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2025年8月31日 (日)

リー・アラン・ダガトキン+リュドミラ・トルート「キツネを飼いならす 知られざる生物学者と驚くべき家畜化実験の物語」青土社 高里ひろ訳

キツネの家畜化実験についてはこれまでにも多くの記事が書かれているが、本書は初めてその全貌を詳述する本だ。
  ――序論 なぜキツネはイヌのようになれないのか?

【どんな本?】

 1950年代終盤のソ連。毛皮用のミンク&キツネの飼育・育種で優れた実績を積み名声を得た遺伝学者ドミトリ・ベリャーエフ(→Wikipedia)は、念願の実験を始めようとしていた。キツネを飼いならそう。うまくいけば、人類史における動物の家畜化について、貴重な知見が得られるかもしれない。

 動物の種は多いが、家畜化されたのはごく僅かだ。特に哺乳類の家畜は群れをつくる種が多い。対してキツネはオオカミやイヌに近い種だが、群れをつくらず、野生のキツネは繁殖期以外は単独で生きる。そして滅多にヒトには慣れない。毛皮用キツネを飼育する中で、ベリャーエフはそれを充分に思い知っていた。同時に、ごく僅かの例外的な個体がいることも。

 だが、当時のソ連の生物学会はスターリンに取り入ったトロフィム・ルイセンコとその取り巻きが幅を利かし、まっとうな遺伝学の研究はほぼ不可能だった。そこでベリャーエフは実験目的を偽り、また実験場も彼らの目が届かないシベリアのノボシビルスクにするなどの工夫をこらし…

 SF者など一部で有名なキツネの家畜化実験を、50年代松の黎明期から2016年まで、激動のソ連/ロシアの現代史とワトソン&クリックの二重らせん発見以降の激変する遺伝学会を背景に、卓越した遺伝学者にしてリーダーであるドミトリ・ベリャーエフとその研究パートナーであるリュドミラ・トルート(→英語版Wikipedia)や実験場の飼育員など多くの関係者そして彼らが育てたキツネたちの出演で描く、感動の科学ルポルタージュ。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は How to Tame a Fox (and Build a Dog): Visionary Scientists and a Siberian Tale of Jump-Started Evolution, Lee Alan Dugatkin, Lyudmila Trut, 2017。日本語版は2023年12月10日第一刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約213頁。9.5ポイント45字×19行×213頁=約182,115字、400字詰め原稿用紙で約456枚。文庫なら普通の厚さ。

 青土社の本のクセに、文章はとても親しみやすく読みやすい(青土社の方々、ごめんなさい)。内容もわかりやすい。たいした理科の知識も要らないので、大半は中学生でも読みこなせるだろう。

【構成は?】

 ほぼ時系列順に話は進むので、素直に頭から読もう。

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  • 序論 なぜキツネはイヌのようになれないのか?
  • 1 大胆なアイデア
  • 2 もう火を吐くドラゴンはいない
  • 3 アンバーの尾
  • 4 夢
  • 5 幸せな家族
  • 6 繊細な相互作用
  • 7 言葉とその意味
  • 8 SOS
  • 9 キツネのように賢く
  • 10 遺伝子の激変
  • 謝辞/註

【感想は?】

 ケモノ好きには極めて危険な本だ。

 ヤバさは本を開いてすぐわかる。巻頭のカラー写真だ。ヒトに慣れたキツネの写真が次々と。玩具で遊んでたり、飼育員と共に散歩してたり、ヒトに抱かれてたり。極めつけが最後の子ギツネの写真。可愛い。たまらん。

 いや本来は、そういう能天気な目的で始まった実験ではない。ヒトと家畜の関わりの始原を探るという、極めて真面目で壮大で科学的な目的の実験なのだ。なにせ計画を始めたベリャーエフの仮説が、ダーウィンに逆らうモノだし。といっても、進化論そのものに反対しているワケじゃない。

家畜化はおそらく、ダーウィンの進化論で暗示される標準的な解釈よりも短期間に起きた可能性がある。
  ――1 大胆なアイデア

 ダーウィンの漸進説に対し、スティーヴン・ジェイ・グールドが唱えた断続平衡説(→Wikipedia)ですね。しかも、ベリャーエフの主張はグールドより過激だ。だって、自分の目で「家畜化されたキツネ」を見るつもりだったんだから。グールドの主張より3~4桁も速い。もっとも、中盤以降で明らかになるんだが、ベリャーエフは遺伝子そのものの変化までは考えていなかった。が、それは置いて。

 時は1950年代末。当時のソ連はルイセンコがブイブイいわしてて、本来の目的が悟られたら潰されるのが判ってた。計画はもちろん、自分も。右腕となるリュドミラ・トルートにも、その辺を言い渡している。

ルイセンコ派をかわすために、仕事はキツネの生理学と説明される。少なくとも当面は、実験に関して遺伝学という言葉は一切使えない。
  ――2 もう火を吐くドラゴンはいない

 この実験ではベリャーエフの名が有名だが、実質的に実験を取り仕切ったのはリュドミラらしい。ベリャーエフは細胞学遺伝学研究所の所長で、他にも多くの研究を統括する立場。リュドミラは彼の部下の一人。そういう関係だ。

 いずれにせよ、当時のソ連における科学者の不安定な立場が伝わってくる場面だ。と同時に、モノゴトを慎重に、だが情熱を持って粘り強く進めるベリャーエフの性格も。こういう所はロケットの父セルゲイ・コロリョフ(→Wikipedia、「セルゲイ・コロリョフ ロシア宇宙開発の巨星の生涯」)と同じだね。

 実験はルイセンコたちの目が届かない、シベリアのノボシビルスクで行う。冬の気温は-40℃の極寒の地だ。既にソ連では毛皮用にキツネを飼育していた。というか、ベリャーエフはこのキツネの飼育で優れた実績を積んだのだ。そんな古巣から、実験用のキツネを調達する。

 稀にいるヒトを恐れないキツネ同士かけ合わせると、たった四世代でヒトに慣れた子ギツネが現れる。科学者ではあるが、もともとイヌ好きのリュドミラは…

リュドミラもたまには衝動に負けて、小さな子ギツネを抱き上げることがあった、
  ――3 アンバーの尾

 誘惑に負けとるやんけ。まあ巻頭の写真でも幸せそうにキツネを抱いてるんだけどね。こういうキツネとの関係はリュドミラだけでなく、現地で雇った職員も同じで、中にはキツネを自宅に引き取った職員も。

リュドミラはココを飼育場に戻すのではなく、彼女を深く愛するガーリヤとベーニャと共に暮らすのが幸せだと判断した。
  ――7 言葉とその意味

 この章が描くキツネのココの物語は、まんま映画になりそうなベタな感動物語なんで、ケモノ好きは覚悟しよう。

 ちと急ぎ過ぎた。さて、第四世代じゃキツネは飼育場に住み、ヒトとは暮らしていない。イヌのように家畜とするには、ヒトと暮らせるか否かを調べる必要がある。ということで、リュドミラもキツネと暮らすことに。いや、ちゃんと目的があるのだ。

エリートギツネたちは人の関心を弾くことに夢中だが、まだ人を区別していない。人間なら誰でも等しく喜ぶ。キツネが彼女と同居したら、それが変わるかもしれない。
  ――4 夢

 これは細かい事のようだが、生物学の世界じゃ曰くがあって、学者も慎重になっているのだ。

賢馬ハンス(→Wikipedia)という名前のウマのせいで、動物のコミュニケーション、とくにヒトとヒト以外のあいだのコミュニケーションについての主張には、昔から高いハードルが設けられてきた。
  ――9 キツネのように賢く

 計算しているように見えて、実はヒトの反応をうかがっていた、ってオチ。でもヒトの反応を、そこまで読んでるんなら、ソレはソレで優れた知性と言えるような気も。

 本書には他にもパブロフの犬から始まってジェーン・グドールのチンパンジーの観察やE.O.ウィルソンの社会生物学など、生物学および生物学者の興味深い挿話もチラホラと入ってる。

 それはともかく。リュドミラと、それ以外のヒトを、飼いならされたキツネは区別できるのか? 結果は読んでのお楽しみ。

 などとベタベタに甘いように見えるリュドミラだが、やはり科学者だ。キツネの家畜化は先天的なものなのか、生まれてから学習した結果なのかを確かめる実験もしてたり。

従順な母ギツネと攻撃的な母ギツネで子供の扱い方が異なっていたら? 子ギツネたちは母親の扱い方から学んで、人に対して従順または攻撃的になるのではないか?
  ――5 幸せな家族

 これを確かめる実験は胎児移植による交叉哺育だ。可愛がってるだけじゃないと思い知らされる、ちと衝撃的な場面だった。だって実験だしね。

 中盤以降では、実験を始める前からベリャーエフが抱いていた優れた洞察が明らかになる。

ベリャーエフは、家畜化に関わる劇的な変化の原因は、選択によって促進された新たな遺伝子変異の蓄積ではなく――それもいくらか作用しているのは確かだが――むしろ、既存の遺伝子の発現の変化であり、それが異なる表現型を生じさせていると考えていた。
  ――6 繊細な相互作用

 遺伝子の二重らせん発見から間もない時期だ。そんな早くから、エピジェネティクス(→Wikipedia)に近い仮説を抱いていたのだ。ルイセンコ一派が仕切っていた当時の時代背景で、これを表に出したら、控えめに言っても面倒くさい事態になっていただろう。

 などの先見の明と共に、科学者としての狂信的なまでに潔い矜持と、やはりちとマッドな野望を抱いていた事も終盤で明らかになる。キツネを飼いならせたんだから、もっと時間をかければアレも。結果が出る時にベリャーエフは生きていないが…

ドミトリ・ベリャーエフ「われわれが結果を知ることはないが、誰かが知る」
  ――7 言葉とその意味

 デビッド・ブリンもソコまでは考えてなかっただろうなあ。あ、でも、米海軍はやってるかも。

 やがて時代は冷戦を経てデタント(緊張緩和)へと至り、彼らの実験とその成果は西側の生物学会でも大きく評価される。ソ連時代の西側への渡航の困難さとか、ホント昔話になってしまった。

 が、20世紀も終盤になり、この実験の最大の危機が訪れる。他でもない、ソ連崩壊だ。国全体が混乱をきたしている時に、科学実験の予算は虚空に消えてしまう。

「40年間ではじめて、家畜化実験の将来が見えなくなっています」
  ――8 SOS

 リュドミラたちは西側に助けを求めるのだが…。この求め方が、いかにもソ連の科学者って感じなんだよなあ。西側、それも米国人なら、違う方法を選ぶだろう。

 そういった危機をどうにか乗り越えた21世紀。遺伝子解析技術も進歩した。

 家畜化した動物には、幾つか奇妙な共通点がある。繁殖期が長くなり尾を振るなど振舞いや生理的な変化に加え、姿形も変わるのだ。耳が垂れ鼻づらが短くなり尾が巻き、何よりブチなど文字通り毛色が変わる。これらの謎を、遺伝子解析が明らかにするだろう。

キツネの実験はいずれさらに多くのすばらしい発見を生みだすだろう。
  ――10 遺伝子の激変

 いずれの変化も、彼らが遺伝子内に密かに隠し持っていた能力/性質である。生物とは、どれほど多くの可能性を秘めているのか、ちょっと空恐ろしくなる。

 全般的に「感動的な動物物語」の衣をまとって話は進む。が、時おり「科学実験」の冷たい現実が姿を現す記述がある。例えば雄と雌の数の不釣り合いとかね。それでも、やはり愛らしいキツネたちの姿には理性を溶かされてしまう。ケモノ好きにはお薦めできない。郊外の広い庭付きの家に住み、自由になる時間とお金がたっぷりあるのなら、話は別だが。

 参考までに、この実験の動画を次に示す。リンク先はいずれも Youtube。

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