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2026年1月27日 (火)

若宮總「イランの地下世界」角川新書

地下世界――。そこには、イラン政府はもちろん、ときにイラン国民でさえも容易には認めたがらない、この国の真実が隠されている。
  ――はじめに

ベールで女性が何を隠さなければならないのかについて、コーランには具体的な記述がない
  ――第1章 ベールというカラクリ

圧倒的多数のイラン人に共通しているのは「イスラム共和国は“オワコン”」という認識だ。
  ――第4章 イラン人の目から見る革命、世界、そして日本

【どんな本?】

 ホメイニ→ハネメイと、イスラム聖職者による圧制が続くイラン。2025年末から2026年初頭にかけ、市民による大規模な抗議行動と、当局による暴力的な鎮圧がニュースになり、ついにイラン政府はインターネットまで遮断した。

 厳格なイスラム共和制の印象が強いイランだが、それはあくまでも政権の話。普通の人々は、どんな人々なのか。何を考え、どのように友人知人と付き合い、どんな暮らしをしているのか。どんな人がイスラム共和制を支えているのか。他の国を、どう見ているのか。付き合ってみると、どんな人たちなのか。

 10代からイランに魅せられ、長くイランと日本を行き来する暮らしを続けている著者が、市民目線で見たイラン社会とイラン人を語る、ちょっと変わったイランの解説書。

 ちなみに「若宮總」は筆名で、登場人物もすべて仮名である。イランの当局に正体がバレるとヤバいのだ。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2024年6月15日初版発行。新書版で縦一段組み本文約278頁に加え、高野秀行による解説が豪華12頁。9ポイント41字×16行×278頁=約182,368字、400字詰め原稿用紙で約456枚。文庫なら普通の厚さ。

 文章はこなれていて親しみやすい。内容も分かりやすい。イランの歴史に触れる所も多いが、特に20世紀以降の現代史については、かいつまんだ説明があるので、素人でも大丈夫。イランについてペルシャ絨毯とイスラム共和制ぐらいしか知らなくても、充分についていける。

【構成は?】

 「はじめに」だけは最初に読もう。以降は美味しそうな所だけをつまみ食いしてもいい。

  • はじめに
  • 第1章 ベールというカラクリ 貞節、政治化、「イスラム・ヤクザ」
  • 第2章 イスラム体制下で進む「イスラム疲れ」 キリスト教、神秘主義、古代礼賛
  • 第3章 終わりなきタブーとの闘い 薬物、酒、自由恋愛、美容整形
  • 第4章 イラン人の目から見る革命、世界、そして日本 王政復古、反米、反中、親日
  • 第5章 イラン人の頭の中 謙遜、メンツ、嫉妬心
  • 第6章 イランは「独裁の無限ループ」から抜け出せるか 小さな独裁者、コネ、歪んだ義理人情
  • おわりに
  • 解説 愛溢れる唯一無二のイラン観 高野秀行

【感想は?】

 俺的結論:イラン人の中身はイタリアン。

 すまん。トバしすぎた。本書の書名には「地下世界」とあるが、別にマフィアやスラムの話じゃない。いや少しだけイランでは違法なネタもあるけど。

 じゃ何かというと。我々が思い浮かべるイランは、厳格なイスラム法に縛られた社会だ。だが、そのベールを脱ぐと、どうなのか。普通のイラン人は、何を考えどんな風に暮らしているのか。現代のイランで長く暮らし、現地の友人知人も多い著者が語る、そういう本です。

 先にも書いたが、「若宮總」は筆名だし、登場人物もすべて仮名だ。その程度にはヤバいネタも含んでいる。繰り返すが、ヤバいのは政府当局の追求であって、反社や裏社会に追われるワケじゃない。

 イランでは2025年末から盛んに反政府デモが起きているので判るように、イラン市民の多くは現体制を嫌っている。だが、とりあえず今まではホメイニ/ハネメイが支配するイスラム共和制を維持してきた。では、いったい、誰が支えているのか。敬虔なイスラム教徒なのか。どうも、違うらしい。

 本書に出てくるのは、バシージ(→Wikipedia)およびハネメイの直属機関「イスラム宣伝局」に属する人だ。コネで電気はタダ、テレビじゃ禁制の衛星放送、画面のホメイニやハネメイには悪態。つまり、現体制で甘い汁を吸っている輩である。

数の上では決して多くないが、いかんせん生活がかかっているため、彼らは大した信仰心もないくせに、いついかなる場合も全力でイスラム体制を支えようとする。
  ――第1章 ベールというカラクリ

 革命防衛隊の連中は小金持ちの家に押しかけて家探しし、欧米のCDや製品を見つけちゃ脅して小遣いを稼いでる、そんな話をどっかで聞いたが、どうも本当らしい。

 そんな具合に、当局にコネがある輩はイスラムを口実にやりたい放題だが、普通の市民は経済制裁で苦しんでる。これで市民のイスラム離れにもつながっている、というから意外だ。

「イスラムを掲げているのに、ちっとも国がよくならない。これはきっとイスラムそのものに問題があるからだ」
  ――第2章 イスラム体制下で進む「イスラム疲れ」

 全員がそうではないにせよ、そんな風に考える人も出てきているのだ。

 2026年1月下旬のイランは当局の妨害により他国との通信が難しくなっているが、本書が出た当時はそうでもなかった。だから、多くの市民は開国のニュースにも触れている。

イラン人が洗脳されていないのは、彼らが国営放送をはじめとする国内の「御用メディア」を、まったくと言っていいほど見ていないからである。
では、何を見ているかといえば衛星放送である。
  ――第3章 終わりなきタブーとの闘い

 ちなみに衛星放送も違法で、パラポラアンテナも見つかれば御用…のはずだが、当局もそこまで手が回らないようだ。おまけに…

「俺たちイラン人は、賢くなったんだ。こいつ(スマートフォン)のおかげでな」
  ――第3章 終わりなきタブーとの闘い

 そう、インターネットである。これも当局は金盾みたいな形で規制してるんだが、市民側もVPNで出し抜いてる…つもりが。

VPN業者と当局は裏でつながっていて、「フィルタリング・ビジネス」でズブズブの関係にあるとも言われている。
  ――第3章 終わりなきタブーとの闘い

 つまり当局も腐敗しきってるんだね。

 で、欧米のメディアじゃ、イランは完全な悪役だ。それを市民もよく知っている。お陰で…

イラン人であることに自信が持てない。イラン人であることが恥ずかしい――。
この辛さ、この悔しさを想像してみてほしい。
  ――第2章 イスラム体制下で進む「イスラム疲れ」

 私も日本を持ち上げるニュースは大好きだ。逆に日本の悪口ばかりだと、悲しくなってしまう。

 そんなイラン人は、他の国をどう思っているか。これが実に面白い。まずお隣のアラブ人。

イラン人がアラブ人に対して抱いているイメージはズバリ「野蛮人」である。
  ――第2章 イスラム体制下で進む「イスラム疲れ」

 かつてペルシアは何度か偉大な帝国を築いた。その誇りは今も残っているのだ。まあ、湾岸の金満国家への妬みも、いくらかはあるんだろうけど。お次の欧米に対しては…

イラン人の多くが、われわれ日本人と同様に、米国、そしてヨーロッパの文化に対して、親しみと強い憧れを抱いている。
  ――第4章 イラン人の目から見る革命、世界、そして日本

 革命前は普通に洋服を着ていたし、インターネットも iPhone も米国製だしね。

 ただし欧米には多少複雑な感情も混じっている。

 そして現在のイランが親しく付き合っているのは、ロシアと中国。この両国に対しては…

イランにおける英国のイメージが「狡猾」だとすれば、武力の行使を躊躇しないロシアのそれは、まさに「野蛮」
  ――第4章 イラン人の目から見る革命、世界、そして日本

 いやアケメネス朝のペルシアもギリシアに攻め込んで(→Wikipedia)…って、紀元前の話をしてもしょうがないか。でも、紀元前から大帝国を築いてたんだから、威張りたくもなるよなあ。

 それはさておき、現在は中国とも親しい。そして、中国資本も続々とイランに進出してる。のだが…

多くの国民は中国人を、経済制裁下で生じた空隙を突いてイランを食い物にする、「招かれざる客」
  ――第4章 イラン人の目から見る革命、世界、そして日本

 と、中国もあまり良く思われていない。噂じゃ携帯電話の通信網の監視ツールも中国が提供しているとか。加えてイラン・中国25ヵ年包括的協力協定なんてのも結んでる。れにはキーシュ島(→Wikipedia)の租借や中国軍の駐留なども含むんだが…

イラン政府は、今なお協定の詳細を公表しておらず
  ――第4章 イラン人の目から見る革命、世界、そして日本

 これに関しちゃ、日本も米軍の核の持ち込みを黙認する、なんて協定があったんでブツブツ…。

 思いっきり意外だったのがイスラエル。イラン政府はハマスのパトロンだが…

2023年以降続くイスラエルによるガザ侵攻では、若者を中心に多くのイラン国民がイスラエルを熱狂的に支持している。
  ――第4章 イラン人の目から見る革命、世界、そして日本

 世界的に見てもイスラエルを支持する国民は珍しいんじゃなかろか。後は米国の福音派ぐらい? 日本でも、少なくともニュース・メディアじゃイスラエルは悪役だし。

 他にも好まれる土地や国はあって。

今日、イラン人にもっとも人気のある旅行先はイスタンブルである。
  ――第4章 イラン人の目から見る革命、世界、そして日本

 トルコもイスラムだけと緩いしね。旨いビールもあるみたいだし。

 意外なことに、わが日本は相当に評判がいい。この理由も、これまた意外なことに…

決定的だったのは、1980年代の終わりごろから日本にやって来たイラン人労働者
  ――第4章 イラン人の目から見る革命、世界、そして日本

 彼らが盛んに喧伝してくれたのだ。あまし良い待遇じゃなかった筈だが、それでも在日生活を楽しんでくれたようだ。そして若い世代は、ジブリや鬼滅などのアニメを楽しんでいる模様。ただし違法サイトで。

 いいのかイスラム的に…と思ったが、市民のイスラム感覚は相当に緩い。

テヘランのような大都市では、よほど敬虔なムスリムや、体質的にアルコールを受け付けない人を除けば、ほとんどの人が多かれ少なかれ酒をたしなむ。
  ――第3章 終わりなきタブーとの闘い

 著者もアチコチにお呼ばれしてソレナリに楽しんでいる様子。緩いのは酒に限らず、マリファナなどの薬物も、テヘランではかなり出回っているっぽい。アフガニスタンから流れてくるのか?

 緩いのは薬物に限らず、人間関係もだ。

男の子は通りすがりの女の子に、ごく自然な感じで声をかける。
  ――第3章 終わりなきタブーとの闘い

 こういう所がイタリアンなんだよなあ。きっと本来は明るくお洒落な人たちなんだろう。もちろん、ナンパばかりではなく…

家族や友人はもちろんのこと、八百屋の店先では店員と、タクシーの中では運転手と、行列では前後の人と、バスや電車では隣に居合わせた乗客と、喜怒哀楽を素直に表現しつつ、イラン人は常に誰かと会話をしている。
  ――第5章 イラン人の頭の中

 と、彼らはおしゃべりが大好きなのだ。この辺はアラブ系と似てる。そう言うと、きっと嫌な顔をするけど。もっとも、とっつきやすいけど、長続きするかというと、そうでもない。

「去年は友達、今年は知り合い」
  ――第5章 イラン人の頭の中

 なんて言葉もあるとか。けっこう、その場のノリで生きてる感じ。

 そして、これはインド人とも似ているな、と思うのが…

誰もがおめでたいくらいの自信家
  ――第5章 イラン人の頭の中

 こういう所は日本人と対照的だけど、米国あたりじゃ巧くやっていけるかも。そのせいか…

英語は、日本同様かそれ以上にイランでも需要がある。
  ――第5章 イラン人の頭の中

 政府はアレでも、市民は現金なもんです。

 さて、技術系の人には嬉しいことに…

エンジニアはペルシア語で「モハンデス」と呼ばれ、これはイランでは一種の尊称
  ――第5章 イラン人の頭の中

 なんだけど、自称エンジニアはゴロゴロいる。なにせ自信家だから、少し齧った程度で「Linux完全に理解した」状態になっちゃうのだ。そのため…

イランで腕のいいエンジニアにお目にかかることは、実に稀
  ――第5章 イラン人の頭の中

 駄目じゃん。

 そんな自信過剰も手伝って、イランじゃ独立起業が盛んだ。もっとも、これにはこんな側面も。

イランでは人に雇われると、まず例外なくこき使われる
  ――第6章 イランは「独裁の無限ループ」から抜け出せるか

 彼らは立場や権力を手にすると、最大限にソレを振り回すのだ。そりゃ汚職や腐敗が蔓延するよ。これは市民に限らず、政府の要人も同じ。

(2022年当時)ライシ現大統領をはじめ、イスラム共和国の大物政治家たちの多くが、最高指導者ハネメイと親戚関係にある
  ――第6章 イランは「独裁の無限ループ」から抜け出せるか

 と、徹底したコネ社会なのだ。こういう社会で生きていると、著者も…

イランのようなコネ社会では、(略)否応なしに袖の下やタアーロフ(お世辞)といった「邪道」に引きずり込まれてしまう
  ――第6章 イランは「独裁の無限ループ」から抜け出せるか

 と、ソレナリに立ち回らないと、やってけないんです。

 こんな社会じゃシンドそうだが、逆に利用する人も。

「VPNが機能しないことを口実に、仕事や勉強をサボる」
  ――第6章 イランは「独裁の無限ループ」から抜け出せるか

 わはは。私もこういうタイプだw

 など、今まで「イラン人」と一括りにしてきたが、実はイランも他民族国家だ。ベルシア系が多いが、テヘランにはトルコ系・クルド系・ロル系・アルメニア系など、様々な民族が混在しいている。

 これに2026年初頭の情勢を考えると、実に不吉な未来が見えてくる。というのも…

異民族に対する潜在的な不信感は、今もほぼすべてのイラン人の心のなかに眠っている
  ――第6章 イランは「独裁の無限ループ」から抜け出せるか

 なんてのが、心の底に眠っているからだ。ユーゴスラビアの二の舞にならなきゃいいが。

 「ホメイニ師の賓客」に、印象的な場面がある。テヘランから出国する飛行機で、離陸と同時にご婦人たちがスカーフを脱ぎ捨てるのだ。いささか戯画的で「作り話じゃないか?」と疑ってたんだが、本書を読むと本当っぽい。

 登場人物の多くは、イランで暮らす著者が直接に知り合った人だ。そのっため、平均的なイラン人というには、いささか偏りはある。都市に住むやや豊かな人、いわゆる中産階級が大半だと思う。それでも、彼らが狂信的なイスラム教徒ではないのは、充分に伝わってくる。お喋り好きで派手好きで楽しいことが大好きな人たちなのだ。イランはもちろん、異国の事情に興味がある人にお薦め。

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2026年1月22日 (木)

マシュー・ルベリー「読めない人が『読む』世界 読むことの多様性」原書房 片桐晶訳

この本では、型破りな方法で文字を読む人々の物語と、活字を理解する能力に影響を及ぼす多種多様な神経学的状態が、彼らの生活に及ぼしてきた影響を取り上げる。
  ――序章 厄介な読者

【どんな本?】

 私は本が好きだ。だが、世の中にはさまざまな事情で本が読めない、または読むのが難しい人がいる。幼い頃から文章が読みにくい難読症、逆に一瞬で写真を撮るように紙面を憶える過読病、事故や病気による脳の損傷で読めなくなる失読症、文字や単語に色がついて見える共感覚、あるはずのないコノや見えたり声が聞こえる幻覚、そして記憶を失う認知症。

 私たちの暮らしは文字・文章に囲まれている。それが読めないとなると、人はどう感じ、反応するのか。他の人から、どう扱われるのか。問題に対し、どう対処するのか。支援できることはあるのか。

 ロンドン大学の文学教授が、「読む」ことに問題を抱えた人々を紹介し、彼らの生き方や読書への取り組み方を語ることで、読み方は人により様々なのだと説くとともに、読むことが人生に与える重みも伝える、一般向けの医学ドキュメンタリー。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Reader's Block: A History of Reading Differences, Matthew Rubery, 2022。日本語版は2024年3月19日第1刷。単行本ハードカバー縦一段組み本文約328頁に加え訳者あとがき2頁。9ポイント45字×18行×328頁=約265,680字、400字詰め原稿用紙で約665枚。文庫なら少し厚め。

 文章はやや硬い。だが内容は難しくない。なにせ「読む」ことに関する本なので、本好きは興味を持ちやすいだろうし。当然、本の名前がアチコチに出てくる。最も多いのは英米の古典文学・主流文学で、次に多いのは問題を抱えた人の自叙伝。

 あと、説明抜きで「デコーディング」なる単語が出てくるのは不親切。後で説明がでてくるんだけど。曰く…

音韻化(デコーディング)、つまり、記号を意味ある情報に変換すること
  ――第5章 幻覚

 だ、そうです。文字の連なり CAT を見て、ニャアと鳴く動物を思い浮かべる作業または能力のことですね。

【構成は?】

 序章だけは最初に読もう。以降は気になった所だけを拾い読みしてもいい。

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  • 序章 厄介な読者
  • 第1章 難読病 ディスクレシア
  • 第2章 過読病 ハイパーレクシア
  • 第3章 失読症 アレクシア
  • 第4章 共感覚 シナスタジア
  • 第5章 幻覚
  • 第6章 認知症
  • 終章
  • 訳者あとがき/注

【感想は?】

 言われてみれば、私もいつから読めるようになったのか、憶えていない。気が付いたら、漫画をむさぼるように読んでいた。どうやら読むって能力はかなり複雑で。

「読む」という行為には生来の能力は一切関わっていない(略)。
発話能力とは異なり、脳には読字専用の回路が備わっているわけではない。むしろ読字は後天的なスキルであり、脳の可塑性、つまり、ほかの認知作業用にデザインされた回路を再利用する能力に大きく依存している。
  ――第1章 難読病 ディスクレシア

 そりゃ野生状態じゃ文字なんかないしね。この辺は音楽と似てる。ただ、本書は医学書じゃないので、認知機能の細かい所には立ち入らない。

 最初の難読症は、トム・クルーズが有名だろう。本人たちの様々な証言が出てくる。文字が揺れ動いたり b と d を混同したり。学校で教読まされるのが屈辱だった、などの切ない証言が続く。この難読症、歴史をさかのぼると、最初は目の問題と思われていた。しかし…

文字を正しく読めない子どもたちでも、文字を正確に書き写すことはできる。要するに、問題は言語的なものであり、視覚とは関係ない。(略)読字困難とは、実際には発話のプロセスにまつわるものなのだ。
  ――第1章 難読病 ディスクレシア

 おお、そうなのか。ちなみに、色付きのセロファンを紙面にかぶせると読める人もいるとか。また、デジタルスクリーンだと読めたり、サンセリフ書体は読めたり。モリサワもUD書体を出してるね。

 お次は自閉症に多いハイパーレクシア。と書くと分かってる風だが、自閉症はスペクトラムと呼ぶぐらい幅が広い概念/傾向で…

自閉症は(略)まったく同じ症状の人はふたりといない。
  ――第2章 過読病 ハイパーレクシア

 などと、症状の現れ方も幅が広い。本章には写真のような記憶力を持つ人も出てくるが、内容を理解しているか、

瞬間記憶能力は、通常の読字とは逆のプロセスをたどっている。つまり、記号化したあとに音韻化(デコーディング)するのだ。
  ――第2章 過読病 ハイパーレクシア

 なんて、憶えちゃいるが分かっちゃいない場合も。

 この章は、本好きには身につまされる話が多い。

 本には執着するが身だしなみには無頓着とか、「実用的価値がない対象に関心を向けている」とか「読んでいる内容よりも、何かを読んでいることを重要視する」とか「本を溜め込むので家に住めなくなった」とか「人間の行動は不安定で予測がつかないように見えるが、本は安定していて一貫している」なんて告白とか。いや本好きに限らず、ヲタク全般に言える事なんだけど。

 あなたにも心当たりがありませんか? 私はあります。つまり、自閉症的な傾向は、多くの人に当てはまるのだ、きっと。そうだ、俺だけじゃないのだ。そういう事にしておこう。

 続く失読症は、事故や病気で脳の一部が働かなくなり、いきなり「読めなく」なる失読症。

難読症が幼少期に読むことを学習するプロセスを妨げるのに対し、アレクシアは、すでに識字能力のある大人に影響を及ぼす。
  ――第3章 失読症 アレクシア

 これまた症状は様々かつ複雑で。

もっとも不可解な症例は、多言語に通じた患者がそれまで流ちょうに使えていた言語のひとつについてだけ、読み方を忘れてしまうというものだった。
  ――第3章 失読症 アレクシア

 例として出てくるのは、ラテン語を読めなくなった人。でも「8年の歳月をかけてラテン語を学び直」したというから凄い。また、文字は読めるが単語は読めないとか、読めないが書けるなどもある。

 どうも「読む」という機能は、幾つかのモジュールが順次に処理して実現しているらしい。unix のパイプのように。だから、壊れたモジュールによって、症状が異なるのだ。

 第4章は、近ごろ有名になった共感覚(→Wikipedia)。音で色を感じたり、文字に色がついたりするあまり利益も不便も感じないため目立たないが、実は意外と多いらしく…

成人人口の4%強と推計される
  ――第4章 共感覚 シナスタジア

 だいたい25人に一人ぐらいはいる勘定だ。その感覚も人それぞれで…

共感覚という用語は多様な感覚体験を包含しており、色聴のような比較的一般的なものから、色痛や色オーガズムのような珍しいものにいたるまで、現在64種類以上が存在する。
  ――第4章 共感覚 シナスタジア

 ちなみに日本語版Wikipediaでは「150種類以上」だとか。何せ文字に色を感じるタイプでも…

共感覚者にはそれぞれに独自の配色がある(しかも、誰もが自分の配色が「正しい」と主張する)
  ――第4章 共感覚 シナスタジア

 と、人によりけりだったり。大半の人は書体が変わっても感じ方は同じだが、「見た目の形の違いに反応する人もいる」。

 それでも「ほとんどの共感覚者はスムーズに」読めるし、中には…

ごく少数の人は、心のなかで、発せられたすべての言葉が活字になったものを見ている。
  ――第4章 共感覚 シナスタジア

 なんて便利な能力を備えた人も。

 共感覚者が感じる色は大きな害がないケースが多いが、幻覚となるとそうはいかない。中でも怖いのは…

悪夢のなかでもっとも恐ろしいのは、死体(略)が部屋に入ってきて、抱きしめてくることだった
  ――第5章 幻覚

 ゾンビって概念は、こういう幻覚から生まれたのかも。

 幻覚は統合失調症の症状の一つでもある。そうなる原因は…

たいていの脳は、入ってくる眺めや音をふるいにかけるが、機能不全の脳は、感覚データの洪水に対処しなければならないので、認知活動はほぼ不可能になってしまう。
  ――第5章 幻覚

 なんて説もある。そういや「妻を帽子とまちがえた男」に、数秒間しか記憶が持たないが、愉快な話し相手になる人が出てきた。この人は、設定を即興で創り上げ、それを信じている。ヒトの脳は、認識したものの辻褄を勝手に合わせる優れた能力があるようだ。もっとも、これは時として困った現象を引き起こす。

偏執的な読者は、もっともらしいことを無理やりこじつけて、隠された意味を見分けたりもする
  ――第5章 幻覚

 いわゆる陰謀論ですね。昔は「源義経=ジンギスカン説」とか「津軽にキリストの墓が」とか「古代の壁画に宇宙飛行士が」とか、壮大なのが多かったんだけどなあ。

 笑っちゃうのが…

キリスト教終末論の伝統に見られる比喩的な書物は、必ず実際の本の形をとっている
  ――第5章 幻覚

 少なくとも旧約聖書は、成立年代から考えて、オリジナルは巻物のはず。死海文書も巻物だし。

これは私の勝手な思い込みなんだが。
自閉症がスペクトラムと言われるほど程度も症状も様々なように、統合失調症も症状の重い軽いは様々なはず。そして大半の人は多かれ少なかれ統合失調症の傾向があり、また心身の具合で傾向が強くなったり弱くなったりするんだ、と思っている。現在はやってる陰謀論も、そういう傾向の強い状態の時に刷り込まれるとハマるんじゃないかな、と。

 最後の認知症は、誰にもあり得る事なので、なかなか身につまされる話が多い。次第に読めなくなるってのが怖い。あるがちな症状は…

「すでに読んだことがあると気づかないまま、なにか(本または新聞や雑誌の記事)を読みはじめてしまう」
  ――第6章 認知症

 読んだ内容を憶えられないのだ。これは…

記憶の喪失は認知症に特有のものであり、ほかの末期症状の物語との違いを際立たせる症状だ。
  ――第6章 認知症

 やはり認知症を患った人は大きなショックを受けるようで、抗う人もいる。例えば…

長編小説から短編小説へ切り替える
  ――第6章 認知症

 なんて工夫をする人も。

 羨ましいのは、認知症を患った人向けの本を出してる出版社があること。小説、それも古典の主流文学が中心なんだが、色々と工夫してる。例えばオリジナルから文体を変えるのはもちろん、余談などを省いて「約8000字から4000字に」削る。また「登場人物のリスト、大きな活字、挿し絵、要約などを活用して憶えやすく」してる。とにかく読者に親切にするのだ。

 そういえば池波正太郎の「剣客商売」も、とっつきやすい連作短編だなあ。しかも作中にさりげなく「今までのあらすじ」や登場人物紹介を入れてる。あれ、どこからでも読みはじめられる工夫かと思ったけど、読書に不慣れな読者への配慮なのかも。売れる人ってのは、相応に工夫しているのだ。

 逆にマズいのは…

「文章が非常に長いと、物語を理解するのはむずかしいいかもしれない」
  ――第6章 認知症

構文(とくに受動態、否定、節など認知的に要求の高い文体(略))
  ――第6章 認知症

 だそうです。

 ところで、挿し絵が好ましいなら、漫画はどうなんだろ? いや慣れないと読み方が分からないかな?

 著者は医師でも医学者でもなく文学教授なので、あまり認知科学や脳医学には踏み込まない。病気の原因やヒトが文章を読み理解する手順などの話は、ほとんどない。それより、患った人たちが、問題にどう立ち向かったか、問題を避ける手段を講じたか、そして問題を抱えてどう感じたか、などの話が多い。

 そういう点では、序章にあるように、オリヴァー・サックスの著作と似た感触を受ける。つまり、科学というより、ヒトを描いた本なのだ。なので、オリヴァー・サックスが好きな人にお薦め。

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2026年1月18日 (日)

西多昌規「眠っている間に体の中で何が起こっているのか」草思社

この本では、わたしの専門である脳をはじめ、心臓や肺、胃腸、骨や筋肉、免疫、内分泌、泌尿器、皮膚などが、睡眠中にどのような状態になっているのか、また睡眠不足によってどのようなダメージを受けるのかについて、過去の研究をひもときながらまとめています。
  ――はじめに

【どんな本?】

 眠りについて書かれた書物や記事は多い。その多くは脳や神経系を扱っている。だが、「寝不足はお肌に悪い」などと言われるように、睡眠は体の全体に影響する。では、なぜ寝不足が肌によくないのか。睡眠は肌にどんな役割を果たすのか。眠っている間に、肌には何が起きているのか。

 本書が扱うのは、肌ばかりではない。ホルモンで有名な内分泌系,感染症を防ぐ免疫系,胃腸などの消化器系,肺などの呼吸器系,心臓などの循環器系,骨と筋肉の筋骨格系,頻尿が困る泌尿器系,お肌=皮膚、そしてもちろん脳神経系など、機能で見た体のそれぞれの機構が、眠っている間に何をしているのか・どうなっているかを調べ、寝不足や睡眠の質の悪化が及ぼす影響を明らかにする、身近で切実で一般向けの科学・医学解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2024年2月7日第1刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約296頁。9.5ポイント43字×17行×296頁=約216,376字、400字詰め原稿用紙で約541枚。文庫なら普通の一冊分。

 文章はこなれていて親しみやすい。やっぱり日本語ネイティブが書いた本はいいね。内容も分かりやすいんだが、読み方にコツがある。というのも、専門用語がビシバシ出てくるからだ。脳下垂体やS状結腸など体の一部だったり、グレリンやレプチンなどの体内物質だったり。これらをキッチリ理解しようとはせず、言葉だけ覚えてテキトーに読み飛ばそう。それも最後まで覚えていなくてもいい。その章を読む間だけ、「そういうモノがある」と思っていれば充分。複数の章で出てくる言葉もあるけど、本書はその都度、説明してくれます。

【構成は?】

 「はじめに」と「第1章」は基礎や用語説明なので最初に読もう。以降の章はほぼ独立しているので、気になった所から読んでも構わない。

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  • はじめに
  • 第1章 睡眠・生体リズムの基礎
  • 1 睡眠段階 ノンレム睡眠とレム睡眠
  • 2 睡眠はどこから生まれるのか? 睡眠中枢の話
  • 3 覚醒を制御するオレキシン 覚醒と睡眠のコンロトーラー
  • 4 朝の光を視交叉上核がキャッチして、交感神経を刺激する
  • 5 眠りのホルモン? 謎の多いメラトニン
  • 6 深部体温でわかる生体リズム
  • 7 徹夜明けなのに眠りが浅いのはなぜか?
  • 8 睡眠中に活動が低くなる交感神経、活発になる副交感神経
  • コラム 睡眠中の寝返りは少ない方がいい?
  • 第2章 眠っている間に内分泌系では何が起こっているのか
  • 1 内分泌系にとって睡眠はなぜ重要なのか
  • 2 内分泌系の基礎 ホルモンとは何か
  • 3 ホルモンの24時間リズムは多種多様
  • 4 成長ホルモン 「寝る子は育つ」は正しい?
  • 5 コルチゾル 夜中に喘息発作が多いわけ
  • 6 甲状腺ホルモン 寝不足でギラギラしてくるわけ
  • 7 性ホルモン 不妊や月経前症候群は夜のホルモンが不安定になるため
  • 8 ブドウ糖代謝 睡眠中に血糖値は上がる?
  • 9 食欲と睡眠 睡眠不足だと太りやすくなる
  • 10 ミネラル調節 寝不足は脱水になり易い
  • 第3章 眠っている間に免疫系では何が起こっているのか
  • 1 なぜ風邪をひくと眠くなるのか
  • 2 免疫とは? 病原体から身を守る免疫、そして睡眠
  • 3 睡眠不足だと風邪をひきやすくなるのは本当?
  • 4 風邪や肺炎、膀胱炎、炎症反応って何? 急性炎症について
  • 5 細胞間のSNS? サイトカイン
  • 6 睡眠を生じさせるサイトカイン
  • 7 風邪をひくと眠くなるが、睡眠は悪化する
  • 8 睡眠不足によって機能低下するサイトカイン
  • 9 がんやうつ病も炎症から? 慢性炎症の怖さと睡眠不足
  • コラム 炎症と鎮痛剤、睡眠物質プロスタグランジン
  • 第4章 眠っている間に消化器系では何が起こっているのか
  • 1 寝る前に食べるとなぜ悪いのか
  • 2 睡眠中の胃腸の動きと自律神経 朝にお腹が減るのはなぜ?
  • 3 睡眠中は、胃に入った物が逆流しやすい
  • 4 睡眠不足での胃の危機的状況
  • 5 睡眠中も休まない働き者の小腸
  • 6 大腸、肛門と睡眠、眠っている間に便が出ない精巧なメカニズム
  • 7 睡眠中に胸焼けが起こる逆流性食道炎、睡眠時無呼吸症候群との意外な関係
  • 8 過敏性腸症候群と睡眠障害との悪いサイクル
  • 9 頑固な便秘「慢性便秘症」と睡眠 女性は寝すぎると便秘になりやすい
  • 第5章 眠っている間に呼吸器系では何が起こっているのか
  • 1 眠っている間の呼吸は不安定
  • 2 眠っている間の呼吸筋の力は低下する
  • 3 低酸素への反応も、睡眠中は鈍くなる
  • 4 息苦しいと目覚めてしまうわけ
  • 5 睡眠中はのどの空気の通り道がつぶれやすくなる
  • 6 睡眠中は、肺での換気効率も悪くなる
  • 7 睡眠時無呼吸症候群 頻度、症状、合併症
  • 8 無呼吸はどうして人体に悪いのか1 交感神経系の過剰活動
  • 9 無呼吸はどうして人体に悪いのか2 低酸素状態
  • 第6章 眠っている間に循環器系では何が起こっているのか
  • 1 日本人の1/3が高血圧
  • 2 慢性的な睡眠不足では、血圧は上昇する
  • 3 ノンレム睡眠中に血圧が下がるメカニズム
  • 4 レム睡眠中に血圧が不安定になるわけ
  • 5 睡眠中も血圧が下がらない危険なノン・ディッパーとは
  • 6 オレキシン 隠れた睡眠中の血圧ペースメーカー
  • 第7章 眠っている間に脳神経系では何が起こっているのか
  • 1 眠っている間の記憶の整理と忘却
  • 2 ノンレム睡眠中に素早く、かつゆっくり「振動」する脳
  • 3 ノンレム睡眠中に「洗浄」される脳
  • 4 レム睡眠中に血流が増加する脳
  • 5 レム睡眠で脳は大人でも成長する?
  • 6 睡眠中に活動を停止するドーパミンやセロトニン
  • 7 夢を見る脳
  • 8 睡眠不足で老化する脳
  • 第8章 眠っている間に筋骨格系では何が起こっているのか
  • 1 リカバリーとしての睡眠1 筋トレと睡眠
  • 2 睡眠中に強化される筋肉
  • 3 睡眠不足で壊れる筋肉
  • 4 リカバリーとしての睡眠2 骨折と睡眠
  • 5 睡眠で生まれ変わる骨
  • 6 睡眠不足で壊れる骨
  • 7 炎症は骨も筋肉も弱めてしまう
  • 8 骨を強化する意外な立役者 レプチンと自律神経
  • 第9章 眠っている間に泌尿器系では何が起こっているのか
  • 1 睡眠中にトイレの回数が減る理由
  • 2 子どもの夜尿症の原因は?
  • 3 歳をとると困る夜間頻尿の3つの原因
  • 4 睡眠不足で尿量が増える?
  • 5 睡眠時無呼吸症候群と夜間頻尿の深い関係
  • 6 妊娠中の夜間頻尿 がまんのし過ぎは、尿路感染症になりやすい
  • 第10章 眠っている間に皮膚では何が起こっているのか
  • 1 美肌には「ゴールデンタイム」だけで十分なのか
  • 2 皮膚の構造とターンオーバー
  • 3 成長ホルモンは皮膚のどこにはたらくのか
  • 4 たるみ、シワ、乾燥、シミ……睡眠不足による皮膚ダメージ
  • 5 寝不足の皮膚の血流低下と目の下の「クマ」
  • 6 皮膚の酸化ストレスと睡眠
  • 7 朝起きたら顔がむくむ、寝相が悪いとシワが増える
  • 8 寝不足による見た目の劣化で社会から孤立する
  • おわりに
  • 参考文献

【感想は?】

 本書のテーマは睡眠時の体の変化だ。が、医学に疎い私は、それ以前の、ヒトの体についての知識も有り難かった。もちろん、睡眠時の話も嬉しい。

 なんたって、しょっぱなから驚かされた。体の一日のリズムについてだ。

生体リズムは脳にしかない、というのは間違いです。胃腸や肝臓、心臓、腎臓、皮膚、筋肉など、あらゆる末梢の組織に生体リズム、つまり時計遺伝子がインストールされています。
  ――第1章 睡眠・生体リズムの基礎

 それぞれが独自にリズムを刻んでいるのだ。もっとも、ちゃんと同期をとる仕掛けもあって、脳の視交叉上核がマスター・クロックなんだけど。NTPサーバみたいなモンだね。

 続く内分泌系は、ホルモンを扱う。ったって、ホルモン焼きとは少し違う。本書のホルモンとは…

細胞から血中に分泌されて、ほかの臓器や細胞に作用するメッセンジャー役が、ホルモンです。
  ――第2章 眠っている間に内分泌系では何が起こっているのか

 一種の情報系だね。「落ち着け」と知らせるノルアドレナリンや、満腹を知らせるレプチンとか。ヒトの体は、神経に加えて化学物質でも情報の伝達・受信をしているのだ。恐らくだがホルモンの長所はブロードキャストな事だろう、P2PやDMではなく。

 さて、ここでは多くの人が経験している事を裏書きしてくれる。つまり、寝不足と食欲の関係だ。

お腹が減って空腹になると睡眠時間は減ります。また睡眠不足になると、食欲は増えます。
  ――第2章 眠っている間に内分泌系では何が起こっているのか

 そう、寝不足だと腹が減るのだ。当然、その結果としてブクブク太るのである。ダイエットには充分な睡眠も必要なのだ。

 寝不足はダイエットに悪影響ってだけじゃない。風邪にもかかりやすくなる。

夜間の平均睡眠時間が5時間以下の睡眠不足の人は、7時間眠った人と比べて、4.5倍多く風邪にかかり、風症状が出やすい
  ――第3章 眠っている間に免疫系では何が起こっているのか<

 うーむ、恐ろしい。コロナを防ぐには充分な睡眠も大事なのだ。ここでは、注釈にも美味しい話があった。

白血球は、好中球、リンパ球、単球(マクロファージ)、好酸球、好塩基球の5種類に分けられる。
  ――第3章 眠っている間に免疫系では何が起こっているのか

 「はたらく細胞」では好中球だけが白血球扱いだったが、本書ではマクロファージなども白血球の仲間になっている。たぶん好中球・好酸球・好塩基球は、それぞれ中世・酸性・アルカリ性で活躍するって意味なんだろう。

 私は朝起きた時には腹が減っている。だもんで朝食をガッツリ摂るタイプだ。眠っている間にも胃腸が働いてるんだろう、と思ったら、やっぱり。

脂肪をつくる「BMAL1」というタンパク質の活動が、午後10時から午前2時がピークになります。したがってこの深夜の時間帯に吸収された食べ物は、脂肪合成が促進され、脂肪として蓄積されやすい、すなわち太りやすくなります。
  ――第4章 眠っている間に消化器系では何が起こっているのか

 夜更かしすると夜食が欲しくなるのはこのためか←たぶん違う そして寝る前に食べると太るって話は本当だったのだ。ここでは、寝てる間に大便が漏れない理由も書いてあった。睡眠中は腸の蠕動が不活発になるのだ。

 お次は呼吸器系。ここでは睡眠時無呼吸症候群を大きく取り上げている。というのも、著者も睡眠時無呼吸症候群を患っているため。珍しいように思える病気だが…

日本における睡眠時無呼吸症候群の患者数は2200万人(30~69歳人口の32.7%)、CPAP治療を必要とする重症患者は940万人(30~69歳人口の14.0%)と推計されました。
  ――第5章 眠っている間に呼吸器系では何が起こっているのか

 と、日本では隠れた患者がとても多い。だって自分じゃわからないし。なんか Apple Watch が欲しくなってきたぞ。ちなみに本書では後の章でも睡眠時無呼吸症候群がチョコチョコ出てくる。よほど注意喚起したいんだなあ。

 第6章では循環器系、つまり心臓や血管の話。となれば、やはり出ました高血圧。

厚生労働省による令和元年(2019年)の国民健康・栄養調査を見ると、実に約3450万人もの人が、高血圧に当てはまります。
  ――第6章 眠っている間に循環器系では何が起こっているのか

 もはや国民病だね。ここでも、寝不足は血圧を上げると書いてある。血圧が気になるなら、夜は充分に寝ましょう。

 第7章は、睡眠の本命である脳の話。私も夢を見るけど、起きるとスグに忘れてしまう。忘れるだけで、実は…

人間の脳は、平均的な睡眠時間(約8時間)のうちに、約4.8時間にもわたる膨大な量の夢をつくり出している
  ――第7章 眠っている間に脳神経系では何が起こっているのか

 と、とんでもなくたくさんの夢を見ているらしい。夢はレム睡眠でと言われるけど、実はノンレム睡眠中も夢を見ているそうだ。

 次の第8章は、骨と筋肉。実は著者、早稲田大医学スポーツ科学学術院の教授で、これが本業。「Good to Go 最新科学が解き明かす、リカバリーの真実」にもあったように、アスリートにとっては睡眠も重要で…

トレーニング効果を上げるためには、筋肉が回復する2~3日間は、深いノンレム睡眠もレム睡眠も含む、十分な睡眠時間をとることが重要です。
  ――第8章 眠っている間に筋骨格系では何が起こっているのか

 だとか。これは筋肉だけでなく、骨も同じ。

人間の体の中では、古い骨をつねに壊して、その場で新しい骨をつくるということを繰り返しています。
  ――第8章 眠っている間に筋骨格系では何が起こっているのか

 寝不足だと、骨を壊す働きが盛んになり、つくる働きが鈍くなって、骨粗鬆症の危険が増します。年寄りはちゃんと寝ましょう。

 お次は泌尿器系。歳をとると夜中に膀胱がいっぱいになって深夜に起きることが多くなるけど、若い人にも苦労はある。

(夜尿症は)3歳では3人に1人、5才では5人に1人、小学校低学年で10人に1人、中学生で20人に1人
  ――第9章 眠っている間に泌尿器系では何が起こっているのか

 と、「おねしょ」の人も意外と多いのだ。中学生でも、クラスに1~2人はいる勘定だね。

 終盤では「寝不足はお肌に悪い」理由を切々と書いてある。その代表が目の下のクマ。曰く…

睡眠不足のときにできるクマは、目の周りのうっ血、つまり血行不良によって生じます。目の周りの皮膚は、体の皮膚の中でももっとも薄いので、ちょっとした変化でも目立つのです。
  ――第10章 眠っている間に皮膚では何が起こっているのか<

 これを更に深掘りすると…

睡眠不足では、交感神経系が活発になってしまい、細い血管が収縮してさらに細くなってしまうことが、血行不良の原因として考えられます。
  ――第10章 眠っている間に皮膚では何が起こっているのか

 だ、そうです。また、寝室の温度や湿度もお肌の具合に影響があるそうで、あまし乾いてるとお肌が脂ぎってくるとか。

 と、さんざん寝不足を警告してたけど、「じゃ何時間ぐらい寝ればいいのさ」となると、これが困ったことに…

「良い睡眠」とは、8時間以上たっぷりと長く眠る事でも、深いノンレム睡眠が多い睡眠でもありません。その人が「まあよく眠れた」と考えていて、日中に元気に活動できていれば、それが「良い睡眠」です。
  ――おわりに

 なんてある。つまり、人によりけりなのだ。

 専門用語が容赦なく出てくるけど、医師や医学者になるのでなければ、テキトーに流して読もう。一般向けの本なので、医学に疎くても大丈夫。小学校の理科で学んだ程度でも、充分についていける。素人向けに各臓器のしくみと働きから書いてあるし。全ての人に関係ある本だから万民にお薦めしたいが、ダイエット中や高血圧や美容に関心がある人には特にお薦め。

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2026年1月16日 (金)

日本翻訳大賞の季節がやってきた

 今年も日本翻訳大賞の読者推薦受付が始まった。

 受付期間は2026年1月15 日(木)~1月31日(土)24時まで。

 対象の本は、2024年12月1日~2025年12月31日までに、日本で発行された翻訳作品だ。ただし、以下の翻訳者が関わっている作品は不許可。選考委員だから、だとか。

  岸本佐知子/木原善彦/斎藤真理子/柴田元幸/西崎憲/松永美穂

 小説、それも主流文学が多い賞だけど、2021年の第七回には「マーダーボット・ダイアリー」が大賞に輝いてたりと、変わり者も歓迎している様子。

 本好きとして「何が大賞に輝くか」も興味があるけど、面白い本を探すアンテナとしても嬉しい企画だ。

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2026年1月13日 (火)

SFマガジン2026年2月号

こんとん。目、鼻、耳、口の七つの穴がなく、六本の脚と四枚の羽を持つという伝説上の生き物だ。
  ――

「正義は結局、抵抗する者の手にだけ委ねられるのだ。従う者に正義はない」
  ――吉上亮「ヴェルト」第二部第十章

 376頁の標準サイズ。

 特集は「架空生物特集」として小説が豪華7本に評論やエッセイなど。加えてジェイムズ・ティプトリー・ジュニア小特集。

 小説は12本+1本。特集で7本+1本、連載が4本、読み切りは冒頭のみが1本。

 架空生物特集。小説は7本。藍銅ツバメ「こんとん」,酉島伝法「ブリーダーズ」,溝淵久美子「リラクウォッカ」,草野原々「大山鳴獣ネズギガント」,柞刈湯葉「ライフ・アズ・ア・ウェポン」,坂永雄一「星の薪」,アン・レッキー「魂の湖」中村融訳。…って、あれ?このネタなら草上仁は? まあいい。今回、表紙と各小説の扉イラストはすべてぬまがさワタリが担当。

 ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア小特集は「タイムマシンをオモチャにしないでください、あるいは、わたしはF.B.I.のために≪アスタウンディング≫誌のバックナンバー15924冊をズタボロにした。」小野田和子訳。

 連載小説4本。冲方丁「マルドゥック・アノニマス」第63回,吉上亮「ヴェルト」第二部第十章,夢枕獏「小角の城」第85回,飛浩隆「空の園丁 廃園の天使Ⅲ」第31回の最終回。

 加えて第13回ハヤカワSFコンテスト特別賞受賞作「みずうみの満ちるまで」冒頭。

 架空生物特集。

 藍銅ツバメ「こんとん」。こんとんはプラスチックの飼育ケースにいる。小型龍の餌として一匹三百円で売られていたのを、一樹は思い付きで買ってしまった。飼育書もロクにない。小型龍の飼育書の餌の保管法に少し書いてある。曰く餌も食べず水も飲まなず、一か月ほどで死ぬ。水を入れた小皿を飼育ケースに入れたら、こんとんは小皿をひっくり返し水を浴びてしまった。

 こんとんはWIkipediaにもあった。作品中のこんとんはゴールデンハムスターほどの大きさで動きは鈍く微妙に不器用。なんかブサかわいいというか、そういう系統。間の抜けた癒し系で、某SNSで流行ってるたぬきに近いかも。私も昔に飼っていたおバカなジャンガリアンを思い出した。

 酉島伝法「ブリーダーズ」。室伏実はヘブタ脳炎から回復した。ダニが媒介するヘブタ・ウィルスが原因とされる。症状はディラン効果またはイヤーワーム(→Wikipedia)。頭の中で特定の曲が繰り返し鳴り響くのだ。久しぶりに元軽音サークルの仲間との会合に出た室伏だが、その日を境に消息を絶つ。

 気色悪い生き物を書かせたらSF界随一の酉島伝法だけあって、この作品もなかなかにおぞましい。イヤーワームの困った点は、別に好きでもない曲が耳にこびりつくこと。まあ、好きな曲がこびりついたら、それがキッカケで嫌いになりそうで、それはそれで嫌だなあ。お話は、やっぱり酉島ワールドでした。

 溝淵久美子「リラクウォッカ」。アパートで二十代の女性が自殺した。彼女はリラクオッカを飼っていた。笑顔のように見えるクォッカ(→Wikipedia)をペット用に改造した生物だ。リラクオッカは、ヒトがストレスを感じた時の体臭を心地よいと感じ、すり寄ってくる。一時期は流行したが、今は野生化して特定外債生物として害獣指定されている。

 現在はペット扱いされている犬や猫も元は野生だったし、ドミトリ・ベリャーエフのキツネの例もあり、近い将来に似たことを目論む企業が出るだろう、というか既にやってるかも。お話は…動物が好きな人にはかなりキツい話です。

 草野原々「大山鳴獣ネズギガント」。身の丈二メートルを超えるメタリック装甲のヤスデ、アースロプレウラ(→Wikipedia)が配信している。元は迷惑系配信者だったのがお縄になり、精神をオークションでセリに出された。買い手は某教団。改造サイバネ・ヤスデに精神転写され、宇宙の辺境の惑星に飛ばされて…

 これも草野原々らしく、バリトン・J・ベイリーばりの奇想が続々と飛び出す怪作。いや惑星の描写はロバート・L・フォワードの「ロシュワールド」にも匹敵する壮大でダイナミックな風景なんだが、なにせ草野原々だしw 精包が出てきた時点でなんか嫌な予感がしたんだが、なんちゅうオチだw

 柞刈湯葉「ライフ・アズ・ア・ウェポン」。2028年、イランのテヘラン。エリオール(仮名)はイスラエル諜報特務庁モサドのスパイだ。となれば、目的はイラン核兵器開発の阻止。特に大事なのはウランの濃縮技術、その核をなす遠心分離機カスケード…のはずが、なぜか追跡しているのは分子生物学者の研究者ダリヤ・フェルザンスフル・メフル。

 イランとイスラエルって組み合わせから、やたらと物騒な中身を思わせる。タイトルと分子生物学も、そっちの兵器を匂わせるのだが…。エリオール君のキャラが私たちの思い浮かべるモサドと大きく違うのが面白い。こういオチも、現在のイランならいかにもありそう。

 坂永雄一「星の薪」。薪取りが帰ってきた。星祭りが始まる。今年は特別だ。三年に一度の、龍天樹を昇天させる大星祭り。子供たちははしゃいでいる。先生も居残り課題を切り上げた。山頂にある鍋底地形の町。外は極寒。龍天樹は大きい。直径十メートル、高さ百メートルに及ぶ。龍山の麓に一本ずつ半キロメートルほど間隔をあけて植えられている。

 異星の町が舞台の作品。気密警察や炭素倹約体制などの言葉から、資源が涸れつつあることが伺える。終盤で展開するヴィジョンで、ラリイ・ニーヴンの某長編を思い浮かべた。舞台のスケールは小さいどころか息苦しいぐらいだが、作品のスケールは大きい。

 アン・レッキー「魂の湖」中村融訳。村のそばの湖は<魂の湖>ではない。幼生のスポーンは湖の昏い深みに惹かれ、湖畔で過ごす。あといちど脱皮すれば成体になる。母親たちは湖畔を離れろと叫ぶ。今までも幼生は脱皮が遅かった。魂があるのか、そう幼生を心配する母親もいる。

 「叛逆航路」シリーズの人。視点は二つ。両生類っぽい生態で村単位の社会で暮らすエイリアンと、人類が住める惑星を探しているっぽいチームの人類学者。エイリアンの生態は極めて異質ながら、知性があるのは充分に伝わってくる。が、人類側の都合は…。今までの歴史を考えると、確かに、ねえ。

 ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア小特集。「タイムマシンをオモチャにしないでください、あるいは、わたしはF.B.I.のために≪アスタウンディング≫誌のバックナンバー15924冊をズタボロにした。」小野田和子訳。銀河間不定期貨物船<オカリナⅢ>は原型時間に戻った。ヘリング船長は半重力房から出ようとレバーを引くが…

 トム・ゴドウィンの「冷たい方程式」を下敷きにしたドタバタ・ギャグ…と思わせて。タイトルからしてユーモラスな作品だと匂わせていて、実際その通りかつヒネリを利かせた作品。というか、今思えば、この人、独特のヒネリが効いた作品が多いんだよね。「たったひとつの冴えたやりかた 」は間違いなく傑作だけど、主な芸風を代表するのは「接続された女」だと思う。

 連載小説。

 冲方丁「マルドゥック・アノニマス」第63回。リバーサイド・ホテルの戦いは続く。テーマパーク<プレジャー・ドーム>は、ファミリー向けの娯楽施設だ。逃れて潜むキドニーたちを追う2人と4匹。リディア・マーヴェリックと黒豹のデビル,マヤ・ノーツと白蛇のデイジー,そして犬のシルフィードとナイトメア。罠と承知でリディアとマヤたちは戦場に飛び込む。

 今まで別の戦場で戦っていたハンター勢とオフィス&市警。それが戦いが進むにつれ、同じ戦場に合流することも。しかし考え方の違いから、何かと軋轢も起きる。中でもマヤとバロットのすれ違いが、悲しくもあり可笑しくもあり。そして、ついにエド・ゴーリーの正体と目的が。

 吉上亮「ヴェルト」第二部第十章。恐怖政治は続き、処刑人のサンソンは忙しい。陰謀の首魁として総裁フーシェを弾劾し、全会一致で可決され、フーシェはクラブ除籍となる。だがフーシェは行方をくらます。ロベスピエールは体調不良を理由に委員会にも国民公会にも欠席を続けている。

 第二部最終回。激動のフランス革命を、処刑人サンソンの視点でじっくり描いた第二部。最終回もサンソンは多忙な仕事に勤しむ。のだが、落ち着いて考えると、サンソンが見えない所でこそ人は死にまくってるんだよなあ。有能ながらも胡散臭さを漂わせていたナポレオン、やはりウラがあったか。第三部は書き下ろしだそうです。

 飛浩隆「空の園丁 廃園の天使Ⅲ」第31回の最終回。更なる崩壊を続ける<青野の区界>、園丁たちと遠野暁の戦い、変容する『クレマンの年代記』の謎、それと小野寺早都子の関係、天使の正体。幾つもの仕掛けが絡み合いながらも時としてバッサリと斬り落とす。嵐が去った後のような読了感の最終回だ。

 第13回ハヤカワSFコンテスト特別賞受賞作「みずうみの満ちるまで」冒頭。環境は悪化し、難民は増える一方。対して富裕層は仮想空間で永遠の命を得る。だが、全財産を寄付し敢えて死を選ぶ富者もいた。彼らを看取る施設がヘヴンズガーデン。その朝、従業員のエルムは、お気に入りのベンチで、見知らぬ娘と出会った。

 静かで穏やかな導入部。少し郊外にある大規模な霊園も、風景は穏やかで綺麗なんだよな、などと思いつつ。なにせ死を迎える施設だし。だが、話が進むにつれて、次第にこの世界の絶望的な状況と、施設の置かれた厳しい立場が見えてくる。現実の異世界でも難民のニュースは毎日のように入ってくるしなあ。こんな大きなテーマに挑んだ度胸だけでも凄い。台詞に「」がないのも、静謐な雰囲気を醸し出してる巧みな工夫。

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2026年1月 7日 (水)

2025年に面白かったノンフィクション3冊

最近は小説を読んでない…というか、そもそも本をあまり読まなくなってる。そんなんでベストを選ぶのも、なんか気が引けるけど、とりあえず。

スヴェン・カート「綿の帝国 グローバル資本主義はいかに生まれたか」紀伊國屋書店 鬼澤忍・佐藤絵里訳
 ジェニー紡績機から始まった産業革命は、単に技術と産業の拡大と進歩だけではない。植民地支配と相まって、私たちが生きる世界の秩序と姿そのものを大きく変えるものだった。綿に焦点を合わせることで、現代の世界がどのように形作られたかを物語る、衝撃的な歴史の物語。
 そして当然、世界が変わることで、私たちの人生観・世界観も大きく変わった。現代は多くの人にとって就職し通勤するのが当たり前だけど、人類史上では極めて珍しい状況なんです。また、グローバル経済というけれど、それは資本が安い労働力を求めて世界中を移動する、そういう意味でもあって…
ジェイソン・K・スターンズ「名前を言わない戦争 終わらないコンゴ紛争」白水社 武内進一監訳 大石晃史/阪本拓人/佐藤千鶴子訳
 2026年初頭、現在は米国のベネズエラ大統領拉致とロシアによるウクライナ侵攻が注目を集めている。しかし、長く紛争が続いているのにも関わらず、滅多に報じられない紛争がある。コンゴ東部で続く内戦だ。どう始まり、誰が戦い、なぜ続くのか。隣国のルワンダやウガンダが介入し、120以上の武装勢力が入り乱れるコンゴ東部の状況を伝える、重量級のルポルタージュ。
 利権化してしまった紛争を描く、衝撃的な本だ。自称反政府軍たちだけに限らず、軍も紛争を歓迎し、かつ長期化を望んでいるのだ。しかも、そうなるように政府が仕向けている。資源に恵まれたコンゴがなぜ発展できないのか、その理由が痛いほどわかる。ただ、訳文は酷いので、ちと薦めがたい。
エド・ヨン「動物には何が見え、聞こえ、感じられるのか 人間には感知できない驚異の環世界」柏書房 久保尚子訳
 コウモリが超音波で世界を把握しているのはよく知られている。犬は散歩の際にアチコチを嗅ぎまわり、ソコで起きたことを知る。昆虫は植物の表面波で語り合う。鳥の歌はメロディとリズムだけでなく、「音の時間微細構造」(俺註:たぶん音色)を細かく変化させている。動物たちは、ヒトに知らない方法で世界を認識し、盛んにメッセージを発しているのだ。
 今まで様々なSFを読み奇想天外なエイリアンに驚いてきた。だが、もっと身近な所に豊かな情報世界が広がっていたのだ。ただ、私が知らず感じることもできないってだけで。ヒトがいかに世界について知らないか、そして世界がいかに豊かで喧騒に満ちているかを教えてくれる。今そこにあるセンス・オブ・ワンダーに気づかせてくれる、とても刺激的な本だった。

 他にもソ連のドミトリ・ベリャーエフの画期的な実験の報告「キツネを飼いならす」やロシアの組織的なクラッキングとの戦いをルポした「サンドワーム」もショッキングだった。今年も面白い本に出合えますように。

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2026年1月 5日 (月)

古野まほろ「公安警察」祥伝社新書

<公安警察>とは何か。その組織・実務・歴史・成果・展望等はどのようなものか。そうしたことを、中の人ならではの事実を提示しつつ、読者の方々にご説明する書籍です。
  ――まえがき 公安警察と私

法律上、<公安>というのは組織でなく状態を表すのが一般的です。
  ――第1章 「公安」概論

【どんな本?】

 公安。謎と不気味さに包まれた組織。物語によく登場するが、その扱いは様々だ。冷酷非情な権力の犬だったり、密かに悪の組織と戦うスーパーヒーローだったり。身近な所では運転免許の更新を公安委員会が仕切っていた。

 その性質上、どうしても機密とされる部分は多いが、ある程度は公開の情報で職務内容や組織構成はわかる。そんな公開の情報に加え、警察官僚として警察内の様々な部署を務め今はミステリ作家として活躍する著者が、「世間がイメージする公安」と「現実の公安」の違いを、機密保持義務に触れない範囲で明かす、一般向けの解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2023年3月10日初版第1刷発行。新書版で縦一段組み本文約267頁。9.5ポイント40字×15行×267頁=約160,200字、400字詰め原稿用紙で約401枚。文庫なら薄めの一冊分。

 文章はこなれている所とややこしい所がある。というのも、アチコチで法律を引用しているため。地の文はこなれているんだが、法律の文章ってお堅い上に面倒くさいし。でも大丈夫。たいていはすぐ後に著者がかみ砕いて説明してるから。内容もそこそこ分かりやすいが、ある程度は警察組織の知識がある方がいい。警察庁と警視庁の違いとか、警部と警視のどっちが偉いか、など。警察小説を楽しめる人なら大丈夫だろう。って私は高村薫と.月村了衛しか知らないけど。

【構成は?】

 奇数章は法律や組織図など公的な資料を元にしたタテマエ的な説明、偶数章は編集との会話形式で下世話でくだけたお話、といった形式。

クリックで詳細表示
  • まえがき 公安警察と私
  • 第1章 「公安」概論
  • 「公安」とは何か?
  • 状態としての「公安」の大きな特徴
  • 組織としての「公安」 公安の維持に関与する組織
    • 1 国家公安委員会
    • 2 都道府県公安委員会
    • 3 公安調査庁(公調、PSIA、Public Security Intelligence Agency)
    • 4 公安審査委員会
    • 5 各級検察庁の公安部
  • 第2章 公安警察のリアリティライン
  • 公安警察の規模と予算
  • 公安警察の目的と性格
  • 公安警察官という生き方
  • 公安警察のオペレーション
  • 「いわゆる」協力者工作
  • 第3章 公安警察の組織
  • 基本的考え方
  • セクションとしての公安警察
  • 「警備警察」という概念
  • 警備警察=公安警察
  • 警察庁警備局の複雑さ
  • 警備運用部と「実施」
  • 「実施」と「警備警察」
  • どのセクションが<公安警察>かを知るには
  • 国の公安警察と都道府県の公安警察 前提
  • 都道府県の<公安警察> 警視庁
  • 都道府県の<公安警察> 大規模県
  • 都道府県の<公安警察> 小規模県
  • 警察署の<公安警察> 警察本部と警察署の分業
  • 警察本部における<公安警察> 専門分野としての切り分け
  • 第4章 とある公安警察官像のリアリティライン
  • 日本一有名な公安警察官
  • その職位・階級・信条 超エリートか?
  • 警察庁警察官と警視庁警察官の組み合わせ?
  • 「潜入捜査」「盗聴」「協力者運営」の実態
  • 「ゼロ」、その真実
  • 「ゼロ」の警察官 死して屍拾う者なし?
  • 生の人間、ふつうの人間として
  • 公安警察官と検察庁
  • 「作業」「違法作業」?
  • 公安警察官と「協力者」
  • 現実の警察官厭ってR・Fさんとは
  • 第5章 公安警察の機能と実務
  • 基本的考え方
  • 公安警察の事務と機能
  • 公安警察の機能総論 思想と行為
    • 1 「思想を取り締まらない」という縛り
    • 2 テロ等における「思想」と「行為」の悩ましい関係
    • 3 わが国公安警察のスタンス
  • 公安警察の機能 サブカテゴリ
  • 要はカルト対策
  • 公安警察と組織犯罪対策部門
  • 公安警察の機能 実務の在り方
    • 1 公安警察の3つの実務的機能
    • 2 警備情報の収集(警備犯罪に関する情報の収集)
    • 3 警備情報の整理(警備犯罪に関する情報の整理)
    • 4 警備犯罪の取締り
    • 5 <収集><分析><取締り>に関連する機能
  • 公安警察の予算
    • 1 我が国予算と警察予算のあらまし
    • 2 公安警察の予算のあらまし
    • 3 警察予算の特殊性
    • 4 予算規模の比較 公安警察機能と他の機能
  • 第6章 とある公安事件のリアリティライン
  • 公安事件の特色
  • 事件捜査の実際

【感想は?】

 公安に絞った本のように見える。が、実際には。公安を中心としながら組織・集団としての警察を紹介する本、みたいな感じだ。

 冒頭で「おどろおどろしい」ネタもなければ守秘義務にも触れないし古巣も裏切らない、そう宣言しているのは親切だ。つまり、そういう姿勢の本です。

 まず意外だったのが、公安の人の経歴。てっきり公安専門だと思っていたが、著者の経歴(→Wikipedia)でわかるように、様々な部署を渡り歩くようだ。もっとも、これはキャリア組の話で、ノンキャリアは違うかも。

 まずは名前に「公安」がつく組織、例えば国家公安委員会や公安調査庁などの説明がある。が、私たちが想像する「公安」っぽい組織は、公安調査庁ぐらい。むしろ、以下三つの方が近い。

  • A 内閣情報館の下の内閣情報調査室(ザクッと200人規模)
  • B 外務省国際情報統括官の下の国際情報統括官組織(ザクッと100人規模)
  • C 防衛省の情報本部(ザクッと2000人規模!!)

 この中で公安警察の最大の特徴は、ここだろう。

直接打撃の権限を委ねられた情報機関は、我が国には公安警察しかない
  ――第5章 公安警察の機能と実務

 他は調査・情報収集・分析が主みたいだし。

 同系統の本では「公安は誰をマークしているか」を読んでいる。アチラは公安部門じゃ華々しい警視庁(だって東京には外国の大使館が沢山あるし)を扱うのに対し、本書は県警が中心なのが大きな違い。その分、泥臭いというか世知辛いネタが多く、ワイドショウ的な面白さがある。

 その「公安は誰をマークしているか」とは、県警の公安警察官の立場について、多少食い違っている。向こうじゃ「警公安課が、事実上は警察庁公安課の指示にしたがっている」「刑事警察との『不仲は相当根深い』」とあるが、本書では…

公安警察は全体として国家警察ではありませんし、警察署では警察署長の、警察本部では警察本部長の指揮を当然に受けます。
  ――第2章 公安警察のリアリティライン

 とある。指示は警察庁からくるが、人事査定は警察署長や警察本部長がする、そんな感じだろうか。勤め人の辛いところだよね。

 公安も警察署の応援を頼むんだが、ここでも意外な傾向が。

存外、警察署の警備課員に動いてもらうことについては、警備部門以外の御出身の署長の方が御理解がある
  ――第6章 とある公安事件のリアリティライン

 なまじ内情を知ってる人だと、手の内を知られてるからやりにくいそうで。ありがちだね。

 他の部署との違いでは、事件の取り扱い方がある。

警察の犯罪捜査は、事件を「罪のジャンルごと」で切り分けて違うセクションに分担させる――というのを基本原則にしています。言い換えれば、対象・人(誰がやったか)には取り敢えず着目していません。
  ――第3章 公安警察の組織

 殺人は刑事が、スピード違反は交通課が担うのだ。

 ただし、例外がある。それが公安。

「テロリスト等が自らの団体のために罪を犯したとき」は、罪の種類のいかんにかかわらず、その捜査を警備部門(公安警察)に担当させる
  ――第3章 公安警察の組織

 つまり日頃から目を付けといて、しょっぴけそうなネタを掴んだら踏み込む、そういう事です。これは公安に加え…

この思考パターンと行動原理を採用しているセクションがあるからです。それは組織犯罪対策=暴力団対策のセクションです。
  ――第3章 公安警察の組織

 ヤクザと極右・極左・カルトは同じ扱いなのね。つまりは「ヤバい組織」って事。だったら同じ部署にしちゃえよ、と思うのだが、公安と組対は「文化が違う」そうで。「組対とヤクザは見た目じゃ区別がつかない」って噂があるけど、どうなんだろ? この組対、第5章じゃ警察庁・警視庁と並び福岡県警が、他の道府県警と違う扱いで、「さすが修羅の国」と感心したり。

 公安は右派・左派ともに注視してる。やはり双方の性質は違うらしく…

右翼事件についていえば数もさることながらその捜査は――相対的に――困難性が低い
  ――第5章 公安警察の機能と実務

 ってんで、右派担当の人は経験豊富だとか。左派はインテリで右派は粗暴って印象だったけど、これは当たってるのかも。

 構成で書いたように、奇数章は砲や制度の話、偶数章は下世話なネタって形。「第4章 とある公安警察官像のリアリティライン」では、「日本一有名な公安警察官」を取り上げて…って、誰かと思ったら。はい、「見た目は子供」なアレです。高校生が子供になっちゃう話でリアリティを云々しても…と思ったが、意外と切実な話も。

警察は一般社会の学歴にはまるでこだわりませんが、警察部内の各級の学校における学歴・成績には異様にこだわります
  ――第4章 とある公安警察官像のリアリティライン

 こういう、警察って組織の体質に関する話が、実はこの本の最も美味しい所。にしても「だって古野さんの小説に書いてありました!」には笑った。

 やはり学歴では、こんなネタも。

警部補以上になると、最短昇任年齢が大卒でも高卒でもかわらなくなるので、つまり警部補試験の時点で、(略)学歴による区別がなくなる。
  ――第4章 とある公安警察官像のリアリティライン

 良くも悪くも「ウチはホカと違うから」な体質なんだなあ。

 そんな警察の中でも、やはり警視庁は独特で。

「警視庁は同じポストでも、一階級上」
  ――第4章 とある公安警察官像のリアリティライン

 ミステリ作品でも、県警より警視庁の方がグッと出番が多いしねえ。「いやミステリに限らず創作物じゃ東京が舞台の作品ばっかじゃん」なんてツッコミは勘弁。というか、各都道府県警組織は、それぞれ独特の文化・体質がある、ってのも意外だった。案外と江戸時代の藩の文化を引き継いでるのかも。

 さて、事件化となると、検察/検事とも協力が必要になる。ここでも意外だったのが、事前の根回しが大事だって点。

公安警察が事件をやりたいと、そして当然起訴に持ち込みたいと考えるときは、令状請求等の前段階で、幅広に、検事さんに事件相談をするのが普通。
  ――第4章 とある公安警察官像のリアリティライン

 本書では「公安警察が」となってるけど、令状が必要なのは刑事事件も同じなんで、刑事警察もそうなんだろう。まあ民間企業でもスムーズに仕事を回したきゃ後工程とのすり合わせが欠かせないし、そういう事なのかな。

 その「イザ討ち入り」では、こんなネタも。

某新聞社さんが討ち入りの情報を察知したらしい(略)と判断できましたので、前日深夜の時点で朝4時集合に(略)急遽変更しました。その際、ただのひとりとして朝4時に遅れた警察官がいなかった
  ――第6章 とある公安事件のリアリティライン

 たぶん携帯電話やスマートフォンが普及した後の話なんだろうけど、警察官も大変なんだなあ。

 終盤ではお金つまり予算の話も出てくる。ここでは国のカネと自治体のカネの関係とか、なかなか生臭い「予算の読み方」のレクチャーかあるのが嬉しい。いやほとんど理解できなかったけど←をい

 やはり意外なのが、交通部門の出費が飛びぬけて多い事。でも、これにはちゃんとワケがあるのだ。

交通部門がこの約173憶円云々のうち、実に約171憶6720万円を都道府県警への補助金として出しています。
その実態は交通管制センター、信号機、車両感知器、交通情報板、道路標識、道路標示といった「交通安全施設」の整備に関する補助金です。
  ――第5章 公安警察の機能と実務

 そう、信号機や道路標識は警察の予算だったのだ。てっきり国交省かと思ってた。

 などの警察豆絵知識に加え「一家」「法務ファミリー」「外事と書いてソトゴトと読む」とか、監視対象を「お客様」と呼ぶなどのギョーカイ用語がアチコチに散らばってるのも嬉しい。公安云々より、そういった警察の雑学が楽しい本だった。警察に野次馬的な興味がある人にお薦め。

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