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2026年5月 7日 (木)

ノーマン・オーラー「ヒトラーとドラッグ 第三帝国における薬物依存」白水社 須藤正美訳

ナチ党員は(略)厳格なドラッグ撲滅政策を展開した。だが、それにもかかわらず総統ヒトラーのもとで、抜群の効果をもち、きわめて依存性が強く、ことのほか人心を惑わすドラッグが大流行することになった。
  ――第1部 国民ドラッグ「メタンフェタミン」 1933年~1938年

ヒトラーは1941年秋からホルモンとステロイドの注射を受け、遅くとも1944年下半期以降はコカイン、さらにオイコダールが大量に使用された。
  ――第3部 ハイ・ヒトラー、患者Aと彼の主治医 1941年~1944年

オピオイド中毒は、もともと彼に備わっていた硬直した思考や決して自らの手を汚さない暴力行使の傾向を、セメントでさらに固めたに過ぎない。
  ――第3部 ハイ・ヒトラー、患者Aと彼の主治医 1941年~1944年

【どんな本?】

 晩年のヒトラーの記録を見ると、「頭おかしいんじゃね?」と感じる人は多い。この疑問に対し、「そうだよ、彼はヤクでラリってたんだ」と答えるのが本書である。

 どんなヤクか? 初期はビタミン剤やホルモン剤だったが、やがてペルビチン(メタンフェタミン,日本の俗称はヒロポン/シャブ)、コカイン、オイコダール(アヘン系鎮痛剤)などを連日注射していた。

 ヒトラーの主治医として彼に付き添った医師テオドール・モレル(→Wikipedia)の膨大かつ散逸したメモや処方箋を、著者は世界中を巡って調べ上げ、ヒトラーがヤクにハマってゆく様子を再現してゆく。

 と同時に、ドイツ陸海軍や親衛隊も熱心に向精神薬を研究・開発・利用していた由を暴き、当時の第三帝国が薬物まみれであった実態を描き出してゆく。

 小説家かつジャーナリストの著者が、丹念な調査と取材によって、第二次世界大戦に新しい角度から光を当てる、衝撃の歴史ドキュメンタリー。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Der totale Rausch: Drogen im Dritten Reich, Norman Ohler, 2015。日本語版は2018年10月5日発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約292頁に加え歴史家ハンス・モムゼンによる解説「ナチズムと政治的リアリティの喪失」2頁+訳者あとがき6頁。9.5ポイント45字×20行×292頁=約262,800字、400字詰め原稿用紙で約657枚。文庫なら厚めの一冊分。

 文章は比較的にこなれていて読みやすい。が、小説家らしくやや文学的な表現も多い。内容も特に難しくない。電撃戦やクスルク戦車戦などの重要な背景は、本書内で説明がある。とはいえ、大雑把な流れは掴んでいた方がいい。また、メタンフェタミンを初めとして聞きなれない薬物の名前が頻繁に出てくるのは覚悟しよう。

 メタンフェタミンは覚醒剤でペルビチン=ヒロポン/シャブ、オイコダールはアヘン系でモルヒネやヘロインの仲間、コカインはコカノキから作るアッパー系の向精神薬。

【構成は?】

 ほぼ時系列順に進むので、品雄に頭から読もう。

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  • 使用説明書 序文に代えて
  • 第1部 国民ドラッグ「メタンフェタミン」 1933年~1938年
    ブレイキング・バッド 帝国首都のドラッグ工房/19世紀の序曲 原薬物/ドイツ、薬物の国/化学の20年代/権力交代とは薬物交代なり/反ユダヤ政策としての反ドラッグ政策/クアフュルステンダムの有名医師/患者Aのための多剤カクテル注射/国民ドラッグを恃みとする民族体
  • 第2部 ジーク・ハイ 電撃戦はメタンフェタミン戦なり 1939年~1941年
    証拠探し 連邦公文書館軍事記録局(フライブルク)/ドイツの軍隊はドイツの薬物を発見する/グラウブロートからブレインフードへ/ロボット/バーンアウト/モダン・タイムス/時は戦なり/「ちまちませずに派手にやれ」/時はメスなり/クリスタル・フォックス/だがヒトラーは電撃戦を理解せず/ダンケルクの停止命令 薬理学的解釈/国防軍の薬物ディーラー/戦争とビタミン/フライング・ハイ/外国への喜ばしいプレゼント
  • 第3部 ハイ・ヒトラー、患者Aと彼の主治医 1941年~1944年
    現地訪問 アメリカ国立公文書記録管理局(ワシントンDC)/ブンカー メンタリティ/東部の陶酔/元衛生将校が語る事実/プラネット・ヴェアヴォルフ/屠畜場ウクライナ/「x」と完全なる現実喪失/オイコダールの服用/薬物集積場としての諜報機関/患者D/患者B/暗殺未遂とその薬理学的な帰結/ついにコカイン!/スピードボール/医師たちの戦争/自己の抹消/スーパー・ブンカー/線路マーク/責任問題
  • 第4部 その後の濫用 血とドラッグ 1944年~1945年
    現地訪問 連邦軍医科大学校(ミュンヘン)/ザクセンハウゼンへの業務旅行/錠剤パトロール/正真正銘の没落/洗脳/薬物の黄昏/最終出口 総統地下壕/解雇/最後の毒物/モレルの内面崩壊
  • 千年の愉楽
  • 謝辞/ナチズムと政治的リアリティの喪失 ハンス・モムゼン/訳者あとがき
  • 図版の出典/文献リスト/註/人名・事項索引

【感想は?】

 ある程度は時代背景もあり、割り引いて考える必要もある。例えばペルビチン=メタンフェタミン=ヒロポンが日本で禁じられたのは1949年だ(→Wikipedia)。それでも、特に戦況が悪化した終盤の容赦は背筋が凍る。ヒトラーは完全なジャンキーだったのだ。

 1938年、テムラー社はペルビチンを鳴り物入りで売り出した。同社はベルリンのすべての医師に無料サンプルを配る。返信ハガキと共に、以下の文言をつけて。

「初回分に限り無料!」
  ――第1部 国民ドラッグ「メタンフェタミン」 1933年~1938年

 まるきしヤクのバイニンじゃねえかw

 このペルビチン、気分は良くなり眠気も飛び自信満々になる。のはいいが…

大脳に大きな抽象能力が要求されるプロセスの処理に関しては、ペルビチンを服用しても成績の向上はみられなかったのだ。計算は確かに速くなったものの、計算ミスも増えた。
  ――第2部 ジーク・ハイ 電撃戦はメタンフェタミン戦なり 1939年~1941年

 別に頭が良くなるんじゃなくて、単に自信過剰になるだけらしい。おまけに乱用すると妄想や依存性などのツケが回ってくるんだが、それもしこたま利息をつけて。

 さすがにこの時点じゃ注射じゃなくて錠剤なんで多少はマシかもしれないが、一般市民向けのチョコレート菓子にまで入ってるとか、ヤバいだろ。

 この効果には軍も注目する。1939年のポーランド侵攻でも、第九軍の軍医が報告している。

「兵士たちが持てる力をすべて出し切らねばならぬような難局で、ペルビチンを支給された部隊は、支給されなかった部隊をはるかに上回る戦果を挙げたのだ」
  ――第2部 ジーク・ハイ 電撃戦はメタンフェタミン戦なり 1939年~1941年

 将兵にペルビチンを配り、ハイな状態で戦場に送り込んだのだ。その優れた実績に基づき、すぐにテムラー社へ増産体制に入るよう要請する。

「特別な状況下で、睡眠によって軍事的な成果が脅かされる場合には、眠気を克服することの方が、例えばそれとの関連で生じうる後遺障害へのいかなる配慮よりも重要となる。そして眠気の打破には(…)覚醒剤が利用できる」
  ――第2部 ジーク・ハイ 電撃戦はメタンフェタミン戦なり 1939年~1941年

 かの有名な電撃戦も、覚醒剤ありきの計画だった。

ハインツ・グデーリアン「諸君に要求する。必要とあらば、少なくとも三日間、昼夜一睡もせずに奮闘せよ」
  ――第2部 ジーク・ハイ 電撃戦はメタンフェタミン戦なり 1939年~1941年

 兵をドラッグで強化なんて作り話かと思ったが、歴史的な事実だし、実際に効果があったのだ。1973年の第四次中東戦争を描く「砂漠の戦車戦」でも師団長が寝不足でボケる描写があったし、戦場での睡眠は死活問題らしい。2001年からの米国主導のアフガニスタン戦争でも、軍から向精神薬を求められたとの話が本書に載っている。

 ともあれ第三帝国に戻ろう。薬物に頼ったのは国防軍だけでなく、海軍もだ。ナチス版回天のゼーフント(→Wikipedia)開発に当たり、乗務員の負担が大きな問題となる。狭い艦内で数日間、眠らずに航行しなければならない。そこで…

海軍軍医将校ハンス=ヨアヒム・リヒェルト博士「丸四日間の投入が可能な潜水艇ゼーフントの使用条件は過酷であるので、新しい薬剤の開発と治験を要請している」
  ――第4部 その後の濫用 血とドラッグ 1944年~1945年

「四昼夜、人間をまったく(もしくはほとんど)眠らせずに高いパフォーマンスを維持させるという目標は、薬物A~Dを使用したときに実現可能となる」
  ――第4部 その後の濫用 血とドラッグ 1944年~1945年

 と、より強力な覚醒剤の開発に乗り出している。

 また、親衛隊も強制収容所の囚人を使って自白剤の研究・開発・実験を行った。

親衛隊大尉クルト・プレートナー博士「メスカリン(→Wikipedia)が効果を発揮すると、(略)いつでもその囚人の最も個人的な秘密さえ聞き出すことができた。(略)言質を取って相手に罪を着せることは実に容易である」
  ――第4部 その後の濫用 血とドラッグ 1944年~1945年

 なお、この成果は戦後に米国が美味しくいただきました。ペーパークリップ作戦(→Wikipedia)の一部かな?

 とか書いてるが、これらはいわば副菜。主菜はヒトラーとその主治医テオドール・モレルだ。モレルは家畜の内臓などから精製したホルモンやビタミンを混ぜ、ビタムルチンと名付けた栄養剤をヒトラーに与え、巧みに取り入る。とまれ、医師が総統に意見できるはずもなく。

「私はいつも短い診療時間で許容限度ギリギリの大量の薬剤を処方しなくてはなりませんでした」
  ――第3部 ハイ・ヒトラー、患者Aと彼の主治医 1941年~1944年

 ちなみに患者Aとはヒトラーを示す。その薬剤も決まった定食メニューではなく、多様な薬物を日々様々な割合で混合したシロモノ。例えば1945年4月8日のメモでは…

「強心薬のカプセルにレバー製剤を合わせた。それによって強い刺激作用を狙ったのだ」
  ――第4部 その後の濫用 血とドラッグ 1944年~1945年

 アドリブでテキトーに処方していたのだ。その頻度は、ほぼ毎日である。

1941年8月から1945年4月にかけて、この主治医は連日、患者の診察に当たった、(略)ほぼ1日に1回、注射していた計算になる。
  ――第3部 ハイ・ヒトラー、患者Aと彼の主治医 1941年~1944年

 開戦後は、ヒトラーと最も長い時間、接触していた人物だろう。

 その関係は、戦況が悪化すると共に深まってゆき、また投与方法も経口から注射へ、中身も激しいモノへと変わってゆく。

1943年7月18日は(略)これまで以上に戦況が悪化したのだ。赤軍がクルスクで軍事史上最大の戦車戦に勝利し、(略)連合軍がシチリア島に上陸し…
  ――第3部 ハイ・ヒトラー、患者Aと彼の主治医 1941年~1944年

「患者A」の1943年第2四半期のカルテが残されている。その右下の個所に、ある薬品名が記され何本もの下線が引かれている。オイコダール。(略)有効成分は(略)アヘンに含まれる物質から合成された半合成麻薬である。
  ――第3部 ハイ・ヒトラー、患者Aと彼の主治医 1941年~1944年

 なお、ラリっていたのはヒトラーだけではない。

1923年にミュンヘンのフェルトヘルンハレを襲撃した際に腹部に重曹を負っていた国家ナンバー2のゲーリングは、数年前から重度のモルヒネ中毒に患っていた。
  ――第2部 ジーク・ハイ 電撃戦はメタンフェタミン戦なり 1939年~1941年

 まあ、この文でゲーリングにモルヒネを処方したのはモレルではない。が、モレルがヒトラーの主治医となって以降、モレルのお世話になった人物の一覧はなかなか壮観だ。

ムッソリーニ,実業家アルフリート・クルップ,実業家アウグスト・ティッセン,レニ・リーフェンシュタール,ヒムラー,外相フォン・リッペントロープ,軍需大臣シュペーア,日本大使大島浩将軍,ゲーリング夫人…
  ――第3部 ハイ・ヒトラー、患者Aと彼の主治医 1941年~1944年

 さすがに何を処方したのかまでは書いていないけど。

 それはともかく、ヒトラーとモレルの関係は、次の文が見事に表している。

1944年2月24日には患者Aから騎士十字戦功十字章まで受けている。(略)受勲したばかりの主治医はこのすぐ後に感謝の意味を込めて、「初めての強力ビタムルチン注射(疲労回復と気力体力の充実のため)を打った」
  ――第3部 ハイ・ヒトラー、患者Aと彼の主治医 1941年~1944年

 感謝の注射って、なんだよ。まるきしバイニンがジャンキーに与える御褒美じゃねえか。

 実際、晩年のヒトラーは、ストレスとヤクでイカれた心身を、ヤクで無理矢理支える末期状態へと転げ落ちてゆく。

1944年11月には(略)毎回針を刺すと新たな傷ができて古い傷と繋がり、生長を続ける長いかさぶたとなった。これはジャンキーたちがよく言う「線路マーク」、つまり注射疵が繋がって醜い線路のような形になったものだ。
  ――第3部 ハイ・ヒトラー、患者Aと彼の主治医 1941年~1944年

 第三帝国の末期を描いた作品で描かれるヒトラーは、現実から目を背けて根拠のない楽観論にしがみつき、撤退を進言する軍人を裏切り者と決めつける狂人のように描かれる。あれは正確だったのだ。だってヒトラーはシャブとアヘンとコカインでハイになってたんだから。

 クスルクの敗北などの都合の悪い現実に向き合おうとせずに薬物に逃げるヒトラーと、彼の狂った命令に諾々と従う取り巻きたち。そんな第三帝国末期の首脳陣を見ると、権力って何だろうな、などと考え込みたくなる。

 電撃戦におけるダンケルクの停滞の原因を「ヒトラーは誰がボスかを陸軍に思い知らせたかった」とするなど、「電撃戦という幻」に準じていたりと、軍ヲタにも楽しめる部分が多い。とはいえ、やはり本書の圧巻は晩年のヒトラーの様子だろう。第三帝国に興味がある人にお薦め。

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2026年3月 5日 (木)

ローレンス・フリードマン「戦略の世界史 戦争・政治・ビジネス 上・下」日本経済新聞出版社 貫井恵子訳 下

(フィデル・)カストロは自身を、マルクス・レーニン主義者ではなく、リベラルであり、広範な反バティスタ連合の指導者だと見せかけていた。
  ――第25章 ブラック・パワーと白人の怒り

リー・アトウォーター(→英語版Wikipedia)「ポピュリストは反大きな政府、反大企業、反大規模労働組合で、メディアにも金持ちにも貧乏人にも敵意をいだいている」
  ――第27章 人種、宗教、選挙

ローレンス・フリードマン「戦略の世界史 戦争・政治・ビジネス 上・下」日本経済新聞出版社 貫井恵子訳 上 の続き。

【第3部 下からの戦略(続)】

 マルクスの理論を実現したはずのソ連はアレなわけで、社会学者たちは「なんかおかしくね?」と考え始める。そもそも階級とは何なのか、とか、支配側にも権力を保つ戦略があるだろう、とか。

 中でも私が頷いたのは、こんな説だ。

(ガエターノ・)モスカ(→Wikipedia)は大衆が「物質的な力や知的な力ではなく、道徳的原理に基づいて統治される」ことを好むと考えた。
  ――第22章 定式、神話、プロパガンダ

 物質的な力は、武力・暴力だろう。そして道徳的原理は愛国心や選択的夫婦別性かな? 現代の日本でも、道徳的な基準は選挙の争点になる。特に選択的夫婦別性や同性婚など民法関係は、賛否双方が実利的な理屈を語るけど、本音は双方ともに道徳的な感覚で意見を決めてるように思う。

 などの理論家に続き、実際に社会を変えた人々、それも特に非暴力を標榜した人が登場する。まずはインドの独立を勝ち取ったガンジー、続いて米国で公民権運動を繰り広げたキング牧師だ。

 この非暴力って戦略が基づいているのは、キレイゴトじゃない。案外としたたかな計算があるのだ。そこには…

問題にすべきは個人的な信念ではなく、行動によって敵対者の面目をつぶし、傍観者の同情を誘うことができるかどうかにあった。
  ――第23章 非暴力の力

 そう、傍観者…というか民意がキモで、相手を悪役に仕立てるのだ。マスコミが発達した20世紀以降ならではの戦略だね。なお、以降、激動の60年代を迎え、本書は米国に焦点を絞ってゆく。

 この非暴力主義を巧みに米国南部に応用したのがキング牧師。インドじゃインド人が多数派で、だから非暴力主義はインド全体を巻き込む潮流になりえた。しかし米国南部じゃ黒人は少数派だ。それでも戦術をアレンジし、キング牧師率いる黒人たちはパフォーマンス的な行動で世間の注目を集める。

非暴力直接行動の目的は交渉にあるが、それを実現するには「ずっと交渉を拒んできたコミュニティが問題を直視せざるをえなくなるように危機を作り出し、緊張を高める」ことが必要だ
  ――第23章 非暴力の力

 そのためには多くの人々を集めて組織化せにゃならんのだが、ここで威力を発揮したのが教会。

教会は地元で唯一、白人社会から独立した施設であり、資金提供も運営も黒人が行っていた。
  ――第23章 非暴力の力

 だからキング「牧師」なのか。納得。なお、米国南部じゃ白人と黒人は教会すら別々ってのを、私はロバート・マキャモンの小説「少年時代」で知った。傑作ですぜ。

 このような動きに伴い、社会学者や哲学者たちも政治との関係を見つめ直す。私はC・ライト・ミルズ(→Wikipedia)が印象に残った。

一個人の失業は個人的な問題に過ぎないが、人口の20%が失業者なら、それは構造的な問題であり、社会学が取り組むべき問題だ。
  ――第24章 実存主義的戦略

 今なら社会学者より経済学者の領分と言いたくなる。もっとも、米国や日本のような資本主義国なら経済学者だけど、イランやパレスチナじゃ政治学者の出番のような気も。

 それはともかく、学者の中には積極的に社会運動に関わる人も出てくる。中でも印象に残るのはソウル・アリンスキー(→Wikipedia)。シカゴの貧困地域の諸問題解決に向け、住民たちに積極的に働きかけつつ、苦い教訓を学び取るのだ。

政治意識をもった外部のオーガナイザー側と、権力を握るよう促されるコミュニティ側の見解がおのずから一致することはない
  ――第24章 実存主義的戦略

 インテリさんと教育のない貧乏人は、そうしたってスレ違っちゃうのだ。そして、困ったことに…

ソウル・アリンスキー「労働者と意思の疎通ができなければ、そしてわれわれと連携することを促さなければ、かれらは右翼に流れてしまう」
  ――第25章 ブラック・パワーと白人の怒り

 「チャヴ」にもあったけど、革新を唱える政治勢力は、労働者こそが支持基盤になるハズなのに、なぜかソッポを向かれてしまうのだ。日本でも、この前の衆議院選がそうだったよなあ。

 さて、革命にせよ社会運動にせよ選挙にせよ、いずれもキモは、いかに多くの人々から支持を得るか、だ。そこで社会学者や哲学者が注目したのが、今はやりの「ナラティブ」。この言葉、私は「物語」と解釈してる。

最終的には、どのような派に属するものであろうと、あらゆる政治的プロジェクトが独自のナラティブを求めるようになった。
  ――第26章 フレーム、パラダイム、ディスクール、ナラティブ

 今や政治どころか企業内のプレゼンテーションでも、物語というかストーリーというか、そういうのが重視されてたり。

 かような“戦略”の目で選挙を見ると、政治家とは異なった風景が見えてくる。重要なのは理屈で納得させることではなく、気持ちで好意を持たれることなのだ。この辺をよく心得てたのがヒトラーなんだよなあ。

(ドリュー・)ウェステン(→英語版Wikipedia)が最も訴えたかったのは、選挙が「基本的に争点をめぐる勝負ではなく、有権者の価値観や感情をめぐる勝負…」
  ――第27章 人種、宗教、選挙

 かくして選挙コンサルタントなんて商売も生まれてくる。これには、米国の社会構造も関係してて。

2011年の出版物に記された推計値によれば、きわめて地位の低いものも含めると、アメリカには選挙を必要とする公職のポストが50万超も存在し、四年ごとのサイクルで約100万回の選挙が行われている。
  ――第27章 人種、宗教、選挙

 米国はやたら選挙が多いのだ。例えば町の保安官とか州の判事とか。よって選挙コンサルタントの市場も大きく、多くの企業が成り立つわけ。

 とはいえ、大統領選とかの全国的で大規模な選挙だと、何かと難しい問題も出てくる。

全国的なキャンペーンにつきものの問題は、支持母体には熱烈に受け入れられうる主張が、穏健な見解を排除しかねないという点だ。
  ――第27章 人種、宗教、選挙

 かといって、あまり支持母体に媚を売ると、浮動票を逃がしたり。先の衆議院選挙でも元立憲民主党は、支持母体しか見えてなかった感があるんだけど、あなたどう思いますか。 でもドナルド・トランプは支持母体べったりで勝ったしなあ。

【第4部 上からの戦略】

 などと軍事・政治ときた“戦略”は、米国において経営や管理=マネジメントにも進出してくる。

 この章では、米国を舞台に、カッコイイ事を言うビジネス戦略家や経営コンサルタントと、その言葉に踊らされる経営者を戯画化して描くんだが、その前提は認識しておきたい。

1957年から産出されているスタンダート&プアーズ(S&P)500種株価指数の最初の構成企業のうち、30年後もその地位を維持していたのは47社だけだった。
  ――第33章 赤の女王と青い海

 米国の実業界は生存競争が激しいのだ。もっとも、この数字には二つの解釈がある。本書の論調は「453社が消えた」だが、「新たに453社が登場した」とも言える。だって1957年にはマイクロソフト社もアップル社もなかったし。

 さて、経営戦略の最初の例は、フレデリック・ウィンズロウ・テイラー(→Wikipedia)の「科学的管理法」だ。

テイラーは、計画と実施をきわめて厳格に区別した。計画する者は非常に賢くなければならないが、実施する者は頭が悪くてもかまわない。
  ――第28章 マネジメント階級の台頭

 例えば工場だと、ストップウォッチで労働者の作業というか動きにかかる時間を測り、より短時間で多くの仕事をこなせる手順を探るのだ。今でも大企業はやってると思う。ハーマン・ウォークが小説「ケイン号の叛乱」で「海軍とは天才が立案して愚者が実行する一大計画なのだ」と書いてたから、同じ思想を軍も採用したんだろうなあ。

 が、しかし、時代が進むにつれ、そういった思想は次第に廃れてゆく。

時代が進むにつれて、労働組合の力が強まり、また多くの仕事で専門性が求められるようになったことで、従順で厳格に管理された労働者を維持できる可能性は低下した。
  ――第28章 マネジメント階級の台頭

 小品目大量生産ならよかったけど、多品目少量生産じゃ労働者もオツムをつかわないとやってけない。品質を追求するなら腕っこきの職人も必要だし。つか労働者ったって製造業の工員ばっかじゃないし。

 もちろん、経営者も“戦略”を持つ。第29章では、T型フォードの安価な大量生産で革命を起こしたヘンリー・フォードと、多品目生産を保ったGMを対照して描く。

ヘンリー・フォード(→Wikipedia)「顧客は好きな色の車を買える。それが黒であるかぎりは」
  ――第29章 ビジネスのビジネス

 対してGMも方針は。

「すべての所得層の、あらゆる目的に応える」
  ――第29章 ビジネスのビジネス

 結果、当初は勢いのあったフォードだが、T型に拘り過ぎて次第に業績を落としてしまうのだ。

 もっとも、これには当時のフォード社とGM社の成り立ちと内情が関わってる。ヘンリー・フォードのワンマンで叩き上げ/成り上がりのフォード社は、T型一辺倒の思い切った戦略が取れた…というか、それしか取れる手がなかった。少なくとも最初は。対してGMは寄り合い所帯で、幅広いラインナップを揃えざるを得なかったのだ。

 とまれ、今も昔も米国でも日本でも、ビジネス書はそこそこ売れる。そこに“戦略”なる言葉を持ち込んだのが、ピーター・ドラッカー(→Wikipedia)。とまれ、最初は出版社も躊躇ったようだ。

1964年、経営者の意思決定に的を絞った著書の原稿を出版社に送る際、ドラッカーは『ビジネス戦略』(Business Strategy)というタイトルをつけた。出版社はこのタイトルが、企業側にいる潜在的な読者の強い関心を引き出すには物足りないと考えた。「戦略」という言葉は軍事用語で、(略)企業向けではないと考えられていた。
  ――第30章 経営戦略

 なんにしたって、パイオニアは苦労するんです。以降、様々なビジネス理論が出てくるんだけど…

中央集権化モデルにおいては、実践に際して判明した欠陥にくらべて、理論上の欠陥は少なかった。
  ――第30章 経営戦略

 えらく面倒くさい書き方してるなあ。つまり「理屈は完璧だけど実際はボロボロ」って事だね。つか「理論的には完璧な中央集権化」がコケるのはソ連が実証し…だけど、当時は鉄のカーテンがあって見えなかったか。

 やがてビジネス書も盛んに出版されるようになる。そこで人気だったのが…

取締役会にとっての教訓は、アレキサンダー大王やナポレオンといった人物の戦功から得ることができるという定番化した考え
  ――第31章 戦争としてのビジネス

 これも日米で共通してるね。モデルとなる人物こそ違うけど。でも宮本武蔵の五輪書が出てきたのには驚いたぞ。そういや日本じゃ他にも塚原卜伝や柳生宗矩や千葉周作や沖田総司など剣で名を上げた人は多いけど、外国じゃスパルタクスぐらいしか知らないなあ。私が無知なだけか?

 まあいい。そんないかにもウケ狙いの本ではなく、キチンとした学術的なシロモノの需要も出てくる。となれば、どの学問を土台にすりゃいいのか。

企業と市場の関係に関する問題に取り組んだのは、概して経済学だった。その流れから、経済学は組織構造の領域へと進出することになり、影響力を発揮したものの、大体において、まともな成果をあげられなかった。
  ――第31章 戦争としてのビジネス

 駄目じゃん。つか経済学って、だいぶ毛色が違くね? 共通点は主にカネを扱うって点ぐらいで。

 じゃ他に何があるか、というと…

組織を理解するうえでは、社会学のほうがはるかに有用だったが、組織とそれを取り巻く環境の関係を分析するための手段をほとんど提示することができなかった(そもそも社会学の領域内で関心が欠如していた)。
  ――第31章 戦争としてのビジネス

 改めて考えると、少なくとも現代じゃ企業は極めて普遍的な組織/社会構造なワケで、社会学者が最も関心を持っていいはずの研究対象なんだけど、なんか彼らの視野から外れてる気がする。いや知らんけど。

 その経済学者は、様々な理論を提唱する。うち幾つかは、とってもシンプルで分かりやすいモデルを提示して、そこそこウケるんだが…

洗練性と単純さが、その理論の「実践に際しての正当性を保障」するわけではない
  ――第32章 経済学の隆盛

 はい、やっぱり現実は理屈通りにゃいかないんですね。

 やがて1980年代になると、企業や経営者は、より短期的な視点で評価されるようになる。つまりは株価だ。

投資家に強い印象を与えるであろう短期的な収益性が最も重要な評価対象になりつつあった。将来に向けた投資は、収益性の低い部門の売却や、認識済みのあらゆる非効率性を改善するための積極的な行動と比べて魅力に欠けるとみなされた。
  ――第33章 赤の女王と青い海

 短期的な株価で一喜一憂するのは投資家というより投機家と呼ぶのが相応しい気がするが、どうなんだろ。いずれにせよ、こんな風潮は、より過激なBPR(→Wikipedia)なんて発想へと繋がってゆく。

 そこで流行ったのがゲーム理論だ。

1980年代末、(略)フランクリン・フィッシャー(→Wikipedia)はこう論じた。「頭脳明晰な若い理論家は、あらゆる問題をゲーム理論的な視点で考える傾向がある。ほかのやり方で取り組んだほうが容易な問題だったとしても」
  ――第33章 赤の女王と青い海

 まあゲーム理論は数学的な裏付けがある上に予測を数字で示せるからね。もっとも、理屈が現実に合ってるか否かは別問題なんだけど。

 など経済学者寄りの理論/本に続き、人間関係を重んじる社会学系のビジネス書も出てくる。中でも有名なのが…

『エクセレント・カンパニー』(略)はビジネス書として初めて全米第一位のベストセラーになり、最終的な販売部数は600万部を優に超えた。
  ――第34章 社会学的な取り組み

 ビジネス書に疎い私も名前は知ってるぐらいだから、日本でも相当に売れたんだろう。ところが…

同書で超優良とされた企業も、(略)本の刊行後まもなく、その1/3が経営危機にあると報じられた。
  ――第34章 社会学的な取り組み

 さすが米国、競争が激しい。

 かような経営戦略理論やビジネス書が次々と現れては消えた結果…

戦略は、都合のよい意味をもたせて使うことのできる、なんでもありの言葉になってしまった。
  ――第35章 計画的戦略か、創発的戦略か

 だからこそ本種が成立した、とも言えるんだが。私も「戦略原論」を読んだけど、イマイチ「戦略」の意味は分からなかった。加えて「電撃戦という幻」では、戦略と戦術の間に「作戦」って概念が入ってきたし。

 そんなビジネス本のキモは、やっぱりナラディブ/ストーリーだったりする。統計的な数字より、実例(を元にしたお話)がウケるんだな。

企業戦略本の多くは基本的にストーリーの寄せ集めであり、そうした物語はどれも、なんらかの一般論を強調することを意図したものだった。
  ――第35章 計画的戦略か、創発的戦略か

 そんなストーリーが持つ力は政府機関の報道官や企業の広報担当、そしてマスコミも気づいている。もちろん、それは好ましい影響だけじゃない。

ストーリーは並外れた説明力をもっており、一番自然な形のコミュニケーション手法といえるが、その手法を最もうまく操れる者にとって都合のよい説明を補強する一方で、異を唱えにくくするという代償をともないうる。
  ――第35章 計画的戦略か、創発的戦略か

 分かりやすい例が中国の抗日ドラマね。「ドキュメント 戦争広告代理店」でも、「悪のセルビア人 vs 可哀想なクロアチア人&ボスニア人」ってわかりやすい構図を広告代理店が創り上げたと暴いてる。

 そして、ストーリー/物語には、ヒーローが必要だ。それは地道な仕事を黙々とこなす者ではなく、危機にさっそうと現れてバッサバッサと悪を斬る、見栄えのする者でなきゃいけない。

常に関心が寄せられるのは、管理部門の退屈で苦労の多い仕事よりも、天才のきらめきなのだ。
  ――第35章 計画的戦略か、創発的戦略か

 理不尽だと思いませんか、システム管理者・ネットワーク管理者の皆様。

 などと全般的にビジネス書Disな第4部だけど、同時に「売れるビジネス書」の書き方の指南にもなっているのが面白いところ。あ、ただし、「役立つビジネス書」じゃないのがミソね。

【第5部 戦略の理論】

 などと散々に経済学者やビジネス書をコキおろした第4部に続き、第5部は比較的に最近の動きを描く。まずは、いきなり経済学の原則を突き崩す。

とりわけ強い影響力を発揮したのは、あらゆる選択を合理的であるかのように扱う便益を強調した理論だった。(略)
このいわゆる合理的選択理論は、一貫して機体をはるかに下回る成果しかあげず…
  ――第36章 合理的選択の限界

 基本である需要と供給の曲線にしたって、根本には「売り手も買い手も合理的に選ぶ」って仮定がある。ゲーム理論のミニマックス法も、「自分の利益を最大にする、または自分の損を最小化する」戦略だ。が、現実には…

「囚人のジレンマ」(略)研究の成果は(略)強盗事件の有罪答弁率、有罪判決率、受刑率はどれも変わらないことを示した。
  ――第37章 合理的選択を超えて

 もっとも、これには「相方が出所した後の報復が怖い」みたいなのもあるんだけど。つまり、現実はモデルほど単純じゃないのだ。また…

(ハーバート・)サイモン(→Wikipedia)は、最適な結果を得るには過剰なまでの努力が必要とされることから、人々は次善の結果を当然のように受け入れうることを示した。
  ――第37章 合理的選択を超えて

 人は市場の全てを知ってるわけじゃないし、商品知識も限られてる。たいていの人は最も安い商品を探すために近所のスーパー全てをめぐったりしないし、野菜や魚や肉の目利きも所詮は素人だ。だから、テキトーな所で妥協するワケです。

 ばかりか、そもそも理性的に考えるワケでもない。

本能的な感情を信じる場合、それが正しいかどうか厳格に検討するよりも、正しいことを示す根拠を探すのが自然な成り行きである。
  ――第37章 合理的選択を超えて

 この段落、まるで学者の研究対象である人々の選択/行動を示しているように読める。けど、これまでの章を振り返ると、むしろ今まで出てきた学者たちの振舞いそのものじゃないか、と思えるんだよなあ。なにせイギリス人だから、回りくどい冗談の可能性も高い。

 などと綴ってきた結果が、実にみもふたもない。

実験から得られた重要な発見は、人は生まれつき戦略的ではないということだ。
  ――第37章 合理的選択を超えて

 なんというか、今まで登場した学者たちの研究を全部ドブに捨てるような結論だ。酷いw そんな結論になるのも、今まで幾つも挙げた例の大半が、結局は…

戦略の世界には失望と挫折、機能しない手段と到達できない目標が満ちあふれている。
  ――第38章 ストーリーとスクリプト

 一時はもてはやされても、時を経ると共に馬脚を現しているからだ。それでも、ヒトは戦略を求める。というのも…

戦略は状況を制御する手段ではなく、誰も完全に制御することのできない状況に対処する方法なのである。
  ――第38章 ストーリーとスクリプト

 ヒトである限り、完全に世界の全てを知ることはできないし、ましてや制御なんかできない。いや限られた分野や時期なら、完璧に対応できる事もある。何度も攻略したオフラインのゲームとかね。けど、そういう際に使う手口や攻略法は戦略とは言わない。少なくとも本書では。環境に完全に適応しているのなら、戦略はいらない。

不透明かつ不安定で予測不能な状況になって初めて、戦略は動きはじめるのである。
  ――第38章 ストーリーとスクリプト

戦略が本当に動き出すのは、状況に何かしらの異変が起きたときである。
  ――第38章 ストーリーとスクリプト

 何かしらの不具合があったり、先が見通せなくなった時に、戦略が必要になる。加えて、あなたと利害が異なる、少なくとも何かしら競合する相手がいて、何か手を打たなければならないときだ。

環境が不安定になった時、つまり対立がついに表面化し、実際になんらかの選択をしなければならなくなったときにのみ、真の戦略に似たものが必要となるのだ。
  ――第38章 ストーリーとスクリプト

戦略が実際に動きはじめるのは、対立の要素が存在する場合だけである。
  ――第38章 ストーリーとスクリプト

 などと言われると、「戦略」の意味もうっすら分かるような気になってくる。先が見通せない状況で選択せにゃならん時の、判断の指針、みたいなもんだろうか。なんか信念や信仰とカブるって気もするけど

【おわりに】

 元は軍事用語だったのが、社会運動やビジネスの世界でも盛んに使われるようになった言葉、“戦略”。それを説明しようと多くの例をあげて試みたが、結果は挫折と混乱ばかりだった。と書くと駄目な本のようだが、その混乱と挫折を描く第3部以降が私にはとても面白かった。つまるところ、“戦略”って言葉は意味があいまいながらも強い印象を与えるので、ビジネス書や啓発本のネタとして使い勝手が良いのだ。

 イギリス人らしむ、まわりくどくて毒を含んだ冗談も多く、ぶっちゃけ文章はかなり読みにくい。が、軍事ヲタとして第2部は参考になったし、第3部は公民権運動の概要まとめとして便利だ。そして第4部・第5部の毒舌の冴えは、イギリス人らしい意地悪さに溢れている。そんなイギリス人のヒネたユーモアが好きな人にお薦め。

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2026年2月27日 (金)

ローレンス・フリードマン「戦略の世界史 戦争・政治・ビジネス 上・下」日本経済新聞出版社 貫井恵子訳 上

本書は歴史的見地から、戦略理論においてとりわけ目を引く(戦争、政治、ビジネスに影響を及ぼしてきた)諸テーマの変遷について、批判者や反対者の視点を見失わずに論じることを目的としている。
  ――まえがき

軍事戦略の出発地点はいうまでもなくクラウゼヴィッツである。
  ――第15章 監視と情勢判断

【どんな本?】

 “戦略”。さまざまな分野で、さまざまな文脈で使われる言葉だ。軍隊はもちろん、企業や政党や研究・開発組織も戦略を語る。だが、その言葉の意味を説明できる人は少ない。それもそのはず、歴史的にも“戦略”は多様な文脈・意味で使われてきたのだ。

 「戦」の文字があるのでわかるように、元は軍事用語だ。それが色々な分野に流用されるようになったのだ。

 本書は、幾つかの方向から、この捕えがたい言葉と、その実態と変遷を探ってゆく。語源、神話や伝説や物語における“戦略”、歴史上の軍の“戦略”、革命や社会運動の“戦略”、組織を司る立場での“戦略”…。

 現代においてなじみ深い言葉となった“戦略”について、軍事ばかりでなく社会運動や組織運営などの多方面から、その歴史・変遷・実態・バリエーションを描き出す、一般向けの軍事・歴史・社会解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Strategy: A History, Lawrence Freedman, 2013。日本語版は2018年9月25日1版1刷。単行本ハードカバー縦一段組み上下巻で本文約464頁+440頁=904頁。9.5ポイント45字×21行×(464頁+440頁)=約854,280字、400字詰め原稿用紙で約2,136枚。文庫なら4~5冊分の巨大容量。

 文章はかしこまっていて硬い印象を受けるが、わかりにくいって程でもない。イギリス人の学者の文章にしては素直な部類だ。内容は歴史、それも西洋史に関わる所が多い。特に18世紀以降。なので、その辺に詳しいと理解しやすいだろう。

【構成は?】

 全体は5部に分かれている。起源・軍事・革命/社会運動・ビジネス・現代編、といった感じ。

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  •   上巻
  • まえがき
  • 第1部 戦略の起源
  • 第1章 戦略の起源1:進化
    暴力の戦略
  • 第2章 戦略の起源2:旧約聖書
    威圧的な戦略としての10の災い/威圧的な評判/ダビデとゴリアテ
  • 第3章 戦略の起源3:古代ギリシャ
    オデュッセウス/メーティスの手法/トゥキュディデス/弁論と策略/プラトンの戦略クーデター
  • 第4章 孫子とマキャベリ
    孫子/マキャベリ
  • 第5章 サタンの戦略
    天上の戦い/万魔殿(パンデモニウム)/策略の限界
  • 第2部 力の戦略
  • 第6章 新たな戦略の科学
    職業、そして創作としての戦略/ナポレオンの戦略/ボロジノの会戦
  • 第7章 クラウゼヴィッツ
    アントワーヌ・アンリ・ジョミニ/クラウゼヴィッツの戦略/勝利の源
  • 第8章 欺瞞の科学
    トルストイと歴史/フォン・モルトケ
  • 第9章 殲滅戦略か、消耗戦略か
    アメリカ南北戦争/攻撃への盲信/マハンとコーベット/地政学
  • 第10章 頭脳と腕力
    エアパワー/機甲戦
  • 第11章 間接的アプローチ
    チャーチルの戦略
  • 第12章 核のゲーム
    新しい戦略家/ゲーム理論/囚人のジレンマ
  • 第13章 非合理の合理性
    抑止/トーマス・シェリング/第一撃と第二撃/実存的阻止
  • 第14章 ゲリラ戦
    アラビアのロレンス/毛沢東とヴォー・グエン・ザップ/反乱鎮圧
  • 第15章 監視と情勢判断
    OODAループ/消耗戦と機動戦/作戦技術
  • 第16章 軍事における革命
    非対称戦争/第四世代の戦争へ/情報オペレーション
  • 第17章 戦略の達人という神話
  • 第3部 下からの戦略
  • 第18章 マルクスと労働者階級のための戦略
    職業革命家/1848年/蜂起の戦略
  • 第19章 ゲルツェンとバクーニン
    バクーニン/第一インターナショナルとパリ・コミューン/行動によるプロパガンダ
  • 第20章 修正主義者と前衛
    修正主義/ローザ・ルクセンブルク/レーニン/一歩前進、二歩後退/戦争と革命
  • 第21章 官僚、民主主義者、エリート
    マックス・ウェーバー/トルストイ/ジェーン・アダムス/ジョン・デューイ
  •  原注/索引
  •   下巻
  • 第3部 下からの戦略(続)
  • 第22章 定式、神話、プロパガンダ
    大衆と公衆/アントニオ・グラムシ/ジェイムズ・バーナム/専門家とプロパガンダ
  • 第23章 非暴力の力
    ガンジーの影響/非暴力の潜在力/アメリカのガンジー?
  • 第24章 実存主義的戦略
    反抗者たち/C・ライト・ミルズと権力/ポートヒューロン宣言/英雄的なオーガナイザー/セサル・チャベス/不完全なコミュニティ
  • 第25章 ブラック・パワーと白人の怒り
    革命の中の革命/暴力という幻想/シカゴ再び/女性の解放(ウーマンリブ)
  • 第26章 フレーム、パラダイム、ディスクール、ナラティブ
    世界中が見ているぞ/トーマス・クーン/ミシェル・フーコー/ナラティブ
  • 第27章 人種、宗教、選挙
    新しい政治(ニュー・ポリティクス)/新たな保守多数党/ロナルド・レーガン/リー・アトウォーター/永続的(パーマネント)キャンペーン
  • 第4部 上からの戦略
  • 第28章 マネジメント階級の台頭
    管理者(マネージャー)/テイラー主義/メアリー・パーカー・フォレット/人間関係学派
  • 第29章 ビジネスのビジネス
    ジョン・D・ロックフェラー/ヘンリー・フォード/アルフレッド・P・スローン
  • 第30章 経営戦略
    計画者(プランナー)
  • 第31章 戦争としてのビジネス
  • 第32章 経済学の隆盛
    ビジネス教育に取り込まれる経済学/競争
  • 第33章 赤の女王と青い海
    エージェンシー理論/経営者は危険な職業/ビジネス・プロセス・リエンジニアリング/競争を避ける
  • 第34章 社会学的な取り組み
    ビジネス革命家
  • 第35章 計画的戦略か、創発的戦略か
    学習する組織/支配としての経営/ブームと流行/ナラティブ再び/基本に戻る
  • 第5部 戦略の理論
  • 第36章 合理的選択の限界
    ロチェスター学派/連合の形成/協調の発展
  • 第37章 合理的選択を超えて
    実験/メンタライゼーション/システム1とシステム2
  • 第38章 ストーリーとスクリプト
    戦略の限界/システム1戦略とシステム2戦略/ストーリーにまつわる問題/スクリプト/スクリプト:戦略と脚本
  •  謝辞/原注/索引

【第1部 戦略の起源】

 今のところ読んだのは上巻だけなので、そまずはそこまで。

 冒頭は、いきなり人類の進化から始まる。とはいっても、さすがに考古学的な資料から根拠を探るのは難しいので、チンパンジーの観察、それもボス争いから得たネタだ。面白い事に、チンパンジーですら既に戦略を使いこなしている。

(チンパンジーの権力闘争では)闘争の結果が社会的な関係を変化させるのではなく、すでに起きていた社会的関係の変化が闘争に反映される
  ――第1章 戦略の起源1:進化

 二番手がボスに挑む際は、いきなり挑むんじゃない。予め毛づくろいなどで仲間を作って多数派工作をしておき、群れを「そういう雰囲気」にしておくのだ。賢い。

 お次は聖書。それも旧約聖書である。いささか面食らうソースだが、改めて考えると仏教に比べアブラハムの宗教って物騒だよね。ここで印象に残るのは、神も預言者もよく嘘をつくこと。

欺瞞は強力な聖書のテーマとなった。欺きは、機転を利かせなければ成功できない弱者が使って当然の手段として認められた。
  ――第2章 戦略の起源2:旧約聖書

 往々にして狂信者は平気で人を騙すけど、それにはこういう背景があるのかも。「だって神も人を騙すし」ってワケだ。

 続いてはホメーロスの叙事詩から。ここでは、トロイア戦争におけるギリシャ軍の二人の英雄、力のアキレウスと知略のオデュッセウスを対比させる。世間的には力押しの方がウケがいい。だって知略って陰険そうだし。それに…

オデュッセウスの評判を知る者は、たとえ真実を述べていたとしても、その言葉をまず信用しなかった。
  ――第3章 戦略の起源3:古代ギリシャ

 信用してもらえないのだ。ありがちだよね。理屈で考えると、友軍の被害が少ない知略の方が得なんだけど、組織の統率は勘定より感情が大事だったりする。

 第4章では政治と軍事の関係も語られる。20世紀に入ってから欧米でも評価が高まっている孫子だが、本書の記述は少ない。戦略というより政略レベルの話も多いんだよな孫子。ここでも…

勝利の要因としてとりわけ重要なのは、(略)「政治的要素が常に軍事的要素よりも大きな影響を及ぼす」という点だ。
  ――第4章 孫子とマキャベリ

 と、政治的な要素を重んじてる。現代でも、湾岸戦争やガザで分かるように、親米か反米かが最重要だしね。

 第5章のソースは、なんと失楽園。神に挑むサタンがテーマだ。基本的に策を弄するのは弱者なんだが、それにも限界がある。そして時代が進み軍が大規模化し技術も進化すると…

やがて戦争が複雑に組織化された大規模な軍隊同士で行われるようになると、策略という手段によって得られる効果には限界が生じた。そして武力のほうが重視されるようになったのだ。
  ――第5章 サタンの戦略

【第2部 力の戦略】

 ってなワケで、近代的な戦術の祖ナポレオンの登場だ。

ナポレオンの戦争術の要点は単純明快だった。「数的に劣る軍で戦う場合には、攻撃あるいは防御しようとする地点に敵より多くの兵力を排する」必要がある、というものだった。
  ――第6章 新たな戦略の科学

 でもさすがに冬将軍には負けました。典型的な「クリスマスには帰れる」だね。このボロジノの会戦にも参加したのが、「戦争論」で有名なクラウゼヴィッツ。軍人としては冴えない人だったが、彼の著作は後世に大きな影響を及ぼした。

 「戦争論」には「戦場の霧」や「摩擦」など様々な概念が出てくるが、いずれにせよ「戦争は理屈通りにはならない」って事。特にヤバいのが…

限定的な目標のために始められた戦争が、相応に限定的な手段によって戦われるとは限らない。
  ――第7章 クラウゼヴィッツ

 そう、小競り合いが高じてズルズルと泥沼にハマる事もあるのだ。日中戦争とかね。

 そんなクラウゼヴィッツを産んだプロイセンは、もう一つ軍事上の大きな発明を成す。参謀本部だ。それを率いた大モルトケは、ドイツ人らしい?思い切った割り切りで、政治と軍事を切り分けた。

プロイセン軍参謀総長ヘルムート・カール・ベルンハルト・グラーフ・フォン・モルトケ(→Wikipedia)「私はただ軍事問題だけを考えているべきなのです」
  ――第8章 欺瞞の科学

 軍人が政治に口を出し過ぎるとロクな事にならんけど、あまし無関心でもなあ。

 さて、産業と貿易が発達すると、海軍も重要になってくる。その海軍の役割は…

陸上戦での勝利のカギは領土の支配にあるが、海戦では交通(コミュニケーション)の支配がカギとなった。
  ――第9章 殲滅戦略か、消耗戦略か

 つまり海路の確保ですね。大日本帝国はこれで日露戦争で大戦果を挙げ、太平洋戦争で痛い目を見ました、はい。そんな風に技術が進歩し第一次世界大戦で戦車が登場すると、こんな考えも出てくる。

イギリス陸軍将校ジョン・フレデリック・チャールズ・フラー(→Wikipedia)「まもなく機械化戦争が人間対人間の戦争に取って代わる」
  ――第10章 頭脳と腕力

 さすがに第二次世界大戦ではそこまでいかなかったけど、現代のウクライナじゃ彼の考えに近い様相を呈してる。

 先に書いたように、20世紀からは欧米でも孫子の評価が高まった。その影響か、バジル・リデルハート(→Wikipedia)は間接的アプローチを提唱する。

理想の間接的戦略は、戦闘が始まる前に、敵が敗北は不可避という結論を下さざるを得ない状況を生み出すことだった。
  ――第11章 間接的アプローチ

 敵がマトモに状況を認識できればいいんだけど、太平洋戦争の大日本帝国みたいな例もあるんだよなあ。ここでも政治の重要性が繰り返される。

勝利において最も重要な要素は、いかに同盟が形成され、団結あるいは分裂するかであった。
  ――第11章 間接的アプローチ

 現代でも親米か反米かが←しつこい

 などの理屈を、一気にひっくり返したのが核兵器。お陰で、こんな理屈も出てくる。

バーナード・ブローディ(→Wikipedia)「これまで、われわれの軍部の主なる目的は戦争に勝つことだった。今後は戦争を回避することが主目的になるにちがいない」
  ――第12章 核のゲーム

 いわゆる「抑止力としての武力」だね。

 やがて米国は「ベスト・アンド・ブライテスト」が描くロバート・マクナマラのように、民間の学者が軍事戦略に口出ししてきて…

経済学者チャールズ・ヒッチ(→英語版Wikipedia)「基本的にすべての軍事問題は、(略)資源の効率的な配分と利用という経済学的な問題とみなされる」
  ――第12章 核のゲーム

 なんて暴論も。また、核を突きつけ合う冷戦では、まっとうな戦略じゃ切り抜けられず…

「きわめて不安定な状況においては、明白な行為を相手側に委ねてしまうのが良い戦略である」
  ――第13章 非合理の合理性

 なんか理屈に合わない気もするが、いわゆるチキンゲーム(→Wikipedia)じゃイカれてる方が強いし。

 核と共に、20世紀後半で増えたのがゲリラ戦。植民地の独立闘争で多く、米軍もベトナムで苦しんだ。

ジェラルド・テンプラー(→英語版Wikipedia)「武力で解決できるのは問題の25%だけだ。残り75%はこの国の人々をわれわれの味方につけられるかどうかにかかっている」
  ――第14章 ゲリラ戦

 やはり大事なのは軍事より政治だったり。ベトナムでもアフガニスタンでもイラクでも、米国はコレでコケました。そういう目で見ると、ドイツので電撃戦も…

電撃戦の機動戦は「予期せぬ、あるいは不都合な作戦・戦略状況を作り出し、敵の最高司令部の士気と戦意」をくじくことを「第一目的」とする
  ――第15章 監視と情勢判断

 と、人の気持ち=士気をくじく狙いだ、なんて視点も出てくる。

 さて、20世紀も終盤になると、兵器もGPSなどハイテク化が進む。が、ハイテク兵器で武装した米軍はアフガニスタンやイラクでコケた。

問題はデータの流れよりも、人々の考え方にあった。
  ――第16章 軍事における革命

 なんて、昔からの考え方に戻ったり。これは国際関係でも同じで。

多くの場合、すぐれた戦略のカギとなるのは、自らは同盟を築きつつ、敵が同盟を組むのを阻むのに必要な政治的手腕であった。
  ――第17章 戦略の達人という神話

 なんかチンパンジーのボス争いと同レベルなんですけど。まあヒトは技術こそ進歩知ったけど、脳はたいして変わっちゃいないしね。

【第3部 下からの戦略】

 などの軍事を語った第2部に続く第3部では、革命や社会運動がテーマとなる。他国との戦いではなく、国内または世界全体の状況を変えようって動きだ。ここでは、マルクスの影響の大きさが強調される。

革命の領域においてマルクスが果たした役割は、軍事の領域でクラウゼヴィッツが果たした役割に匹敵するものだった。
  ――第18章 マルクスと労働者階級のための戦略

 マルクスは世界的な階級闘争を訴えたが、肝心の労働者たちは…

(労働者が)一つの階級としての意識を高めるには、対立する国や宗教の主張を覆す必要があったが、多くの労働者にとって社会主義者、愛国者、キリスト教徒であることは矛盾ではなかった。
  ――第18章 マルクスと労働者階級のための戦略

 どころか、現代の労働者は愛国者や信仰の方が階級意識より優ってるしなあ。

 題3部の前半では、様々な革命家が登場する。ローザ・ルクセンブルク(→Wikipedia)とか、名前しか知らなかったぞ。ここでは革命の先の読めなさっぷりが印象に残る。

革命は「時の勢いに流された大衆の動きによって自然発生的に生まれ、そして多くの場合、どうでもいいような要因が引き金となって爆発する」
  ――第19章 ゲルツェンとバクーニン

 「アラブの春」も、青年の焼身自殺がきっかけだった。

 それでも、革命家たちは計画を立て組織を築き機会を伺う。とはいえ、当時から左派は百家争鳴状態で、手を結んじゃ分裂のくりかえしなのが切ない。珍しく成功したのが、この人。

ウラジーミル・イリイチ・レーニン「今は、一握りの者に対して多くの考えを訴えるプロパガンダの時代ではない。多くの者に一握りの思想を伝えるアジテーション(扇動)の時代だ」
  ――第20章 修正主義者と前衛

 うーん。戦略というか戦術は、ヒトラーと同じなんだよなあ。

 さて、世界全体をマクロな視点で見たマルクスは、共産主義ばかりでなく、新しい学問分野も生み出す。社会学だ。

社会学はマルクスに対する反応から発展した。
  ――第21章 官僚、民主主義者、エリート

 社会学者は左派が多いと言われるけど、ルーツを考えると当然なのかも。その代表がマックス・ウェーバー(→Wikipedia)。革命ではなく政治的な改革を目指す路線の人だ。ただ、政治家には向かなかったようで。

マックス・ウェーバー「政治家は妥協すべきであり、しなければならない。(略)学者には妥協する必要も、愚行を取り繕う必要もない」
  ――第21章 官僚、民主主義者、エリート

 状況を見ると負け惜しみな雰囲気も漂ってるが、そういう事にしておこう。

 今はそれほどでもないが、日本じゃ昔の左派には軍事を毛嫌いする人も多かった。そのルーツは、この人かもしいれない。

ジェーン・アダムズ(→Wikipedia)「国防や安全保障に関心をいだくのは、軍国主義や権威主義を容認したも同然の事だ」
  ――第21章 官僚、民主主義者、エリート

 そういう考え方の人も、いたんです。というか、本書ではレフ・トルストイの影響を強調している。すんません、まだ読んでないですトルストイ。

 などと、とりとめのないまま、次の記事に続く。

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2025年12月19日 (金)

ジョン・キーガン「ノルマンディ戦の六ヵ国軍 Dデイからパリ解放まで」中央公論新社 並木均訳

本書は、社会生活において戦争と関連組織が果たす役割を別の角度から理解しようとする試みである。
  ――序文

ノルマンディの戦いは、交戦国の間に深く根を張るような反感を生んだことがなく、戦後代々にわたってその性格を冷静に分析することを妨げるものではなかった。
  ――エピローグ 「大西洋の壁」から鉄のカーテンへ

【どんな本?】

 1944年6月6日。第二次世界大戦で反撃に転じた連合軍は、ついに欧州西部に本格的な第二戦線を形成した。史上最大の作戦ことノルマンディ上陸作戦である。

 イギリスの戦史家による本書は、この作戦で上陸を敢行した連合軍のイギリス・アメリカ・カナダ・ポーランド・フランスの連合軍と、それを迎え撃つドイツの六ヵ国軍の戦いを描くとともに、当時におけるそれぞれの軍の状況や文化を綴り、各軍と将兵の姿を浮き彫りにするものである。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Six Armies in Normandy From D-Day to the Liberation of Paris, John Keegan, 1982。日本語版は2024年3月10日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約433頁に加え訳者あとがき4頁。9ポイント47字×20行×433頁=約407,020字、400字詰め原稿用紙で約1,018枚。文庫なら上下巻ぐらいの分量。

 文章はやや詩的と言うか文学的というか。加えてイギリス人らしい皮肉で回りくどい表現が多く、ちととっつきづらい。また歴史家/戦史家らしく欧米の歴史/戦史への言及も多く、素人にはピンとこない言い回しもかなりある。

【構成は?】

 原則として時系列順に進む。第1章は米英政府および軍の首脳陣を中心に、ノルマンディ戦までの政略・大戦略レベルの過程を描く。以降の各章は、章の題でわかるように、各国の軍に焦点を当ててゆく。その結果として、各章はほぼ独立しているので、気になる所だけを拾い読みしてもいい。各章の頭に地図があるので、多くの栞を用意しておこう。

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  • 序文/はじめに
  • プロローグ 反攻作戦の地にて
  • 第1章 第二戦線への旅
    スティルウェル/ウェデマイヤー/アイゼンハワー/モロトフ/マーシャル/ブルック/モントゴメリー/ロンメル
  • 第2章 全米の雄叫びを上げる鷲たち
    飛行/降下/着地/集合/戦闘
    • 1 サント・メール=エグリーズの第56パラシュート歩兵連隊第3大隊
    • 2 メンドレ川の第505パラシュート連隊第1大隊
    • 3 コーキニーの第507パラシュート歩兵連隊第2大隊
    • 4 ドゥーヴ橋の第506パラシュート歩兵連隊第3大隊
    • 5 WXYZ地点における第502パラシュート歩兵連隊第1大隊
    • 6 プップヴィルの第501パラシュート歩兵連隊第3大隊
  • 第3章 カナダ:南岸へ
    ディエップ:恐るべき警鐘/火力支援/ドイツ軍守備隊/射爆撃/海岸までの最終航程/着岸/内陸へ
  • 第4章 スコットランド回廊
    ドイツ装甲師団の戦い/戦場への進軍/シェルブール陥落/大嵐/エプソム作戦/勇敢なるスコットランド/敵発見/渡河
  • 第5章 イングランドのヨーマン
    敵中突破計画/待機する機甲部隊/前線に移動/砲爆撃/回廊に突入/フォン・ルック戦闘断/反撃/撃退
  • 第6章 栄光のドイツ陸軍
    突破/パットン将軍の登場/相当の意志/リュティヒ作戦
  • 第7章 「ポーランド軍の戦場」
    「わが人生で最悪の日」/優柔不断な指令/「シコルスキ将軍の観光客」/シャンボワでの接敵/「鎚矛」
  • 第8章 自由フランス
    反乱/休戦/ドゥ・ゴール/ルクレールの師団/解放
  • エピローグ 「大西洋の壁」から鉄のカーテンへ
  • 謝辞/原注/主要参考文献/訳者あとがき/主な部隊の所属師団の編成/英米独軍のノルマンディ到着日/部隊名索引/索引

【感想は?】

 本書の主眼は、各国軍の歴史や個性を描くことだ。ノルマンディ以降の戦いの全体像を期待しちゃいけない。

 流れは時間軸に沿って進む。が、各章ではそれぞれの軍にスポットを当て、その歴史・立場・性格そして戦い方を描いて得ゆく。いわば連作短編集のような構成だ。

 第一章では、第二次世界大戦全体の中で、どのようにノルマンディ上陸作戦が決まったのか、その経緯を語る。よって登場する人物も、政治や外交関係の人が多い。当時のソ連のスターリンは第二戦線を切望していたが、米国は太平洋に目が行っていた。これを覆したのが…

「ドイツ第一」戦略を救ったのは、(1942年)6月4日のミッドウェー海戦の大勝利だった。ミッドウェー以後、どの提督も、どの太平洋線行きの将軍も、雄弁なマッカーサーでさえも、一夜にしてアメリカ太平洋艦隊と同等にまで零落した大日本帝国海軍のことを、戦争の主導権を維持できる戦力としてもっともらしく説明することができなくなったのである。
  ――第1章 第二戦線への旅

 第二次世界大戦全体の方向性を変えるほど、ミッドウェー海戦の影響は大きかったとは。もっとも、そこからノルマンディまでは、二年間を擁するんだけど。

 続く第2章は、米軍の空挺部隊が主役だ。一般に空挺部隊は格別に優れた将兵が集まっている。それも当然だ。空輸可能な軽装備で敵中に飛び込むんだから。おまけに本隊が来るまで補給も期待できない。だもんで、どうしても荷物は多くなり…

装備の(略)重量は体重のほぼ2倍に達し…
  ――第2章 全米の雄叫びを上げる鷲たち

 と、立つことすら満足にできない状況で機体に乗り込み、敵中に飛び降りるのだが…

第501パラシュート歩兵連隊のS3〔作戦担当〕参謀が集めた100人からなる一団のうち、1/4は捻挫か骨折をしていた。
  ――第2章 全米の雄叫びを上げる鷲たち

 おまけにドイツ軍が氾濫させた沼地に下りちゃった部隊もあって、そのまんま溺れちゃったり。もっとも、真夜中なのもあって、あまりドイツ軍には気づかれずに済んだ。というのも…

兵士というものは、どうしようもないほど睡眠を好むものである。
  ――第2章 全米の雄叫びを上げる鷲たち

 戦場じゃロクなメシもないし、寝るぐらいしか楽しみはないんだろう。日中は敵が居なくても緊張する事ばっかりだし。

 次の第3章はカナダ軍が主役。ここでは、悲劇に終わったディエップ強襲作戦(→Wikipedia)を並行して描いてゆく。「グリーンビーチ」は傑作です。

 カナダ軍にとって幸いな事に、今回の敵は手薄だった。

ディエップでは、ドイツ軍は2.5個大隊を持って6個大隊を迎え撃った。ジュノー海岸では、一個大隊未満をもって9個大隊を迎え撃つことになった。
  ――第3章 カナダ:南岸へ

 悲劇に終わったディエップだけど、連合軍はそこから多くを学び、爆撃機や艦砲射撃などによる掩護となって活かすのだ。失敗を直視するって大事だよね。

混乱をもたらす媒介となったのが、地上部隊を船から陸に移す純技術的な困難だった。(略) 特殊な上陸用舟艇の建造、大規模な空挺部隊の創設、艦砲と戦闘機による直接的な火力支援の改善、上陸地帯を敵のほかの防御地域から隔絶する航空戦力の活用…
  ――エピローグ 「大西洋の壁」から鉄のカーテンへ

 迎え撃つドイツ軍は…

(カナダ軍が上陸するジュノー海岸を守るドイツ軍第716師団は)移動する輸送手段を実質的に欠いていた。機動力の証として各師団の一個大隊に配備されていたのは自転車だった。機械式の唯一の自動車輛は、師団長のスタッフカーのみだった。それ以外――師団砲兵の火砲や歩兵大隊の補給用荷車――は、全て馬に引かれていた。兵員は徒歩で行軍するものと見なされていた。
  ――第3章 カナダ:南岸へ

 電撃戦の印象が強いドイツ軍だけど、当時の機動力は…

1944年当時、ドイツ陸軍の9割は移動するのに依然として馬か列車に依存していた。
  ――第1章 第二戦線への旅

 これは後にも効いてきて、他の部隊を支援に向かわせても、なかなか到着しない、なんて話がよく出てくる。

 それはともかく。「ノルマンディ上陸作戦1944」ではシャーマン戦車を現場で改造する米軍兵の臨機応変ぶりが印象深かったが、カナダ兵も負けちゃいない。

ベルニエールでは、砂丘の先にある浸水地帯によって彼ら(地雷処理戦車と工兵戦車)の作業が困難になっていたため、泥沼に戦車一輌を沈め、それをまたぐように橋を架けて横断路を作った。
  ――第3章 カナダ:南岸へ

 次の第4章ではスコットランドの各連隊と、それに抗うドイツ軍に光を当てる。やはり制空権は重要なようで、連合軍の爆撃によってドイツ軍は身動きがとれなくなっていた。

1944年6月11日エルウィン・ロンメル「敵は戦線の後方約100kmまでの戦域上空の制空権を完全に有しており、強力な戦闘爆撃機および爆撃機の編隊をもって、路上や開豁地〔遮蔽物がない開けた地〕での日中の往来をほぼ完全に麻痺させている」
  ――第4章 スコットランド回廊

 特に鉄道が寸断されたのが痛かったようで…

(ドイツ軍)第7軍司令部は、軍の移動を鉄道に依存するのは無駄と判断し、Dデイ当日に設置した運輸計画部を閉鎖したのだった。
  ――第4章 スコットランド回廊

 これらの爆撃を効果的にしたのが、ウルトラ。ドイツ軍が誇る暗号エニグマ(→Wikipedia)の解読だ。連合軍は「解読していること」を隠そうと、特に潜水艦戦では慎重に運用していたのだが…

ウルトラに関する物語の中で最も注目すべきは、(略)(ドイツ軍に)情報源が暴露されれたことは実際に皆無だったという点である。
  ――第4章 スコットランド回廊

 「第一次大戦は化学者の、第二次大戦は物理学者の戦争だった、第三次大戦は数学者の戦争になる」と言われる所以だろう。対するスコットランドの各連隊は…

スコットランド人にとって戦争とは国策産業のようなものであった
  ――第4章 スコットランド回廊

 と、戦争民族である由を強調している。とはいえ、生死の境にある前線の兵がもたらす情報は、どうしてもあやふやになり…

ドイツ軍戦車2輌――ティーガーと識別されたが、危険の浅い歩兵は敵の戦車を何でもそう見なした
  ――第4章 スコットランド回廊

 なんて記述も。そりゃ小銃しか持たない歩兵にとっちゃ、Ⅳ号戦車もティーガーも歯が立たない点じゃ同じだしね。

 第5章では激戦地カーンへの猛爆撃で幕を開ける。連合軍は続々と戦力を補充するのに対し、ドイツ軍は…

Dデイ以降、彼(オマール・ブラッドリー、米軍司令官)の兵力は14個師団に増加し、これに対してドイツ軍は。50マイル〔約80km〕の戦域にわずか6個師団しか擁しておらず、そのうち3個はDデイ当日の戦闘で壊滅された師団の敗残兵からなっていた
  ――第5章 イングランドのヨーマン

 と、散々な様子。ここでも、前線の将兵から見た戦争の模様が興味深い。例えば…

爆撃機搭乗員というものは、できるだけ早く搭載物を投下して安全な場所に向かおうとする傾向がある。
  ――第5章 イングランドのヨーマン

 レン・デントンが「爆撃機」で描いていた、「あとずさり」がコレなのか、と納得した次第。戦車では…

(シャーマン戦車は)燃えやすく、着火すると激しく燃えた。ディーゼル燃料ではなく、ガソリン燃料であったためである〔シャーマン戦車には、(略)ディーゼルエンジンを搭載したものもあった〕。
  ――第5章 イングランドのヨーマン

 ちなみに〔〕内は訳注。他にも訳注で原書の誤りを正してる所が多く、丁寧な訳者の仕事が有り難い。

 第6章ではヒトラー暗殺からドイツ軍のリュティヒ作戦へ。この時期になると戦力差は歴然で。

今や彼(オマール・ブラッドリー)は、残骸と化したドイツ軍の9個師団に対して15個師団を擁し、戦車も、敵の110輌に対し、750輌を保有していた。
  ――第6章 栄光のドイツ陸軍

 これまで慎重だったモントゴメリーも、形勢有利とみて…

1944年8月4日バーナード・モントゴメリー「総員、今や総力をあげて昼夜兼行で前進せよ。連合軍の主たる戦略はパリに向かって……旋回し、敵をセーヌ川まで押し戻すことである」
  ――第6章 栄光のドイツ陸軍

 そういえば、今まで読んだ西部戦線物の中で、本書は最もモントゴメリーを好意的に書いてる。英国人視点だから、かな?

 さて米軍の特徴の一つは、化物じみた兵站能力だろう。太平洋戦争でも、海軍将兵はアイスクリームを楽しんでたし。その理由の一端が、これ。

アメリカ陸軍は兵站を重視し、ハーバード・ビジネス・スクールの手法を戦争遂行に持ち込み、先進国の軍の中で唯一、産業動員の研究を目的とした参謀大学を維持していた
  ――第6章 栄光のドイツ陸軍

 ドイツはアルベルト・シュペーアが有名だけど、米国はそれがチーム単位でいたのだ。Google もそうなんだけど、数を力に変えるのが巧みなんだよな、米国は。

 続く第7章はポーランド軍。ここではカナダ同様に悲劇との対比で描いてゆく。そう、ワルシャワ蜂起(→Wikipedia)だ。「ワルシャワ蜂起1944」は傑作ですぜ。読めば現在のポーランドがロシアを警戒し軍備増強に励む理由が理解できます。

 ポーランド国内軍の戦意と執念は凄まじく…

(1944年のワルシャワ蜂起の際に)市内に投下された何千という数の不発弾は、手製の手榴弾の原材料として国内軍の工兵に珍重され、作業中に信管が作動する危険を承知のうえで慎重に解体された。(略)
物資投下中に撃破された連合軍爆撃機の燃えさかる機体から機銃を取り出そうと、爆発する前にその中に入る者もいた。
  ――第7章 「ポーランド軍の戦場」

 ここでは孤立しつつもファレーズ包囲(→Wikipedia)の栓の役割を果たしたポーランド軍指揮官の言葉が重い。

「わたしはポーランド人として話しているのだ」
  ――第7章 「ポーランド軍の戦場」

 さて終盤の第8章はパリ攻略、そして主役はルクレール率いるフランス軍だ。「パリは燃えているか?」にあるように、当初の連合軍はパリを迂回するつもりだった。

モントゴメリーとアイゼンハワーはパリを「スポンジ」と見なしており、占領するのに優秀な部隊が吸収され、ひいてはドイツ国境への前進に必要な大量の食糧と燃料が無益に吸収されてしまうと考えていた。
  ――第8章 自由フランス

 著者はヒトラーの死守命令に疑問を呈しつつも、ドイツ軍が各所に爆薬を仕掛けたのは認めている。結局、ヒトラーはこんな命令を出しているし。

「パリは廃墟以外の形で敵の手中に収めてはならない」
  ――第8章 自由フランス

 本章ではフランス国内の共産党レジスタンスを警戒するドゥ・ゴールの執念が印象に残る。

(イギリスの)特殊作戦執行部とロンドンのドゥ・ゴール組織は、都市に勢力を持つ共産主義者の力が増大するのを恐れ、パラシュートによる投下物質の圧倒的多数が野外地に落ちるように配慮していた
  ――第8章 自由フランス

 仏国内のレジスタンスは多様な勢力があり、都市部では共産党系が強かったのだ。中でもパリは…

パリ市内では共産主義者がレジスタンスの中で最大の派閥となっており、彼らが局地的勝利を利用して、政府所在地への彼(ドゥ・ゴール)の四年にわたる長旅を土壇場になって妨げるおそれがあった。
  ――第8章 自由フランス

 共産党を筆頭とするレジスタンスの蜂起がパリ奪回の立役者になれば、ドゥ・ゴールは主役の座を奪われてしまう。戦後のフランスの政治情勢も、大きく変わっていただろう。

 結局は半ば抜け駆けみたいな形でルクレールが駆けつけるんだけど。

 終盤では、絶望的な状況下でも頑強に戦ったドイツ軍の秘密を解き明かそうとする。

この都市(ベルリン)を制圧するのに要した12日間の戦闘で、120万人のソ連兵が死傷したと推定される。
  ――エピローグ 「大西洋の壁」から鉄のカーテンへ

 実際、「ベルリン陥落」は凄惨な場面が多かった。

 ノルマンディからパリ解放までの第二次世界大戦の西部戦線を、アメリカ・イギリス・カナダ・フランス・ポーランドそしてドイツ各国の軍を、舞台ごとに主役を交代しながら、彼らがソコに至るまでの過程と戦いを描く、いわば企画物の感がある作品だ。どちらかといえばマニア向けの本だろう。

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2025年11月 5日 (水)

アンディ・グリーンバーグ「サンドワーム ロシア最恐のハッカー部隊」角川新書 倉科顕司・山田文訳

本書では、サイバー戦争によってディストピア化を進行させているならず者の最も明確な例として、サンドワームの話を紹介する。
  ――はじめに

【どんな本?】

 2015年のクリスマスイブ。ウクライナは大規模な停電に陥る。事故ではない。事件だ。物理的な攻撃ではない。サイバー攻撃である。目標はサーバでもパソコンでもない。制御システムだ。そして目的は愉快犯でも金銭でもない。政治的・戦略的・経済的にウクライナに打撃を与えることだ。単独犯による犯行ではない。組織によるものだ。それも、大規模で高度な技術を擁する。

 以前から、連中にはコードネームがついていた。サンドワーム。

 雑誌 WIRED のシニアライターを務める著者が、ウクライナ政府のみならず世界中の港湾施設や病院などのコンピュータを停止させた謎のサイバー・テロ組織サンドワームを追い、世界を巡ってその被害者やセキュリティ関連企業に取材した、迫真のドキュメンタリー。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Sandworm: A New Era of Cyberwar and the Hunt for the Kremlin's Most Dangerous Hackers, Andy Greenberg, 2019。日本語版は2023年1月10日初版発行。新書版で縦一段組み本文約423頁に加え、著者あとがき7頁。9ポイント41字×16行×423頁=約277,488字、400字詰め原稿用紙で約694枚。文庫なら厚い一冊分。

 文章は比較的こなれている。内容も、少なくとも技術的には難しくない。というか、著者はあましITに詳しくない。取材相手からDNS(→Wikipedia)の講義を受けてたり。そのためか、多少IT系の言葉遣いがあやしい。と思えば、幾つかの用語を説明なしに使ってたり。その例は以下。

  • マルウェア:不正プログラム(→Wikipedia)
  • フォレンジック:証拠の保護およびシステムの保全?(→Wikipedia)
  • ハクティビスト:政治目的を掲げる(広い意味での)ハッカー(→Wikipedia)
  • ゼロデイ攻撃:修正プログラム配布前の脆弱性を突く攻撃(→Wikipedia)

 あと、「ハッカー」は悪党の意味で使ってる。かと思えば、.vbs(→Wikipedia)やDNSは簡潔な説明がある。また、ド「メインコントローラ」(→Wikipedia)って言葉も出てくるんだが、これマイクロソフトのシロモノだよね。同様に「ワード」も、マイクロソフト・ワードを示すんだろうけど、KWord(→Wikipedia)やEGWORD(→Wikipedia)とかもあったんだぜ。最近は~WORDではなく~Writerが流行りみたいだけど。いったい、どういう読者を想定してるんだろう…って、雑誌 WIRED の読者か。

 という事で、索引か用語集が欲しかった。

【構成は?】

 前の章を踏まえて後の章が展開する構成なので、なるべく頭から読もう。

クリックで詳細表示
  • はじめに
  • プロローグ
  • 第1部 出現
  • 1 ゼロデイ
  • 2 ブラックエナジー
  • 3 アラキス
  • 4 戦力倍増
  • 5 スターライト・メディア
  • 6 ホロドモールからチョルノービリまで
  • 7 マイダンからドンパスまで
  • 8 停電
  • 9 視察団
  • 第2部 起源
  • 10 回想 オーロラ
  • 11 回想 エストニア
  • 12 回想 ジョージア
  • 13 回想 スタックスネット
  • 第3部 進化
  • 14 警告
  • 15 ファンシー・ベア
  • 16 Fソサエティ
  • 17 ポリゴン
  • 18 インダストロイヤー、あるいはクラッシュオーバーライド
  • 第4部 神格化
  • 19 マースク
  • 20 エターナルブルー
  • 21 ノットペチャ
  • 22 全国規模の大災害
  • 23 崩壊
  • 24 損害
  • 25 事後分析
  • 26 距離
  • 第5部 アイデンティティ
  • 27 GRU
  • 28 離反者
  • 29 情報敵対
  • 30 ペナルティ
  • 31 バッド・ラビット、オリンピック・デストロイヤー
  • 32 偽旗
  • 33 74455
  • 34 タワー
  • 35 ロシア
  • 36 ゾウと反乱者
  • 第6部 教訓
  • 37 ブラックスタート
  • 38 回復力
  • エピローグ
  • 付録 サンドワームとフランス選挙ハッキングのつながり
  • 謝辞/著者あとがき/出典について/参考文献

【感想は?】

 つくづく、ロシアはロクな事をしない。

 ロシアのサイバー・テロ組織「サンドワーム」を雑誌 WIRED の記者が追ったドキュメンタリーだ。その過程で最大の標的となったウクライナはもちろん、ジョージア・オランダ・イギリス・米国などを飛び回り、被害者やセキュリティ企業そして国家の治安機関などに話を聞いている。

 残念ながら技術的な詳しい話は出てこない。そもそも著者はプログラマじゃないし。また、情報セキュリティ関係者に役立つネタも、ほぼ出てこない。だから、その辺は期待しないように。あくまでも「記者がテロ組織を追ったドキュメンタリー」であって、技術書じゃないのだ。

 冒頭から、標的にされたウクライナの悲惨な状況が切々と描かれる。マルウェア(不正プログラム)が蔓延しているのだ。

「ウクライナでは、攻撃されていない場所がありません。どの岩をひっくり返しても、コンピュータネットワークへの工作の痕跡が見つかるんです」
  ――第1部 出現

 素人が面白半分で仕掛けてるんじゃない。組織的に、ウクライナを標的として攻撃を仕掛けているのだ。その結果、ウクライナでは大規模な停電が起きた。

長年身を潜め、能力を高め、偵察活動をしてきたサンドワームは、これまでそのハッカーも踏み出したことのない一歩を踏み出した。実際に停電を引き起こし、数十万人の民間人が利用する現実世界のインフラを無差別に破壊したのだ。
  ――第1部 出現

 実質的な被害を考えれば、戦略爆撃みたいなモンだろう。犯罪どころか戦争行為である。これには、予兆があった。2007年4月のエストニアだ。DDoS(→Wikipedia)攻撃で、エストニア国内の多くのサイトが使えなくなった。

エストニアで起こったこの2カ月間の出来事は、一部の専門家のあいだでは、史上初のサイバー戦争、あるいは、刺激的に“第一次ウェブ大戦”と言われるようになる。
  ――第2部 起源

 政府が大胆にITを活用する国として有名なエストニアだが、悪党にとっては魅力的な標的だったのだ。もっとも、エストニアを狙った理由は、もっと下世話なものだけど。だってNATO加盟国だし。

 また、ロシアは実際の軍事侵略にサイバー攻撃を組み合わせた先例も作った。2008年のジョージア南オセチア戦争(→Wikipedia)だ。北京オリンピック期間中でもあり、軍事衝突ばかりが話題になったが、その陰でロシアはサイバー攻撃もしていたのだ。

(2008年8月のジョージアに対する)サイバー攻撃の実際の効果よりも重要なのは、ロシアが歴史的前例をつくったことだ。ハッカーによる破壊工作と伝統的な戦争をこれほど公然と連携させた国はこれまでになかった。
  ――第2部 起源

 この時はサイバー攻撃による大きな被害はなかったが、ニュース・メディアはサイバー攻撃について大きな報道をしなかったし、各国の政府も表向きは問題視しなかった。

ジョンズ・ホプキンス大学で戦略と軍事を研究しているトマス・リッド教授の指摘によると、そのように(攻撃への非難や反撃を)放置された状況のもとでロシアは技術力の限界を押し広げるだけではなく、国際社会が許容する限界を探っているという。
  ――第3部 進化

 つまり、ツケあがらせてしまうのだ。平和を維持するには、小競り合いでもキチンと反撃してメンツを保つのも大切なんです(「戦争と交渉の経済学」)。

 さて、ロシアのサーバー・テロ組織としては、「情報セキュリティの敗北史」でファンシー・ベア(→Wikipedia)が挙がっているが…

サンドワームのハッカーは、姿を見せないプロの破壊活動家だ。一方、ファンシー・ベアは恥知らずで下品なプロパガンダ活動家のようだ。
  ――第3部 進化

 「140字の戦争」にはロシアが運営するトロール(荒らし)工場が出てくる。著者もセキィリティ関係者も、その三者は見分けにくいというか、どうも連携してる雰囲気があったり。

 さて、本書の主な舞台はウクライナだが、他国の情報セキュリティ企業の関係者も、テロリストが武器として使った不正プログラムを手に入れ、解析している。その結果、かなりヤバい事がわかってきた。

「このマルウェア(CRASHOVERRIDE,→IPA 独立行政法人情報処理推進機構/pdf)のすばらしさは、どの国でも、どの変電所でも実行できることです」
  ――第3部 進化

 変電設備は国により様々なメーカーや機種があり、操作・命令系統も異なる。この違いを吸収するために、ロシア製の不正ソフトウェア CRASHOVERRIDE は、設備への命令部分をモジュール化していた。他国を攻撃する際は、そこだけ差し替えればいい。つまり、わが国がいつ攻撃されても不思議じゃないのだ。

 更にロシアはよりより凶悪な不正プログラム NotPetya を発動、2017年6月27日にウクライナ中のパソコンが狂ってしまう。

ウクライナのインフラ相ヴォロディミール・オメリヤン「政府が機能停止しました」
  ――第4部 神格化

 ばかりではない。NotPetya は世界中で猛威を振るい、例えば世界トップの海運企業マースク(→Wikipedia)の社内でもパンデミックを起こし、各国の港湾が麻痺状態に陥った。病院も被害を受けたというから恐ろしい。

 この被害を…

ホワイトハウスの評価では、結果として合計100憶ドルを超える損害があったという。
  ――第4部 神格化

 これはあくまでも表沙汰になったモノだけで、水面下でどれぐらいの被害が出たのかは不明だ。最近も日本じゃアスクルやアサヒグループホールディングスが被害を受けてたり(→YaHoo!ニュース)。いや犯人はサンドワームじゃないようだけど。

 さて、これらの不正プログラムの感染源となったのは、会計支援アプリケーションのアップデート・サーバだ。脆弱性を塞ぐために最新版にアップデートしたら、おまけに不正プログラムまでついてきたのだ。病院でワクチンを受けたら病気に感染した、みたいな話で実に怖い。その会社の担当者曰く…

単に狙われるとは思っていなかった
  ――第4部 神格化

 発電所などのインフラでもなく、軍のような安全保障のキモでもない、ただの民間企業だから、と油断してたワケです。ありがちですね。

 これらの事故というより事件の裏にはロシアのスパイ組織GRU(→Wikipedia)がある、そう情報セキュリティ企業が明言しているにも関わらず、西側の政府はダンマリを決め込んでいたが、2018年にやっと…

ジェレミー・ハント英外相「同盟諸国とともに、われわれは国際社会の安定を脅かそうとするGRUの企てを明らかにし、それに対応する」
  ――第5部 アイデンティティ

 と、声明が出た。それまで、オバマ政権もトランプ政権も黙っていたのだ。その理由の一つは、イランの核燃料濃縮施設を狙い明国とイスラエルが共同開発した不正プログラムStuxnet(→Wikipedis)だろう、と著者は推測している。「俺たちが使えなくなったら困るじゃないか」、そういう理屈だ。

 先に述べたように、ロシアが狙うのはウクライナだけとは限らない。というか、既にマースク社などが巻き添えで大きな被害を受けている。幸か不幸か、当時のウクライナはあまりコンピュータが浸透しておらず、従来のアナログな技術が多く残っていた。そのため、コンピュータを切り離すことで復旧できたのだ。

 だが、現代の米国や日本は、もっとIT化が進んでいる。加えて、若い担当者はアナログな時代を知らない。これが示す現実は怖ろしい。

「アメリカの送電網を停止させるのは、ウクライナでやるよりむずかしいでしょう」
「でも停止させたままにしておくのは簡単かもしれません」
  ――第6部 教訓

 などの本筋の迫力に加え、情報セキュリティ企業が不正プログラムを集めるため敢えて囮とするサーバを運営しているとかの、情報セキュリティ系のゴシップも山盛りで楽しかった。技術的にはあまり役立つ内容ではないが、ロシアの悪辣な手口や、それに対する西側各国の甘い対応、そして被害を受けた現場の状況などは、実に身につまされる本だった。マウスが勝手に動く場面とかね。いやマウス操作の自動化は、まっとうなソフトもあるのよ、おーとくりっか~ (→窓の杜)とか。

 そんなワケで、ロシアを警戒する人にお薦め。

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【蛇足】

 技術的にも情報セキュリティにもあまり役に立たない本だが、二つほど気が付いた事がある。先の「ワード」や「ドメインコントローラ」が示すように、本書で被害を受けたのは、みな Windows なのだ。というか、著者はコンピュータ=Windows、と思い込んでるフシがある。

 マースク社は Windows のドメインコントローラを潰され、会計支援ソフトの企業はアップデートサーバが感染源になった。なら、サーバとクライアントやバックアップと日常用は、異なるOSにすりゃいんじゃね、と思うのだ。クライアントや日常用がWindowsならサーバやバックアップはLinuxやMacintoshやAWSとか。まあ、それはそれで管理が面倒ではあるんだろうけど。

 もう一つ気づいたのは、感染のパターンだ。電子メールの添付ファイルについてたワープロ文書のマクロに不正プログラムが入ってた、そういうケースが多いのだ。

 そもそも、なぜワープロ文書なのか。地図や構成図などの絵があるならともかく、文章だけなら電子メールの本文に書けばいいじゃないか。本当にワープロ文書である必要があるのか。「屈辱の数学史」には、「某社の表計算ファイルの42.2%には一つも数式がなかった」なんて記述もある。「なんかカッコいいからワープロを使う」みたいな風潮が、社内に蔓延してたんじゃないか。

 と思ったら、ソコを指摘してるサイトもあった(セキュアSAMBAワードをメール添付で送るリスク)。やっぱりそうか。

 ヤバいマクロが勝手に動く危険もあるし、メールサーバの容量も無駄に食うしね。下手すっと一桁多くなるのだ、メールの容量が。だもんで、ネットワーク管理者には嫌われるのだ。

 そのうち、マクロ機能がないワープロソフトとかが出回るんじゃないかなあ。セキュア・ワードみたいな名前で。

 そんなワケで、マナー講習とかでも、「電子メールはなるたけ添付ファイルを使わないように」とか広めてほしいな、と思うのであった。

 以上、駄文でした。

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2025年8月28日 (木)

リー・ネヴィル「ヴィジュアル版 現代の地上戦大全 中東、ウクライナの前線から戦術、将来戦まで」原書房 村上和久訳

本書の目的は、21世紀の地上戦と、近い将来待ちうけているかもしれない状況を、簡潔に、願わくば読みやすく、専門用語を使わずに概観することにある。
  ――序章 現在と将来の地上戦

【どんな本?】

 戦場は変化する。イラク戦争やシリア内戦のように、交戦主体は正規軍だけでなく非政府組織が増え、各国の陸上戦力はIED=即席爆破装置に対応するため軍用車輛の改修を余儀なくされた。トヨタ戦争(→Wikipedia)に象徴されるように、調達しやすく信頼性が高い民生品の活用も盛んになった。そして最近のウクライナ戦争ではドローンが空を飛びかっている。

 本書はアフガニスタン戦争・イラク戦争・リビア内戦・シリア内戦・第二次ナゴルノ=カラバフ戦争・ガザとレバノンでのイスラエルの軍事作戦そしてロシア=ウクライナ戦争などの情報を基に、豊富なカラー写真を掲載しつつ現在の戦場の状況を明らかにするとともに、近い将来の戦場の様子を展望する、一般向けの軍事解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Boots on the Ground: Modern Land Warfare from Iraq to Ukraine, Leigh Neville, 2025。日本語版は2025年5月30日第1刷。単行本ハードカバー横一段組み本文約313頁に加え、訳者あとがき3頁。9ポイント35字×29行×313頁=約317,695字、400字詰め原稿用紙で約795枚だが、迫力あるカラー写真が豊富に載っているため、文章量は6~7割程度。文庫なら厚い一冊分だが、写真が重要な本なので、きっと文庫化はないだろう。

 文章はやや硬い。まあ軍事物だし。また、この手の本の常でIEDやISVやUACVなどの略語が頻繁に出てくるのは覚悟しよう。その割に内容は意外と理解しやすい。例えば序盤で連隊と旅団の違いを説明するなど、素人読者に向けた配慮をしている。でもやはり序盤で説明なしに「テクニカル」なんて業界用語が出てくるけど。あ、ちゃんと後で説明があります。

 そんなワケで、索引または略語一覧が欲しかった。

【構成は?】

 各章は独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。各章のアチコチに囲み記事で独立したコラムがあり、読んでいて飽きない。

  • 序章 現在と将来の地上戦
  • 第1章 主力戦車
  • 第2章 装甲戦闘車輛
  • 第3章 地上防空と近接航空支援
  • 第4章 間接射撃
  • 第5章 無人プラットフォームと電子戦
  • 第6章 歩兵
  • 第7章 特殊作戦部隊
  • 第8章 将来の戦争
  •  原注/訳者あとがき

【感想は?】

 ヴィジュアル版と謳うだけあって、掲載した写真は多く、その迫力も半端ない。その多くがウクライナなのが、なんとも。

 あくまでヴィジュアル版であって図鑑ではないので、個々の兵器の諸元にはあまり深入りしない。主力戦車なら現代の地上戦で主力戦車の利点や役割、置かれた立場などをザックリ説明したうえで、具体例としてウクライナ戦争でのロシア製T-72の戦いを引き合いに出す、そういう形だ。

 軍事系の本は相応の知識を持つ読者を対象にした本が多いが、本書はそこそこ親切だ。さすがに軍事全般の基礎知識とまではいかないが、本書がカバーする範囲に限れば、必要な基礎知識をザックリ書いてあったり。例えば軍の組織形態では…

連隊は一種類の部隊からなるのにたいして、旅団は諸兵科連合部隊で、通常は歩兵や戦車、騎兵、航空、防空、電子戦、無人機、砲兵部隊と必要不可欠の支援兵站兵科の混成である。
  ――序章 現在と将来の地上戦

 とか。あ、もちろん、この前に班・分隊・小隊・中隊・大隊を、後に師団・軍団・軍の説明が入ります。

 本書の嬉しい特徴の一つは、現時点での熱い話題であるロシア=ウクライナ戦争の話題がたくさん載っていること。最初の章は戦場の花形である主力戦車なんだが、ここでは戦車の諸元より、現代戦で戦車が置かれた状況や使い方の話、それもウクライナでの話が記憶に残る。

ウクライナの戦車兵は、車輛の履帯にたいする機動力撃破も、通常、乗員が車輛を放棄することになるので、ロシア軍装甲車輛を戦場から排除するのに効果的な手段であると報告している。
  ――第1章 主力戦車

 この章では、戦車の利点より、戦車の弱点…というか「いかに戦車に対抗するか」みたいな話題が多い。著者の意図は現代の戦車の課題を挙げてるんだろうけど、戦車好きにはアレな章かも。

 いかに優れた道具も、使い方を誤れば役に立たないわけで、そのサンプルが開戦当初のロシア軍で…

(ウクライナ)戦争の初期には、ロシアの戦車は、諸兵科連合制圧や歩兵の護衛に守られず、丸腰だった。
  ――第1章 主力戦車

 本書では他にも戦争初期のロシア軍のgdgdっぷりがアチコチに出てきて、当時のロシアが事態をナメてたのがよく分かる。と共に、戦いを続ける中で両軍が急速に学習しつつある事も。これは無人兵器や電子戦で顕著なのだ。

 続く「第2章 装甲戦闘車輛」では、初心者向けに…

装甲兵員輸送車が歩兵を直接射撃地帯の端に輸送するただの戦場タクシーであるのにたいして、歩兵戦闘車は(略)下車した分隊に有機的で密接な火力支援をあたえられた。
  ――第2章 装甲戦闘車輛

 なんて親切な説明も。

 そうは言っても現実は厳しい。輸送力(=何人の兵を運べるか)と、装甲の厚さや火力の強さは両立が難しく、各国軍の性格が出る所。また、主力戦車もそうなんだが、装輪車輛 vs 装軌車輛でも熱い議論があるそうで…

兵站上の負担と費用が減ると推定されるという理由で装輪車輛を支持する者と、装軌車輛のより高い機動性はより最適な選択肢となると主張する者…
  ――第2章 装甲戦闘車輛

 装軌は道路が傷むし。あと重さもあるんだよね。あまし重いと川を渡るのが難しいのだ。「クルスクの戦い」では橋を架ける工兵が苦労してた。

 「第3章 地上防空と近接航空支援」では、まず近接航空支援の説明から。

近接航空支援とは、部隊が敵と接触した(TiC)場合に、地上部隊を支援するために航空戦力を戦術的に利用することである。
  ――第3章 地上防空と近接航空支援

 従来の米国陸軍はヘリコプターをよく使ってたけど、最近は無人機の活用が盛んで…

Su-57(ロシアのステルス戦闘機、→Wikipedia)は最大4機のS-70(ロシアの無人航空機、→Wikipedia)をコントロールできる
  ――第3章 地上防空と近接航空支援

 なんて使い方も。

 著者は砲兵を贔屓しているらしく、「第4章 間接射撃」は力が入りまくり。まずは基礎的な説明から。

NATOにおいても、砲兵がもたらすおもな計画的効果は4つある。攪乱(harassment)、抑圧(suppression)、制圧(neutralization)、そして破壊(destruction)だ。
  ――第4章 間接射撃

 ここではロシアとNATOの違いが顕著で。

伝統的にロシア軍の軍事ドクトリンでは逆に、作戦行動する部隊が砲兵を支援する。(略)
西側では砲兵は軍事行動する部隊を支援するためにもちいられる。
  ――第4章 間接射撃

 ロシアは砲兵重視なのだ。勝手な憶測だが、独ソ戦での実績が大きいんだろうなあ。そのためか、現在でも…

現在のウクライナの死傷者の80%以上、それ以前の2014~2022年の8年間では90%以上が砲兵によるものだ。
  ――第4章 間接射撃

 と、大きな成果を挙げている。対して西側は弾薬の備蓄が急速に枯渇しつつある、なんて切ない話も。

 さて、本書の全編を通して痛感するのが急速に浸透・発達しつつあるドローンの活用で、特に砲兵の「目」として大きな役割を果たしている模様。

ウクライナ軍の目標の86%がUAS(無人航空システム)から得られたものだ。
  ――第4章 間接射撃

 ただし、これは敵も同じで、ウクライナじゃ砲兵は撃ったらすぐ移動しないといけないとか。つまり位置がバレると反撃を食らうのですね。また、囮のドローンを飛ばして、囮が撃たれたら「ソコに敵がいる」と判断して別のドローンで攻撃する、なんて手も。

 そんな現代の戦場を反映して、一章を割いているのが「第5章 無人プラットフォームと電子戦」。まずは電子戦の定義から。

同社(ロッキード・マーティン)は電子戦を3つの主要分野に分けている。「電子攻撃――混乱させ、使えなくし、低下させ、あるいはあざむく。電子防護――受信機が妨害されたりあざむかれたりするのを防ぐ。電子戦支援――電磁スペクトルの情報収集」
  ――第5章 無人プラットフォームと電子戦

 イラク戦争じゃ民生品のiPhoneとGPSが活躍したようだけど、現代のウクライナじゃ…

ウクライナではプラットフォームの大多数が専用の軍用型ではなく、商用ドローンである。商用ドローンは概して電子対抗手段に弱い。
  ――第5章 無人プラットフォームと電子戦

 やっぱり民生品が使われている様子。既に電波妨害用のドローンも飛んでるし、ロシアは偽のGPS情報を流してるとか。

 そんな風に戦場はハイテク化してるけど、その主役は相変わらず歩兵だ。

いかなる軍隊でもその核心は歩兵である。歩兵は敵を捕らえるか殲滅し、目標を奪取し、占領するために存在する。
  ――第6章 歩兵

 そして、その構成の基本は4人の射撃班。

大半の現代歩兵部隊の基本となる編成単位は射撃班である。この射撃班は通常、兵士4名で構成され(略)
班長、(略)擲弾手、(略)機関銃手、そして小銃手である。
  ――第6章 歩兵

 ハイテク化しているとはいえ、相変わらず彼らの荷物は多い。何を持ち何を置いていくかは、判断の難しい所。

(アフガニスタンで)イギリス軍の歩兵は日常的に40kgから60kの重荷を背負って奮闘していた。
  ――第6章 歩兵

 というか、本書を読むと技術の進歩が荷物を増やしてるような気もする。最近じゃ新しい銃弾の規格が出てきて、6.8×51ミリで薬莢の弾底がステンレス製、短銃身のカービンでも高速で云々。暗視ゴーグルも進歩し歩兵がドローンを携帯するようにもなったが…

テクノロジーにはいずれも情報過多の危険が残っている。
  ――第6章 歩兵

 ですよねー。ただでさえ瞬間的な判断が求められる戦場で、扱うべき情報が増えるのも善し悪し。

 こういった自動化の波は、当然ながら特殊部隊にも押し寄せてる。

アメリカはいまやカタールから主としてリーパー・ドローンを使ってアフガニスタン国内で(そして上空から)対テロ作戦を実施している。
  ――第7章 特殊作戦部隊

 さすが国策で八方美人外交を定めてるカタール。この国は他にもタリバンやハマスも拠点を置いてて、昔のスウェーデン以上に和平会談の名所になりつつあるなあ。

 もちろん、007ばりの秘密兵器も出てくる。

特殊作戦部隊はドローンの発達も有効に利用している――スローボットは文字どおり建物のなかに投げ(スロー)こむことができ、超小型無人機は建物のなかにそっと飛び込んで、住人をひそかに監視できる。
  ――第7章 特殊作戦部隊

 とかの話も面白いんだが、この章ではそれ以上に、米軍特殊部隊の傍若無人というか神出鬼没っぷりが面白かった。ハシャムの戦い(コノコ地区の戦い、→Oryx Blog)なんて知らなかったぞ。2018年2月シリアでシリア政府軍+ヴァグネルと、米陸軍デルタフォース+レンジャー連隊で起きた戦闘だ。紛争地にはどこでも顔を出すな米軍は。

 これらを総合して未来を展望する最終章では、はやり砲兵が重要だと指摘してる。

砲兵が依然として戦争の神だ
  ――第8章 将来の戦争

 ウクライナ戦争から学んで計算したら、NATOの弾薬備蓄/製造量がヤバいなんて話もある。とはいえ、平時と戦時じゃ必要量が桁違いなんで、調整が難しいところだろう。

 逆に必要性が薄れる兵科もある。具体的には…

場面から姿を消しつつあるかもしれないものは、ヘリコプターだ
  ――第8章 将来の戦争

パラシュート強襲もほとんど同じ理由で過去のものである。
  ――第8章 将来の戦争

 いずれも原因はドローンで、つまりは空が極めて危険な状況になっているのだ。とはいえ、メディアに踊らされるのに釘をさすのも忘れない。

成功した攻撃を映す無数のビデオ映像が公開されている。映っていないのは成功しなかったほかの何十という攻撃だ
  ――第8章 将来の戦争

 ドローンが万能のように思えるけど、電波妨害や偽電波で無効化されちゃった時の映像は、Youtube に上がらないしね。

 それでも前線の人々がドローンを警戒しているのは事実で、ウクライナでの写真だと、車輛のてっぺんに金網を張ったり、陣地を漁網みたいので囲ったりと、安っぽく即席ながらも自爆ドローンに対し効果的と思われる工夫をしているのわかる。素人の私でもこれぐらいは読み取れるんだから、詳しい人は更に多くの情報を豊富に載っている写真から得られるだろう。書名通り、現代の戦場に興味がある人にお薦め。

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2025年7月24日 (木)

ティム・ワイナー「米露諜報秘録 1945-2020 冷戦からプーチンの謀略まで」白水社 村上和久訳

ホワイトハウスとクレムリンは、20世紀中、スパイと外交官に命じて、全世界ですくなくとも117回の国政選挙を操作した。
  ――第1章 将来の闘争の種

【どんな本?】

 第二次世界大戦が終わると、世界は西側と東側で対立する。東側を率いるソ連は、この分野で長い歴史と多くの実績を誇っていたのに対し、西側のリーダー米国は、これからCIAを立ち上げる所から始めねばならなかった。

 欧州における駆け引きや途上国での陣取り合戦そして互いの国内での世論操作など、米ソの諜報機関はそれぞれの指導者の方針に従い暗躍を続ける。

 やがてベルリンの壁が崩れソ連が崩壊し、世界は新しい秩序に向かうかと思われたが、元KGBのウラジーミル・プーチンの登場で盤面は大きく様相を変える。

 綿密な調査と取材で「CIA秘録」を著した著者が、同じ諜報機関をテーマとしつつも米露の対決に焦点を絞り、いまなおホットな2020年の話題も盛り込んで送る、衝撃的な現代のルポルタージュ。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Folly and the Glory: America, Russia, and Political Warfare 1945-2020, by Tim Weiner, 2020。日本語版は2022年7月10日発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約308頁に加え、訳者あとがき10頁。9ポイント45字×20行×308頁=約277,200字、400字詰め原稿用紙で約693枚。文庫なら厚めの一冊分。

 文章はやや硬い上に、外交文書っぽいまわりくどい表現が多い。実際、外交文書の引用も多いし。だが内容自体は比較的にわかりやすい。なにせネタは現代史だし。特に最後の「第10章 アメリカの民主主義」は、2020年の米国大統領選を扱っているので、極めてエキサイティングだ。

【構成は?】

 ほぼ時系列順に進むが、興味のある所だけを拾い読みしてもいいだろう。

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  • 第1章 将来の闘争の種
  • 第2章 永遠に続くリズム
  • 第3章 真実だけではじゅうぶんでない
  • 第4章 西側最後の希望
  • 第5章 ヴォイス・オブ・アメリカ
  • 第6章 じつに汚い手
  • 第7章 「黄金期の欺瞞に満ちた夢」
  • 第8章 この消すことのできない炎
  • 第9章 最初の犠牲者たち
  • 第10章 アメリカの民主主義
  • あとがき エイジェント・オブ・インフルエンス
  • 謝辞/訳者あとがき/原注/人名索引

【感想は?】

 私たちは2025年7月現在の米国大統領が誰か知っている。これは怖ろしい事だ。

 本書は第二次世界大戦後の、米国 vs ソ連/ロシアの、情報/諜報機関の戦いを描いている。著者はそれを「政治戦」と呼ぶ。

ジョージ・F・ケナン(→Wikipedia)「政治戦は、国家の目標を達成するための、戦争をのぞく、国家が自由に使えるあらゆる手段の行使である」
  ――第2章 永遠に続くリズム

 秘密警察チェカー(→Wikipedia)の長い歴史を誇るソ連に対し、CIAが発足したのは第二次世界大戦後だ。そのためか、最初はいささか怪しげだったCIAだが、次第に実績を積んでゆく。

CIAの国際プロパガンダ部門は、世界中でざっと50の新聞やラジオ局、雑誌、通信社を所有あるいは金銭の面倒を見て、海外のほとんどすべての重要な首都で事件の独自の見解を発表していた。
  ――第3章 真実だけではじゅうぶんでない

 日本だとナベツネがCIAと関係があったようなんで、そういう事なんだろうか。

 やがて世界は東西陣営に分かれ睨み合う形になる。そこで陣取り合戦の前線となったのが、独立まもない発展途上国、それも主にアフリカ諸国だ。南米が分かりやすいんだが、CIAは極右の独裁者が好きなんだよなあ。コンゴで選んだのも…

彼(ジョゼフ・デジレ・モブツ,→Wikipedia)はいまや国家の収入の半分あるいはそれ以上を着服していた。
  ――第4章 西側最後の希望

 まっとうな民主主義国家を取り込むには、多くの議員を買収せにゃならんけど、独裁国家なら一人の独裁者で済む。はいいが、取り込まれた国は災難で。

そのいっぽうで、「学校や機能している病院、道路、飲料水、衛生、電気、住宅、そのほかのなにかを(国家や国民に)提供するようなことは、ほとんどなにもしなかった」
  ――第4章 西側最後の希望

 だって発展したらライバルが育っちゃうし。お陰でコンゴは今も争いが絶えない(→「名前を言わない戦争」)。

 南米やアフリカじゃ手荒い真似も遠慮なく使ったCIAだが、東欧じゃもう少し洗練された手口を使う。放送局ヴォイス・オブ・アメリカを運営したのだ。そこで深夜のジャズ番組のDJウィリス・コノヴァー(→英語版Wikipedia)はファンレターに応じて1959年6月、空路ワルシャワを訪れる。空港に多くの人が詰めかけているのを見た彼は、スーパースターのファンの群集に巻き込まれるのを避けようとして…

「あれが誰のためかは知らないが、その人が降りるまで待った方がいいな」
  ――第5章 ヴォイス・オブ・アメリカ

 が、飛行機に最後まで残ったのは彼だった。東側じゃ彼の番組は大人気で、DJの彼も大スターだったのだ。音楽ファンには、とても心地よいエピソードだ。

 このネタに触発されたワケじゃないだろうが、CIAは情報工作に力を入れ始める。当時の大統領ジミー・カーターの意向もあって…

翌(1978)年中にCIAは何十万冊という書籍と定期刊行物を(ポーランドに)送りだした。「こうしたプログラムは、われわれのどんな兵器にもおとらず、わが国の防衛に貢献する――それにくわえて、その費用は鶏の餌程度ですむ」
  ――第5章 ヴォイス・オブ・アメリカ

 と、西側の情報を向こうに届ける工作に力を入れる。その甲斐あってか…

「戒厳令中に西側から手に入れた印刷機は、戦時中の機関銃か戦車に匹敵したかもしれない」
  ――第5章 ヴォイス・オブ・アメリカ

 なんて、ポーランドの地下抵抗組織のメンバーはコメントしている。イランの米国大使館襲撃事件(→Wikipedia,「ホメイニ師の賓客」)もあって現役時代は散々な評判だったカーターだが、冷戦じゃMVPだと私は思う。

 対するソ連の戦術は、基本的に現在のロシアがインターネットでやっているのと同じだ。つまり、欧米でデマをバラ撒くのである。

CIAがケネディ大統領を殺害したとか、FBIがマーティン・ルーサー・キングを暗殺したとか、陸軍が細菌研究所でAIDSウィルスを発明したとかいった、アンドロポフの局員と工作員が放送し、出版して、長く記憶にとどめさせた、あらゆる嘘
  ――第6章 じつに汚い手

 確かにネタとしちゃ面白いから、噂を見聞きした人も多いだろう。昔からソ連は、こういう真似をしていたのだ。

 が、奮闘むなしく、東欧は崩壊する。懸念するゴルバチョフに対し、当時のブッシュ(父)政権のジェームズ・ベイカー米国務長官は…

「われわれは、もしアメリカがNATOの枠組みのなかでドイツに駐留しつづけるなら、NATOの現在の軍事的管轄区域は1インチたりとも東方へ広がることはないと保障されることが、ソ連だけでなく、ほかのヨーロッパ諸国にとっても重要であると理解しています」
  ――第7章 「黄金期の欺瞞に満ちた夢」

 なんて請け負っちゃってる。そりゃNATOの親玉は米国だろうけど、ポーランドやエストニアの外交/軍事方針を、なんで米国が決めるのさ。そういう傲慢な所が嫌われるんだぞ。

 やがて崩壊の波はソ連にも押し寄せ、ウクライナやグルジア(現ジョージア)などが独立を果たす。ゴルバチョフを引きずり下ろしたボリス・エリツィンだが…

エリツィンのもとで、国家の経済的富は40%以上減少した。経済の崩壊はアメリカの大恐慌の倍の規模で、三倍の長さだった。
  ――第7章 「黄金期の欺瞞に満ちた夢」

 なお本書に出てくるエリツィンは、しょうもない酔っ払いだったりする。よくそれで大統領になれたな。そんなエリツィンの跡を継いだ元KGBのプーチンは、したたかだった。

プーチンは自分のもっとも強力な反撃能力を情報戦と考えていた。
  ――第8章 この消すことのできない炎

 だけでなく、大きな野心も抱いていた。

ウラジーミル・プーチン「ウクライナは国家でさえありません」
  ――第9章 最初の犠牲者たち

 彼はウクライナをそう見ているのだ。である以上、キーウを落とすまで戦争は止めないだろう。そのウクライナに対し、米国も約束をしている。

ビル・クリントンとボリス・エリツィンは1994年12月、ウクライナと協定を結んだ。同国は核兵器をロシアに送り、アメリカのノウハウで解体することになった。ウクライナは核戦力を放棄するかわりに約束を受け取った。ロシアは同国の主権と国境を尊重して、同国の独立に反対する「脅しあるいは武力の使用」をしないと誓い、アメリカは国連をつうじてロシアの侵略にたいして同国を防衛する。
  ――第9章 最初の犠牲者たち

 これが本当なら、今頃はウクライナを守るため米軍または米国主導の多国籍軍を派遣してなきゃマズいんじゃね? いや「国連をつうじて」とあるから、安全保障理事会を通す必要があるのか。じゃ無意味じゃん。だって常任理事国のロシアが必ず反対するし。でも、何かしらの形でウクライナを支援せんと、嘘を吐いたことになるぞ。

 などと腰が定まらない米国に対し、ロシアは明確な目的を持ちインターネット上で米国に対し情報戦を仕掛ける。

「われわれの任務はアメリカ人を自国の政府に対抗させ、不安と不満を引き起こすことだった」
  ――第10章 アメリカの民主主義

 うん、まんまディープステートなどの陰謀論そのものだね。だいぶ前からロシアはそういうシナリオを用意していたのだ。残念ながらオバマ政権もFBIもCIAもロシアの工作に気づくのは遅かった。もっとも、ウクライナやジョージアへの侵略に対しては、相応の対応はとっていた模様。

ある推定によれば、(オバマ政権によるロシアへの経済)制裁は1年のあいだにロシア経済の1/4~1/3を破壊した。
  ――第10章 アメリカの民主主義

 どうも経済制裁ってのはまだるっこしい上に効果が見えにくいんだが、意味はあるようだ。

 もちろん、ロシアも黙っちゃいない。米国の大統領選挙に向け、ドナルド・トランプが有利になるよう、あの手この手で工作を仕掛ける。例えば民主党支持が大多数を占める黒人に対しては…

黒人社会に向けたIRA(→Wikipedia)のメッセージは、(略)選挙を完全にボイコットするよう主張する場合がはるかに多かった。
  ――第10章 アメリカの民主主義

 日本でも「白票を投じろ」と訴える声があるけど、それで有利になるのは現在の与党や現役の候補者なんだよね。不満があるなら、与党の対立候補に投票するのが最適解。

 そんなロシアが狙っているのは、こういう事だ。

(ロシアの情報工作の)狙いは、アメリカの内部と、それにもましてロシアの国益に反すると見られる大西洋をまたぐ同盟関係の両方に、不破と不一致の種をまくことである。
  ――第10章 アメリカの民主主義

 困った事に、今まさしく米国に起きているのが、保守とリベラルの分断であり、NATOの分担の見直しなのだ。この本、本当に2020年の著作なのか? 2024年じゃなく。

 トランプ自身がロシアとの関係をどう考えているのかは、本書じゃよく分からない。だが、最終章の記述は不気味だ。

彼(ドナルド・トランプ)はプーチンと五回、直接会談したが、その公式記録は存在しない。
  ――あとがき エイジェント・オブ・インフルエンス

 記録の破棄は安倍晋三も得意だった。そしてプーチンとの会談は20回を超えている。果たして会談の記録は残っているんだろうか。日本は米国より遥かに情報公開に渋い。それを思うと、とても憂鬱な気分になる。

 正直、スパイ物につきものの秘密工作や活劇は少ない。米露に絞ったため、それ以外の国はコンゴぐらいしか出てこないのも、私は不満だ。中南米なら、山ほどネタがあるだろうに。しかし、それを置いて、特に9章と10章の迫力はすさまじい。まさしく「今、そこにある危機」を本書は描いている。情報工作に、ロシアに、プーチンに興味がある人にお薦め。

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2025年6月18日 (水)

クリストファー・ブラットマン「戦争と交渉の経済学 人はなぜ戦うのか」草思社 神月謙一訳

ロナルド・レーガン「平和とは、武力によらない手段で紛争を処理することだ」
  ――第7章 相互依存

ひとたび戦端が開かれれば、戦闘が継続されることで利益を得る利己的な政治家や、軍事指導者、企業、将軍が必ず現れる。
  ――第4章 不確実性 原注

ここ200年間に政府が殺害した人の数は、戦争よりも虐殺によるものの方が多いのだ。
  ――第5章 コミットメント問題

「誰もが、相手の暴力に対して自分は適切に対応していると主張するのだ」
  ――第6章 誤認識

「民主主義は与えられない。つかみ取らなければいけないのだ」
  ――第8章 抑制と均衡

安定した社会や、国家、平等は、権力の中枢にいるエリートと、外部にいる商人や大衆との内部抗争のプロセスとして出現した。
  ――第11章 戦争についてのよくある議論の真偽

(援助)組織が成功するのは、何がうまくいっているかに関するフィードバックを得ているとき、改善を促す強いインセンティブがあるとき、そして、特定の政策で成功した組織がそのノウハウを秘匿できないときである。
  ――結論 斬新的平和工学者

成功している(援助)組織は、意思決定を可能な限り中心から遠ざけ、現場に近いところで行う傾向があることがわかっている。
  ――結論 斬新的平和工学者

【どんな本?】

 戦争をなくすには、どうすればいいか? この問題を考える時、多くの人は、今までに起きた戦争を分析し、その原因を探ってきた。だが、本書は敢えて逆の方法をとる。

 戦争は高くつく。だから、多くの集団は戦争を避けたがる。これは国家に限らず、シマをめぐって争うギャングも同じだ。たいていはキリのない抗争を避け、駆け引き・取り引き・話し合いでケリをつけようとする。この交渉が失敗した時に、戦争が起きるのだ、と。

 著者は大胆にも戦争の原因を5つに絞る。正確には戦争の原因というより、交渉による解決を阻む原因だ。

 国家同士の戦争や内戦からギャングの抗争にまで視野を広げ、集団同士が暴力で衝突した事例や逆に避けた事例を挙げ、時として火花散る「前線」へと赴いて戦士や司令官に取材し、経済学とゲーム理論を用いて人が争いを避けるメカニズムとそれを阻む障害を明らかにし、平和への道を示す一般向けの解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Why We Fight: The Roots of War and the Paths to Peace, by Christopher Blattman, 2022。日本語版は2023年7月12日第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約435頁。9.5ポイント45字×18行×435頁=約352,350字、400字詰め原稿用紙で約881枚。文庫なら厚い一冊か薄い上下巻ぐらい。

 文章は比較的にこなれていて親しみやすい。内容も意外とわかりやすい。これには訳者の努力も大きい。著者の文章は衒学的というか文学的というか、西洋の古典を引用するなど詩的で回りくどい表現が多いのだが、訳者が上手く注をいれている。

【構成は?】

 ほぼ前の章を前提として次の章が展開するので、なるべく頭から読もう。

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  • 序章
    • 「なぜ殺し合うのか」という問いに直面するとき
    • 暴力はどれほど大きな問題か
      本書における「戦争」の定義
    • 戦争は例外であり、通常は選択されない
    • なぜ最も憎悪する敵同士でも戦争を避けるのか
      戦略の科学「ゲーム理論」
    • 戦争が起きる5つの理由
      原因を5つに整理したことの意味
  • 第1部 戦争を引き起こすもの
  • 第1章 人々はなぜ戦いを避けるのか
    • 犯罪組織でさえ抗争を避けビジネスを優先する
    • ゲーム理論が示す「戦わないという戦略」の正しさ
      労働争議や訴訟でも人々は戦いを避ける/「戦争の5つの原因」はパイの平和的分割を阻む
  • 第2章 抑制されていない利益
    • 武装勢力の元司令官が語った「おとぎ話」
    • 独裁者や寡頭独裁者はなぜ問題となるのか
    • アメリカ独立革命の不名誉な側面
    • 「抑制されていない私的利益」はどう働くか
      エージェンシー問題としての戦争バイアス
    • 「抑制と均衡」は権力者のインセンティブを変える
  • 第3章 無形のインセンティブ
    • 戦いでしか得られないもののために戦う
    • 義憤 不公正への抗議そのものに喜びを感じる
      民衆の憤りが「アラブの春」を誕生させた/不公正を罰するか。「最後通牒ゲーム」の実験/なぜ人は不公正を罰したいと思うのか
    • 道義的憤りが交渉領域を大幅に縮小させる
    • 名誉と威信 命を危険にさらしても得たいもの
      集団が全体として名誉と威信を重視する場合/抑制の効かない支配者が名誉や地位を求める場合
    • イデオロギー 理念のため頑なに妥協を忌避する
      平和的だが不平等な妥協が受け入れられない場合
    • 暴力そのものの喜びは無形のインセンティブか
      戦争が避けられないのは人類が暴力を楽しむから?
    • 妥協を拒んで交渉領域が狭まることの意味
  • 第4章 不確実性
    • ギャングのリーダーが自分の強さを誇示する理由
    • 敵と味方の実力差を評価する際の不確実性
      実力差の評価を誤ると交渉が難しくなる理由/自らの実力に関する信頼できるシグナルを送る
    • ブラフと私的情報は不確実性をより大きくする
      ブラフや私的情報が交渉領域を狭める理由
    • ライバルが多数いると評判はより重要になる
    • アメリカ対サダム・フセイン そこにあった不確実性
      フセインのブラフだった「大量破壊兵器保有」/不確実性を増大させた双方の事情/フセインは最後に査察団受け入れを認めたが…
  • 第5章 コミットメント問題
    • 予防戦争 敵の台頭を阻止するための戦争
    • 第一次世界大戦は予防戦争だったか
      ドイツはロシアの台頭を恐れていた/予防戦争が成立する一般的条件
    • アテネ対スパルタのコミットメント問題
    • パイ図で考えるコミットメント問題の論理
    • ジェノサイド 少数派台頭への恐怖が暴走するとき
    • 内戦が長引きやすいのもコミットメント問題のせい
    • 再びイラクへ 不確実性とコミットメント問題
    • 「5つの原因」が重なり合い交渉領域を狭めた
  • 第6章 誤認識
    • アインシュタインとフロイトの往復書簡
      集団間の憎悪の背後にある心理学的要因
    • 「速い思考」に働く心理的バイアスの数々
    • 自分に対する誤認識 自分の能力を過信する
      自信過剰は戦争にどのような影響を及ぼすか
    • 他者を誤認識する 誤った投影と誤った解釈
      誤認識が攻撃と復讐の連鎖を引き起こす/相手の立場に立った評価や予測ができない
    • 集団での意思決定に紛れ込むバイアス
      巨大官僚組織はどのように失敗するか
    • 誤認識と激情の恐ろしい相互作用
      自動的な否定的思考を矯正する認知行動療法/激情はバイアスを強化し、判断に影響を与える//偏狭さと反感が大きくなり、敵を悪魔化する/誤認識と激情が交渉領域を狭めていく
    • 5つの論理を集約し診断ツールとして使う
  • 第2部 平和をもたらす術
  • 第7章 相互依存
    • 競争を平和裏に処理するための4つの方法
    • 宗教対立が起こりづらい都市の特徴
    • 経済的相互依存は交渉領域を広くする
      商業はどのように平和を促進するか/経済的独立が交渉領域を狭める例 アメリカと石油
    • 社会的な交流は分極化を抑制する
    • 遠くの人との道徳的、文化的な結び付き
  • 第8章 抑制と均衡
    • 内戦が終結し優れた大統領が就任すれば万全か
    • なぜ安定した社会は多くの中心を持つのか
      リーダーが独裁者にならないための仕組み作り
    • 多中心的な体制になれば戦争は起こりづらい
    • 抑制と均衡は権力との長い闘争の末に実現する
  • 第9章 規則の制定と執行
    • 犯罪組織で取り決められた暴力を抑制する制度
    • 国家 暴力を抑制し鎮定する強力な存在
      警察官が増えるほど犯罪は減るが…
    • 無政府状態で暴力を抑制する「名誉の文化」
    • 半無政府状態にある国際社会での制度の意義
      国際機関の有効性を示す科学的証拠はあるか
  • 第10章 介入
    • カリスマ人権活動家の活躍と失敗
    • 戦争という「厄介な問題」に介入する54つの手段
    • 懲罰 経済制裁に効果はあるか
      国全体を対象とする「包括的制裁」の問題点/制裁に効果があるかを評価するのは難しい/それでも制裁は有効だと示す兆候はある
    • 執行 平和維持部隊の派遣などの効果
      内戦終結後の不安定な社会で起きた暴動/暴動鎮圧にとどまらない平和維持部隊の役割
    • 調性 和平協議の仲立ちをする調停者
      調停者が本当に機能しているという証拠
    • 社会化 自制、他人への共感、理性的判断など
      リベリアの若者や元兵士の行動を変える活動/認知行動療法で男性の暴力と犯罪が半減/同様の活動はシカゴでも大きな効果を発揮した/相手の立場で考えられるようになることの効能
    • インセンティブ 戦わないことの価値を高める
      レアルポリティークと理想主義のバランス
  • 第11章 戦争についてのよくある議論の真偽
    • 戦争に関する直感的理解の妥当性を評価する
    • 女性がリーダーになれば戦争は減るか
      女王は男の国王より戦争に巻き込まれやすかった
    • 貧困をなくせば紛争は防げるか
    • その他の直感的理解を裏切る事実
    • 戦って解決させた方がよい、という主張
      多くの権力割譲は戦争なしで進んだ
  • 結論 斬新的平和工学者
    • 戦争の一挙解決を夢想することの危うさ
    • 平和工学者のための十戒
      • 1 容易な問題と厄介な問題を見分けなさい
      • 2 壮大な構想やベストプラクティスを崇拝してはならない
      • 3 すべての政策決定が政治的であることを忘れてはならない
      • 4 「限界」を重視しなさい
      • 5 目指す道を見つけるためには、多くの道を探索しなければならない
      • 6 失敗を喜んで受け入れなさい
      • 7 忍耐強くなりなさい
      • 8 合理的な目標を立てなければいけない
      • 9 説明責任を負わなければならない
      • 10 「限界」を見つけなさい
  • 謝辞/参考文献/原注

【感想は?】

 目の付け所が素晴らしい。戦争の火種はどこにでも転がっている、そういう悲観的な発想から始まる。

 なら世界はいつでもあらゆる所が戦火に包まれていそうだが、幸いにしてそうじゃない。それは暴力による争い=武力衝突を阻む/避ける要因があるからだ。このブレーキが利かなくなった時に戦争が起きる。そういう発想である。

 なぜ武力衝突を避けるのか。これは身もふたもない理由で、つまりは高くつくからだ。「戦争の経済学」にもあるが、武力衝突は投資として見るとリスクがデカすぎて割に合わないのである。

 本書のもう一つの特徴は、国同士の戦争に加え内戦やギャングの抗争も「戦争」に含めている点だ。特にギャングの抗争などは、登場人物が少ないため(数学的な意味での)モデルとしてスッキリしていて理解しやすい。つまり本書でいう戦争とは、組織同士の武力衝突を示す。

 日本でも、ヤクザ同士の潰し合いは滅多にない。やらない理由も想像がつく。抗争が大きくなればマスコミが騒ぎ桜の代紋(警察)がお出ましになり、下手すれば双方の組が潰される。もしくは抗争で弱ったところに第三・第四の組が乱入し漁夫の利を狙うかもしれない。だから、なるたけ本気の抗争は避けたいのだ。

敵対し合うグループは、非生産的な結果を避けるために、取引をして資源を移譲するインセンティブを持っている
  ――第1章 人々はなぜ戦いを避けるのか

 実際…

現実に起きた1つの戦争の裏では、1000の戦争が話し合いと譲歩によって回避されてきた。
  ――序章

 これまた一つのハインリヒの法則(→Wikipedia)だろうか。と、いうことで、歴史上の例やギャングの抗争を調べ、衝突を回避した例と失敗した例を分析し、メカニズムを探ってゆくのである。

 さて、ヤクザを例に出したのは、半ば意図的なものだ。本書が求める平和は、公平でも平等でも正義でもない。強い側が多くを得て罪を免れる、そういう平和である。また、仲良しでもない。睨み合い・憎しみ合い・小競り合いは続くが、全面戦争には至らない、そういう状態だ。

 だもんで、本書が求めるのは、非武装の平和ではない。

平和は、博愛主義や協力からではなく、暴力の脅威が常に存在する状態から生まれ、交渉力は、攻撃するぞと相手を脅す力によってもたらされる
  ――第1章 人々はなぜ戦いを避けるのか

 困ったことに、この前提は現実の世界情勢と合致している。その上で、著者は、衝突を避けたい組織/集団が、なぜ回避に失敗するのかを探り、5つの原因を示す。

 これが本書の大きな特徴だ。戦争の原因を探るのではない。戦争を避けるのに失敗する原因を調べるのである。

 その一つは「抑制されていない利益」だ。決定権を持つ者がリスクを負わない状況である。

武力衝突の代償は公民権を持たない大衆によって払われるが、勝利した時の利益は指導者のものになる
  ――第2章 抑制されていない利益

 王や独裁者が盤石な権力基盤を持つ場合がこれだろう。幸か不幸か、現代の独裁者は戦争に負けると威信を失い権力基盤が揺らぐ。だから挑発はしても開戦はしない。どっかの半島の北もこれだろうなあ。

 ロシアのようにゴリ押しする場合もあるが…

暴力が発生するのは、概して、政治指導者が、自分たちの財力と政治組織とメディアへの影響力を使って、より大きな政治目標のために街頭で戦略的に騒乱を起こそうとするときだ
  ――第2章 抑制されていない利益

 現在のロシアも、国外にいるロシア人が国内の家族とは話が合わないとか。お互いに別の世界を見ているのだ。しかも、ロシアは政治状況もヤバい。

抑制されていないリーダーと民衆のパロキアル(身内びいき)な性質が混ざり合うと、有毒な混合物が生成される。
  ――第3章 無形のインセンティブ

 日本でも鬼畜米英とか言ってたし、ナチスドイツも東部戦線じゃ相手を人間扱いしなかった。なお、「無形のインセンティブ」の分かりやすい例は宗教だ。信長の比叡山焼き討ちや、現在のエルサレムをめぐる争いもこれだろう。

 さて、太平洋戦争の原因は幾つか考えられるが、その一つは米国の能力と意思を甘く見たことだ。

相手の力が把握できず、力の認識にズレがあるということが、おそらく多くの武力衝突の原因となっている。
  ――第4章 不確実性

 これを避ける方法の一つが、軍事演習だろう。「俺はこんなに強いんだぜ」と見せつけるのだ。

小競り合いは戦争を避けるためにある。
  ――第4章 不確実性

 これで避けられなかったのが、イラク戦争だろう。サダム・フセインは核査察を一応は受け入れたが、その後で査察団の邪魔をした。最終的に米国はフセインを信用できないと判断し、多国籍軍で攻め込んだ。相手が信用できないのでは、交渉しようがない。

政治経済学者がコミットメント問題について語るときは(略)交渉において、一方の側が、約束を守るという信用を得られないために、取り決めが成立しないことである。
  ――第5章 コミットメント問題

 やはりイラク戦争では、誤認識もあった。米国はフセインの野心を過大評価していたし、イラクの民衆は喜んで多国籍軍を受け入れると踏んでいた。現代の独裁者の最大の目的は、自分の地位を守ることで、意外と侵略までは考えてなかったりする。もっとも、プーチンのように自分を過大評価する場合もあるんだけど。最近の中国は挑発が目立つけど、習近平はどうなんだろうね。

グループ同士の闘争を理解する上で最も重要な3つの誤認識(略)
成功の可能性を過信すること、自分たちの信念や情報を誤ってライバルに投影すること、ライバルの動機を誤解して最悪の意図を持っていると思い込むこと
  ――第6章 誤認識

 さて、ここまでは回避を妨げる要素だ。後半では、回避を助ける要素を挙げてゆく。最初は、相互依存である。というか、むしろ相互交流が近い。よく知る相手とは、争いを避けるのである。その例が面白い。

中世の港から発達した都市は、宗派間抗争が、同じような沿岸都市の1/5しか発生しない
  ――第7章 相互依存

 港湾都市には様々な国や地域から商人が訪れ、商館もできる。だもんで、色々な国や地域や宗教信者が混ざり合って暮らしている。そのため、あまり武力抗争には発展しないらしい。

 また、権力が分散していると、争いを煽る勢力の暴走に歯止めがかかる。一部の者が頭に血が上って暴走しようとしても、冷静な者がソロバンをはじいて「損だからやめようぜ」と止めに入るのだ。

専制君主との約束は、その君主の在位期間しか持続しないが、法治国家の議会との約束はときの支配者が亡くなってからも続くのだ。
  ――第8章 抑制と均衡

 また、力による抑制もある。

ひとたび(帝国に)征服されると、帝国内の氏族や国は戦いを禁じられた
  ――第9章 規則の制定と執行

 これの失敗例が、ユーゴスラヴィア内戦(→Wikipedia)とナゴルノ・カラバフ紛争(→Wikipedia)だろう。ユーゴはチトーが、ナゴルノ・カラバフはソ連が抑えていたが、重しが外れた事で争いが激化した。成功例は第四次中東戦争かな? 米ソの睨みで、双方が矛を収めた。

 などと昔の米国はイスラエルとアラブ諸国の仲介をしたし、かつてはスウェーデンも中立国として多くの紛争で仲立ちをしていた。今はNATOに入っちゃったけど。こういった仲介者には、ちゃんと価値があるのだ。

調停者は「不確実性」と「私的情報」を減らそうとする。
  ――第10章 介入

 争う両者は、互いに相手の状況や立場がわからないし、相手の言葉も信用しない。そこで信用できる第三者が間に入って、言葉に重みを持たせるのである。ヤクザの手打ちも、これだね。ヤクザの場合、仲介者のメンツもかかってるので、効果は大きいんだろう。

 終盤では国際的な援助組織の話になる。あまし私たちに関係ないように思えるが、組織の中で働いている人には、思い当たる事も多いんじゃないだろうか。私は…

人間には状況を過度に単純化する驚くべき能力があるが、それが顕著に表れるのが他人に代わって決定を下すときである。
  ――結論 斬新的平和工学者

 これに痛い所を突かれた。

 世界の平和なんていう稀有壮大な目標を掲げた本だが、その内容は武装を前提としたもので、決して甘くないし、平和を実現する過程も、「先は嫌になるほど長いぞ」と厳しい。とはいえ、ギャングの抗争を例にとったりと、意外と身近な話も多い。ただ、あくまでも紛争を防ぐ方法であって、既に始まってしまった戦争を止める方法は扱っていないので、それは期待しないように。平和を愛するすべての人にお薦め。

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2025年6月10日 (火)

ジェイソン・K・スターンズ「名前を言わない戦争 終わらないコンゴ紛争」白水社 武内進一監訳 大石晃史/阪本拓人/佐藤千鶴子訳

本書の目的は、なぜ2002年に決定的な和平合意が結ばれた後もコンゴ東部で暴力がやまないのかを説明することだ。
  ――第2章 歴史的背景

組織構造がまとまっていくと、(FDLRからの)自衛の重要性が後退し、機会主義が現れた。
  ――第7章 ライア・ムトンボキ

本書の主なる目的は、なぜコンゴの紛争がこれほど長く続くのかを理解することだ。少なくとも最近までイトゥリはその例外であり、したがって興味深い事例研究となる。
  ――第8章 イトゥリとコンゴ愛国者同盟(UPC)

【どんな本?】

 かつてベルギー国王の私有地として搾取され続けたコンゴは、豊かな資源に恵まれながらも独立後は困難が続き、21世紀に入っても特に東部における戦闘が続いている。

 ややこしい事に、ありがちな内戦と異なり、単純な政府軍vs反政府軍の構図ではない。「2021年には武装勢力の数は120を超え」ているのだ。国軍や地域ごとの勢力に加え隣国のルワンダやウガンダなどが介入し、情勢は複雑にもつれあってしまった。

 「本書の執筆段階で、550万人がコンゴ国内で避難民となっている」にも関わらず、「コンゴ紛争が『ニュートーク・タイムズ』の一面で言及されたのは、2017年にわずか2回だけだった」。日本でもシリア内戦やウクライナ戦争やイスラエルのガザ侵攻は盛んに報じられるが、コンゴは滅多にニュースにならない。

 とはいえ、国際的な支援の手も差し伸べられている。国連をはじめとして多くの国や団体が、開発・安定化・救援を目指し480憶ドルを出資し、「2015年段階で180の国際的な非営利団体がプロジェクトを回していた」。

 それでもコンゴ東部では暴力の応酬が続く。

 なぜこんな状況になったのか。どうして戦闘が続いているのか。政府や国軍は何をしているのか。どんな国のどんな勢力がどんな思惑でどんな武装勢力に肩入れしているのか。

 長く現地で調査を続け、現在はカナダのサイモン・フレイザー大学で国際学部の助教授を務める著者が、混迷を極めた原因と経緯を紐解き、平和への道を模索する、アフリカ的な内戦の解説書。

 なお、本書の「コンゴ」はコンゴ民主共和国(→Wikipedia)であり、コンゴ共和国ではない。旧ザイールであり、ルワンダやフルンジやタンザニアと接している国です。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The War That Doesn't Say Its Name: The Unending Conflict in the Congo, by Jason K. Stearns, 2021。日本語版は2024年6月30日発行。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約328頁に加え、監訳者あとがき8頁。9ポイント46字×18行×328頁=約271,584字、400字詰め原稿用紙で約679枚。文庫なら厚めの一冊分。

 文章は硬い。また、見慣れない言葉、それも主にカタカナの言葉が説明なしに出てくる。意味は文脈からボンヤリとわかる気もするが、一般用語なのか専門用語なのか不明だし、専門用語は一般的な意味とは異なる場合もあるので油断できない。つまり学者の文章なのだ。具体的な例と私なりの解釈を下に示す。

 内用もややこしい。よく知らない地域で聞きなれない多くの勢力が争い合う話で、しかも各勢力とも途中で組む相手や陣営を変え、または分裂するのだ。構成も一部に不満がある。当時のコンゴの政治・経済状況は、始めの方で説明して欲しかった。これが背景事情としてかなり重要なのだ。

 以下、わかりにくいカタカナ言葉の一部。

  • ドナー:資金や物資などの提供者
  • アクター:登場人物
  • インボリューション:社会の停滞→内部抗争、Wikipedia
  • エスニシティ:民族/部族/氏族
  • マインドセット:~のつもり
  • インフォーマル:非公式、影の、闇の
  • パトロネージ:金づる、後ろ盾、取り引き相手
  • モメンタム:勢い
  • フレーミング:設定付け/構図付け
  • チーフダム:なわばり
  • ナショナル:全国的、国家的
  • ガバナンス:統治・管理・運営

【構成は?】

 ややこしい状況を説明する本だ。巻末の「監訳者あとがき」が短い文章で巧みに情勢を説明しているので、最初に読むといいだろう。その後は素直に頭から読もう。

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  • 第1章 序論
  • 第2章 歴史的背景
  • 第3章 コンゴ紛争を説明する
  • 第4章 国家の役割 コンゴとルワンダ
  • 第5章 理論 インボリューション、分裂、軍事的ブルジョワジー
  • 第6章 人民防衛国民会議(CNDP)と3月23日運動(M23)
  • 第7章 ライア・ムトンボキ
  • 第8章 イトゥリとコンゴ愛国者同盟(UPC)
  • 第9章 平和創造とコンゴ
  • 謝辞/監訳者あとがき/注記/文献一覧/索引/略語一覧

【感想は?】

 内戦を描いた本なので、カテゴリーは「軍事」としたが、むしろ「政治」が近い。内容も戦術や軍略のネタはなく、政略レベルの話ばかりだ。

 そもそも、内戦といっても、政府軍 vs 反政府軍の構図ではない。民族/部族/氏族対立もあるだろうが、もっと複雑だ。なにせ…

2021年には武装勢力の数は120を超え、ときにローカルな問題をめぐって激しい戦闘が繰り広げられている。
  ――第1章 序論

 と、眩暈がするほど多くの勢力が乱立し、争っている。その大半は東部で、ウガンダ/ルワンダ/フルンジと接するあたり。首都キンシャサ近辺には、ほぼ影響はない。いや治安は悪いんだけどね。なんでそんなことになり、なぜ続いているのか、ぞれが本書のテーマだ。

 背景事情の一つとして、政府の汚職・腐敗がある。例えば…

政府は(略)ブカンガ・ロンゾの農産物加工工場団地に少なくとも2億8500ドルを投資し、そのうち2憶ドルが行方不明となった。
  ――第9章 平和創造とコンゴ

 予算の2/3以上が闇に消えたのだ。ここまで腐敗が進んだ原因として本書が悪役扱いしているのが、ジョゼフ・カビラ(→Wikipedia)だ。大統領だった父を殺し、その地位を奪った男。共産化を懸念する西側諸国の働きもあり、経済を自由化するが…

この時期におけるコンゴ経済の急速な自由化は劇的な成長をもたらしたが、和平プロセスを傷つけ、略奪的国家に紛争のダイナミクスを植えつけた。
  ――第9章 平和創造とコンゴ

 なんか抽象的で分かりにくいけど、例えばこんな例がある。コンゴは鉱物資源が豊富な国なのだが…

多国籍企業の多くは現地子会社に損失を計上させ、課税率がより低いところに利潤を移転させる。
  ――第9章 平和創造とコンゴ

 と、ハゲタカのような企業が殺到して資源を奪ってゆくのである。もちろん、政治家へのキックバックは忘れない。「俺たちは西側に搾取されている」って理屈にも頷けてしまう。

 そうなった原因の一つは、カビラの立場の危うさにある。

和平合意の規定により、カビラは軍の統合を求められ、かつての敵たちを新生コンゴ民主共和国軍の幹部に迎えた。これによって、カビラ自身が彼らに放逐される可能性は高まった。
  ――第4章 国家の役割 コンゴとルワンダ

 なぜ和平がなったのに、カビラの地位が危ういのか。そもそも、和平とは…

あらゆる和平プロセスの核心は政治的な歩み寄りだ。
  ――第3章 コンゴ紛争を説明する

 政治的な歩み寄りというと経済の自由化か共産化か、みたく思えるかもしれないが、まったく違う。もっと生臭く、ある意味切実なものだ。

政府との交渉にいおいて、武装勢力が自分たちのコミュニティの権利を強く要求したという記録はほぼ皆無である。2009年のPARECOのように政府と合意を締結した勢力にとって、合意締結の際に決定的に重要だったのは地元エリートへの報酬であり、その条件は国軍における階級と地位でほぼ尽くされていた。
  ――第5章 理論 インボリューション、分裂、軍事的ブルジョワジー

 長々と書いているが、要は地位や利権の奪い合いなのだ。国際ニュースでも「和平プロセス」って言葉がよく出てくるけど、その実態は分け前の分配なんだな。山賊かよ。

 実際、武装勢力がやってる事は山賊と大きく変わらない。

「カネを稼ぐ方法はいくつもある。密輸とか、課税とか、大麻とか、木炭とか。鉱物は重要だよ。でもね。まずは影響力と支配を確立することだ。そうすれば、残りはついてくる」
  ――第9章 平和創造とコンゴ

 名を上げればシノギは幾らでもある、そういう事だ。もはや戦国大名かヤクザだ。そんな連中の武装は…

国際専門家グループによれば、CNDPが引き渡した武器は、個人所有の武器2,542個、PKM機関銃7丁、MAG機関銃1丁、RPG-7砲7基、60ミリ迫撃砲4門、82ミリ迫撃砲1門、75ミリ無反動銃6丁、SPG-9無反動銃2丁、多連装ロケット砲4門である。
  ――第6章 人民防衛国民会議(CNDP)と3月23日運動(M23) 注記

 なおCNDPはルワンダ系の大手。"個人所有の武器"は自動小銃かな? PKMとRPG-7とSPG-9はソ連/ロシア、MAGはベルギー。MAGは旧宗主国つながりか? いずれにせよ、そこらのヤクザよりは遥かに重武装だ。

 本書は武器の入手元を明らかにしていないが、恐らくルワンダだろう。PKMとRPC-7がルワンダ陸軍(→英語版Wikipedia)と共通だが、いずれもベストセラー機なので根拠としちゃ弱い。彼らが暴れる理由だが…

二つの母体、すなわちコンゴのトゥチ人からなる軍事的ネットワークとルワンダの治安機関の一部を通じて、CNDPとM23の反乱を生み出した。二つの集団を動機づけていたのは、コンゴの和平プロセスが自分たちの利益を損なうという恐れだった。
  ――第6章 人民防衛国民会議(CNDP)と3月23日運動(M23)

 「自分たちの利益を損なう」とは、最悪の場合で逮捕・処刑、そうでなくとも収入源を失う。そこで見返りとして地位と利権を要求するのだ。政府は和平のため彼らを軍に迎え入れる。のだが、軍の基本給は安い。反面、「手当て」は厚い。手当ては上官の思惑で決まる。特に美味しいのが、東部での鎮圧任務である。東部に派遣してくれるよう、軍人たちは上官に頼むのだ、山吹色のお菓子を添えて。

 つまり、国軍にとっても、東部の紛争は嬉しいのだ。だもんで、鎮圧に向かっても、なかなかケリをつけない。どころか敵と内通して、武器弾薬を融通する始末。今は敵だが、元々は同じ武装勢力にいた仲間だったりするし。

 と、そんな具合に、紛争が続くよう現場の者たちが動くのである。

 こういう構図は、敵が多く立場が弱いカビラにとっても有り難い。曰く、「俺が弱くても敵がもっと弱ければいい」。だから国も軍も腐敗させ、まっとうに機能しないようにした。

 軍の給与体系も、そう計算して設計したのなら、その制度設計の能力は天才と言っていい。困った才能だが。これに東部での影響力を増したいウガンダやルワンダの思惑が重なり、国連などの支援で資金も流れ込み、紛争は半ば永久機関として動き続ける。支援する側も、もちっとキチンと調べろよ、と思うのだが。

 世界銀行の職員曰く「私たちの動機づけは、カネを使うことなんだ」。各国の支援担当者にせよ、自分の予算を減らしたくはない。だから、「巧くいってないっすよ」なんて上司に言う奴は滅多にいないのである。そして上司は…

外交上の失敗は、国際的な陰謀ではなく、関心や関与の欠如によるものなのだ。
  ――第9章 平和創造とコンゴ

 カネを出す欧米にとって、身近に感じるウクライナには関心が深いが、遠くのコンゴはよく知らないし票にもならない。だから知ろうとも調べようともしない。そして今日もコンゴは地獄が続く。

 と、そんな具合に、内戦がこじれるとどうなるかの、実に居心地が悪い実例を分析した本だ。正直言って文章は硬いし慣れない言葉も多い上に、なにせ登場人物が多く状況が複雑でわかりにくい。心地よい読書にはならないが、いわゆる「和平プロセス」の中身をぶっちゃけてたりと、嫌な現実を見せつけてくれる。

 良くも悪くも暴力の実態を明らかにした本だ。今後も増えるであろう低強度紛争に興味がある人にお薦め。

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2025年5月19日 (月)

ダニ・オルバフ「ナチス逃亡者たち 世界に潜伏、暗躍したスパイ・武器商人」朝日新聞出版 山岡由美訳

本書は何よりもまず、敗者について、つまり歴史の残骸ともいうべきナチ・ドイツとその情報・治安機関で働いていた多くの個人について語るものだ。
  ――おわりに 鏡に映った亡霊 ナチ浪人の歴史的重要性

わたしはこの本で、第二次世界大戦後から数十年にわたり、金銭目当てでさまざまな仕事を請け負ったナチの動きについてまずは語ろうと思う。さらにそうしたナチが引き起こした現象の重要性を説明したうえで、それが冷戦の全体像や西ドイツ国内で繰り広げられた権力闘争ドラマ、またイスラエル・アラブ紛争や情報機関による秘密戦争と混じりあった経緯を説明したい。
  ――はじめに

【どんな本?】

 ナチス・ドイツは滅びた。連合軍に身柄を拘束された者たちは、ニュルンベルク裁判で裁かれる。だが、当局の追及を逃れ、落ち延びた者もいた。

 ある者たちは、ナチスの思想の一部を捨て、幾つかの欠片を守り続けた。反共思想で西側情報機関で働く者。反ユダヤ思想でアラブ諸国に協力する者。逆に米英仏への恨みで東側の手先となる者。

 または、思想をスッパリ捨て、武器商人として暗躍する者もいれば、誰彼構わず情報を切り売りしてあぶく銭を稼ぐ者もいた。

 元ナチたちは、どこに潜み、どのように生計を立てていたのか。イスラエルやドイツなどは、彼らをどう考え追跡したのか。それにより、冷戦時代の世界はどのような影響を受けたのか。

 軍事史の研究者でありイスラエル軍情報部の勤務経験を持つ著者が、20世紀後半の歴史の闇を照らし出す、一般向け諜報ドキュメンタリー。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Fugitives: A History of Nazi Mercenaries During the Cold War, by Danny Orbach, 2022。日本語版は2024年5月30日第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組み本部約329頁に加え、日本の読者のための著者による解説が豪華15頁。9.5ポイント46字×18行×329頁=約272,412字、400字詰め原稿用紙で約682枚。文庫ならやや厚め。

 文章は比較的にこなれている。ただし、ややこしい内容が多い。というのも、本書はスパイ物の色が濃いためだ。そもそも登場人物が膨大な上に、名前・経歴・目的などを偽る者も多く、その関係も複雑に絡み合っている。幸い、親切な事に各章の頭に「本性の主な登場人物」の項があり、これがとても助かった。また巻末に人名索引があるのも嬉しい。

 が、組織の略称が次々と出てくるのには参った。CIA・KGB・MI6・モサドぐらいは分かるが、次に挙げる名前はなじみが薄い。これも略称一覧などをつけて欲しかった。なお、リンク先は日本語版Wikipedia。

【構成は?】

 ほぼ時系列で進むので、なるべく頭から読もう。

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  • はじめに
  • 第1部 凋落と復活
  • 第1章 荒れ地
  • 第2章 ゴミ溜めのなかから 生き延びたナチ浪人
  • 第3章 乞う者と選ぶ者ゲーレンとCIA
  • 第4章 ブラインドと赤の脅威
  • 第5章 モスクワ、先手を打つ 花火作戦
  • 第6章 チェスと二重スパイ ルードヴィヒ・アルベルトをめぐる謎の事件
  • 第2部 副産物と影響
  • 第7章 漁夫の利
  • 第8章 ハダード通りの家
  • 第9章 オリエント貿易会社 第三世界のネオナチによる目論見
  • 第10章 反撃するフランス
  • 第11章 バイスナー、吹き飛ばされる
  • 第12章 敵の敵は アロイス・ブルンナーの企て
  • 第13章 「懲罰攻撃」 モサドの参入
  • 第14章 シリアの冬 OTRACOの没落
  • 第15章 暴かれる不都合な過去 ゲーレンの苦難のとき
  • 第3部 余震と幻影
  • 第16章 ダモクレス作戦 幻影を追跡するモサド
  • 第17章 目の前の獲物と核の悪夢
  • 第18章 悪魔との取引 ナチを使うユダヤ人国家
  • 第19章 ハエは蜜で取るもの
  • 第20章 沙汰止み
  • おわりに 鏡に映った亡霊 ナチ浪人の歴史的重要性
  • 謝辞/日本の読者のための著者による解説/参考文献/原注/人名索引

【感想は?】

 書名は「ナチス逃亡者たち」だが、読後の印象は「第二次世界大戦後の中欧と中東のスパイ合戦」みたいな感じ。

 逃亡者の皆さん、昔取った杵柄なのか、諜報機関と関係を持ちたがる者が多い。中にはラインハルト・ゲーレンのように出世する者もいるが、多くは情報屋としてネタを売りまくるのである。それも相手かまわずで、CIAもKGBもお構いなし。

 そんな感じで、出てくるのは次のような人物だ。断りがない場合のリンク先は日本語版Wikipedia。

 この辺の名前で食指が動く人向けの本です。

 …で終わっちゃったらアレなので、私が気になった所を紹介する。

 ドイツは日本と同じ敗戦国なので、やはり敗戦後の状況は気になる。どうも敗戦国には他国の軍人だけでなく、情報機関の者も押し寄せるようだ。欧州の人は見ただけじゃ国籍を見分けにくいので、様々な国のスパイが交錯する。そして元ナチたちは、その人脈を使い情報屋として小遣いを稼ぐのである。その報酬は現物支給の場合もあるが…

西ドイツにいたエージェントは同業者が占領国(米英仏)のどの国のために働いているのかを、その人物が吸っているタバコの銘柄をもとに特定したという。
  ――第3章 乞う者と選ぶ者ゲーレンとCIA

 当時はそれぐらい喫煙者が多かったんです。

 そんな状況でも、ドイツ連邦共和国(当時は西ドイツ)が成立した以上、相応の情報機関が要る。よってラインハルト・ゲーレンがゲーレン機関(後のBND、ドイツ連邦情報局)を立ち上げた。そこで人を集めるんだが、二重スパイが潜り込むとマズい。ってんで採用の際は身元を調べるんだが…

ゲーレンのセキュリティ顧問は二重スパイを探すにあたって、ナチの治安機関出身者ではなく、共産党とのつながりをもつ者やドイツのレジスタンス闘士を標的にしたのだ。
  ――第5章 モスクワ、先手を打つ 花火作戦

 一応タテマエとして「ナチ関係者は駄目」となってたんだが、実際にはザルで…。こういう所は日本の公安警察や公安調査庁と似てる。加えて…

終戦時に秘密野戦警察隊の文書のほとんどが廃棄された
  ――第6章 チェスと二重スパイ ルードヴィヒ・アルベルトをめぐる謎の事件

 と、組織的に証拠隠滅してたのだ。これもまた日本とソックリ。だもんで身元調査は難しく、チェックも緩かった。これが祟り、後に醜聞として炎上、首相の怒りを買う。

(西ドイツ首相)アデナウアーの命令を受け、「部会85」という内部組織がBNDの全職員についてナチ時代の経歴の調査に当たり、SDやゲシュタポなどのナチの治安機関に勤務していた数十人を追放した。
  ――第15章 暴かれる不都合な過去 ゲーレンの苦難のとき

 ばかりか、東側の二重スパイの侵入も許す体たらく。こういう「姿勢は強硬だが間抜け」な例は、現代の国際社会にも思い当たる節が幾つか。

 さて、本書のテーマの一つは、元ナチスが世界情勢に与えた影響だ。欧州では、アルジェリア民族解放戦線FLNとフランスと武器商人の関係がある。

 当時、独立を求めるFLNとフランスは対立していた。そのFLNに武器を売っていたのがアロイス・ブルンナーなど元ナチの武器商人である。アルジェリアへの武器流入を止めたいフランスは、SDECEが主体となり武器商人の暗殺を企てる。一時期は功を奏したように見えたが…

(アルジェリア民族解放戦線FLNに武器を売る)ドイツ人武器商人に対する(フランスによる)テロ攻撃は、FLNに供給される武器の流れを止めるどころか、アルジェリア人を共産圏のなかへと勢いよく押しやることになったのだ。
  ――第11章 バイスナー、吹き飛ばされる

 今度はソ連や中国が国家として武器を売り始めたのだ。フランスとしては、まさかソ連に表立って喧嘩を売るわけにもいかず、事態は更に悪化してしまう。つかベトナムといい、この頃のフランスはロクな事してないな。

 そのフランス、イスラエルには比較的に同情的で、それには理由があった。

アルジェリアで戦争が続いていたうえに、イスラエル人が国の存亡をかけてアラブ人と戦っていることにフランスの軍民の指導者は深い同情を寄せていた
  ――第13章 「懲罰攻撃」 モサドの参入

 「激突!! ミサイル艇」でも、フランスやギリシャは(非公式に)イスラエルに同情的なんだが、それは「敵の敵は味方」って理屈なんだろうか。

 ドイツでも、保守本流の人はイスラエルに同情的だったりする。

(西ドイツ元国防相のフランツ・ヨーゼフ・)シュトラウス(→Wikipedia)はイスラエルを中東の反ソ・新欧米の要塞と見なしていた。
  ――第19章 ハエは蜜で取るもの

 当時のドイツは東西対立の最前線だけに、東側への対策は切実な問題だったんだろう。

 かように西欧がイスラエルに好意的なのに対し、敵意剥き出しなのがアラブ。なので、元ナチを様々な形で受け入れる。中でもイスラエルに衝撃を与えたのが、エジプトのナセルが迎え入れたドイツ人ロケット科学者たち。

エジプトの革命記念日に当たる1962年7月23日、(略)ナセル大統領が(略)長距離ロケットをパレードで披露したのだ。
(略)エジプト大統領は、次にイスラエルとの戦闘を余儀なくされたときには、その国の都市に死と破壊の雨を降らせてやるとすごんだ
(略)この恐ろしい武器を開発したのは、エジプトに拠点を置く新世代の雇われドイツ人だった。
  ――第16章 ダモクレス作戦 幻影を追跡するモサド

 これで当時のイスラエル首相ダヴィド・ベン=グリオンはパニックに陥る。実際はエジプトの工業力やドイツ人科学者の能力などが障壁となり、エジプトの予算を無駄遣いするだけに終わるのだが、ベン=グリオンには慌てるだけの原因があったのだ。

ユダヤ人絶滅を企むナチのイメージをイスラエルに敵対するアラブ人、ことにエジプト人、より具体的にはアラブ世界で最高の強さとカリスマ性をもつ指導者、ガマール・アブドゥル・ナセルに投影していたのだ。
  ――第16章 ダモクレス作戦 幻影を追跡するモサド

 それぐらい、この頃のナセルの人気は凄かったのだ。

 有名なナセルに対し、ハーッジ・アミーン・フサイニーは日本じゃあまり知られていない。エルサレム大法官であり、ナチスの高官と親密な関係にあり、第二次世界大戦後はパレスチナの武装蜂起を煽った人物だ。2015年に現イスラエル首相のネタニヤフが暴論を吐いて炎上する羽目になった(→AFP)。そのフサイニ―も、ナチ逃亡者を庇っている。本書に曰く、「中東のナチ逃亡者の守護天使」だとか。

 最近のパレスチナに対するネタニヤフをはじめとするイスラエル右派の、あまりに短絡的で暴力的な対応の裏には、ベン=グリオンがナセルと元ナチに怯えたように、フサイニーとナチの亡霊への怯えがあるんじゃないか、と私は思っている。

 実際、今世紀に入っても、シリアは元ナチを匿っていた。アロイス・ブルンナー、アドルフ・アイヒマンの副官である。一応、シリア政府はタテマエとして「そんな人知らない」って姿勢を保っていたが、ブルンナーは勝手に取材を受け、こんな事を言ってる。

「君はわたしに感謝すべきだ。君たちの美しいウィーンからユダヤ人がいなくなったのだから」
  ――第20章 沙汰止み

 反ユダヤ思想は筋金入りのだ。そしてアイヒマンに対しては「わたしにとって大切な方だった」なんてコメントしてる。裁判じゃ凡庸な役人を演じたアイヒマンだが、ブルンナーの言葉から推し量れば、思想的にも「忠実」だったんだろう。

 書名は「ナチス逃亡者たち」で、実際に元ナチの戦後の暗躍を描いている。が、元ナチの潜伏先として有名な中南米にはほとんど触れず、欧州と中東それも東地中海周辺が主な舞台となる。要は「イスラエルから見た元ナチ」なのだ。そんなワケで、イスラエルを中心とした中東情勢、それもスパイや密輸組織などの裏面史が好きな人にお薦め。あ、もちろん、著者はイスラエル贔屓です。

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