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2025年7月の6件の記事

2025年7月30日 (水)

小方厚「音律と音階の科学 ドレミ…はどのように生まれたか 新装版」講談社ブルーバックス

この本の主題は、音楽に使う音の高さである。
  ――はじめに

小さなスピーカーやイヤホーンから低音を聴くとき、実は missing fundamental(→Wikipedia)を聞いているのである。
  ――第3章 音律の推移 閉じない環をめぐって

CDE…とハニホ…は音名すなわち絶対的な音の高さにつけられた名前である。
  ――付録

【どんな本?】

 ドレミ…は奇妙だ。1オクターブを12の音階に分けたと言うが、なら11個あるはずなのに、7個しかない。しかも、分け方が不均一だ。ミとファの間・シとドの間は狭くて、他の半分しかない。なぜ、こんな奇妙な分け方になったのか。他の分け方はなかったのか。

 実は他の分け方もあるのだ。民族音楽には、様々な分け方がある。

 いわゆる12音階は、西洋音楽のためのものだ。それには、西洋音楽ならではの事情がある。

 著者はプラズマやビームを専門とする物理学者である。物理学者らしく、周波数や倍音構成など数学・物理学を駆使して、クラシック・ジャズ・民俗音楽など幅広い音楽や楽器を解析・再構成し、音階の謎に挑んでゆく。

 物理学者ならではのアプローチで、音楽の基礎を見直し、コード進行など音楽理論の背骨にまで迫る、ちょっと変わった音楽の解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 元は2007年8月刊行。2018年5月20日に新装版の第1刷発行。新書版横一段組み本文約260頁。9ポイント26字×26行×260頁=約175,760字、400字詰め原稿用紙で約440枚だが、写真やイラストやグラフが多いので、文字数は7割ほど。

 文章はこなれていて読みやすい。ただし、内容はかなり高度。必要なのは音楽より数学というか算数の能力だ。数式も出てくるが、かけ算・割り算に累乗ぐらいなので、中学生でも理解はできる。ただし割り切れず少数が頻繁に出てくるので、真面目に検算していたらキリがない。また、随所でクラシックや動揺はもちろんジャズやロックなど様々な音楽や楽器の例が出している。Youtube などで検索しているとなかなか読み進められない。

 物理的には薄いが、内容は濃い。覚悟しよう。

【構成は?】

 理系の本に相応しく、前の章を基礎として次の章が展開するので、素直に頭から読もう。

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  • まえがき
  • 第1章 ドレミ…を視る、ドレミ…に触れる
  • 1.1 音楽はデジタルだ
  • 1.2 デジタル楽器とアナログ楽器
  • 1.3 聴覚は「差」ではなく「比」を感じとる
  • 1.4 手製の一弦琴でオクターブを握る
  • 第2章 ドレミ…はピタゴラスから始まった
  • 2.1 ド・ソの協和からピタゴラス音律へ
  • 2.2 音のらせん
  • 2.3 音程の数え方 「度」という単位
  • 2.4 5度円から長音階へ
  • 2.5 旋律、あるいはモード
  • 第3章 音律の推移 閉じない環をめぐって
  • 3.1 ピタゴラスの負の遺産 コンマ
  • 3.2 協和とうなりとウルフ
  • 3.3 ドとミの甘美な響き 純正律
  • 3.4 純正律の泣きどころ 転調
  • 3.5 平均律の功罪
  • 3.6 ミーントーンとウェル・テンペラメント
  • 3.7 純正律を鍵盤で
  • 第4章 なぜドレミ…が好き? 音楽の心理と物理
  • 4.1 2重音の心理と物理
  • 4.2 同時になる2つの音をどう聞くか?
  • 4.3 楽器が出す倍音
  • 4.4 楽音の不協和感から純正律へ
  • 第5章 コードとコード進行 和音がつくる地形を歩く
  • 5.1 3重音のポテンシャル
  • 5.2 長3和音と短3和音
  • 5.3 コード進行の原理
  • 5.4 転調の行き先
  • 第6章 テトラコルド 自由で適当な民族音楽
  • 6.1 西洋音楽と、西洋音楽以外の民族音楽
  • 6.2 音階のユニット箱 テトラコルド
  • 6.3 箱を積んでつくる日本の音階
  • 6.4 ブルースはポピュラー音楽のルーツ
  • 6.5 数十段の音階、微分音階
  • 6.6 旋律打楽器バンド ガムラン
  • 第7章 楽器の個性を生かそう
  • 7.1 楽器と5度円
  • 7.2 弦楽器の奏法、管楽器の構造
  • 7.3 2次元打楽器
  • 7.4 リズム楽器
  • 7.5 電子楽器テルミン
  • 7.6 声こそ最高の楽器
  • 第8章 音律と音階の冒険 新しい音楽を求めて
  • 8.1 そっくりメロディからの解放
  • 8.2 平均律だからできること
  • 8.3 純正律をさらに追及すれば
  • 8.4 12音ではない平均律
  • 8.5 純正律のように響く平均律
  • 8.6 オクターブからの解放
  • 8.7 音律と音階の将来
  • 付録/参考文献/索引

【感想は?】

 基本的には音階の本である。なぜ12音階になったのか、なぜ平均律なのか、他の音階はあるのか、などを探りつつ、なぜかコード進行など音楽理論の根本にまで話題は広がってゆく。

 よく言われるように、現在の音楽はたいてい平均律に支配されている。

隣り合う音高の周波数比が均一な音律を平均律と言う。
  ――第1章 ドレミ…を視る、ドレミ…に触れる

 ギターのフレットが分かりやすいのだが、フレット間は根元つまり高音部に行くほど狭くなる。この狭まり方は規則的で、前のフレットの0.943874倍、つまり1/(2の12乗根)である。こうすると、一つフレットを上げると音も半音高くなる。弦(が鳴る)楽器は弦が短いほど音も高くなるからだ。

今日のような鍵盤は遅くとも15世紀にはつくられていたが、対数が普及したのは17世紀以降である。数学で対数という概念が確立する以前に、音楽ではこれを先取りして鍵盤に対数目盛を導入し、演奏を容易にしていたのだ。
  ――第2章 ドレミ…はピタゴラスから始まった

 確かチェンバロ(ハープシコード)が、それぐらいかな? オルガンはもっと古いけど、鍵盤型ではないかも。あと、ハープが分かりやすいか。

 とまれ、オルガンやピアノの鍵盤には、白鍵と黒鍵があり、その並び方は変だ。ミとファ・シとドの間には、黒鍵がない。にも拘わらず、五線譜じゃ他の音と同じように書く。だもんで、短3度とか長3度とかの面倒くさい言い方になる。

はっきり言って、音程の数え方は合理的ではない。
  ――第2章 ドレミ…はピタゴラスから始まった

 いやまったく。この辺を配慮してか、本書ではたまに短3度を3半音,長3度を4半音と書いたり。ギターやウクレレを弾く人は、3半音の方が分かりやすいよね、要は3フレットだから。

 さて、2章と3章では、元の音の周波数に3を掛けて2(または4)で割って…を繰り返してピタゴラス音階を作り、または3か5を掛けて2(または4)で割って…を繰り返して純正律の12音階を作ってゆく。なぜ3と5か、というと、二つの音を重ねた時、周波数が単純な整数比だと響きが心地よいから。

 ただ、ピタゴラス音階も純正律も、1オクターブは正確な2倍とならない。また、元の音(例えばド)と他の音(例えばソ)は割り切れていいんだが、双方を半音上げると割り切れずうなりが起きたりする。

うなりに起因するウルフ(→英語版Wikipedia)が純正律の泣きどことなった。
  ――第3章 音律の推移 閉じない環をめぐって

 ハーモニーをつけず単音でやってる時はいいんだが、複数の楽器で共演したり、ギターやピアノなどでコードを弾くなら、これは嬉しくない。だもんで、どの音程でもソレナリに重ねられる平均律が支配的になったのだ。バイオリンやトロンボーンなど自由な音程を出せる楽器はいいけど、ギターなど出せる音程が決まってる楽器は対応できない。つかピアノのせいなんだけどね。

 とはいえ、ハマれば純正律のハーモニーは美しい。ってなワケで、技術でどうにかしよう、なんて発想も。

このプログラム(Hermode Tuning)を搭載した電子楽器は、演奏中のコードの周波数比をその都度純正律に最適化する。
  ――第8章 音律と音階の冒険 新しい音楽を求めて

 宮内悠介の某作品(→ネタバレ)にそんな楽器が出てきたが、現実だったのか。もっとも、電子楽器なのでクラシックの奏者やファンにはウケが悪いそうな。とはいえ、現代の技術ならリアルタイムでサンプリングしてピッチを調整しアンプで再生、なんて事もできそうな気が。

 さて、他の周波数を含まない純音なら話は単純なんだが、大抵の楽器は倍音を含む。2倍音は1オクターブ上だが、3倍音は1オクターブ上の5度になる。そんな倍音も含めて合う音を探すと、使える音は限られてくる。ロックじゃ、特にリフでパワーコート(→Wikipedia)大流行りだが…

Cと最も協和するのはGだが…
  ――第4章 なぜドレミ…が好き? 音楽の心理と物理

 と、ちゃんと理由があるのだ。すんげえ納得。

 そのロックの基本は3コードだ。これについても、本書はちゃんと理屈をつけてくれるから嬉しい。

調の主音を根音とする和音を主和音、主音から完全5度上を根音とする和音を属和音、完全5度下を根音とする和音を下属和音という。あるいはそれぞれトニック、ドミナント、サブドミナントという。
  ――第5章 コードとコード進行 和音がつくる地形を歩く

 トニックがCならドミナントはGでサブドミナントはF。だからギター初心者はFで苦しむのだ。本書の終盤では、コード進行の基礎から応用まで駆け足で語り、例として ジョン・コルトレーンの Giant Steps(→Youtube)などが出てくる。

 さて、12音階から7つの音を取り出したのがドレミ…だった。別の取り出し方の例として、ドビュッシーの Syrinx(→Youtube),ジャコ・パストリアスの Opus Pocus(→Youtube)などの例も。

 もちろん、12音階とは異なる音階もある。本書では日本の民謡やブルース音階の他に、なかなかフリーダムな音階も出てくる。

ガムランの個々の楽器の調律の違いが、そのセットの音楽的な個性を生む。1つの村には1つの調律、あるいは音律がある。
  ――第6章 テトラコルド 自由で適当な民族音楽

 という事で、一言でガムランと言っても、村によって音律は様々なのだ。この原因の一つは、ガムランの主な楽器が打楽器である点だ。弦楽器や管楽器は音の元が一次元の弦や管なのだが、打楽器は二次元なため、倍音構成が異なり、西洋風の音階にうまく収まらないのだ。

直方体の振動スペクトルには、(略)整数倍波はない。あの手この手で管楽器・弦楽器と共演できる程度にまでスペクトルを改変した結果が現在のマリンバ、ビブラフォンである。
  ――第8章 音律と音階の冒険 新しい音楽を求めて

 木琴って構造は単純そうだけど、実は工夫があるんだなあ。いや知らないけど。

 他にも終盤では12音以外の平均律で、16音・17音平均律なんてのも試してる。ここでもロックな人は独特で。

16音・17音平均律を聞いた人の約2割は、重音のつくるうなりを不快と感じた。この不快感は、聞くだけが趣味のクラシック音楽音楽ファンに最も強く、ロックファン・ロック演奏家はまったく問題にしないようであった。
  ――第8章 音律と音階の冒険 新しい音楽を求めて

 ロックな人は日頃から歪んだ音に慣れてるからか、アーミングやチョーキングでズレた音も楽しむ姿勢が身に付いてるからか。他にも Youtube で "equal temperament" で検索すると、様々な平均律の音楽が見つかります。

 音楽を扱いつつも、中身は掛け算や割り算や対数そして周波数構成など、理屈から攻めていくアプローチは実に独特だ。だが、いわゆる「理系脳」な人には、こっちの方がスンアリと頭に入るのではないかと思う。音楽が好きで、特に斬新な音楽を探している人にお薦め。

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2025年7月27日 (日)

クロード・スティール「ステレオタイプの科学 『社会の刷り込み』は成果にどう影響し、わたしたちは何ができるのか」英治出版 藤原朝子訳

本書が目指すのは、きちんと認識されていないけれど、ステレオタイプ脅威は個人と社会の最も厄介な問題の一部に寄与していること、しかし現実的な対策を講じると、劇的な変化をもたらす可能性があることを示すことだ。
  ――1 アイデンティティを持つがゆえの制約

わたしたちは自律的に物事を選択していると思っているが、その選択は常にコンテクストにしたがっている
  ――10 わたしたちを分断するもの サウスウエスト航空のファーストクラス

【どんな本?】

 人は様々な属性を持っている。男だ、日本人だ、髪が薄い、ヲタクだ、理系だ、リべラルだ、巨人ファンだ等。うち幾つかは、時と場所と状況によっては好ましくない色合いを帯びる。甲子園球場の一塁側は巨人ファンに居心地が悪いだろう。

 一般にその属性が強調される場所・状況で、少数派に属するのは心地よくない。また、属性に付きまとう思い込みや決めつけもある。女は数学が苦手だ、髪が薄い奴は助平だ、保守系は人種差別主義者だ、等々。

 様々な属性のうち、本書は主に人種と性別に注目し、それにつきまとう思い込みや決めつけが、人の能力や実績への影響を調べてゆく。それは、本当に影響があるのか。他の原因は考えられるのか。影響はどんな集団に現れるのか。影響の多寡を左右する要素は何か。そして、どうやって調べればよいのか。

 スタンフォード大学の心理学教授が、自らの研究や交友関係を交えつつ、「人種のサラダボウル」と呼ばれる米国でのアイデンティティの影響と制御法を語る、一般向けの解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Whistling Vivaldi: How Stereotypes Affect Us and What We Can Do, by Claude M. Steele, 2010。日本語版は2020年4月6日第1版第1刷。単行本ハードカバー縦一段組み本文約275頁に加え、訳者あとがき6頁。9ポイント44字×17行×275頁=約205,700字、400字詰め原稿用紙で約515枚。文庫なら普通の厚さの一冊分。

 文章は比較的にこなれていて親しみやすい。内容もわかりやすい。ときおりSAT(大学進学適性試験,→Wikipedia)やジョン・ヘンリー(→Wikipedia)など米国ならではの制度や表現も出てくるが、たいていは説明があるので、知らなくても問題はない。

【構成は?】

 基本的に前の章を前提として次の章が展開する構成なので、素直に頭から読もう。

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  • 日本語版序文
  • 1 アイデンティティを持つがゆえの制約
  • 2 アイデンティティと成績の不可思議な関係 「女性は数学に弱い」という刷り込み
  • 3 ステレオタイプ脅威の正体 何が実力発揮を妨げていたのか
  • 4 何を主要なアイデンティティと捉えるか 「別の人生」を歩むことを選んだ人々
  • 5 誰しもが影響を受ける アジア系女子大生が教えてくれたこと
  • 6 優秀な人ほど打ちのめされる 過剰努力の悲劇
  • 7 思考と身体への負担 蝕まれるワーキングメモリ
  • 8 環境に潜む「サイン」の働き
  • 9 ステレオタイプ脅威を縮小する方法 ナラティブというトリック
  • 10 わたしたちを分断するもの サウスウエスト航空のファーストクラス
  • 11 人をつなぐ橋としてのアイデンティティ
  • 訳者あとがき/参考文献

【感想は?】

 つまりは偏見や決めつけと、それが人に与える影響を調べた本だ。

 著者は学者だけに、様々な実験で影響を調べてゆく。その調べる能力は大半が学力であり、調査対象は学生が多い。学力なのは結果がわかりやすい数値で出るからで、学生なのは立場的に調達しやすいからだろう。

 ただ、実験によりサンプル数を示さなかったりするので、さすがに「科学」は言いすぎだろう、とも思う。なので、カテゴリはノンフィクションとした。

 さて、人は様々な属性を持っている。性別だったり、性癖だったり、肌の色だったり、趣味だったり。

誰もがアイデンティティを持っている。それも、しばしばたくさん。
  ――11 人をつなぐ橋としてのアイデンティティ

 そんな中で、本書が主に扱うのは、肌の色と性別だ。これは、おそらく大学教授である著者にとって、最も身近で切実な属性だからだろう。具体的には、こういう事だ。

一般に黒人学生の成績は、大学入学時のSATが同レベルの、ステレオタイプの脅威を受けていない学生よりも低い。
  ――9 ステレオタイプ脅威を縮小する方法 ナラティブというトリック

 米国では、高校までは他の人種と同等の成績を示す学生でも、大学に入ると成績が落ちる傾向があるそうだ。この原因を、著者は「黒人は頭が悪い」という偏見に求める。似たような偏見で、「女は数学が苦手」なんてのもあって、それも本書で扱っている。いずれにせよ、「○○が得意」とか「○○が好き」などではなく、「××は▽▽が下手」とかの、悪く見る類の決めつけである。

一つのアイデンティティを際立ったものにするのは、そのアイデンティティへの脅威だ。
  ――4 何を主要なアイデンティティと捉えるか 「別の人生」を歩むことを選んだ人々

 幾つかの実験を進めるに従い、現実にそういう傾向が現れる事も明らかになってくる。ただし、現れるには幾つかの条件がある。

スティグマのプレッシャーは、学力不足の学生よりも、学力が高い学生に大きな影響を与えるのかもしれない!
  ――3 ステレオタイプ脅威の正体 何が実力発揮を妨げていたのか

 当初、著者の実験に参加したのはスタンフォード大学などの名門大学の大学生や大学院生などで、実験内容は数学の難しい問題を解いてもらうなどだった。要は優秀で自信がある人に、能力の限界に挑んでもらう、そういう実験である。

 そうではなく、平凡な高校生や、簡単な計算問題の場合は、ほぼ影響がなかった。偏見が影響を与えるには、やはり条件があったのだ。

ネガティブなステレオタイプのプレッシャーを感じるのに、特別な素地は必要ない。研究で見つかった必須要件は一つだけ、その人が自分のパフォーマンスを気にしていることだ。
  ――5 誰しもが影響を受ける アジア系女子大生が教えてくれたこと

 困った事に、本人はそのプレッシャーをわかっていなかったりする。

本人には明確な自覚がないことが多い。
  ――7 思考と身体への負担 蝕まれるワーキングメモリ

 著者は更に突っ込んで、どんな能力がダメージを受けるのか、まで追跡してゆく。

最もダメージを受けるのはワーキングメモリ(作業記憶)、すなわち「即時的またはほぼ即時的に使用するために情報を維持し、操作するために使われるタイプの記憶」だ。
  ――7 思考と身体への負担 蝕まれるワーキングメモリ

 こういった、現象を捉えるだけに留まらず、こういった現象を抑える手段にまで、著者は踏み込んでゆく。そして、実際に手段は見つかったのだ。

安全を確実に示唆するサインがあれば、多くの場合、ステレオタイプ脅威を示唆するサインの威力は抑えられたのだ。
  ――8 環境に潜む「サイン」の働き

 このあたりは、ちょっとした解放感まで感じさせる。

 などの主筋も面白いが、個々の実験の設計も楽しい。例えば学生に数学の問題を解かせるにせよ、実験の目的をどう伝えるかで、結果が違ってきたりする。

だが、どんな実験にすればいいのか。
  ――2 アイデンティティと成績の不可思議な関係 「女性は数学に弱い」という刷り込み

 そして、個々の実験を積み重ねて、次の設問へつなげてゆく本書の構成も、謎解き物語としての楽しさ・面白さを生み出す、巧みな構成になっている。

次の挑戦が見えてきた。
  ――8 環境に潜む「サイン」の働き

 また、同じ黒人であっても、米国とパリでは立場が違うなどの、下世話な事情がわかるのも嬉しい。いや、やっぱりパリにも差別はあるんだけど、条件が違うのだ。

すべてのアイデンティティは特定の場所に根ざしたローカルなものだ
  ――4 何を主要なアイデンティティと捉えるか 「別の人生」を歩むことを選んだ人々

 ただ、数学の勉強のコツはン十年前に教えて欲しかったなあ。一人で頑張るより、優秀な人たちと一緒に勉強すると効率がいいらしい。

アジア系学生は、黒人学生や白人学生と比べて、大学の教室でもプライベートでもグループで勉強することが多い。
  ――6 優秀な人ほど打ちのめされる 過剰努力の悲劇

 他にも吊り橋効果のソースが出てきたり、ハンマー使いのジョン・ヘンリー(→Wikipedia)の伝説など、楽しい挿話は盛りだくさんだ。基本的に心理学の本なので、ヒトのココロに興味があるヒトなら、きっと楽しめるだろう。

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2025年7月24日 (木)

ティム・ワイナー「米露諜報秘録 1945-2020 冷戦からプーチンの謀略まで」白水社 村上和久訳

ホワイトハウスとクレムリンは、20世紀中、スパイと外交官に命じて、全世界ですくなくとも117回の国政選挙を操作した。
  ――第1章 将来の闘争の種

【どんな本?】

 第二次世界大戦が終わると、世界は西側と東側で対立する。東側を率いるソ連は、この分野で長い歴史と多くの実績を誇っていたのに対し、西側のリーダー米国は、これからCIAを立ち上げる所から始めねばならなかった。

 欧州における駆け引きや途上国での陣取り合戦そして互いの国内での世論操作など、米ソの諜報機関はそれぞれの指導者の方針に従い暗躍を続ける。

 やがてベルリンの壁が崩れソ連が崩壊し、世界は新しい秩序に向かうかと思われたが、元KGBのウラジーミル・プーチンの登場で盤面は大きく様相を変える。

 綿密な調査と取材で「CIA秘録」を著した著者が、同じ諜報機関をテーマとしつつも米露の対決に焦点を絞り、いまなおホットな2020年の話題も盛り込んで送る、衝撃的な現代のルポルタージュ。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Folly and the Glory: America, Russia, and Political Warfare 1945-2020, by Tim Weiner, 2020。日本語版は2022年7月10日発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約308頁に加え、訳者あとがき10頁。9ポイント45字×20行×308頁=約277,200字、400字詰め原稿用紙で約693枚。文庫なら厚めの一冊分。

 文章はやや硬い上に、外交文書っぽいまわりくどい表現が多い。実際、外交文書の引用も多いし。だが内容自体は比較的にわかりやすい。なにせネタは現代史だし。特に最後の「第10章 アメリカの民主主義」は、2020年の米国大統領選を扱っているので、極めてエキサイティングだ。

【構成は?】

 ほぼ時系列順に進むが、興味のある所だけを拾い読みしてもいいだろう。

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  • 第1章 将来の闘争の種
  • 第2章 永遠に続くリズム
  • 第3章 真実だけではじゅうぶんでない
  • 第4章 西側最後の希望
  • 第5章 ヴォイス・オブ・アメリカ
  • 第6章 じつに汚い手
  • 第7章 「黄金期の欺瞞に満ちた夢」
  • 第8章 この消すことのできない炎
  • 第9章 最初の犠牲者たち
  • 第10章 アメリカの民主主義
  • あとがき エイジェント・オブ・インフルエンス
  • 謝辞/訳者あとがき/原注/人名索引

【感想は?】

 私たちは2025年7月現在の米国大統領が誰か知っている。これは怖ろしい事だ。

 本書は第二次世界大戦後の、米国 vs ソ連/ロシアの、情報/諜報機関の戦いを描いている。著者はそれを「政治戦」と呼ぶ。

ジョージ・F・ケナン(→Wikipedia)「政治戦は、国家の目標を達成するための、戦争をのぞく、国家が自由に使えるあらゆる手段の行使である」
  ――第2章 永遠に続くリズム

 秘密警察チェカー(→Wikipedia)の長い歴史を誇るソ連に対し、CIAが発足したのは第二次世界大戦後だ。そのためか、最初はいささか怪しげだったCIAだが、次第に実績を積んでゆく。

CIAの国際プロパガンダ部門は、世界中でざっと50の新聞やラジオ局、雑誌、通信社を所有あるいは金銭の面倒を見て、海外のほとんどすべての重要な首都で事件の独自の見解を発表していた。
  ――第3章 真実だけではじゅうぶんでない

 日本だとナベツネがCIAと関係があったようなんで、そういう事なんだろうか。

 やがて世界は東西陣営に分かれ睨み合う形になる。そこで陣取り合戦の前線となったのが、独立まもない発展途上国、それも主にアフリカ諸国だ。南米が分かりやすいんだが、CIAは極右の独裁者が好きなんだよなあ。コンゴで選んだのも…

彼(ジョゼフ・デジレ・モブツ,→Wikipedia)はいまや国家の収入の半分あるいはそれ以上を着服していた。
  ――第4章 西側最後の希望

 まっとうな民主主義国家を取り込むには、多くの議員を買収せにゃならんけど、独裁国家なら一人の独裁者で済む。はいいが、取り込まれた国は災難で。

そのいっぽうで、「学校や機能している病院、道路、飲料水、衛生、電気、住宅、そのほかのなにかを(国家や国民に)提供するようなことは、ほとんどなにもしなかった」
  ――第4章 西側最後の希望

 だって発展したらライバルが育っちゃうし。お陰でコンゴは今も争いが絶えない(→「名前を言わない戦争」)。

 南米やアフリカじゃ手荒い真似も遠慮なく使ったCIAだが、東欧じゃもう少し洗練された手口を使う。放送局ヴォイス・オブ・アメリカを運営したのだ。そこで深夜のジャズ番組のDJウィリス・コノヴァー(→英語版Wikipedia)はファンレターに応じて1959年6月、空路ワルシャワを訪れる。空港に多くの人が詰めかけているのを見た彼は、スーパースターのファンの群集に巻き込まれるのを避けようとして…

「あれが誰のためかは知らないが、その人が降りるまで待った方がいいな」
  ――第5章 ヴォイス・オブ・アメリカ

 が、飛行機に最後まで残ったのは彼だった。東側じゃ彼の番組は大人気で、DJの彼も大スターだったのだ。音楽ファンには、とても心地よいエピソードだ。

 このネタに触発されたワケじゃないだろうが、CIAは情報工作に力を入れ始める。当時の大統領ジミー・カーターの意向もあって…

翌(1978)年中にCIAは何十万冊という書籍と定期刊行物を(ポーランドに)送りだした。「こうしたプログラムは、われわれのどんな兵器にもおとらず、わが国の防衛に貢献する――それにくわえて、その費用は鶏の餌程度ですむ」
  ――第5章 ヴォイス・オブ・アメリカ

 と、西側の情報を向こうに届ける工作に力を入れる。その甲斐あってか…

「戒厳令中に西側から手に入れた印刷機は、戦時中の機関銃か戦車に匹敵したかもしれない」
  ――第5章 ヴォイス・オブ・アメリカ

 なんて、ポーランドの地下抵抗組織のメンバーはコメントしている。イランの米国大使館襲撃事件(→Wikipedia,「ホメイニ師の賓客」)もあって現役時代は散々な評判だったカーターだが、冷戦じゃMVPだと私は思う。

 対するソ連の戦術は、基本的に現在のロシアがインターネットでやっているのと同じだ。つまり、欧米でデマをバラ撒くのである。

CIAがケネディ大統領を殺害したとか、FBIがマーティン・ルーサー・キングを暗殺したとか、陸軍が細菌研究所でAIDSウィルスを発明したとかいった、アンドロポフの局員と工作員が放送し、出版して、長く記憶にとどめさせた、あらゆる嘘
  ――第6章 じつに汚い手

 確かにネタとしちゃ面白いから、噂を見聞きした人も多いだろう。昔からソ連は、こういう真似をしていたのだ。

 が、奮闘むなしく、東欧は崩壊する。懸念するゴルバチョフに対し、当時のブッシュ(父)政権のジェームズ・ベイカー米国務長官は…

「われわれは、もしアメリカがNATOの枠組みのなかでドイツに駐留しつづけるなら、NATOの現在の軍事的管轄区域は1インチたりとも東方へ広がることはないと保障されることが、ソ連だけでなく、ほかのヨーロッパ諸国にとっても重要であると理解しています」
  ――第7章 「黄金期の欺瞞に満ちた夢」

 なんて請け負っちゃってる。そりゃNATOの親玉は米国だろうけど、ポーランドやエストニアの外交/軍事方針を、なんで米国が決めるのさ。そういう傲慢な所が嫌われるんだぞ。

 やがて崩壊の波はソ連にも押し寄せ、ウクライナやグルジア(現ジョージア)などが独立を果たす。ゴルバチョフを引きずり下ろしたボリス・エリツィンだが…

エリツィンのもとで、国家の経済的富は40%以上減少した。経済の崩壊はアメリカの大恐慌の倍の規模で、三倍の長さだった。
  ――第7章 「黄金期の欺瞞に満ちた夢」

 なお本書に出てくるエリツィンは、しょうもない酔っ払いだったりする。よくそれで大統領になれたな。そんなエリツィンの跡を継いだ元KGBのプーチンは、したたかだった。

プーチンは自分のもっとも強力な反撃能力を情報戦と考えていた。
  ――第8章 この消すことのできない炎

 だけでなく、大きな野心も抱いていた。

ウラジーミル・プーチン「ウクライナは国家でさえありません」
  ――第9章 最初の犠牲者たち

 彼はウクライナをそう見ているのだ。である以上、キーウを落とすまで戦争は止めないだろう。そのウクライナに対し、米国も約束をしている。

ビル・クリントンとボリス・エリツィンは1994年12月、ウクライナと協定を結んだ。同国は核兵器をロシアに送り、アメリカのノウハウで解体することになった。ウクライナは核戦力を放棄するかわりに約束を受け取った。ロシアは同国の主権と国境を尊重して、同国の独立に反対する「脅しあるいは武力の使用」をしないと誓い、アメリカは国連をつうじてロシアの侵略にたいして同国を防衛する。
  ――第9章 最初の犠牲者たち

 これが本当なら、今頃はウクライナを守るため米軍または米国主導の多国籍軍を派遣してなきゃマズいんじゃね? いや「国連をつうじて」とあるから、安全保障理事会を通す必要があるのか。じゃ無意味じゃん。だって常任理事国のロシアが必ず反対するし。でも、何かしらの形でウクライナを支援せんと、嘘を吐いたことになるぞ。

 などと腰が定まらない米国に対し、ロシアは明確な目的を持ちインターネット上で米国に対し情報戦を仕掛ける。

「われわれの任務はアメリカ人を自国の政府に対抗させ、不安と不満を引き起こすことだった」
  ――第10章 アメリカの民主主義

 うん、まんまディープステートなどの陰謀論そのものだね。だいぶ前からロシアはそういうシナリオを用意していたのだ。残念ながらオバマ政権もFBIもCIAもロシアの工作に気づくのは遅かった。もっとも、ウクライナやジョージアへの侵略に対しては、相応の対応はとっていた模様。

ある推定によれば、(オバマ政権によるロシアへの経済)制裁は1年のあいだにロシア経済の1/4~1/3を破壊した。
  ――第10章 アメリカの民主主義

 どうも経済制裁ってのはまだるっこしい上に効果が見えにくいんだが、意味はあるようだ。

 もちろん、ロシアも黙っちゃいない。米国の大統領選挙に向け、ドナルド・トランプが有利になるよう、あの手この手で工作を仕掛ける。例えば民主党支持が大多数を占める黒人に対しては…

黒人社会に向けたIRA(→Wikipedia)のメッセージは、(略)選挙を完全にボイコットするよう主張する場合がはるかに多かった。
  ――第10章 アメリカの民主主義

 日本でも「白票を投じろ」と訴える声があるけど、それで有利になるのは現在の与党や現役の候補者なんだよね。不満があるなら、与党の対立候補に投票するのが最適解。

 そんなロシアが狙っているのは、こういう事だ。

(ロシアの情報工作の)狙いは、アメリカの内部と、それにもましてロシアの国益に反すると見られる大西洋をまたぐ同盟関係の両方に、不破と不一致の種をまくことである。
  ――第10章 アメリカの民主主義

 困った事に、今まさしく米国に起きているのが、保守とリベラルの分断であり、NATOの分担の見直しなのだ。この本、本当に2020年の著作なのか? 2024年じゃなく。

 トランプ自身がロシアとの関係をどう考えているのかは、本書じゃよく分からない。だが、最終章の記述は不気味だ。

彼(ドナルド・トランプ)はプーチンと五回、直接会談したが、その公式記録は存在しない。
  ――あとがき エイジェント・オブ・インフルエンス

 記録の破棄は安倍晋三も得意だった。そしてプーチンとの会談は20回を超えている。果たして会談の記録は残っているんだろうか。日本は米国より遥かに情報公開に渋い。それを思うと、とても憂鬱な気分になる。

 正直、スパイ物につきものの秘密工作や活劇は少ない。米露に絞ったため、それ以外の国はコンゴぐらいしか出てこないのも、私は不満だ。中南米なら、山ほどネタがあるだろうに。しかし、それを置いて、特に9章と10章の迫力はすさまじい。まさしく「今、そこにある危機」を本書は描いている。情報工作に、ロシアに、プーチンに興味がある人にお薦め。

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2025年7月18日 (金)

ヤン・ルカセン「仕事と人間 70万年のグローバル労働史」NHK出版 塩原通緒/桃井緑美子訳

本書は学問としては労働史の分野のものだが、最近までこの分野が手がけていた範囲をはるかに超えるものである。
  ――はじめに

水平な協力と垂直な従属の両方が包括的な労働史の重要な要素であり、本書の主要なテーマになる。
  ――序章

従属関係だけでなく、協力関係からものを見るのが必須だ
  ――第1章 動物と人間それぞれにとっての仕事

【どんな本?】

 「あなたは何者か」と訊ねられたとき、「銀行員」「飲食店経営」「プログラマー」など職業で答える人は多い。犯罪の容疑者も、「会社員」「教員」などと職業で紹介される。ゲームですら職業がプレイスタイルに大きく関わってくる。現代人にとって、仕事は自らの存在を規定する重要な要素なのだ。

 では。どんな経緯で今の職に就いたのだろうか。親の職を継ぐ人は、ぐっと減った。企業の採用試験を受けたり、転職エージェントを利用する人も多いし、知人の紹介なんて人もいるだろう。

 いずれにせよ、いわゆる「労働市場」で仕事を見つけた人が、現代では大半ではないか。

 だが、人類の歴史を眺めると、このような状況は特異だ。そも市場経済が「世界の各地に何度も出現し、多くはまた消滅した」のだ。

 人間と仕事の関わりを、人類史/世界史レベルの視点で俯瞰し、そのバリエーションと変転を綴る、一般向けの歴史解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Story of Work: : A New History of Humankind, Jan Lucassen, 2021。日本語版は2024年3月25日第1刷発行。単行本ハードカバー上下巻で縦一段組み本文約417頁+324頁=741頁。9.5ポイント41字×18行×(417頁+324頁)=約546,858字、400字詰め原稿用紙で約1,368枚。文庫なら厚めの上下巻か薄めの上中下巻ぐらいの大容量。

 文章はやや硬い。が、内容は意外と難しくない。中学卒業程度の世界史の知識があれば充分。

【構成は?】

 ほぼ時系列順に進むので、素直に頭から読もう。

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  •   上巻
  • はじめに
  • 労働史の系譜と研究成果、そして本書のスタンスについて
  • 序章
  • 第1部 人間と仕事 70万年前から1万2000年前まで
  • 第1章 動物と人間それぞれにとっての仕事
  • 第2章 狩猟採集民の仕事
  • 第3章 狩猟採集以外の活動
  • 第2部 農業と分業 紀元前1万年から前5000年まで
  • 第4章 新石器革命
  • 第5章 農民の仕事
  • 第6章 男女間の分業
  • 第7章 世帯間の分業とそこから生じうる影響
  • 第3部 あたらしい労働関係の出現 紀元前5000年から前500年まで
  • 第8章 「複合」農業社会における労働 不平等の拡大
  • 第9章 最初期の都市の労働 職業の文化と再分配
  • 第10章 国家における労働 多様な労働関係
  • 第4部 市場に向けての労働 紀元前500年から紀元後1500年まで
  • 第11章 貨幣化と労働報酬 ユーラシア
  • 第12章 労働市場と通貨と社会 紀元前500年から紀元後400年の中国、ギリシャ・ローマ、インド
  • 第13章 市場の消滅と再出現 紀元後400年から1000年のヨーロッパとインド
  • 第14章 労働市場をもたない異例の国家の成立 アメリカ大陸
  • 第15章 労働市場の復活 1000年から1500年のヨーロッパとインド
  • 第5部 労働市場のグローバル化 1500年から1800年まで
  • 第16章 労働集約型発展経路 近代初期のアジア
  • 第17章 労働集約型発展経路から資本集約型発展経路へ 近代初期の西ヨーロッパ
  • 原注
  •   下巻
  • 第18章 ヨーロッパの影響下で移り変わる世界の労働関係
  • 第19章 東ヨーロッパの労働粗放型発展経路の道
  • 第6部 労働関係の収斂 1800年から現在まで
  • 第20章 産業革命
  • 第21章 非自由労働の衰退
  • 第22章 自営労働の相対的な減少
  • 第23章 家庭内労働の割合の減少
  • 第24章 自由賃金労働の増加
  • 第7部 変わりゆく仕事の意義 1800年から現在まで
  • 第25章 仕事と余暇
  • 第26章 利益の拡大 個人戦略と集団戦略
  • 第27章 仕事と国家
  • 終章 今後の展望
  • 解説 木下順 大原社会問題研究所嘱託研究員
  • 訳者あとがき/原注/参考文献/図版リスト

【感想は?】

 「労働史」と言うと偉そうだが、つまりは「ヒトはどうやって生きてきたか」だろう。

 そういう点では、本書は世界史の本でもある。歴史というと王や将軍を主役に配し国の興亡を語るもの、と思われがちだが、本書は違う。本書の主人公は働いて糧を得る、私やあなたのような普通の人々だ。歴史書には名を記されない、だがその時代の人間の多くを占める人々の暮らしの変転を綴ったのが、本書なのだ。

 本書の特徴は、その視野の広さだ。なにせ石器時代の狩猟採集生活から始まる。ったって、書類で資料が残ってるワケじゃなく、現代の狩猟採集民の暮らしや考古学的資料から類推するんだが、どうも「バンド」が重要な単位らしい。これは「家族」より大きく「部族/民族」より小さい。「部族/民族」が集まる時期を除き、共に移動する単位だ。

平等主義、互酬、共有、寛容は、無差別に発揮されるのではなく、おもにバンドの内部だけで発揮される。
  ――第2章 狩猟採集民の仕事

狩猟採集民のバンドはたいていそれ自体で一つの労働単位を形成し、同じ集団に属する別のバンドの成員とは接触しない。
  ――第3章 狩猟採集以外の活動

 バンド内部の仕事の分担は、できる人ができることをする、本書では「互酬」と呼ぶ形態だ。他の形態は「独立生産」「賃金労働」「奴隷労働」「貢納-再配分」「雇用」が出てくる。

 やがて農業が始まり、人類の暮らしは大きく変わってくる。

「新石器革命」とは、広範囲を移動して食料をとってくる(「大地を糧にする」)経済から、集約的に食料を生産する経済へと、人間の生活手段が根本的に変化したことを指している。
  ――第4章 新石器革命

北半球の農民は夏のあいだにとんでもなく長期間働き、冬のあいだにたっぷり暇をとることになった。
  ――第5章 農民の仕事

 それで楽になるのかと思ったら、困ったことに…

農作業をするということは、世帯全員の労働が増えるということだった。
  ――第6章 男女間の分業

 …なんか、農業に騙されてね? もっとも、皆が似たような仕事をこなすって暮らし自体は大きく変わらなかったようだ。

考古学的データから推察されるのは、土器職人と織物職人を別にすれば、全般に新石器革命から最初の数千年のあいだは専門職の分化は起こっておらず、この期間の最後になってようやく中国に例外的な分化がぽつぽつ生じていたらしい
  ――第7章 世帯間の分業とそこから生じうる影響

 逆に土器職人と織物職人は特別な「専門家」だったのか。織物が大変なのは感覚的にわかるけど、土器を作るのも専門の技術や知識が要るんだろう。火炎土器とか、やたら凝った形だし。

 そんな農業とは別に、牛や羊を飼って暮らす人たちもいた。そして、考古学者や歴史家は彼らを冷遇してきたらしい。

牧畜社会が他の社会から独立を保って営まれたこと、そして国家形成の先駆的な道を開いたことは、長いあいだ――不当に――歴史の禁忌とされてきた。
  ――第8章 「複合」農業社会における労働 不平等の拡大

 とはいえ、農業も時代が下るに従い分業が増えてゆく。名前ばかりが有名で謎が多いインダス文明も…

(インダス文明では)収穫した穀物は農家自身で脱穀しなかった。このことは生産が共同体に、ことによると中央組織に管理されていたことを物語っていると考えてよい。
  ――第9章 最初期の都市の労働 職業の文化と再分配

 と、かなり組織化されていた様子。

 文書だけでなく、遺跡も多く残っているのがエジプト。そう、かの有名なピラミッドやスフィンクスなどだ。あんな豪勢なシロモノを作るには、相当に分業が進んだ社会が必要だ。そこで働く者も、奴隷ってワケじゃなく…

世界初のストライキはデイル・アル=メディーナ(→コトバンク)の労働者によるものだった
  ――第10章 国家における労働 多様な労働関係

 古代エジプトには様々な職業があったらしいことは「エジプト神話集成」で見当がついていたが、雇用主に組合で対抗する場合もあったのだ。

 その雇用だが、やはり色々な形態があったようで。

「直接労働契約が多く見られるのは、家事労働や家畜(馬、家禽、犬)の世話などにおいてで、同様に、官でも民でも書記の仕事や管理の仕事のような、生産に直接かかわらない仕事全般においては直接雇用が主流となるが……生産にかかわる活動全般、とくに大人数の(「組」にして使う)労働者を必要とする仕事では、下請形式のほうが好まれた」
  ――第11章 貨幣化と労働報酬 ユーラシア

 こういう、直接雇用と下請けの違いは、現代でも似ているなあ。

 現代に生きる私たちは、仕事といえばまず雇用が思い浮かぶが、労働市場が不要な社会もあった。

極論をいえば、完全なカースト社会には――とくに村落レベルでは確実に――市場など必要なく、ましてや硬貨のような交換手段もまったく必要でない。
  ――第12章 労働市場と通貨と社会 紀元前500年から紀元後400年の中国、ギリシャ・ローマ、インド

 どのカーストが何をやるかが決まっていて、必要なカーストが揃っているなら、社会は維持できるのだ。そこで生きる人の幸不幸は別として。そして、市場が不要なら、貨幣も不要となる。逆の言い方をすると、貨幣がないと労働市場も成立しない。

ローマ支配の終焉は、すなわち小銭の終焉だった。(略)信頼できる硬貨が豊富に鋳造されていないと賃金労働が日常的に存在できないのである。
  ――第13章 市場の消滅と再出現 紀元後400年から1000年のヨーロッパとインド

 「小銭」である点に留意しよう。その小銭、素材は銅などだが、中には変わった素材もあった。

(アステカでは)カカオ豆が最少額「硬貨」の役を果たし、ケープとして使われる「クアチトリ」よ呼ばれる綿布が中程度の価格の交換手段、斧を模したT字型の青銅器や、その他の貴重品(ガチョウの羽軸に詰めた砂金や、錫の小さな破片など)が最も価値の高い交換手段だった。
  ――第14章 労働市場をもたない異例の国家の成立 アメリカ大陸

 「チョコレートの歴史」にも少し出てきたが、やはりカカオは特別なシロモノだったのか。布を貨幣とするのも、言われてみれば合理的かも。産業革命前は織った布って、すんげえ手間かかってるし。

 さて、やがて近世になると、特に欧州じゃ都市化もジワジワと進み、ギルド=職業組合もできてくる。

ギルドが出現し、繁栄するのに重要だった四つの要因は、都市化、政治経済、人的資本、社会関係である。
  ――第15章 労働市場の復活 1000年から1500年のヨーロッパとインド

 日本でも江戸時代に入ると各藩で地場産業が発達してくる。ただ、その担い手は都市に住む職人じゃない。

地方における非農業生産の重要性は、藩の人口の約90%が「農民」だったにもかかわらず、地域生産物の40~50%を非農業生産物が占めていた
  ――第16章 労働集約型発展経路 近代初期のアジア

 改めて考えると、この「農民」は、農業従事者というより身分としての農民だろうなあ。で、農民といっても、田んぼで米を作るだけでなく、野菜や果物、または綿や胡麻などの商用作物を育てる農家もあるワケで。

 特に、亜麻や綿などの繊維関係は、産業革命のキッカケとなるぐらい、労働市場では大きなシェアを占めていた模様。

繊維産業はヨーロッパの大半の都市で最大の経済部門を占めていた。
  ――第17章 労働集約型発展経路から資本集約型発展経路へ 近代初期の西ヨーロッパ

 そりゃねえ。布を織るにしたって、まず糸を紡ぐところから始めるワケで。当時の女たちにとっても、糸紡ぎは重要な仕事だった模様。ちなみに産業革命の前では、綿織物はインドの名産だったとか。

 さて、本書では、少なくとも近世までは欧州だけでなく、インドなどの南アジアや中国・日本など東アジアも労働市場が発達していた、としている。対してパッとしないのがアフリカ。それには理由があって。

アフリカの人口密度は他大陸よりもずっと低く、1750年で1km2あたり約4人と、西ヨーロッパの1/6である
  ――第18章 ヨーロッパの影響下で移り変わる世界の労働関係

 その人口密度が低い原因は、土地がやせている上に乾季は土地が使えず、ツェツェバエが媒介する睡眠病(→Wikipedia)に人も牛もやられるから。当時の基幹産業である農業がこれじゃなあ。

 対して北のロシア。「穀物の世界史」によれば、産業化が進む西欧に向け、黒海やバルト海を介して小麦を輸出し存在感を示していた。が、意外なことに…

(ロシアの)最も重要な輸出品である穀物に関して注目すべき点は、面積当たりの収穫量が非常に少ないことである。
  ――第19章 東ヨーロッパの労働粗放型発展経路の道

 と、優れた農地チェルノーゼムを擁しながらも、悪名高い農奴制で生産性は悪かったのだ。そのため多くの濃度は東つまりシベリアに逃げ、帝国の東への拡張に一役買っていたとか。

 などと少しづつ産業化が進んで近代にはいると、やってきました産業革命。それまで農民の代表的な副業だった糸の紡績が…

1750年から1800年までのあいだに綿紡績の労働生産性は200倍に上がり…
  ――第20章 産業革命

 と、桁違いの高効率を誇る機械に奪われてしまう。そりゃガンジーも糸車を回すよね。

 その綿を供給していたのが米国南部のプランテーションで、生産を支えていたのが奴隷だ。かの悪名高い三角貿易ですね。ただ、様々な理由から少しづつ世界全体で奴隷制度は減っていく。が、働かせる側にとっては安い賃金で逆らわず働く労働力は都合がいいワケで、体裁を変えて残そうとする。その一つが年季奉公人。

…年季奉公人(略)と同様に、これらの人々も斡旋人に船賃を払ってもらったうえでプランテーション所有者に引き渡され、その債務を返済するために労働に服した。
  ――第21章 非自由労働の衰退

 似たような話を「アウトロー・オーシャン」が外洋漁船の船員で生々しく描いていたし、現代日本でも外国人技能実習生制度を悪用した例が時おりニュースになったり。

 それはともかく、奴隷と共に自営も減っているのが近代から現代の特徴。とくに変化が大きいのが農家だ。日本でも昭和あたりから農家はガックリと減った。米国や豪州の飛行機で農薬をまくような広大な農場を見ると、ちんまい家族経営の農家には生き残る術がなさそうに思えるけど…

全世界の5憶7千万の農場のうち85%は耕地面積が2ヘクタール以下なので、当然ながら小農と定義される。しかしながら、全世界の食糧供給の大半を担っているのがその小農なのである。
  ――第22章 自営労働の相対的な減少

 日本でも農家の大半は兼業だ。が、本書を読むと、昔から農家は糸紡ぎなどの現金収入を得る副業を兼ねていたのが見えてくる。

 その糸紡ぎは女の仕事とされることが多かった。やがて科学や工学が発達し、男が工場などへ働きに出かけるようになると、女の立場や環境も変わってくる。

19世紀に入ると、(略)医学分野での新しい知見を受けて、(略)命を落とさずにすむ子供の数が大幅に増え、それにともなって家事労働が増大したのである。
  ――第23章 家庭内労働の割合の減少

 インフラなどが整備され医療が普及すると、乳幼児の死亡率が下がる。が、従来の多産の習慣は暫く残るので、子だくさんになり人口は増える。国家には嬉しいかもしれんが、女にとっちゃ子育ての手間が増えるのだ。次の世代あたりじゃ子供の数は減るので、女の仕事は減りそうなモンだが…

家庭における母親の務めという点では、重視されることがそれまでの家事から、子育てに移った。
  ――第23章 家庭内労働の割合の減少

 と、忙しさはあまり変わらなかったりする。そういや白物家電が普及しても、なぜか家事の量は減らないんだよね。

 これは雇われ仕事も似たような傾向があって、例えばパソコンが普及すれば経理や事務の仕事は減りそうな気がするが、なぜか現実には逆に就業時間が増えてたりする。

 働かせる方も、一人当たりの仕事量を増やすために、色々と手を尽くす。その一つが出来高制だ。悪くない案のような気もするが、困った影響が出る時もある。

出来高賃金制で誰か一人が過剰に効率を上げると管理者に生産ノルマを厳しくされるのである。
  ――第24章 自由賃金労働の増加

 効率が上がると最初は儲かるけど、やがて単価が安くなっちゃうんだな。書籍も写本の時代は庶民の家ぐらいの価値があったけど、今じゃ1時間のバイト代ぐらいで手に入るようになった。本好きにはありがたいけど、書生は書写で稼げなくなってしまった。それでも、企業は価格競争を続けるから、社会全体としては単価を下げる圧力が働き消費者には嬉しい世界になっている…はずなんだが、同時に企業は人件費削減の努力もしてるからブツブツ。

 とまれ、前世紀までは労働運動などもあって、例えば先進国じゃ1日の労働時間は12時間から8時間になるなど、少しづつ労働条件はよくなってきた…と思ったら。

日本は残業が非常に多いせいで労働時間が突出して多く、長時間労働によるさまざまな健康上の弊害が生じている。
  ――第25章 仕事と余暇

 日本じゃ組合が業界単位や職種単位ではなく企業単位なためか、労働者同士の仲間意識みたいのが薄いんだよなあ。長時間働くって事は、他の人の仕事を奪ってるって事でもあるんだが。

 まあ、それでも、世界全体で見れば日本はマな方で。

労働組合がとくに発達し成果を挙げた国では、さまざまな理由から組合ができなかった国にくらべて、賃金労働者の待遇ははるかに恵まれている。
  ――第26章 利益の拡大 個人戦略と集団戦略

 これは皮肉な話で、労働者の味方であるはずの共産党が支配する国では、なぜか労働者の暮らしはあまし良くならなず、結局ソ連は潰れ中国は資本主義を取り入れた。そしてカンボジアは…

 そんな現代史を反映してか、先進国じゃ左派の人気はさえない。なにせ、本来は左派の支持層であるはずの労働階級からソッポ向かれてるんだから。

「低学歴層は、いまでは左派政党が高等教育を受けた新しい層とその子供を学歴の低い者よりも優遇していると考えるようになった」
  ――第27章 仕事と国家

 そしてなぜか極右が議席を増やしてるんだよなあ。日本共産党も、裏金疑惑を暴いて与党に大打撃を与えたのに、なぜか議席を減らしてるし。

 特に最近はロボットやAIの進歩に加え、インドなどへの外注で先進国の「仕事」は減りつつある。もっとも、AI技術者は引く手あまたでもあるんだが。かつては「21世紀になれば就業時間は減り余暇が増える」なんて明るい展望もあったが、ふたを開けてみればご存知の通り。今のところ、先進国には閉塞感が漂っているが…

「われわれ」の仕事の報酬が公正になればなるほど、これを民主的に他者とも分かちあおうという機運が高まってくる。そしてそれがいっそう公正さの重要性を知らしめるのである。
  ――終章 今後の展望

 と、著者は希望を捨てていない。

 現代の日本に生きる私たちは、「仕事は労働市場で見つけるもの」と思い込んでいる。だが、人類史レベルの視野・視点で見ると、労働市場が幅を利かした時代や国は比較的に稀なのだ、と思い知らされる。権力者や軍人の歴史ではなく、「働く人びと」の歴史に興味がある人にお薦め。

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2025年7月 7日 (月)

アンドリュー・スチュワート「情報セキュリティの敗北史 脆弱性はどこから来たのか」白揚社 小林啓倫訳

情報セキュリティの重要性は高まる一方だが、それを実現するための取り組みはまだ道半ばだ。情報セキュリティの重大な欠陥が常態化している上、それは深刻な構造的問題に根ざしている。
  ――プロローグ 3つの汚名

現代における「ハック(Hack)」のもっとも初期の用法では、この言葉は、創造的な方法で機械を操作したり、変更を加えたりすることを意味していた。
  ――4 ドットコム・ブームと魅力的なフィードバック・ループ

パスワードに代わるものを広く普及させようとする試みは、すべて失敗に終わっている。
  ――6 ユーザブルセキュリティ、経済学、心理学

情報セキュリティの歴史を長い目で見ると、今日の考えの多くが、深刻な歴史の軽視による空白から生まれていることがわかる。
  ――9 情報セキュリティの厄介な本質

【どんな本?】

 Windows を使っていれば「更新してシャットダウン」はお馴染みだ。また、幾つかの有名なアプリケーションも、時おり最新版に自動更新する。これらの「更新」の多くは、バグを直したり、脆弱性の穴を塞いだりしている。優れたアフターサービスだとも言えるが、もともと欠陥品を出したんだろと言う人もいる。Google で「個人情報流出」で検索すると、連日のように事件が起きているのがわかる。

 なぜこんなにも、コンピュータの情報セキュリティは甘いのか。その理由を、著者はコンピュータの歴史から探ろうとする。その黎明期から、情報セキュリティは問題視され続けてきたのだ。

 そしてスマートフォンが普及した今、誰もがコンピュータの情報セキュリティと付き合っていく必要がある。

 攻撃する者と守る者、そして脆弱性を利用して利益を得ようとする者。様々な思想や立場の者が織りなす、情報セキュリティを巡る波乱万丈のドラマを描く、ホットなドキュメンタリー。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は A Vulnerable System: The History of Information Security in the Computer Age, by Andrew J. Stewart, 2021。日本語版は2022年10月26日第一版第一刷発行。私が読んだのは2022年11月24日発行の第一版第三刷。売れたなあ。単行本ハードカバー縦一段組み本文約314頁に加え、訳者あとがき6頁。9ポイント45字×18行×314頁=約254,340字、400字詰め原稿用紙で約636枚。文庫ならちょい厚め。

 文章は比較的にこなれている。コンピュータを扱う本だけに、どうしても技術的な話も出てくるし、その一部は相当に突っ込んだ話になる。例えばバッファオーバーフローの手口とか。が、分からなければ読み飛ばしても問題はない。「なんか技術的に難しい話なんだな」程度に了承していれば充分。というか、必要なのはIT知識より読み飛ばす読書技術だ。それより、パソコンを使って意味不明な専門用語に悩まされた経験があると、切実さが増すだろう。

【構成は?】

 ほぼ時系列順に進むので、素直に頭から読もう。

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  • プロローグ 3つの汚名
  • 1 情報セキュリティの「新次元」
    コンピュータの登場/ランド研究所
  • 2 研究者たちの期待、成功、失敗
    ウェア・レポート/CIAの3要素/「安全なシステム」とは?/秘密の通信
  • 3 インターネットとウェブの誕生、不吉な予兆
    電子メール/世界初のコンピュータウィルス/UNIXの安全性とファイアウォール/ネットワーク脆弱性スキャナ「SATAN」
  • 4 ドットコム・ブームと魅力的なフィードバック・ループ
    ウェブの脆弱性/「ルート」による攻撃プログラムの公開/セキュリティ製品が抱えるジレンマ/善いハッカー、悪いハッカー
  • 5 ソフトウェアセキュリティと「苦痛なハムスターホイール」
    OSのセキュリティ/ビル・ゲイツのメモ/マイクロソフトはなぜ成功したのか/オラクルの誤算とアップルの躍進
  • 6 ユーザブルセキュリティ、経済学、心理学
    「なぜジョニーは暗号化できないのか」/騙されやすい人たち/パスワード問題/情報セキュリティの経済学/情報セキュリティの心理学
  • 7 脆弱性の開示、報奨金、市場
    ゼロデイ脆弱性/いかに開示するか/脆弱性の売買/アピールのためのハッキング
  • 8 データ漏洩、国家によるハッキング、認知的閉鎖
    個人情報の流出/米・中・露のハッキング戦争/偽りの現実
  • 9 情報セキュリティの厄介な本質
    /結局、どのセキュリティ対策が必要なのか?/「賢者の石」は存在しない/本質的複雑性と偶有性複雑性/アカデミア・コミュニティ・産業界/いかに守るか?/合理的な行動とは?
  • エピローグ 過去、現在、あり得る未来
  • 謝辞/訳者あとがき/註/主要参考文献/索引

【感想は?】

 コンピュータの歴史から大雑把な流れを把握し、歴史的なパターンを読みとる。そういう事を、著者は読者に期待している。少なくとも、プロローグとエピローグからは、そう読み取れる。

 が、読後の感想はだいぶ違う。なにせ出てくるエピソードがあまりに豊富で、かつそのどれもがやたらと面白すぎる。そのため、やたら起伏に富んだ連作ドラマを見たような気分になってしまう。

 そもそも、完全な情報セキュリティなんて無理なんじゃね、とも感じる。黎明期のスタンドアロンでかつ一度に一人しか使えないマシンなら、マシンに触る人を監視すればよかった。だが一つのマシンを複数の人が同時に使うTSS(→Wikipedia)だと、問題は深刻になる。他の利用者との密かな通信を、どうやって防ぐか。この秘密通信の手口も、SF小説ばりで実に楽しい。

 それはともかく、初期のコンピュータ業界はセキュリティを軽んじていた。それにはちゃんと理由がある。

コンピュータのOSにマルチレベルのセキュリティシステムを実装するためのコストは、開発費の2倍に達すると見積もられていた。
  ――2 研究者たちの期待、成功、失敗

 ぶっちゃけ金がかかるからだ。売る側もそうだが、買って使う側も金がかかる。それも金庫のように一回買えばいいってモンじゃない。警備員のように、継続してカネが出ていくのだ。しかも、誰が来るかわからないインターネットのヤバさは、使う者が限られるTSSとは桁が違う。そんなインターネットに公開し、かつセキュリティにカネを出す者は限られていた。

オンラインポルノを提供するサイトのセキュリティは、米国の政府機関、銀行、信用調査機関、新聞が所有するサイトのセキュリティよりも高いことが判明したのだ。
  ――3 インターネットとウェブの誕生、不吉な予兆

 あー、確かにポルノは利用者の個人情報を守らないと信用にかかわるしねえ。まあ、これには、情報セキュリティならではの面倒くさい事情もあるのだ。

企業はセキュリティに関する専門知識を持たず、そのためセキュリティ製品が提供する機能が必要だった。しかしセキュリティの専門知識を持たないがゆえ、提供された製品を評価することができなかった。
  ――4 ドットコム・ブームと魅力的なフィードバック・ループ

 WIndowsファイアウォールとか、細かく設定してます? デフォルトのまま使ってる人も多いよね。セキュリティ製品も「とりあえずNortoon入れとくか」的な感じの人が大半だと思う。企業だって、決定権を持つ人は必ずしもコンピュータの専門家じゃないし。

 その Windows も、結構な頻度で「更新してシャットダウン」が必要になる。あれはバグを直したり脆弱性の穴を埋めたりしている。これをギョーカイ用語でパッチと呼ぶ。「穴を塞ぐんだから嬉しいよね」と思うでしょ。でもね。

パッチは、ハッカーに対してプログラムのどこを見ればよいかを示す、ビーコンの役割を果たすのである。
  ――5 ソフトウェアセキュリティと「苦痛なハムスターホイール」

 パッチとは「○○~××を◇◇に置き換える」作業だ。だから悪者がパッチを見れば「○○~××に穴がある」とわかる。パッチは弱点を防ぐと共に、悪者に弱点を教えてしまうのだ。そんなワケで、更新プログラムはなるたけ早めに適用しましょう。

 そもそもバグや脆弱性のある製品を出すなよ、と考える人もいるだろう。自動車や白物家電なら、欠陥製品はリコールの対象だ。なぜコンピュータ関係、特にソフトウェアは許されるのか? それは、ソフトウェアの性質にある。

2004年にマイクロソフト・プレスが出版した本によれば、1000行のコードには通常2~20個のバグが含まれる
  ――7 脆弱性の開示、報奨金、市場

 自動車や白物家電に比べ、ソフトウェアは部品の数が桁違いに多いのだ。十進数で2~4桁は違う。その分、一度作っちゃえば量産は簡単で安上がりなんだけど。

 そんな具合だから、穴を突いて悪さしようって奴が後を絶たない。ケチな迷惑メールなんて可愛い方で、国家ぐるみで攻撃を仕掛ける連中も多い。

中国と同様に、ロシアもハッキング能力の向上に多大な資源を投入している国家である。「ファンシーベア」は、ロシアの軍事諜報機関のGRUと関係があるとされる。
  ――8 データ漏洩、国家によるハッキング、認知的閉鎖

 このファンシーベアの尻尾を掴む元となったネタってのが、笑っちゃうぐらいにお粗末だったり。

 さて、本書が集めたネタの多くを提供したのは、インターネットでありwwwでありunixだったりする。昔の web は http だったが、今は https が主流だ。つまり、昔の web はセキュリティなんか全く考えちゃいなかったのだ。だって CERN の研究者が科学論文や研究データを共有するために考えた仕組みであって、決済や出会い系で使うなんて思いもしなかったのだ。

データ漏洩を防ぐのを難しくしているのは、構造上の問題がその根底にあるからだ。インターネット、ワールド・ワイド・ウェブ、UNIXオペレーティングシステム、TCP/IPプロトコルスイートは、セキュリティを考慮に入れて設計されたわけではない。
  ――エピローグ 過去、現在、あり得る未来

 上の引用に挙げたのは技術的なモノだが、他にもフィッシング・メールや偽造サイトや出会い系のサクラなど、不注意や助平根性のスキを突く手口もある。真面目に情報セキュリティを考えると、心理学や(行動)経済学のまで手を広げていくハメになる。お話としては面白いが、セキュリティ担当者は大変だ。

 セキュリティ担当者なら身につまされるネタも多いだろうが、単に三面記事的なエピソードの集成としても充分に楽しめる。真面目な姿勢で書かれた本だが、むしろ野次馬根性が旺盛な人にこそお薦め。

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2025年7月 3日 (木)

SFマガジン2025年8月号

「きみたちは飢えた人たちを救え」
「世界のそれ以外の部分は、ぼくが救う」
  ――ウォルター・ジョン・ウィリアムズ「緑紋病 後編」酒井昭伸訳

「単刀直入に申し上げますと、本船は海賊によって包囲されています」
  ――辻村七子「博士とマリア」最終回

「彼の世界へのまなざしには奇妙なところがあります。ここにあってここにないものをみている」
  ――吉上亮「ヴェルト」第二部第七章

「さあ、皆さん、血を流しましょう」
  ――津久井五月「カササギを絞め殺す」

「おれは、その仏様を斬っちまった」
  ――「天正アポカリプス」

 376頁の標準サイズ。

 特集はスプロール・シリーズの新版刊行にあわせ「ウィリアム・ギブスン特集」。作品紹介とギブスンへのインタビュウーに加え、解説やエッセイなど。

 小説は8本+3本。連載が5本+ショートショート3本、読み切りが3本。

 連載小説5本+3本。辻村七子「博士とマリア」最終回,冲方丁「マルドゥック・アノニマス」第60回,吉上亮「ヴェルト」第二部第七章,夢枕獏「小角の城」第82回,飛浩隆「空の園丁 廃園の天使Ⅲ」第28回に加え、田丸雅智「未来図ショートショート」3本「世界を写す」「リサ先生の保育」「クラフトミート」。

 読み切り小説は3本。津久井五月「カササギを絞め殺す」,高木ケイ「天正アポカリプス」,ウォルター・ジョン・ウィリアムズ「緑紋病 後編」酒井昭伸訳。

 連載小説。

  辻村七子「博士とマリア」最終回。ドクターとマリアⅡの船は、海賊船に包囲される。乗り込んできたのは因縁の相手、モルセ。かつて組織の同僚であり、ドクターの妻マリアを殺した男。そのコルセが求めたのは…

  相当に深刻な状況で深刻な話が展開するにも関わらず、空気を読まないマリアⅡの茶々のお陰で、なんとも間の抜けたユーモラスな雰囲気になるのが、この作品の楽しい所。今回は、ある意味怒涛の展開なんだが、読後感はクールでユーモラスな感じが星新一の作品に少し似てる。

  冲方丁「マルドゥック・アノニマス」第60回。ケネス・C・Oらを人質としたラスティ達が立てこもるリバーサイド・ホテルを、イースターズ・オフィスに楽園とマルドゥック市警察そしてクインテットまでもが加わって襲撃が始まる。バロットたちは首尾よくケネス・C・Oたちを見つけたが…

  エンハンサーたちが入り乱れての激しいバトルが始まる回。襲う側も迎え撃つ側も、それぞれに成長してる。ラスティは登場時から凶悪な戦士だったが、今回は更にパワーアップしてる。バジルも能力に磨きをかけ、細かいながらも便利で意表を突く使い方をマスターした。

 吉上亮「ヴェルト」第二部第七章。トューロン包囲戦で傷を負ったナポレオンを送り届けたアンリ・サンソンンはパリに戻ってきた。大公安委員は次々と粛清を進める。その長を務めるマクシミリアン・ロベスピエールは、健康を害して療養中だった。

 作中のロベスピエールは生真面目で潔癖な理想家で、特に今回は病を患っているらしく線の細さも感じさせる。自由を標榜して起こした革命であるにも関わらず、政権の不安定さから検閲を施行して言論の自由を押しつぶしてしまうあたりは、なんとも。

  飛浩隆「空の園丁 廃園の天使Ⅲ」第28回。<夏の区界>の敵意に晒され、<青の区界>の変異は進み、計算資源はぎりぎりまで搾り取られる。子供たちが高校へ行っているあいだに閑散としている青野の町は、風すらも止み…

  海苔子ちゃん、満を持して登場…と思ったら。今さらになって、<青の区界>は高校生たちのための町なのだ、と思い知る。鯨の登場場面では、あの怪作「神鯨」を思い浮かべた。ところでVR空間を舞台にした作品は魔法や錬金術が使えるけどSF扱いになるんだろうか?

 読み切り小説。

 津久井五月「カササギを絞め殺す」。ミミテク。耳道に隠したスピーカーとマイクに加えコンタクトレンズで、その場に相応しい言動をAIが示す。慣れないと使っているのがすぐバレるが、佐野典真は幼い頃から鍛え、自然に「浅見天馬」として振る舞える。この特技を活かし、カモを見定めるため高級カジノに乗り込んだ。

 うわあ、欲しいぞミミテク。別にスターになりたいワケじゃない。普通の常識人として振る舞えれば充分、と思うのは私だけじゃないはず。流行りのAIに流行りの裏家業を組み合わせながらも、実に人間臭いドラマに仕立てた腕は見事。少し星新一の「肩の上の秘書」に似たアイデアながら、小説としての感触は全く異なるのも、「SF小説」の可能性を感じさせてくれる。

 高木ケイ「天正アポカリプス」。城は包囲され、中の者はみな飢えている。昨日、百姓には汁が一杯だけ。具はほぐした縄。妙な夢を見て、起きたのは日がすっかり上ってから。乞食坊主に相談に行くが…

 一人称が「ぼく」だったり「おれ」だったり。上からくる混乱かと思ったが、どうも違う。とはいえ、語り手の見聞きした事柄はあまりにも異様。映像化したら、かなり強いインパクトを持つだろうなあ。

  ウォルター・ジョン・ウィリアムズ「緑紋病 後編」酒井昭伸訳。ジョナサン・テルジアンの行方不明の三週間を追う、人魚のミッシェル。そこに聞こえてくる、かつての恋人ダートンの声。「ミッシェル、愛してる」。今は見つかっていないが、時間の問題だろう。どう対処すべきか?

  近未来のテルジアンの場面と、遠未来のミッシェルの場面が交代で話は進む。テルジアン側は現代の国際社会の暗い部分を、これでもかと突きつけてくる。新薬開発の偏りとかね。アフリカでエイズが蔓延した理由の一つでもあるんだよなあ。ミッシェル側の展開は実に意外だった。

  「ウィリアム・ギブスン特集」で、千葉県知事の熊谷俊人が登場。なぜって、この人、元チバシティ市長だから。取材する編集部は市議会議員時代の議事録まで読み漁る準備万端ぶりに頭が下がる。たった6頁の記事に、そこまで準備するとは。受ける県知事側も選挙で選ばれる政治家に相応しく、雄弁に語る語る。

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