ジョシュア・グリーン「モラル・トライブス 共存の道徳哲学へ 上・下」岩波書店 竹田円訳
本書は、道徳を土台から理解しようという試みだ。
――序章 常識的道徳の悲劇ローカルな道徳的価値観はほぼ例外なく宗教的価値観だ。
――第3章 あらたな牧草地の不和なぜ、道徳問題に対して、自動反応と制御反応という別個の反応があるのか?
――第4章 トロッコ学社会保守派(略)は、リベラル派が道徳的な質問に何と答えるかを予測するのが、リベラル派が保守派の考えを予測するより、うまい。
――第11章 深遠な実用主義
【どんな本?】
「郷に入れば郷に従え」。この言葉には、隠れた、だが誰もが認める前提がある。郷により「何が正しいか」は異なるのだ。日本人は北朝鮮への経済制裁を認める人が多いが、北朝鮮人は違うだろう。また、郷が同じでも人により「正しい」が異なる問題がある。日本だと死刑の是非、米国なら妊娠中絶や銃所持の是非などが、同国人同士でも熱い議論になる。
これらの違いをもたらす原因は幾つかある。本書では、その中でも道徳哲学、つまり善悪の基準の違いに焦点を当てる。
なぜ人により善悪の基準が異なるのか。違いの原因は何か。そこには、どんなメカニズムが働いているのか。そもそもなぜ善悪の感覚があるのか。私たちの善悪の基準には、どんな特徴・性質があるのか。その性質・特徴は、どんな結果をもたらすのか。そして、「正しい」の違いによる対立を治める方法はあるのか。
哲学のみならず認知科学や心理学の知見も取り入れ、「正しい」の対立に橋を架ける手段を模索する、道徳哲学の一般向け解説書。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は Moral Tribes: Emotion, Reason, and the Gap Between Us and Them, by Joshua Greene, 2013。日本語版は2015年8月27日第一刷発行。単行本ハードカバー縦一段組み上下巻で本文約277頁+195頁=約472頁。9ポイント45字×18行×(277頁+195頁)=約382,320字、400字詰め原稿用紙で約956枚。文庫でも上下巻ぐらいの分量。
文章は比較的にこなれている。哲学者が書いた本だけに、ややこしい話も多いが、あくまで「ややこしい」のであって、「難しい」わけじゃない。時間をかけてじっくり読めば、充分に理解できる。敢えて言えば、米国人に向けて書いているため、具体例として出てくるのは米国でホットなネタ、例えば妊娠中絶の是非などが多いし、「神」はキリスト教の「神」を示す。また、二重否定が多いのもややこしさを増していいる。
【構成は?】
基本的に前の章を受けて次の章が展開する構成なので、素直に頭から読もう。
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- 上巻
- 序章 常識的道徳の悲劇
あらたな牧草地の生活/グローバルな道徳哲学に向かって/本書の構成 - 第1部 道徳の問題
- 第1章 コモンズの悲劇
道徳の機能/メタ道徳 - 第2章 道徳マシン
マジックコーナー/血縁の価値/しっぺ返し/親友/最低限の良識/脅しと約束/監視の目と見分ける心/会員限定/利害関係者/道徳マシン - 第3章 あらたな牧草地の不和
衝突の心理/部族主義/協力は、どんな条件で?/名誉と調和/ローカルな道徳/バイアスのかかった公正/バイアスのかかった認識/バイアスによってエスカレートする/あらたな牧草地の生活と不和 - 第2部 速い道徳、遅い道徳
- 第4章 トロッコ学
トロッコ問題/脳をスキャンする/実験トロッコ学がブームに/トロッコの進路にいる患者/二つの道徳心について - 第5章 効率性、柔軟性、二重過程脳
情動と理性/二重過程脳/賢明になる - 第3部 共通通貨
- 第6章 すばらしいアイデア
すばらしいアイデア/長老たちの知恵/帰結主義、功利主義、実用主義/功利主義の(誤った)理解/めざましい収束 - 第7章 共通通貨を求めて
共通通貨は神に由来するのか/道徳は数学のようなものか/科学は道徳的真理をもたらすか/代替案 共有価値を探す - 第8章 共通通貨の発見
功利主義とは何か/一般的合理性から功利主義的道徳へ/功利主義の何がいけないのか - 原注/索引
- 下巻
- 第4部 道徳の断罪
- 第9章 警戒心を呼び覚ます行為
道徳ボタンを押す/手段と副次的影響/モジュールの近視眼/なぜ、私たちはサイコパスでないのか?/副次的影響が見えない/作為と容認/功利主義と警報装置 - 第10章 正義と公正
功利主義は多くを求めすぎるか/助ける義務/個人としての関わり/人間の価値観と理想の価値観/正しい褒美/理想の正義/正しい社会/「富裕主義」の誤謬/正義より大きな善 - 第5部 道徳の解決
- 第11章 深遠な実用主義
二つの羅針盤/いつオートモードを使うべきか? 「《私》対《私たち》」対「《私たち》対《彼ら》」/深みから抜け出す/私たちの魂のひそかなジョーク 合理化と二重過程脳/「表なら私の勝ち、裏ならあなたの負け」 正当化としての勝利/武器や盾としての正義/中絶 ケーススタディ/中絶 実用主義のアプローチ/ゴドーを待ちながら/なぜ私はリベラルなのか、そして私の心を変えさせるには何が必要か - 第12章 オートフォーカスの道徳を超えて
現代を生きる羊飼いのための六つのルール - 著者より/謝辞/解説(阿部修士)/書誌/原注/索引
【感想は?】
哲学、それも道徳や倫理を語る本だ。そして著者の推しは功利主義(→Wikipedia)である。
似た傾向のジョナサン・ハイトの「社会はなぜ左と右にわかれるのか」と、重要な点で同じ前提に立っている。
ヒトが善悪を判断する際は、二つの異なるメカニズムが働いている。一つは瞬時に判断し(オートモード)、もう一つはじっくり論理的に考える(マニュアルモード)のだ。両者が異なる判断を下すとき、ヒトは居心地の悪い気分を味わう。本書では、それをトロッコ問題(→Wikipedia)の様々なバリエーションで明らかにしてゆく。
瞬時に判断するオートモードは、生存競争の中で進化した。人の歴史の大半は、群れで行動する狩猟採取生活だ。だから、群れの中では協力を促すが、他の群れに対しては冷酷に振る舞うこともある。
道徳は、コモンズの悲劇を回避するために進化したが、「常識的道徳の悲劇」を回避するために進化したのではなかった。
――第1章 コモンズの悲劇<人間は、自分を中心とする社会的宇宙の中で、人がどこに位置するかにきわめて鋭い注意を向け、自分たちにより近い人をひいきする傾向がある。
――第2章 道徳マシン
ただ、あくまでも動物的な本能なので、あまり論理的ではない。結果をじっくり考えたりはしないし、注目している範囲だけで判断してしまう。
この装置は、とくに意図された危害に反応する。
次に、消極的に引き起こされた危害より、積極的に引き起こされた危害に強く反応する。
最後に、間接的にではなく、人身的な力によって直接的に引き起こされた危害に強く反応する。
――第9章 警戒心を呼び覚ます行為
などの幾つかの偏りはあるにせよ、原則としてヒトを傷つける事は厭う。本能的なんて言い方はしたが、日頃の暮らしじゃ役に立つのだ。ただ、全面的に委ねるのはよろしくない。
私たちには、いつオートモードで撮るべきか、いつマニュアルモードに切り替えるべきかを教えてくれる師匠はいない。
――第5章 効率性、柔軟性、二重過程脳
どんな時にマズいのか。同じ部族内なら、たいていはオートモードで事足りる。だが、別の部族との争いでは、面倒を引き起こす。ここで言う「部族」は、国家の場合もあるし、妊娠中絶の容認派/否定派の場合もある。
功利主義的な行動とは、日常生活(《私》対《私たち》)の道徳的誘惑をやり過ごすことは本能に任せるが、あらたな牧草地での生き方(《私たち》対《彼ら》)を考えるときは、明確な功利主義的思考を働かせることだ。
――第6章 すばらしいアイデア
やっと功利主義が出てきた。じゃ、功利主義とは何か。
功利主義は「幸福を公平に最大化する」という三語に要約できる。
――第8章 共通通貨の発見
よく言う「最大多数の最大幸福」ですね。ただ、この理屈に無条件に従うと、いささか嬉しくない状況に陥る。なぜって、先進国の人間は多少なりとも「楽しみ」に使うカネがあるなら、その全てを慈善団体に寄付して貧しい国の恵まれない人々を救うべき、なんて結論になっちゃうからだ。
功利主義は、自由になる収入が空になるまであなたを絞りつくすだろう。
――第8章 共通通貨の発見
私がうっかりしているのでなければ、この不具合の是正策は、本書に出てない…と思う。いや私なりの擁護はできるんだけど。「あんま無理したら続かない」とか。
また、功利主義は、「革命の輸出」や地下鉄サリン事件なども認めてしまう。私たちから見れば狂った連中だが、本人たちはソレが世界を救う最善の方法だと信じ込んでいるからだ。そういった狂気にブレーキをかけるのも、オートモードの役割である。
たとえ最善の意図をもって暴力行為を企てたとしても(「革命は流血を伴うだろう、しかしわれらの輝かしい未来を考えよう!」)警報ベルが「気をつけろ! そいつは危ない!」と教えてくれる。
――第9章 警戒心を呼び覚ます行為
とは言うものの、道徳が原因の対立は、なかなか解決が難しい。話し合いも、堂々巡りに陥ったりするし、「そこからか」と呆れる場面も多い。
道徳の前提はたいてい疑われることはなく、前提とした当人にはどれも妥当に思えるが、本当に自明であるものはきわめて少ない。
――第7章 共通通貨を求めて
しかも、気分次第で判断が変わったりもする。
人は、違反者に罰を与えるとき、抑止効果に具体的に関係のある要因は無視し、違反者についてどう感じるかだけに基づいて罰する傾向がある。
――第10章 正義と公正<
そもそも、最初から相手の意見を聞き入れる気なんか微塵もなかったり。
不和を生じさせる道徳問題を考えるとき、私たちは本能的にまず、あらゆるやり方で《私たち》が正しくて《彼ら》が間違っているように考える。
――第11章 深遠な実用主義私たちの直感的反応が、私たちに何をなすべきで何をなすべきでないかを告げるとき、(略)交渉の余地のないものとして伝わる。
――第11章 深遠な実用主義
国家間の対立は、利害が関わるため更にこじれるんだが、それも置いて。同じ国家内でも、先進国では保守派 vs リベラルの構図がよくある。そして、今のところは保守派が優勢に見える。
社会保守派は、もともとの「コモンズの悲劇」を回避するのがじつにうまい。ところが、現代の悲劇、「常識的道徳の悲劇」を回避するのはからきし下手だ。
――第11章 深遠な実用主義
日本が分かりやすい例なんだが、自民党には幅広い意見の持ち主がいる。そして内情はともかく、議会での結束は固い。意見調整が巧みなのだ。これは首相制のためでもあるだろうけど。首相制は意見の取りまとめが巧みな人が首相になりやすいのだ。対してリベラル/左派は民主党が立憲と国民に分かれ、共産党と社会党が睨み合っているように、協力体制を築くのが下手なんだよなあ。
とか考えると、リベラル/左派は論理的に考えるマニュアルモードだ、って本書の前提は、なんか怪しい気がする。むしろ保守こそマニュアルモードを巧みに使っていて、リベラル/左派はオートモードに振り回されてるんじゃなかろか。というのも。
本当に首尾一貫した哲学は何であれかならず、私たちの感情を害する。
――第12章 オートフォーカスの道徳を超えて
なんて性質があるからだ。リベラル/左派こそ、道徳哲学に振り回され、折り合いがつけられないのではないか、そんな風に思えてしまう。
文句ばっかり言ってるけど、その原因も「本当に首尾一貫した哲学は何であれかならず、私たちの感情を害する」から、かもしれない。
道徳哲学、それも功利主義の本だ。この時点で好みは別れるだろう。また、「第11章 深遠な実用主義」は、議論のテクニックを磨くのにも有効だったりする。特に善悪の基準に興味がある人にお薦め。
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