フランク・M・スノーデン「疫病の世界史 上・下」明石書店 桃井緑美子・塩原通緒訳 2
1980年に、国立癌研究所のロバート・ギャロ博士が、日本でよく見られる種類の白血病をひき起しているのがある種のレトロウイルスであることを証明し、そのウイルスをヒトTリンパ好性ウイルス(HTLV)(→国立感染症研究所)と命名していた。
――第20章 HIV/エイズ アメリカの経験人間に感染できることがわかっているウイルスは何万種とあり、細菌だと30万種にのぼる。
――第21章 新興感染症と再興感染症
フランク・M・スノーデン「疫病の世界史 上・下」明石書店 桃井緑美子・塩原通緒訳 1 から続く。
【感想】
イェール大学の学部課程の講座から発展した本書、下巻は結核から幕を開ける。労咳とも呼ばれる結核は、妙に上品な印象がある。日本で有名な患者は沖田総司だろう。男であれ女であれ、結核は育ちがよくはかなげなイケメンや美女の病気、みたく思われている。
診断結果としての消耗病は、白人様の専有物だったのだ。
――第14章 「消耗病」 ロマン主義時代の結核
これには結核の症状も関係している。ペストのようにいきなり亡くなるワケじゃない。ジワジワと命を削ってゆくあたりが、悲劇的な印象を強めたのだ。実際には栄養状態の悪い貧乏人も、というか貧乏人こそが苦しむ病気なのだが、貧しい者は空気のよい高地のサナトリウムで療養なんざ出来ないから、文学の題材にもならないのだ。
そう、疫病は芸術のテーマにもなる。が、取り上げられる病気は限られる。ペストは貧富に限らず大量の人を襲うゆえ、絵画や文学でも扱われた。上巻の表紙はピーテル・ブリューゲルの「死の勝利」(→Wikipedia)だ。結核は悲劇の小道具として使われてきた。昭和では白血病が、現代では癌だろうか。エイズはかつてのケータイ小説の常道って思い込みがある。
が、まず使われない病気もあって、その代表がコレラだろう。取り上げるのは筒井康隆ぐらいだ。赤痢や腸チフスもそうだろう。消化器系の病気は貧しい者が被害に遭いやすいし、見た目も悪いしね。
さて、結核が文学の題材になり易い理由の一つが、サナトリウムだ。本書では主に米国でのサナトリウム流行の歴史を描いている。一般にサナトリウムでは医師などスタッフが強い権限を持って患者の生活を支配した。現代にも続く医師と患者の関係を形作った原因の一つがサナトリウムだ。
それだけでなく、結核と対峙する人々は、その病巣である街中へも活動を広げ、住環境や食生活ばかりでなく、識字率工場や賃金上昇そして児童労働の規制など、社会構造まで変えてゆく。すげえ。こういったあたりは「清潔文化の誕生」ともダブる。
この運動から生まれて広まった一連の用語の中心には「社会」という意味深いキーワードが鎮座していたのである。
――第15章 「伝染病」 非ロマン主義の時代の結核
欧米はそれで変わっても、植民地は置き去りだった。そのツケが、19世紀後半~20世紀初頭からの香港やボンベイ発のペスト流行だ。いずれも狭い所に貧しい者がひしめきあって暮らしているだけでなく、港湾都市でもあり、世界中の船が行き来する。
下手すれば世界中に疫病をバラ撒きかねない。船に便乗した鼠が媒介すると明らかになったのもあり、「海運業者は鼠の駆除と鼠よけの対策をするよう求められる」など、国際的な協力体制が取られる。
どの国でも鼠の侵入を食い止めることが経済の面でも公衆衛生の面でも第一の優先事項になり、現実的な方策について早急に国際的な合意がなされた。
――第16章 ペスト第三のパンデミック 香港とボンベイ
少数の列強が世界を支配していたからこそ、合意に至るのも早かったんだろう、なんて事を本書の終盤じゃ考えたくなるが、それは追って。
続く話はイタリアのサルディーニャ島のマラリア。地元イタリアが撲滅に向け地道に活動していたが、第二次世界大戦後に米国がDDTをひっさげ乱入、お得意のパワープレイで事態を急速に収束させてゆく。著者は米国の実績は認めるものの、それまで地道に続けてきた教育と広報の土台あってこそだぞ、と不満げだ。
マラリアもまた、あらゆる疫病と同様に、国家の危機ではなく人類の危機なのである。
――第17章 マラリアとサルディーニャ 歴史の利用と誤用
「蚊が歴史をつくった」にもあったが、米国はDDTを武器に中南米で成功してるんで、その自負があったんだろう。
今でもマラリアはアフリカで猛威を振るっているが、根絶に成功した疫病もある。天然痘だ。これに勢いを得て、1950年代あたりから、楽観論が出てくる。「この調子ですべての疫病を潰せるんじゃね?」と。その標的となったのが、ポリオだ。これには理由がある。ポリオは、人獣感染症じゃない。
①天然痘と同様に、ポリオのウイルスも人間のほかに病原保有体をもたないこと
②伝染を断ち切るための有効で投与しやすいワクチンがあること
③感染を検出するための近代的な診断ツールがそろっていること
――第18章 ポリオと根絶問題
野生動物が病原体を保持する伝染病は、野生動物にまでワクチンなどを投与し、または保持する種を撲滅させにゃならんので、実質的に無茶なのだ。幸いポリオはヒトだけなので、イケるんじゃね?と思ったんだが…
発展途上国で毎年大勢の子供が弛緩性麻痺の犠牲になり、死にいたることさえ少なくなかったというのに、その受難(略)は報告がなされず、可視化されていなかった。
――第18章 ポリオと根絶問題
先進国じゃワクチンなどで激減しており、その感覚で楽観してたんだが、途上国の悲惨な実情を、「先進国の賢い人たち」は誰も分かっていなかったのだ。
今世紀に入っても、ナイジェリア北部でワクチン投与が頓挫してる。地元のイスラム教徒は、キリスト教徒の陰謀じゃないかと疑い、ワクチンを拒むのである。「他にもマラリアや結核とかの脅威があるのに、なんでポリオを特別扱いするんだ?」と、そういう理屈だ。
「これだからナイジェリアは」と言いたいところだが、米国や日本でも新型コロナ・ワクチンを陰謀扱いする人がいるワケで、ヒトゴトじゃないんだよなあ。
ポリオ以上に思い込みや偏見が対応を難しくしているのが、性感染症だ。妙な道徳論をかざす、特に宗教組織のウザい干渉が、社会的な対策を難しくする。かつて梅毒が花柳病と呼ばれたように、この手の疫病には独特の性質がある。その一つが…
性感染症は、つねに都市部で大流行する。
――第19章 HIV/エイズ 序論と南アフリカの事例
そして、都市化は世界的な傾向なのだ。
戦後、人口がどこよりも急増したのは、世界で最も貧しく、最も脆弱な地域と、流入人口を収容しきれるだけのインフラが整っていない都市だった。
――第21章 新興感染症と再興感染症
そう、いわゆるスラムだ。「インドのムンバイ、アフリカのラゴスやカイロ、パキスタンのカラチ」「リマ、メキシコシティ、リオデジャネイロ」と、地名を見ただけでも「ヤバいじゃん」とボヤきたくなるぐらい、疫病の温床に最適な環境が整ってる。
南アフリカじゃアパルトヘイトとその負の遺産そして政府の無策で、特に黒人にエイズが蔓延する。
「いや南アフリカは特別だよね」と思っていたかどうかはともかく、こういう格差は米国でもあって。
アフリカ系アメリカ人女性のエイズ発症率は白人女性より15倍も高く、黒人男性は白人男性より5倍高かった。
――第20章 HIV/エイズ アメリカの経験
この章では、80年代当時の米国の政策のマズさも槍玉にあげてる。ぶっちゃけレーガンだ。宗教保守層に媚びるため、コンドームの普及や性教育を疎かにしたツケを、黒人女性が払う羽目になったのだ。酷い話である。意外なのがサンフランシスコ。同性愛者が集まる地域柄で、市長に加えゲイ・コミュニティも組織的に啓蒙活動に動き、蔓延を防いだ。
そんな世紀末、更なる恐怖が世界を襲う。エボラ出血熱だ。リチャード・プレストンが書いた「ホット・ゾーン」は大当たりしたが、特に症状についてかなり「作って」いるらしい。それはともかく、当時は「コウモリの肉を食った原住民が感染源」とか言われたが…
1976年以降にエボラのアウトブレイクが発生した地域は、中部アフリカと西アフリカの森林破壊の地図とぴったり重なる。
――第22章 21世紀のためのリハーサル SARSとエボラ
と、実はアブラヤシのプランテーションの強引な開発が大きな原因だったようだ。ウイルスを宿してたのは、森の樹幹に住むオオコウモリ。森の開拓で住処を奪われたオオコウモリは、ヒトの近くに住むようになり、接触の機会が増え…ってっわけ。
この危機に最初に動いたのは国境なき医師団。米国政府も最初はシカトしてたんだが、医師団メンバーの米国市民が感染して帰国すると動き出すあたりは、なんとも。
ギニア・リベリア・シエラレオネなど地元政府も、ヤバい噂が立つと海外からの投資や観光客が途絶えるからと隠蔽に走ったり、軍を主体とした強硬策に出て感染者の離散を招いたりと、この章では政府の対応のまずさに泣きたくなる。疫病に対しては、社会の対応が重要なのだが、人類はまだ学んでいない。
しつこいようだが、これについては「アフリカだから」と馬鹿には出来ないのを、新型コロナで私たちも思い知った筈だ。それはともかく…
2013年から2016年の(エボラ)危機が示した最も苦々しい皮肉の一つは、この流行との闘いにかかった費用が、堅固な医療インフラを構築するコストの三倍と見積もられていることである。
――第22章 21世紀のためのリハーサル SARSとエボラ
疫病ってのは指数的に感染は広がるワケで、初期の対応が大事なのだ。それ以上に、何であれトラブルは起きてから対策するより防ぐほうが安上がりで効果もデカいのである。ただあまりに巧みな防衛策を講じると、愚か者には何もしていないように見えちゃうのが困り物なんだよね。そう思わないかい、そこのインフラ担当者。
それはさておき。幸いエボラ出血熱は地域の流行で済んだが、新型コロナは世界的に蔓延してしまった。最初に襲われた中国に次ぎ、第二の被害にあったのはイタリア北部のロンバルディア。
イタリアには南北問題がある。大雑把に言うと、貧しく遅れた南部 vs 豊かで進んだ北部って構図。で、ロンバルディアは大都市ミラノを要する豊かな北部。
ロンバルディアは経済的に発展していたにもかかわらず、この感染症を許したのではない。経済的に発展していたゆえに、この感染症のアウトブレイクを引き起してしまったのである。
――第23章 COVID-19の震源地 ロンバルディアの2020年1月から5月まで
というのも、積極的に中国と提携し、航空機の直行便を増やして中国からの観光客を呼び込んでいたのだ。
新型コロナの世界的な蔓延は、航空機による人の往来が盛んになったためだろう。この傾向は今後も進むだろうし、疫病の温床となるスラムも当面は増殖と成長を続けそうだ。mRNAワクチンの迅速な開発など科学と医学は進歩したが、疫病が蔓延する環境も整ってしまった。
これに対応するには世界的な協力が必要だ。20世紀初頭なら数国の列強が歩調を合わせれば国際的な枠組みが作れたが、多数の独立国が主権を保ち、その幾つかは独立運動や内戦を抱える現代では、全ての国家と武装勢力が合意に至るのは難しい。
などと考えると眠れなくなるし、家から出ることさえ怖くなるのでアレだが、それぐらい怖い本なのは確かだ。だもんで、あまり共感力が豊かな人には向かないかも。その辺は割り切れて、マスな視点で歴史を眺めるのが好きな人にお薦め。
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- 2010.12.30 ウイリアム・H・マクニール「疫病と世界史 上・下」中公文庫 佐々木昭夫訳
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