カテゴリー「書評:フィクション」の158件の記事

2020年10月29日 (木)

ドナルド・E・ウェストレイク「さらば、シェヘラザード」国書刊行会 矢口誠訳

アレンは全人生を間違った場所で送った。
  ――p81

今週は金曜日がなかった。話はそれで終わりだ。
  ――p106

【どんな本?】

 ミステリを中心に広い芸幅で大量の著作を生み続けながらも高水準の品質を保つ千のペンネームを持つ男、ドナルド・E・ウェストレイクがのこした、自伝的ポルノ小説…のフリをした何か。

 エド・トリップリスはポルノ小説のゴーストライターだ。かつては28冊ものポルノを量産しあぶく銭を稼いでいた。しかし最近は執筆の勢いが落ち締め切りを破りがち。今日も最新作を執筆中だが、まだ一章すら書けていない。締め切りは迫る。エージェントは見放しかけてる。妻のベッツィーはご機嫌ななめ。無理してタイプライターに向かい、思い付いた事をつらつら書き始めるが、どいつもこいつもポルノにならず…

 傑作なのか駄作なのか、はたまた単なるヤケなのか。ミステリ界では伝説となった問題作。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Adios, Scheherazade, by Donald E. Westlake, 1970。日本語版は2018年6月25日初版第1刷刊行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約299頁に加え、訳者あとがき10頁+ドナルド・E・ウェストレイク主要著作リストが豪華13頁。9ポイント42字×16行×299頁=200,928字、400字詰め原稿用紙で約503枚。文庫なら普通の厚さの一冊分。

 文章はこなれている。というより、やたらテンポがよくスルスル読める。日本の作家でも、これほど読みやすく心地よい日本語の文章が書ける人は滅多にいない。ウェストレイクの文章もいいんだろうが、訳者とのコンビネーションもピッタリと息が合ってるんだろう。しかも章立てやノンブル(頁番号)の凝った仕掛けまで再現しており、訳者の熱の入れようが伝わってくる。

 もちろん内容は難しくない。敢えて言えば舞台が1960年代のアメリカなので、1ドルの価値が違ったりパソコンではなくタイプライターだったりスマートフォンがないなど、若い人には小道具や背景事情がピンとこない所があるぐらいか。

【感想は?】

 最初の頁でハッキリわかる。確かにウェストレイクは売れる作家だ。

 なんたって、文章のリズムが軽快だ。いきなり始まるのは書けない作家の愚痴なのに、文章はやたらと小気味いい。なんだよ作品番号29ってw この軽快な文章を日本語で再現した訳者にも脱帽。

 こんな軽快な文章を生み出せるんなら、さぞかし売れてるんだろうと思うんだが、残念ながら書くべきテーマが違う。書かなきゃいけないのはポルノであって、作家の愚痴じゃない。ついでに言うと、これはウェストレイクの作品だが、設定では「エド・トリップリスが書いた文章」って仕掛けになっている。つまり「架空の作家の一人称」の小説だ。ちとややこしいが、書簡小説などのパターンですね。

 もっとも、読み進めていくと、更にややこしい仕掛けになっているのが見えてくる。

 エド・トリップスは本名で、ペンネームはダーク・スマッフ。ただし、そのペンネームも別人のもので、エドはゴーストライターだ。ポルノを書く際に別のペンネームを使う作家は多いが、更にゴーストライターを使う人って、どれぐらいいるんだろう? いや結構いそうな気がしてきた。表向きは美少女が書いたことになってるけど、実はオッサンが書いてるとか。

 まあいい。そのエド君、今まではソレナリにポルノで稼いだが、別にポルノが好きじゃない。どころか、機械的にポルノを量産するのに嫌気がさしてる。これはエドの台詞じゃないが…

「こんなクソを永遠につづけられるやつはいない」
  ――p8

 なんて言葉まで飛び出してくる。よほどポルノが嫌なんだなあ。そのわりに冒頭の章はポルノ小説執筆に役立つネタが詰まってて、「ポルノ小説にはストーリーが四種類ある」なんて秘訣も明かしてたり。しかも「長さは五万語」「全体を十章に分ける」「章に一回セックス場面を盛り込む」「セックス描写は二、三ページ」と、数字をあげて具体的に教えてくれる。かと思えばセコい行数稼ぎの手口もw

 「いや俺ポルノは書かないから参考にならんし」と切り捨てたらもったいない。ポルノのセックス場面とは、その小説のウリのことだ。ホラー小説なら恐怖の場面だし、バトル小説ならバトル描写だし、スリラーなら危機と脱出にあたる。「だいたい25頁に一度は盛り上がるシーンを入れろ」というわけ。

 かと思えばベッドシーンでの純文学作家との扱いの違いも愚痴ってて、言われてみればなんなんだろうねw

 ってな感じに第1章が終わったら、なぜかまた第1章が始まる。なんじゃい、俺は没原稿を読まされたのかよw いや没どころか採用になった作品にも冷たくて…

ほとんどの場合、書き直しはいっさいしない。早い話、あまりにも内容がひどすぎて自分でも読み直す気にならないのだ。
  ――p33

 酷いw もっとも、私も書き上げた記事の校正なんがまずしないから、あまし人の事は言えないんだけどw ええ、もちろん、誤字脱字のご指摘には深く感謝しております。いやホント。

 そんな風に愚痴の合間に「お、やっとポルノを書く気になったか」と思わせる展開になるんだが、やっぱり脱線しちゃうんだな、これが。戦艦に連れ込まれたサリーとか、やたら面白いのにw 明らかにエドは芸風を間違ってるw

 などと、小説にエドの現実が紛れ込んでいく形で前半は進むんだが、中盤になると小説が現実に忍び込んでくる。そう、これは一種のメタフィクションだ。いかにもそれらしく、こんな気の利いた一節も入ってるし。

すべての理論は間違っているというのが、ぼくの理論だ。
  ――p246

 すべての理論が間違ってるなら、ぼくの理論=「すべての理論は間違っている」のも間違いで、だとすると…

 とかの眩暈を起こしそうな仕掛けを楽しんでもいいし、登場人物のモデルを想像するのも楽しい。ロッドはウェストレイク本人っぽいし、ディックはP.K.ディックかな?

 内輪ネタって点では、コロコロと変わる文章の感触やリズムもお楽しみの一つ。幾つものペンネームを使い色とりどりの芸風を使い分けたウェストレイクらしく、本作ではユーモラスな冒頭からハードボイルドな情景描写、サリンジャーっぽいヒネた告白や重苦しい内省と、場面ごとにソレっぽい文章を手慣れた感じで使い分けてる。これも訳者は苦労しただろうなあ。

 国書刊行会のメタフィクションなどと聞くと鬱陶しくて面倒くさいお話と思われそうだし、実際に主人公のエドは鬱陶しくて面倒くさい奴だし、現実と虚構が入り混じる仕掛けもあるが、そこは売れっ子のウェストレイク。リズミカルで軽快な文章にのせ、しょうもないシモネタやアメリカらしいお馬鹿な法螺話に加え、小説執筆のコツや小説家の暮らしもわかる、仕掛けは凝ってるけど肩の力を抜いて楽しめる、でも結局は何と呼んでいいのかよくわからない怪作だ。そう、怪作と聞いて食指が動く人向け。

 あ、そこの君、「さっそくこの本で学んだ行数を稼ぐ手口使ってるな」とか言わないように。

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2020年8月16日 (日)

上田岳弘「ニムロッド」講談社

「金を掘る仕事」というのが、ぼくの新たな課の担当業務だ。
  ――p7

駄目な飛行機があったからこそ、駄目じゃない飛行機が今あるんだね。
  ――p33

古いものに継ぎ足して、開発期間の短縮と経費削減を狙ったことが、最悪の結果に繋がった。
  ――p46

「ドルは紙切れとコイン、それから武器でできている。仮想通貨はソースコードと哲学でできている」
  ――p69

言ってることと、望んでいることが一致していないことはよくある。
  ――p107

【どんな本?】

 2013年に第45回新潮新人賞を受賞した「太陽」で華々しくデビューした上田岳弘による中編。

 中本哲史は小さなIT企業でマシンの保守を受け持っている。社長の気まぐれで新たに仮想通貨の採掘を命じられた。先輩で別事業所の荷室仁ことニムロッドから、ときおりメールが届く。最近は「駄目な飛行機コレクション」の話が多い。証券会社に勤める彼女の田久保紀子は、海外それもシンガポールへよく出張に行く。仮想通貨採掘は当初それなりに採算が取れていたが…

 2019年1月の第160回芥川賞受賞。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2019年1月28日第一刷発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約134頁。9.5ポイント40字×17行×134頁=約91,120字、400字詰め原稿用紙で約228枚。中編ぐらいの分量。

 文章はこなれている。内容も特に難しくない。サーバーだの仮想通貨だのといったコンピュータ関係の小道具が出てくるが、分からなくてもお話には大きな問題はない。むしろ大事なのは題名であるニムロッド(→Wikipedia)だろう。あと、「太陽・惑星」など過去作を読んでいると、ニヤリとする仕掛けがある。

【感想は?】

 まずは芥川賞の変貌ぶりに驚く。

 「SFが読みたい!2012年版」では、円城塔が日本ブンガク界の理系アレルギーを危ぶんでいた。当時は石原慎太郎 vs 田中慎弥みたいな構図で報じられたけど、実際は石原慎太郎 vs 円城塔だったんだよなあ。今思えば、あれがSFの地位が変わるきざしだった。次は藤井太洋に直木賞を取ってほしい。

 そんなワケで、ブンガクはテクノロジーと相性が悪いような雰囲気だったんだが、本作ではいきなりサーバーだ Facebook だデータセンターだと、ソッチ系の言葉が次々と飛び出す。

 そもそも主人公からしてサーバーのメンテ担当だ。物語はサーバールームにノートパソコンを持ち込む場面から始まる。てっきり RS232C で telnetかと思ったら…いえ、なんでもないです。いや最近の状況は疎くて。そうか、最近は静かなのか。

 テーマは色々あるんだろうけど、私の印象は「一流半の人たちの物語」だ。

 その象徴の一つが、「駄目な飛行機コレクション」。試験機が飛ばなかったとか、事故が起きて量産に至らなかったとか、使ったけどそもそもアレだとか、そんな航空機を集めたサイトだ。なかなか楽しい記事なので、忙しい時にクリックしてはいけない。

 と書くと、まるきし駄目なモノばかりのようだが、それは書いてる人の目線であって。これらの飛行機たちは、少なくとも予算をかけて実機を作るまではいったのだ。最初から「駄目じゃん」と言われ企画段階で潰れたワケじゃない。これら一機の影には、設計図の段階で十機が消えていて、アイデアに至っては千以上が消えているはずだ。

 この記事は、ニムロッドが送ってくるメールに出てくる。そのニムロッドは小説を書いていて、「新人賞の最終選考に三回連続で残っては落選している」。この文章じゃ落ちた点に注目しちゃうけど、こうしたら、どう感じる? 「新人賞の選考に三回連続で最終選考に残った」。

 これが一流半の所以だ。

 私のような半端な文章書きからすれば、最終選考に残ったってだけで、凄いと思う。どころか、そもそも小説を完成させただけでも尊敬してしまう。だがニムロッドは違う。ちゃんと小説の書き方を心得ていて、三回も、しかも連続で最終選考まで行った。遥かな高みにいて、にも関わらず、いやだからこそ、更なる高みへの道の険しさが見えている。

 これは彼女の田久保紀子も同じだ。外資系の証券会社に勤め、大きなビジネスに関わっている。が、密かに絶望を抱えている。個人的な過去の傷を負ってもいるが、それに加え…

「どうせもうほとんどの人はこの世界がどうやって運営されているのかなんて、知らないし興味だってないんだから」
  ――p87

 いや「もう」じゃないでしょ。昔から、ほとんどの人は世界のことなんか知らなかったし、興味もなかったよ。食ってくのに精いっぱいで、もう少し美味いモン食いたいとか楽したいとか、その程度しか考えちゃいないって。そういう事を悩んじゃうのも、彼女が大きなビジネスの世界を知り、その世界で生きているためだ。

 そんな一流半の人たちの愚痴の屑籠となった中本哲史はボヤく。「僕にできるのは、ただ敗北を認めることだけだ」「僕が思い付くようなことはきっとどこかの誰かが既にやっているだろう」。

 そうボヤいてる中本哲史も会社じゃ便利屋としてソレナリに役に立ってるんだけど、何せ周囲が優秀すぎる。こういう「優れた人と自分を比べた時の落ち込み」みたいなのは、インターネットの普及で更に激しくなってたり。今までは「町内一の歌自慢」ぐらいで鼻高々でいられたけど、今は Youtube で世界トップクラスの歌手と比べられちゃう。

 そういったミュージシャンの格差は「50 いまの経済をつくったモノ」に書いてあったけど、同時にアマチュアが作品を発表する機会も増えた。私のような泡沫ブロガーも、マイペースで記事を書き続けていられる。

僕の思考なんて誰も興味ないかもしれないけど、わずかな現象が静かに連鎖していって、大きな変調を起こすことだってあるかもしれない。
  ――p90

 まあ大きな変調とまではいかないまでも、「王様の耳はロバの耳」と叫ぶ穴ぐらいの気晴らしにはなってるから、ま、いっか。

 なんてとりとめのないことを考えながら読んでいくと、やっぱり出ました上田岳弘節w とにかくこの人、例のアレやらないと気が済まないらしいw 今回は巧いこと衣に包んでるけど、隙あらばSFにしようとする魂胆がたまらんw

 今までの上田作品に比べると登場人物も少ないし、現実世界からの飛躍も読者の抵抗をなくすように工夫している。その分、上田色は薄いけど、それだけアクが弱く万民向けな味に仕上がっている。そういう位置づけなので、「濃いSFは苦手だけど『少し不思議』なら」な人に向くだろう。

 …って、結局SFとして読むのかいw

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2019年12月 6日 (金)

イタロ・カルヴィーノ「最後に鴉がやってくる」国書刊行会 関口英子訳

…なぜ私が人間と一緒に暮らし、人間のために働かなければならないのでしょう。
  ――養蜂箱のある家

SSに母親を逮捕された晩、兄弟は夕飯を食べに<コミュニスト>の家へ向かった。
  ――血とおなじもの

「司令部はどこなんだ?」
  ――司令部へ

「おーい、みんな。今日はフライを食いたいと思わないか?」
  ――海に機雷を仕掛けたのは誰?

【どんな本?】

 イタリアの作家でSFファンにも人気が高いイタロ・カルヴィーノの初期作品を集めた短編集。1949年刊行の作品集「最後に鴉がやってくる」を中心に、日本独自のセレクションで編集した。

 解説によると、大雑把に三つの傾向から成る。

 まず、著者が若い頃を過ごしたイタリア北西部のサンレモを舞台として、農村の暮らしを描いた作品。次に、第二次世界大戦中のイタリアを舞台とした作品。最後に、戦後のイタリアを舞台として、混乱の中で逞しく生きる人々を描いた作品。

 後年にみられる幻想的な味わいは少ないが、特に三番目の傾向では、イタリア人らしい明るいユーモアが漂っている。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2018年3月23日初版第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約302頁に加え、堤康徳の解説「イタロ・カルヴィーノの出発地 リヴィエラの風景とパルチザンの森」18頁+訳者あとがき6頁。9ポイント40字×16行×302頁=約193,280字、400字詰め原稿用紙で約484枚。文庫なら普通の厚さの一冊分ぐらい。

 文章はこなれている。内容も難しくない。ただし、戦中を舞台とした作品群は、第二次世界大戦中のイタリアの歴史を知っていた方がいい。枢軸側として参戦したが、連合軍が南部から上陸し、ファシスト勢力は北へと追いやられていった。

【収録作】

ある日の午後、アダムが/裸の枝に訪れた夜明け/父から子へ/荒れ地の男/地主の目/なまくら息子たち/羊飼いとの昼食/バニャスコ兄弟/養蜂箱のある家/血とおなじもの/ベーヴェラ村の飢え/司令部へ/最後に鴉がやってくる/三人のうち一人はまだ生きている/地雷原/食堂で見かけた男女/ドルと年増の娼婦たち/犬のように眠る/十一月の願いごと/裁判官の絞首刑/海に機雷を仕掛けたのは誰?/工場のめんどり/経理課の夜
解説「イタロ・カルヴィーノの出発地 リヴィエラの風景とパルチザンの森」堤康徳/訳者あとがき

【感想は?】

 幻想的でナンセンスな芸風かと思っていたが、全く違うのに驚いた。

 まず最初の「ある日の午後、アダムが」から、完全に勘ちがいを思い知らされる。舞台はたぶん1940年代のイタリアの田園で、一種のボーイ・ミーツ・ガールだ。庭師で15歳の少年リベレーゾが、14歳で小間使いの少女マリアと出会う。リベレーゾはマリアを喜ばせようと贈り物をするのだが…。

 自分が気に入ってるモノは女の子も喜ぶはず、と思い込んでいるのを、子供らしい純真さといえば聞こえはいいが、実はええ歳こいたオッサンになっても、男ってのはほとんど学習も成長もしてなかったりする。身に覚えがあるだけに、オチには笑いつつも少し苦みが混じってたり。

 「地主の目」「なまくら息子たち」「羊飼いとの昼食」は、いずれも地主で旧世代の父と、新世代で知的ながら軟弱でごくつぶしの息子世代を対比する作品。地主と言っても大地主じゃない。父は小作人と共に畑に出て汗を流し、農業にも詳しい。こういった世代の断絶は、戦後の日本でもあったんだろうなあ。親を無教養で野卑だと感じつつも、働き者で人望も甲斐性もある点は認めざるを得ない、屈折した想いが濃く出た作品だ。

 「バニャスコ兄弟」は、同じ小地主の息子兄弟が主人公。教育もあり、都市のしゃれた暮らしも知っている兄弟が、地元では違う顔で過ごしている。地元を離れ都市で仕事に就いた人向けの作品だろう。

 「養蜂箱のある家」は、人里離れた山の中で暮らす、人間嫌いの男を描く作品。蜜蜂と共に暮らす、達観した仙人みたいな人だと思ったら…。途中で空気が一気に変わるあたりいが、第一の芸風と第二の芸風の狭間に相応しい。

 「血とおなじもの」からは、第二次世界大戦中のイタリアを舞台とした作品。この作品では理屈が先立つ兄と、銃器に興味津々な弟の対照が面白い。

 「ベーヴェラ村の飢え」は、戦争に巻き込まれた村を描く。村を占拠され、村人は山の洞窟に逃げ込むが、食料が尽きてきた。町へ買い出しに行かねばならないが、途中の道は激しく砲撃されており…。被弾したカタツムリや巣を壊された蟻を描く場面が印象に残る。そうだよなあ、彼らも被害者だよねえ。

 「最後に鴉がやってくる」は、少し幻想的。山を行くレジスタンスに、一人の少年が加わる。見事な銃の腕を見せた少年は、面白がって鳥や木の実を次々と撃ち落とすのだが…。少年は戦術もヘッタクレもなく銃を撃ちまくるんだが、つまりは新しいおもちゃを見つけたんで楽しくてしょうがないってだけなんだろう。撃つ方は気楽なもんだが…

 「地雷原」は、一種のスリラー。男は峠を越えようとするのだが、そこには多くの地雷が埋まっていて…。どこに埋まっているかわからない地雷原の恐怖を、じっくり描いた作品。

 「食堂で見かけた男女」からは、戦後のイタリアを描いた作品。闇商売でガッポリ稼いだ未亡人と、没落して貧乏暮らしの老貴族が、大衆食堂で相席となり…。価値観が完全に変わってしまった事を、まったくわかってない老貴族の姿が切ない。

 「ドルと年増の娼婦たち」からは、だいぶ芸風が違い、ヤケになったようなユーモアが楽しい。32歳のエマヌエーレは、妻のイリオンダと共に闇両替で稼いでいる。今夜もフェリーチェの店でアメリカ人水兵相手に商売しようと出かけたが…。終盤でドタバタがエスカレートしていくあたりは、短編映画にしたらさぞ笑えるだろう。大柄の水兵は若い頃のシュワルツネッガーあたりで。雰囲気、かのジョン・ベルーシが大暴れした映画「1941」を彷彿とさせる。

 「犬のように眠る」は、駅でねぐらを探す者たちの話。飢えた者たちが、美味い食いものについて語り合う物語はあるが、心地よいねぐらについて語り合う話は珍しい。

 「十一月の願いごと」も、開き直った芸風のコメディ。寒さが身に染みてくる11月、冬物のシャツと下穿きの施しが始まった。多くの者が長い行列を作り順番を待つところに、バルバガッロがやってくる。老いたこの男、ミリタリーコートを羽織ってはいるが…。なんちゅうか、開き直ったオッサンってのは、無敵だよねw 映像化は、様々な事情でちと難しいけどw

 「裁判官の絞首刑」は、ダークな味わいの分かりやすい寓話。今までオンオフリオ・クレリチは裁判官として強い信念に基づき判決を下してきた。だが最近は風当たりが強くなり…。

 「海に機雷を仕掛けたのは誰?」は、海辺の町が舞台。富豪ポンポーニオの屋敷には、将軍や代議士や新聞記者が集まっている。そこに老夫バチが今日の漁の獲物を持ってくる。新鮮なウウニとカサガイだ。ただし妙なオマケも持ってきて…。 これまた、気取った上流階級の連中と、逞しく日々を生きる貧しい者たちを対比させた作品。

 「工場のめんどり」は、戦後も落ち着いたころを舞台としたコメディ。工場の警備員のアダベルトは、工場の中庭で一羽のめんどりを飼っている。おとなしいし、毎日卵を産む上に、中庭でミミズを漁るので助かっている。めんどりは工場内を歩き回り、工員たちも大目に見ていた。中でもベテラン旋盤工のピエトロは一計を案じ…。ブラック企業ってのは別に今に始まったワケじゃなく、昔からあったんです。ピエトロ爺さん、もう少し要領が良ければねえ。

 最後の「経理課の夜」は、夜のオフィスを舞台とした、少し幻想的な作品。社員が帰った後、幼いパオリーノは母と共に掃除の仕事を始める。経理課に立ち寄った時、残業していた男から世界の秘密を打ち明けられ…。 後の芸風の片鱗をうかがわせる、微妙に人を食ったような話。

 農村生活を描くもの、戦中の暮らしを描くもの、戦後が舞台の作品と、三種類の芸風の中じゃ、私は「ドルと年増の娼婦たち」以降の開き直ったようなコメディが、わかりやすくて好きだなあ。「十一月の願いごと」とか、かなりしょうもないネタなんだけど、だからこそインターナショナルなのだ。いやそんなご大層なシロモノじゃないんだけどねw

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【つぶやき】

 読み終えてから気づいたんだけど、これ国書刊行会の「短編小説の快楽」シリーズの一冊なのね。このシリーズ、カバーが謎めいていていいんだよなあ。

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2019年10月14日 (月)

ウィリアム・ギャディス「JR」国書刊行会 木原善彦訳

…この読書体験は、喫茶店や電車で隣に座った人たちの会話を聞いてその背景にある人間関係と出来事を想像するのに似ている。
  ――訳者あとがき

――先生が自分のお金は自分のために働かせなさいって言ったら、おまえは先生に言い返してやるんだ。コツは他人のお金を自分のために働かせることだってな、分かるか?
  ――p148

…こっちが話していることをまったく別の世界に当てはめようとしているみたいな感じ。
  ――p314

…君はただ、嘘をつく相手が欲しいだけなんだ。
  ――p440

…ルールも知らんやつが乗り込んできて、みんなのゲームを台無しにするパターンだな。
  ――p533

…単語一つで話が済むところに二十個の単語を使うのが弁護士だからな。
  ――p635

「目的地に着くまでが楽しいのだ」
  ――p674

――彼は今日のアメリカを作り上げた伝統的な思想と価値観にその身をささげている
  ――p802

新聞は不幸な記事だらけ、人の不幸を読めば誰でも元気が出る
  ――p824

【どんな本?】

 アメリカの作家ウィリアム・ギャディスが1970年代に発表した、独特の文体による金融ブラックコメディ。

 文章の大半は会話で進む。ただしハッキリと話者は示さない。会話の内容も自然な発話に近く、言いよどみ・言い間違い・繰り返しなどを多く含む、独特の文章作法を押し通している。

 1970年代前半、ニューヨーク周辺。

 ゼネラル・ロール社の社長トマス・バストが亡くなった。彼の持っていた株と同社の経営権を巡り、残された者たちが動き出す。現在、主な株を持つのはトマスの姉アンとジュリア,トマスの兄ジェイムズ,ジェイムズの息子エドワード,トマスの娘ステラ・エンジェル,ステラの夫で同社の経営者ノーマン・エンジェル,そしてノーマンの元同僚ジャック・ギブズなどだ。台風の目玉は相続権のあるステラだが、状況次第ではエドワードにも相続権が生じる可能性がある。

 初等学校の校長と銀行の頭取を兼ねるホワイトバックは、今日も苦情の処理で忙しい。学内テレビは不調が続き、そのテレビが映す授業をめぐって住民からは苦情が殺到し、教師は何かといっては欠勤し、予算の確保と使い道では悶着が続き、学内ではヤバいブツが売り買いされている。

 JRは11歳。社会科見学でウォール街を見学した際に金融取引に興味を抱く。実習として学級の資金で買った株を元手として、陸軍放出のフォークを海軍に転売し稼いだのを手始めに、お人好しのエドワード・バストを抱き込んで次々とビジネスを仕掛けてゆくが…

 地口・シモネタ・勘ちがい・行き違い・ドタバタなどのギャグから、古典文学や流行歌などの引用をふんだんに盛り込み、ソープオペラ風の饒舌で突っ走る、ユニークかつクレイジーな巨大小説。

 2019年の第五回日本翻訳大賞受賞。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は J R, by William Gaddis, 1975, 1993。日本語版は2018年12月29日初版第1刷発行。私が読んだのは2019年2月1日の初版第2刷。単行本ハードカバー縦二段組み本文約872頁に加え、訳者あとがき10頁と訳注が豪華35頁。8.5ポイント28字×23行×2段×872頁=1,123,136字、400字詰め原稿用紙で約2,808枚。文庫なら5~6冊になる巨大容量。はい、鈍器です。

 ズバリ、とっても読みにくい。

 いや文章そのものはこなれているんだ。内容も特に専門知識は要らない。当時のアメリカの風俗や俗語が次々と出てくるけど、ひっかかりそうな所は訳注で補ってある。

 じゃ、なぜ読みにくいかというと、これは著者と訳者の企みによるもの。

 まず、背景の説明がほとんどない。文章の大半が会話だ。ただし、誰が喋っているのかは、ハッキリと示さない。誰の言葉かは、内容で読者が推し量る必要がある。

 それだけでもシンドいのに、話し手の大半が人の話なんざ聞いちゃいねえw 隙さえあれば、いや隙があろうとなかろうと、思いつけば人の話をさえぎって喋りだす。しかもその思いつきは相手が話しているテーマと全く関係ない。そのため、たいていの文章は尻切れトンボで終わるし、お喋りのテーマは次々と脱線していく。正直言ってこれはかなりイライラする。

 なんというか、この記事の最初の引用にあるように、「たまたま近くにいた人たちの会話を盗み聞きする」感じなのだ。一台のカメラ&マイクが拾った映像を文章に書き起こした、とでも思って欲しい。

 というのも、時系列は一直線だし、各時間での視点も一つだけ。視点が動く時は、いずれかの登場人物と共に動く、または電話の相手へと移るからだ。ちなみに電話での会話は、どちらか一方の喋りだけが書いてある。

 または、浮遊霊が次々と登場人物に乗り移って見聞きした話、を思い浮かべてもいい。そういう意味では、京極夏彦の「豆腐小僧」シリーズに似ているかも。いやもちろん、肝心の豆腐小僧などの妖怪は出てこない、または黙って記録を続けるカメラ&マイク役なんだけど。

 そんなワケで、読み始めはかなりシンドい。遠慮なく訳者あとがきから読もう。もちろん、豪華な訳註もとても役に立つ。というより、不注意な読者にとって、特に終盤での訳注は必須だ。大丈夫、大事なネタバレは避けた上で、重要な設定を説明し、なおかつ読む際の注意点を親切に教えてくれる。

 そうやって辛抱して読み進めていくと、次第にレンズのピントが合ってくるように、場面ごとの情景が次第にクッキリ見えてくる。ノーミソがこの小説に適応した、とでもいうか。私の場合、見えてきたのは400頁を越えたあたりだ。

 そんなんだから、心身ともに充分に調子を整え、じっくり腰を据えて挑もう。

【感想は?】

 ジョークの迷宮、とでもいうか。

 お話は、思いっきり黒く下品にした映画「チャンス」かな。何も知らない素人が株や債券や先物取引に手を出し、素人ならではのイカれたアイデアで成功を収め、周囲の大人たちが勘違いでキリキリ舞いすると同時に、政治・経済界に大混乱を引き起こす、そんな話だ。

 その素人役がタイトル・ロールのJR、11歳の少年、というよりクソガキと呼ぶのが相応しい。子供だとバレると困るので、姿を隠してアレコレと指示を出すのだが、彼が成功を収めるにつれ虚像も膨れ上がってゆく。

 とかの本筋はもちろん大笑いなんだが、むしろ重要なのは会話のアチコチに注意深く仕掛けられたギャグの数々だろう。

 序盤は罠を仕掛ける段階なので、あまり凝ったギャグはない。その分、語呂合わせの地口やお下劣かつ不謹慎なシモネタが満載だ。お下劣って点ではドリフターズの加藤茶を更に酷くした感じ(アンタもスキねえ、とか)だが、カトちゃんが多用する「間」がほとんどなく、テンポがやたらと速い。不謹慎とテンポって点ではビートたけしが二人いるツービートかも。いや例えが古くてごめん。

 とはいえ、ツービートはうなずき役のビートきよしが居たから漫才になってたわけで、ビートたけしが二人じゃギャグが完結しない。というか、客は笑い声をあげるタイミングを見失う。実際、この作品はそういう構成を取っていて、読者は自分で笑うタイミングを掴む必要がある。これは慣れるまでかなり苦労するんだが、そうするだけの価値はあります。

 もう一つビートたけしが二人で困るのは、双方が相手かまわず喋りまくる事だ。これも本書の性質そのままで、たいていの会話は綺麗に終わらない。誰もが相手の話が終わるのを待たずに口をはさみ、しかも相手の主題とは関係ない話題へと際限なく脱線してゆく。かなり我慢を強いられる構成だが、この脱線にも重要な意味(というかギャグの仕込み)があったりするから油断できない。

 加えて、誰が話しているのかは明確に示さないからタチが悪い。本人の名乗りがあれば親切な方で、会話中にある相手への呼び掛けや、ちょっとしたアイコンで読者が判断しなきゃいけない。例えば主人公のJRは、短い鉛筆,灰色地に黒のダイヤモンド柄のセーター,折り鞄,「やば(ホーリー)」などの口癖で識別するのだ。

 もっとも、中には他の者に成りすましたり、その場しのぎのデタラメをデッチあげる奴がいるので、これまた油断できないんだけど。ジャック・ギブス、お前のことだよ。

 人間ってのは不思議なもんで、そういった細かい所を注意深く読んでいると、なぜか次第にピントが合ってくる。先に書いたように、私は全体の半ば、400頁ほどもかかったけどw 

 そんな小説のどこが面白いのかというと、これが実に説明しにくい。なにせ仕掛けの大半がギャグなんで、ネタを明かしちゃったらギャグにならない。言えるのはせいぜいウンコ・オシッコなどガキが喜ぶ類の地口ぐらいで、JRが手がける事業の出鱈目さとその影響ときたら…。これは終盤のジョン・ケイツ知事の場面で、それまでに仕掛けた地雷が次々と炸裂し、ギャグが怒涛の如く押し寄せてくるので覚悟しよう。

 にしてもケイツ、トコトン嫌な奴ではあるが、相方のゾウナ・セルクはジョンに輪をかけてムカつく奴で。そりゃデレセレアも逃げ出すよ。彼女の逃げ方も、「そりゃそうだろうな」と思わずにはいられない。

 もう一つ、この文体には意外な効果がある。というのも、少しだけあるベッドシーンが案外とイケるのだ。ここは珍しく会話がなく情景描写だけなのだが、他と同様、ハッキリとナニがナニをしてるのか示さない。お陰で読者は思いっきり集中して想像力を駆使しなければならず、それが功を奏して場面を美味しくしたり。

 また、著者もあまり儲からない作家だったらしく、作中に登場する作家志望の人物や、その配偶者の話は、なんとも生々しくて泣けてくる。アイゲン夫妻の会話など、作家志望の人は胃がキリキリ痛むんじゃなかろか。

 否応なく読者に細心の注意を強いる構成で緻密に伏線を張りつつ、その伏線の先に待ち受けるのは、しょうもないギャグや真っ黒いジョーク。これを著した技巧には兜を脱ぐが、なにもギャグのためにそこまでせんでも、ってな気もする。間違いなく超ド級の問題作だが、その実体はマシンガン・トークのソープ・オペラやスラップスティックなわけで、この作品の存在そのものが文学に対する大掛かりなジョークなのかもしれない。

 あ、それと、言うまでもないけど、通勤列車で読むのには向きません。物理的にも、内容的にも。周囲から「変な人だ」と思われつつ筋トレしたいなら話は別だけど。

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2019年6月19日 (水)

高木彬光「成吉思汗の秘密」ハルキ文庫

「…源義経は、衣川で殺されたのではなくて、そこから逃げ出して、蒙古へ渡り、成吉思汗になったという伝説があるじゃありませんか」
  ――p19

「…この説は、徳川時代から始まって、今日までほぼ四回くり返されている」
  ――p200

【どんな本?】

 神津恭介、東大医学部法医学教室助教授、40歳目前ながら独身。その鋭利な頭脳で推理機械の異名を持つ。時は1957年。急性盲腸炎で入院し、暇を持て余す神津に、探偵作家である友人の松下研三が、暇つぶしのネタを持ち込んできた。源義経が大陸に渡り成吉思汗になったという伝説がある。この真偽を追及してはどうか、と。

 数々の難事件を解決してきた神津といえど、さすがに八百年前の事件を追うのは難しい。幸いにして手足となって動く松下研三に加え、歴史学者・井村梅吉の助手であり資料収集で頼れる大麻鎮子の助力を得て、病室にいながらも神津の頭脳は回転をあげはじめ…

 昭和のベストセラー作家・高木彬光が、ジョセフィン・テイの「時の娘」に着想を得て、「源義経=成吉思汗説」に挑む、傑作娯楽小説。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 解説によると、初出は1958年5月~9月の雑誌「宝石」。1958年10月に光文社から単行本を刊行。以後、何回か文庫が刊行されている。今は光文社文庫版が手に入れやすいと思う。私が読んだのは角川春樹事務所のハルキ文庫。文庫本で縦一段組み本文約319頁に加え、笹川吉晴の解説9頁。9ポイント40字×18行×319頁=約229,680字、400字詰め原稿用紙で約575枚。文庫本としては普通の厚さ。

 文体は、まあ昭和中期の娯楽小説の文体ですね。なんたってベストセラー作家だし。私はとても読みやすかったが、若い人はややイナタく感じるかも。

【感想は?】

 さすがに今となっては、ミステリというより伝奇小説に近いかな。

 お話の枠組みとしては、推理機械の神津恭介が「源義経=成吉思汗」説を支持し、歴史学者の井村梅吉がそれに反論する形だ。神津恭介は著者のお気に入りの探偵役な事でもわかるように、作品全体を通して「源義経=成吉思汗」説を裏付けようとしている。

 判官びいきなんて言葉もあるように、日本人は源義経が大好きだ。苦渋に満ちた幼少期、青年期での鮮烈なデビュー、寡兵で大軍を破る天才的な騎兵戦術、そして骨肉を分けた兄弟の争いの果ての悲劇的な結末。そんな義経が実は大陸に渡り、ユーラシアを席巻する成吉思汗になっていた。思わず信じてしまいたくなる魅力的な伝説だろう。

 とまれ、色々と障害は多い。まずは義経が妻子とともに自害して果てたといわれる衣川の戦いを、どうやって切り抜けたのかから始まり、なぜ・いかにして大陸へ渡り、異民族たちを従えて大軍団へと育て上げたのか。

 とはいえ、付け入るスキは多い。義経と成吉思汗の生年が近いことや、旗揚げするまでの成吉思汗の生い立ちが謎に包まれていること。21世紀の今でさえ、成吉思汗の墓が学術的には同定されていないのも、妄想マシーンの燃料になっている。

 この伝説に裏付けを与えていく過程が、この小説の最も面白い所だろう。

 なにより、出だしが巧い。神津恭介が最初に挑むのが、衣川脱出の謎だ。ここでは手慣れた推理小説の手法に沿って、比較的に飛躍の少ない形で義経一行を危機から救う。なにせ八百年前の話なので、遺留品があるわけじゃなし、攻守ともに決定打には欠ける中、ミステリというには少々荒っぽくはあるが、一応の筋道をつけてみせる。

 序盤で地に足の着いた推理を見せ、読者に「あれ、けっこうマトモじゃん」と思わせてしまえばシメたもの。その上で、話は地理的にも時間的にも、そして視点においても想定外の方向にポンポンと飛び、読者の鼻面を右に左に引きずり回す。当時の国内情勢や人間関係だけならともかく、まさか20世紀の話まで飛び出すとは思わなかったなあ。

 こういう「予想外の方面からの攻撃」を受けるのが、この手の作品の楽しいところ。まあ小説ファンって人種も、騙されて喜んでるんだから業が深いというかなんというかw でも気持ちがいいんだからしょうがないw

 とかの自由奔放な神津らの仮説に対し、正統的な歴史学者として正面から反論してくるのが、歴史学者の井村梅吉。ちゃんとこういう人物を登場させて、正論を述べさせるあたりは、さすがに「五回目のブーム」を仕掛けようとする著者の意気込みを感じさせる。こうやって「単なる蒸し返しじゃないぞ」と宣言しているわけ。

 ちなみにこの作品だけで判断すると、実は井村梅吉の「陰謀」が功を奏し神津に一矢報いているような気がするんだが、まあそれはいいかw

 さすがに昭和の作品だけに、風俗も当時のもので、例えば緊急の連絡もメールじゃなくて電報だったりする。私のようなオッサンには、こういう強烈な昭和臭も魅力なのだ。また野村胡堂や黒岩涙香なんて名前も出てきて、ちょっとニヤリとしたり。

 加えて、ヒロインの大麻鎮子さんがいいのだ。なんたって豊かな知識を持つ眼鏡っ娘だし。彼女と神津の関係や、それぞれの台詞を地の文で補強する文章作法は、当時の娯楽小説の定石なんだろうけど、今のライトノベルにも受け継がれてる…のかな?

 推理小説のような書き出しで読者のガードを緩め、斜め上からの奇襲で混乱させたところにパンチを叩きこむあたりは、伝奇小説のお手本通り。だが、この作品はそれだけじゃ終わらない。発表後に追加した最終章で、物語はガラリと様相を変え、激しく攻撃的ながらも低音部では哀愁を帯びた旋律を奏で始める。ベストセラーにしてロングセラーとなるに相応しい、娯楽ロマン作品だ。

 とか書きつつ、こんなモンを見ると全てがブチ壊しになるので、決してクリックしないように(→Youtube)。いや私は好きなんだけどね、こういうノリw

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2019年5月15日 (水)

ロバート・R・マキャモン「魔女は夜ささやく 上・下」文藝春秋 二宮馨訳

「あの女は縛り首にでもなんでもすりゃあいいが、もう悪魔はファウント・ロイヤルにしっかり居座ってるんだ、救いようはない」
  ――上巻p24

「わたしと書記がここへやってきたのは真実を見つけだすためであって、法という特権を破城槌のように振りまわしに来たのではない」
  ――上巻p137

人は欲するものを捕えて征服できないとなると、それを滅ぼすことにおなじような情熱をそそぐものらしい。
  ――上巻p346

「…姉の最大の罪はなんだったのか、おわかりですね?」(略)
「姉は毛色が変わっていたんです、おわかりでしょ?」
  ――上巻p389

「…いま町に必要なのはほんものの指導者です、威張り屋や泣き虫はいらないんです!」
  ――下巻p209

【どんな本?】

 「スワン・ソング」や「少年時代」などのホラーで人気が高いロバート・R・マキャモンによる、開拓期のアメリカを舞台としたサスペンス小説。

 1699年、新大陸植民地のカロライナ。判事のアイザック・ウッドワードは、開拓中の町ファウント・ロイヤルに呼ばれた。魔女をつかまえた、法に基づいて判決を下して欲しい、と。ウッドワードは書記のマシュー・コーベットを伴い、ファウント・ロイヤルに向かう。

 ファンウント・ロイヤルは、ロバート・ビドウェルが創った。ここを発展させ港町に育て上げようと考えている。しかし町では殺人が相次ぎ、綿もタバコも根付かず、果樹も寄生虫にやられた。天候も不順だ。何かに祟られていると考え、町から逃げ出す者も後を絶たない。このままではファウント・ロイヤルは荒野に戻ってしまう。

 容疑者のレイチェル・ハワースは、意外なことに若い未亡人だった。容疑は夫のダニエルと司祭のダニエル・ハワースの殺害。いずれも無残な形で殺されている。悪魔の儀式を行うレイチェルを見た、と主張する者も一人ではない。

 誰もがレイチェルの処刑を望む中、書記のマシューは幾つかの腑に落ちない事柄に気づく。何か邪悪な意思が働いているのではないか、と疑うウッドワードとマシューは、慎重に調べを進めようとする。しかし、頭に血が上った町の者たちは、早く判決を出せと迫る。

 セイラムの魔女裁判(→Wikipedia)の記憶も新しい新大陸の植民地を背景に、荒っぽく緊迫した空気の中で展開する、長編ミステリ巨編。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Speaks The Nightbird, by Robert R. McCammon, 2002。日本語版は2003年8月30日第一刷。単行本ハードカバー縦二段組みで上下巻、本文約418頁+369頁=約787頁に加え、訳者あとがき4頁+編集部によるロバート・R・マキャモン作品案内14頁。8.5ポイント25字×20行×2段×(418頁+369頁)=約787,000字、400字詰め原稿用紙で約1,968枚。文庫本なら四分冊でもおかしくない巨編。

 文章はこなれていいて読みやすい。内容も特に難しくない。敢えて言えば、歴史を少し知っていた方がいいかも。当時の北アメリカは植民地で、独立国じゃなかった。植民にはイギリスが熱心だったけど、他の国も隙あらばと狙っていたってことぐらい。

【感想は?】

 ジャンルとしては、ミステリになるだろう。

 殺人事件が起き、濃い疑いをかけられた者、レイチェル・ハワースが捕まる。証拠も幾つかある。だが、理屈に合わない点もある。果たして彼女は真犯人なのか否か。そこに名探偵の登場だ。

 探偵物の定型に沿ってか、探偵側の人物は二人だ。例えばホームズ物なら探偵ホームズと記録係のワトソンのように。この作品では、ベテラン判事のウッドワードと若い書記のマシューが真相究明にあたる。ただし、名探偵役を務めるのは書記のマシューなのが、捻っているところ。

 たいていの名探偵は自信に溢れている、どころか己の賢さを過信し、他の者を少し見下しているかのような印象すらある。ところがマシューは違う。20歳という若さもあるが、それ以上にウッドワードを心から敬っている。加えて過去のいきさつもあり、ウッドワードに親しみは持ちつつも、彼との距離感には微妙に屈折した思いを抱いている。

 鋭い頭脳と、疑問を嗅ぎつけたら徹底的に追う執念は持っているが、ウッドワードに異を唱えるには強い抵抗を感じる、そういう生真面目で謙虚な人物だ。このウッドワードとマシューの関係が、この作品の読みどころの一つ。腐った人には別の意味で美味しいかも。

 などの人間関係は、中盤以降に見えてきて、これが終盤になると本を閉じるのに苦労するほど強烈な引力を持つんだが、それは置いて。

 序盤で私を惹きつけたのは、荒々しい開拓地の暮らしだ。物語はファウント・ロイヤルに向かうウッドワードとマシューが、途中で旅籠に泊まる場面で始まる。ここの主人ウィル・ショーカムもなかなかに強烈な人物ではあるが、マシューが備品の不備を嘆く所もいい。ったって、もちろんミニバーやドライヤーじゃない。室内用便器、つまり「おまる」がない、と文句を言っている。

 ここで私は一気に17世紀末の世界、それも開拓地に突き落とされた。冷暖房はもちろん、電話も自動車も水道もない。コンビニなんてとんでもない。たいていの事は「今、そこにあるもの」でやりくりしなくちゃいけない、そんな世界だ。だから、鍛冶屋や医者は重宝される。そういう背景事情が、「おまる」一つで肌に伝わってくるのである。なんたって、誰でも出すモンは出さなきゃならないんだし。

 そんなんだから、町の行く末は重大事だ。人が増えれば便利な店も増える。またクマやインディアンの襲撃もあり、そのための防衛も必要だ。だから民兵がいて、自分たちで町を守っている。政府は遠い大西洋の彼方だから、いちいち手を借りちゃいられない。大抵の事は自分たちでカタをつける、町にはそういう気風が溢れている。

 それだけに、そこに住む者も強烈な人物が多い。町の設立者にして支配者のロバート・ビドウェルもそうで、現代なら強引な経営をするワンマン社長といったところ。ファウント・ロイヤルに君臨し、不作に苦しんじゃいるが踏ん張る意思は強い。決断は早く自分の意見に強くこだわる。

 この物語でマシューらが突き当たる大きな障壁が、このロバートだ。次々と町に襲い掛かる凶事の根源は魔女レイチェルだと思い込み、出来る限り早く始末したいと思っている。ただし、町の歴史に傷を残さぬよう、あくまでも合法的な形で。「俺が大将」な意地っ張りのゴリ押しを、いかにマシューがかわすか。これは全編を通じた読みどころ。

 ホラー作家としてのマキャモンの腕が冴えるのが、このピドウェルに代表される町の者たちの「思い込み」と「気の逸り」を描くところ。ロバートは町の維持のためだが、ヴォーン夫人ことルクリーシャ・ヴォーンの動機は一味違う。菓子屋を営み掃除も料理も腕は一流で商売も巧みなんだが、なかなか強烈なご婦人だ。彼女も現代なら相当に稼ぐだろうなあ、炎上覚悟の特攻商法でw

 そんな連中の集団ヒステリーじみた場面の怖さは、手練れのホラー作家ならでは。しかも、ただえさえカッカしやすい連中が集まってるのに、更にガソリンをブチまける奴が出てくるから意地が悪い。

 それは流れの説教師エクソダス・エルサレム。もう名前からして、これ以上ないってぐらいに胡散臭いんだが、人を扇動するのだけはやたらと巧いんだから困る。

 これもマキャモンの特徴で、「スワン・ソング」や「少年時代」にも色濃く出てた重要なテーマの一つ、宗教との関わり方だ。この作品でも説教師に悪役を割り振っているし、魔女裁判のお話だから、マキャモンは宗教に否定的だと思うかもしれない。でも、実際はそれほど単純じゃないのだ。

 「スワン・ソング」も「少年時代」も、教会は希望や救いの灯でもあった。危機に際し、人々を集め話し合い結びつける舞台として、教会が役割を果たした。この作品じゃ教会はあまり大きな役割を果たさない。むしろ重要なのは各員の心の中の信仰で、「主の祈り」が重い意味を持つ。例えば、魔女の証拠の一つは、レイチェルが頑として主の祈りを唱えない点だし。

 ミステリとしては綺麗にまとまっている。が、それ以上に、開拓地の荒々しい暮らしと、そこで一旗揚げようと踏ん張る人々の姿が、私には楽しかった。登場人物には強烈なエゴを持つ人が多いが、そうでもないと開拓地じゃやっていけないんだろう、というもの伝わってくる。謎解きより、活力に満ちた人々の生き方や、その中で成長してゆくマシューと、それを見守るウッドワードの眼差しが面白い群像劇だ。

 はいいが、これ以降マキャモンの作品が日本で出ないのは何故だ? マシュー・コーベットのシリーズも既に7部まで出てるのに。あ、ちなみに、この作品「魔女は夜ささやく」だけでも、完結した物語として楽しめます、はい。

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2019年1月27日 (日)

浅田次郎「壬生義士伝 上・下」文春文庫

なしてわしは、こんたなところに来てしまったんだべかな。
  ――上巻p22

それが、武士ってやつさ。本音と建前がいつもちがう、侍って化物だよ。俺たちはみんな、武士道にたたられていたんだ。
  ――上巻p84

偉えひとたぢがみな、足軽に死ね死ねとせっつぐのは、おのれが死にたぐねがらではなのすか。
  ――上巻p226

「お突きは死太刀ですからね」
  ――上巻p306

「生来が鬼の心を持つ人間よりも、いざとなって心を鬼にできる人間のほうがよほど恐ろしい」
  ――上巻p434

軍隊じゃあたしかに、死に方は教えてくれるがね。生き方ってのを教えちゃくれません、
  ――下巻p236

「腹など切るな。拙者とともに死ね」
  ――下巻p334

【どんな本?】

 直木賞も受賞した人気作家・浅田次郎による時代小説。

 慶応四年旧暦一月七日、鳥羽伏見の戦いの直後。大阪の盛岡南部藩の蔵屋敷に、一人の新選組隊士が傷だらけで飛び込んできた。吉村貫一郎、二駄二人扶持の足軽ながら、妻子をおいて南部藩を脱藩した男。

 故郷では文武ともに秀で、周りの者からも慕われる心根の穏やかな男だった。その吉村は、なぜ禁を犯して藩を抜け、壬生狼と恐れられる新選組に身を投じたのか。人斬りに奔走する日々を、どのように送ったのか。

 武士の世が終わりを告げる幕末を舞台に、異色の新選組隊士に焦点を当て、吉村を取り巻く者の証言で乱世を生きた男の生涯を綴る時代小説。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 初出は週刊文春1998年9月3日号~2000年3月30日号。2000年4月に文藝春秋から単行本を刊行。私が読んだのは2002年9月10日発行の文春文庫版。上下巻で本文約459頁+441頁=900頁に加え、久世光彦の解説「そして、入相の鐘は鳴る」9頁。9.5ポイント37字×17行×(459頁+441頁)=約566,100字、400字詰め原稿用紙で約1,416枚。上中下の三巻でもいい大長編。

 実は少し読みにくい所がある。というのも、主人公である吉村寛一郎の独白の所だ。思いっきりキツい南部訛りで、最初はちと戸惑う。

 ここ、思い切って声に出して読むか、またはお気に入りの役者に脳内で読んでもらおう。声(というより抑揚)がつくと、なんとなく意味が掴めるようになる。おまけに読み進めていくと、南部訛りだからこその味が出てきます。

 幕末が舞台の作品なので、中学で学んだ程度の歴史の知識はあった方がいい。が、重要な事柄は作品中で説明があるので、知らなくても作品を楽しむには問題ない。敢えて言えば近藤勇と土方歳三の名を知っているぐらいで大丈夫。

【感想は?】

 私の脳内で理性と感情が大げんかしている。

 感情は叫ぶ。「泣け、男たちの生きざまに泣け」。理性は告げる。「ヤバいぞ、この本はヤバい。放り出せ、せめて距離を置け」。

 それでも上巻は、また理性が優勢だった。何より語り手は戦友でもある新選組の生き残りが多い。最も苦しい時期を共に過ごした仲とはいえ、吉村の生い立ちは知らない。だからか、剣の使い手としての話が多く、心情に寄り添ってはいない。

 とまれ、上巻の終盤で斎藤一が出てくるあたりは、語り手である斎藤の人物像が実に楽しい。いやどう見てもヒネクレ切った殺人鬼なんだけど、それだけにマッドな理屈がポンポン出てきて、なんか筋が通ってるような気がしてくるのが怖いやら愉快やら。

 悪役としては最高のキャストだよなあ。それも部下を使う幹部じゃなくて、自らが前線に出て戦う戦士。邪魔する奴は味方でも容赦なく踏みつぶし、ひたすら戦いと殺戮を楽しむ、そんなタイプ。

 上巻では他でも新選組の語り手が多いだけあって、他の隊士の人物像も新選組のファンには気になる所だろう。近藤勇と土方歳三は、まあ無難な所。問題は非業の天才剣士と言われる沖田総司。映画やドラマじゃ清潔感の漂う二枚目俳優の役どころで、私は草刈正雄の印象が強いんだが、こうきたかw

 かの龍馬暗殺も独特の説を唱えていて、歴史ミステリ好きに一石を投じている。

 とかは、あくまで副菜。下巻では、いよいよ主菜の味が色濃くなってゆく。とはいえ、これも幾つものテーマが隠し味として効いていて、「主題はコレ」と言いにくいのが、この作品の美味しい所。

 本書では主役の吉村貫一郎を、文武ともに優れ人格も秀で、朴訥ながらも妻子を深く愛し、苦境にも努力を惜しまぬ典型的な南部人としている。ただし身分は足軽で、当時の制度では充分にその力を活かせない。寛一郎と、藩の重鎮である大野次郎右衛門を対比させ、身分制度の融通の利かなさを読者に突きつけてゆく。

 とか書くと大野次郎右衛門が無能な悪役みたいだし、冒頭の展開はモロにそういう雰囲気なんだけど、それほどわかりやすく単純な仕掛けじゃないのが巧い。

 もう一つが、登場人物たちの掲げる哲学というか生き様というか。

 なにせ新選組だ。今でこそヒーロー扱いだけど、壬生狼なんて言葉もある。今でいうアルカイダや自称イスラム国とかに似た印象を持つ人も多かったようだ。隊士も軽い身分の者が多く、それだけに「やっと活躍の場を与えられた」とばかりに突っ走りがちな空気が、この作品からも伝わってくる。

 単に暴れるのが好きってだけのチンピラも紛れ込んでいただろうが、理想を持つ者もいた。ただ、その理想ってのが、美しくはあっても、実はどこにも存在しない幻想だってのが切ない。彼らの語る士道も忠義も、徳川が世を仕切り武士が官僚と化してから生まれた物で、武士が戦士だった戦国時代までの哲学じゃない。

 つまりは幻想に酔って暴れまわってるだけだ。にも関わらず、この作品の中での彼らの生きざまは、私の感情を揺さぶりまくる。終盤では五稜郭での戦いも描かれるんだが、ここに来ると暴れまくる感情が理性の鎖を引きちぎる寸前だ。

 この作品は、あくまでも佐幕派の視点で描いている。圧倒的な兵力を誇る官軍に対し、少数精鋭で抗う佐幕派って構図だ。とまれ、立てこもる側も勝敗は見えている。なら、なぜ戦うのか。理性は愚かな戦いだと告げるんだが、著者の筆力は感情に「これでいいのだ、もっと暴れろ」と大音量のアンセムで煽り続けるのだ。

 そんな理性にも、かすかな応援を送ってくれるのが、この作品の複雑なところ。というのも、周囲の者が語る吉村貫一郎の姿と、本人の独白が、見事に食い違っているのだ。

 加えて、維新政府の視点で語られることの多い幕末、特に戊辰戦争の顛末を、奥羽越列藩同盟の立場で見せてくれるのも楽しい。単に戦争の帰趨だけでなく、そこに至るまでの藩の歴史から語り起こすあたりも、重みを増している。

 「これは小説なのだ、作り話なのだ」と必死に自らに言い聞かせないと、魂までも持っていかれそうになって、小説の持つ力の恐ろしさをつくづく感じさせる、そういう作品だった。若くて血気盛んな人には読ませたくない。

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2018年12月16日 (日)

ディーン・R・クーンツ「ウォッチャーズ 上・下」文春文庫 松本剛史訳

「もうおまえを放したり、どこかの檻まで連れていくわけにはいかないな」
  ――上巻 p45

「アインシュタイン。いまからおまえの名前は、アインシュタインだ」
  ――上巻 p112

「それは<アウトサイダー>と呼ばれていた」
  ――上巻 p373

「もしもわれわれが、神の造りたもうべきものをこの手でつくりだせるまでになったのなら、つぎには神の正義と慈悲を行うことを知らねばならんのです」
  ――下巻 p112

『あんたたちにはまだ望みがある』
  ――下巻 p153

「まさしく、彼はヒーローだ!」
  ――下巻 p269

【どんな本?】

 アメリカのベストセラー作家、ディ-ン・R・クーンツの地位を決定づけた、長編サスペンス小説。

 トラヴィス・コーネルは36歳の孤独な男。ピクニックに行ったトラヴィスは、山で大型犬と出逢う。若い雄のゴールデン・レトリーヴァーだ。毛皮はもつれて泥だらけで、野良らしい。何かを恐れ怯えるかと思えば、やたらトラヴィスに懐いている。根負けしたトラヴィスは犬を連れて帰ることにした。

 ノーラ・デヴォンは30歳の独身女。異様に厳格な伯母のヴァイオレットに育てられ、友人もいない。ヴァイオレットが亡くなってからも滅多に家から出ず、対人恐怖症気味で、ヴァイオレットから相続した家に引きこもって暮らしている。ある日、テレビの修理を頼んだ男がストーカーと化し、つきまとい始めた。

 腕利きの殺し屋、ヴィンスことヴィンセント・ナスコは忙しい。ウェザビー博士を始末し、報告を終えたとたんに、次の仕事が入った。今度は二人、エリザベス・ヤーベック博士とジョナサンの夫婦だ。ソツのない依頼人は好きだ。それ以上に、ヴィンスは殺しが好きだ。というのも、ヴィンスは人を殺す度に…

 奇妙なゴールデン・レトリーヴァーは人々の運命を結びつけ、彼らの人生を大きく変えてゆく。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は WATCHERS, by Dean R. Koontz, 1987。日本語版は1993年6月10日第1刷。私が読んだのは1993年10月1日の第4刷。文庫本で縦一段組み上下巻で本文約398頁+375頁=約773頁に加え、訳者あとがき3頁。8.5ポイント42字×18行×(398頁+375頁)=約584,388字、400字詰め原稿用紙で約1461枚。上中下の三巻でもいい大長編。

 文章はこなれていて読みやすい。いちおうSFだが、ネタは一つだけ。小難しい説明をしちゃいるが、格好をつけるためのハッタリだ。中身はドラえもんやポケモンと同程度のシロモノなので、その辺について行けるなら大丈夫。

 それより、若い人には時代背景や風俗がピンとこないかも。1980年代の作品なので、携帯電話がないし、インターネットも未発達だ。出てくる有名人やブランドも、ジーン・ハックマンとかは馴染みがないだろうけど、わからなければ無視して構わない。

【感想は?】

 発表当時は全米のペットショップからゴールデン・レトリーヴァーを一掃したそうだ。さもありなん。

 なんてったって、アインシュタインと名づけられるゴールデン・レトリーヴァーが、やたらと可愛い。どう可愛いかというと、映画「トランスフォーマー」のバンブルビーの可愛さに少し似ている。

 …って、マニアックすぎて伝わりませんがな。

 犬を飼っている人は、愛犬の可愛さを思い浮かべて欲しい。私は飼ってないけど。幸いバンブルビーと違い、アインシュタインには尻尾がある。上巻を読んでる時は、アインシュタインが尻尾を振る場面じゃ、私もニヤニヤしてしまった。まあ、そういう可愛さです←余計わからん

 そのアインシュタインと出合う、最初の人間が、トラヴィス・コーネル。病や事故で家族や恋人や友人を次々と失い、自分は死神じゃないかと思い込んでいる男。誰とも親しくならず、孤独に暮らそうとしていたが、アインシュタインに懐かれ、連れて帰る羽目に。

 次にアインシュタインと出合うのが、ノーラ・デヴォン。人間嫌い、特に男が大嫌いな伯母に、籠の鳥のごとく育てられ、既に30歳。そでれもせめて大切にされていたならともかく、この伯母さん、ノーラのやる事なす事ケチばかりつけて育ててきた。お陰でノーラは対人恐怖症気味な上に自信のカケラもない。

  お互い30過ぎのクセに、いずれも人と親しくなるのを恐れている。そんな二人を、アインシュタインがキューピットよろしく仲を取り持とうとする場面は、とにかくアインシュタインが愛おしくてたまんないのだ。何せ言葉がしゃべれない。一生懸命に動作で示す、そのけなげさがたまんない。

 特に難しいのがノーラ。そもそも誰かが自分に好意を持つなんて事はあるわけない、そう思い込んでいるだけに、アインシュタインの努力もなかなか伝わらない。あれこれ思い悩む彼女の気持ちは、ちょっとジュブナイルっぽい気恥ずかしさもあるけど、まあ初恋だからしょうがないよね。

 なんて彼らに迫ってくるのが、アインシュタインの出生の秘密。まあ、上巻を読んでいれば、なんとなく見当はとくんだけど。

 これを追いかける者たちの一人が、レミュエル・ジョンソン、NSA(国家安全保障局)の腕利きの捜査官。悪い人じゃないのだ。やたら仕事熱心…を通り越してワーカホリック気味だが、己を厳しく戒め職務に邁進したがために、南カリフォルニア支局長にまで昇進した男。

 決して悪人じゃないんだが、立場上、この物語では悪役を割り振られてしまった人。中盤以降では、彼とトラヴィスらのチェイスが緊張感を作り上げてゆく。読者としては応援してあげたくもあり、空振りして欲しくもありの、ちょっと複雑な立ち位置にいる人。

 そして、レミュエルとトラヴィスらをつなぐ糸の一つが、この物語のもう一つの主役<アウトサイダー>。アインシュタインが○○の陽なら、<アウトサイダー>は陰を象徴する存在だ。

 単に陰であるだけでなく、それをわかってしまっているのが、何よりも悲しい。その行いは忌まわしくもあるが、そこに込められたメッセージは…

 もう一人の重要人物が、ヴィンスことヴィンセント・ナスコ。凄腕の殺し屋だ。クールでスマートに仕事をこなしつつ、ちょっと困った思い込みも持っている。人殺しを仕事にしてるような人だから、善悪の感覚なんか無いのかと思うよね。

 でも意外とそうでもなくて、かなり厳格な倫理感覚を持っているのだ。ただ、モノサシの角度が常識と大きく違っちゃってるだけで。作り話だから誇張されているけど、現実にも似たような倫理観の人がけっこういるから世の中は怖い。

 著者は「ベストセラー小説の書き方」なんて本も出してる人で、これが「面白い本」を探すにはかなり便利なブックガイドにもなってる。そのためか、この作品でも、登場人物の本棚を紹介する場面が、ちょっとしたイースター・エッグになっているので、本が好きな人はお楽しみに。

 終盤、ノーラの台詞でタイトルの意味が明らかになる場面は、この物語のクライマックスだろう。過酷な運命に心をへし折られ、人生を投げ出そうとした者たちが、アインシュタインを機に巻き込まれたトラブルの末に見出した、ヒトがヒトであることの意義。

 これを読んでしばらくは、ペットショップに行ってはいけない。特に体力と懐に余裕がある時は。

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2018年11月 8日 (木)

ウィリアム・トレヴァー「聖母の贈り物」国書刊行会 栩木伸明訳

「パパはボタンのビジネスをしているんだ」とトリッジは晴れやかに答えた。「トリッジ商会って知ってるでしょ」
  ――トリッジ

「あの人たちはあなたをこわがっているのよ」と彼女はその晩言った。「全員がね」
  ――ミス・エルヴィラ・トレムレット、享年十八歳

「これでお終い、またしても」
  ――マティルダのイングランド 1.テニスコート

「だって私は現在ってものが嫌いなんです」
  ――マティルダのイングランド 3.客間

「おまえも早く戻りなよ、ポーリー」
  ――丘を耕す独り身の男たち

ミホールに神のお召しが訪れたのは十八歳のときだった。畑を耕し家畜の世話をする暮らしを捨てて修道院へ行け、と夢の中で告げられたのである。
  ――聖母の贈り物

ひとりぼっちの人間にとっては、つらつら考えることが友達みたいなものだ。
  ――雨上がり

【どんな本?】

 ウィリアム・トレヴァーは、アイルランド出身の作家。1928年生まれ、2016年没。彼の作品から12編を選んだ、日本独自の作品集。

 この作品集では、風景はのどかながら、カトリックとプロテスタントが絡み合う複雑なアイルランドの社会を背景に、人の気持ちのスレ違いを描いた作品が多い。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2007年2月15日位初版第1刷発行。単行本ハードカバーー縦一段組みで本文約388頁に加え、訳者あとがき10頁。9ポイント44字×19字×388頁=約324,368字、400字詰め原稿用紙で約811枚。文庫本なら厚い一冊か薄めの上下巻ぐらいの分量。

 幾つかの作品はアイルランドの歴史と社会が背景にある。大ざっぱに言うと、民衆はカトリックで、侵略者であり地主階級のイングランド人はプロテスタント。ただし「アイルランド便り」のフォガーティー姉弟のように、落ちぶれたプロテスタントもいる。

【収録作は?】

 それぞれ 邦題 / 原題 の順。

トリッジ / Torridge
 寄宿舎学校で、トリッジは天然ぼけで明らかに浮いていた。特にトリッジに構うのは三人、ウィルトシャーとメイス=ハミルトンとアロウスミスの三人だ。この学校には秘密の伝統がある。上級生は、特定の下級生の後ろ盾になる。ある日、トリッジに…
 校長の「要領を得ない話」は、前菜ながら、この作家の特色をよく表している。十四年間つとめてきたって、そりゃ自分の無能を告白しているようなモんなんだけど、気づいていないんだろうなあ。この気づいていないってのが、後半になって…
こわれた家庭 / Broken Homes
 ミセス・モールビーは八十七歳。二人の息子を戦争で喪い、夫も五年前に他界した。今はひとりで暮らすのにも慣れたし、近所の人も何かと気を使ってくれる。ただ耄碌したと思われるのは嫌だった。ある日、中等学校の教師と名乗る男がやってきて…
 これまた教師の間抜けっぷりが炸裂する話。なんだけど、こういう自信満々の奴ってのは、まずもって自分じゃツケは払わない。というか、だいぶ前から話題になっている社会問題を私は思い浮かべた。ご近所と付き合いがあっても、これじゃあ…
イエスタデイの恋人たち / Lovers of Their Time
 時は1960年代。ノーマン・ブリットは旅行代理店に勤める40歳の冴えない男。妻のヒルダは同い年。子供はいない。最近、気になる女がいる。マリー、職場近くのグリーンズ薬局にいる娘。マリーから休暇の旅行の相談を受けたノーマンは、昼休みに彼女を誘い…
 1960年代といえば若者が元気にはっちゃけた時代、みたいな印象を持っていた。でも、中年もソレナリにノッていたのかも。
ミス・エルヴィラ・トレムレット、享年十八歳 / The Raising of Elvira Tremlett
 父さんとジャック叔父さんは一緒に自動車修理工場をやってる。ブライアン兄さんとリーアム兄さんは工場を継ぐと期待されてる。エッフィー姉さんは計算が得意で、工場の会計を任せるのにちょうどいい。キティー姉さんは父さんのお気に入りだ。でも僕自身は…
 「トリッジ」同様、浮いちゃってる少年の話。子供が五人、町にパブが29軒って所が、いかにもアイルランドだなあ。1873年没ってのに何か意味があるのかと思って Wikipedia の「アイルランドの歴史」を見たら、土地改革でイングランド人地主の土地を小作人に分け与えていた頃。
アイルランド便り / The News from Ireland
 1839年、アイルランド。先代の地主ヒュー・パルヴァータフトが亡くなり、後継ぎの一族がやってきた。屋敷も敷地もいい具合に崩れかけていたが、後継ぎは職人を集め屋敷を整えている。フォガーティー姉弟は落ちぶれたプロテスタントで、屋敷で働いている。そこに住みこみ家庭教師のアンナ・マリア・ヘッドウがやってきた。
 1845年~1849年は有名なジャガイモ飢饉(→Wikipedia)の時代。ジャガイモの疫病による不作に加え、イングランド地主の無慈悲な政策が飢餓に拍車をかけた。冒頭でざっくりとアイルランドの歴史をまとめてあって、これが最後の文と見事につながっている。
エルサレムに死す / Death in Jerusalem
 兄のポール神父は才気に溢れ、アメリカに渡って成功し、世界中を飛び回っている。無口な弟のフランシスも信心深く、今は母の金物店を引き継ぎ働いている。毎年恒例の里帰りの際に、ポール神父はフランシスを聖地エルサレムへの巡礼に誘う。
 社交性とエネルギーと才気に溢れてはいるが、母との折り合いが悪い兄のポール。無口でお人好しながら、母との暮らしに満足しているフランシス。私はポールに入れ込んじゃったなあ。登場人物の視点の違いによる、気持ちのスレ違いを巧みに描く作品が多い中で、この作品は特に心に刺さった。
マティルダのイングランド / Matilda's England
 1.テニスコート / The Tennis Court
 2.サマーハウス / The Summer-house
 3.客間 / The Drawing-room
 昔のチャラコム屋敷は賑やかで、たくさん人を雇っていた。でもミスター・アッシュバートンが先の戦争で出征し、復員した時は抜け殻になってしまう。以来、家は落ちぶれ負債は嵩み、1929年に亡くなる。返済のためミセス・アッシュバートンは地所を切り売りした。父の農場も、その時に買ったものだ。
 そして1939年、5月。老いたミセス・アッシュバートンンは9歳の私をマイ・マティルダと呼び、可愛がってくれる。15歳の兄ディックと14歳の姉ベティーが一緒のとき、ミセス・アッシュバートンが言う。「チャラコム屋敷にはテニスコートがあるから」「プレーしたくなったらいつでもどうぞ」
 今、調べたら、WIkipedia に「マティルダ・オブ・イングランド」なんて記事がある。何か関係あるのかな?
 イングランドの田舎で生まれ育った娘マティルダの一人称で語られる物語。短編三つと言うべきか、三部構成の中編と言うべきか。
 改めて読み直すと、ミセス・アッシュバートンは、なかなか気のいいご婦人じゃないか。零落しても気品は保ち、かつての名声に拘らず農場の子どもたちにも気さくに声をかける。老いて独り身の寂しさが理由とはいえ、お高くとまってないのがいい。
 マティルダはミセス・アッシュバートンがあまり好きじゃない様子。それでも仲の良い家族に囲まれ、幸せな子供時代を送る。そのハイライトが、最初の「テニスコート」の終盤だろう。だが海の向こうではドイツが暴走を始め…
 戦争の影が濃い作品だ。が、それ以上に、私はマティルダ自身の性格が強いと思う。彼女は決してSFなんか読まないだろう。でもジャック・フィニイの「ゲイルズバーグの春を愛す」は気に入るんじゃなかろか。未来より過去が好きな人なのだ。こういう人は、いつでも、どこにでも居る。
丘を耕す独り身の男たち / The Hill Bachelors
 幾つもの丘を越えて、末っ子のポーリーが帰ってきた。亡くなった父を見送るため、母の住む農場の家に。父はフランセスがお気に入りで、次にメナを可愛がっていた。そつのないケヴィンも、長男のエイダンも。だが末っ子のポーリーとは…
 農家の嫁不足はどこも同じらしい。そして、農家の嫁の待遇も。子供が五人ってのも、いかにもアイルランド。にしてもポーリー、実はけっこうモテてるのに…
聖母の贈り物 / The Virgin's Gift
 18歳の時、ミホールは神のお召しを受けた。修道院へ行け、と。ひとり息子であるにも関わらず、父はミホールを送り出してくれた。幼馴染のフォーラは違ったが。やがて修道院でも…
 ある意味、信仰に身を捧げた者の物語なんだが、決して祭り上げられることはないだろう。タイトル通り、キリスト教信仰の色が濃い…と思ったが、日本でも昔はこんな坊さんがいたんじゃないかな。でも、こういう形で終わるのは、やっぱりキリスト教だなあ。
雨上がり / After Rain
 ハリエットは30歳になったばかり。本当はふたりでエーゲ海のスキロスでバカンスを過ごすはずだった。でも今はペンシオーネ・チェザリーナで一人。恋が終わってしまったのだ。そこで、子どもの頃、家族と一緒によく来たここに再び来たのだ。
 失恋旅行に出かけた女の話…なんだが、日本のような島国に住む者としては、気軽に外国に旅行に行けるヨーロッパがひたすら羨ましかったり。

 ポップ・ミュージックのレコードやCDに倣い、12編を集めた作品集。レコードなら、さしずめ「トリッジ」~「エルサレムに死す」がA面で、「マティルダのイングランド」~「雨上がり」がB面だろうか。微妙に性格の悪さが滲み出ているA面に対し、B面は密かに悲しみと諦観が漂っている。その双方が入り混じった「エルサレムに死す」が私は好きだなあ。

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2018年9月26日 (水)

中島らも「今夜、すべてのバーで」講談社文庫

おれがアル中の資料をむさぼるように読んだのは結局のところ、「まだ飲める」ことを確認するためだった。
  ――p47

アル中の問題は、基本的には「好き嫌い」の問題ではない。(略)アル中になるのは、酒を「道具」として考える人間だ。
  ――p51

中毒者でないものが薬物に関して発言するとき、それは「モラル」の領域を踏み越えることができない。
  ――p127

アル中の要因は、あり余る「時間」だ。
  ――p131

「教養」とは学歴のことではなく、「一人で時間をつぶせる技術」のことである。
  ――p132

「今の日本じゃ、酒は水か空気みたいなもんだ。どこへ行っても目の前にあるんだ。そんなところで断酒なんかができるかね」
  ――p200

「痛みや苦しみのない人間がいたら、ここへ連れてこい。脳を手術してやる」
  ――p229

【どんな本?】

 エッセイ・劇作・放送作家など様々な分野で活躍した中島らもが、酒に憑かれたアル中の生態と、その周囲の人々を描く、アル中小説。

 主人公は35歳の小島容。毎日のように朝から晩まで飲み続けた挙句、体を壊して入院する羽目になる。目は黄色く濁り、顔色はドス黒く、食事も受け付けない。35歳にして衰え切った体力は、階段すら這って登らねばならない体たらく。なんとかベッドに横になったが、さっそく禁断症状に襲われ…

 人はなぜアル中になるのか。アル中か否かは、どうやって判断するのか。アル中の身体は、どうなっているのか。酒が抜けるに従い、アル中には何が起きるのか。なぜアル中は飲み続け、なぜ止められないのか。家族など周囲の者に、アル中はどんな影響を及ぼすのか。そして、支援の手はあるのか。

 自らもアル中だった著者が、その体験や心中を吐き出すと共に、自己診断方法・原因を探る学説・症状と治療法などの資料を漁り、多様な視点でアル中を描く、アル中文学の傑作。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 1991年3月、講談社より単行本を刊行。私が読んだのは講談社文庫版、1994年3月15日発行の第1刷。文庫本で本文約281頁に加え、著者の中島らもと山田風太郎の対談「荒唐無稽に命かけます!」が豪華21頁。8ポイント43字×18行×281頁=約217,494字、400字詰め原稿用紙で約544枚。文庫本では普通の厚さ。

 文章はこなれていて読みやすい。所々に入るコテコテのギャグも、親しみやすさを生み出している。アル中を医学的に語る部分では多少小難しい話も出てくるが、面倒くさかったら読み飛ばしても構わない。それより、生々しいアル中の生態こそ、この作品の最も美味しい所。

【感想は?】

 凄まじい、色々と。だが、これは遠い異国の話じゃない。私たちの隣で起きている事だ。

 最初のジャブからして強烈。軽い問診を受け入院が決まった小島、入院までの余った一時間で、いきなり隣の公園でワンカップを開ける。酒で体を壊したのがわかりきってて、これだ。何を考えている?

 しかも、いきなり飲み干すわけじゃない。「吐いちまわないだろうか」などと、おっかなびっくりである。どうやら体が酒を受け付けない時もあるらしい。だったら飲まなきゃいいのに。なぜ、そんなにしてまで飲む? 意味わからん。

 などと、私たちが勝手に想像するアル中の姿を、これでもかとブチ壊してくれる。酒好きがアル中になるのかと思ったが、そういう事でもないらしい。また、アル中の症状も、私はギャビン・ライアルの名作「深夜プラス1」のガンマン、ハーヴェイ・ロヴェルで刷り込まれたんだが、実際には…

 いやもう、実に情けなくみっともない有様で。それを本人は隠し通せると思って何かと誤魔化すんだが、それが余計にみっともないんだよなあ。

 とかの、アル中真っ盛りの姿も凄まじいが、そんな小島が入院生活で次第に復調してゆく過程も、これまた人の肉体の凄さが伝わってくる。

 中でも私が最も怖かったのは、フケの場面。そんなにしてまで、人体は生きのびようとするものなのか。そんなになってでも、人というのは生きられるものなのか。アルコールとは、そこまで体に負担をかけるものなのか。

 一人称の作品とすることで、アル中が何を考えているかも、自嘲的に書いている。その反面、他の人から見たアル中の醜さは、描くのが難しい。これを担当しているのが、同じ病室の福来だ。小島より少し年上だが、小島同様のアル中だ。彼との霊安室の場面は、舞台のせいもあって、鬼気迫るものがある。

 そんなアル中に巻き込まれる者も、たまったモンじゃない。

 周辺人物として最初に登場するのは、担当医の赤河だ。アル中への恨み憎しみを隠しもせず、口を開けば憎まれ口ばかり。先の福来を見ていると、医師としてアル中の面倒を観にゃならん赤河の気持ちもわかる気がする。掃除する度にゲロを吐かれたら、そりゃやってられないだろう。

 そんな風に、小島には敵意も露わに接する赤河だが、妙に名台詞が多いあたりは、著者も医師に感謝してるんだろうか。「抜糸するまで傷は医者のものだ」とか、なんか良くわかんないけど納得してしまう。

 赤河と同じく、アル中のトバッチリで苦労し通しなのが、天童寺さやか。公的には小島に雇われた事務係だが、どうやら独身らしい小島が入院したとあって、こまごまとした面倒を見ることに。ハッキリとモノゴトを言い切る性格なのが唯一の救いだが…。 彼女こそ、酒の罪深さを体現した人と言えるだろう。

 などと、アル中やそれに関わる者の、行動や心の中を描くと共に、久里浜式アルコール依存症スクリーニンク・テスト(→久里浜医療センター)などの参考資料やアル中の精神病理学など、客観的・学術的な情報も充分に盛り込んである。

 とか書くと、なにやら説教臭い本のように思われかねないが、決してそんなことはない。小島と赤河や、三婆との会話、「打ち止めの一発」なんてネタは、らも風のユーモアが詰まっているし、同室となった吉田老夫婦の姿は、病院文学とでも言うべき味わいがある。

 長さも手ごろだし、文章も親しみやすい。怖いもの見たさの娯楽作品のつもりで、手に取ってみよう。

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