D・C・A・ヒルマン「麻薬の文化史 女神の贈り物」青土社 森夏樹訳
古代社会はいとも容易に麻薬を目にすることのできた社会だった。その社会にいる者はだれひとりとして、精神に変容をもたらす薬物の使用に違和感をもつ者などいない。
――はじめに学者たちが出した統計上の推論によると、ギリシア・ローマ世界に住む人の60%が、何らかの感染症(伝染病)で死んでいるという。
――1 古代世界は過酷だったプロメテウスの血はケシを生み出した。そしてケシは鎮痛作用のあるアヘンを生んだ。プロメテウスは麻薬を与えることによって、人間を啓発し教化したのである。
――4 プロメテウスの至福感古代の世界は、麻薬のトリップによってもたらされた妄想と、器質的な脳の病気が原因で起きる精神障害との間をまったく弁別しなかった。
――7 哲学者は魔術師だった
【どんな本?】
現代文明のルーツは古代ギリシア・古代ローマだ、と西欧人は見なす。その古代人には、意外な側面があった。麻薬の使用である。古代人は多種多様な植物について広く深く知識を蓄えており、精神状態を変化させる植物すなわち麻薬についてもよく知っていた。そしてためらいなく利用したのである。
細菌学と西洋古典学を修め、特に古典学の博士号を得た米国人の著者が、知られざる古代人と麻薬の関係を暴く、異端の歴史解説書。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は The Chemical Muse : Drug Use and the Roots of Western Civilization, by D. C. A. Hillman, 2008。日本語版は2009年5月15日第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約322頁に加え、訳者あとがき5頁。9ポイント46字×19行×322頁=約281,428字、400字詰め原稿用紙で約704枚。文庫ならちょい厚め。
学者が書いた本のわりに、文章は比較的に親しみやすい。内容も特に難しくない。敢えて言うなら、アヘンはケシから、マリファナは大麻から作る、ぐらいは知っていた方がいいかも。
【構成は?】
各章は比較的に独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。
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- はじめに
博士論文審査委員会/向精神性麻薬/西洋文明の創建者たち/麻薬撲滅運動/デモクラシー/ナンシー・レーガン/アヘンケシ/ベラドンナ/魔術師/インスピレーション/アクタイオン/のぞき見トム
- 1 古代世界は過酷だった
自然の災厄/平均余命/ヴェスヴィオ山/サントリーニ島(テラ島)/大プリニウス『博物誌』/ユウェナリス/大火災/イナゴの大発生/毒ヘビ/ハチミツ色のサソリ/狂犬病=狂水病/瀉血術/疫病(流行病)/ペリクレス/破傷風の恐怖/性行為感染症/ヒッポクラテス/戦争と暴力/背教者ユリアヌス/「パンと見世物」
- 2 どんな麻薬を使っていたか
ファルマコン/麻薬の大データベース/植物性麻薬/ケルスス『医術について』/生体解剖/治療者(ヒーラー)/シャーマン/ピュタゴラス/ヒッポクラテスの誓い/テオフラストス『植物誌』/ガレノス/体液病理学/動物の生成物/レテ(忘却の川)/麻薬の過剰投与/ヘリボー/幼児遺棄/カストリウム(海狸香)/二次代謝物/アルカロイド
- 3 ギリシア人もローマ人も麻薬常習者だった
アリストパネス/抗コリン作用薬/体外離脱体験/デモクリトス/コーピング機構/薬物耐性/麻薬常用癖/アヘンケシ/オピオイド受容体/モルヒネ/『アヘン常用者の告白』/マリファナ/ニガヨモギ/CAS(中枢性抗コリン症候群)/失見当識/毒素(トキシン)/ドクニンジン/デュオニッソスの祭儀/『バッコスの信女たち』
- 4 プロメテウスの至福感
麻薬神話/アンブロシアとネクタル/イコル(霊液)/『イリアス』/プロメテウス神話/アイスキュロス『縛られたプロメテウス』/プロメテウスの麻薬/狂気/エレウシスの秘儀/通過儀礼/プルタルコス『食卓歓談集』/70人訳聖書/ポリュペモス/田園詩人テオクリトス/オウィディウス『変身物語』/ナルキッソス/ナルシシズム
- 5 月を引きずり下ろす
魔法使い/魔術師/東方魔術と西方魔術/マギ/ゾロアスター教/ファルマケウス/魔術の儀式/性欲促進薬/ほれ薬/ゲッケイジュ/デルフォイの巫女/ギリシア語魔術パピルス/オカルト科学/メディア/金色の羊皮/アポロニオス『アルゴナウティカ』/魔女/アプレイウス『黄金のロバ』/啓蒙思想
- 6 神の贈り物
ヘシオドス/九人のムーサイ(詩歌女神)/ムセイオン(王立学術研究所)/ロトバゴイ人/オデュッセウス/反戦運動家/ヒッピー/トロイア戦争/ネペンテス/ウェルギリウス『アエネイス』/カルタゴの女王ディドー/復讐の女神アレクトー/オウィディウス『悲しみの歌』/レテ(忘却の川)/ノカンドロス『毒物誌』
- 7 哲学者は魔術師だった
ディオゲネス・ラエルティオス/ギュムノソフィステス/ドルイド/ソクラテス以前の哲学者たち/イオニア学派/アナクシマンドロス/エピメニデス/根を切る人/マンドレーク/「雅歌」/秘儀/霊魂の転生/菜食主義/エンペドクレス/四元素/原子論/アカデメイア/狂気(マニア)/プラトン『パイドロス』
- 8 麻薬とデモクラシーの関係
市民的自由/急進的デモクラシー/言論の自由/ソロン/ペリクレス/民会(エレクシア)/評議会(ブレ)/エレウテリア/イソノミア/有痛排尿困難/『女だけの祭り』/節制狂信者/クレタ島のハナハッカ/硬膜外麻酔/エウリピデス『アンドロマケ』/ヘロット/エレウシスの秘儀/麦角菌/イニシエーション
- エピローグ 幸福の追求
フリーダムとリバティ―/マケドニア人/アテナイの陪審裁判/禁酒運動/コカイン/マリファナ/アスピリン/古代史の未踏のフロンティア/薬理学/糖尿病/老人性痴呆症/古代人の道徳観/禁酒法/アルコール/麻薬撲滅戦争/麻薬立法/20世紀の十字軍/反麻薬政策 - 原注/参考文献/訳者あとがき/索引
【感想は?】
本書のテーマは面白い。それ以上に、本書が成立した背景と経緯が興味深い。
なんたって、著者が本書を書いた動機が楽しい。「儂の説を認めなかった学会に復讐してやる」なのだ。
ここで言う学会は、古典学界である。それも西洋古典学(→Wikipedia)だ。
日本にも古典の文献を研究する学者はいる。史学者や古典文学者だ。だが、西洋古典学は、他の文化の古典学とは、いささか毛色と思想・矜持が異なる。
西洋古典学が扱うのは、古代ギリシアと古代ローマだ。そして西洋古典学者はこう考えている。「現代社会の文明・文化そしてデモクラシーの基礎は古代のギリシアとローマが創り上げた。中世は闇に閉ざされたが、ルネサンスで掘り起こされ、現代に繋がった」。そして、自分たち古典学者は、文芸復興を成し遂げた人文主義者たちの後を継ぐ者だと思っている。
この思想には、ギリシア・ローマ文明を受け継ぎ中世の欧州へと橋渡ししたアラビア社会がスッポリ抜け落ちてるんだが、それは置いて。
そんな古典学者たち、は古代人(古代ギリシア人と古代ローマ人)を深く敬っている、日本の史学者や古典文学研究者も紫式部や大伴家持を敬っているだろうが、それは優れた創作者としてだ。西洋古典学者はワケが違う。彼らは文明とデモクラシーの創始者として、古代人を敬っているのだ。
ギリシアの哲学者たちの考え方から西欧世界は、社会的そして文化的な可能性という富を受け継いだ。
――7 哲学者は魔術師だった古典文明の受益者であるわれわれ西欧人
――エピローグ 幸福の追求
そのため、多くの古典学者は古代人の重要な側面を認めない。それは古代人と麻薬の関係だ。主流の古典学者は、こう主張する。「偉大な古典人がジャンキーのハズがない」。これに対し異論を唱えるのが本書だ。
古代人たちはすぐに利用できる植物性の麻薬を、それも驚くほど多種多様に持っていた。
――2 どんな麻薬を使っていたか
本書で言う「麻薬」は、向精神薬を示す。具体的にはアヘン・ニガヨモギ・大麻・ドクニンジンなどで、精神だけでなく肉体にも影響を及ぼす。どんな目的で使っていたのか、というと。
古代の麻薬が果たした役割は大きくふうたつに分けることができる。ひとつは微生物や寄生虫の成長を抑制すること。もうひとつは直接人間の生理機能を変化させること。
――2 どんな麻薬を使っていたか
本書には松ヤニなどの記述もある。恐らくその効果は消毒だろう。だが、本書が主に扱うのは次の目的、「人間の生理機能を変化」だ。これに対し、古代人はとても鷹揚で、不道徳なモノとは考えていない。
それ(麻薬)に依存している彼らを恥じて非難する者もいなかった。
――3 ギリシア人もローマ人も麻薬常習者だった
だから、当然ながら当局も取り締まったりはしない。どころか、普通に栽培していたりする。
(古代ローマの博物学者)プリニウス(→Wikipedia)は、アヘンケシを、典型的なローマの家族によって栽培される、ありふれた植物のひとつとして分類している。
――3 ギリシア人もローマ人も麻薬常習者だった
このケシ、決して食用の種を採るためじゃない。まさしくアヘンの原料として、だ。
プリニウスが(著作の植物誌で)アヘンを集めるプロセスを描写している。
――3 ギリシア人もローマ人も麻薬常習者だった
「おいおい大丈夫かよ、アヘンってヤバいんじゃねえの?」と思われるかもしれない。その通り、たいていの向精神薬は使い方によっちゃヤバい。分かりやすいのでオーバードーズ=過剰摂取とか。つか、使い方次第でヤバいのは向精神薬に限らず、すべての薬がそうだ。その辺は古代人も心得ていたようで。
アテナイで法律上、麻薬の使用が禁じられているただひとつのケースは、武器として麻薬を使用することだった。
――8 麻薬とデモクラシーの関係
と、使い方によっちゃ毒になると古代人は知っていたのだ。というより、なんであれ当時の薬は多少ヤバかったんだろう。今みたく精密で清潔な工場で作るワケじゃないし、そもそも医学が発達してない。とまれ、人類と麻薬の付き合いは相当に長いようで。
新石器時代の集落が、ケシと人間との長い関わりの歴史を証言してくれる。
――3 ギリシア人もローマ人も麻薬常習者だった
古代ギリシアも、一から薬学を築いたワケでもなく、恐らくエジプトあたりの知識を引き継いでる。
古典期のギリシア・ローマ社会が台頭するはるか以前に、地中海で麻薬の交易が活発に行われていた
――3 ギリシア人もローマ人も麻薬常習者だった
どうもアヘンは相当に味がマズいらしく、古代人はぶどう酒に混ぜて飲んでいる。そういった麻薬との関わりは多くの文書で確認できる。また、創作物にも影響があり、当時の人々が麻薬に馴染んでいるのを反映して、説明なしに麻薬が登場するのだ。
(詩人)アポロニオス(→WIkipedia)は、(著作アルゴナウティカ:Wikipedia の中でイアソンの妻)メディアが魔術に長けていたなどとはひとこともいっていない。それとは反対に、彼は彼女が麻薬のもつ力を十分に理解していたといっている。
――5 月を引きずり下ろす
アルゴナウティカは、アルゴー船の冒険を描く物語。なお、ここで描かれるメディアとイアソンの関係は、英雄イアソンの幻想を粉々に打ち砕くので、好きな人は覚悟しよう。
アポロニウスは薬物の効果について、著作内じゃ特に説明していない。現代日本の小説家がコンビニエンス・ストアについて詳しく説明する必要を感じないように、アポロニウスも聴衆に麻薬を説明する必要を感じなかった。当時の普通の人にとって、薬物は常識だったのだ。
などと書いているが、少し不自然に感じる事もある。古典学者の態度だ。というのも、古代人ぶどう酒を盛んに飲んだのは、古典学者は認めるのだ。アルコールはOKで麻薬はダメというのは、なんか釈然としない。どっちも向精神薬なのに。いや確かに現代の法じゃアヘンは違法だけど、今と昔で法や倫理が異なるぐらい、古典学者なら充分に身に染みているはずだ。
あ、それと、エジプトじゃビールでギリシアはぶどう酒なのは、なぜだろう? 気候の違いだろうか。
まあいい。終盤では、アテナイにおける麻薬使用の自由さを訴える勢いが強すぎて、実は著者は麻薬合法化論者じゃないか、とまで思えてくる。それはともかく、古代の薬物の文献を調べ新薬研究に役立てろ、との意見にはいささかの説得力がある。実際、中国じゃ漢方薬を調べてマラリアの特効薬アルテミシニン(→Wikipedia)を見つけ、リーダーの屠呦呦は2015年のノーベル生理学・医学賞に輝いているからだ。
学会の主流への反逆ってだけでもヲタクには美味しいのに、「4 プロメテウスの至福感」あたりは神話の新解釈なんてご馳走まで揃ってたり。アルゴー船の冒険も、著者の手にかかれば全く別の物語になる。が、やはり最も惹かれるのは、古代ギリシアや古代ローマに興味がある人だろう。特にスパルタよりアテナイが贔屓の人にお薦め。
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