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2026年5月の4件の記事

2026年5月25日 (月)

岩宮眞一郎「音と音楽の科学」技術評論社

本書は音と音楽を科学的に考察するための入門書です。音および音楽を人間が理解する過程について体系的に解説し、音と音楽に関するテクノロジーや文化について論じています。
  ――はじめに

【どんな本?】

 音とは何か。ヒトがどうやって音を聴き、そこから情報を得るのか。私たちが親しんでいる音楽には、どんな構造があるのか。コンサート・ホールには、どんな性質が求められるのか。オーディオ機器が音を再現する原理は? 世の中にはどんな楽器があるのか。 映画やドラマで音楽や効果音が果たす役割は?

 音と音楽にまつわる話題を、物理学的な基礎から音楽そしてJIS規格に至るまで、あらゆる側面から総合的に説明する、一般向けの解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2020年3月17日初版第1刷発行。単行本ソフトカバー横一段組み本文約340頁。9ポイント32字×29行×340頁=約315,520字、400字詰め原稿用紙で約789枚…なのだが、グラフやイラストを多く収録し、またレイアウト上の工夫のあるので、実際の文字数は7割ほどだろう。文庫なら厚い一冊分。

 文章は比較的にこなれている。ただし、冒頭から数式も容赦なく出てくる。それも微分や指数を含む高度なもの。いや私は数式を読み飛ばしたけど。それを除けば、内容は特に難しくない。完全な理解を求めるならともかく、「だいたいのところがわかればいいや」な態度なら、高校生でも楽しく読めるだろう。

【構成は?】

 各章は比較的に独立しているが、第1章と第2章は基礎となる部分なので、最初に読もう。もっとも、その第1章が数式まみれなのが辛い所だけど。繰り返すが私は数式を読み飛ばした。てへ。

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  • はじめに
  • 第1章 音と聴覚のしくみ
  • 1.1 音を聴いて音楽を味わうまで
  • 1.2 物理的には音は空気の疎密波である
  • 1.3 音を運ぶ媒質
  • 1.4 純音(正弦波)は楽器の音や人間の声の最小要素
  • 1.5 純音は三角関数を使って表現できる
  • 1.6 波長は一つの波が伝わる距離
  • 1.7 周期的複合音は倍音が組み合わさってできる音
  • 1.8 弦楽器の弦の振動から倍音が出るしくみ
  • 1.9 管楽器の管の共鳴で倍音が出るしくみ
  • 1.10 スペクトルは各周波数成分のパワーを表す
  • 1.11 ノイズは連続スペクトルで表現される
  • 1.12 広帯域ノイズと狭帯域ノイズ
  • 1.13 うなり;周波数がわずかにずれた2つの純音はうなる
  • 1.14 聴覚のしくみ:空気の振動を電気信号に変えて脳に伝える
  • 1.15 音はまず耳に入ってくる
  • 1.16 音を効率よく伝える鼓膜と耳小骨のコンビネーション
  • 1.17 基底膜の進行波が周波数の情報を伝える
  • 1.18 蝸牛の有毛細胞が神経インパルスを脳に伝える
  • 1.19 神経インパルスが発火する様子
  • 1.20 聴覚フィルタが周波数分析をしてくれる
  • 1.21 難聴は音楽を聴きすぎても生じる
  • 1.22 高齢社会で注目される老化に伴う聴力低下
  • 1.23 補聴器と人口内耳が聴覚の衰えを補ってくれる
  • 第2章 音の物理と心理
  • 2.1 音の大きさとデシベル
  • 2.2 デシベルのメリット
  • 2.3 等ラウドネス曲線は聴覚の感度の周波数依存性を表す
  • 2.4 騒音レベルは聴覚補正特性で補正した音圧レベル
  • 2.5 男と女のラウドネス(ラブソングではなく?)
  • 2.6 ラウドネスは音の大きさの比率関係を示す
  • 2.7 マスキングとは妨害して聞こえなくすること
  • 2.8 音の高さ(ピッチ)の2面性:トーン・ハイトとトーン・クロマ
  • 2.9 周期的複合音のピッチは、基本音がなくても基本音のピッチ
  • 2.10 絶対音感者は、周りの音をドレミで認識する
  • 2.11 ピッチが上昇(下降)し続ける無限音階
  • 2.12 音色は複雑な性質
  • 2.13 音色の印象的側面は3次元
  • 2.14 音色の識別的側面は聞き分ける力
  • 2.15 ものまね名人は「らしさ」解析の達人
  • 2.16 音色とスペクトルの対応関係
  • 2.17 パワー・スペクトルの重心が音の鋭さ(明るさ、固さ)に影響する
  • 2.18 ホルマントが母音の識別の手がかりになる
  • 2.19 音の立ち上がり、減衰部が音色の違いに及ぼす影響
  • 2.20 位相スペクトル(倍音間の位相差)が音色に及ぼす影響
  • 2.21 ビブラートは音色を豊かにする
  • 2.22 楽器音の偶発的なノイズや変動が楽器音の「らしさ」を作る
  • 2.23 擬音語は都の感性を伝える言葉
  • 第3章 音楽のしくみ
  • 3.1 メロディはピッチの変化の理解に基づく
  • 3.2 音階のしくみ;音の連なりが調性感をつくる
  • 3.3 音名は階名の周波数を決める
  • 3.4 ペンタトニック・スケール:世界に広がる5音音階
  • 3.5 12音技法:調性感を否定した音階
  • 3.6 音律は、音階の構成音の周波数を定める
  • 3.7 完全5度の美しい響きを基本にしたピタゴラス音律
  • 3.8 単純な整数比にこだわり、3度の音程も美しく響かせるようにした純正律
  • 3.9 平方根の導入で転調に耐えうるようにしたミーン・トーン、ウェル・テンペラメント
  • 3.10 単純な整数比の理想は捨てたが自由な転調を可能にした平均律
  • 3.11 メロディのゲシュタルト:メロディを感じる枠組み
  • 3.12 まとまり(ゲシュタルト)を形成するピッチのパターン
  • 3.13 音脈分凝:メロディが分離して聞こえるしくみ
  • 3.14 存在しない音が聞こえる
  • 3.15 ハーモニーの科学:協和を感じるしくみ
  • 3.16 協和感を決めるのは音と音の干渉
  • 3.17 倍音の干渉が協和音と不協和音を決める
  • 3.18 手陰部では完全5度でも協和しない
  • 3.19 協和と不協和の絶妙なバランスが名曲をつくる
  • 3.20 リズムは音列のまとまり、テンポは音列の速さ
  • 3.21 リズムとテンポのしくみと表現
  • 3.22 リズムの心理学:時間間隔がリズムになる
  • 3.23 ちょうといい加減のテンポ
  • 3.24 リズムのゲシュタルト:リズムを感じるしくみ
  • 3.25 リズムのゆらぎ:グルーブ感を出すために
  • 第4章 音の空間性
  • 4.1 耳が二つある生態学的理由:眼鏡をかけるためではない
  • 4.2 水平面の音の定位:音の方向は両耳間の差から聞き分ける
  • 4.3 時間差の影響:左右の耳への到達時間差が音像定位に影響する
  • 4.4 位相差の影響:波の進みあるいは遅れが音像定位に影響する
  • 4.5 強度差の影響:音の大きい側に引きつけられる
  • 4.6 正中面の音の定位
  • 4.7 方向感覚の弁別限は音源の方向に依存する
  • 4.8 音の定位に及ぼす視覚の影響
  • 4.9 腹話術効果
  • 4.10 音の距離感:大きな音は近くに聞こえるけれど
  • 4.11 両耳聴取が音の空間性を感じさせる
  • 4.12 コンサート・ホールに求められるもの
  • 4.13 直接音,反射音,残響:適度なバランスが演奏音を豊かにする
  • 4.14 音楽の邪魔をする反射音
  • 4.15 残響時間:コンサート・ホールの特徴を表すモノサシ
  • 4.16 ホールに広がり感をもたらす横からの反射音
  • 4.17 遮音と吸音:音を遮断することと音を吸い込むこと
  • 4.18 コンサート・ホールの誕生と発展
  • 4.19 コンサート・ホールの形状
  • 第5章 オーディオ機器の歴史と原理
  • 5.1 レコード:音を記録・再生する初のメディア
  • 5.2 録音テープ:磁石の性質を使って音を録音・再生する
  • 5.3 放送メディアは世界的ヒット曲を生み出した
  • 5.4 オーディオ機器:さまざまな音楽メディアを再生する装置
  • 5.5 アンプ:スピーカを鳴らすパワーを供給する
  • 5.6 スピーカ:電気信号を音に変換する
  • 5.7 ヘッドホンとイヤホン:自分だけで音楽を楽しむ機器
  • 5.8 オーディオ機器の音響特性
  • 5.9 音楽メディアに革命をもたらしたデジタル技術
  • 5.10 CDによってデジタル・オーディオの時代が訪れた
  • 5.11 デジタル化することの利点
  • 5.12 1ビット量子化方式(デジタルシグマ変調方式)
  • 5.13 圧縮技術と音楽メディア:音楽を持ち歩く生活
  • 5.14 携帯型プレーヤはさらに進化を遂げた
  • 5.15 高臨場感を実現する音楽メディア
  • 5.16 忠実な3次元再生を目指すバイノーラル方式,トランスオーラル方式
  • 第6章 楽器の分類とそのしくみ
  • 6.1 各種の楽器と音が出るしくみ:楽器の分類とその系統
  • 6.2 楽器がカバーする音域と音量
  • 6.3 打楽器:叩いて音を出す楽器
  • 6.4 木管楽器のなかま:吹いて音を出す楽器のいろいろ
  • 6.5 管の共鳴でメロディを奏でるエア・リード楽器
  • 6.6 リードの振動で音を発生させるリード楽器
  • 6.7 金管楽器のなかま:きらびやかなファンファーレの秘密
  • 6.8 弦楽器のなかま:弦の振動がメロディを奏でる
  • 6.9 撥弦楽器では弦を弾いて音を出す
  • 6.10 摩弦楽器では弦を擦って音を出す
  • 6.11 弦を叩いて演奏する打弦楽器
  • 6.12 鍵盤楽器のなかま:高度な音楽を奏でる工夫
  • 6.13 多彩な表現力を備えた鍵盤楽器の王者ピアノ
  • 6.14 オーケストラに匹敵する多彩な音色を備えたパイプ・オルガン
  • 6.15 歌:人の声も楽器である
  • 6.16 オーケストラに打ち勝つベルカント唱法の秘密
  • 第7章 電子楽器からDTMへ
  • 7.1 電気楽器の原理
  • 7.2 電子楽器:電気のチカラで音を作る
  • 7.3 ユニークな電子楽器
  • 7.4 デジタル技術が電子楽器にも恩恵をもたらした
  • 7.5 エフェクタ:音楽表現に彩りを添えるツール
  • 7.6 空間系エフェクタ:響きを人工的に作る
  • 7.7 モジュレーション系エフェクタ:ここちよい「ゆらぎ」を作る
  • 7.8 ひずみ系エフェクタ:わざとひずませてカッコいいサウンドを作る
  • 7.9 ひずみに美的価値を与えたエレキギターは反骨の楽器だった
  • 7.10 インサート系エフェクタ:過大入力を防ぐ
  • 7.11 イコライザ:スペクトルを変化させる
  • 7.12 MIDI:コンピュータとつながるインターフェース
  • 7.13 デスクトップ・ミュージック:コンピュータ1台で音楽制作
  • 7.14 ボーカロイド:ついに歌声もコンピュータで合成
  • 7.15 DAW(Digital Audio Workstation):一人でレコーディング
  • 7.16 音楽制作の質向上にはオーディオ・インターフェースは必須
  • 7.17 マイクロホン:ダイナミック型とコンデンサ型
  • 7.18 テクノロジイーの発展は音楽も変えた:現代音楽からメディア・アートへ
  • 第8章 映像メディアにおける音の役割
  • 8.1 映像エディアに活かす音のチカラ
  • 8.2 映像作品に世界では音も演出されている
  • 8.3 演出効果のある環境音
  • 8.4 しずけさの音:無音のテクニック
  • 8.5 リアリティを演出する効果音
  • 8.6 チャンネルはそのまま:テレビで多用される効果音
  • 8.7 ナマオトの効果:本物の音よりも本物らしい音
  • 8.8 笑いの神を降臨させる音:音で笑わされている
  • 8.9 音と映像の同期の効果:シンクロのチカラ
  • 8.10 音楽のムードの利用:寄り添う、ずらす
  • 8.11 音と映像の対位法
  • 8.12 定番曲で状況を伝える
  • 8.13 テーマ曲の利用
  • 8.14 ヴァルキューレのライトモチーフ
  • 8.15 映像の世界で鳴っている音楽
  • 8.16 音楽をテーマにしたドラマ
  • 第9章 サウンドスケープ
  • 9.1 サウンドスケープの意味するところ
  • 9.2 サウンドスケープは環境、社会、文化と関わる
  • 9.3 サウンドスケープは人間が意味づけ、構成した音環境
  • 9.4 音響生態学はサウンドスケープの学問分野
  • 9.5 マリー・シェーファーの提唱する音の分類法
  • 9.6 歳時記に詠まれた四季折々の日本の音風景
  • 9.7 おもてなし精神が生んだ日本の音分化
  • 9.8 紀行文に残された明治の音風景
  • 9.9 音の環境教育
  • 9.10 シェーファーのめざすサウンドスケープ・デザイン
  • 9.11 音名所、残したい音風景:地域の音文化の掘り起こし
  • 9.12 音楽と環境:「楽音」対「騒音」の二項対立の解消
  • 第10章 音のデザイン
  • 10.1 音のデザインは芸術と工学のあいだにある
  • 10.2 デザインのいろいろ:音のデザインのいろいろ
  • 10.3 製品に快音化の時代が到来した
  • 10.4 音が魅力のモノづくり
  • 10.5 サイン音のあり方を探る
  • 10.6 音楽的表現を用いたサイン音
  • 10.7 音のユニバーサル・デザイン
  • 10.8 音環境デザイン
  • 10.9 音楽における音のデザイン的側面
  • 10.10 失われたリアリティを再現する音のデザイン
  • 参考文献/索引

【感想は?】

 音と音楽を総合的に語る本だ。それだけに、話題は多方面に渡る。特に後半では、章ごとに内容が全く違う。という事で、ここでは章ごとに記事を書いていこう。

●第1章 音と聴覚のしくみ

老化による聴力低下の特徴は、高い周波数の音が著しく聞こえにくくなっている
  ――第1章 音と聴覚のしくみ

 「音」を物理学的に解説し楽器が音を出す原理を説明すると共に、ヒトが耳で音を聴き脳で解釈するまでの医学的な仕組みを解説する章。倍音構成や閉管と開管の違いなど、かなり突っ込んだ話も出てくる。

●第2章 音の物理と心理

母音「i」が用いられる「キー」などの擬音語表現で表される音は、一般に「明るい」「鋭い」といった印象が持たれます。「i」の音は、日本語の5母音の中でスペクトルの重心(あるいはシャープネス)が最も高い音で…(略)
逆に、「鈍い」「暗い」といった印象を喚起し、低い周波数帯域に主要なエネルギーを有する音には、(略)スペクトル重心が最も低い母音「o」が擬音語に用いられます。
  ――第2章 音の物理と心理

 ヒトが音をどう感じるか、どんな音がどんな印象を与えるかなどを、音の大きさ・周波数分布・音量の変化具合などを用い、物理的・数学的に説明してゆく。数式に加え、デシベル・スペクトル・ホルマントなどの専門用語も容赦なく出てくる。数式はともかく、専門用語は後の章のために理解しておいた方がいい。

●第3章 音楽のしくみ

演奏者は、楽譜そのものではなく、楽譜から解釈された音楽イメージを演奏するのです。
  ――第3章 音楽のしくみ

 音階・和音・メロディからリズムそしてグルーブ感まで、音楽の理論を駆け足で語ってゆく。話題としては西洋音楽が中心ながら、世界中の民謡で床われるペンタトニック・スケールも少し触れている。ビートルズのエリナー・リグビーから感じる不思議さの秘密が分かったのが私には嬉しかった。

●第4章 音の空間性

(左右に)少しでも時間差があると音像は早く提示された側に定位します。
  ――第4章 音の空間性

 ひとつの音から、ヒトは多くの情報を得る。音源の方向、音源までの距離、周辺の環境など。なぜ・どうやって・それらを聞き分けるのか、といったヒトの聴覚の仕組みから、それを応用したコンサート・ホールや映画館の音響設計までを、総合的に解説してゆく。左右の定位は音の大きさだけで決まると思っていたが、時間差も関係あるとは知らなかった。

●第5章 オーディオ機器の歴史と原理

1ビット量子化方式では、(略)信号が0か1のみで量子化します。ただし、非常に高速なサンプリング周波数で(略)標準的なスーパー・オーディオCDという方式では、サンプリング周波数は2.8224MHz(2,822,400Hz)となっています。
  ――第5章 オーディオ機器の歴史と原理

 エジソンの蓄音機からオーディオ機器を経て最近のバイノーラル録音まで、録音・再生技術の歴史と原理を駆け足で解説する。「デジタルになればオーディオ機器の優劣が関係するのはスピーカーぐらいだろう」と思っていたが、実はデジタルをアナログに変換する所でも工夫が必要なのだった。

●第6章 楽器の分類とそのしくみ

ザックス=ホルンボルテス分類法(略)によると、楽器は、体鳴楽器,膜鳴楽器,弦鳴楽器,気鳴楽器,電鳴楽器に分類されます。
  ――第6章 楽器の分類とそのしくみ

 この引用で分かるように、「音を出す仕組み」に注目すると、鍵盤楽器は存在しない。また、多くの楽器では、「いかに音を反響させて大きくするか」がキモなのだ、とわかる。私はギターが好きなのだが、バイオリンと異なり交響楽の主役になれないのは、やはり音の大きさ故なんだろう。にしてもパイプオルガンの音程の広さと音量の大きさは、つくづくチートだ。まあ、あれは楽器というより建物だし。

●第7章 電子楽器からDTMへ

シアトルで開催された国際音響学会(1998年)では、ジミ・ヘンドリクスを偲んで「ひずみ」特別セッションが行われました。
  ――第7章 電子楽器からDTMへ

 エレキギター,シンセサイザ,エフェクタ,MIDI,DTMからマイクロホンまで、電気楽器・電子楽器そのものはもちろん、電気楽器だから・電子楽器だからこそ可能な表現や、それが切り拓いた音楽の可能性を語る。最近のロックのギターはメタルじゃなくてもひずみ系エフェクタ大流行りだよなあ。

●第8章 映像メディアにおける音の役割

骨を折る音も、(略)べニア板,割り箸などを薄めの布で巻いて折った音が使われています。セロリをねじるという技もあります。
  ――第8章 映像メディアにおける音の役割

 映画やドラマの音楽から効果音まで、映像メディアで音をどう使い、どんな効果を狙っているかを、豊富なサンプルを挙げながら基本的な技術から常識を逆手に取った手法まで紹介してゆく。視聴者の慣れを利用し、敢えて無音にするなどの演出も興味深いが、私は効果音の作り方が楽しかった。

●第9章 サウンドスケープ

(ジョン・ケージの)『4分33秒』では、すべての環境音が聴取の対象となります。
  ――第9章 サウンドスケープ<

 マリー・シェーファー(→Wikipedia)が提唱したサウンドスケープの概念を中心に、私たちが日頃から聴いている(がたいていは意識していない)身の回りの音を紹介する。そういえば、私の住む地域を象徴する音って、何だろう?

●第10章 音のデザイン

家電製品のサイン音に対しては、日本工業規格「高齢者・障碍者配慮設計指針 消費生活製品の報知音」(JIS S 0013)として(略)設計指針では、サイン音を操作確認音,終了音,注意音に分類し、それぞれにふさわしい音が定められています。この規格では、高齢者の聴覚特性にも配慮して「報知音の周波数は2.5kHzを超えないことが望ましい」との条項を盛り込んでいます。
  ――第10章 音のデザイン<

 ポスターや工業製品にデザインがなるなら、音だってデザインがある筈だ、そういう主張の章。スマートフォンやデジタルカメラは、ワザとシャッター音を出している。最近の自動車はカーナビが喋る。そういやパソコンも起動時にピコッと鳴るなあ。これらの音も、実はデザインされているのだ。ジミ・ヘンドリクスやエディ・ヴァンヘイレンが代表すように、エレキギターを弾く人は、自分の音をデザインしてきたんだよね。

 一冊の本で音と音楽のすべてを説明しよう、などどいう欲張ったテーマの本だ。それだけに話題の幅は広い反面、全体的に駆け足の感が強く、中身も異様に濃い。入門書というより、音の世界を紹介する本が近いと思う。それに相応しく、巻末の参考文献も充実しているし。ということで、音と音楽に興味がある人にお薦め。

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2026年5月18日 (月)

SFマガジン2026年6月号

 ――新時代の黎明を見て、幾度でも問い直されるべきは平凡な市民が幸福になれない未来の、何が素晴らしいのかということだ。
  ――長谷敏司「市民の歴史」

「軍人が文官に殺される国家は、軍人が文官を殺す国家より良いからだ」
  ――柴田勝家「朱子天外伝」

 376頁の標準サイズ。

 特集は吟鳥子監修で「SF少女マンガ特集2」でマンガが3本+1本に加え、清水玲子のインタビューや「1980~2020年代のSF少女マンガ家ガイド」など。表紙からして「輝夜姫」の晶の麗しくも凛々しく仁義きってる姿だし。

 小説は6本。特集で1本、連載が4本、読み切りが2本。加えてマンガ4本、、連載の横山えいじ「おまかせレスキュー」。

 SF少女マンガ特集2のマンガ3本+1本は坂井恵理「#私が産みました」,Ququ「如意」,河野スイ「ホルプ家のとある日常」に加え、吟鳥子による特集解説コミック「少女漫画はずっとSFしている」。

 連載小説は4本。冲方丁「マルドゥック・アノニマス」第65回に加え新連載3本は長谷敏司「市民の歴史」,藤井太洋「宇宙島年代記」,柴田勝家「朱子天外伝」。

 読み切りは2本。暴力と破滅の運び手「まるはだかの地球誌」,阿缺「雲鯨記」阿井幸作訳。

 SF少女マンガ特集2。

 吟鳥子「少女漫画はずっとSFしている」は、本特集が採用されるまでの経緯を描いた作品。いわゆる「花の24年組」の後も優れたSF少女マンガが続々と出ているんだぞ、という熱意がひしひしと伝わってくる11頁。

 坂井恵理「#私が産みました」。赤ん坊の育児でボロボロになった母親に薦められたネックレス状のアイテム、ネコタグ。その機能は…

 生まれたばかりの赤ん坊は、食事や睡眠のサイクルも短くかつ不安定で、一人で育児を賄うのは相当に厳しい。そういや「もうダメかも 死ぬ確率の統計学」でも、幼児期の異常なまでの死亡率の赤さが数字で出ていた。オチも素晴らしい。私も欲しい。

 Ququ「如意」。人気アイドルのMIAと、かつて少しだけ付き合っていた青年は、街角でテック企業に勤めているという技術者に声をかけられる。その話というのは…

 出だしから、背景に独特の味がある。輪郭はシャープながらも柔らかみのある線で描かれる、近未来の渋谷を感じさせる街の風景が、明るく華やかながらもよそよそしい都会の夜の空気を巧く醸し出している。

 河野スイ「ホルプ家のとある日常」。荒れ果て草木が生い茂る庭に置かれた棺桶。そこから出てきた娘は、短剣を持っている。石造りの城のような建物に入り、螺旋階段を昇ると…

 他の三作は、少女マンガというより青年誌やレディース・コミックが似合いそうな絵柄なのに対し、本作は私が想像する少女マンガの絵柄に近い繊細な感じ。大胆なコマ割りも、少女マンガの特徴だと思う。

 宇垣美里インタビュー「サバイブするための少女マンガとSF」。「最近は少女マンガと少年マンガという分類自体があいまいになってきていますよね」。それ言ったら三日三晩の討論が始まってしまうぞw 「きらら」系は少女マンガなのか、とかw 「瑠璃の宝石」なんてセンス・オブ・ワンダーてんこ盛りだし。SFじゃないけど。あと竹本泉や須藤真澄も分類は難しい。

 連載小説。

 冲方丁「マルドゥック・アノニマス」第65回。ノーマ・オクトーバーは、弱毒化したウイルスを授けようとハンターに提案する。ハンターはしばらく意識を失い、<クインテット>の仲間からも切り離されるだろう。ノーマの目論見を見抜けぬまま、ハンターは処置を受ける。イースターズ・オフィスに身柄を拘束されたホスピタルは、尋問に素直に応じるが…

 戦闘の終盤でシザースの恐るべき能力と、カギを握る人物であるホスピタルの暗躍と目的が明らかになった前回に続き、今回もクインテット・オフィス共に大変な危機へと投げ込まれる。シザースの複雑怪奇な内情と、それに抗うハンターとバロットそしてバジルの奮闘も読みどころ。

 長谷敏司「市民の歴史」。2029年。AI研究者の竜宮千里は壮大な意図を持って米国から日本に戻る。テーマの一つは脳の構造をAIで推測する研究で、脳神経学者の小鍛治陽子との共同研究だ。研究にはカネが要る。特にAI研究は、いかに多くのGPUを確保するかが鍵だ。そのためには実績が必要で…

 2026年現在、既にGPUとメモリがAIの研究/開発で爆買いされ品不足になっていて、カネのある者の勝ち、みたいな感があって、それを巧く描いていると思う。歴史的に、これに似た状況は、鉄鋼と鉄道だろうか。AIが最も進出しにくい分野は政治だと思っていたが、そこも政局の変動を折り込むことで「そうきったか~」と唸ってしまった。

 藤井太洋「宇宙島年代記」。2326年。16歳の宇登神瑞乃は<コクナン島>に転校する。先行ラグランジュ点にある円筒形をしたオニール型のコロニーだ。島民の多くはMODと呼ばれる人体改造措置を受けている。慣れない人口重力などに戸惑いながら転校の挨拶を済ます。思ったよりクラスメイトは親切に受け入れてくれたが…

 遠心力による疑似重力のクセや宇宙空間における距離感・速度感などの科学的な背景から、コロニーがいかにして稼ぐかといった経済的な問題まで、藤井太洋らしい説得力に満ちた考証にはにたすた唸らされるばかり。クセは強いがシッカリした同級生たちにも好感が持てる。しかも、連載初回からさっそく騒動と冒険の予感が。

 柴田勝家「朱子天外伝」。金の侵略により宋は臨安府に都を移す。役人である父の朱松に連れられ、朱熹も臨安府へ移り住む。11歳の時、朱熹は町の商人の子らに袋叩きにされる。都は元から住む者と、遷都により移り住んできた者とがいがみあっていたのだ。運河では金との戦いに赴こうとする岳飛将軍とその息子の岳雲が、船で民衆の歓声を浴びている。

 舞台は南宋の曙時代。主人公の朱熹は朱子(→Wikipedia)、岳飛(→Wikipedia)も中国では人気の武将らしい。後に学者として名を成す朱熹が、幼いながらも理屈っぽいのが、いかにもな感じ。そして、彼の前に現れた量憶と名のる少年は、本作のカギを握っているようで…

 読み切り小説。

 暴力と破滅の運び手「まるはだかの地球誌」。劇場で働いていたおれは、異様な空間にいた。どこからか声が聞こえる。「あなたがたの宇宙は、評価が終われば恒久的なエネルギー源として利用されるでしょう」。何を言ってるのかわからんが、宇宙が滅びるっぽい。

 2024年10月号掲載の「あなたの部分の物語」路線のお話。調べたらディミトリス・パパイオアヌーは実在の振付家らしい。確かに何を考えてそんな振付にしたのかわからんw

 阿缺「雲鯨記」阿井幸作訳。恋人だった阿葉の遺骨を地球に持ち帰るため、僕は惑星ビーモンを訪れた。ここには雲鯨が住む。別の惑星カーの海に生まれ、星々を旅してビーモンの金色海に泳ぎ着く。金色海は重力を打ち消す物質F937を微量に含んでいる。雲鯨はF937を体内で濃縮し、空を飛ぶ。そして雲鯨の血を狙う密猟者もビーモンに集まり…

 2月号の「架空生物特集」の続き?に相応しい、奇妙でダイナミックな生物の雲鯨が魅力的な作品。いや捕鯨保護派の私としては、いささか複雑な気分なんだが。密漁の方法も、日本の捕鯨の特徴である母船を中心として複数種の船による船団方式だし。それはともかく、雲鯨に空を飛ばせる仕掛けは見事。

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2026年5月 7日 (木)

ノーマン・オーラー「ヒトラーとドラッグ 第三帝国における薬物依存」白水社 須藤正美訳

ナチ党員は(略)厳格なドラッグ撲滅政策を展開した。だが、それにもかかわらず総統ヒトラーのもとで、抜群の効果をもち、きわめて依存性が強く、ことのほか人心を惑わすドラッグが大流行することになった。
  ――第1部 国民ドラッグ「メタンフェタミン」 1933年~1938年

ヒトラーは1941年秋からホルモンとステロイドの注射を受け、遅くとも1944年下半期以降はコカイン、さらにオイコダールが大量に使用された。
  ――第3部 ハイ・ヒトラー、患者Aと彼の主治医 1941年~1944年

オピオイド中毒は、もともと彼に備わっていた硬直した思考や決して自らの手を汚さない暴力行使の傾向を、セメントでさらに固めたに過ぎない。
  ――第3部 ハイ・ヒトラー、患者Aと彼の主治医 1941年~1944年

【どんな本?】

 晩年のヒトラーの記録を見ると、「頭おかしいんじゃね?」と感じる人は多い。この疑問に対し、「そうだよ、彼はヤクでラリってたんだ」と答えるのが本書である。

 どんなヤクか? 初期はビタミン剤やホルモン剤だったが、やがてペルビチン(メタンフェタミン,日本の俗称はヒロポン/シャブ)、コカイン、オイコダール(アヘン系鎮痛剤)などを連日注射していた。

 ヒトラーの主治医として彼に付き添った医師テオドール・モレル(→Wikipedia)の膨大かつ散逸したメモや処方箋を、著者は世界中を巡って調べ上げ、ヒトラーがヤクにハマってゆく様子を再現してゆく。

 と同時に、ドイツ陸海軍や親衛隊も熱心に向精神薬を研究・開発・利用していた由を暴き、当時の第三帝国が薬物まみれであった実態を描き出してゆく。

 小説家かつジャーナリストの著者が、丹念な調査と取材によって、第二次世界大戦に新しい角度から光を当てる、衝撃の歴史ドキュメンタリー。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Der totale Rausch: Drogen im Dritten Reich, Norman Ohler, 2015。日本語版は2018年10月5日発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約292頁に加え歴史家ハンス・モムゼンによる解説「ナチズムと政治的リアリティの喪失」2頁+訳者あとがき6頁。9.5ポイント45字×20行×292頁=約262,800字、400字詰め原稿用紙で約657枚。文庫なら厚めの一冊分。

 文章は比較的にこなれていて読みやすい。が、小説家らしくやや文学的な表現も多い。内容も特に難しくない。電撃戦やクスルク戦車戦などの重要な背景は、本書内で説明がある。とはいえ、大雑把な流れは掴んでいた方がいい。また、メタンフェタミンを初めとして聞きなれない薬物の名前が頻繁に出てくるのは覚悟しよう。

 メタンフェタミンは覚醒剤でペルビチン=ヒロポン/シャブ、オイコダールはアヘン系でモルヒネやヘロインの仲間、コカインはコカノキから作るアッパー系の向精神薬。

【構成は?】

 ほぼ時系列順に進むので、品雄に頭から読もう。

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  • 使用説明書 序文に代えて
  • 第1部 国民ドラッグ「メタンフェタミン」 1933年~1938年
    ブレイキング・バッド 帝国首都のドラッグ工房/19世紀の序曲 原薬物/ドイツ、薬物の国/化学の20年代/権力交代とは薬物交代なり/反ユダヤ政策としての反ドラッグ政策/クアフュルステンダムの有名医師/患者Aのための多剤カクテル注射/国民ドラッグを恃みとする民族体
  • 第2部 ジーク・ハイ 電撃戦はメタンフェタミン戦なり 1939年~1941年
    証拠探し 連邦公文書館軍事記録局(フライブルク)/ドイツの軍隊はドイツの薬物を発見する/グラウブロートからブレインフードへ/ロボット/バーンアウト/モダン・タイムス/時は戦なり/「ちまちませずに派手にやれ」/時はメスなり/クリスタル・フォックス/だがヒトラーは電撃戦を理解せず/ダンケルクの停止命令 薬理学的解釈/国防軍の薬物ディーラー/戦争とビタミン/フライング・ハイ/外国への喜ばしいプレゼント
  • 第3部 ハイ・ヒトラー、患者Aと彼の主治医 1941年~1944年
    現地訪問 アメリカ国立公文書記録管理局(ワシントンDC)/ブンカー メンタリティ/東部の陶酔/元衛生将校が語る事実/プラネット・ヴェアヴォルフ/屠畜場ウクライナ/「x」と完全なる現実喪失/オイコダールの服用/薬物集積場としての諜報機関/患者D/患者B/暗殺未遂とその薬理学的な帰結/ついにコカイン!/スピードボール/医師たちの戦争/自己の抹消/スーパー・ブンカー/線路マーク/責任問題
  • 第4部 その後の濫用 血とドラッグ 1944年~1945年
    現地訪問 連邦軍医科大学校(ミュンヘン)/ザクセンハウゼンへの業務旅行/錠剤パトロール/正真正銘の没落/洗脳/薬物の黄昏/最終出口 総統地下壕/解雇/最後の毒物/モレルの内面崩壊
  • 千年の愉楽
  • 謝辞/ナチズムと政治的リアリティの喪失 ハンス・モムゼン/訳者あとがき
  • 図版の出典/文献リスト/註/人名・事項索引

【感想は?】

 ある程度は時代背景もあり、割り引いて考える必要もある。例えばペルビチン=メタンフェタミン=ヒロポンが日本で禁じられたのは1949年だ(→Wikipedia)。それでも、特に戦況が悪化した終盤の容赦は背筋が凍る。ヒトラーは完全なジャンキーだったのだ。

 1938年、テムラー社はペルビチンを鳴り物入りで売り出した。同社はベルリンのすべての医師に無料サンプルを配る。返信ハガキと共に、以下の文言をつけて。

「初回分に限り無料!」
  ――第1部 国民ドラッグ「メタンフェタミン」 1933年~1938年

 まるきしヤクのバイニンじゃねえかw

 このペルビチン、気分は良くなり眠気も飛び自信満々になる。のはいいが…

大脳に大きな抽象能力が要求されるプロセスの処理に関しては、ペルビチンを服用しても成績の向上はみられなかったのだ。計算は確かに速くなったものの、計算ミスも増えた。
  ――第2部 ジーク・ハイ 電撃戦はメタンフェタミン戦なり 1939年~1941年

 別に頭が良くなるんじゃなくて、単に自信過剰になるだけらしい。おまけに乱用すると妄想や依存性などのツケが回ってくるんだが、それもしこたま利息をつけて。

 さすがにこの時点じゃ注射じゃなくて錠剤なんで多少はマシかもしれないが、一般市民向けのチョコレート菓子にまで入ってるとか、ヤバいだろ。

 この効果には軍も注目する。1939年のポーランド侵攻でも、第九軍の軍医が報告している。

「兵士たちが持てる力をすべて出し切らねばならぬような難局で、ペルビチンを支給された部隊は、支給されなかった部隊をはるかに上回る戦果を挙げたのだ」
  ――第2部 ジーク・ハイ 電撃戦はメタンフェタミン戦なり 1939年~1941年

 将兵にペルビチンを配り、ハイな状態で戦場に送り込んだのだ。その優れた実績に基づき、すぐにテムラー社へ増産体制に入るよう要請する。

「特別な状況下で、睡眠によって軍事的な成果が脅かされる場合には、眠気を克服することの方が、例えばそれとの関連で生じうる後遺障害へのいかなる配慮よりも重要となる。そして眠気の打破には(…)覚醒剤が利用できる」
  ――第2部 ジーク・ハイ 電撃戦はメタンフェタミン戦なり 1939年~1941年

 かの有名な電撃戦も、覚醒剤ありきの計画だった。

ハインツ・グデーリアン「諸君に要求する。必要とあらば、少なくとも三日間、昼夜一睡もせずに奮闘せよ」
  ――第2部 ジーク・ハイ 電撃戦はメタンフェタミン戦なり 1939年~1941年

 兵をドラッグで強化なんて作り話かと思ったが、歴史的な事実だし、実際に効果があったのだ。1973年の第四次中東戦争を描く「砂漠の戦車戦」でも師団長が寝不足でボケる描写があったし、戦場での睡眠は死活問題らしい。2001年からの米国主導のアフガニスタン戦争でも、軍から向精神薬を求められたとの話が本書に載っている。

 ともあれ第三帝国に戻ろう。薬物に頼ったのは国防軍だけでなく、海軍もだ。ナチス版回天のゼーフント(→Wikipedia)開発に当たり、乗務員の負担が大きな問題となる。狭い艦内で数日間、眠らずに航行しなければならない。そこで…

海軍軍医将校ハンス=ヨアヒム・リヒェルト博士「丸四日間の投入が可能な潜水艇ゼーフントの使用条件は過酷であるので、新しい薬剤の開発と治験を要請している」
  ――第4部 その後の濫用 血とドラッグ 1944年~1945年

「四昼夜、人間をまったく(もしくはほとんど)眠らせずに高いパフォーマンスを維持させるという目標は、薬物A~Dを使用したときに実現可能となる」
  ――第4部 その後の濫用 血とドラッグ 1944年~1945年

 と、より強力な覚醒剤の開発に乗り出している。

 また、親衛隊も強制収容所の囚人を使って自白剤の研究・開発・実験を行った。

親衛隊大尉クルト・プレートナー博士「メスカリン(→Wikipedia)が効果を発揮すると、(略)いつでもその囚人の最も個人的な秘密さえ聞き出すことができた。(略)言質を取って相手に罪を着せることは実に容易である」
  ――第4部 その後の濫用 血とドラッグ 1944年~1945年

 なお、この成果は戦後に米国が美味しくいただきました。ペーパークリップ作戦(→Wikipedia)の一部かな?

 とか書いてるが、これらはいわば副菜。主菜はヒトラーとその主治医テオドール・モレルだ。モレルは家畜の内臓などから精製したホルモンやビタミンを混ぜ、ビタムルチンと名付けた栄養剤をヒトラーに与え、巧みに取り入る。とまれ、医師が総統に意見できるはずもなく。

「私はいつも短い診療時間で許容限度ギリギリの大量の薬剤を処方しなくてはなりませんでした」
  ――第3部 ハイ・ヒトラー、患者Aと彼の主治医 1941年~1944年

 ちなみに患者Aとはヒトラーを示す。その薬剤も決まった定食メニューではなく、多様な薬物を日々様々な割合で混合したシロモノ。例えば1945年4月8日のメモでは…

「強心薬のカプセルにレバー製剤を合わせた。それによって強い刺激作用を狙ったのだ」
  ――第4部 その後の濫用 血とドラッグ 1944年~1945年

 アドリブでテキトーに処方していたのだ。その頻度は、ほぼ毎日である。

1941年8月から1945年4月にかけて、この主治医は連日、患者の診察に当たった、(略)ほぼ1日に1回、注射していた計算になる。
  ――第3部 ハイ・ヒトラー、患者Aと彼の主治医 1941年~1944年

 開戦後は、ヒトラーと最も長い時間、接触していた人物だろう。

 その関係は、戦況が悪化すると共に深まってゆき、また投与方法も経口から注射へ、中身も激しいモノへと変わってゆく。

1943年7月18日は(略)これまで以上に戦況が悪化したのだ。赤軍がクルスクで軍事史上最大の戦車戦に勝利し、(略)連合軍がシチリア島に上陸し…
  ――第3部 ハイ・ヒトラー、患者Aと彼の主治医 1941年~1944年

「患者A」の1943年第2四半期のカルテが残されている。その右下の個所に、ある薬品名が記され何本もの下線が引かれている。オイコダール。(略)有効成分は(略)アヘンに含まれる物質から合成された半合成麻薬である。
  ――第3部 ハイ・ヒトラー、患者Aと彼の主治医 1941年~1944年

 なお、ラリっていたのはヒトラーだけではない。

1923年にミュンヘンのフェルトヘルンハレを襲撃した際に腹部に重曹を負っていた国家ナンバー2のゲーリングは、数年前から重度のモルヒネ中毒に患っていた。
  ――第2部 ジーク・ハイ 電撃戦はメタンフェタミン戦なり 1939年~1941年

 まあ、この文でゲーリングにモルヒネを処方したのはモレルではない。が、モレルがヒトラーの主治医となって以降、モレルのお世話になった人物の一覧はなかなか壮観だ。

ムッソリーニ,実業家アルフリート・クルップ,実業家アウグスト・ティッセン,レニ・リーフェンシュタール,ヒムラー,外相フォン・リッペントロープ,軍需大臣シュペーア,日本大使大島浩将軍,ゲーリング夫人…
  ――第3部 ハイ・ヒトラー、患者Aと彼の主治医 1941年~1944年

 さすがに何を処方したのかまでは書いていないけど。

 それはともかく、ヒトラーとモレルの関係は、次の文が見事に表している。

1944年2月24日には患者Aから騎士十字戦功十字章まで受けている。(略)受勲したばかりの主治医はこのすぐ後に感謝の意味を込めて、「初めての強力ビタムルチン注射(疲労回復と気力体力の充実のため)を打った」
  ――第3部 ハイ・ヒトラー、患者Aと彼の主治医 1941年~1944年

 感謝の注射って、なんだよ。まるきしバイニンがジャンキーに与える御褒美じゃねえか。

 実際、晩年のヒトラーは、ストレスとヤクでイカれた心身を、ヤクで無理矢理支える末期状態へと転げ落ちてゆく。

1944年11月には(略)毎回針を刺すと新たな傷ができて古い傷と繋がり、生長を続ける長いかさぶたとなった。これはジャンキーたちがよく言う「線路マーク」、つまり注射疵が繋がって醜い線路のような形になったものだ。
  ――第3部 ハイ・ヒトラー、患者Aと彼の主治医 1941年~1944年

 第三帝国の末期を描いた作品で描かれるヒトラーは、現実から目を背けて根拠のない楽観論にしがみつき、撤退を進言する軍人を裏切り者と決めつける狂人のように描かれる。あれは正確だったのだ。だってヒトラーはシャブとアヘンとコカインでハイになってたんだから。

 クスルクの敗北などの都合の悪い現実に向き合おうとせずに薬物に逃げるヒトラーと、彼の狂った命令に諾々と従う取り巻きたち。そんな第三帝国末期の首脳陣を見ると、権力って何だろうな、などと考え込みたくなる。

 電撃戦におけるダンケルクの停滞の原因を「ヒトラーは誰がボスかを陸軍に思い知らせたかった」とするなど、「電撃戦という幻」に準じていたりと、軍ヲタにも楽しめる部分が多い。とはいえ、やはり本書の圧巻は晩年のヒトラーの様子だろう。第三帝国に興味がある人にお薦め。

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2026年5月 3日 (日)

トビー・レスター「第四の大陸 人類と世界地図の二千年史」中央公論新社 小林力訳

本書をまとめているものはヴァルトゼー・ミュラーの地図そのものである。
  ――はじめに

ヴァルトゼーミュラーは、現代的な世界地図製作において原型となるものを作ったようだ。すなわち、世界の大陸と海岸の姿を、ほぼ我々が今日知るような形で提示した、最初の地図である。
  ――プロローグ 目覚め

地図が究極的に表現するものは、(略)人間の経験そのものに他ならない。それは世界における我々自身のための場所を思い描くという、決して終わることのない試みなのである。
  ――エピローグ 世界の姿

【どんな本?】

 2003年、米国議会図書館が一組の地図を一千万ドルで購入する。独立宣言のオリジナルより約200万ドル高価で、公の場で取引された歴史的文書としては当時の最高額だった。それはヴァルトゼー・ミュラーの地図(→Wikipedia)と呼ばれ、「アメリカ」という地名の由来となった地図である。

 「第四の大陸」とは、南北アメリカ大陸を示す。中世から目覚め始めた13世紀から大航海時代の曙である16世紀初頭にかけ、ヨーロッパ人の世界観は大きく変わる。それまで世界に三つの大陸で形作られていると思われていた。アジア・ヨーロッパ・アフリカである。だがモンゴル帝国の襲来や香辛料貿易により、彼らの世界観は広がってゆく。やがて人文主義の勃興やコンスタンティノープルの陥落に伴う人材の流入そしてコロンブスの航海により、彼らの世界観は揺らぎ始め…

 「アメリカ」という地名の由来を追いかけながら、当時の欧州人の世界観の変化が地図へと反映してゆく過程を、有名無名取り混ぜ多くの人物の交わりを通して描く、歴史ノンフィクションの力作。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Fourth Part of the World: The Race to the Ends of the Earth, and the Epic Story of the Map That Gave America Its Name, Toby Lester, 2009。日本語版は2015年8月7日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約468頁に加え年表5頁+訳者あとがき3頁。9ポイント46字×21行×468頁=約452,088字、400字詰め原稿用紙で約1,131枚。文庫ならたっぷり上下巻ぐらいの分量。

 文章は比較的にこなれている。内容も特に難しくない。歴史的な経過や背景は本書内で説明があるので、世界史に疎くても大丈夫だろう。それより、カナリア諸島など大西洋の島々やカリブ海・南米周辺の地名がよく出てくるので、手元に世界地図があると便利だ。

【構成は?】

 原則として時代を追って進むので、素直に頭から読もう。

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  •  主要登場人物
  • はじめに
  • プロローグ 目覚め
  • 第1部 旧世界
  • 第1章 マシューの地図
  • 第2章 神の天罰
  • 第3章 世界を記述する
  • 第4章 大洋の向こう
  • 第5章 見ることは信じること
  • 第2部 新世界
  • 第6章 再発見
  • 第7章 賢人プトレマイオス
  • 第8章 フィレンツェ人の世界観
  • 第9章 未踏の大地
  • 第10章 アフリカの大地へ
  • 第11章 学者たち
  • 第12章 嵐の岬
  • 第13章 コロンボ
  • 第14章 提督
  • 第15章 キリストを運ぶ者
  • 第16章 アメリゴ
  • 第3部 新旧世界の融合
  • 第17章 ギムナジウム(学舎)
  • 第18章 果てのない世界
  • 第19章 その後の世界
  • エピローグ 世界の姿
  • 補遺 スティーヴンスとブラウンの地図
  • 年表 本書で取り上げた主な出来事
  •  訳者あとがき

【感想は?】

 最初にお断りしておく。書名から思い浮かべるような、南北アメリカ大陸発見の物語ではない。いや後半でコロンブスやアメリゴ・ヴェスプッチは出てくるのだが、両名ともソコが米大陸だとは思っておらず、アジアの一部だと思っていたようだ。「アメリカ」と名付けられた経緯は終盤で明らかになるのだが、けっこう脱力物だったりする。

 では主題は何かというと、ヨーロッパ人の世界観の変転である。そういう点では「地図の世界史」とも共通するテーマだが、本書は13世紀から16世紀初頭に焦点を絞っている。

 最初に出てくる世界観は、TO図(→Wikipedia)である。円の上半分がアジア、下を更に左右に分け右がアフリカで左がヨーロッパ。現在の地図は北が上だが、TO図は東が上だ。これはキリスト教的な世界観を表している。

(13世紀初頭イギリスの修道士ブラザー・)マシュー(・パリス,→英語版Wikipedia)の描く地図は、(略)神が創造したままの世界を描いていた。
  ――第1章 マシューの地図

 当時の欧州人には、プレスター・ジョン(→Wikipedia)の存在が大きかったようだ。東方におわすキリスト教の王国を統べる偉大な伝説の王である。お陰で…

モンゴル軍がコーカサスに進出したとき、友好的に迎えられたことも不思議ではない。チンギス・ハーンとプレスター・ジョンは同一人物とみなされたのである。
  ――第2章 神の天罰

 これはエンリコ航海王子(→Wikipedia)やコロンブスの航海にも影響があり、その影響力の大きさに唖然としたり。

黄金とプレスター・ジョンを夢見ることこそ、ポルトガル人をしてアフリカ西海岸を南下させた原動力だった。そしって、奴隷貿易もまた原動力となった。
  ――第10章 アフリカの大地へ

 そこにマルコ・ポーロが登場する。彼の東方見聞録には、独特の特徴があった。

(東方)見聞録は、(略)新たに世界の全体像を示すことを目指したのである。
  ――第3章 世界を記述する

 文章ではあるが、まさしく地図を目指したのだ。

 が、現実に忠実な地図は、意外な所から出現する。海図だ。長距離の航海には、正確な地図が必要なのだ。

海図がもたらした(略)最大の変化は、船乗りたちが海図とコンパスを使い、星が見えるかどうか案ずることもなく、大きな自信を持って長距離の航海に出発できるようになったことだ。
  ――第4章 大洋の向こう

 まあ地上の地図なら、距離より旅程=移動にかかる時間に準じた方が使い勝手がいいしね。

 とまれ、やがて正確な位置を反映した地上の地図も欲しい、となる。そこで必要なのが緯度と経度だ。そのデータは、意外なところにあった。

(ロジャー・)ベーコンの時代、緯度と経度は地理学上の道具ではなく、天文学のツールだった。(略)つまり占星術の材料の一つとして必要な情報だった。
  ――第5章 見ることは信じること

 天動説の時代ではあったが、天体の運動は精密な観測がなされ、また周転円を用いた正確な予測もできたのだ。占星術のために。

 そして勃興する人文主義は、王侯貴族の野望と利害の一致をみる。

ローマ教会と欧州貴族が、大西洋の探検と帝国主義的拡張という新たなプログラムを発展させるに当たり、古代の地理学に基づいた知識を利用し始めたということだ。ペトラルカたちにとって都合の良いことに、この潮流はローマ時代の知識、力、地理的範囲を研究しようとする新たな人文主義的流れに合致するものだった。
  ――第6章 再発見

 ここで意外だったのは、人文主義者が目指したのはローマ時代の復興であって、ギリシャ時代ではない点。よって人文主義者たちが漁ったのはラテン語の文献であって、古代ギリシャ語ではない。つか彼らは古代ギリシャ語ができなかったのだ。

 よって、本書中で古の賢者扱いされているプトレマイオス(→Wikipedia)には、目が行かなかった…当初は。

 そのプトレマイオスの著作『ゲオグラフィア』(→Wikipedia)は、単に世界の姿を示しただけではない。科学的な位置の測り方・数学的に正確な計算方法そして地図への投影方法、すなわち正確な地図の作り方をも示したのだ。

彼は(略)世界を地図化する方法を読者に示すために『ゲオグラフィア』を書いたのである。
  ――第7章 賢人プトレマイオス

 そんな具合に無視されていたギリシャの遺産だが、意外なきっかけで転機が訪れる。オスマン帝国の包囲に危機を感じたコンスタンチノープルから、助けを求める使者が訪れ、西欧との交流が復活したのだ。招かれたマヌエル・クリュソロラス(→Wikipedia)は、東ローマ帝国が受け継いだギリシャの知的遺産を西欧にもたらす。

プトレマイオスの『ゲオグラフィア』がついにヨーロッパで復活したのだ。
  ――第8章 フィレンツェ人の世界観

 この勢いを後押ししたのが、教会大分裂(→Wikipedia)の解決を目指す1414年からのコンスタンツ宗教会議(→Wikipedia)というのが面白い。いや肝心の主題は全く進まないのだがw

 これには各国からお偉方が集まった。大勢の取り巻きを引き連れて。その中には多くの学者・知識人も混じっていた。彼らは一向に進まない会議に退屈し、近所の教会などで古の文献を漁り、また学者同志で語り合う。つまりは世界的な学会をアチコチで開催したのだ。

「コンスタンツ(宗教会議、→Wikipedia)では、異物を発掘したことこそ最も重要な成果だ」
  ――第9章 未踏の大地

 続く1430年からのフィレンツェ公会議(→Wikipedia)では、より多くのキリスト教徒が集う。

アルメニア人、カルデア人、コプト人、エチオピア人、グルジア人、ギリシャ人、マロン人、ネストリア人、ロシア人などがこぞってフィレンツェに集まった。
  ――第11章 学者たち

 そして、より多くの学者たちが交流を深めてゆく。

フィレンツェ公会議は、ある重油な分野――地理学上の学説――の統一に役立った。人文主義者たちの系統だった研究により、あらゆる階級のヨーロッパ人が新しい概念をまじめに考え始めた。世界全体は、知られている世界だけではなく、理解し探検する撚りがあるのではないか?
  ――第11章 学者たち

 学者たちが意見や研究成果を交換し合うのは、学問を発展させる契機になるのだ。シリコンバレーも、そういう事なんだろう。ここで復活したプトレマイオスの知恵やマルコ・ポーロの経験が、イベリア半島の王たちの野望を後押しする。

15世紀にポルトガル王に仕えたドイツ出身の地理学者マルティン・ベハイム(→Wikipedia)「ここに示したリンゴ[地球儀]には、全世界が園」長さと幅に比例して、幾何学の原理に従い示されている――すなわち、ある部分はプトレマイオスが述べたことに、そして残りはヴェネツィアの騎士、マルコ・ポーロが1250年[原文のまま]に書き留めあせたことに従っている」
  ――第12章 嵐の岬

 とまれ、新大陸は大西洋の西にある。船乗りたちにとって、大海原で東西の距離を測るのは難題だった。

東西の距離を測ることは、地理学者にとって常に課題であった。
  ――第13章 コロンボ

 これに対し、アメリゴ・ヴェスプッチは巧妙な解を見つける。

もし滅多にない天体の出来事――例えば、惑星あるいは月の合つまり重なり――が観測できれば、その時刻を正確に記録する。(略)それがヨーロッパで何時間早く起きることになっていたか調べるのだ。
  ――第16章 アメリゴ

 そして月と火星の合を観測し、その時刻によって現在地の緯度を計算するのだ。繰り返すが、天動説の当時でも天体の運行の観測と予測は正確だった。

 賢い。…だがしかし、ヴェスプッチの計算=82.5度は正解の60度と大きくズレていたんだが。ざんねん。

 話を戻す。コロンブスは西に向かい、陸地を見つける。もっとも、彼は先の理由で地球の大きさを過小評価していたし、見つけた陸地をアジアだと思い込んでいた。それでも、彼の発見は大ニュースだった。<

ヨーロッパのいくつかの都市では、さっそく印刷業者が(最初の航海から帰還した)コロンブスの手紙を出版し始めた。それらは今でいうベストセラーになったといってよい。(略)彼は西の大海でいくつかの縞を発見し、その大きな権利を主張していた。ただそれだけのことだった。
  ――第14章 提督

 当時の人々は、現在のパナマ地峡あたりに海峡がある、つまりより西へ行く航路があると思っていた。そしてコロンブスは海峡を探すのだが…

彼(コロンブス)は海峡を見つけられなかった。そしてスペインでは自分の名声が色褪せてしまった事実に直面する。
  ――第15章 キリストを運ぶ者

 今でこそコロンブスは有名人だが、晩年は冷淡に扱われた。というのも、当時の社会には大きな富をもたらさなかったからだ。変わってスターになったのが、南米大陸にたどりついたアメリゴ・ヴェスプッチ(→Wikipedia)。そう、地名「アメリカ」の所以となった人物である。彼による冒険公開の手紙は、これまた話題になる。

1506年までに23種類もの版が刷られ、(ヴェスプッチの)手紙はベストセラーになった。
  ――第16章 アメリゴ

 が、これが後世の研究者には頭痛の種になる。

しかしその話は、ほぼ間違いなく作りごとだった。
ここに歴史家が「ヴェスプッチ問題」と匙を投げる事態が持ち上がる。ヴェスプッチの名前で出版された手紙は、彼本人が書いていないのではないかという非常に厄介な問題である。
  ――第16章 アメリゴ

 当時の印刷所は、ウケを狙って山ほど駄法螺を盛り込んだのだ。人食い人種,乱交,豊かな食物など。まったく、マスコミってのは昔からw

 いや当時の学者たちも似たような苦労をしてるんだけど。

「多くの箇所で、最も熱心な読み手でさえ、どれが後世の者による文か、どこがプトレマイオス自身に帰する文か分からなかった」
  ――第17章 ギムナジウム(学舎)

 プトレマイオスの『ゲオグラフィア』を復刻しようにも、伝わっているのは写本である。写し間違いもあれば手抜きで一部を削ったり、勝手に書き換えたり。写本の厄介なところだね。

 とまれ、これらの困難を乗り越え、プトレマイオスの『ゲオグラフィア』を継ぎ、ヴェスプッチらの功績を加え、最新の世界地図を作ろうとする者たちが現れる。マティアス・リングマン とマルティン・ヴァルトゼーミュラー(→Wikipedia)である。

ヴァルトゼ―ミュラーは当時の地図製作者の常識を捨て、新しく発見された大地をアジアの一部とはしなかった。(略)彼はそれを海に囲まれたものとした。
  ――第18章 果てのない世界

 そして、やっと本書の冒頭へとつながる。

彼はこの新しい大陸に名前を与えた。アメリカである。
  ――第18章 果てのない世界

 ヴェスプッチにちなんだ名前だが、ヴェスプッチ本人は了解していない。出版人が勝手に名付けたのである。

 幸いにしてこの本は好評を博す。この当時の書籍流通の実態が楽しい。

16世紀初め、本を売るのに最も良い場所は、地域における書籍市だった。(略)最も重要なものはフランクフルトのブックフェアであり、これは今日まで続いている。
  ――第19章 その後の世界

 コミケかよw 当時の出版業の市場規模を思えば、コミケよりささやかだったのかも。この辺の事情は「印刷という革命」が詳しい。

 それはともかく、この本と地図は話題を呼び、次の時代へと繋がってゆくのである。

地図は当時既にポーランドにも入っていた。そしてドイツ語を話す人文主義者ニコラウス・コペルニクスが、今こそ宇宙の全く新しいモデルを提示すべきだと決断する後押しとなったのである。
  ――第19章 その後の世界

 「アメリカ」という地名に焦点を当て、そこにたどり着くまでの道筋を、宗教的なTO図からヴァルトゼーミュラーの地図まで、モンゴル帝国の拡大や教会分裂などの歴史の偶然と、それを契機に出会い交わった人々の姿を通して描いた、重量級の歴史絵巻。西欧中心の史観ではあるが、丁寧な調査が描き出す精密な歴史像は、科学史にも通じる面白さがある。科学史・技術史が好きな人にお薦め。

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