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2025年9月29日 (月)

ジョセフ・メイザー「数学記号の誕生」河出書房新社 松浦俊輔訳

本書は今の数学で確立している記号の起源と進化をたどるもので、数を数えるところから始まって、現代数学の主要な演算子までたどる。
  ――序論

【どんな本?】

 現代の数学は、様々な記号を使う。0~9の数字。+-×÷の演算子。等しいを示す=。優先順序を変えるカッコ()。定数を示すabc,変数を示すxyz。右肩の小さい数字(例::x2)はべき乗。

 これらの記号は、いつ、どこで、誰が、何のために編み出し、どのように流布したのか。そして、それを使うことで、どんな得があったのか。記号の普及と数学の発展には、何か関係があるのか。

 数学科の名誉教授が、数学記号と数学の発展の歴史を語る、一般向けの解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Enlightening Symbols: A Short History of Mathematical Notation and Its Hidden Powers, Joseph Mazur, 2014。日本語版は2014年9月30日初版発行。単行本ハードカバー横一段組み本文約286頁に加え訳者あとがき2頁。9.5ポイント30字×29行×286頁=約248,820字、400字詰め原稿用紙で約623枚。文庫なら少し厚め。

 文章はややぎこちない。また訳文に少しクセがある。ユークリッドがエウクレイデスとか。

 数学の本だから、数式も容赦なく出てくる。が、解く必要はない。この式は連立方程式か連分数か二次・三次方程式か微分方程式か、などの種類が分かれば充分だ。数式にアレルギーがなければ、中学卒業程度でも楽しめるだろう。

【構成は?】

 ほぼ歴史をたどって進むので、素直に頭から読もう。終盤に行くに従ってより高度な概念が出てくる。

クリックで詳細表示
  • 序論/定義/図版に関する註
  • 第1部 数字
  • 第1章 奇妙な始まり
  • 第2章 古代の数の体系
  • 第3章 絹の道と王の道
  • 第4章 インドからの贈物
  • 第5章 ヨーロッパへの到来
  • 第6章 アラビアからの贈物
  • 第7章 「リベル・アバチ」
  • 第8章 起源への反論
  • 第2部 代数
  • 第9章 記号なし
  • 第10章 ディオファントスの「算術」
  • 第11章 偉大なる技
  • 第12章 幼い記号
  • 第13章 おずおずとした記号
  • 第14章 威厳の階層
  • 第15章 母音時と子音字
  • 第16章 爆発
  • 第17章 記号のカタログ
  • 第18章 記号の達人
  • 第19章 最後の魔術師
  • 第3部 記号の力
  • 第20章 頭の中でのランデブー
  • 第21章 良い記号
  • 第22章 見えないゴリラ
  • 第23章 頭の中の像
  • 第24章 結論
  • 付録A ライプニッツの表記法
  • 付録B ニュートンによるxnの流率
  • 付録C 実験
  • 付録D 複素数の視覚化
  • 付録E 四元数
  • 謝辞/訳者あとがき/原註

【感想は?】

 数式はややこしい。でも、数式がないと、もっとややこしい。

 エウクレイデス(ユークリッド)の「原論」(→Wikipedia)には、こんな文章が出てくる。

直線を任意に切れば、全体の上にできる正方形は、各線分の上にできる正方形と、線分で囲まれる長方形の二倍に等しい。

 これを数式で表すと、こうなる。

(a+b)=a+b+2ab

 数危機は簡潔で要領を得ている。と同時に、少ない文字数に多くの意味や情報を詰め込んでいる。だから、数式は難しくて当たり前なのだ。

 また、数式は移項や約分などの操作もできる。とても便利だ。これにより、幾つかの式が実は同じ解法で解けることが分かったりする。また、「aの右肩のは分数や負数もあり?」なんて発想はひらめいたりする。こういった性質が、数学の発展にもつながった。

 そんな感じの主題を、歴史上の多くの例を挙げて語るのが本書だ。

 全体は3部で、第1部では数の表し方をじっくり辿ってゆく。第2部では加減乗除や等号などの代数記号の発明と普及の物語だ。第3部はだいぶ毛色が違い、私たちの脳が数式をどう扱うか、数式が私たちの考え方にどんな影響を与えるか、を探ってゆく。

 さて、第1部は数字だ。私たち日本人がアラビア数字と呼ぶ、0~9の数字である。どうやら数字は文字と同時に誕生したらしく、最古の文献は「会計、名前、レシピ、旅日記だ」。

書く必要が生じたのは、記憶を記録する必要によるのであり、物語でないのは意外なことではない。
  ――第1章 奇妙な始まり

 数字は国や地域により色とりどりだが、共通している点もある。

ほとんどの古代文化にとって、最初の三つの数を表す記号は縦か横かの線で…
  ――第3章 絹の道と王の道

 漢数字でも最初は一,二、三だしね。

 一桁ならいいが、二桁以上になると、面倒くさい事になる。ローマ数字は5がⅴで10がⅩ、と多くの文字を憶えなきゃいけない。漢数字だと十,百,千,万,十万…となる。いずれにせよ、位取りと零はなかった…ワケじゃない。

(古代バビロニアのニブル石板では)「空白」が記号として用いられているのだ。
  ――第2章 古代の数の体系

 「その桁がない/ゼロである」と示すために、空白を置いたのだ。もっとも、この方法にも欠点はある。複数の桁がゼロだと、幾つの桁なのかハッキリしない。確かに。

 まあ、文字で数を著すのはインテリだけで、庶民が集う市場じゃ別の方法を使ってたんだが。

文字が市場では不便だった昔には、指で数えるのがあたりまえだった。
  ――第4章 インドからの贈物

 私たち日本人は指を折って数えるんで、片手で数えられるのは5までだ。でもプログラマは31まで数えられる←をい 体の部位で示す方法もあって、インド人は親指で他の指の関節を示す形で片手で16まで数えられる、なんて噂も。

 そのアラビア数字を欧州に紹介したのは12~13世紀イタリアのフィボナッチ(→Wikipediaって話が流布してるが…

フィボナッチの本は、ヨーロッパ社会のある部分にはアラビア数字をもたらしたらしいが、イタリアを旅行したりそこで商売をしていた人々は、すでにこの数字を知っていた可能性も高い。
  ――第5章 ヨーロッパへの到来

 と、もっと前からイタリアの商人たちは知っていたらしい。

 そのイタリア商人たちにアラビア数字を伝えたのは、アラビアの商人たち。彼らはインドから「インド数字」を仕入れた。それをアラブ世界に紹介したのは、9世紀前半のバグダッドのアル=フワーリズミー(→Wikipediaの著作「インドの数の計算法」だ。

インド式の数の表し方がアラブ世界全体、さらにはヨーロッパに広まったのは、主としてこの本による。
  ――第6章 アラビアからの贈物

 と、本書はそういう説を紹介しているが…

ヒンドゥー=アラビア数字の起源は、2世紀近くにわたって専門家によって論じられてきた。
  ――第7章 「リベル・アバチ」

 と、この説に落ち着くまでは、様々な紆余曲折があったようだ。フランス語で書かれた「古代の文献」が登場したりw どの国でも、身びいきが過ぎる人ってのは、いるもんなんだね。

 このアラビア数字、何が嬉しいかというと、簡潔に書けるのはもちろんだが、加えて筆算がしやすいのがいい。嘘だと思ったらローマ数字や漢数字で掛け算や割り算を筆算してみよう。

当時は苦労してローマ数字で数を表し計算をしていたヨーロッパ人は、(アラビア数字という)贈物をもらったようなものだ。
  ――第8章 起源への反論

 もっとも、紙の値段が高かった時代は、算盤を使ってたんだけど。本書には西洋の算盤の写真もあって、なかなか興味深い。

 第2部からは、記号と共に数や数学の概念が拡がってゆく歴史を描く。まずは、かつての世界第2位のベストセラー「原論」の著者から。ちなみにトップは聖書。原論がNo.2なのは、欧州じゃ長く数学の教科書として使われたから。

エウクレイデス(=ユークリッド)の著作(「原論」)には、べき乗やプラス、マイナスを著す代数記号はまったく見あたらない。
  ――第9章 記号なし

 前の引用で示したように、すべて文章で表したのだ。しかも、多くは幾何と関連付けて。

 何を「数」に含めるかは、時代と共に少しづつ広くなってゆく。例えば…

分数や有理数ならかまわないが、16世紀になるまでは、負の数は――負債としてなら文句なく認められたが――ヨーロッパでは本当の数とは認められなかっただろう。
  ――第10章 ディオファントスの「算術」

 数学者はそうだろうけど、商人はどうなんだろ? 要は借金や買掛金なんだけど。あと、負数に負数を掛けたら正の数になる、って理屈も、当時の数学者は苦労した模様。これも「借金してる相手が減った」と考えれば、納得いくよね。

 それはともかく、やはり昔のインドは数学の先進国だったようだ。

(7世紀インドの)ブラーマグプタ(→Wikipedia)は、2次方程式には二つの根が出ることがあり、その方程式が出てくる具体的場面での条件から、一方は排除されることを知っていた。
  ――第11章 偉大なる技

 もっとも、一般的な解き方=二次方程式の解の公式を知っていたワケじゃないようで、個々の例ごとに具体的な解法を文章で書き綴っている。

 が、やはり一般的な解き方=解の公式を求める動きはあった。そして二次方程式の解の公式には、自乗や自乗根=ルートが出てくる。今は標準的な記号や書き方が決まっているが、当時はなかった。

代数の考え方が記号をもたらしたのであって、逆ではない。
  ――第12章 幼い記号

 という事で、第2部では、当時の人たちが考えた様々な記号や記法が出てくる。今の私たちからすればわかりにくいが、それでも当時の人たちにとっては大きな変化だったろう。

 そして、記号の導入は、数学者たちの考え方にも大きな変化をもたらしてゆく。

古い幾何学的な捉え方から代数的表現を解放したのだ。
  ――第13章 おずおずとした記号

((16世紀イタリアのラファエル・)ボンベッリ(→Wikipedia)による)巧妙で本物の記号は、代数を幾何から独立させた。
  ――第14章 威厳の階層

 私が方程式を解く際は、単純に数学のルールに従って式を変形してゆく。「ソレはどんな図形を表すか」は考えない。でも、当時の人たちにとっては、数学と幾何=図形や立体は、分かちがたく結びついていた。二次方程式は図形を、三次方程式は立体を表したのだ。

 更に定数や変数などの概念も。

(16世紀フランスのフランソワ・)ヴィエト(→Wikipedia)の驚異の母音時・子音字表記は、集合としての一般的な、何でも、すべてについて考える方法をもたらす。
  ――第15章 母音時と子音字

 一部のIT技術者には「デカルト座標系」で有名なデカルト。そのデカルト座標系は、幾何学と代数学の関係を更に見直すことになる。

(17世紀前半フランスのルネ・)デカルト(→Wikipedia)は概念化のモードを切り替え、幾何学の問題を代数学的な座標へと移し替える方法を教えてくれた。
  ――第16章 爆発

 と書くと順風満帆なようだが、文句を言う人たちもいた。他でもない、植字工だ。今だってワープロソフトやDTPソフトで数式を扱うのは難しい。HTMLじゃ無理だ。私は累乗を<sup>で誤魔化してるが、分数や平方(ルート)は扱えない。だから本記事でも、その辺が出てこないように書いてる。いやライブラリを使えばイケるらしけど。活字を拾って組んでいた当時の植字工の苦労は、察するに余りある。

デカルトさえ『幾何学』ではときどき、鉄十字✠を使っていたが、これは印刷所で足りなくなった活字を、新しく作らずにすませて、見つかる中でいちばん近い記号でまにあわせたためにそうなったのかもしれない。
  ――第17章 記号のカタログ

組版業者をなだめ、紙面がもっと魅力的に見えるように、(17世紀ドイツのゴットフリート・)ライプニッツ(→Wikipedia)は項をどこまで考えるかを示すためにかっこを用いるというアイデアを導入した。
  ――第18章 記号の達人

 写本の時代にはなかった問題だね。まあワープロが出始めた頃は、外字で似たような問題があったし、今だって住基ネットじゃ姓名でゴタゴタがブツブツ。

 最後の第3部では、これらの記号が数学や数学者に与えた影響や、私たちが数式を見た際に脳がどう反応するかを考察してゆく。

 現代の代数は、幾何から離れ、ルールに従った記号操作になった。変数をxやyで、定数をaやbで表す。なら、xやaは複素数でもいいんじゃね?なんて発想も出てくる。本書には出てこないが、フラクタル理論じゃ整数じゃない次元なんてのもある。xnのnは整数じゃなくてもいいよね、そういう拡張だ。

数学ですばらしいことの一つは、それが進むと――よくできた記号によって――視野が広がることだ。
  ――第20章 頭の中でのランデブー

 とまれ、困った副作用もある。いわゆる「机上の空論」の陥りかねないのだ。

記号による代理には、代理される対象がすぐに見えなくなり、対象がまったく対応しないことも多い記号について演算が続くという不利益もある。
  ――第21章 良い記号

 電気の世界じゃ複素数が必須らしいけど、虚数部の意味はわかっていない、なんて話を聞いたが、そういう事だろうか? いずれにせよ、複雑な式は、多くの人にとってピンとこない。何を表しているのか、その対象が既に頭の中にあるならいいんだが、そうでない時は酷く苦労する。

根源はイメージで、書かれた言葉や数学の記号は考えられたものだ。
  ――第22章 見えないゴリラ

 それでも、やはり数学記号や数式の力は大きい。

数学の美しさ――すっきりした照明、簡潔な提示、巧みさ、複雑なものの単純化、わかりやすい接続――は、大部分、巧妙で整った記号の、わかりやすくする能力によっているのだ。
  ――第24章 結論

 数学が得意な人は、オイラーの等式eiπ+1=0が美しいと言う。私にはわからないけど。でもK&Rこと「プログラミング言語c」を初めて読んだとき、ungetc() の見事さ舌を巻いた。そういう感じなのかな、と思う。

 数学の本でもあるので、相応の歯ごたえはある。とはいえ、別に式を解く必要はないので、その辺は気楽に挑んでもいい。数学記号で数学者の思考がどれぐらい変わったか、という本でもある。だから、言語と思考の関係を、「言語は思考に強い影響を与える」と考える人には、とっても心地よい本でもある。歴史と数学の雑学に興味がある人にお薦め。

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2025年9月26日 (金)

アダム・オルター「僕らはそれに抵抗できない 『依存症ビジネス』のつくられかた」ダイヤモンド社 上原裕美子訳

本書は、こうした行動の依存性、すなわち「行動嗜癖」の発生と広がりを考察していく。
  ――プロローグ 自分の商品でハイになるな ジョブスと“売人”に共通する教え

【どんな本?】

 iPhone とインターネットの普及で、私たちの暮らしは大きく変わった。便利になった反面、困った副作用も増えた。頻繁にメールやLINEやインスタグラムをチェックせずにはいられない/NETFLIXのドラマで寝不足になる/TikTokの動画を飽きずに見続ける/オンライン・ゲームの仲間が気になって四六時中ゲームに入り浸る…。

 依存症といえば、従来は主に酒やヘロインなどの薬物を示した。だが、依存症を「ソレに耽溺し、ソレのことしか考えられなくなる」と定義すれば、インスタグラムやオンライン・ゲームも依存症と言えるだろう。

 新しい依存である行動嗜癖をテーマに、それがどれほど蔓延しているのか、どんな手口で人々を虜にするのか、なぜ人は依存に陥るのか、行動嗜癖にどんな害があるのかを訴え、どうすれば依存を防ぎ、また脱却できるのかを示す、一般向けのホットなルポルタージュ。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Irresistible: The Rise of Addictive Technology and the Business of Keeping Us Hooked, Adam Alter, 2017。日本語版は2019年7月10日第1刷発行。私が読んだのは2022年2月25日発行の第6刷。着実に版を重ねてる。単行本ソフトカバー縦一段組みで本文約399頁。9.5ポイント45字×18行×399頁=約323,190字、400字詰め原稿用紙で約808枚。文庫なら厚い一冊か薄めの上下巻ぐらい。

 文章はこなれていて親しみやすい。内容も特に難しくない。敢えて言えば、ゲームでもパチンコでも酒でも煙草でも博打でも、「やめたい/やめなきゃいけないのにやめられない」経験があれば、身に染みて感じるだろう。

【構成は?】

 前の章を踏まえて後の章が展開するので、素直に頭から読もう。

クリックで詳細表示
  • プロローグ 自分の商品でハイになるな ジョブスと“売人”に共通する教え
    「いいね!」はユーザーを抵抗不能な「依存症患者」にする/筋トレオタクからドラマの一気見まで 新時代の依存症「行動嗜癖」/すべては依存症になるようデザインされている?/「依存症ビジネス」がッ人を操る6つのテクニック/果たしてこの新しい依存症から逃れる術はあるのか
  • 第1部 新しい依存症「行動嗜癖」とは何か
  • 第1章 物質依存から行動依存へ 新しい依存症の誕生
    「スクリーン漬け」の現代人/スマートフォンは私たちから何を奪っているのか?/1億人がのめり込んでいる、世界一依存性の高いゲーム/ウェラブル端末の進化が、「運動依存」を加速させた/行動への依存「行動嗜癖」とは何か/なぜ今「物質」以外の依存症を問題とすべきなのか?/40%の人が「依存症」!? あなたも無縁ではいられない/「ネット依存症」かどうかをチェックするテスト/「依存症」の語源とその歴史/フロイト、コカインを推奨す ドラッグ中毒の歴史/南北戦争からコカ・コーラを生んだ? 世界で最も依存症を生んだ「物質」/一緒にいるのにひとり 「スマホ依存」が子供に与える影響/ある大ヒットスマホアプリと“売人”扱いされたプログラマー/ついに出た「グーグルグラス依存症」 次々と新たな依存症が生まれる時代で
  • 第2章 僕らはみんな依存症 何が人を依存させるのか
    ヘロイン「ナンバー4」の物語 ベトナム戦争で兵士の85%が手を出した/10万人の帰還兵からクスリを抜けるか/たった5%!? 予想を裏切る謎の低再発率/まるでコインの裏表 対照的な2人の科学者が成し遂げたとんでもない発見/偶然の失敗がもたらした「快楽中枢」の発見/ラット34番の謎 普通の人でも依存症に陥る「不幸な条件」/“クレオパトラ”を虜にするための無慈悲な実験/あるゲーム依存症患者が“深み”にハマるまでの物語/依存症患者にとって、もっとも危険な瞬間とは/「人間は、物質に対してだけではなく、行動に対しても依存症になる」
  • 第3章 愛と依存症の共通点 「やめたいのにやめられない」の生理学
    糖尿病でも肥満でもない、世界でもっとも猛威をふるう現代病とは/脳の中で起こる「負の無限連鎖」/依存症になるかならないかを左右する「ミッシングリング」/愛はコカインに似ている?/「心理的な苦痛をなだめると思わせるものならどんな体験でも……」/スウェーデン人研究者が注目した、奇妙な反復行動/パーキンソン病患者がギャンブルをやめられなくなった意外な理由/行動のループと薬への耽溺の共通点/常識を覆した衝撃の実験 「好き」と「欲しい」は違う/依存症の真実 愛してはいけない相手に恋をする、好きじゃないのに欲しがる
  • 第2部 新しい依存症が人を操る6つのテクニック
  • 第4章 <1>目標 ウェラブル端末が新しいコカインに
    パーキンソン病患者の仰天のライフハック/マラソンタイムの奇妙な偏り/オリンピック金メダル×世界記録を達成してもなお……/クイズ番組をハックせよ ある奇人の執念の勝利/「目標依存症」者が迎えた悲しき結末/現代の生活を支配する「目標」という呪い/メールチェックせずにいられない テクノロジーが生んだ脅迫概念/「ウェアブル端末」に追い立てられる人々 数値が彼らを虜にする/足が痛くても、出産直前でも、走るのをやめられない/目標追及があなたを「慢性的な敗北状態」にする/なぜトレーダーはいくら稼いでも幸せを感じられないのか? 社会的な比較の罠/成功しても失敗しても、出口がない 目標信仰の恐るべき“末路”
  • 第5章 <2>フィードバック 「いいね!」というスロットマシンを回しつづけてしまう理由
    ボタンがあれば、押さずにはいられないのはなぜ?/ウェブコミュニティ「レディット」が仕掛けた「ボタン」大騒動/人も動物も、確実な報酬よりも「予測不能なフィードバック」を好む?/「いいね!」ボタンにかけられた魔法の秘密/「スロットマシンは電子コカインだ」/「当たりに偽装したハズレ」に「幸運大使」 カジノが繰り出すあの手この手/「キャンディークラッシュ」をやみつきにする「ジュース」とは?/ゲーム漬けのラットが教えてくれたフィードバックの恐ろしすぎる効果/現実世界とゲームの世界を一体化する手法「マッピング」/VRは新たな「ドラッグ」となるのか?/見たいものしか見られない人間、そのにつけ込む“胴元”
  • 第6章 <3>進歩の実感 スマホゲームが心をわしづかみにするのは“デザイン”のせい
    任天堂のレジェンド宮本茂が「マリオ」を生み出すまで/20ドル紙幣をそれ以上で落札するなんて 「フック」で釣り上げられる/おとり商法“ペニーオークション” ネットでの買い物にご用心/「あと1回、あと1回……」 課金を迫るソーシャルゲームは詐欺とどう違うのか?/のめりこませる“デザイン”だって、データ分析があればお手のもの/ゲームに無関心だった女性ユーザーにつけこんんだハリウッドセレブアプリ/仕組まれた「ビギナーズラック」に気をつけろ/「単純でばかばかしい」ゲームほど心をわしづかみにする/スマホが、老若男女を問わずゲーム依存症にする
  • 第7章 <4>難易度のエスカレート テトリスが病的なまでに魅力的なのはなぜか
    退屈するくらいなら電気ショックを選ぶ?/世界中を興奮の坩堝にたたきこんだ伝説のゲーム/上達すると、心地いい テトリスが脳に効く理由/行動嗜癖がまとう創造や進歩という名の「マント」/テトリスに人がハマる学問的説明 「最近接発達領域」/フローに入るために必要な2つの要素とは/ゲーム依存症を生み出す「ルディック・ループ」は断ち切れるか?/難しすぎるゲーム「スーパーヘキサゴン」がもつ病的な魅力/「あとちょっと」は成功への道しるべなのか、依存への最短ルートなのか/「尻ぶつかり効果」vs最新テクノロジー 「停止規則」をめぐる争い/オフィスレスが長時間労働と過労死を招く 仕事をやめられないメカニズム/財布に備わる「停止規則」をクレジットカードが反故にする/やめられない止まらない エスカレートする難易度が、ユーザーをがんじがらめにする
  • 第8章 <5>クリフハンガー ネットフリックスが僕たちに植えつけた恐るべき悪癖
    ある映画の“崖っぷち”の結末/心理学者がウィーンのカフェで発見した「クリフハンガー」の力/なぜあるメロディーが頭から離れなくなるのか 不朽の名曲に共通する仕掛け/「真犯人は誰?」 開いたままのループが生み出した信じられないほどの熱狂/「未解決番組」中毒 先の展開が読めないことが人を虜にする/「史上最悪のラストシーン」が10年以上視聴者の心を奪う理由/欲求が満たされたときにはすでに……/平凡な日常にささやかなスリルを 設計された「騒動買い」/ネット動画「自動再生」の功罪 人の行動を自由に操るナッジの力/ネットフリックスが生んだ「ビンジ・ウォッチング」という新しい依存症/クリフハンガー発見者の崖っぷちの人生、その幕切れは?
  • 第9章 <6>社会的相互作用 インスタグラムが使う「比較」という魔法
    インスタグラムに「消された」ヒップなカメラアプリ/インスタが刺激する「他人と比較したい欲求」/他人からどう見られているのか気になって仕方がない SNSののめりこむ心の仕組み/インスタで「いいね!」中毒に陥った10代モデルの告白/異性の格付けサイトが格も依存性の高い理由/社会的欲求の驚くべき力 「同じ」と「違う」の両方でフィードバックが/ゲームに「友情」が持ち込まれるとき/「ピクルスになった脳は、二度とキュウリに戻りません」/人を依存症にするゲームがもつ3つの特徴/リアルで人間関係を築けない ネット依存症者が陥る感情的な弱視
  • 第3部 新しい依存症に立ち向かうための3つの解決策
  • 第10章 <1>予防はできるだけ早期に 1歳から操作できるデバイスから子どもを守る
    「デジタル断食」サマーキャンプで起こった驚くべき改善/あらゆることを簡単にするデバイスが子どもから奪うもの/1歳から操作できるiPad、そして「スワイプ」という魔法/健全なスクリーン使用の3条件/解毒のための3フェーズ テクノロジーの持続可能な利用方法/子どものために親がとるべきでない3つの態度、とるべき4つの態度/ネット依存は病気なのか? それとも社会の問題なのか?/クスリで治療すべきなのか 20年以上診てきたネット依存症専門家の見解/軽めの依存秒への有効打はあるか 「動機付け面接」というアプローチ/よい習慣と健全な行動を促す環境のデザインこそ最良の予防策
  • 第11章 <2>行動アーキテクチャで立ち直る 「依存症を克服できないのは意志が弱いから」は間違い
    保守的な地域のほうがネットポルノにご執心?/「依存症を克服できないのは意志が弱いから」は本当か/めちゃくちゃ有効な「まぎらわせる」という手法/スマートフォン依存症を癒やす、皮肉たっぷりのスマートデバイス/よい習慣をどれだけ続けたら欲求は断ち切れるのか/「できない」と「しない」 宣言の仕方でここまで変わる/環境をデザインする「行動アーキテクチャ」というテクニック/親友を決めるのは、倫理観でも信念でもなく「近さ」だけ?/メールもパソコンも、手の届かないところへ/自分に「罰」を与えるデバイスを使って依存を断ち切る/注意の“ネオンサイン”を放つ可愛らしいデバイスでよい習慣を/「いいね!」を隠すスツールでフィードバックを無効化する/行動アーキテクチャを活用した“正しい”ドラマの視聴法/「行動錯誤」から逃れて、自分の環境を賢くデザインしよう
  • 第12章 <3>ゲーミフィケーション 依存症ビジネスの仕掛けを逆手にとって悪い習慣を捨てる
    街をきれいにし、人々を健康にした「楽しいキャンペーン」/依存症に陥れる行動嗜癖の力を逆手にとる/単語の暗記という苦痛を進んでさせた伝説のサイト/「ゲーミフィケーション」成功の3つのポイント/運動を続けるのに、ゲーミフィケーションをこう使う/健康促進のために、わざとゲーム性を落としたアプリ/勉強をミッションに変える 学校こそ、ゲーミフィケーションを採り入れよう/コールセンターのモチベーションを高めるには? カギは内発的動機/研修をゲーム化すると、仕事のパフォーマンスも定着率も向上する/VRで「痛み」を軽減する 医療への応用/トラウマの消し方 認知のバキューム効果/ゲームは本当に脳を活性化するのか? ゲーム化への批判1/何でもゲームにすればいいのか? ゲーム化への批判2/楽しいからよいのだというお墨付きが、動機をゆがめる ゲーム化への批判3/諸刃の剣だからこそ、ゲーミフィケーションの力を正しく使おう
  • エピローグ まだ見ぬ「未来の依存症」から身を守るために
  • 謝辞

【感想は?】

 私はハマりやすい。それだけに、この本は切実に身に染みた。

 本書は3部構成だ。第1部は行動嗜癖の蔓延のほどを示し、第2部ではハマらせる手口を暴き、第3部で解決策を示す。

 困ったことに第2部は「ハマるゲームを作るコツ」も教えてくれる。テトリスを例にとった第7章では「開発当初はソ連でもテトリス中毒が蔓延した」のは意外だった。当時は「西側の生産性を落とすためのソ連の陰謀」なんて陰謀論も流布してたが、ちゃんと裏があったのだw

 さて、第1部では、今どれほど行動嗜癖が蔓延しているかを訴える。いずれもコンピュータとインターネットに関わるものだ。なお本書の英語版は2017年で日本語版は2019年の発行なので、2025年の現在は更に酷くなっていると考えるべきだろう。

最近の研究によると、最大40%の人が、メール、ゲーム、ポルノなど、ネットに関連した依存症のいずれかを抱えている。
  ――第1章 物質依存から行動依存へ 新しい依存症の誕生

 かつて電子メールは「いつでも送受信できる」のが嬉しかったんだが、最近は「なるたけ速く反応する」のが良し、みたくなりつつあって、なんだかなあ、な気分も。いや今はメールよりLINEか。

 この依存には、幾つかのメカニズムがある。「ソレはよいものだ」と脳に刷り込まれてしまうのだ。

依存症は学習によって生じる。
  ――第2章 僕らはみんな依存症 何が人を依存させるのか

何らかの物質や行動自体が人を依存させるのではなく、自分の心理的な苦痛をやわらげる手段としてそれを利用することを学んでしまったときに、人はそれに依存するのだ。
  ――第3章 愛と依存症の共通点 「やめたいのにやめられない」の生理学

 依存の恐ろしさは脳が変わってしまう事だ。これを巧みに表したのが、以下の言葉。

「ピクルスになった脳は、二度とキュウリには戻りません」
  ――第9章 <6>社会的相互作用 インスタグラムが使う「比較」という魔法

 似たようなセリフが吾妻ひでおの「失踪日記」にあったような。「ぬか漬けのきゅうり」だったかな? きっとアルコホーリクス・アノニマスから借りたんだろうなあ。

 さて、「脳が」と書くと恐ろしく感じるが、ちょっとだけ救いもある。ベトナム戦争に従軍した米軍将兵の多く(95%)がヘロインの提供を受けた。戦争終結時に下士官兵の35%に使用経験があり、19%は常習していた。帰国後は、どうなったか?

 「95%はクリーンな状態を保っていた」。依存は、環境の影響が大きいのだ。もっとも、だからこそ、依存は恐くもある。環境を変えなければ、どんな治療法も元の木阿弥だからだ。

 また、意外な事実も明らかになる。

薬物常習者は、その体験が好きではない。それなのになお薬物が欲しくてたまらないのである。
  ――第3章 愛と依存症の共通点 「やめたいのにやめられない」の生理学

 「好き」と「欲しい」は異なるのだ。本書には「愛は依存に似ている」なんて話も出てくる。とすると、しつこくつきまとうストーカーも、「好き」ではなく「欲しい」なのかな、と思ったり。

 第2部では、人を依存に陥らせ手口を明らかにしてゆく。と同時に、ここはハマるゲームやアプリの作り方として役に立つネタが多いのも困ったり嬉しかったり。

 手口の一つは、数字だ。

人間は数字に集中していると脅迫的になる傾向がある。
  ――第4章 <1>目標 ウェラブル端末が新しいコカインに

「カロリーを計算しても体重は減りません。カロリーの数字に対する執着が生まれるだけです」
  ――第7章 <4>難易度のエスカレート テトリスが病的なまでに魅力的なのはなぜか

 これは万歩計や体重計が解りやすい。ダイエットでも、「毎日体重を測ろう」とよく言われる。私は万歩計を使っていて、数字で実績が出るとかなり励みになるのだ。本書では走らずにいられない人の話が出てきて、「マジか」と思ってしまう。私がそこまで歩数に拘らないのは、やはり生来の怠け者な性格のせいだろうか。

 また、意外なことに、「確実に当たる」モノより、「当たったりハズれたりする」モノの方に、人は惹かれるそうだ。

人間は確実性のないフィードバックほど欲しくてたまらない気持ちになる。
  ――第5章 <2>フィードバック 「いいね!」というスロットマシンを回しつづけてしまう理由

 チェスより麻雀に惹かれるのは、そのためか←たぶん違う

 ゲームのデザインでも、幾つか納得する話が出てくる。例えばレベルアップ制があるRPGだと、最初はサクサクとレベルが上がり、次第にレベルが上がりにくくなる。ツカミが大事なのだ。

ビギナーズラックには人を依存させる力がある。
  ――第6章 <3>進歩の実感 スマホゲームが心をわしづかみにするのは“デザイン”のせい

 かつて Linux ユーザは、「タコ(初心者)を大事に」と言っていた。最初にいい思いをすると、ハマるのだ。ヤクのバイニンも、最初の1回はサービスするしね。いや知らんけど。

 また、勘ちがいさせるのもいい。

「すぐ近くにある勝利」――負けつづけているにもかかわらず、価値は目の前だと信じている状態――は、非常に依存性が高いのだ。
  ――第7章 <4>難易度のエスカレート テトリスが病的なまでに魅力的なのはなぜか

 「ハズレ」ではなく「惜しい、もうちょっとだったのに!」と思わせるのだ。これで博打にハマる人は多いんだろう。というか、スロットマシンは、そういう手口を使って客を座らせ続けるのだ。

 また、後々まで話題になるドラマの共通点も、本書は明らかにする。

人間は完了した体験よりも、完了していない体験のほうに、強く心を奪われる。
  ――第8章 <5>クリフハンガー ネットフリックスが僕たちに植えつけた恐るべき悪癖

 本書に出てくるのは米国のドラマだが、私が知ってる範囲だと新世紀エヴァンゲリオンがコレだろう。あの、いかにも「制作が間に合わず息切れしました」的な空気を漂わせた最終回は、実に印象的で後をひくものだった。結局、後に作られた映画も大当たりしたし。

 さて、最後の第3部では、依存から抜け出すためのさまざまな試みと、そこから学べる幾つかの教訓を示してゆく。

 その一つは、環境だ。

依存症が悲惨であることは誰でも知っていますが、依存することにメリットもあるからこそ、その依存は発生しているのです。
  ――第10章 <1>予防はできるだけ早期に 1歳から操作できるデバイスから子どもを守る

 先のベトナム従軍兵の例が示すように、依存のキッカケとなった原因が無くなれば、依存から抜け出しやすい。

 また、別のクセとつけるのもいい。

行動アーキテクチャを賢く活用する方法は2通りに分かれる。
1つは、誘惑から切り離された環境をデザインすること。
そしてもう1つは、誘惑が避けられないものであるなら、それをごまかす方法を見極めること。
  ――第11章 <2>行動アーキテクチャで立ち直る 「依存症を克服できないのは意志が弱いから」は間違い

 タバコの代わりにガムを噛む、などが代表例だ。もっとも、歴史的には失敗例もあるんだけど。モルヒネ中毒の治療用として導入したコカインとか。

 その一つとして、脱却法や学習法をゲーム化するって手法もある。このゲームをデザインするにも、幾つかコツがある。というか、世にウケるゲームやサービスに共通する特徴と言い換えてもいい。

(ハマるゲームに)共通する3つの要素を明らかにした。
ポイント制であること、
バッジがあること、
そして上位に入ったプレイヤーを発表するランキング表(リーダーボード)があることだ。
  ――第12章 <3>ゲーミフィケーション 依存症ビジネスの仕掛けを逆手にとって悪い習慣を捨てる

 …うーむ。結局、依存から抜け出したいのか、人を依存に陥らせたいのか、わからなくなってきたぞ←をい

 冗談はともかく、語り口は親しみやすくとっつきやすい割に、その内容は身近で深刻であり、身につまされる点も多かった。酒や博打と異なり、インターネットもスマートフォンも現代では必需品で、どうしても使わざるを得ないため、完全に断ち切るのは無理だ。である以上、なんとか落としどころを見つけるしかない。そんな意味でも、本書の意義は深い。

 日々、スマートフォンやインターネットを使わざるを得ない全ての人にお薦め。

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2025年9月 7日 (日)

SFマガジン2025年10月号

「あなたがたご両親は、彼がいったい何を見ているのか、知りたいとは思いませんでしたか?」
  ――韓松「まなざしの恐怖」立原透耶訳

 376頁の標準サイズ。

 特集は「ホラーSF特集」として小説3本に評論やエッセイなど。

 小説は11本+3本。特集で3本、連載が5本+ショートショート3本、読み切りが3本。

 ホラーSF特集。小説は3本。大木芙紗子「竜子団地B棟202号室」,韓松「まなざしの恐怖」立原透耶訳,ジェフリー・フォード「秋の自然誌」鯨井久志訳。

 連載小説5本+3本。山本浩貴(いぬのせなか座)「親さと空」第1回,冲方丁「マルドゥック・アノニマス」第61回,吉上亮「ヴェルト」第二部第八章,夢枕獏「小角の城」第83回,飛浩隆「空の園丁 廃園の天使Ⅲ」第29回に加え、田丸雅智「未来図ショートショート」は最終回3本「農の工場」「ロボット供養」「恋のラジオ」。

 読み切り小説3本。藤田祥平「疑似家族」,夏海公司「八木山音花のIT奇譚 遮真」,麦原遼「魔法使い時代の入眠時幻像」。

 ホラーSF特集。

 大木芙紗子「竜子団地B棟202号室」。竜子団地のB棟は、おばけ団地と呼ばれている。B棟だけ蔦がびっしり覆っているから。この蔦、夜になると、ときどきぼんやりと光る。大学のえらい先生や研究者が、何度も蔦を調べにきた。四年前、小学校に入る前の年に、わたしたちは団地に越してきた。一年生になって弟の夢が生まれ、三年生のときにお父さんが死んだ。

 「これぞホラーSF」と言いたくなるような、正統派のホラー。小学生の女の子の一人称が巧みに効いてくる。彼女の語りによって、ジワジワと事態が掴めてくると共に、ヤバい事態が明らかになって…

 韓松「まなざしの恐怖」立原透耶訳。難産の末に生まれたのは男の子。ただし目が十個あった。さっそく翌日の新聞に記事が載ったが、それ以上の取材は病院が拒んだ。研究者たちは子供を調べたが、遺伝的には普通で突然変異もなかった。夫妻のもとには未確認飛行物体研究会など得体の知れない連中も押し寄せ…

 男の子も両親も看護師も研究者も、個人名は全く出てこないので、語り口はやや突き放した雰囲気がある。夫妻の周囲が騒ぎ立てるあたりは、ドタバタ喜劇の空気も漂う。のだが、オチはやっぱりホラーだった。

 ジェフリー・フォード「秋の自然誌」鯨井久志訳。十月末の午後、リクとミチはオープンカーで伊豆半島に向かう。雇い主が、伊豆の温泉旅行を手配してくれたのだ。宿で迎えたのは、女将のチナツ婆さんと、ポニーと見まがうばかりの犬。

 お話の骨組みは、ちと懐かしい昭和後期の空気が漂う。旅行先も伊豆だしね。人気のない旅館に老婆と異様に大きい犬って舞台も、当時の作品の匂いがする。意図してそう書いてるんなら、たいしたものだ。

 連載小説。

 山本浩貴(いぬのせなか座)「親さと空」第1回。2029年。新型コロナウィルスの新たな変異体が現れる。致死率は低いは感染力は強く、困った後遺症を残す。最近の記憶が残りにくいのだ。感染者を補助するシステムノーカーは使用者の日々の記録を録り解析し学習し、その人「らしさ」を模倣・拡張する。いわば個人のパートナーとなる…

 2021年6月号の異常論文特集の「無断と土」以来の登場。ならきっとヘンな作品なんだろうなあ、と思ったら期待以上にヘンな作品だった。普通に地の文で始まるが、なんやらの報告書や日記や詩も乱入し、時事ネタも混ざって独特の世界が広がってる。

 冲方丁「マルドゥック・アノニマス」第61回。リバーサイド・ホテルに立てこもるラスティらに立ち向かう、イースターズ・オフィスと<クィンテット>連合軍。死地に赴くアビーを心配するバロットだが…

 これもまたホラーSF特集号に相応しい回。ただしジワジワくるタイプじゃなくて視覚的でスプラッタな方向。いつもながら銃弾が飛び交うガン・アクションに加え、今回は接近して刃物で切り合うバトルも。

 吉上亮「ヴェルト」第二部第八章。1794年45月7日。健康を回復したマクシミリアン・ロベスピエールは大公安委員長として権力を掌握し、議会の演説で<最高存在>の祭典の開催を宣言する。革命以来、地方では軍が内乱鎮圧で民を虐殺し、パリではサンソンが連日の処刑を行っていた。

 フランス革命の暗黒面を見せつける回。パリの暴動や多数の処刑は物語でもよく描かれるが、地方での虐殺は知らなかった。通信手段も発達していないこの時代、パリの意向を全国に浸透させるのは難しかっただろう。そのツケは民が払う羽目になったんだなあ。

 飛浩隆「空の園丁 廃園の天使Ⅲ」第29回。<夏の区界>が、<青野の区界>に入ってくる。<ちびっ子>を迎えうつ八岐大蛇。園丁たちは鯨から離脱し…

 自分が電脳空間内のAIだと知っているAI、なんてややこしい存在が当たり前に動き回るこの物語、この回では更に他の区界をはじめ様々な「次元」の存在が乱入してきて、何がなんやら。

 読み切り小説。

 藤田祥平「疑似家族」。永井荷風や内田百閒や井伏鱒二を敬愛する作家の三好正数は、生活苦で妻に逃げられ子も奪われた。ヤケになって今風の芸風で出した新作は売れたが気分は晴れない。そこで友人に勧められたのが東京ファミリーレンタル。家族のフリをしてくれるサービスだ。

 インドには奥さんと子どものフリをする高級売春宿があるって話をどこかで聞いたが、真偽は不明。古典を今風にアレンジって、例えば国を追われたお姫様や悪役令嬢が異国で成り上がり云々って、シェイクスピアのリア王の焼き直しとも言えるよね。

 夏海公司「八木山音花のIT奇譚 遮真」。展示会で馴染みの編集者に会ったライターの笹木律は、請われて編集者の写真を撮る。その写真には、いないはずの記者が写っていた。不思議に思い、笹木は八木山音花に相談すると…

 そうそう、最近のカメラはとっても賢くなってるんだよなあ。プロセッサの速度が上がり、昔なら数日かかる処理が一瞬で終わる。更にAIの進歩が拍車をかけて。ってな現状を基に、ホラーSFR特集号に相応しい展開に。

 麦原遼「魔法使い時代の入眠時幻像」。20年あまり、王国の<聖地>と呼ばれる地のひとつで過ごしてきた。昼に初級の生徒たちを連れて、基本的学習用の庭を歩く。ものを指して呼び方を教える。生徒たちが復唱する。ある生徒が「今、違ってる」と指摘した。最近来た子だ。

 魔法のしくみがとても斬新で驚いた。このしくみが生み出す効果と、人びとの対応策も素晴らしい。魔法なんでジャンルはファンタジイなんだけど、仕掛けの面白さにはセンス・オブ・ワンダーが詰まってる。長編のシリーズにしてもいいぐらい独創的で見事な言語ファンタジイ。

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