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2025年2月 2日 (日)

モサブ・ハッサン・ユーセフ「ハマスの息子」幻冬舎 青木偉作訳

私の名前はモサブ・ハッサン・ユーセフ。
イスラム原理主義組織ハマスの七人の創設者のひとり、シェイク・ハッサン・ユーセフの長男である。
  ――2章 信心の梯子 1995年~1997年

中東では事実、水は土地よりもずっと大きな問題なのだ。
  ――18章 最重要指名手配 2001年

(自爆テロ犯たちは)誰もが一番目を望んでいた。そうすれば仲間が死ぬのを見なくて済むからだ。
  ――20章 矛盾 2001年夏

【どんな本?】

 著者モサブ・ハッサン・ユーセフは、ハマス創設者の一人であり幹部のシェイク・ハッサン・ユーセフの長男である。

 イスラエルの諜報組織シン・ベット(→Wikipedia)にスカウトされた著者は、二重スパイとして働きつつ、ハマスの中で重要な地位へと昇格してゆく。だが、活動の過程で見聞きした事柄やキリスト教との出会いを通じ、ハマスへの、アラブへの、そしてイスラムへの疑問が膨れ上がり…

 名は有名だが内情はほぼ不明なハマスの実態、現場の者が見たパレスチナ問題の現状、知られざるパレスチナ・イスラエル双方の手口、日本人に馴染みのないパレスチナ人の考え方など、興味の尽きない内容がてんこ盛りの、特異な体験談。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Son of Hamas, by Mosab Hassan Yousef, 2011。日本語版は2011年6月25日第1刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約339頁に加え、訳者あとがき3頁。9.5ポイント43字×17行×339頁=約247,809字、400字詰め原稿用紙で約620枚。文庫なら少し厚め。

 文章はこなれていて親しみやすい。内容も分かりやすい。パレスチナ問題の背景や詳細は、かなりはしょってあるが、本書を読む分には大きな問題はないだろう。アラファトの名を聞いたことがある、程度の人でも充分に読みこなせるだろう。

【構成は?】

 冒頭を例外として、基本的に時系列順に進むので、素直に頭から読もう。

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  • 著者の言葉
  • 序章
  • 1章 捕われの身 1996年
  • 2章 信心の梯子 1995年~1997年
  • 3章 ムスリム同胞団 1977年~1987年
  • 4章 投石 1987年~1989年
  • 5章 サバイバル 1989年~1990年
  • 6章 英雄の帰還 1990年
  • 7章 過激派 1990年~1992年
  • 8章 煽られる激情 1992年~1994年
  • 9章 拳銃 1995年冬~1996年春
  • 10章 暗黒の夜 1996年
  • 11章 オファー 1996年
  • 12章 823番 1996年
  • 13章 誰も信じるな 1996年
  • 14章 暴動 1996年~1997年
  • 15章 ダマスカス・ロード 1997年~1999年
  • 16章 第二次インティファーダ 2000年夏~秋
  • 17章 スパイ活動 2000年~2001年
  • 18章 最重要指名手配 2001年
  • 19章 靴 2001年
  • 20章 矛盾 2001年夏
  • 21章 ゲーム 2001年夏~2002年春
  • 22章 ディフェンシブ・シールド(守りの壁)作戦 2002年春
  • 23章 神のご加護 2002年夏
  • 24章 保護拘置 2002年秋~2003年春
  • 25章 サレー 2003年春~2006年春
  • 26章 ハマスの未来像 2005年
  • 27章 別れ 2005年~2007年
  • エピローグ
  • あとがき/登場人物/用語解説/年表

【感想は?】

 いわゆる内幕物だ。しかも現在、極めてホットな話題、つまりハマスを扱っている。

 この手の物は「期待だけさせて…」な場合もあるが、本書は当たりだ。肝心のハマスの実態はアレだが、他は色とりどりの面白さが詰まってる。

 その前に、著者の姿勢を。なにせ著者の思想が強く出ているのだ。具体的にはハマスやイスラムを批判し、キリスト教を持ち上げている。米国じゃウケる姿勢だ。ただし単純なイスラエル支持ではなく、イスラエル軍の悪行も書いている。もっともシン・ベットの一部の人には信頼を寄せている。

 一種のスパイ物でもあるので、幾つか嘘が混じっている筈だ。でないと、著者の親しい人に迷惑がかかる。その辺を意識しながら読もう。

 さて、まず気が付くのは、パレスチナ人の社会や文化だ。欧州では中東系の移民が引き起こす軋轢が話題になっている。色眼鏡のせいかと思ったが、そういうワケでもないらしい。

アラブの人々にとって価値観や伝統は常に、政府の定めた憲法や法廷よりも重要なものである
  ――2章 信心の梯子 1995年~1997年

 「アラブの人々」とあるが、著者はパレスチナ人以外のアラブ人をどれだけ知ってるんだろう? とまれ、私たちの思い込みとも合致するところだ。

 意外だったのが、彼の父が刑務所に入っている時の話。稼ぎ手の父が不在となり、家族の暮らしは行き詰る。そこで助け合いになるおあと思いきや…

私に規律を守らせようとしたことを別にすれば、父が刑務所にいる間、私たち家族を助けてくれた人はひとりもいなかった。
  ――5章 サバイバル 1989年~1990年

 著者の父は地域で尊敬されていた、とあるのだが、どう解釈すべきなのか。いずれにせよ、こういった事柄が著者の考え方を少しづつ変えてゆく。

 また、パレスチナ人同士でも対立の芽がある。自宅がある人と、住処を喪って避難してきた人たちだ。

避難民はイスラエル人だけでなく、彼らを二流市民と見なした同胞のパレスチナ人からも迫害された。
  ――7章 過激派 1990年~1992年

 先の例と合わせるに、強者に媚び弱者を蔑むって事なのかも。

 やがて父だけでなく著者も刑務所に入る羽目になる。傍から見ると気まぐれに逮捕・拘束しているように見えるが、中には「保護するために逮捕」なんて場合もあって、そういう内幕の暴露も本書の面白さの一つ。

 それに加えて、外国の刑務所の中が覗けるのも野次馬根性で嬉しい。しかもパレスチナ人を入れるイスラエルの刑務所だ。特殊すぎて、本書以外じゃまず拝めない。で、実際、想像の斜め上の展開が待っている。

イスラエルの刑務所では、各組織が自分たちの組織の人間を管理することが許されていた。
  ――11章 オファー 1996年

 各組織とは、ハマス/ファタハ/イスラム聖戦機構/パレスチナ解放人民戦線/パレスチナ解放民主戦線などだ。意外とユルい。刑務官が足りないから、かな? 著者はハマスの指揮下に入る。そこでハマスは裏切り者を探し、疑わしい者を拷問にかける。

1993年から96年までの間に少なくとも、150人が協力者の嫌疑をかけられ、イスラエルの収容所内でハマスの取り調べを受けた。そして約16人が殺された。
  ――13章 誰も信じるな 1996年

 さぞかし厳密に調べてるんだろうと思いきや、とんでもない。疑われるのは後ろ盾のない立場の弱い者ばかりで、著者のように強いコネがある者はスルーだ。この構図は魔女狩りに似てる(→「魔女狩り」)。これを著者はこう見ている。

パレスチナ領内の巷では、負け犬だけがイスラエル人に協力するといいうのが通説だからである。明らかにこの通説は間違っている。なぜなら負け犬は、シン・ベットに何も提供できないからだ。
  ――15章 ダマスカス・ロード 1997年~1999年

 言われてみれば確かに。イスラエルに限らず、どのスパイ組織も、取り込むなら大物を狙うだろう。ハマスは大勢の裏切り者を見つけちゃいるが、実は弱者に濡れ衣を着せてるだけで本当のスパイを見逃してるのだ。道理でイスラエルがハマスの内情に詳しいはずだ。

 そんなんだから、イスラエルの手先が潜り込むのも、状況によっては簡単で。

目出し帽をかぶって、自分はPLOの人間だと言うことくらい誰にでもできた。(略)
インティファーダの戦士には誰でもなれるということで、イスラエル治安当局の兵士たちがデモに潜り込んだ。
  ――5章 サバイバル 1989年~1990年

 とすると、デモのいくつかはイスラエルが誘導してるのかも。

 それはともかく、魔女狩りのようなハマスの愚行を、イスラエルは放置している。それというのも…

「ハマスをイスラエルが外側から崩壊させるよりも自壊させる方が早い」
  ――15章 ダマスカス・ロード 1997年~1999年

 腐敗して支持を失えば潰すのも楽、そういう考えである。実際には理屈通りにいかなかったけど。腐ってたのはハマスに限らず…

インティファーダの指導者たちは、決まって七万ドルもする外車に乗り、多くのボディガードが乗った車を従えて、日々の会合にやって来た。
  ――17章 スパイ活動 2000年~2001年

 アラファトが亡くなって、彼が荒稼ぎしてたのが明らかになった。彼に限らず、他の組織もトップは美味しい思いをしていたようだ。ただ、どこから金が流れてきたのかは、本書は書いていない。

 他にも、拘留施設にはイスラエルならではの工夫がある。

番犬ではない、そう、番ブタである(略)テロリストになる者には信心深いイスラム教徒が多いため、ブタがいること、ブタと接触する恐れが、心理的抑止力になると考えられているのだ。
  ――23章 神のご加護 2002年夏

 …うーん、どこまで本当なんだろうか。

 先の資金源もそうだが、ハマスの組織の実態についても、本書ははぐらかしている。

ハマスの軍事部門は、ほんの十人ほどで構成されていた。それぞれが個別に行動し、独自の予算を持っており、緊急でない限り顔を合わせることもなかった。
  ――25章 サレー 2003年春~2006年春

 知らないのか、訳あって書けないのか、果たして。この頃だとシリアとイランが重要な資金源だったはず。

 いずれにせよ、次第にハマス内で存在感を増してゆく著者は、幹部の父と共に身の危険を感じる事も増えてくる。暗殺を避けるためには、色々と気を遣う事も多い。ホテルに潜むにしても…

「あのデスクの男が、五時間ごとに父さんの部屋を変更します」
  ――19章 靴 2001年

 と、部屋をコロコロと変えないとヤバいのだ。でないと、ヘリからロケット弾が飛んでくる。今ならドローンか。

 こういう果てしない殺しあいの元凶は何か。そもそもハマスが共存を求めていない。

平和共存はハマスの終焉を意味するのだ。
  ――8章 煽られる激情 1992年~1994年

 著者の父シェイク・ハッサン・ユーセフは穏健派で通っているが、それでも闘争路線である点は揺るがない。

アラーは私たちにユダヤ人を根絶する責務を与え、父もそのことには疑問を持っていなかった。
  ――9章 拳銃 1995年冬~1996年春

 著者は争いの根本原因をコーラン、というかイスラム教に求める。ハマスに限らず、パレスチナ人の…

過激派は、コーランを全面的に後ろ盾にしていた。
  ――8章 煽られる激情 1992年~1994年

 これはイスラム教に限らず、アブラハムの宗教は真面目に突き詰めていくと、どうしてもヤバくなるらしい(→「信仰が人を殺すとき」)。とはいえ、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、皆同じ神を信じてるんだから、争う必要はなさそうに思うんだが…

イスラム教徒は、ユダヤ教のトーラー(旧約聖書)とキリスト教の新約聖書も、神の書物として信じるように教えられる。だがまた、後の人々が聖書を書き換えて、信頼できないものにしてしまったとも教えられる。
  ――15章 ダマスカス・ロード 1997年~1999年

 おお、それなら理屈は通る。後はどこをどう書き換えたか、だ。新約聖書は著者も成立の経緯も怪しいアンソロジーなのに対し、コーランは計画的・組織的に編纂されたわけで、イスラム教が聖典の信頼性を主張するのは理に適ってる。

 終わりのない殺しあいに思えるパレスチナ問題。その渦中で暗躍した著者だが、イスラエル・パレスチナ双方に対し、意見は辛らつだ。

私たちは何も成し遂げていない。逮捕や拷問や暗殺では、勝つことのできない戦いをしているんだ。
  ――27章 別れ 2005年~2007年

 異様なほどキリスト教を持ち上げる著者の姿勢はかなり異質だが、パレスチナの地でスパイとして働いた者の体験談として読むなら、野次馬根性を充分に満たしてくれる刺激的な本だ。ただし比較的に現代に近いスパイ物なだけに、記述を鵜呑みにするのは危険でもある。パレスチナ問題に興味がある人に、スパイ物が好きな人に、外国の刑務所を覗きたい人に、そして野次馬根性が旺盛な人にお薦め。

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