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2025年6月 3日 (火)

スコット・レイノルズ・ネルソン「穀物の世界史 小麦をめぐる大国の興亡」日本経済新聞出版 山岡由美訳

戦争と革命は、過去と同じく現在においても、小麦と大いに関係する。これが本書の主題だ。
  ――はじめに

1918年から22年にかけては、飢餓と内戦と混乱の月日だった。ソヴィエト連邦の人口は1920年み700万人、21年に1100万人、22年には1300万人減少した。
  ――第14章 権力の源泉としての穀物 1916年~1924年

わたしの見るところ、(略)世界についての彼(パルヴス)の認識は、食料の生産や保存や輸送の方法、先史時代の長距離輸送路、そして長距離交易を可能にした金融手段をめぐる奥深い歴史を理解するための手がかりとなる。
  ――第14章 権力の源泉としての穀物 1916年~1924年

【どんな本?】

 一般に歴史は政治家や軍人の活躍や争いを中心に語られる。だが、本書は全く異なった角度から歴史を見る。扱う地域は黒海から地中海そして大西洋であり、注目するのは小麦の流れである。

 ウクライナからロシアには、チェルノーゼムと呼ばれる黒く肥沃な大地が拡がる。ここで栽培された穀物=小麦は、黒海からボスポラス海峡・ダーダネルス海峡を経て地中海へと運ばれ、古代ローマ帝国を養った。

 そう、帝国は穀物が支えている。だから、穀物の流れは帝国の運命を左右する。

 商人で革命家のパルヴス(1867年9月8日~1924年12月12日、→Wikipedia)は、この視点で歴史を分析・解釈し、青年トルコ人に協力してオスマン帝国の改革に協力し、また第一次世界大戦の東部戦線およびロシア革命で暗躍した。

 パルヴスの着目点を引き継ぎ、穀物=小麦が世界のパワーゲームに与えた影響を分析・解釈し、第一次世界大戦までの世界史を語り直し、読者に新しい視点を与える一般向けの歴史解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Oceans of Grain: How American Wheat Remade the World, by Scott Reynolds Nelson, 2022。日本語版は2023年10月13日1版1刷。単行本ハードカバー縦一段組み本部343頁。9.5ポイント44字×18行×343頁=約271,656字、400字詰め原稿用紙で約680枚。文庫なら厚めの一冊分。

 文章は比較的にこなれている。内容も難しくないが、幾つか必要な知識がある。一つは小麦の保存方法、もう一つは小麦からパンを作るまでの工程。麦は収穫したらすぐ干して水分を飛ばす必要がある。また米と違い皮が粒に食い込んでいるので、粉に挽いて皮を取り除いた方が美味しい。この粉に挽く作業はかなりの手間だ。加えて米は家庭で炊けるがパンはパン屋か村の竈で焼く。何かと手間がかかるのである。

 なお、本書が主に扱っているのは19世起以降の世界史、それも黒海から西の欧州大陸の歴史なので、その辺に詳しいと更に楽しめるだろう。

【構成は?】

 ほぼ時系列順に進むので、素直に頭から読もう。

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  • はじめに
  • 第1章 黒い道 紀元前1万年前~紀元前600年
  • 第2章 コンスタンティノープルの門 紀元前800年~紀元1758年
  • 第3章 重農主義的な膨張 1760年~1844年
  • 第4章 ジャガイモ疫病菌と自由貿易の誕生 1845年~1852年
  • 第5章 資本主義と奴隷制 1853年~1863年
  • 第6章 アメリカの穀物神 1861年~1865年
  • 第7章 爆発音と大変化 1866年
  • 第8章 何をなすべきか 1866年~1871年
  • 第9章 穀物の大危機 1873年~1883年
  • 第10章 ヨーロッパの穀物大国 1815年~1887年
  • 第11章 「ロシアはヨーロッパの恥」 1882年~1909年
  • 第12章 オリエント急行、行動軍 1910年~1914年
  • 第13章 パンをめぐる世界戦争 1914年~1917年
  • 第14章 権力の源泉としての穀物 1916年~1924年
  • おわりに
  • 補遺/謝辞/訳者あとがき/原注/索引

【感想は?】

 ロシアがウクライナに侵攻し、米が高騰している今に読むと、陰謀論に入れ込みたくなる。なお陰謀の主はDSではなく穀物メジャー(→Wikipedia)だ。

 都市は人口が密集する。これを養うには大量の穀物=小麦が要る。これを集め保管し運び入れ加工せねばならない。大量の物資を運ぶには、水路が便利だ。

海上輸送のコストは、控えめに言っても馬を使った陸上輸送の1/30だった。
  ――第7章 爆発音と大変化 1866年

 よって、都市は水運に便利な場所で発達する。今だって歴史ある大都市は大河のほとりにある。

(地理学者の主張によれば)帝国は、交易路(たいていは河川や海)の掌握によって定義されるという。
  ――第1章 黒い道 紀元前1万年前~紀元前600年

 順番として、帝国が穀物の流通を促したというより、穀物の流通の拠点で帝国が発達した、そういう関係らしい。

コンスタンティノープルの門を通して世界を見ると、まず交易路が先にあって、繁栄を遂げた帝国群はそこを土台に広がったにすぎない
  ――第2章 コンスタンティノープルの門 紀元前800年~紀元1758年

 流通の拠点には大きな倉庫が立ち並ぶ。倉庫は荷物の預かり証を発行する。やがて、この預かり証は現在の手形のように、貨幣の役割を担い始める。つまり金融が発達するのだ。

ギリシャやローマ、ビザンティンといった帝国のこうした穀物倉庫は、現代の銀行の前身だった。
  ――第2章 コンスタンティノープルの門 紀元前800年~紀元1758年

 そうやって栄え始めると、更に人が寄ってくる。人が増えれば産業が育つ。

労働と資本は、食料が最も安い所に蓄積された。安い食料は水路で届けられたことから、水深の深い港湾を擁する都市が栄えたのだ。
  ――第4章 ジャガイモ疫病菌と自由貿易の誕生 1845年~1852年

産業が生まれたのは、原材料が豊富で食料が安い上に、食料を運んでくる鉄道車両や船に製品を載せて送り出すことが可能な場所だったのだ。
  ――第7章 爆発音と大変化 1866年

帝国というものは、都市に食料を送って農村に帰り荷として製造品を届ける、安価で高速かつ効率的な輸送路を必要とするものだ。
  ――第12章 オリエント急行、行動軍 1910年~1914年

 などと、穀物の流通と都市や帝国の興亡は、深い関係がある。この理屈を19世紀以降の欧州の歴史に適用したのが、本書の本筋だ。例えばナポレオン戦争は、欧州に飢えをもたらした。その結果…

フランス革命戦争とナポレオン戦争はヨーロッパに食糧不足を引き起こし、ヨーロッパの周縁としてのアメリカおよびロシアの両帝国に利益をもたらした
  ――第3章 重農主義的な膨張 1760年~1844年

 ロシアはチェルノーゼムで作った小麦をオデーサで船に積み込み、黒海からボスポラス海峡を経て欧州に小麦を運ぶ。米国の小麦は大西洋を渡りアントワープで降ろされる。オデーサ/アントワープいずれも21世紀の現代でも重要な港だ。プーチンがオデーサにミサイルを撃てば小麦の価格が上がりアフリカ諸国は政情不安定になる。

 米国の南北戦争も、小麦を軸に見ると様相が変わってくる。当時の共和党は奴隷制に反対した。というのも…

カリフォルニアからシカゴ、またニューヨークからペンシルヴァにいたるどの地域でも、共和党のもっとも裕福な支持者の多くは商人や鉄道関係者、そして両者の弁護士だった。
  ――第6章 アメリカの穀物神 1861年~1865年

 そう、鉄道が重要なのだ。

(米国)南部の鉄道の大半は、(略)綿花とタバコを載せて東に移動したが、金物類や穀物、工業製品、輸入品の奴隷州における需要はごく少なかった。東から西に戻る列車はほとんど空で、西から東に送られる商品の価格を実質的に2倍にしていた。
  ――第5章 資本主義と奴隷制 1853年~1863年

 奴隷はカネがない。だからモノが売れない。よって西に向かう列車は空になる。奴隷が解放されれば彼らもカネを手に入れ市場になる。そういう理屈で共和党は奴隷解放に賛同したのだ。

 さて、穀物の流通では輸送の費用が重要な問題になる。宝石や貴金属など高価で腐らずかさばらないモノなら輸送費はたいした問題じゃないが、穀物は重いし腐るしかさばる。だから、輸送費が価格すなわち市場競争力に大きく影響する。

穀物の輸送費が安くなりさえすれば、アメリカは世界の穀物中心地としてロシアに対抗できるかもしれない
  ――第6章 アメリカの穀物神 1861年~1865年

 アメリカで鉄道が発達した理由の一つが、これだ。ただ、輸送費には独特の性質がある。

電気、水、パンのどれを届ける場合でも、最後の1マイルは消費者に製品を届けるのに要する総コストの最大80%を占める。ここには店舗や事務所の家賃のほか、手渡しや積み替え、請求書送付のコストなどが含まれる。しかも、これらは個別かつ具体的な性格をもつ。いずれも人、交渉、生産を必要とする。
  ――第7章 爆発音と大変化 1866年

 いわゆるラスト1マイル問題だね。特に小麦の場合、生地をこねて焼く手間もデカい。発展途上国で携帯電話やスマートフォンが普及したのも、このラスト1マイル問題を回避できるって理由が大きい。

 いずれにせよ、輸送費が下がると、多くの人が利益を得る。

穀物流通に必要な輸送費を下げることでもたらされる恩恵は、物資と時間の両面においてすべての人に利益をもたらすはずだと彼(パルヴス)は説いた。
  ――第9章 穀物の大危機 1873年~1883年

 ただ、不利益を被る人もいる。地主だ。

農業における改善は、個々の地主にこそ短期的に利益をもたらすが、土地の賃貸費および金銭の貸し手としての地主層に打撃を与えるものだった。
  ――第8章 何をなすべきか 1866年~1871年

 奇妙に思えるが、日本でも特に戦後になって農家は大きく減った。農業の効率が上がれば、少ない農地で需要を満たせるので、農地が余る。そんな理屈だと思う。

 工業国の印象の強いアメリカだが、実は昔も今も農産物の大輸出国だ。工業国となった日本は都市化が進み山間部は過疎化しているが、農業国は事情が異なるらしい。

重農主義帝国のロシアとアメリカでは富のほとんどが周縁地域に集まっていたが、ドイツやイタリアのように安価な穀物に課税して消費するヨーロッパの国々は首都に富を集中させていった。
  ――第10章 ヨーロッパの穀物大国 1815年~1887年

 こういう目で見ると、第一次世界大戦の原因もだいぶ違ってくる。ドイツは中東と欧州を結ぶ鉄道を計画していた。これはロシアの穀物戦略を脅かす。だからロシアはドイツとオーストリアにアヤつけた、そういう仮説を本書は提示する。

トルコと中東を結ぶドイツの鉄道の完成は、ロシアやフランスからアラビア半島にいたる輸送路に対する脅威だった。この見方によれば、第一次世界大戦はヨーロッパの中東支配をめぐる争いとして始まった戦争で、最初に脅威を感じ取ったロシア帝国が、戦争を開始すべく兵力を動員したことになる。
  ――第13章 パンをめぐる世界戦争 1914年~1917年

 ロシアにとって輸出する穀物は重要な戦略物資だ。不凍港を求める理由の一つも、穀物にある。穀物の輸出に使える港が欲しいのだ。この野望の手段がシベリア鉄道だった…

満州にいたる鉄道の建設のために、ロシアは1904年時点で世界最大の債務を抱える帝国になった。(ロシアの蔵相セルゲイ・)ヴィッテ(→Wikipedia)にだまされたフランスの投資家の手元には、数十億金フラン相当の債権が残された。
  ――第11章 「ロシアはヨーロッパの恥」 1882年~1909年

 …のだが、日露戦争でポシャってしまった。

日本が旅順・大連からロシアを締め出すと、輸出に使える深水の不凍港をもたないこの帝国は、債務を返済する実際的な方法を失った。
  ――おわりに

現在(2021年)、大国としてのロシアが相対的に弱いのは、結局のところウクライナと別れたためだろう。
  ――おわりに

 それがプーチンがウクライナに攻め込む理由だ。プーチンは東部を齧り取るだけじゃ満足せず、少なくともオデーサを手に入れるまでは戦いを止めないだろう。

 穀物の流通を軸に世界史を見直す本書の視点は、現代の時勢にも充分に応用できる。幸か不幸か21世紀の世界の小麦市場はオーストラリア・フランス・カナダが輸出国として躍進したため、本書のような米露の二国対立ではなくなったが、小麦が世界情勢に大きな影響を与えることに変わりはない。

 書名は「穀物の世界史」だが、「小麦の近代以降の西洋史」が実態に近いだろう。もっとも、それだけ現代に近い時代を扱っている分、より身近なネタとして切実さも増している。技術や産業を軸に歴史を読み解くのが好きな人にお薦め。

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