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2024年11月25日 (月)

ジョフリー・ウェスト「スケール 生命、都市、経済をめぐる普遍的法則 上・下」早川書房 山形浩生・森本正史訳

動物、植物、生態系、都市、企業のほぼすべての測定可能な特徴は、大きさや規模と共に定量的にスケーリングする。
  ――第1章 全体像

0.65eVの活性化エネルギーが司る、ATP生産の指数関数的依存は、単純に言いかえれば温度が10℃上がるごとに生産速度が倍になる。
  ――第4章 生命の第四次元:成長、老化、そして死

私たちは言わば加速し続ける社会経済のルームランナーで生きているのだ。
  ――第10章 持続可能性についての大統一理論の展望

【どんな本?】

 ネズミもヒトもゾウも、一定の法則に基づいて生きて死ぬ。生物だけじゃない。似たような法則に、企業も縛られている。都市も似た性質を示すが、滅多に死なない。そんな法則・ルールが、この世界には存在する。

 それはどんな法則なのか。なぜ、そんな法則が成立するのか。そのには、どんなメカニズムが働いているのか。生物・都市・企業は、何が共通していて、何が違うのか。

 元は理論物理学者ながら、学会の垣根を超えた複雑系の研究で知られるサンタフェ研究所の所長を務めた著者が、生命と都市と経済に共通する法則をテーマとして、最近の数学・科学・経済学の成果を紹介する、一般向けの科学解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は SCALE : The Universal Laws of Growth, Innovation, Sustainability, and the Pace of Life in Organisms, Cities, Economies, and Companies, by Geoffrey West, 2017。日本語版は2020年10月25日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組みの上下巻で本文約295頁+247頁=542頁に加え訳者解説12頁。9ポイント45字×18行×(295頁+247頁)=約439,020字、400字詰め原稿用紙で約1,098枚。文庫なら普通の厚さの上下巻ぐらい。今はハヤカワ文庫NFから文庫版が出ている。

 文章はこなれていて読みやすい。内容は少し数学の素養が要る。と言っても、難しい数式は出てこない。必要なのは指数の概念だ。金融関係の人なら、複利計算でお馴染みの概念である。あと、フラクタルについて多少知っていると親しみやすい。

【構成は?】

 科学の本にありがちな構成で、前の章を受けて後の章が展開する。よって、素直に頭から読もう。

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  •  上巻
  • 第1章 全体像
  • 1 序論、概要、まとめ
  • 2 私たちは指数関数的に拡大する、社会経済的な都市化世界に住んでいる
  • 3 生死の問題
  • 4 エネルギー、代謝、エントロピー
  • 5 サイズは本当に重要 スケーリングと非線形的挙動
  • 6 スケーリングと複雑性 発生、自己組織化、そして回復力
  • 7 あなたが自分のネットワーク 細胞からクジラへの成長
  • 8 都市と地球の持続可能性 イノベーションとシンギュラリティ(特異点)のサイクル
  • 9 企業とビジネス
  • 第2章 すべての尺度 スケーリング入門
  • 1 ゴジラからガリレオまで
  • 2 スケールのまちがった結論と誤解 スーパーマン
  • 3 桁数、対数、地震とマグニチュード
  • 4 重量挙げとガリレオの検証
  • 5 個人の成績とスケーリングからの逸脱 世界最強の男
  • 6 スケールについてのありがちな誤解 LSDとゾウから鎮痛剤と乳児まで、薬物用量について
  • 7 BMI、ケトレー、平均人、社会物理学
  • 8 イノベーションと成長限界
  • 9 蒸気船グレート・イースタン号、広軌鉄道、偉人イザムバード・キイングダム・ブルネル
  • 10 ウィリアム・フルードとモデル理論の起源
  • 11 類似性と類似度 無次元数とスケール不変数
  • 第3章 生命の単純性、調和、複雑性
  • 1 クォークとひもから、細胞とクジラまで
  • 2 代謝率と自然選択
  • 3 複雑性の根源にある単純性:クライバーの法則、自己相似、規模の経済
  • 4 普遍性と生命を制御する魔法の数字4
  • 5 エネルギー、創発的法則、そして生命のヒエラルキー
  • 6 ネットワークと1/4乗アロメトリック・スケーリング側の起源
  • 7 物理学と生物学の出会い:理論、モデル、解釈の本質について
  • 8 ネットワークの原則とアロメトリック・スケーリング則の起源
  • 9 哺乳動物、植物、樹木における代謝率と循環系
  • 10 ニコラ・テスラ、インピーダンス整合、直流/交流についての余談
  • 11 代謝率、心拍、循環系に話を戻す
  • 12 自己相似とマジックナンバー4の起源
  • 13 フラクタル:境界伸長の不思議な例
  • 第4章 生命の第四次元:成長、老化、そして死
  • 1 生命の四次元
  • 2 なぜアリ・サイズの小さな哺乳類はいないのか?
  • 3 ではゴジラ・サイズの巨大哺乳類は、なぜ存在しないのか
  • 4 成長
  • 5 地球温暖化、気温の指数関数的スケーリング、そして生態系の代謝理論
  • 6 老化と死
  • 第5章 人新世から都市新世へ:都市が支配する惑星
  • 1 指数関数的に拡大する世界に生きる
  • 2 都市、都市化、そして地球持続可能性
  • 3 寄り道:実のところ、指数関数とは何か? 幾つかの警告的寓話
  • 4 産業都市の隆盛とその批判者たち
  • 5 マルサス、新マルサス主義、そして偉大なるイノベーション楽天主義者
  • 6 何はともあれ、エネルギーが全て
  • 図版リスト/注
  •  下巻
  • 第6章 都市科学への序曲
  • 1 都市や企業は、単なるきわめて大きな生命体?
  • 2 ドラゴンたちを倒す聖ジェイン
  • 3 金融:田園都市とニュータウンでの個人的体験
  • 4 中間的なまとめと結論
  • 第7章 都市の科学に向けて
  • 1 都市のスケーリング
  • 2 都市と社会ネットワーク
  • 3 こうしたネットワークとは一体何か?
  • 4 都市:決勝かフラクタルか?
  • 5 巨大社会的培養装置としての都市
  • 6 本当の親友が何人いる? ダンバー数と彼のはじき出した数字
  • 7 言葉と都市
  • 8 フラクタル都市:物理学で社会統合
  • 第8章 結論と予測:流動性とライフ・ペースから社会接続性、多様性、代謝、成長へ
  • 1 加速するライフ・ペース
  • 2 加速するルームランナーの上で生きる:破格の時間短縮マシーンとしての都市
  • 3 通勤時間と都市サイズ
  • 4 加速する歩行のペース
  • 5 ひとりぼっちじゃない 人間行動検出器としての携帯電話
  • 6 理論の検査と検証:都市の社会接続性
  • 7 都市における移動の極度に規則的な構造
  • 8 優等生と劣等生
  • 9 富、イノベーション、犯罪、回復力の構造:個別性と都市ランキング
  • 10 持続可能性への序曲 水に関する短い余談
  • 11 都市における経済活動の社会経済的多様性
  • 12 都市の成長と代謝
  • 第9章 企業科学を目指して
  • 1 ウォルマートはビッグ・ジョーズ・ランバーの、そしてグーグルはグレート・ビッグ・ベアのスケールアップ版?
  • 2 無限成長神話
  • 3 企業の死は驚くほど単純
  • 4 安らかに眠れ
  • 5 なぜ企業は死んでも、都市は死なないのか
  • 第10章 持続可能性についての大統一理論の展望
  • 加速するルームランナー、イノベーション・サイクル、有限時間シンギュラリティ
  • あとがき
  • 1 21世紀の科学
  • 2 学際性、複雑系、サンタフェ研究所
  • 3 ビッグデータ:パラダイム4.0なのか、ただの3.1なのか?
  • あとがきと謝辞
  • 訳者解説/図版リスト/注

【感想は?】

 何やら壮大な発見のようだが、実は拍子抜けするほど単純な話でもある。

 とはいえ、その単純さこそが凄い所だ。科学や数学や工学は、単純なモノこそ素晴らしい。

 また、その単純さを見つけるまでの過程は、豊かな素養を備えた多くの学者の交流、そして大量のテータを手に入れ解析する手間と費用が必要だったワケだが。それを可能としたサンタフェ研究所(→Wikipedia)は素晴らしいよね、という宣伝本でもある。

 全体を通してのテーマは、書名通りスケール=規模だ。ネズミもヒトもゾウも哺乳類だが、大きさが違う。これは共通点と相違点をもたらす。一般的に大きい生物は長生きで、小さい生物は短命だ。だが、生涯の鼓動の数はほぼ同じだったりする。

「スケーリング」というのは、(略)サイズが変化したときにその系がどう反応するかという話でしかない。
  ――第1章 全体像

 そんな具合に、規模が変わった時に何が起きるかを考え調べると、生命も都市も企業も、性質によっては似た振る舞いを示すのだ。その性質と振る舞いを、例を挙げるだけでなく、大量のデータを集めて調べ、グラフで示したのが本書のウリだろう。いわば生命と都市と企業のフルード数(→Wikipedia)を見つけた、そういう話でもある。

異なる速度で動く異なる大きさの物でも、フルード数(→Wikipedia)が同じなら同じふるまいを示す
  ――第2章 すべての尺度 スケーリング入門

 その一つが、「管の半径」だ。私たちの体には血が流れている。心臓が脈打って動脈に血を送り出し、途中で何回も分岐して毛細血管に達し、細胞に酸素とエネルギーを届ける。この動脈は分岐する際、太さが変わる。その太さの変わり方は、一定の法則に従っている。生存競争が生物に押しつけたルールだ。

ネットワークを下っても、反射によるエネルギーロスがないようにするには、後続の管の半径は常に、2の平方根(√2)を係数にして減少するという規則的な自己相似形でスケールする必要がある。
  ――第3章 生命の単純性、調和、複雑性

 このしくみは、都市の上水道管に似ている。こちらは進化ではなく、水を送り出すエネルギーを節約するために、計算してそういいう設計にしたのだ。

 動脈も上水道も、目的は末端へ液体を届ける事だ。そのために使うエネルギーは、なるたけ少ない方が嬉しい。つまりエネルギー消費を最適化した結果、似たような手口に落ち着いたのだ。

都市を構成する二つの主要な要素、物理インフラと社会経済活動は、どちらもおおむね自己相似的なフラクタル・ネットワーク構造と考えられる。フラクタルはたいてい、ある特性を最適化したがる進化プロセスの結果だ。
  ――第7章 都市の科学に向けて

スケーリング側は自然選択や「適者生存」に固有の持続的なフィードバック機構がもたらした、ネットワーク構造最適化の結果だ。
  ――第9章 企業科学を目指して

 動脈や水道の径は、直感的にわかりやすい。だが、本書には一見直感に反する事柄も出てくる。その一つは、死のパターンだ。文明によって急速に平均寿命を延ばした現代のヒトはともかく、野生僧物の寿命は意外と…

ほとんどの生命体の死亡率は年齢が変わってもほぼ同じ(略)
言い換えれば、どんな期間を取っても、死ぬ個体の比率は、どの年齢でも同じ
  ――第4章 生命の第四次元:成長、老化、そして死

 老いたから死ぬのではない。何才だろうと、一定の率で死ぬのだ。その結果、自然と長生きする個体は減る。そういう事らしい。これが、企業の消滅とも似ているのが不思議だ。

企業が死ぬリスクは、その年齢やサイズとは無関係だ。
  ――第9章 企業科学を目指して

 大きければ潰れにくいってワケでもないらしい。ちなみに本書の「企業の死」とは、倒産や店じまいだけではなく、合併や買収も含んでいる。この章では長寿の企業も出てきて、日本の企業が異様に多い。また、小規模な企業が多い。

日本はともかく、小規模な企業が多いのは、単純な理屈によるものだろう。大企業は数が少なく、零細企業は数が多い。規模の大小が消える率に無関係なら、若い企業も長寿の企業も、零細企業が大半を占めるはずだ。

 企業が死ぬ率は規模の大小と無関係だった。が、規模に連動して変わるモノもある。例えば、エネルギーの消費量。生物でも都市でも、規模が大きくなるに従い、燃費が良くなるのだ。

インフラとエネルギー使用の線形未満の特性は、社会経済活動の超線形性と正確に反比例している。
  ――第7章 都市の科学に向けて

 意外に思えるだろうが、田園より都市の方がエコだったりする。これは簡単な話で、例えば東京なら鉄道と路線バスでたいていの移動は済むが、郊外じゃ自動車がないと暮らせなかったりする。では、一人当たりの石油消費量は、どっちが多いだろうか。

 他にも幾つか都市が有利な点はあるし、東京やムンバイは際限なく拡大しているように見える。が、成長を制限する要素もあるのだ。

アメリカ、イギリス、ドイツと幾つかの発展途上国を含む国々の都市データを使って、(交通技術者ヤコブ・)ザハヴィは平均的個人が毎日移動すに費やす時間は、都市サイズ、あるいは移動手段に関係なくおおむね同じという、驚くべき結果を発見した。
  ――第8章 結論と予測:流動性とライフ・ペースから社会接続性、多様性、代謝、成長へ

 なんか日本はこの例外っぽい気がするが、どうなんだろう? とりあえず満員電車はどうにかして欲しい。

 それはともかく、少なくとも都市は大きいほど有利だ、と本書は論じている。そして、実際に世界規模で都市化が進んでいる。今まで電化が進んでいなかった国や地域の人々も、炭化水素由来のエネルギーの恩恵を受けている。だけでなく、人口そのものが爆発的に増えてきた。これは今までになかったことだ。大丈夫かいな?

経済学者ケネス・ボールディング「限りある世界で、指数関数的成長が永久に続くと信じているのは、狂人か経済学者のどちらかだ」
  ――第5章 人新世から都市新世へ:都市が支配する惑星

 経済成長は%で語る。8%の成長を10年続けたら、10年後には倍になる。そして20年後は4倍になる。増える量そのものが増えるのだ。こんな成長が、いつまで続けられるだろうか? 経済が成長すれば、消費するエネルギーも増える。どれぐらいか、というと…

現代の生活に不可欠なほぼすべての機械、人工物、インフラの燃料として、地球上のすべての平均的人間が使うエネルギーの合計は、私たちの自然な必要エネルギー量の約30倍だ。
  ――第5章 人新世から都市新世へ:都市が支配する惑星

 意外と少ないような気もするが、野生状態より遥かに多いのは確かだ。現代はその大半を、地中から掘り出した炭化水素で賄っている。ちなみに、産業革命より昔は木で賄っていて、森を使い潰すと国までが滅びた(→「森と文明」)。

 ヤベーじゃん、と思うのだが、著者はこんな解決法を提案している。

太陽から地球に供給されているおおおよそ年間100万兆(1018)キロワット時の総エネルギーに対し、私たちが毎年全体として使用するために必要な150兆(1.5×1014)キロワット時は(このスケールでは)「ごくわずか」だ。
  ――第5章 人新世から都市新世へ:都市が支配する惑星

 これは別に太陽光発電だけを示しているんじゃないのに注意。例えば風や川も、元をたどれば太陽光が原因だし。

 生物や都市や企業を語る者や本は多い。その多くは、「こんな性質がある」「こうして成功した」と、定性的な論に終始する。対して著者は、理論物理学の出身のためか、測れる量に拘る。その成果が本書だ。生物はともかく、都市や企業を、どうやって測るのか。それを知るだけでも、充分に本書は面白い。ある意味、科学の神髄を伝える本でもあるのだ。

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2024年10月23日 (水)

藤井一至「土 地球最後のナゾ 100億人を養う土壌を求めて」光文社新書

そもそも土とは何なのか。地球の土は、日本の土は、どうやって私たちの食卓を支えてくれているのか。100億人の生存は可能なのか。
  ――まえがき

「土壌」とは、岩の分解したものと死んだ動植物が混ざったものを指す。
  ――第1章 月の砂、火星の土、地球の土壌

塩を撒くと土は固くなるのだ。空気や水の入り込むスペースが潰れ、植物の根も深く入っていけなくなると、生産力が落ちる。乾燥地では粘土が仇となることさえある。
  ――第2章 12種類の土を探せ!

熱帯雨林(略)豊かな森の下の土壌は薄く貧弱(略)ということが常套句のように書いてある。
しかし、私の調べた限りでは、熱帯土壌が薄いというのは落葉層、腐植層に限った話であって、土そのものは深い。(略)
高温で湿潤な熱帯雨林では、活発な生物活動が岩石の風化を加速する
  ――第2章 12種類の土を探せ!

私たちの食卓に並ぶ食べ物の95%は、統計上、土に由来する。
  ――第4章 日本の土と宮沢賢治からの宿題

【どんな本?】

 SF小説「火星の人」とその映画「オデッセイ」では、火星に取り残された主人公が自分の糞尿を肥料として畑を耕しジャガイモを育てた。だが、これは実際に可能なんだろうか?

 地球にも様々な地域があり、土も様々だ。ウクライナの肥沃な土は有名で、かつてはナチスドイツが、今はロシアが狙い侵略を企てている。

 あまり豊かとは言われないが、東アジアや東南アジアの高い人口密度も、支えているのは農業生産力の高さだ。その原因の一つは豊かな降水量だが、同じ降水量が豊かな熱帯雨林は人口が少ない。その理由は、土壌だろう。

 そもそも土壌とは何か。どんな土壌があって、それぞれどのように出来て、どんな性質があり、どう使われているのか。「肥沃な土」とは、どんな土なのか。日本の土はどんな特徴があり、日本人はそれをどう利用しているのか。そして将来人口が100億人に増えた時に、全てを養うことはできるのか。

 農学で博士号を得た後は土の研究に邁進し、愛用のスコップを片手に世界中を飛び回って土を掘り返してきた著者が、各地の土とその利用法を語りつつ、土壌研究の基礎を紹介する、一般向けの科学解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2018年8月30日初版第1刷発行。新書版で縦一段組み本文約200頁。9ポイント41字×15行×200頁=約123,000字、400字詰め原稿用紙で約308枚。イラストや写真も豊富に載っているので、実際の文字数は8割ぐらい。文庫なら薄い一冊分。

 文章は比較的にこなれていて親しみやすい。内容も分かりやすいが、例え話が逆に理解しがたくしてる感がある。無理して社会や人間に例えなくてもいいのに。また、著者はスコップ片手に世界中を飛び回るので、世界地図があると迫力が増す。

【構成は?】

 基本的に前の章を受けて後の章が展開する形なので、素直に頭から読もう。

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  • まえがき
  • 第1章 月の砂、火星の土、地球の土壌
    肥沃な土は地球にしかない/月には粘土がない/火星には腐植がない/細かい土と素敵な地球/人も土も見た目が八割/土に植物が育つわけ/電気を帯びた粘土の神通力/薬にも化粧品にもなる粘土/植物工場で100憶人を養えるのか/世界の土はたったの12種類
  • 第2章 12種類の土を探せ!
    土のグランドスラム/裏山の土から始まる旅/どうして日本の土は酸性なのか/農業のできない土/永久凍土を求めて/ツンドラと永久凍土/氷が解けたその後で/泥炭土と蚊アレルギー/ウイスキーとジーパンを生んだ泥炭‘土”/土壌がないということ/微笑みの国の砂漠土壌/ゴルフ場よりも少ないポドゾル/魅惑のポドゾルを求めて/土の皇帝チェルノーゼム/土を耕すミミズとジリス/ホットケーキセットを支える粘土集積土壌/ひび割れ粘土質土壌と高級車/塩辛い砂漠/腹ペコのオランウータンと強風化赤黄色土/野菜がない/幻のレンガ土壌/青い岩から生まれた赤い土/スマホも土からできている/黒ぼく土で飯を食う/盛り上がる黒ぼく土/黒ぼく土はなぜ黒いのか/肥沃な土は多くない
  • 第3章 地球の土の可能性
    宝の地図を求めて/世界の人口分布を決める土/肥沃な土の条件/隣の土は黒い/黒土とグローバル・ランド・ラッシュ/ステーキとチェルノーゼム/牛丼を支える土とフンコロガシ/岩手県一つ分の塩辛い土/肥沃な土の錬金術/セラードの奇跡/強風化赤黄色土ではだめなわけ/土が売られる/お金がない、時間もない/スコップ一本からの土壌改良
  • 第4章 日本の土と宮沢賢治からの宿題
    黒ぼく土を克服する/火山灰土壌からのリン採掘/田んぼの土のふしぎ/宮沢賢治からのリクエスト/SATOYAMAで野良稼ぎ/日本の土もすごい/バーチャル・ソイル/土に恵まれた惑星、土に恵まれた日本
  • あとがき
  • 引用文献

【感想は?】

 本書が土壌を評価する基準は分かりやすい。農業用地として優れているか否かだ。農作物、それも主に食用の農作物がよく育つ土壌を、著者は求めている。

 今後、地球の人口が増えるに従い、より多くの食料が必要になる。土地には限りがある以上、取れる手段は二つだ。既存の農地の生産量を増やすか、新しく農地を開拓するか。幸い現代は科学技術が発達し、化学肥料等で土壌の足りない養分を補える。では、地球にはどんな土壌があって、それぞれどんな性質なのか。

 と、いいうことで、著者はスコップ片手に世界を飛び回り、様々な土を掘り返すのだ。

土の種類は12しかない。
  ――第1章 月の砂、火星の土、地球の土壌

 12種類は多いような少ないような、微妙なところ。絵の具で土を塗るとき、多くの日本人は黒か焦げ茶で塗る。試合を終えた甲子園球児のユニフォームは黒く汚れる。日本の土は黒いのだ。しかし、世界を見回すと、地域によっては赤く塗ったり白く塗ったりする。土にも色々なバリエーションがあるのだ。

 そんな中、農地として理想の土壌、いわゆる「肥沃な土」は、どんな土壌か。

肥沃な土の条件が明確になった。粘土と腐植に富み、窒素、リン、ミネラルなどの栄養分に過不足なく、保水力が高いと同時に排水もよく、通気性も良い土壌。
  ――第1章 月の砂、火星の土、地球の土壌

 具体的には、ウクライナなどに広がるチェルノーゼムだ。だが、我らが日本の土=黒ぼく土も意外と優秀らしい。いやクセは強いんだけど。

火山付近や都市部に限らず、日本中どこを掘っても土は酸性だ。
  ――第2章 12種類の土を探せ!

 なぜ酸性か。酸性雨とか火山灰とか言われているが、著者は豊かな雨が原因だと主張する。

土は、雨が多ければ酸性に、雨が少なければアルカリ性に振れやすい。
  ――第2章 12種類の土を探せ!

 素性は悪くない。それどころか、腐植(動植物の死体)を多く含むので、結構スジはいいのだ。まあ、この本を読むまでもなく、夏になれば猛々しいほどに生い茂る雑草を見れば、植物には向く土なんだろう、ぐらいの見当はつく。が、弱点もある。

チェルノーゼム、ひび割れ粘土質土壌よりも多くの腐植を含む黒ぼく土だが、違いは酸性だということだ。しかも、腐植を吸着する粘土(アロフェン)は、同時に、リン酸イオンも強く吸着する。作物育成に必要な栄養分であるリン酸イオンが作物に行き届かなくなってしまう。
  ――第2章 12種類の土を探せ!

 作物が育つのに必要な要素の一つ、リンが不足しがちなのだ。いや土壌内にはあるんだ。あるんだけど、粘土がリンを掴んで離さないから、作物は根から吸収できない。

 そういった事を、化学的に説明する箇所もある。

カルシウムやマグネシウム、カリウムなどの植物に必要な栄養分は、水の中でプラス電気を持つイオンとなる。多くの粘土はマイナス電気を帯びており、プラス電気を帯びたイオンを引き付ける。
同じく植物に必要なリンは、水の中でマイナス電気を持つリン酸イオン(H2PO4-)となる。鉄さび粘土や腐植はマイナス・プラス両方の電気を持つため、リン酸イオンも吸着できる。
これが、粘土の多い土が養分を多く保持できる仕組みである。
  ――第1章 月の砂、火星の土、地球の土壌

 敢えて難しい部分を引用したが、理解できなくても本書を読むのに大きな問題はない。「土の中でも化学反応が起きてるんだな」ぐらいに思っていればいい。それはともかく、降水量が多いため酸性に傾きがちな日本の土壌だが、水田は見事に日本の気候と土壌にあった作物・農法なんだな、と終盤で納得できるので、楽しみにしよう。

 こういう、土地や気候と作物の相性は大事で、巧く組み合わせれば土地の改良にもなったり。輪作って、そういう事だよね。

マカランガの根っこは(略)多量の有機酸を放出する。これにより年度に捕獲されているリン酸を溶かし出す。結果として、マカランガは多くのリンを吸収できる。リンを豊富に含むマカランガの落ち葉を材料とした腐植は、やはりマカランガを多く含む。
  ――第3章 地球の土の可能

 こういう土の性質は、文明の興亡や歴史の流れも左右する。

世界の人口密度と降水量の地図を見るとコンゴ川を有するアフリカの中央平原、アマゾン川を有する南米の熱帯雨林は水が豊富にあるにもかかわらず、人口密度は低い。(略)文明が発達しなかったのは(略)酸性で栄養分の乏しいオキシソルが農業生産に適さなかったことにある。
  ――第3章 地球の土の可能

 「森と文明」によると、イラク南部やローマなど古の文明が栄えた土地は、当時は鬱蒼とした森に覆われていて、薪などに必要な木材が充分に手に入ったそうだが、森林の伐採で土地が荒れ多くの人口を養えなくなった。20世紀にもダストボウル(→Wikipedia)なんて悲劇も。

 人間が土を荒らせるのなら、逆に土を活用することもできそうだ。「大豆と人間の歴史」によると、日本の支援で南米諸国は大豆の生産を増やし、特にブラジルは米国とシェア世界一を争うまでに成長した。のだが、その農場の実態を本書はカラー写真で見せてくれて、これが実に切ない。あ、ちなみに、アマゾンの密林を切り拓いたわけじゃないです。

 終盤では、地域の土の性質により、人間が摂取する栄養素にまで過不足が生じるなんて話もあって、土が人間に与える影響の大きさをわかりやすく実感させてくれる。著者は「地味」と卑下する分野の研究だが、今も昔もウクライナの穀倉地帯を狙い戦争を仕掛ける者もいるし、そのあおりで食糧輸入国が多いアフリカ諸国は政情不安に陥ってるのを考えれば、むしろ極めて重要な研究分野と言える。

 などと大上段に構えるのもいいが、難しいことを考えず、とりあえず足元の土について少し知りたいと思う人にこそ、この本はお薦め。

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2024年10月20日 (日)

ダニエル・E・リーバーマン「運動の神話 上・下」早川書房 中里京子訳

私たちは運動するようには進化してこなかったはずなのに、運動は、なぜ、どのようにして、これほど健康に役立つのか
  ――プロローグ

(霊長類学者のリチャード・)ランガムによれば、人類が他の動物、特にその近縁種と異なる点は、極めて低い反応的攻撃性とより高い能動的攻撃性を持つことにあるという。
  ――第7章 戦いとスポーツ 牙からサッカーへ

身体活動は、高齢期に健康でいられるチャンスを高める一連のメカニズムを発動させるのだ。
  ――第10章 エンデュランスとエイジング 「アクティブな祖父母仮説」と「コストのかかる修復仮説」

【どんな本?】

 私は運動が嫌いだ。私だけじゃない。運動が嫌いな人は多い。だが、医師は「運動しろ」と言う。健やかな体を保つには、運動が役に立つらしい。現代の日本では、入院しても運動するように求められる。いや怪我や病気の種類にもよるが。今や…

運動は医療になった
  ――第12章 どれぐらいの量? どんな種類?

 のだ。

 だが、それって変じゃないか? 運動が体にいいなら、人間は運動が好きな筈だ。だが、少なくとも私のまわりを見る限り、多くの人間は運動が嫌いだ。これはおかしい。

 著者のダニエル・E・リーバーマンは、古人類学者だ。人類の進化の歴史を辿り、また人類の進化の過程と似た生き方を現代も続ける狩猟採集民の暮らしや体調や疾病の具合を観察し、人類とはどんな動物でどのように生き延びてきたのか、その進化の過程で運動と健康にどんな関係ができたのかを探り、また現代になって豊富に手に入るようになった運動と健康または疾病のデータや論文を調べあげた。

 人類の進化プロセスというユニークな視点で、運動と疾病/健康の関係を見つめなおす、一般向けの科学/医学解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Exercised: Why Something We Never Evolved to Do Is Healthy and Rewarding, by Daniel Lieberman, 2020。日本語版は2022年9月25日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組み上下巻で本文約220頁+216頁=436頁に加え、訳者あとがき6頁。9.5ポイント45字×20行×(220頁+216頁)=約392,400字、400字詰め原稿用紙で約981枚。文庫でも上下巻ぐらい。

 文章はこなれている。内容も特に難しくないが、有酸素運動(→Wikipedia)など一部の用語を説明せずに使っている。

【構成は?】

 全体的に前のパートを受けて後のパートが展開する形なので、素直に頭から読もう。

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  •   上巻
  • プロローグ
    運動にまつわる神話/なぜ博物学なのか?
  • 第1章 人は休むようにできているのか、それとも走るようにできているのか
    エルネスト/星空の下でのララヒッパリ/「アスレチックな野蛮人」という神話/「正常な」人間はカウチポテトか?/時代を通した身体活動の変遷/エクササイズはいかにして奇妙なものになったか
  • パート1 身体的に不活発な状態
  • 第2章 身体的に不活発な状態 怠けることの大切さ
    何もしないことのコスト/「この人たちがよりよく栄養をとれるように、飢えていただけませんか?」/トレードオフの真実/人間は怠けるために生まれてきた?/不活発賛歌
  • 第3章 座ること それは新たな喫煙か?
    私たちはどうやって、なぜ座るのか/人はどれぐらい座っているのか?/火事/座っている間も、くすぶっている?/アクティブな座り方/どのように、どれだけ座るべきか?
  • 第4章 睡眠 なぜストレスは休息を妨げるのか
    快眠は体のため?それとも脳のため?/八時間という神話/睡眠の文化/睡眠に関するストレス/睡眠に悩まされる
  • パート2 スピード、力強さ、そしてパワー
  • 第5章 スピード ウサギでもなくカメでもなく
    ウサイン・ボルトはどれぐらい遅いか?/二本脚の問題/速く走るか、遠くまで走るか/赤い肉と白い肉。どちらの遺伝子が欲しい?/生まれか育ちか/すばらしき高強度インターバルトレーニング
  • 第6章 力強さ ムキムキからガリガリまで
    古代における力強さ/類人猿と原始人はムキムキだったか?/レジスタンスをぶっつぶせ!/加齢と筋肉/ウェイトトレーニングはどれだけやればよいのか?
  • 第7章 戦いとスポーツ 牙からサッカーへ
    人間は生まれつき攻撃的な生き物なのか?/戦うために立ち上がる?/ホモ属の善なる天使/武器を手にする前の戦い/武器を使った戦い/フェアなプレイヤーになる?
  • 原注
  •   下巻
  • パート3 持久力
  • 第8章 ウォーキング いつものこと
    人間はどう歩いているか/「四本足はよい、二本足は悪い」?/荷物を運ぶ動物/余分な体重はウォーキングで落とせるか?/一万歩?
  • 第9章 ランニングとダンス 片方の脚からもう片方の脚へのジャンプ
    人間と馬のレース?/片方の脚からもう片方の脚へのジャンプ/パワー・スキャベンジングと持久狩猟/病院に駆け込むべき?/一緒に踊りませんか?
  • 第10章 エンデュランスとエイジング 「アクティブな祖父母仮説」と「コストのかかる修復仮説」
    /長い歴史を通して見た老い/老化の本質/「コストのかかる修復」仮説/有病状態の拡大と圧縮
  • パート4 現代社会における運動
  • 第11章 動くべきか、動かぬべきか どうやって運動させるか
    ビョルン・ボルグ社のスポーツアワー/やりたくないのですが……/エクササイズをもう少し楽しいものににするには?/運動が必要だと思わせるには/若者に焦点を当てる
  • 第12章 どれぐらいの量? どんな種類?
    一週間に150分?/運動しすぎることはあるのか?/ミックスする?
  • 第13章 運動と病気
    肥満/メタボリック症候群と2型糖尿病/心血管疾患/呼吸器感染症および他の伝染病/慢性的な筋骨格系の疾患/がん/アルツハイマー病/メンタルヘルス うつ病と不安障害
  • エピローグ
  • 謝辞/訳者あとがき/原注

【感想は?】

 ヤバい。近所のジムに入会する気になってる。正気か俺。

 つまりは運動するよう読者を洗脳する本だ。その手口が巧みなのだ。まず、読者がどういう奴か、著者はよくわかってる。頭でっかちの理屈屋で、やや天邪鬼、二言目には根拠を求める。世間的な権威はともかく、学術的な権威には弱い。

 そういう連中を洗脳するために、著者は色々と工夫を凝らす。例えば人類の進化から話を始めるのだ。私たちの祖先は、どんな環境でどのように暮らしてきたのか? 何せ数十万年も昔の話だ。おまけに人類発祥の地アフリカは地質の影響もあり、物的証拠が残りにくい。

 仕方がないので現代にわずかに残る狩猟採集民族の暮らし方を調べ、人類の大半が狩猟採集で生きていた頃を類推したり、近縁種のゴリラやチンパンジーの生活を観察・分析し、種としての特性を浮かび上がらせてゆく。すると…

人間の体は生涯にわたって動かさないと最適に機能しないように進化してきた一方で、人間の心は、必要に迫られない限り、そして喜びや、何らかの見返りがない限り、体を動かそうとはしないように進化してきたのだ。
  ――第11章 動くべきか、動かぬべきか どうやって運動させるか

 そう、私が運動嫌いなのは怠けものだからではなく、ヒトがそう進化してきたからなのだ。俺は悪くない。

 と、読者をいい気分にさせてから話を進める。なかなか巧みだ。おまけに現代の狩猟採集民は、さぞかし忙しくしてたんだろうと思いきや…

(現代の狩猟採集民の生活から測った研究によると)かつての人間の典型的な労働時間は約7時間であり、その多くは軽度の活動に費やされ、活発な活動はせいぜい一時間程度だった
  ――第1章 人は休むようにできているのか、それとも走るようにできているのか

 意外とのんびりしてる。どころか下手すると現代の忙しい労働者より動いてないかも。とはいえ、さすがにホワイトカラーよりは動く。いや別に好きで運動してるんじゃない。根菜掘りや水くみなど、生きるのに必要なことをするためには、どうしても体を動かす必要があるのだ。その水くみも、結構な運動になっている。

体重の半分以下の荷物を運ぶ場合は、通常、重量の20%の追加コストがかかり、荷物がいよいよ重くなると、そのコストは指数関数的に増加するという。
  ――第8章 ウォーキング いつものこと

 それ以外の時も、皆が集まり座ってお喋りしながら、子供をあやしたり繕い物をしたり。座ってる時間も、案外と長い。じゃ腰が痛くならないのか、というと。彼らは座る姿勢が違うのだ。私は背もたれのある椅子に座ってる。対して彼らは切り株などの背もたれがないモノに腰を掛けたり、地面にしゃがんだり。

 なのだが、著者は言う。問題は姿勢ではない、と。

問題は座ること自体にではなく、長時間動かず座り続ける状態に、ほとんど運動しない状態が組み合わさることにある。
  ――第3章 座ること それは新たな喫煙か?

 狩猟採集民は、座っている際もじっとしていない。何か作業をしていて、ちょこちょこ動いている。前かがみでジッとモニタを見つめたりはしてない。デスクワークも、適度に中断をはさむのがよさそうだ。

 そんな本書で何度も指標とするのが、「週に150分以上の中・高強度の運動」である。例えば…

週に150分以上の中・高強度の運動を定期的に行った人は、睡眠の質が65%向上しただけでなく、日中に過度の眠気を感じることも少なかった。また逆に、十分な睡眠をとれば、体を休めて修復するための十分な時間が確保できるので、人々は活動的になり、運動能力が向上する。
  ――第4章 睡眠 なぜストレスは休息を妨げるのか

 などと、「運動すれば生活の質も上がりますよ」とそそのかしてくる。

 本書が扱う運動不足の問題点の一つは肥満だ。これは血中の中性脂肪が増え血圧が高くなり血管が硬くなる等の現象もあるが、慢性の炎症状態にもなるというからタダゴトではない。そこで怠け者は考える。「運動は嫌だから食べる量を減らそう」。だが、これは賢くない。私たちの体は、困った方法でカロリー不足に対処するのである。

彼ら(ミネソタ飢餓実験(→Wikipedia)の被験者)の体は、安静時にも、より少ないエネルギーを使うように変化していたのだ。
  ――第2章 身体的に不活発な状態 怠けることの大切さ

 人間の体は安静にしていてもエネルギーを使う。脳や肝臓など臓器を維持し、肺で呼吸し、心臓は血液を送り出し、皮膚などを新陳代謝する。それが飢餓状態になると、新陳代謝を減らすなどして固定的なカロリー出費を減らすのである。食べる量を減らしても、肌が荒れるだけで、あまし痩せないのだ。残念。

 では、逆に固定的なカロリー出費を増やす手は…あるのだ、ちゃんと。筋肉は贅肉より多くのカロリーを使う。だから筋肉を増やせば、消費するカロリーも増えるのである。

筋肉隆々のウェイトリフティング選手は筋肉量が40%以上になることもあり、コストのかかる肉を20kgも余分に備えていることになる。もし私が彼らのように筋肉を増強しようとしたら、新たな体格のために1日あたり200~300キロカロリー多く食べなければならない。
  ――第6章 力強さ ムキムキからガリガリまで

 筋肉をつけるには有酸素運動よりウェイトリフティングなどが効果的なんだろうが、ダイエットは逆で…

肥満にはウェイトトレーンイングより有酸素運動の方が適している。
  ――第13章 運動と病気

 というから悩ましい。ちなみに筋肉をつけるのは骨粗鬆症などにも有効らしい。

サルコペニア(加齢による骨格筋量の低下、→Wikipedia)を予防したかったら、ウェイトトレーニングを行なおう。
  ――第13章 運動と病気

 そんなヒトは、他の動物と比べてどんな特徴があるか、なんて話も出てくる。例えばチーターは短距離が得意なスプリンターで、草食動物の多くは長距離走者だ。本書によると、人類は万能型らしい。

石器時代に暮らした私たちの祖先には、(略)カメとウサギの両方に見合うような幅広い運動能力を持つ「何でも屋」に進化したのである。
  ――第5章 スピード ウサギでもなくカメでもなく

 やはり最大の特徴は二足歩行だ。

人間を人間たらしめている数多くの特別な資質のなかで、効率的な二足歩行は明らかに最初に進化したものであり、依然として最も重要な資質の一つに留まっている。
  ――第8章 ウォーキング いつものこと

 それに加え、優れたラジエーターを備えている点が挙げられる。

高性能の脚を備えたことに加え、より遠くへ行くために人間が適応により獲得した最も重要かつ独特な能力は、大量の汗をかくことだ。
  ――第9章 ランニングとダンス 片方の脚からもう片方の脚へのジャンプ

 ここで面白いのが、優れた冷却機構を活用する狩りの話。暑い昼間に長時間の追跡で、獲物を熱中症に追い込むのだ。途中で何度も獲物を見失うのだが、痕跡を見つけて跡を追うのである。冷却機構に加え、高い知能も必要で、まさに人類向きの狩猟方法だ。

 とかの狩猟採集民ネタばかりでなく、万歩計の命名の偶然やビョルン・ボルグ社の独特な経営方針など、現代のエピソードも楽しいネタが満載だ。とにかくデータが豊富なため、説得力は他の追随を許さない。自分の体に興味があるなら、一読の価値は充分にある。

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2024年9月19日 (木)

アリク・カーシェンバウム「まじめにエイリアンの姿を想像してみた」柏書房 穴水由紀子訳

本書では、生命の仕組み、とりわけ進化の仕組みに関する知識を活用して、ほかの惑星で暮らしているであろう生命について考察していきたい。
  ――第1章 はじめに

人間を初めとする地球上のすべての多細胞生物の体も、日和見的な協力関係の積み重ねの結果である
  ――第6章 知能 それが何であれ

社会集団は教育の機会を提供するのだ。
  ――第7章 社会性 協力、競争、ティータイム

コストのかかるメッセージは信頼できることが多いように、コストのかからないメッセージは信頼できないことが多い。
  ――第8章 情報 太古からある商品

結局のところ、私たちを地球上のほかの生物たちとは異なる存在にしているものは、言語なのである。
  ――第9章 言語 唯一無二のスキル

【どんな本?】

 SF作品には様々な異星生物が登場する。スタートレックのヴァルカン人やボーグ,スターウォーズのイウォーク,デューンのサンドワーム、そして ET Phone Home。魅力的ではあるが、現実に彼らは存在しえるのだろうか。

 近年になって、地球に似た、いわゆるハビタブル・ゾーン(→Wikipedia)に存在する惑星が見つかっている。とはいえ、本書では、地球型に限定しない。宇宙における惑星の環境は様々だし、そこに生まれる生物も色とりどりだろう。

 それを踏まえた上で、科学的に言えることはある。どんな環境であろうと、すべての生物は、幾つかの共通した条件に縛られているのだ。この共通した条件から、生物ならば満たす必要がある性質が見えてくる。それは異星生物であろうとも同じだ。

 動物学者が、地球上の動物に関する豊富な知識を元に、異星の生物の様子を科学鉄器に推論する、ちょっと変わった一般向けの科学解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Zoologist's Guide to the Galaxy : What Animals on Earth Reveal about Aliens – and Ourselves, by Arik Kershenbaum, 2020。日本語尾版は2024年4月17日第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約378頁に加え、訳者あとがき4頁。9ポイント46字×18行×378頁=約312,984字、400字詰め原稿用紙で約783枚。文庫なら厚めの一冊分。

 文章は比較的にこなれていて読みやすい。内容もわかりやすい。動物学者が書いた本なので、見慣れない動物の名前が出てくるが、「ふーん、そんな動物がいるのね」ぐらいに思っていればいい。あと、明らかに著者はSFファンなので、SF、それもファースト・コンタクト物が好きな人は見逃さないように。

【構成は?】

 科学の本だ。そのため、前の章を基礎として次の章が展開する。よって、できれば素直に頭から読もう。

クリックで詳細表示
  • 第1章 はじめに
  • 第2章 形態vs機能 すべての惑星に共通するものとは?
  • 第3章 動物とは何か、地球外生命体とは何か
  • 第4章 運動 宇宙を走り、滑空する
  • 第5章 コミュニケーションのチャネル
  • 第6章 知能 それが何であれ
  • 第7章 社会性 協力、競争、ティータイム
  • 第8章 情報 太古からある商品
  • 第9章 言語 唯一無二のスキル
  • 第10章 人工知能 宇宙はロボットだらけ?
  • 第11章 私たちが知る人間性
  • 第12章 エピローグ
  • 謝辞/訳者あとがき/もっと知りたい人のために/図版リスト/索引

【感想は?】

 ある意味、書名はペテンだ。最後にこう告白してるし。

みなさんは、本書が地球外生命についてのみ書かれた本だと思っていたかもしれないが、実際には生命一般、つまり最も基本的な意味におけるあらゆる生命に関する本であり、ほかの惑星の生命に負けず劣らず、地球の生命について扱っている。
  ――第12章 エピローグ

 まあ、これは、普通に読んでいればだいたい想像がつくんだがw 基本的には、「進化」を扱った本なのだ。それも、「いかに子孫を残すか」を目的としたゲーム、つまり生存競争から導かれる、「あらゆる生物に共通する性質」を見いだそうとする内容である。

 そのための道具の一つは、著者の動物学者としての豊かな、だが地球の生物に限られた、多様な生物の生態の知識だ。そしてもう一つの道具が、ゲーム理論である。地球の生物の生態を生データとして用い、ゲーム理論で検証・整理・構造化し、すべての生物に共通する性質を見つけ出し、異星生物に適用する、そんな仕掛けである。

 もう一つ、書名はペテンを含んでいる。実は、エイリアンの「姿」には、あまり触れてない。むしろ能力や性質や振る舞いが中心だ。いや一応、平行進化(→Wikipedia)に触れて「似たニッチの生物は似た形になる」ぐらいは語ってるし、複雑な生物はたぶん左右対称だろう、とも匂わせている。

スピードとエネルギー効率の点で、左右対称性を欠く動物は、脚やひれなどの左右対称の付属器を持つ動物には太刀打ちできない。
  ――第4章 運動 宇宙を走り、滑空する

 また、脚は意外と重要な発明なんだな、と感じさせたり。私が脚フェチなのは、そのせいか←違う

圧倒的多数の動物は、摩擦を小さくするために脚を使って表面から体を持ち上げた。
  ――第4章 運動 宇宙を走り、滑空する

 話がヨレた。本論に戻ろう。本書が基盤とするのは、次の理屈だ。

進化の法則はどの惑星でも似ている
  ――第2章 形態vs機能 すべての惑星に共通するものとは?

 進化の法則、つまりは生存競争だ。そこでより多くの子孫を残す者が生き延びる。とはいえ、進化が生じるには条件がある。

進化には圧力と競争と欠乏が必要である。
  ――第3章 動物とは何か、地球外生命体とは何か

 とはいえ、普通に増えていけば資源が足りなくなって必然的に競争になるんだが。

 競争を生き延びるため、生物が用いる手段の一つが進化だ。子の形や能力や性質が、親とは少し変わる。ただし、変化そのものは中立というか闇雲で、「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」なんだが。そのうえで、うまいこと当たりの変化を引き当てた者が勝者となる。ちなみに進化を語るには条件があって…

 動物行動学者ニコ・ティンバーゲン(→Wikipedia)が唱える、動物の行動/機能を説明する際に満たすべき四つの異なる方法

  • メカニズム
    1. どう機能するのか
    2. どう体内で発達したのか
  • 理由、原因
    1. 進化のなかで、なぜ生じたのか
    2. 進化上で、どう得なのか

 だそうで、本書は主に「4. 進化上で、どう得なのか」を中心にエイリアンを考えてゆく。

 構成の関係か、扱うエイリアンは段階的に複雑になってゆく。原始的な生物から複雑な生物へ、そして社会を形成し知能を獲得するのだ。そのためか、前半では物理的・力学的なネタも出てきて、先の脚もそんなネタの一つだ。

 だが水棲生物は脚を持たぬ種も多い。つかイルカは脚がヒレになってるし。このヒレ、単に揚力や推力を生み出すワケじゃないらしい。

魚が尾びれを左右に振ると、たばこの煙の輪のような回転する水の輪(渦輪)が次々にできる。隣り合う渦輪は互いに逆向きに回転して後方への噴流を作り出し、それが魚に推力を与えているのである。
  ――第4章 運動 宇宙を走り、滑空する

 そんな複雑なことが起きてたのか。だとすると、尾びれの表面の摩擦力も、ある程度は決まってきそう。

 など、序盤では主に単独での振る舞いを扱うのに続き、中盤以降は他の生物との関わりを考えてゆく。まずは相手に何らかのメッセージを送る方法だ。音・光・電流など、幾つか候補はあるが、最も便利なのは音だ。

音はある重要な特性をもっているがゆえに、(地球上では)コミュニケーションの主要な手段となっているのだ。それは障害物の裏側に回り込む「回折」という特性である。
  ――第5章 コミュニケーションのチャネル

 障害物があったら、光は届かない。でも音なら聞こえる。しかも広い範囲に。加えて…

音の第二の利点は速さである。
  ――第5章 コミュニケーションのチャネル

 光と比べたら桁違いに遅いとはいえ、例えば「捕食者がいる!」みたいな警告を伝えるには、充分な速さだ。おまけに…

音にはほかにも大きな利点がある。(略)非常に簡便かつ大量の情報を伝達できることだ。このことを専門用語で「帯域幅が広い」という。
  ――第5章 コミュニケーションのチャネル

 帯域幅なんて言うと偉そうだが、短い声でも「嬉しそう」「怒ってる」「悲鳴」みたいな、表情・感情を乗せられるのだ、音は。ちなみに悲鳴には、特徴があって、ちゃんと科学的に分析もできてる。

私たちが悲鳴を表現するのに使う「鋭い」とか「耳をつんざくような」とか「耳障りな」といった形容詞は、その音の周波数が予測不可能な変化をすることを表している。
  ――第8章 情報 太古からある商品

 黒板を爪で引っかく音も、そうなんだろうか。

 まあいい。いずれにせよ、生物が音を出すには、何か目的がある。雄が雌を惹きつける、縄張りを主張する、捕食者がいるとの警告、雛鳥が餌をせがむ等。いずれも、他者の行動を変えるのが目的だ。

自己の利益のために他者に影響を及ぼすこと。これこそがコミュニケーションの本質である。
  ――第8章 情報 太古からある商品

 とすると、独り言はなんなんだろ? もしかして知性の印なのか? まあいい。いずれにせよ、音を出すにはコストがかかる。雌を惹きつけるための歌は、同時に捕食者も引き寄せる。捕食者が居ると警告すれば、自分の位置を捕食者に教えてしまう。

すべての社会的動物は社会的シグナルを発達させているはずだ。なぜなら、あらゆる協力には本質的な対立が内在するからである。他者を助けるために自分を犠牲にするとき、自分は搾取されるおそれがあるのだ。
  ――第7章 社会性 協力、競争、ティータイム

 ということで、タダ働きはあり得ない。社会的シグナルには、何らかの見返りがあるはずなのだ。…とすると、ボイジゃーのゴールデンレコード(→Wikipedia)は、エイリアンにどう解釈されるんだろうか?

 などの下世話なネタとは別に、著者の科学者としての姿勢が心地よかったりもする。口ぶりは穏やかだが、内容はリチャード・ドーキンス並みに過激だったり。やはり「種の起源」で大論争を巻き起こしたチャールズ・ダーウィンに連なる生物学者の矜持だろうか。

科学の歴史とは、人間が万物の頂点の座から引きずり落される歴史である。
  ――第1章 はじめに

 なんてね。地動説で大地は宇宙の中心から辺境に落ちぶれ、進化論で「神に似せて創られしもの」ではなくなった。ほんと、ある種の人から科学が嫌われるのも頷ける。

科学の仕事の一つは、確立された真実を覆し、新たな真実に置き換えることだ。
  ――第11章 私たちが知る人間性

 とかもね。科学は、常に変わってゆくものなのだ。

 また、これは科学というより哲学に近いんだが、こんなのも。

あらゆる二分法と同じく知能の二分法もほぼ間違っている
  ――第6章 知能 それが何であれ

 これの具体例としては、犬・狼・コヨーテなどは一つの種か別種か、なんて問題を挙げる。これの解が、私にはストンと腑に落ちた。

生物学者リチャード・ドーキンス(→Wikipedia)「現生の鳥類と原生の非鳥類(哺乳類など)の区別が明確なのは、共通祖先にまで遡って集約される中間にいた生物がすべて死んでいるからこそなのだ」
  ――第11章 私たちが知る人間性

 そして「やっぱりコイツSF者じゃん」と確信したのは、このくだり。

SF作家というのは、人類が目を見張るような新たな能力を進化させた未来の世界――あるいは地球外の世界――の哲学的意味合いを、真剣に問い続けてきた数少ない人々なのだ。
  ――第10章 人工知能 宇宙はロボットだらけ?

 具体的な作家名はフレッド・ホイルとC.S.ルイスぐらいしか出てないし、どうもそういう時代の作品がお好みらしい。きっとオラフ・ステープルドンも好きなんだろうなあ。

 一見イロモノっぽいタイトルだし、実際に著者もSFファンらしく、そういう発想の柔軟性は充分に発揮している。が、その基盤となっているのは、冷酷な生存競争とゲーム理論の原理だ。実際に想像しているのは姿形より性質・性格・思考法・振る舞いなどだが、進化の原理からどこまで想像できるか、が面白い。当然ながら、ファースト・コンタクト物が好きなSF者にお薦め。

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2024年9月 8日 (日)

ライアン・ノース「科学でかなえる世界征服」早川書房 吉田三知代訳

これは、科学の限界と、科学の未解決問題についての本だ。(略)
別の言い方をすると、本書は本物のスーパーヴィランになり世界を征服することを指南するノンフィクションである。
  ――おことわり

不可能に違いないと思えるのに、どういうわけか不可能ではない領域こそ、スーパーヴィランの活躍の場なのだ。
  ――第1章 スーパーヴィランには秘密基地が必要だ

どんな犯罪にも3つの段階がある。計画、実行、そして逃走だ。
  ――第4章 完全犯罪のために気候をコントロールする

地磁気は、方位磁石が使えるようにしてくれているだけでなく、太陽風の大半が地球に届かないように遮ってくれる。地球上に生物が存在できるのも、地磁気がこうして守ってくれているからだ。
  ――第5章 地球の中心まで穴を掘って、地球のコアを人質にする方法

地球に存在した事のある種の中で、化石記録に一つでも載っているのは、1万種に1種でしかない
  ――第9章 あなたが決して忘れられないようにするために

この世界は大きく複雑で困難で不公平かもしれないが、それは知ることができる。
  ――結び:今やあなたはスーパーヴィラン、宇宙にあるすべての世界の救世主

【どんな本?】

 ヴィラン、悪役。漫画やコミックの世界では、悪役こそが物語を牽引する。悪役が卓越した技術と能力で世界を危機に陥れるから、ヒーローに活躍の場が与えられる。悪役は自らの主義と美学に従い、充分な時間と資金を用意し、周到に計画を練り、必要な技術を開発して計画を実施する。それでも、大抵の場合は幸運に恵まれただけのヒーローに計画を覆されてしまう。

 それでも、本物の悪役はくじけない。潤沢な資金と先端の科学技術そして強い意志と充分な時間を掛けたなら、果たして悪役はどこまでできるのか。

 まずは秘密基地を構築し、自らの国を興し、世界を混乱に叩き込み、己の名を永遠に残すには、どうすればいいのか。

 コミックの原作者でもある著者が、「ゼロからつくる科学文明」に続いて送る、科学をオモチャにして「もしも」を妄想する、ユーモラスな科学解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は How to Take Over the world : Practical Schemes and Scientific Solutions for the Aspiring Supervillain, by Ryan North, 2022。日本語版は2023年7月25日初版発行。単行本ソフトカバー横一段組み本文約417頁に加え、訳者あとがき3頁。9.5ポイント33字×29行×417頁=約399,069字、400字詰め原稿用紙で約998枚。文庫なら上下巻ぐらいの分量。

 文章はくだけていて親しみやすい。ただ、クセが強いので、好みは別れるかも。一応カテゴリは科学/技術としたが、実は歴史上のトリビアも豊かに載っている。そういう点では、アイザック・アシモフの科学解説書の伝統を受け継ぎつつ、独自の芸風を発展させた本でもある。

【構成は?】

 一応タテマエとして、最初の「おことわり」は読んでください。以降は美味しそうな所を拾い読みしてもいい。

クリックで詳細表示
  • おことわり
  • はじめに:こんにちは、そして、世界征服について私が書いた本をお読みくださり、ありがとうございます
  • 第1部:スーパーヴィランの超基本
  • 第1章 スーパーヴィランには秘密基地が必要だ
  • 第2章 自分自身の国を始めるには
  • 第2部:世界征服について語るときに我々の語ること
  • 第3章 恐竜のクローン作製と、それに反対するすべての人々への恐ろしいニュース
  • 第4章 完全犯罪のために気候をコントロールする
  • 第5章 地球の中心まで穴を掘って、地球のコアを人質にする方法
  • 第6章 タイムトラベル
  • 第7章 私たち全員を救うためにインターネットを破壊する
  • 第3部:犯罪が罰せられなければ、犯人はそれを犯したことを決して悔いない
  • 第8章 不死身となり、文字通り永遠に生きるには
  • 第9章 あなたが決して忘れられないようにするために
  • 結び:今やあなたはスーパーヴィラン、宇宙にあるすべての世界の救世主
  • 謝辞/参考文献/訳者あとがき

【感想は?】

 そう、この本の面白さは、科学・雑学エッセイ本の面白さなのだ。

 独特の味付けはある。文体は今風にくだけているし、そもそも企画からしてアメリカン・コミックの悪役が主役だ。が、それも本書なりの狙いによるものだ。

 何せ世界を征服しようと目論む悪の超人である。充分な資金があり、長期にわたる計画を強い意志で押し通し、そして倫理に縛られない。大抵の科学者・工学者が「出来るわけねえだろ」をオブラートに包んで言いかえる「理論的には出来ます」を、本当にやっちゃえる奴らなのだ。制限としては「科学的に可能か否か」だけ。妄想のネタとしては実に便利である。

 そんな悪役が挑む課題は、秘密基地建設・独立国家建国・恐竜の復活・気候制御・不老不死などと、かつては男の子だった者たちの心が躍りまくるもの。しかも、それぞれに初期投資・期待収益・完了までの予測期間を示した事業計画概要つき。おお、本格的じゃないか。

 その秘密基地なんだが、邪魔してくるのが既存の国家なのがいじましく切ない。本書は完全な自給自足を求めているのも、計画の達成を難しくしている。とまれ、考えてみたら、近くの町に買い出しに行く悪役ってのもシマらないかw

 ここで披露する、長時間の閉鎖環境バイオスフィア2(→Wikipedia)の顛末や最長連続飛行記録そしてブルジュ・ハリファのラマダンの断食明けの時刻の話など、細かいトリビアも楽しい。

 第3章では、恐竜を蘇らせる計画に挑む。だってカッコいいし。ただ、その手段はさすがに意表をついてきた。ついでに収益化の手段も。なんだよKFDってw

 などの、いわば物理的な創造/破壊を目指す計画に対し、第7章はいささか毛色が違う。何せインターネットの破壊だ。歴史は浅く、最近になって人類が生み出した技術のクセに、やたらしぶとい。この章では、ケン・トンプソンの登場が嬉しかった。

 そして、第3部では永遠に挑むのである。まずは己の生命を、次に己の記録を。

 不老不死に挑む第8章では、不老不死を求めた歴史上の人物たちのエピソードが、なかなかクる。なんといっても、結局はみんな失敗してるワケだし。にも関わらず、皆さん自信満々な言葉を残すのは、なぜなんだろうね。

 最後の第9章では、記録永遠に残す事業への挑戦だ。ここでも、今まで人類が試みた手段が紹介されるんだが、やはりコンピュータ関係はネタが豊富だなあw 電子化ってのは、意外と長くモタないんです。その次に突き当たる、別の「ソフトウェア」の寿命も、「その問題があったか!」と意表を突く問題。確かに数百年前の事を考えれば、そうなるよなあ。

 しかもこれ、既に対策せにゃならん問題があり、今もなお増えつつあるのが怖い。本書が紹介するのは合衆国の話だけど、日本もヒトゴトっじゃないのだ。どうするんだろうね、マジで。

 その記録を残す媒体も問題だが、場所も難しい。ここでは、墓場軌道(→Wikipedia)が面白かった。これを扱ったSF小説って、あるんだろうか? ちょっと読んでみたい。

 などと気軽に読みつつ、最後の最後で、「もしかしてアメリカン・コミックの悪役より日本の変身ヒーローの悪の組織のがイケてね?」と感じさせるのも趣深い。いやきっと著者は気が付いてないけど。

 コミックの悪役に夢を託し、技術的にも経済的にもそして倫理的にも困難な計画に挑み、そこに立ちふさがる科学的・社会的な壁とその越え方を妄想するだけでなく、かつて実際に試みた人々のトリビアを取り混ぜて語る、科学と歴史と雑学の楽しいエッセイ本。この著者の味付けだと、特に雑学が好きな人にお薦めだ。

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2024年9月 3日 (火)

ニック・エンフィールド「会話の科学 あなたはなぜ『え?』と言ってしまうのか」文芸春秋 夏目大訳

私は本書で、これまでの主流となってきた言語研究で何が見過ごされ、除外されてきたかを話したい。そして、会話というものの内部構造を詳しく解説し、それこそが言語研究の主たる対象であるべき理由をわかってもらいたい。
  ――第1章 はじめに そもそも言語とはどういうものか

人間の会話の場合は、お互いに相手の行動を最大限、「関連性のあるもの」として扱って解釈するよう努力する。
  ――第6章 質問と答えの関連性

人間は「会話機械」を持つ(略)。この機械は、言語の基本的な特性、人間の社会的認知能力、そして相互交流の文脈などに依存して機能する。
  ――第9章 結論 会話の科学が起こす革命

【どんな本?】

 フェルディナン・ド・ソシュール(→Wikipedia)もノーム・チョムスキー(→Wikipedia)も、従来の言語学は「書き言葉」を中心に研究してきた。

 研究対象の文章は文法的に正しく、完結している。そして会話によく現れる「あー」「え?」「うんうん」などの無駄に思える言葉はない。また、声の高低や強弱・間の長短などの情報も含まない。

 だが、言語はもともと話し言葉から始まった。言語の歴史から見れば、書き言葉は遥か後になって現れた新参者だ。では、話し言葉=会話を研究・分析をすると、何が分かるだろう?

 英語・日本語・中国語など、世界には様々な言語がある。だが、会話の研究では、多くの言語に共通したルール/お約束が見えてくる。もちろん、言語による違いもある。

 従来の言語学とは全く異なった、会話を対象とした研究で見えてきた言語/会話の性質、そしてそこに現れる、人類の意外な能力と性向を描き出す、一風変わった言語学の一般向け解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は How We Talk : The Inner Workings of Conversation, by Nick J. Enfield, 2017。日本語版は2023年3月30日第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約224頁に加え、訳者あとがき4頁。9ポイント42字×19行×224頁=約178,752字、400字詰め原稿用紙で約447枚。文庫なら普通の厚さ。

 文章はこなれていて読みやすい。内容も分かりやすい。先にソシュールやチョムスキーの名を出したが、言語学を知らなくても問題ない。できれば「今のところ、著者は言語学の王道ではなく特異な分野を担っている」ぐらいに思ってほしい。日本語以外の言語も、あまり知らなくていい。英語のグラマーが苦手でも問題ない。映画やドラマで会話の場面を見たことがあればいい。

 要は「おしゃべり」の研究なのだ。必要なのは、友達や家族と、どうでもいいおしゃべりをした経験である。

【構成は?】

 第1章は本書の全体を案内する部分なので、最初に読もう。以降は美味しそうな所をつまみ食いしてもいい。

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  • 第1章 はじめに そもそも言語とはどういうものか
  • 第2章 会話にはルールがある
  • 第3章 話者交代のタイミング
  • 第4章 その1秒間が重要
  • 第5章 信号を発する言葉
  • 第6章 質問と答えの関連性
  • 第7章 会話の流れを修復する
  • 第8章 修復キーワードは万国共通
  • 第9章 結論 会話の科学が起こす革命
  • 謝辞/注釈/参考文献/訳者あとがき

【感想は?】

 真面目な解説書である。そのくせ、やたらと「ツカミ」が巧い。

 なにせ「第1章 はじめに そもそも言語とはどういうものか」で、多くの言語(によるおしゃべり)に共通するこんな性質を、冒頭で惜しげもなくバラしてしまう。

  1. 質問されて答えるまでの時間は、平均で約200ミリ秒。
  2. どの言語でも、「はい」と返すより「いいえ」と答えるほうが時間がかかる。
  3. 約1秒で返答があれば普通と判断し、それより速ければ「早い」、遅ければ「遅い」または「返事がない」と判断する。
  4. 会話中、84秒に1度、「え?」「誰が?」など、必ず誰かが確認する。
  5. 約60語に1語は「えーと」「あー」など、無意味っぽい言葉が出る。

 この辺で「ほう?」と思った人は、本書を楽しめるだろう。

 なんとなく原因や理由の見当がつく性質もある。例えば 2. だ。この理由は、人間の意外?な性質を反映している。おしゃべりとは、参加者がルールを守って協力し合う作業であり、人間はおしゃべりを成立させるため律義にルールを守って協力し合う、そんな性質である。繰り返す。おしゃべりとは、共同作業なのだ。

 では、おしゃべりに必要な性質・能力とは、どんなものか。本書では、様々な言語を研究・分析するだけでなく、ボノボやチンパンジーなど他の動物も調べてゆく。そこから現れる人類の能力・性質は、実に心温まる姿をしている。

社会文化的な認知能力――他者の心を読む能力、関連性を推測する能力、社会関係に道徳的な義務を感じる能力――が人間の会話機械の核にあると思われる。
  ――第6章 質問と答えの関連性

 これらの機能を担っているのが、従来の言語学で無視されてきた「はい」「え?」「あー」などの、無意味に思える言葉…どころか、うなり声に近いシロモノだったりする。

 中でも最も印象に残ったのは、「ええ」「はいはい」「うんうん」に当たる言葉、つまりは「相槌」「うなずき」だ。従来の言語学では、ほぼ意味のない単語だろう。

 だが、会話では重要な役割を担う。「私はあなたの話を聞き取れた、そして理解した」「私は話し始める気はない」「話を続けろ」などのメッセージを相手に伝えているのだ。短い声にもかかわらず、なんと豊かな意味を含んでいることか。

 この章で紹介する、相槌を省いた実験の結果は、衝撃的なまでに切ない。相槌が得られないと、語り手はボロボロになってしまうのだ。

 とまれ、情報理論によると、頻繁に使う符号を短くすれば伝送効率が良くなるので、短い声なのは理に適っているのか…などと考えてしまうのは計算屋の悪い癖か。

 更に計算機屋の悪い癖を続けると、本書の研究対象はデジタル通信で言うOSI参照モデル(またはOSIの7層モデル、→Wikipedia)のセッション層あたりだろう。対してチョムスキーなどは、HTML や Python などの言語の文法を対象としている。つまり、両者は対立しているのではなく、異なる領域を調べているのだ。

 そこで先の相槌だ。これはデジタル通信だと ack(肯定応答、→Wikipedia)に当たる。だとすれば、会話で極めて重要な役割を担っているのも頷ける。

 対する nck(否定応答、→Wikipedia)に当たる言葉(というか声)の話題もあり、これまた会話の参加者が「できるだけ効率的に会話を進めよう」と努めている姿が見えてきて、「人間って、おしゃべりするために、ここまで真面目に頑張るんだ」と驚いてしまったり。

 これらを知ると、人間がおしゃべり好きなのも、当たり前だなあと思えてくる。おしゃべりとは、共同作業であり、お互いに協力し合って成り立つコトなのだ。つまり、おしゃべりする間柄とは、協力し合える間柄でもあるのだから。

 従来の言語学から見れば、いささか変わった分野・アプローチではある。が、真面目な学問・研究でもある。にも関わらず、本書の内容は分かりやすく親しみやすい。なにより、私たちが日頃から体験し行っていることでもあり、身近で興味深い。なんたって、本書が扱っているのは、私自身そしてあなた自身の事なんだから。

 言語学の難しい理屈は知らなくてもいい。先にバラした会話の5個の性質に興味を惹かれたら、きっと楽しんで読めるだろう。

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2024年8月 6日 (火)

アダム・クチャルスキー「感染の法則 ウイルス伝染から金融危機、ネットミームの拡散まで」草思社 日向やよい訳

これはひとつのウイルス、あるいはひとつの感染爆発についての物語ではなく、僕たちの生活のあらゆる面に影響を与える感染という現象についての物語であり、それに対して僕たちに何ができるかについての物語である。
  ――序章

マサチューセッツ工科大学の研究者が、正確なニュースよりも誤ったニュースの方が、より速く、より遠くまで広がりやすい事を発見している。(略)人は新しい情報を広めえるのが好きだが、誤ったニュースは正確なニュースよりも一般に目新しい。
  ――第5章 オンラインでの感染

【どんな本?】

 新型コロナやエボラなどの感染症は、あるパターンにしたがって感染者が増減する。このパターンは、感染症ばかりでなく、意外なモノゴトの流行りすたりにも適用できる。コンピュータウイルスは、比較的に連想しやすい。デマやフェイクニュース、インターネット上の「バズる」なども、想像はつく。だが、金融危機や暴力犯罪はどうだろうか?

 数学を専攻した後、ロンドン大学衛生熱帯医学大学院で数理モデリングを教えている著者が、感染症対策で成立した数理モデルが様々なテーマに応用されている事例を紹介しつつ、連鎖的な金融危機の内幕やデマの広がり方を語る、ちょっと変わった一般向けの数学・社会学の解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Rules of Contagion : Why Things Spread and Why They Stop, by Adam Kucharski, 2020,2021.日本語版は2021年3月5日第1刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約379頁。9.5ポイント42字×17行×379頁=約270,606字、400字詰め原稿用紙で約676枚。文庫ならちょい厚め。

 文章はこなれていて読みやすい。内容も比較的にわかりやすい。著者は疫病対策に携わる数学者だが、数式はほぼ出てこないので、数学が苦手でも大丈夫。

【構成は?】

 序章と第1章は基礎を固める所なので、なるべくじっくり読む方がいい。第2章以降はそれぞれ独立した内容なので、気になった所を拾い読みしても大丈夫。

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  • 序章
    新型コロナウイルス重症化の解明/2つの対策シナリオ/あらゆる「感染爆発」が存在する/流行曲線でみる感染爆発/感染を比較し、解明する
  • 第1章 感染の理論
    ギランバレー症候群とジカ熱/数理モデルの夜明け前/マラリアの原因は「悪い空気」?/いかにしてマラリアを止めるか/マラリア伝染モデルの構築/「記述的手法」と「機構的手法」/実験できない問題に答えを出す/ロスの遺志を継ぐ者たち/「集団免疫」の概念の登場/ヤップ島の感染爆発を追う/ジカ熱を運んでいるのは何者か?/将来予測にも利用できる数理モデル/数理モデルを感染症以外に適用する/新製品の普及に必要な4タイプの人間
  • 第2章 金融危機と感染症
    間近で見た金融危機前夜/とりわけ目立った「住宅ローン」/群集の不安と強欲モデル化/バブルの主要な4段階/金融危機を疫学の知見で解明する/再生産数「R」/Rの4要因/スーパースプレッディングかどうか/ネットワークの構造を分析する/「エイズのコロンブス」の真偽/困難なスーパースプレッダーの特定/感染症による分断を避けるために/感染症と金融危機の類似/金融危機を引き起こしたネットワークとは?/金融危機の伝播を防ぐために何ができるか
  • 第3章 アイデアの感染
    概念は感染するのか?/ネットワーク調査の壁/接触行動から流行を予測する/人間で社会的実験は可能か?/既存のネットワークを利用する/複数の暴露による「複合伝染」/人は新しい情報を示されれば考えを改めるか?/バックファイア効果が実際に起こるのはまれ
  • 第4章 暴力の感染
    コレラの奇妙なパターン/暴力連鎖を分析する手立てはあるのか?/自殺の伝染/暴力連鎖を防ぐ3段構成/天然痘から学んだこと/データ調査もしていたナイチンゲール/調査vs安全/一回きりの暴徒化/テロと集団行動/モデルをどう利用するか/予測との付き合い方/オピオイドと現在予測/実態把握と制御/割れた窓を直せば犯罪は減るか?/オンライン交流の影響
  • 第5章 オンラインでの感染
    インフルエンサー登場/影響力があり影響されやすくもある人はいるか?/反ワクチンとエコーチェンバー現象/ソーシャルメディアがエコーチェンバー現象を加速する/コンテクストの崩壊/インターネットは格好の実験場/コンテンツも進化しなければ生き残れない/ヒッグス粒子の噂の拡散過程/威力の低い感染を正しく評価する/オンラインで流行を生む方法はあるか?/「のぞき見法」/指名式ゲームは感染爆発を産むか?/動画の人気3タイプ/測定値を評価することの罠/行動の追跡とその価値/人々を常にオンラインにさせるには/出会い系アプリと政治/高度化するターゲティングによる拡散/ミームの適者生存/東日本大震災でのデマ拡散はどうすれば減らせたのか/間違った情報に対抗していくために
  • 第6章 コンピュータウイルスの感染
    最初のコンピュータウイルス/マルウェアの諸症状/ワームの需要/生き残り続ける/コードシェアの問題/ウイルスのようにコードも進化する
  • 第7章 感染を追跡する
    進化の道筋をたどる/遺伝学的データからウイルスの時間と場所を特定する/遺伝子データ公開の障壁/言語・文化への応用/「垂直伝播」と「水兵伝播」/遺伝子データとプライバシー/GPSデータのブローカー/禁断の実験
  • 第8章 感染の法則を生かすために
    データがあっても常に問題を解決できるわけではない/困難な状況で最大限にデータを生かすために/大規模なデータ収集とその分析をどう進めるか/新たな感染に対応するために
  • 謝辞/原注/参考文献/索引

【感想は?】

 根本にある理屈は、「バースト!」や「複雑な世界、単純な法則」や「スモールワールド・ネットワーク」と同じだ。何かが伝播し蔓延する、そのパターンに関する本である。

 ただ、本書のアプローチは、数学が苦手な人にも親しみやすい。先の三冊が理論を詳しく説明しようとしているのに対し、本書は「現実にどんな事柄に使っているか、巧くいった点と巧く行かなかった点は何か」といった、生々しいトピックが中心だからだ。いわば数学の授業とニュース番組の違い、とでも言うか。

 さて、基礎となっている理屈は変数Rで説明が終わる。疫病で言えば、一人の感染者が平均何人にうつすか、を表す数字だ。これが1を超えれば、感染は広がる。1より小さければ、感染は収束する。

 これを理論化したのが、19世紀~20世紀初頭の医学者のロナルド・ロス(→Wikipedia)。マラリアの研究で1902年にノーベル生理学・医学賞を受賞している。そこで満足せず、更にマラリアの撲滅をめざして研究を続け、なんとあらゆる伝染症が感染を広げる過程の数理モデル化を目指すのである。

 そこで異端者であり先駆者でもある立場を覚悟した、彼の言葉がとても凛々しい。

「我々は最終的には新しい科学を打ち立てるだろう。しかしまず君と僕とでドアを開けよう。そうすれば、入りたいものは誰でも入ってこられる」
  ――第1章 感染の理論

 ここで私が驚いたのが、マラリア撲滅の試算。てっきり蚊を絶滅させにゃならんのかと思い込んでいたが、実はそこまでする必要はない。一定数まで減らせば充分なのだ。実際、「蚊が歴史をつくった」によると、一時期は猖獗を極めた南北アメリカもほぼ抑え込みに成功している。

 さて、先の再生産数Rなんだが、もう少し詳しく書くと、以下四つの変数が関係している。頭文字をとってDOTSと呼ばれる変数の内訳は…

  • Duration=持続時間。感染源となってから治るか隔離されるか死ぬかまで、何日かかるかを示す。当然、長いほどヤバい。新型コロナなら、罹患した人が引きこもっていればDが減る。
  • Opportunities=機会。新型コロナ患者が駅などの人の集まる所に行けば、Oは増える。自宅勤務が勧められる所以だね。
  • Transmission Probability=伝播に至る確率は、マスクなどで飛沫感染を防ぐのがこれだ。
  • Susceptibility=感受性は、ワクチンによる予防が該当する。

 さて、かようにマラリアの予防・撲滅を目的として研究が始まった数理モデルは、マラリアのみならず、あらゆる伝染病へと適用範囲が広がった。ばかりでなく、意外な分野にも進出してゆくのだ。

数理経済学者エマニュエル・ダーマン(→Wikipedia)「人間は限りある先見性と大きな想像力を持ち合わせている」「そこで、モデルは必然的に、創り手が夢にも思わなかったようなやり方で使われるようになる」
  ――第2章 金融危機と感染症

 このあたりは、数学が科学の女王にして奴隷たる所以がひしひしと感じられる所。その「創り手が夢にも思わなかったようなやり方」を紹介するのが第2章以降で、数学や理科が苦手な人でも楽しめるのはここから。

 アイデアやコンピュータウイルスは直感的にわかるが、金融危機や暴力の感染は、ちとわかりにくい。でも、ちゃんと数理モデルが応用できたりするから面白い。

 とはいえ、中には数理モデルに頼りすぎた弊害の話も出てきて、著者の姿勢は学者としての慎重さも保っている。やはり社会問題に使おうとすると、それぞれの人の立場や思想が出る上に、多くの要因が絡み合っているため、一筋縄ではいかないようだ。

 とまれ、マラリアの研究という、切実な問題から始まった研究が、異なる分野の数理モデルの助けを借りて、伝染病全般へと適用範囲を広げ、更に金融や防犯や広告などの全く異なる分野にまで進出した話として、なかなかに起伏に富んだ物語が展開し、野次馬根性で読んでも楽しかった。数学は苦手だが興味はある、そんな人にお薦め。

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2024年6月 6日 (木)

ランドール・マンロー「もっとホワット・イフ? 地球の1日が1秒になったらどうなるか」早川書房 吉田三知代訳

どれも絶対にご家庭では試さないでください。
  ――おことわり

マリオは1日何カロリーを消費しますか?
  ――さくっと答えます#1

【どんな本?】

 NASA のロボット工学者だった著者が、自分のサイトに集まった珍問・奇問に対し、時には真面目に計算し、または専門家に相談し、それなりに妥当な解を漫画を交えユーモラスに示した、一般向けの楽しい科学解説書その2。

 先の「ホワット・イフ?」が大ヒットしたためか、読者から寄せられる質問は量ばかりかバラエティも狂気もヤバさもグレード・アップし、著者は政府の監視リストにまで乗る羽目に。

 ということで、覚悟して読みましょう。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は What IF? 2 : Additional Serious Scientific Answers to Absurd Hypothetical Questions, by Randall Munroe, 2022。日本語版は2023年2月25日初版発行。単行本ソフトカバー横一段組み本文約381頁に加え、訳者あとがき2頁。9ポイント33字×29行×381頁=約364,617字、400字詰め原稿用紙で約912枚。文庫なら薄めの上下巻ぐらい…だが、紙面の半分ぐらいはイラストというか漫画なので、実際の文字数は半分ぐらい。

 文章はこなれていて読みやすい。内容も特に難しくない。たまに数式が出てくるが、読み飛ばしても問題ない。もっとも、ネタを含んだ式が稀にあるので油断はできないんだけど。

【構成は?】

 質問と回答は、一つの質問に5~10頁程度の解答が続く形。加えて前著の影響か多くの質問が集まったらしく、複数の質問にまとめて簡潔に答える「さくっと答えます」「ちょっとヤバそうな質問集」が間に挟まる。それぞれ完全に独立した記事なので、美味しそうな所だけをつまみ食いしてもいい。

 はじめに

読者からの質問と著者の解答

 謝辞/参考文献/訳者あとがき

【感想は?】

 馬鹿々々しい質問を真面目に計算して答えを出したうえで、想定外の結論に達するユーモア科学解説本の第2弾。

 しょっぱなから質問が狂ってる。「太陽系を木星のところまでスープでいっぱいにしたら、どうなりますか?」 えっと、5歳のアメリアちゃん、何故にスープw

 多少なりとも物理学を知っていれば、質量だけでもヤバい事になりそうなのは思いつく。が、真面目に計算する奴は滅多にいない。と共に、この回答でアメリアちゃんは納得するんだろうか、なんて疑問も浮かぶ。まあ、返答が返ってくる頃にはアメリアちゃんも質問を忘れているだろうなあw

 次に漫画でよくある、沢山の鳥に持ち上げてもらうって発想、やっぱりあったw 結論としては、色々と難しそう。

 科学的に「そうだったのか!」と感心するのも沢山ある。木星の一部分を家一軒分だけ地上に持ってきたら、は思いつかなかった。木星と言えば傑作冒険SF「サターン・デッドヒート」が思い浮かぶ…って、土星じゃん。まあ似たようなモンでしょ、巨大ガス惑星だし←をい この項では、私がスッカリ忘れていた巨大ガス惑星の特性を思い出させてくれた。確かに木星や土星に潜るのは難しそうだ←当たり前だろ

 やはり意外だったのがブランコ。子供の頃、欲しかったなあ、とっても長いブランコ。すんげえスピードが出そうで。ところが力学的に考えてみると、ブランコってのは不思議で。つまり外から運動エネルギーを与えてなくても、なぜか揺れが大きくなる。いや後ろから押すってのはナシで。これをキチンと考えてて、「おお!」と感心してしまった。とすると、支柱の材質によっては…

 など、マンロー君は真面目に計算しているかと思えば、鮮やかにハズす芸も楽しい。例えば「靴箱をいっぱいにして最も高額にする方法」。金やプラチナなど貴金属に続き、お高い物質としてプルトニウムを挙げ…おい、マズいだろw とソッチに思考を誘導しといて、ソレかいw

 やはり実際に計算してみるってのは面白いモンで、日頃から「そうだろうなあ」と思ってる事柄も、計算して結果が出ると、どひゃあ、となる時もある。「スマートフォンを真空管で作ったら?」も、その一つ。皆さんコンピュータの進歩はご存知だけど、計算結果を現実のモノで例えると、これがなかなか。まあ答えはいつも通り、コッチの思考の穴を突いてくるんだけどw

 まあ計算とは書いたけど、質問によっては実に大雑把な推計(フェルミ推定、→Wikipedia)で、中にはこんなのも。

誤差はゼロを2,3個付けたり取ったりする範囲だ

 いい加減な気もするけど、天文学者あたりは、この手の「1~2桁は誤差」な計算をよくやるらしい。こういうテキトーなネタがあることで、私は「とりあえずやってみよう」と気楽にいい加減な計算を試みることが増えた。いやソレで何かの役に立つワケじゃないけどw

 先の「ホワット・イフ?」が売れまくったためか、アレな人も惹きつけてしまい、著者にはこんな質問も寄せられる羽目になったのはご愁傷様と言うべきか。

エアフォースワンをドローンでやっつけるにはどうすればいいですか?
  ――ちょっとヤバそうな質問集#1

 えっと、それを尋ねて、どうするつもりなんだい?

 など、素っ頓狂な問いに笑いながら「アホな事を考えるのは俺だけじゃないんだ」と謎の安心感を抱き、真面目に調査・計算・シミュレーションする過程で「そんな方法もあるんだ」と感心し、アサッテの方向の結論に「ソッチかい!」と呆れる、楽しい科学と工学の本。肩の凝らない雑学が好きな人にお薦め。

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2024年2月22日 (木)

楢崎修一郎「骨が語る兵士の最後 太平洋戦争 戦没者遺骨収集の真実」筑摩書房

本書は、2011年から2018年まで、私が17回にわたって太平洋地域を中心に派遣された遺骨収集とその鑑定の物語である。
  ――おわりに

いまだに最後の様子もわからない兵士の骨が、戦後70年以上が過ぎた現在も、太平洋地域を中心とした激戦の地、玉砕の島々には数多く眠ったままだ。
  ――はじめに

現時点で大掛かりに遺骨収取に取り組んでいる国は、日本とアメリカの二ヵ国しかない。
  ――第1章 幻のペリリュー島調査

【どんな本?】

 太平洋戦争では、多くの将兵や民間人が亡くなった。海外での戦没者は(硫黄島と沖縄を含め)約240万人とされている。その多くは現地に葬られ、または海に流された。著者は主に厚生労働省の遺骨収集事業に同伴し、人類学者として遺骨の判定を行ってきた。

 というのも。骨が出てきても、必ずしも日本人の骨とは限らない。米軍将兵や現地人、果ては獣骨の場合もあるからだ。

 人類学者は、いかにして骨を見分けるのか。その際に、どんな事柄に配慮するのか。などの学術的な話題に加え、戦没者の遺骨収集の現場の様子を現地で遭遇するトラブルも含めて語る、ちょっと変わったルポルタージュ。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2018年7月15日初版第1刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組本文約215頁。9.5ポイント41字×16行×215頁=約141,040字、400字詰め原稿用紙で約353枚。文庫ならやや薄め。

 文章は比較的にこなれている。内容も特に難しくないが、ときどき人類学の専門用語が説明なしに出てくる。日本語の嬉しい性質で、「伸展葬」とかは文字を見ればだいたい意味が分かるのはいいが、寛骨(→Wikipedia、俗にいう骨盤の一部)など、主に骨の名前が多い。

 また、アチコチに地図があるので、栞を多く用意しよう。

【構成は?】

 はじめに~第2章までは基礎知識を語る所なので、最初に読もう。第3章~第6章はそれぞれ独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。

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  • はじめに
  • 第1章 幻のペリリュー島調査
    • 1 遺骨収集へのきっかけ
    • 2 各国の遺骨収集の比較
  • 第2章 骨を読む
    • 1 遺骨は誰が鑑定するのか
    • 2 骨の読み方
  • 第3章 撃墜された攻撃機 ツバル共和国ヌイ環礁
    • 1 現地調査までの困難
    • 2 現地到着から調査開始まで
    • 3 発見
  • 第4章 玉砕の島々
    • 1 銃殺された兵士 マーシャル諸島クェゼリン環礁
    • 2 集団埋葬の島 サイパン島
    • 3 不沈空母の島 テニアン島
    • 4 天皇の島 パラオ共和国ペリリュー島
  • 第5章 飢餓に苦しんだ島々
    • 1 処刑も行われた島 マーシャル諸島ミリ島
    • 2 日本のパールハーバー トラック諸島
    • 3 水葬の島 メレヨン環礁
  • 第6章 終戦後も戦闘が行われた島 樺太
  • おわりに
  • 参考文献/太平洋戦争関連年表

【感想は?】

 著者は人類学者、それも文化ではなく自然人類学者だ。その本領が出ているのが、第2章「骨を読む」。ここでは、人体の骨の構成から性別や年齢や民族ごとの違いなどを、駆け足で語ってゆく。

 骨盤で男女が判るのは有名だが、歯だけでも専門家が見れば多くの情報が得られるのが分かる。

我々アジア人の前歯と呼ばれる上顎切歯の裏は、凹んでいる。
  ――第2章 骨を読む

 とかね。ココを読んだとき、思わず自分の歯を指でまさぐってしまった。この歯による鑑定は、後の章でも日本人と現地人の判別で頻繁に登場するので覚えておこう。

 と書くと、著者は骨の形を見るだけのように思われるが、とんでもない。例えば「第3章 撃墜された攻撃機」では、探すべき陸攻の記録を調べ、一式陸攻ではなく96式陸攻じゃないか、などと当たりをつけている。当時の戦況や部隊の構成など、できる限りの情報を集めた上で現地に赴いているのだ。もはや探偵である。

 もちろん、集めるのは帝国陸海軍の情報だけではない。現地の分野や風習なども、遺骨の判定の重要な手がかりとなる。

全員、頭を北に向け、足を南に向けた伸展葬である。現地の人々は逆で、頭は南で足は北だという。
  ――第5章 飢餓に苦しんだ島々

 このあたりは、文化人類学の領域だろう。南洋の島々が多いだけに、ピンロウジュ(→Wikipedia)に染まった歯が決め手になったり。

 かと思えば、分かりやすい証拠として帝国陸軍の手榴弾が出てきたり。かなり危ない作業でもあるのだ。特に切なかったのが、ペリリューの話。

ペリリュー州の法律で、地表から15cmまでしか掘ってはならないという。この15cmの根拠はよくわからないが、地雷や爆弾が埋まっている可能性があるためという説明を後で受けた。
  ――第4章 玉砕の島々

 勝手にやってきた連中が勝手に争ったため、現地の人々が今でも不便な思いをしているのだ。彼らの気持ちは複雑だろう。そのためか、「そこは俺の土地だから金を払え」とゴネられたり。そういった、現地の人々への心遣いも遺骨収集を巧く進める大事なコツ。

現地の人々の共同墓地で発掘調査をする際は、衆人環視の中で説明しながら行うことが重要である。
  ――第3章 撃墜された攻撃機 ツバル共和国ヌイ環礁

 ヨソ者がやってきて俺たちの墓を掘り返すとなれば、そりゃ心穏やかではいられない。たいてい、専門家がやる作業なんて素人には意味不明である。そこで、あらぬ誤解を避けるために、「今は何をしてるか、この作業にはどんな意味があるのか、それで何が分かったのか」を野次馬たちに説明し、理解してもらえるように努めるのだ。こういう細かいことが大事なんだろうなあ。

 それと、もう一つ意外だったのが、遺骨収集団のスケジュールが極めて厳しい点。なにせ南洋の島々だけに、現地にたどり着くまで3日ぐらいかかる。しかも船のエンジンが止まるなど、トラブルに見舞われることもしばしば。にもかかわらず、許された日程が8日ぐらいだったりで、実際の作業に充てられるのが2~3日しかない。せめて一カ月ぐらいかけてもいいんじゃないかと思う。

 かつての戦場を訪れ亡くなった方々の最後を再現する作業だけに、どうしても悲惨な場面を思い起こさなきゃならん場合もある…というか、特にテニアン島やサイパン島は民間人の犠牲者も多いため、なかなか読んでいて辛かった。

サイパン島やテニアン島の洞窟を調査していると、時々、部分的に焼けた焼骨が出土することがある。これらは恐らく、米軍による火炎放射器による犠牲者であると推定される。
  ――第4章 玉砕の島々

 この辺、著者はあくまで学者として冷静な姿勢を保っているが、故人の想いが起こしたかのような奇妙な出来事もあって、オカルトと片づけたくもあるが、そういった所に著者の故人に寄せる追悼の気持ちが表れているようにも感じるのだ。

 終盤、ペレストロイカの影響で入国が許された樺太での活動に続き、最後の「おわりに」で語る著者の、「いつの日か、ビルマに収骨する日が来ることを望んでいる」との想いが切ない。

 人類学者としての遺骨の判別という、いわば単なる事実確認を求められる立場で体験した事柄を書いた本だけに、乾いた筆致を心がけた文章が続く。が、行間には故人を悼む気持ちが滲み出ている。

 遺骨収集とは、過去にケリをつける儀式ではない。まさしく過去を掘り返し、私たちの眼の前に突きつける、厳しい歴史の授業なのだ。

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2024年2月 8日 (木)

ダニエル・オーフリ「患者の話は医師にどう聞こえるのか 診察室のすれちがいを科学する」みすず書房 原井宏明・勝田さよ訳

本書では、何名かの医師と患者が歩んだ道筋をたどり、一つのストーリーが人から人にどのように伝わるかを考察する。
  ――第1章 コミュニケーションはとれていたか

…患者がその数字をもとに医師を選択するとはかぎらない。患者は、信頼できる医師を選ぶ傾向がある。
  ――第2章 それぞれの言い分

「医学部の授業では、患者に悪いニュースを伝えなければならないときは、その後に大事なことは一切言うなと教わります。悪い知らせを聞かされた患者は聞く耳を一切持たないからです」
  ――第3章 相手がいてこそ

ストーリーを語るという行為は語り手にとってとても治療的であり、そしてそれを聞くことも聞き手にとって治療的である。
  ――第5章 よかれと思って

敬意のこもったふるまいには伝染性がある。
  ――第13章 その判断、本当に妥当ですか?

【どんな本?】

 問診。医師が「どうしましたか?」と問い、患者が「腹が痛くて…」などと答える。それこそ医療が呪術師の領分だった大昔からの、医療の基本だ。

 顕微鏡以来、医学や薬学は長足の進歩を遂げた。レントゲン,CTスキャン,MRIなど、最新技術を駆使した医療機器も充実してきた。だが、基本となる問診は、どうだろう?

 内科医の著者が、自らの経験や先輩友人知人に加え患者への取材、そして師からの教えを元に、問診の重要性とその技術を磨くことの大切さを訴える、医師向けの啓蒙書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は What Patients Say, What Doctors Hear, by Danielle Ofri, 2017。日本語版は2020年11月10日第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約275頁に加え、原井宏明による訳者あとがき2頁。9ポイント48字×19行×275頁=約250,800字、400字詰め原稿用紙で約627枚。文庫なら厚めの一冊分。

 意外と文章はこなれていて読みやすい。医学の本だけに専門用語はビジバシ出てくるが、「何か専門的な事を言ってるんだな」ぐらいに思っていれば充分だ。内容も特に難しくない。中学生でも読みこなせるだろう。敢えて言えば、病院に行って「なんかぶっきらぼうだよな」「先生、怖い」などの不満を抱えた経験があると、より切実に感じるだろう。

【構成は?】

 各章は緩やかに結び付いているが、それぞれ独立したエピソードを中心としているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。

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  • 第1章 コミュニケーションはとれていたか
  • 第2章 それぞれの言い分
  • 第3章 相手がいてこそ
  • 第4章 聞いてほしい
  • 第5章 よかれと思って
  • 第6章 なにが効くのか
  • 第7章 チーフ・リスニング・オフィサー
  • 第8章 きちんと伝わらない
  • 第9章 単なる事実と言うなかれ
  • 第10章 害をなすなかれ それでもミスをしたときは
  • 第11章 本当に言いたいこと
  • 第12章 専門用語を使うということ
  • 第13章 その判断、本当に妥当ですか?
  • 第14章 きちんと学ぶ
  • 第15章 ふたりの物語が終わる
  • 第16章 「ほんとうの」会話を
  •  謝辞/訳者あとがき/出典と註/索引

【感想は?】

 「患者は医師にどう語るべきか」な本だと思ったが、まったく違った。医師向けの本で、「医師は患者の話をどう聞くか」みたいな内容だ。

 じゃ医療と関係ない人には役立たないかというと、そうでもない。

 というのも。医師と患者の関係は、平等じゃない。たいていの場合、医師が圧倒的に強い。なんたって、患者は命を握られているのだ。専門知識だって、ない。血液検査の結果を見たって、チンプンカンプンだ。というか、様々な検査をするが、その意味や役割すら分からない。

 おまけに、医師は忙しい。一日に何十人もの患者を診る。患者からすればたった一人の医師だが、医師にとっては沢山の患者のうちの一人でしかない。

 そんな、いわば権力の勾配がある両者で、キチンと会話が成り立つのか?

 そう、往々にして、成り立っていない。いや強い側つまり医師は成り立っていると思っているが、患者はそうじゃない。医師の言葉が理解できなかったり、「ちゃんと話を聞いてくれない」と不満を抱いたりする。

イギリスの二人の心臓専門医が、自分たちの病院の患者にアンケートをとったところ、その多くが、心不全、ステント、心臓弁からの漏れ、エコー、不整脈といった、循環器病棟で常用される用語を正しく定義できていないことがわかった。
  ――第12章 専門用語を使うということ

 本書では医師と患者の関係だが、似たような関係は世間でよくある。上司と部下・教師と生徒・役人と民間人など、「強く忙しく大勢を相手にする側」と「弱く頼るしかない側」での会話だ。

 この勾配が、事態をややこしくする。医療で必要な事柄が、必ずしもちゃんと聞き出せるとは限らない。

診察でいえば、一人の医師の平均的な診察日に、診察の主目的まで容易に到達できない患者が数名いるということだ。
  ――第11章 本当に言いたいこと

 まあ、こういうのは、計算機屋も往々にして経験している。「それ、先に言ってよ~」って奴だ。もっとも、大抵の場合、権力勾配は計算機屋が圧倒的に弱いんだがw そういう経験をした計算屋は、次の言葉に深く頷くだろう。

患者は最良の教師だ。
  ――第14章 きちんと学ぶ

 計算機屋との共通点は、他にもある。最近になって、便利なツールが爆発的に増えた。楽になったようだが、そうでもない。というのも、それぞれの案件について、選択肢が増えすぎて最適なツールを選ぶのが却って難しくなってきたからだ。結局、使い慣れた道具に頼ったり。

過去半世紀の間に医学の知識と治療の選択肢は爆発的に増えたが、すべてをやりとげるのに使える時間は昔と変わらず15分程度である。
  ――第16章 「ほんとうの」会話を

 そんなワケで、計算機屋でも聞く技術の重要性は増してるんだが、それを体系立てて教える教程って…あるのかなあ。まあいい。少なくとも医学界では、幾つかの抵抗にあいながらも、ジワジワと広がっているらしい。

 その抵抗する気持ちも、ちょっとだけわかる気がする。

何世紀も前からシャーマンが使用している技術が、100万ドルをかけた大規模臨床試験の裏づけがある医薬品と同じくらい効果的であるという話には、(医師は)なにか漠然と不愉快さを感じる。
  ――第6章 なにが効くのか

 計算機屋なら、「そんな暇があったら新しい言語を学ぶ」みたいな感じ? とまれ、医師がじっくり話を聞くことの重要性を、認めた政府もあるのだ。

最近、オランダ政府は、傾聴の医療保険コードを承認した。つまり医師は、処置や検査と同じように、診察の一部として堂々と患者の話を聞けるということだ。
  ――第7章 チーフ・リスニング・オフィサー

 他にも、医療以外で役立つ話は結構ある。やはり計算機屋が苦しむのが、トラブル対応だ。計算機屋が集まってガヤガヤやっているが、肝心の顧客は置いてけぼり、なんてケースも昔は珍しくなかった。

ベンソン夫人は、文字通りの意味でも比喩的にも、廊下に取り残された。
  ――第10章 害をなすなかれ それでもミスをしたときは

 まあ、往々にしてしょうがないんだけどね。少なくとも原因が判明するまでは。でもって、イライラしてつっけんどんな対応しちゃったり。

医学は、私たちが期待するよりずっと不明瞭だ。だから、質問の紙が広げられたときから、自分があいまいな表現に終始することが――そして相手を失望させてしまうことが――予想できてしまう。私もそうだが、患者もいらいらするだろう。
  ――第4章 聞いてほしい

 また、要求仕様の確認とかだと、最近はキチンと文書でやりとりするんだろうけど、急ぎの仕事だと口頭でやりとりしたり。

事実を手短かに言いかえたいときは、最初に「きちんと理解できているかどうか確認させてください」と言えば簡単だ。このフレーズは、事実をはっきりさせるのに適した方法であるのみならず、本当に話を聞いているという、患者への確かな合図にもなる。
  ――第9章 単なる事実と言うなかれ

 もっとも、異様に気が短い相手だと、こっちが復唱してる時に口をはさんできたりするんだよなあ。なんなんだろうね、あれ。まあいい。

 他にも、人を説得する際の技術がちょっとだけ書いてあったり。

事実を繰り返し叩き込む戦略によって望ましい結果が得られることはほとんどない。
  ――第5章 よかれと思って

 どないせいちゅうねん、と思った方は、本書を読んでください。

 そんなワケで、「患者が気を付けるべきこと」ではなく、「医師が心がけること」の本であり、医師向けの本である。ではあるが、医療に素人の私でも楽しく読めた。エピソードは医療に限っているが、これはヒトとヒトとの会話の本なのだ。コミュニケーションに興味がある人や、オリヴァー・サックスのファンにお薦め。

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