ノーマン・オーラー「ヒトラーとドラッグ 第三帝国における薬物依存」白水社 須藤正美訳
ナチ党員は(略)厳格なドラッグ撲滅政策を展開した。だが、それにもかかわらず総統ヒトラーのもとで、抜群の効果をもち、きわめて依存性が強く、ことのほか人心を惑わすドラッグが大流行することになった。
――第1部 国民ドラッグ「メタンフェタミン」 1933年~1938年ヒトラーは1941年秋からホルモンとステロイドの注射を受け、遅くとも1944年下半期以降はコカイン、さらにオイコダールが大量に使用された。
――第3部 ハイ・ヒトラー、患者Aと彼の主治医 1941年~1944年オピオイド中毒は、もともと彼に備わっていた硬直した思考や決して自らの手を汚さない暴力行使の傾向を、セメントでさらに固めたに過ぎない。
――第3部 ハイ・ヒトラー、患者Aと彼の主治医 1941年~1944年
【どんな本?】
晩年のヒトラーの記録を見ると、「頭おかしいんじゃね?」と感じる人は多い。この疑問に対し、「そうだよ、彼はヤクでラリってたんだ」と答えるのが本書である。
どんなヤクか? 初期はビタミン剤やホルモン剤だったが、やがてペルビチン(メタンフェタミン,日本の俗称はヒロポン/シャブ)、コカイン、オイコダール(アヘン系鎮痛剤)などを連日注射していた。
ヒトラーの主治医として彼に付き添った医師テオドール・モレル(→Wikipedia)の膨大かつ散逸したメモや処方箋を、著者は世界中を巡って調べ上げ、ヒトラーがヤクにハマってゆく様子を再現してゆく。
と同時に、ドイツ陸海軍や親衛隊も熱心に向精神薬を研究・開発・利用していた由を暴き、当時の第三帝国が薬物まみれであった実態を描き出してゆく。
小説家かつジャーナリストの著者が、丹念な調査と取材によって、第二次世界大戦に新しい角度から光を当てる、衝撃の歴史ドキュメンタリー。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は Der totale Rausch: Drogen im Dritten Reich, Norman Ohler, 2015。日本語版は2018年10月5日発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約292頁に加え歴史家ハンス・モムゼンによる解説「ナチズムと政治的リアリティの喪失」2頁+訳者あとがき6頁。9.5ポイント45字×20行×292頁=約262,800字、400字詰め原稿用紙で約657枚。文庫なら厚めの一冊分。
文章は比較的にこなれていて読みやすい。が、小説家らしくやや文学的な表現も多い。内容も特に難しくない。電撃戦やクスルク戦車戦などの重要な背景は、本書内で説明がある。とはいえ、大雑把な流れは掴んでいた方がいい。また、メタンフェタミンを初めとして聞きなれない薬物の名前が頻繁に出てくるのは覚悟しよう。
メタンフェタミンは覚醒剤でペルビチン=ヒロポン/シャブ、オイコダールはアヘン系でモルヒネやヘロインの仲間、コカインはコカノキから作るアッパー系の向精神薬。
【構成は?】
ほぼ時系列順に進むので、品雄に頭から読もう。
クリックで詳細表示
- 使用説明書 序文に代えて
- 第1部 国民ドラッグ「メタンフェタミン」 1933年~1938年
ブレイキング・バッド 帝国首都のドラッグ工房/19世紀の序曲 原薬物/ドイツ、薬物の国/化学の20年代/権力交代とは薬物交代なり/反ユダヤ政策としての反ドラッグ政策/クアフュルステンダムの有名医師/患者Aのための多剤カクテル注射/国民ドラッグを恃みとする民族体
- 第2部 ジーク・ハイ 電撃戦はメタンフェタミン戦なり 1939年~1941年
証拠探し 連邦公文書館軍事記録局(フライブルク)/ドイツの軍隊はドイツの薬物を発見する/グラウブロートからブレインフードへ/ロボット/バーンアウト/モダン・タイムス/時は戦なり/「ちまちませずに派手にやれ」/時はメスなり/クリスタル・フォックス/だがヒトラーは電撃戦を理解せず/ダンケルクの停止命令 薬理学的解釈/国防軍の薬物ディーラー/戦争とビタミン/フライング・ハイ/外国への喜ばしいプレゼント
- 第3部 ハイ・ヒトラー、患者Aと彼の主治医 1941年~1944年
現地訪問 アメリカ国立公文書記録管理局(ワシントンDC)/ブンカー メンタリティ/東部の陶酔/元衛生将校が語る事実/プラネット・ヴェアヴォルフ/屠畜場ウクライナ/「x」と完全なる現実喪失/オイコダールの服用/薬物集積場としての諜報機関/患者D/患者B/暗殺未遂とその薬理学的な帰結/ついにコカイン!/スピードボール/医師たちの戦争/自己の抹消/スーパー・ブンカー/線路マーク/責任問題
- 第4部 その後の濫用 血とドラッグ 1944年~1945年
現地訪問 連邦軍医科大学校(ミュンヘン)/ザクセンハウゼンへの業務旅行/錠剤パトロール/正真正銘の没落/洗脳/薬物の黄昏/最終出口 総統地下壕/解雇/最後の毒物/モレルの内面崩壊 - 千年の愉楽
- 謝辞/ナチズムと政治的リアリティの喪失 ハンス・モムゼン/訳者あとがき
- 図版の出典/文献リスト/註/人名・事項索引
【感想は?】
ある程度は時代背景もあり、割り引いて考える必要もある。例えばペルビチン=メタンフェタミン=ヒロポンが日本で禁じられたのは1949年だ(→Wikipedia)。それでも、特に戦況が悪化した終盤の容赦は背筋が凍る。ヒトラーは完全なジャンキーだったのだ。
1938年、テムラー社はペルビチンを鳴り物入りで売り出した。同社はベルリンのすべての医師に無料サンプルを配る。返信ハガキと共に、以下の文言をつけて。
「初回分に限り無料!」
――第1部 国民ドラッグ「メタンフェタミン」 1933年~1938年
まるきしヤクのバイニンじゃねえかw
このペルビチン、気分は良くなり眠気も飛び自信満々になる。のはいいが…
大脳に大きな抽象能力が要求されるプロセスの処理に関しては、ペルビチンを服用しても成績の向上はみられなかったのだ。計算は確かに速くなったものの、計算ミスも増えた。
――第2部 ジーク・ハイ 電撃戦はメタンフェタミン戦なり 1939年~1941年
別に頭が良くなるんじゃなくて、単に自信過剰になるだけらしい。おまけに乱用すると妄想や依存性などのツケが回ってくるんだが、それもしこたま利息をつけて。
さすがにこの時点じゃ注射じゃなくて錠剤なんで多少はマシかもしれないが、一般市民向けのチョコレート菓子にまで入ってるとか、ヤバいだろ。
この効果には軍も注目する。1939年のポーランド侵攻でも、第九軍の軍医が報告している。
「兵士たちが持てる力をすべて出し切らねばならぬような難局で、ペルビチンを支給された部隊は、支給されなかった部隊をはるかに上回る戦果を挙げたのだ」
――第2部 ジーク・ハイ 電撃戦はメタンフェタミン戦なり 1939年~1941年
将兵にペルビチンを配り、ハイな状態で戦場に送り込んだのだ。その優れた実績に基づき、すぐにテムラー社へ増産体制に入るよう要請する。
「特別な状況下で、睡眠によって軍事的な成果が脅かされる場合には、眠気を克服することの方が、例えばそれとの関連で生じうる後遺障害へのいかなる配慮よりも重要となる。そして眠気の打破には(…)覚醒剤が利用できる」
――第2部 ジーク・ハイ 電撃戦はメタンフェタミン戦なり 1939年~1941年
かの有名な電撃戦も、覚醒剤ありきの計画だった。
ハインツ・グデーリアン「諸君に要求する。必要とあらば、少なくとも三日間、昼夜一睡もせずに奮闘せよ」
――第2部 ジーク・ハイ 電撃戦はメタンフェタミン戦なり 1939年~1941年
兵をドラッグで強化なんて作り話かと思ったが、歴史的な事実だし、実際に効果があったのだ。1973年の第四次中東戦争を描く「砂漠の戦車戦」でも師団長が寝不足でボケる描写があったし、戦場での睡眠は死活問題らしい。2001年からの米国主導のアフガニスタン戦争でも、軍から向精神薬を求められたとの話が本書に載っている。
ともあれ第三帝国に戻ろう。薬物に頼ったのは国防軍だけでなく、海軍もだ。ナチス版回天のゼーフント(→Wikipedia)開発に当たり、乗務員の負担が大きな問題となる。狭い艦内で数日間、眠らずに航行しなければならない。そこで…
海軍軍医将校ハンス=ヨアヒム・リヒェルト博士「丸四日間の投入が可能な潜水艇ゼーフントの使用条件は過酷であるので、新しい薬剤の開発と治験を要請している」
――第4部 その後の濫用 血とドラッグ 1944年~1945年「四昼夜、人間をまったく(もしくはほとんど)眠らせずに高いパフォーマンスを維持させるという目標は、薬物A~Dを使用したときに実現可能となる」
――第4部 その後の濫用 血とドラッグ 1944年~1945年
と、より強力な覚醒剤の開発に乗り出している。
また、親衛隊も強制収容所の囚人を使って自白剤の研究・開発・実験を行った。
親衛隊大尉クルト・プレートナー博士「メスカリン(→Wikipedia)が効果を発揮すると、(略)いつでもその囚人の最も個人的な秘密さえ聞き出すことができた。(略)言質を取って相手に罪を着せることは実に容易である」
――第4部 その後の濫用 血とドラッグ 1944年~1945年
なお、この成果は戦後に米国が美味しくいただきました。ペーパークリップ作戦(→Wikipedia)の一部かな?
とか書いてるが、これらはいわば副菜。主菜はヒトラーとその主治医テオドール・モレルだ。モレルは家畜の内臓などから精製したホルモンやビタミンを混ぜ、ビタムルチンと名付けた栄養剤をヒトラーに与え、巧みに取り入る。とまれ、医師が総統に意見できるはずもなく。
「私はいつも短い診療時間で許容限度ギリギリの大量の薬剤を処方しなくてはなりませんでした」
――第3部 ハイ・ヒトラー、患者Aと彼の主治医 1941年~1944年
ちなみに患者Aとはヒトラーを示す。その薬剤も決まった定食メニューではなく、多様な薬物を日々様々な割合で混合したシロモノ。例えば1945年4月8日のメモでは…
「強心薬のカプセルにレバー製剤を合わせた。それによって強い刺激作用を狙ったのだ」
――第4部 その後の濫用 血とドラッグ 1944年~1945年
アドリブでテキトーに処方していたのだ。その頻度は、ほぼ毎日である。
1941年8月から1945年4月にかけて、この主治医は連日、患者の診察に当たった、(略)ほぼ1日に1回、注射していた計算になる。
――第3部 ハイ・ヒトラー、患者Aと彼の主治医 1941年~1944年
開戦後は、ヒトラーと最も長い時間、接触していた人物だろう。
その関係は、戦況が悪化すると共に深まってゆき、また投与方法も経口から注射へ、中身も激しいモノへと変わってゆく。
1943年7月18日は(略)これまで以上に戦況が悪化したのだ。赤軍がクルスクで軍事史上最大の戦車戦に勝利し、(略)連合軍がシチリア島に上陸し…
――第3部 ハイ・ヒトラー、患者Aと彼の主治医 1941年~1944年「患者A」の1943年第2四半期のカルテが残されている。その右下の個所に、ある薬品名が記され何本もの下線が引かれている。オイコダール。(略)有効成分は(略)アヘンに含まれる物質から合成された半合成麻薬である。
――第3部 ハイ・ヒトラー、患者Aと彼の主治医 1941年~1944年
なお、ラリっていたのはヒトラーだけではない。
1923年にミュンヘンのフェルトヘルンハレを襲撃した際に腹部に重曹を負っていた国家ナンバー2のゲーリングは、数年前から重度のモルヒネ中毒に患っていた。
――第2部 ジーク・ハイ 電撃戦はメタンフェタミン戦なり 1939年~1941年
まあ、この文でゲーリングにモルヒネを処方したのはモレルではない。が、モレルがヒトラーの主治医となって以降、モレルのお世話になった人物の一覧はなかなか壮観だ。
ムッソリーニ,実業家アルフリート・クルップ,実業家アウグスト・ティッセン,レニ・リーフェンシュタール,ヒムラー,外相フォン・リッペントロープ,軍需大臣シュペーア,日本大使大島浩将軍,ゲーリング夫人…
――第3部 ハイ・ヒトラー、患者Aと彼の主治医 1941年~1944年
さすがに何を処方したのかまでは書いていないけど。
それはともかく、ヒトラーとモレルの関係は、次の文が見事に表している。
1944年2月24日には患者Aから騎士十字戦功十字章まで受けている。(略)受勲したばかりの主治医はこのすぐ後に感謝の意味を込めて、「初めての強力ビタムルチン注射(疲労回復と気力体力の充実のため)を打った」
――第3部 ハイ・ヒトラー、患者Aと彼の主治医 1941年~1944年
感謝の注射って、なんだよ。まるきしバイニンがジャンキーに与える御褒美じゃねえか。
実際、晩年のヒトラーは、ストレスとヤクでイカれた心身を、ヤクで無理矢理支える末期状態へと転げ落ちてゆく。
1944年11月には(略)毎回針を刺すと新たな傷ができて古い傷と繋がり、生長を続ける長いかさぶたとなった。これはジャンキーたちがよく言う「線路マーク」、つまり注射疵が繋がって醜い線路のような形になったものだ。
――第3部 ハイ・ヒトラー、患者Aと彼の主治医 1941年~1944年
第三帝国の末期を描いた作品で描かれるヒトラーは、現実から目を背けて根拠のない楽観論にしがみつき、撤退を進言する軍人を裏切り者と決めつける狂人のように描かれる。あれは正確だったのだ。だってヒトラーはシャブとアヘンとコカインでハイになってたんだから。
クスルクの敗北などの都合の悪い現実に向き合おうとせずに薬物に逃げるヒトラーと、彼の狂った命令に諾々と従う取り巻きたち。そんな第三帝国末期の首脳陣を見ると、権力って何だろうな、などと考え込みたくなる。
電撃戦におけるダンケルクの停滞の原因を「ヒトラーは誰がボスかを陸軍に思い知らせたかった」とするなど、「電撃戦という幻」に準じていたりと、軍ヲタにも楽しめる部分が多い。とはいえ、やはり本書の圧巻は晩年のヒトラーの様子だろう。第三帝国に興味がある人にお薦め。
【関連記事】

