者だ。キツネの家畜化は先天的なものなのか、生まれてから学習した結果なのかを確かめる実験もしてたり。

従順な母ギツネと攻撃的な母ギツネで子供の扱い方が異なっていたら? 子ギツネたちは母親の扱い方から学んで、人に対して従順または攻撃的になるのではないか?
  ――5 幸せな家族

 これを確かめる実験は胎児移植による交叉哺育だ。可愛がってるだけじゃないと思い知らされる、ちと衝撃的な場面だった。だって実験だしね。

 中盤以降では、実験を始める前からベリャーエフが抱いていた優れた洞察が明らかになる。

ベリャーエフは、家畜化に関わる劇的な変化の原因は、選択によって促進された新たな遺伝子変異の蓄積ではなく――それもいくらか作用しているのは確かだが――むしろ、既存の遺伝子の発現の変化であり、それが異なる表現型を生じさせていると考えていた。
  ――6 繊細な相互作用

 遺伝子の二重らせん発見から間もない時期だ。そんな早くから、エピジェネティクス(→Wikipedia)に近い仮説を抱いていたのだ。ルイセンコ一派が仕切っていた当時の時代背景で、これを表に出したら、控えめに言っても面倒くさい事態になっていただろう。

 などの先見の明と共に、科学者としての狂信的なまでに潔い矜持と、やはりちとマッドな野望を抱いていた事も終盤で明らかになる。キツネを飼いならせたんだから、もっと時間をかければアレも。結果が出る時にベリャーエフは生きていないが…

ドミトリ・ベリャーエフ「われわれが結果を知ることはないが、誰かが知る」
  ――7 言葉とその意味

 デビッド・ブリンもソコまでは考えてなかっただろうなあ。あ、でも、米海軍はやってるかも。

 やがて時代は冷戦を経てデタント(緊張緩和)へと至り、彼らの実験とその成果は西側の生物学会でも大きく評価される。ソ連時代の西側への渡航の困難さとか、ホント昔話になってしまった。

 が、20世紀も終盤になり、この実験の最大の危機が訪れる。他でもない、ソ連崩壊だ。国全体が混乱をきたしている時に、科学実験の予算は虚空に消えてしまう。

「40年間ではじめて、家畜化実験の将来が見えなくなっています」
  ――8 SOS

 リュドミラたちは西側に助けを求めるのだが…。この求め方が、いかにもソ連の科学者って感じなんだよなあ。西側、それも米国人なら、違う方法を選ぶだろう。

 そういった危機をどうにか乗り越えた21世紀。遺伝子解析技術も進歩した。

 家畜化した動物には、幾つか奇妙な共通点がある。繁殖期が長くなり尾を振るなど振舞いや生理的な変化に加え、姿形も変わるのだ。耳が垂れ鼻づらが短くなり尾が巻き、何よりブチなど文字通り毛色が変わる。これらの謎を、遺伝子解析が明らかにするだろう。

キツネの実験はいずれさらに多くのすばらしい発見を生みだすだろう。
  ――10 遺伝子の激変

 いずれの変化も、彼らが遺伝子内に密かに隠し持っていた能力/性質である。生物とは、どれほど多くの可能性を秘めているのか、ちょっと空恐ろしくなる。

 全般的に「感動的な動物物語」の衣をまとって話は進む。が、時おり「科学実験」の冷たい現実が姿を現す記述がある。例えば雄と雌の数の不釣り合いとかね。それでも、やはり愛らしいキツネたちの姿には理性を溶かされてしまう。ケモノ好きにはお薦めできない。郊外の広い庭付きの家に住み、自由になる時間とお金がたっぷりあるのなら、話は別だが。

 参考までに、この実験の動画を次に示す。リンク先はいずれも Youtube。

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2025年8月22日 (金)

トム・ジャクソン「冷蔵と人間の歴史 古代ペルシアの地下水路から、物流革命、エアコン、人体冷凍保存まで」築地書館 片岡夏実訳

近代都市を成立させているのは、摩天楼や地下鉄や情報ハイウェイではない――冷蔵庫だ。
  ――序

低温を理解するにあたっては、真空が重要な要素になるのだ。
  ――第3章 圧力の発見

ローテクな壺であれハイテクな極低温冷却装置であれ、冷蔵は車輪、印刷、マイクロチップのようなものと肩を並べる人類最大の偉業として称賛されるべきものだ。
  ――第12章 低温の未来

コルクを液体(水素)に落とすと、軽いコルクが浮かぶことなく鉛の固まりのようにまっすぐ沈んだ。液体になっても、水素の密度は非常に小さかったのだ。
  ――第10章 低温を極める

アインシュタインは、ある種の原子、たとえばヘリウムの主要な同位体のヘリウム4は、十分に冷却されていさえすれば、ボソンのようにもふるまうことを明らかにした。そのためには、原子を絶対零度の1700億分の1度上までいやしてやらねばならない。
  ――第10章 低温を極める

【どんな本?】

 私たちの暮らしには、冷蔵庫が欠かせない。また蒸し暑い日本の夏では、エアコンが命綱だ。人類は歴史の黎明期から高温すなわち火を手に入れた。むしろ高温が人類の歴史をもたらした。だが、低温を手に入れるには、長い年月と多くの人々の努力と工夫そして博打が必要だった。

 古代ペルシアの氷室からルネサンス期欧州の錬金術師や科学者、北米や豪州の起業家たちから現代の技術者まで、冷房/冷蔵に挑み、または利用した人々の挿話を語る、一般向けの歴史と科学の解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Chilled: How Refrigeration Changed the World and Might Do So Again, Tom Jackson, 2015。日本語版は2021年9月30日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約278頁に加え、訳者あとがき2頁。9ポイント46字×19行×278頁=約242,972字、400字詰め原稿用紙で約608枚。文庫なら少し厚め。

 文章は比較的にこなれていて親しみやすい。内容も分かりやすい。ただ、ちと説明方法にクセがある。例えば「潜熱」という言葉は使うが、「気化熱」は使わない、など。最近の理科の教科書は、そうなってるのかな?

【構成は?】

 原則として時代ごとに進む。各章は穏やかにつながっているが、美味しそうな所だけをつまみ食いしてもいいだろう、

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  • 第1章 古代の冷蔵法
    マリの王の氷室/氷の都、ペルシア/最古の氷菓子シャルバット/朝鮮王族の冷蔵遺体、モンゴル戦士のアイスクリーム
  • 第2章 冷やす魔法
    王侯貴族と冷たいもの/世界は四元素でできている/錬金術師と水銀と硫黄と塩/城付き魔術師と空気/フランシス・ベーコンの低温実験
  • 第3章 圧力の発見
    ベッヒャーによる物質の再定義/パスカルと真空/ボイル、空気の重さを証明
  • 第4章 温度計と空気
    サントーリオの測温器/進化する温度計/温度計の目盛をめぐる攻防/セルシウス目盛の誕生/世界初の人工冷蔵装置
  • 第5章 熱素ともう一つの「空気」
    物質と熱/熱平衡の解明/生石灰とマグネシアと気体の発見/新たな「空気」の発見/「オキシジェン」誕生
  • 第6章 温度低下を作る方法
    熱量を測る/原始の重さを測る/熱の伝導と動き/馬力攪拌とマグネトー電気機械/永久機関の謎を解く
  • 第7章 氷の王
    チャールズ二世の氷室/氷室とクーデター計画/アイスボックスから氷ビジネスへ/氷輸送船の初出航/通商停止、投獄、米英戦争/アメリカ国内での氷販売開始/アメリカの氷がインドへ
  • 第8章 冷蔵庫の仕組み
    天然氷の終わり/蒸気機関で低温に/冷媒をめぐる試行錯誤/家庭用冷蔵庫の販売開始
  • 第9章 冷蔵がもたらした物流革命
    世界をつなぐコールドチェーン/冷蔵船から鉄道、トラックへ/冷蔵庫がスーパーマーケットを生んだ/冷凍技術の進歩
  • 第10章 低温を極める
    気体を液体にするファン・デル・ワールス力/下がり続ける冷媒温度/超伝導、超流動、ボース=アインシュタイン凝縮
  • 第11章 拡張する低温技術
    エアコンから水爆まで/世界を変えたハーバー法/冷却システムと液体燃料ロケット、MRI、リニアモーター/医薬品、食品、凍土壁に使われる液体窒素
  • 第12章 低温の未来
    燃える氷、海水温勾配のエネルギー利用/旧式の冷蔵技術と金星探査、暗黒物質探究/超知能コンピューター、人体冷凍保存、テレポーテーションも可能に?
  • 訳者あとがき/参考文献/索引

【感想は?】

 前半は歴史物で後半は科学/技術/産業物、といった感じ。全体としては歴史物の印象が強い。

 冒頭に書いたように、人類は歴史の初期から火/高温を操った。だが、低温/冷房や冷蔵は難しかった。それは、金や権力を持つ者だけに許された贅沢だったのだ。逆に言えば、金と権力があれば、少なくとも冷房は手に入った。歴史物としては、様々な工夫が楽しい。

 その一つが、ペルシアのバードギール(→Wikipedia)だ。建物上部の窓から熱い空気を吸いだし、カナート(横井戸、→Wikipedia)から冷たい空気を引き入れる。なんとも賢い工夫である。

ペルシアのバードギールは(略)煙突のような塔を利用して(略)出口は卓越風と反対の方向に向けられている。(略)風が塔のまわりを吹くと、塔の中から空気を引っ張り出す効果が生まれる。
  ――第1章 古代の冷蔵法<

 暑い季節に欠かせないアイスクリームにも、様々な伝説がある。メディチ家からフランス王に輿入れしたカテリーナ・デ・メディチ(→Wikipedia)が、フィレンツェからフランスにもたらした、という伝説だが…

メディチ家の少女がアイスクリームをフランスにもたらした話は、まるっきりの作り話なのだ。
  ――第2章 冷やす魔法

 だそうです。

 などの歴史物語と並行して、科学が熱をいかに扱ってきたか、という物語も綴られる。温度を測る機器は、西欧では遅くとも17世紀にはあった。が、困ったことに…

目盛付き測温器は本当の温度計になる。目盛の起源が何であれ、それはまったく恣意的であり、器具のあいだで相互関係はなかった。そのため温度計制作は標準化を必要とした。
  ――第4章 温度計と空気

 現代のような、世界共通の単位がなかったのだ。ここから摂氏が決まるまでの物語も、紆余曲折があって面白い。

 さて、フロギストンなんてのを想像してた時代だから、学者たちの考え方も今と大きく違う。化学も未発達なので…

ある者はカキの貝殻の「灰」から作れると言い、またある者は石灰岩を「焼く」ことで作ると主張した。(略)当時、同一の物質が外見上異なる原材料から作れることなど誰にもわからなかった。
  ――第5章 熱素ともう一つの「空気」

 いずれの方法でも生石灰を作れるのだが、当時は元素や分子なんて発想はなかったのだ。

 そんな中、なんとか熱を測ろうとする努力が実り始める。

(アントワーヌ・)ラボアジェ(→Wikipedia)が出した結果は、多少はずれていることが多かったが、ともかく何か、つまり熱の定量化を始めたのだ。
  ――第6章 温度低下を作る方法<

 うん、定量化は科学の基本だよね。

 かように科学者たちが努力している間にも、実業家たちは商売に励む。その一人が18世紀終盤から19世紀初頭の米国人フレデリック・テューダー(→英語版Wikipedia)。

 起業家の彼が目論んだのは、氷商売(→Wikipedia)。冬にマサチューセッツで湖や池から採った氷を氷室で保存し、夏に西インド諸島や米国南部で売ろうって発想だ。発想はいいが、先頭走者の常で様々なトラブルに見舞われ、出資者から訴えられて国に帰れなくなったり獄に入れられたりした末に、なんとか事業を成功させる。

アクティブ号の沈没、禁輸、獄中生活、これらはみんな道路のでこぼこにすぎなかった。
  ――第7章 氷の王

 成功者が出れば真似する輩も出てくる。天然氷といえば聞こえはいいが、元は湖や池の氷だから、何が入っているか分からない。採取場所によっては…

 ってな問題を経て、やっと冷却装置の発明へと至る。が、初期の事業は家庭に冷蔵庫を置くのではなく、作った氷を売る形でビジネスを始めた。というのも、装置がデカいのもあるが…

人口冷却装置にはまだ一つの問題があった。爆発しやすいのだ。
  ――第8章 冷蔵庫の仕組み

 冷媒に使いやすい物質には、幾つかの条件がある。1)適切な温度で蒸発すること、2)その際の気化熱が大きいこと、そして 3)取り扱いが楽なこと。当初は 1) と 2) からエーテル・アンモニア・二酸化硫黄・二酸化炭素などを試した末に、フロンにたどりつく。のだが、その顛末はご存知のとおり。

 以降、普及した冷却技術は、世界を変えてゆく。

スーパーマーケットは冷蔵庫登場以前にはありえなかった。これは、客が買ったものをしまっておくのに冷蔵庫が必要だというだけではなく、店自体が生鮮食品を巨大な冷蔵庫に保存する必要があるからでもある。
  ――第9章 冷蔵がもたらした物流革命

 ブラジル産の鶏の胸肉もオーストラリア産の牛肉も、冷蔵庫を備えた貨物船が運んでくるしね。また、加工食品でも冷却技術が活躍している。

液体窒素やドライアイスのような寒剤の主な利用法は、はるかにありふれたもの、粉末スープ、インスタントコーヒー、スナック麺などだ。
  ――第11章 拡張する低温技術

 いわゆるフリーズドライです。

 また、現代の日本には欠かせない天然ガスも、LNGタンカーが液化天然ガスの形で海外から運んでいる。

LNGタンカーは、自己冷却と呼ばれる現象を利用する。タンクはちょうど液体を沸点に維持するのに必要な圧力に保たれる。LNGの表面は常に蒸発して天然ガスになっている。この状態変化がそれ自体を冷やす効果を持つ。
  ――第11章 拡張する低温技術

 終盤では、未来の冷却技術の応用として、あの夢の装置が出てきたり。

元の物体――テレポートした人体も――は、ボース=アインシュタイン凝縮に突入して物質波に変換されると同時に破壊されて死ぬ。反対側では、物質波は正確なコピーを作り出す(少なくともそう考えられている)。
  ――第12章 低温の未来

 現在の私たちは、熱についてよく知っている。暑い/熱いは温度が高く、熱エネルギーをたくさん持っていて、冷たい/寒いは、熱エネルギーが少ない。いずれも「熱エネルギー」の表裏である。だが、昔の人はソコに気が付かなかった、というのが意外だった。熱いと冷たいは、異なる次元の性質だと考えていたのだ。

 などの、昔の人々の考え方や工夫も面白いし、錬金術から科学が生まれ始める頃のフロギストンをめぐる論争と実験の数々も、科学史が好きな人には楽しい。歴史と科学/技術の双方を含む本だが、どちらかといえば技術史が好きな人にお薦め。

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2025年7月30日 (水)

小方厚「音律と音階の科学 ドレミ…はどのように生まれたか 新装版」講談社ブルーバックス

この本の主題は、音楽に使う音の高さである。
  ――はじめに

小さなスピーカーやイヤホーンから低音を聴くとき、実は missing fundamental(→Wikipedia)を聞いているのである。
  ――第3章 音律の推移 閉じない環をめぐって

CDE…とハニホ…は音名すなわち絶対的な音の高さにつけられた名前である。
  ――付録

【どんな本?】

 ドレミ…は奇妙だ。1オクターブを12の音階に分けたと言うが、なら11個あるはずなのに、7個しかない。しかも、分け方が不均一だ。ミとファの間・シとドの間は狭くて、他の半分しかない。なぜ、こんな奇妙な分け方になったのか。他の分け方はなかったのか。

 実は他の分け方もあるのだ。民族音楽には、様々な分け方がある。

 いわゆる12音階は、西洋音楽のためのものだ。それには、西洋音楽ならではの事情がある。

 著者はプラズマやビームを専門とする物理学者である。物理学者らしく、周波数や倍音構成など数学・物理学を駆使して、クラシック・ジャズ・民俗音楽など幅広い音楽や楽器を解析・再構成し、音階の謎に挑んでゆく。

 物理学者ならではのアプローチで、音楽の基礎を見直し、コード進行など音楽理論の背骨にまで迫る、ちょっと変わった音楽の解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 元は2007年8月刊行。2018年5月20日に新装版の第1刷発行。新書版横一段組み本文約260頁。9ポイント26字×26行×260頁=約175,760字、400字詰め原稿用紙で約440枚だが、写真やイラストやグラフが多いので、文字数は7割ほど。

 文章はこなれていて読みやすい。ただし、内容はかなり高度。必要なのは音楽より数学というか算数の能力だ。数式も出てくるが、かけ算・割り算に累乗ぐらいなので、中学生でも理解はできる。ただし割り切れず少数が頻繁に出てくるので、真面目に検算していたらキリがない。また、随所でクラシックや動揺はもちろんジャズやロックなど様々な音楽や楽器の例が出している。Youtube などで検索しているとなかなか読み進められない。

 物理的には薄いが、内容は濃い。覚悟しよう。

【構成は?】

 理系の本に相応しく、前の章を基礎として次の章が展開するので、素直に頭から読もう。

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  • まえがき
  • 第1章 ドレミ…を視る、ドレミ…に触れる
  • 1.1 音楽はデジタルだ
  • 1.2 デジタル楽器とアナログ楽器
  • 1.3 聴覚は「差」ではなく「比」を感じとる
  • 1.4 手製の一弦琴でオクターブを握る
  • 第2章 ドレミ…はピタゴラスから始まった
  • 2.1 ド・ソの協和からピタゴラス音律へ
  • 2.2 音のらせん
  • 2.3 音程の数え方 「度」という単位
  • 2.4 5度円から長音階へ
  • 2.5 旋律、あるいはモード
  • 第3章 音律の推移 閉じない環をめぐって
  • 3.1 ピタゴラスの負の遺産 コンマ
  • 3.2 協和とうなりとウルフ
  • 3.3 ドとミの甘美な響き 純正律
  • 3.4 純正律の泣きどころ 転調
  • 3.5 平均律の功罪
  • 3.6 ミーントーンとウェル・テンペラメント
  • 3.7 純正律を鍵盤で
  • 第4章 なぜドレミ…が好き? 音楽の心理と物理
  • 4.1 2重音の心理と物理
  • 4.2 同時になる2つの音をどう聞くか?
  • 4.3 楽器が出す倍音
  • 4.4 楽音の不協和感から純正律へ
  • 第5章 コードとコード進行 和音がつくる地形を歩く
  • 5.1 3重音のポテンシャル
  • 5.2 長3和音と短3和音
  • 5.3 コード進行の原理
  • 5.4 転調の行き先
  • 第6章 テトラコルド 自由で適当な民族音楽
  • 6.1 西洋音楽と、西洋音楽以外の民族音楽
  • 6.2 音階のユニット箱 テトラコルド
  • 6.3 箱を積んでつくる日本の音階
  • 6.4 ブルースはポピュラー音楽のルーツ
  • 6.5 数十段の音階、微分音階
  • 6.6 旋律打楽器バンド ガムラン
  • 第7章 楽器の個性を生かそう
  • 7.1 楽器と5度円
  • 7.2 弦楽器の奏法、管楽器の構造
  • 7.3 2次元打楽器
  • 7.4 リズム楽器
  • 7.5 電子楽器テルミン
  • 7.6 声こそ最高の楽器
  • 第8章 音律と音階の冒険 新しい音楽を求めて
  • 8.1 そっくりメロディからの解放
  • 8.2 平均律だからできること
  • 8.3 純正律をさらに追及すれば
  • 8.4 12音ではない平均律
  • 8.5 純正律のように響く平均律
  • 8.6 オクターブからの解放
  • 8.7 音律と音階の将来
  • 付録/参考文献/索引

【感想は?】

 基本的には音階の本である。なぜ12音階になったのか、なぜ平均律なのか、他の音階はあるのか、などを探りつつ、なぜかコード進行など音楽理論の根本にまで話題は広がってゆく。

 よく言われるように、現在の音楽はたいてい平均律に支配されている。

隣り合う音高の周波数比が均一な音律を平均律と言う。
  ――第1章 ドレミ…を視る、ドレミ…に触れる

 ギターのフレットが分かりやすいのだが、フレット間は根元つまり高音部に行くほど狭くなる。この狭まり方は規則的で、前のフレットの0.943874倍、つまり1/(2の12乗根)である。こうすると、一つフレットを上げると音も半音高くなる。弦(が鳴る)楽器は弦が短いほど音も高くなるからだ。

今日のような鍵盤は遅くとも15世紀にはつくられていたが、対数が普及したのは17世紀以降である。数学で対数という概念が確立する以前に、音楽ではこれを先取りして鍵盤に対数目盛を導入し、演奏を容易にしていたのだ。
  ――第2章 ドレミ…はピタゴラスから始まった

 確かチェンバロ(ハープシコード)が、それぐらいかな? オルガンはもっと古いけど、鍵盤型ではないかも。あと、ハープが分かりやすいか。

 とまれ、オルガンやピアノの鍵盤には、白鍵と黒鍵があり、その並び方は変だ。ミとファ・シとドの間には、黒鍵がない。にも拘わらず、五線譜じゃ他の音と同じように書く。だもんで、短3度とか長3度とかの面倒くさい言い方になる。

はっきり言って、音程の数え方は合理的ではない。
  ――第2章 ドレミ…はピタゴラスから始まった

 いやまったく。この辺を配慮してか、本書ではたまに短3度を3半音,長3度を4半音と書いたり。ギターやウクレレを弾く人は、3半音の方が分かりやすいよね、要は3フレットだから。

 さて、2章と3章では、元の音の周波数に3を掛けて2(または4)で割って…を繰り返してピタゴラス音階を作り、または3か5を掛けて2(または4)で割って…を繰り返して純正律の12音階を作ってゆく。なぜ3と5か、というと、二つの音を重ねた時、周波数が単純な整数比だと響きが心地よいから。

 ただ、ピタゴラス音階も純正律も、1オクターブは正確な2倍とならない。また、元の音(例えばド)と他の音(例えばソ)は割り切れていいんだが、双方を半音上げると割り切れずうなりが起きたりする。

うなりに起因するウルフ(→英語版Wikipedia)が純正律の泣きどことなった。
  ――第3章 音律の推移 閉じない環をめぐって

 ハーモニーをつけず単音でやってる時はいいんだが、複数の楽器で共演したり、ギターやピアノなどでコードを弾くなら、これは嬉しくない。だもんで、どの音程でもソレナリに重ねられる平均律が支配的になったのだ。バイオリンやトロンボーンなど自由な音程を出せる楽器はいいけど、ギターなど出せる音程が決まってる楽器は対応できない。つかピアノのせいなんだけどね。

 とはいえ、ハマれば純正律のハーモニーは美しい。ってなワケで、技術でどうにかしよう、なんて発想も。

このプログラム(Hermode Tuning)を搭載した電子楽器は、演奏中のコードの周波数比をその都度純正律に最適化する。
  ――第8章 音律と音階の冒険 新しい音楽を求めて

 宮内悠介の某作品(→ネタバレ)にそんな楽器が出てきたが、現実だったのか。もっとも、電子楽器なのでクラシックの奏者やファンにはウケが悪いそうな。とはいえ、現代の技術ならリアルタイムでサンプリングしてピッチを調整しアンプで再生、なんて事もできそうな気が。

 さて、他の周波数を含まない純音なら話は単純なんだが、大抵の楽器は倍音を含む。2倍音は1オクターブ上だが、3倍音は1オクターブ上の5度になる。そんな倍音も含めて合う音を探すと、使える音は限られてくる。ロックじゃ、特にリフでパワーコート(→Wikipedia)大流行りだが…

Cと最も協和するのはGだが…
  ――第4章 なぜドレミ…が好き? 音楽の心理と物理

 と、ちゃんと理由があるのだ。すんげえ納得。

 そのロックの基本は3コードだ。これについても、本書はちゃんと理屈をつけてくれるから嬉しい。

調の主音を根音とする和音を主和音、主音から完全5度上を根音とする和音を属和音、完全5度下を根音とする和音を下属和音という。あるいはそれぞれトニック、ドミナント、サブドミナントという。
  ――第5章 コードとコード進行 和音がつくる地形を歩く

 トニックがCならドミナントはGでサブドミナントはF。だからギター初心者はFで苦しむのだ。本書の終盤では、コード進行の基礎から応用まで駆け足で語り、例として ジョン・コルトレーンの Giant Steps(→Youtube)などが出てくる。

 さて、12音階から7つの音を取り出したのがドレミ…だった。別の取り出し方の例として、ドビュッシーの Syrinx(→Youtube),ジャコ・パストリアスの Opus Pocus(→Youtube)などの例も。

 もちろん、12音階とは異なる音階もある。本書では日本の民謡やブルース音階の他に、なかなかフリーダムな音階も出てくる。

ガムランの個々の楽器の調律の違いが、そのセットの音楽的な個性を生む。1つの村には1つの調律、あるいは音律がある。
  ――第6章 テトラコルド 自由で適当な民族音楽

 という事で、一言でガムランと言っても、村によって音律は様々なのだ。この原因の一つは、ガムランの主な楽器が打楽器である点だ。弦楽器や管楽器は音の元が一次元の弦や管なのだが、打楽器は二次元なため、倍音構成が異なり、西洋風の音階にうまく収まらないのだ。

直方体の振動スペクトルには、(略)整数倍波はない。あの手この手で管楽器・弦楽器と共演できる程度にまでスペクトルを改変した結果が現在のマリンバ、ビブラフォンである。
  ――第8章 音律と音階の冒険 新しい音楽を求めて

 木琴って構造は単純そうだけど、実は工夫があるんだなあ。いや知らないけど。

 他にも終盤では12音以外の平均律で、16音・17音平均律なんてのも試してる。ここでもロックな人は独特で。

16音・17音平均律を聞いた人の約2割は、重音のつくるうなりを不快と感じた。この不快感は、聞くだけが趣味のクラシック音楽音楽ファンに最も強く、ロックファン・ロック演奏家はまったく問題にしないようであった。
  ――第8章 音律と音階の冒険 新しい音楽を求めて

 ロックな人は日頃から歪んだ音に慣れてるからか、アーミングやチョーキングでズレた音も楽しむ姿勢が身に付いてるからか。他にも Youtube で "equal temperament" で検索すると、様々な平均律の音楽が見つかります。

 音楽を扱いつつも、中身は掛け算や割り算や対数そして周波数構成など、理屈から攻めていくアプローチは実に独特だ。だが、いわゆる「理系脳」な人には、こっちの方がスンアリと頭に入るのではないかと思う。音楽が好きで、特に斬新な音楽を探している人にお薦め。

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2025年7月 7日 (月)

アンドリュー・スチュワート「情報セキュリティの敗北史 脆弱性はどこから来たのか」白揚社 小林啓倫訳

情報セキュリティの重要性は高まる一方だが、それを実現するための取り組みはまだ道半ばだ。情報セキュリティの重大な欠陥が常態化している上、それは深刻な構造的問題に根ざしている。
  ――プロローグ 3つの汚名

現代における「ハック(Hack)」のもっとも初期の用法では、この言葉は、創造的な方法で機械を操作したり、変更を加えたりすることを意味していた。
  ――4 ドットコム・ブームと魅力的なフィードバック・ループ

パスワードに代わるものを広く普及させようとする試みは、すべて失敗に終わっている。
  ――6 ユーザブルセキュリティ、経済学、心理学

情報セキュリティの歴史を長い目で見ると、今日の考えの多くが、深刻な歴史の軽視による空白から生まれていることがわかる。
  ――9 情報セキュリティの厄介な本質

【どんな本?】

 Windows を使っていれば「更新してシャットダウン」はお馴染みだ。また、幾つかの有名なアプリケーションも、時おり最新版に自動更新する。これらの「更新」の多くは、バグを直したり、脆弱性の穴を塞いだりしている。優れたアフターサービスだとも言えるが、もともと欠陥品を出したんだろと言う人もいる。Google で「個人情報流出」で検索すると、連日のように事件が起きているのがわかる。

 なぜこんなにも、コンピュータの情報セキュリティは甘いのか。その理由を、著者はコンピュータの歴史から探ろうとする。その黎明期から、情報セキュリティは問題視され続けてきたのだ。

 そしてスマートフォンが普及した今、誰もがコンピュータの情報セキュリティと付き合っていく必要がある。

 攻撃する者と守る者、そして脆弱性を利用して利益を得ようとする者。様々な思想や立場の者が織りなす、情報セキュリティを巡る波乱万丈のドラマを描く、ホットなドキュメンタリー。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は A Vulnerable System: The History of Information Security in the Computer Age, by Andrew J. Stewart, 2021。日本語版は2022年10月26日第一版第一刷発行。私が読んだのは2022年11月24日発行の第一版第三刷。売れたなあ。単行本ハードカバー縦一段組み本文約314頁に加え、訳者あとがき6頁。9ポイント45字×18行×314頁=約254,340字、400字詰め原稿用紙で約636枚。文庫ならちょい厚め。

 文章は比較的にこなれている。コンピュータを扱う本だけに、どうしても技術的な話も出てくるし、その一部は相当に突っ込んだ話になる。例えばバッファオーバーフローの手口とか。が、分からなければ読み飛ばしても問題はない。「なんか技術的に難しい話なんだな」程度に了承していれば充分。というか、必要なのはIT知識より読み飛ばす読書技術だ。それより、パソコンを使って意味不明な専門用語に悩まされた経験があると、切実さが増すだろう。

【構成は?】

 ほぼ時系列順に進むので、素直に頭から読もう。

クリックで詳細表示
  • プロローグ 3つの汚名
  • 1 情報セキュリティの「新次元」
    コンピュータの登場/ランド研究所
  • 2 研究者たちの期待、成功、失敗
    ウェア・レポート/CIAの3要素/「安全なシステム」とは?/秘密の通信
  • 3 インターネットとウェブの誕生、不吉な予兆
    電子メール/世界初のコンピュータウィルス/UNIXの安全性とファイアウォール/ネットワーク脆弱性スキャナ「SATAN」
  • 4 ドットコム・ブームと魅力的なフィードバック・ループ
    ウェブの脆弱性/「ルート」による攻撃プログラムの公開/セキュリティ製品が抱えるジレンマ/善いハッカー、悪いハッカー
  • 5 ソフトウェアセキュリティと「苦痛なハムスターホイール」
    OSのセキュリティ/ビル・ゲイツのメモ/マイクロソフトはなぜ成功したのか/オラクルの誤算とアップルの躍進
  • 6 ユーザブルセキュリティ、経済学、心理学
    「なぜジョニーは暗号化できないのか」/騙されやすい人たち/パスワード問題/情報セキュリティの経済学/情報セキュリティの心理学
  • 7 脆弱性の開示、報奨金、市場
    ゼロデイ脆弱性/いかに開示するか/脆弱性の売買/アピールのためのハッキング
  • 8 データ漏洩、国家によるハッキング、認知的閉鎖
    個人情報の流出/米・中・露のハッキング戦争/偽りの現実
  • 9 情報セキュリティの厄介な本質
    /結局、どのセキュリティ対策が必要なのか?/「賢者の石」は存在しない/本質的複雑性と偶有性複雑性/アカデミア・コミュニティ・産業界/いかに守るか?/合理的な行動とは?
  • エピローグ 過去、現在、あり得る未来
  • 謝辞/訳者あとがき/註/主要参考文献/索引

【感想は?】

 コンピュータの歴史から大雑把な流れを把握し、歴史的なパターンを読みとる。そういう事を、著者は読者に期待している。少なくとも、プロローグとエピローグからは、そう読み取れる。

 が、読後の感想はだいぶ違う。なにせ出てくるエピソードがあまりに豊富で、かつそのどれもがやたらと面白すぎる。そのため、やたら起伏に富んだ連作ドラマを見たような気分になってしまう。

 そもそも、完全な情報セキュリティなんて無理なんじゃね、とも感じる。黎明期のスタンドアロンでかつ一度に一人しか使えないマシンなら、マシンに触る人を監視すればよかった。だが一つのマシンを複数の人が同時に使うTSS(→Wikipedia)だと、問題は深刻になる。他の利用者との密かな通信を、どうやって防ぐか。この秘密通信の手口も、SF小説ばりで実に楽しい。

 それはともかく、初期のコンピュータ業界はセキュリティを軽んじていた。それにはちゃんと理由がある。

コンピュータのOSにマルチレベルのセキュリティシステムを実装するためのコストは、開発費の2倍に達すると見積もられていた。
  ――2 研究者たちの期待、成功、失敗

 ぶっちゃけ金がかかるからだ。売る側もそうだが、買って使う側も金がかかる。それも金庫のように一回買えばいいってモンじゃない。警備員のように、継続してカネが出ていくのだ。しかも、誰が来るかわからないインターネットのヤバさは、使う者が限られるTSSとは桁が違う。そんなインターネットに公開し、かつセキュリティにカネを出す者は限られていた。

オンラインポルノを提供するサイトのセキュリティは、米国の政府機関、銀行、信用調査機関、新聞が所有するサイトのセキュリティよりも高いことが判明したのだ。
  ――3 インターネットとウェブの誕生、不吉な予兆

 あー、確かにポルノは利用者の個人情報を守らないと信用にかかわるしねえ。まあ、これには、情報セキュリティならではの面倒くさい事情もあるのだ。

企業はセキュリティに関する専門知識を持たず、そのためセキュリティ製品が提供する機能が必要だった。しかしセキュリティの専門知識を持たないがゆえ、提供された製品を評価することができなかった。
  ――4 ドットコム・ブームと魅力的なフィードバック・ループ

 WIndowsファイアウォールとか、細かく設定してます? デフォルトのまま使ってる人も多いよね。セキュリティ製品も「とりあえずNortoon入れとくか」的な感じの人が大半だと思う。企業だって、決定権を持つ人は必ずしもコンピュータの専門家じゃないし。

 その Windows も、結構な頻度で「更新してシャットダウン」が必要になる。あれはバグを直したり脆弱性の穴を埋めたりしている。これをギョーカイ用語でパッチと呼ぶ。「穴を塞ぐんだから嬉しいよね」と思うでしょ。でもね。

パッチは、ハッカーに対してプログラムのどこを見ればよいかを示す、ビーコンの役割を果たすのである。
  ――5 ソフトウェアセキュリティと「苦痛なハムスターホイール」

 パッチとは「○○~××を◇◇に置き換える」作業だ。だから悪者がパッチを見れば「○○~××に穴がある」とわかる。パッチは弱点を防ぐと共に、悪者に弱点を教えてしまうのだ。そんなワケで、更新プログラムはなるたけ早めに適用しましょう。

 そもそもバグや脆弱性のある製品を出すなよ、と考える人もいるだろう。自動車や白物家電なら、欠陥製品はリコールの対象だ。なぜコンピュータ関係、特にソフトウェアは許されるのか? それは、ソフトウェアの性質にある。

2004年にマイクロソフト・プレスが出版した本によれば、1000行のコードには通常2~20個のバグが含まれる
  ――7 脆弱性の開示、報奨金、市場

 自動車や白物家電に比べ、ソフトウェアは部品の数が桁違いに多いのだ。十進数で2~4桁は違う。その分、一度作っちゃえば量産は簡単で安上がりなんだけど。

 そんな具合だから、穴を突いて悪さしようって奴が後を絶たない。ケチな迷惑メールなんて可愛い方で、国家ぐるみで攻撃を仕掛ける連中も多い。

中国と同様に、ロシアもハッキング能力の向上に多大な資源を投入している国家である。「ファンシーベア」は、ロシアの軍事諜報機関のGRUと関係があるとされる。
  ――8 データ漏洩、国家によるハッキング、認知的閉鎖

 このファンシーベアの尻尾を掴む元となったネタってのが、笑っちゃうぐらいにお粗末だったり。

 さて、本書が集めたネタの多くを提供したのは、インターネットでありwwwでありunixだったりする。昔の web は http だったが、今は https が主流だ。つまり、昔の web はセキュリティなんか全く考えちゃいなかったのだ。だって CERN の研究者が科学論文や研究データを共有するために考えた仕組みであって、決済や出会い系で使うなんて思いもしなかったのだ。

データ漏洩を防ぐのを難しくしているのは、構造上の問題がその根底にあるからだ。インターネット、ワールド・ワイド・ウェブ、UNIXオペレーティングシステム、TCP/IPプロトコルスイートは、セキュリティを考慮に入れて設計されたわけではない。
  ――エピローグ 過去、現在、あり得る未来

 上の引用に挙げたのは技術的なモノだが、他にもフィッシング・メールや偽造サイトや出会い系のサクラなど、不注意や助平根性のスキを突く手口もある。真面目に情報セキュリティを考えると、心理学や(行動)経済学のまで手を広げていくハメになる。お話としては面白いが、セキュリティ担当者は大変だ。

 セキュリティ担当者なら身につまされるネタも多いだろうが、単に三面記事的なエピソードの集成としても充分に楽しめる。真面目な姿勢で書かれた本だが、むしろ野次馬根性が旺盛な人にこそお薦め。

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2025年6月22日 (日)

デニス・プロフィット+ドレイク・ベアー「なぜ世界はそう見えるのか 主観と知覚の科学」白揚社 小浜杏訳

私たちは世界を見ているのではない。「私たちが見る世界」を見ているのだ。

本書でみなさんにお伝えしないのは、「知る」ためには、その前に「行う」こと――自分の身体を用いて、意図的に行動すること――が必要だという点である。
  ――おわりに 歩くことで道はできる

難解な言葉遣いをするパネリストほど観客に意見を変えさせる割合が低く、話し方が具体的なパネリストほど説得力を持つ
  ――第4章 考える

私たちは流暢性によって、容易さを真実と取り違える過ちを犯しやすい。
  ――第4章 考える

嫌悪感を抱きやすい人は、政治的には保守派なことが多い。
  ――第5章 感じる

結束力を高める手っ取り早い方法は、スケープゴートを選んで糾弾することだ。
  ――第8章 同一化する

【どんな本?】

 今まで、心理学者たちは、すべての人間に共通する法則・性質を求めてきた。だが、本書の著者たちは、その逆を行く。往々にして、同じモノを見ても、人により反応は異なる。例えば同じ坂を見上げ、角度を尋ねた際、人により見積もりが異なってくる。だけではない。同じ人でも、状態によっても見積もりが違ってくるのだ。

 なぜ違いが生じるのか。見積もりは何を意味するのか。

 こういった疑問を追っていくうちに、著者たちは従来の心理学とは違った発想にたどり着く。ヒトは世界を客観的に見るのではない。それぞれの立場・状況で、見えてくる世界は違ってくるのだ。

 従来のヒトの認知・認識の思い込みを覆し、体験することの意味・意義を問い直す、一般向けの解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Perception: How Our Bodies Shape Our Minds, by Dennis Proffitt and Drake Baer, 2020。日本語版は2023年9月13日第一版第一刷発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約276頁。9.5ポイント44字×19行×276頁=約230,736字、400字詰め原稿用紙で約577枚。文庫なら普通の厚さ。

 文章はこなれていて読みやすい。内容もわかりやすい。敢えて言えば、米国での例が多いことぐらいだが、「サンフランシスコは坂が多い」「大学アメリカン・フットボールは人気がある」ぐらいを知っていれば充分。

【構成は?】

 原則的に前の章を踏まえて後の章が展開するので、素直に頭から読もう。

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  • はじめに おれは電熱の肉体を歌う
  • 第1部 行う
  • 第1章 発達する
    歩くことを学ぶ/視覚の機能をとらえなおす/視覚的断崖とゴンドラ猫/手でつかめば世界が把握できる/ゾーンに入る
  • 第2章 歩く
    坂の傾斜はどのように知覚されるのか/歩行が生んだ人類の世界/表現型に沿った生き方/世界は伸び縮みする
  • 第3章 つかむ
    人間の手(と行為)は心を宿している/手が語る人類の歴史/見えないのに見えている/手が注意を誘導する/聞き手が善悪を決める
  • 第2部 知る
  • 第4章 考える
    ガットフィーリング/思考と生体エネルギー/流暢性/多様性が集団意思決定において重要なのはなぜか/フェイクニュースと身体化された思考
  • 第5章 感じる
    情動を知覚する/やれ、やるな/社会的痛み/感情の誤帰属とうつ/恐怖を感じると世界が歪む
  • 第6章 話す
    口と手のつながり/手を使って話す/インデックスは音声で作られる/身体化された語源と記号設置地図/ボトックスと読解力の関係/動きによる読解
  • 第3部 帰属する
  • 第7章 つながる
    心地よい接触がないと生きられない/皮膚は社会的器官である/MRIで手をつなぐ/女の存在が重荷を軽くする/母親と他者/絆の力/認知的加齢と社会的ネットワーク
  • 第8章 同一化する
    帰属する集団でものの見方が変わる/他人種効果と没個性化/物語が持つ力/団結力の光と影
  • 第9章 文化に同化する
    名誉の文化/文化相対主義/分析的思考と包括的思考/中国 稲作文化と麦作文化/社会的アフォーダンスと関係流動性
  • おわりに 歩くことで道はできる
  • 謝辞/推薦図書/訳者あとがき/原注/索引

【感想は?】

 「動物には何が見え、聞こえ、感じられるのか」と同じ、環世界の本だ。ただし、本書は人間だけを扱う。

 扱う範囲は狭くなっているが、読者に近いネタなため、感じるセンス・オブ・ワンダーは同じぐらいだ。人によっては、本書の方がより強く感じるかしれない。

 さて、先に触れた坂を見上げる話だ。タネは簡単。日ごろから体を鍛えている者は緩く感じ、なまっている者はキツく感じる。また、身軽な者は緩く感じ、重い荷物を持つ者はキツく感じる。

 つまり、「この坂を登るのがどれぐらいシンドイか」を見積もるのである。

坂の傾斜やグラスの大きさに至るまで、人間が知覚するものはすべて、私たち個人がどのような人間かに左右されるのである。
  ――はじめに おれは電熱の肉体を歌う

 ここで重要な点が一つある。人は客観的に坂を見ているのではない。「坂を登る」という行為を通して…いや脳内でシミュレーションして角度を見積もる、という点だ。つまり、自分が世界に働きかけることで、世界を認識するのだ。

どんなことを、どれくらいうまくできるかによって、人間の環世界が形作られていくのだ。
  ――第1章 発達する

 だから、見積もりは状況によっても違ってくる。重い荷物を持って登るのはシンドい。だから、より急だと見積もる。自分の状態・状況で、「今、自分が登ったら、どれぐらいキツいか」を考えるのだ。

私たちは「自分が世界にどのように適応しているか」を見ているのである。
  ――第2章 歩く

 脳だけで考えているのではない。体全体で考えているのだ。それどころか…

銃を手にしていると、私たちは射撃する存在へと姿を変え、実際には無害な物体を持っている他者を目にしても、銃器を構えていると錯覚しやすくなるのである。
  ――第3章 つかむ

 なんて困った性質もある。体だけではない。道具を持つと、その道具に応じて世界認識も変わるのだ。「金槌を握ると、何でも釘に見えてくる」って奴だ。自分が何をできるかで、ヒトは世界を認識するのである。初めて自転車を手に入れた時、世界が広がったような気がしたのは、私だけではあるまい。だけではない。

人間は行為をなすことで世界を知る。
  ――第3章 つかむ

 これについては、乳児が「おすわり」「はいはい」「あんよ」と発達するにつれ、距離感などが変わってくる、なんて話が面白かった。ヒトは世界に働きかけ、そこからフィードバックを得て、少しづつ世界を知ってゆくのだ。

 そう、ヒトは体を介して世界を知るのである。この性質は何かを伝える際にも関係があり、例えばより強く訴えかける文章を書くには…

読者にとって最もわかりやすいのが、身体性があり、具体的で、イマジズム(写実主義、→Wikipedia)的な文章だ。
  ――第6章 話す

 身体性というと難しそうだが。例えば「怖い」とするより「背筋が凍る」のように、肉体の反応や動きで表すのだ。ちなみに映画の脚本じゃ、コレはご法度だそうです。恐怖をどう表現するかは、役者の領分なんで(→「ハリウッド脚本術」)。

 人間は社会的動物だとよく言われる。そのためか、状況や状態は「自分の周囲にどんな人が居るか」でも変わってくるのだ。

愛する人の手を握っていると、恐ろしいことに直面しても、人は安心感を抱けるのである。
  ――第7章 つながる

 人が群れると暴走しがちなのは、こういう性質のせいかもしれない。ただし、例えば政治集会など、同じ傾向の人々・似通った人々が集まった時は、だ。そうではなく、雑多な人々が集まると、これまた異なった効果が表れる。

自分と同類でない人々に囲まれているときのほうが、人は思慮深く行動するのである。
  ――第4章 考える

 野球やサッカーなどのスポーツ観戦のホームかビジターか、みたいなモンだろうか。

 さて、終盤では、現在の自分の体だけでなく、時代を超えた集団の文化の影響も出てくる。

「家畜が盗まれやすく、警察が機能していない地域では、どこでも名誉の文化が生じます。世界中の牧畜文化で見られる現象です」
  ――第9章 文化に同化する

 ここでは麦作文化と米作文化の違いなどもでてきて、かの名著「肉食の思想」を彷彿とさせる議論も出てくるのもエキサイティングだ。

 認知科学に興味がある人はもちろん、エイリアンの文明・文化やロボットの思考方法などの妄想に浸るSFファンにもお薦め。

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2025年6月13日 (金)

ジョン・マッケイド「おいしさの人類史 人類初のひと噛みから『うまみ革命』まで」河出書房新社 中里京子訳

本書は風味の略歴である。記述は地上の生命の夜明けから始まり、現在に至って終わる。
  ――第1章 舌の味覚分布地図

「視覚と味覚のシグナルは相互作用するのです」
  ――第8章 後期重爆撃期

【どんな本?】

 私たちは、生存競争の過程で風味を味わう能力を身に付けた。カロリーの高い果糖を多く含む果実は、おいしい。同じ理由で、脂肪も私たちを虜にする。逆に、毒の可能性があるモノは苦い。だから、私たちはソレを避け…るとは、限らないのが奇妙な所だ。例えば、コーヒーを好む人は多い。野菜も好き嫌いが分かれる。ジョージ・H・W・ブッシュ元米大統領はブロッコリーが嫌いだった。

 長らく味覚は甘味・酸味・塩味・苦味の四つと思われていたが、最近になってやっと旨味が認められた。だが、味の素そのものには、ほとんど味がない。

 私たちを惹きつけ、時として惑わす「風味」について、進化の過程から近年の分子ガストロノミーまで、科学ジャーナリストが体当たり取材で紹介する、美味しくて楽しい一般向け科学ノンフィクション。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Tasty: The Art and Science of What We Eat, by John McQuaid, 2015。日本語版は2016年2月28日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約267頁に加え、訳者あとがき4頁。9.5ポイント47字×19行×267頁=約238,431字、400字詰め原稿用紙で約597枚。文庫なら普通の厚さ。

 文章は比較的にこなれていて親しみやすい。内容もわかりやすい。なにせ食べ物の話だしね。敢えて言うなら、出てくる料理や食材は洋風なモノが多いぐらいか。

【構成は?】

 各章はほぼ独立しているので、美味しそうな所だけをつまみ食いしてもいい。

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  • 第1章 舌の味覚分布地図
  • 第2章 風味の誕生 五つの食事をめぐって
  • 第3章 苦味の遺伝子
  • 第4章 風味の文化
  • 第5章 甘味の誘惑
  • 第6章 味と嫌悪感
  • 第7章 辛さの探求
  • 第8章 後期重爆撃期
  • 第9章 美味のDNA
  • 謝辞/訳者あとがき/参考文献/原注

【感想は?】

 「風味は不思議」や「『おいしさ』の錯覚」と同じ傾向の本だ。だから、その2冊が好きな人なら気に入るだろう。

 よく言われるように、「味わう」感覚は、進化の過程すなわち生存競争の中で身に付けた能力だ。それだけに、基本的な能力でもある。

哺乳類の退治の大脳新皮質において最初に発達する領域は、口と舌を司る部分だ。
  ――第2章 風味の誕生 五つの食事をめぐって

 カロリーの高い甘い果実や脂肪を求め、または苦味で毒を避けるための能力なのだ。果物の甘味は果糖で、私たちを強く惹きつける。しかも、ダイエット中の人には少々困った性質があり…

果糖は、空腹感を刺激するグレリンというホルモンのレベルを上昇させるようにうかがわれる。糖分を摂取することは、わたしたちを満足させるどころか、もっと欲しいという気持ちにさせるのだ。
  ――第5章 甘味の誘惑

 「甘いモノは別腹」ってのは、本当なのだ。食後のデザートに甘味が出てくるのも、そういう理由だろう。さて、甘いモノの代表はバニラアイス。あの香りは食欲をそそる。特にこれからの暑い季節は。それもヒトの感覚の性質で…

味とにおいは風味にすんなり混じるため、感覚同士が融合して、区別がつかなくなる。(略)たとえば、香料のバニラは通常、甘いと感知される。
  ――第4章 風味の文化

 そういえば「甘い香り」なんて言葉もあるなあ。食欲をそそるのは、他にもカレーの香りとか肉が焼ける匂いとか。とんこつラーメン屋から漂う匂いは、人によって好みが別れるだろうなあ。

 これらは経験によって得た感覚だ。苦味も初期値は「嫌なモノ」だ。なにせ毒を避けるための感覚だし。そして、世の中に毒になるモノは多い。そのためか…

研究者たちはこの(苦味を感じる)遺伝コードをT2R1と名付けた。それからの数か月間に、さらに16個の遺伝コードが発見され、現在では23個まで判明している。
  ――第3章 苦味の遺伝子

 と、苦味を感じるセンサーは、種類が異様に多い。だけでなく、人により感度が大きく異なる。これは遺伝子で決まっているのだ。特に敏感な人を、本書はスーパーテイスターと呼んでいる。オトナになっても苦味が嫌いな人は、スーパーテイスターなのかもしれない。

 これは苦味だけでなく、脂質への感受性にも言える。なお、今のところ、脂味は認められていないが…

最近の研究によると、脂質は実際に第六の基本味だという。舌には資質を感知する機能が存在し、独特の快い感覚を引き起こすというのだ。
  ――第8章 後期重爆撃期

 と、ヒトはちゃんと脂を感じる能力があるのだ。どうりで背脂ギトギトなラーメンは旨いはずだ。旨いのはいいが、やはり体重は気になる。これまた人によりけりで…

一部の人は他の人より、脂質に対する感受性が数千倍も高い。一方、脂質に対して鈍感な人は太りやすい。
  ――第8章 後期重爆撃期

 鈍い人はなかなか満足せず、マシマシで頼むためどうしても太ってしまうのだ。この太りすぎは人類全体の問題で、特に米国で目立つ。これはカロリーだけでなく、味付けの問題もある。

(米国から)東京に着いた時に、寿司のように軽くデリケートな風味を持つ料理を味わえるようになるには、三日待たなければならない。
  ――第9章 美味のDNA

 日ごろからケチャップやマヨネーズなどの調味料たっぷりで味付けの濃い食事ばかりなので、舌が馬鹿になっているのである。ちなみにこれを語っているのは頻繁に東京に出張するビジネスマンで、スラムの住人じゃない。そういう階層の人でも、米国の食事はアレらしい。寿司が流行っているのも、「俺は味が分かるんだぜ」的な見栄が混じっているから、かも。

 そんな濃い味付けで血圧が上がった人は、医者から「出汁を効かせて塩を抑えろ」と言われる。出汁の正体グルタミン酸=旨味は、これまた奇妙な性質があって。

水に溶かした純粋なグルタミン酸は、ほとんど無味だ。だが、他の風味と合わせると旨味成分が活性化し、脳をスキャンしてみると、砂糖のものに似た脳活動パターンが示される。
  ――第4章 風味の文化

 今風に言えば、バフをかけるんだね。少しの塩がガツンと響くのだ、出汁を効かせると。ただ、単体だと味がないので、発見が遅れたんだろう。

 など、何かと大味な米国では野菜の類も災難で、風味が失われつつある。というのも、主な評価基準が重さ・大きさに加え硬さ(輸送しやすいから)で、味や香りは軽んじられているためだ。だが、これには例外もある。ワインだ。

ワインは、大量生産されたトマトが抱えるような問題に直面したことは一度もない。
  ――第9章 美味のDNA

 なぜかワインだけは繊細に品質を問われるのである。呑兵衛、つまみにも気を遣えよ。

 さて、「風味は不思議」や「『おいしさ』の錯覚」と本書を比べて嬉しい点の一つは、進化の視点が入っていることだ。もう一つは、辛さを扱っている点にある。

 辛味は味覚ではない、と言われる。だが、大抵の調理場や食卓には胡椒や七味が置いてある。料理に辛味は必須なのだ。世の中には激辛に挑む人も居る。本書に登場するのは、単なる激辛マニアではない。自らトウガラシを品種改良して、最も辛いトウガラシを生み出そうとする者たちである。

 それはともかく、辛味の分類にはうなずける点が多い。長い引用だが許してほしい。

トウガラシの辛さには三つの要素がある。
第一の要素はタイムラグに関するものだ。(略)最初のひと噛みから辛さを感じるまでには時間差がある。この差はトウガラシの品種によってさまざまだ。ハバネロの時間差はとりわけ長く、15秒から20秒もある。
第二の要素は消散だ。タイ料理で使われるトウガラシの辛さは急速に消えやすいが、幽霊トウガラシのような品種の辛さは、ずっと後までまとわりつく。
第三の要素は、燃えるような辛さの質が品種によって違うことだ。アジアのトウガラシの辛さは突き刺すように感じられるが、アメリカ南西部のトウガラシの辛さは大味だ。
  ――第7章 辛さの探求

 私はこの「タイムラグ」に強く頷いた。何回か、これで痛い目を見たことがある。「激辛」と言われるカレーに挑んだ時などだ。最初の一口は、「あれ、意外と平気じゃね?」と感じる。二口目も、まだ大丈夫。だが、三口目・四口目あたりで、ジワジワと効いてくるのである。何度これで地獄を見たことか。

 この章ではもう一つ、過去の人類の食生活を調べる学者の話が出てくる。貝塚のようにゴミが溜まっていれば分かりやすいが、それは骨や貝殻が長く残るからだ。野菜や穀物などの植物は痕跡が残りにくい。が、最近の科学は凄い。

多くの植物は、「デンプン粒」と呼ばれる極微の“アンプル”に炭水化物を蓄える。それは指紋に似ている。デンプン粒は、それを生み出す植物によってサイズも形も異なっているのだ。さらにそれは、人間の消化器官を通り抜けて化石化する。(略)さまざまなデンプン粒は、特定の場所と時間に執られた食事、スナック、食生活を活写してくれるのだ。
  ――第7章 辛さの探求

 …はい、つまり、排泄物を調べるんですね。学者も大変だなあ。

 とかに加え、人の性格や信条も、食べ物の好き嫌いと関係あるっぽい、なんて話も出てくる。

脳のスキャン結果は、共感力が強い人ほど嫌悪感を抱きやすく、島皮質が明るく発火することを示している。
  ――第6章 味と嫌悪感

 他にも鰹節に倣って豚節を作るとか酒の起源とか、教科書に載らない歴史の裏話や奇想天外な難事に挑む人々の話など、雑談のネタは満載だ。科学と雑学そして美味しい物が好きな人にお薦め。ただしダイエットには向かないので、そのつもりで。

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