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2024年11月 3日 (日)

キャス・サンスティーン「恐怖の法則 予防原則を超えて」勁草書房 角松生史・内藤美穂監訳 神戸大学ELSプログラム訳

本書は恐怖、民主政、合理性、そして法について述べるものである。人々は時に恐れるべきでないないときに恐れ、恐れるべき時に恐れを知らない。民主政国家においては、法は人々の恐怖に応答する。その結果、法は不適切なあるいは危険ですらある方向へと導かれてしまう。
  ――はじめに

民主主義政府は、人々の価値観に対してこそ対応すべきであって、彼らの大きな過誤に対してではない。
  ――第5章 予防原則の再構築と恐怖の管理

【どんな本?】

 ヒトの思考にはクセや偏り/バイアスがある。だから時として愚かな判断/選択をする。民意を重んじる民主主義社会で、多くの人が偏りに囚われたら、制度や政策も偏ってしまう。

 本書は、偏りが影響する中でも、特に予防原則を取り上げる。「確たる証拠はないがヤバそうだから手を打っとこう」、そういう理屈で予め危険に対処する政策だ。それが賢明な時もあれば、骨折り損どころか大きな被害をもたらす場合もある。

 ヒトの考えは、なぜ・どんな時に・どのように偏るのか。何が偏りを生み出すのか。そもそも予防原則にはどんな種類と性質があるのか。賢い予防原則と愚かな予防原則は、どうやって見分けるのか。行き過ぎた予防原則を、どう防ぎどう止めればいいのか。

 ハーバード大学ロースクール教授であり行政管理予算局の情報・規制問題室長を務めた著者が、予防原則に基づく政府の規制措置を主題とし、そのカラクリと性質そして賢明な運営について語る、一般向けのノンフィクション。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Laws of Fear : Beyond the Precautionary Principle, by Cass R. Sunstein, 2005。日本語版は2015年2月10日第1版第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約318頁に加え、監訳者あとがき8頁。9ポイント43字×18行×318頁=約246,132字、400字詰め原稿用紙で約616枚。文庫ならちょい厚め。

 文章は硬い。二重否定など原書の文章のせいもあるが、翻訳にも原因がある。例えば「塾議」や「衡量」なんて見慣れぬ言葉を、なぜ使う? いや気持ちは分かるんだ、こういう堅苦しい本だと、堅苦しい音読みで短く端的に表す言葉を当てはめたくなるんだ。でも、それって、雰囲気が合うってだけで、意味・意図は通じにくくなっちゃう。まあ訳したのは法学者だから、親しみやすさより正確さを重んじたんだろう。

 巻末に索引があるのは親切だ。ついでに略語索引も欲しかった。WTP:支払意思額とかVSL:統計的生命価値とか。

【構成は?】

 基本的に前の章を受けて後の章が展開する構成なので、素直に頭から読もう。

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  • 謝辞
  • はじめに
    塾議と理論/予防原則と合理性/本書の構成/アプローチと政策
  • 第1部 問題編
  • 第1章 予防とその機能不全
    予防原則/弱いバージョンと強いバージョン/予防の実際:ヨーロッパの状況の瞥見/備えあって憂いあり?/なぜ予防原則は機能不全に陥るのか
  • 第2章 予防原則の背景
    想起可能性ヒューリスティック/確率無視/損失回避性となじみ深さ/慈しみ深き自然(という神話)/システムの無視/ありうべき反論:目標の有益性/予防原則論者の応答:精微化/より広い視野へ
  • 第3章 最悪のシナリオ
    認知/感情/確率無視:基本的現象/安全? 安全でない? 閾値と確実性について/簡単な実証/より複雑な実証/その他のエビデンス/確率無視、「競合的合理性」、二重処理/メディアについて、確率無視の不均一性についてのメモ
  • 第4章 野火のように広がる恐怖
    スナイパー/カスケード/集団極化/メディア、利益集団、そして政治家/事前性向
  • 第2部 解決編
  • 第5章 予防原則の再構築と恐怖の管理
    カタストロフィ/不可避的損害:その曖昧さについてのメモ/安全マージン/予防を分析する/恐怖の管理と公開の必要性/恐怖の増幅?/テクノクラートとポピュリスト
  • 第6章 費用と便益
    費用便益分析の実際:規制機関はどのようなことを行っているのか、それはなぜか/リスクによる相異/人による相異/理論と実践
  • 第7章 民主主義、権利、分配
    単純な設例/反論/人口集団間の際、国際的差異/より難しい設例:分配と厚生/難しい設例を単純な設例と同様に扱う?/地球温暖化
  • 第8章 リバタリアン・パターナリズム(リチャード・セイラーと共著)
    貯蓄と選択/選択の合理性/パターナリズムは不可避的か?/政府/選択に対する影響はなぜ避けられないのか?/パターナリズムの不可避性/不可避的なパターナリズムを超えて(しかし、未だリバタリアン)/具体例と一般化/普遍化/反論/厚生、選択、そして恐怖
  • 第9章 恐怖と自由
    ひどい衡量:単純な説明/さらにひどい衡量:選別的な自由の制限/トレードオフ無視と自由/自由を守る/明確な声明の原則/選別的に自由を否定する場合には特別の審査を/衡量、そしてセカンドオーダーの衡量/恐怖と自由
  • 結論:恐怖と愚行
  • 監訳者あとがき/原注/人名索引/事項索引

【感想は?】

 勿体ない。なんか色々と。

 流行りの行動経済学を基にした本だ。行動経済学は「ヒトの思考にはこんなクセがある」と示すものだ。本書はそこから更に考えを進め、クセに囚われた民衆や政府がヤバそうなモノを規制しようとした場合を論じている。行動経済学の応用編その1、予防原則に基づく規制政策について、だ。

 なかなかエキサイティングでしょ。

 なんだけど、先に挙げたように堅苦しい文体や(翻訳や文章書きの)素人くさい訳文がオジャンにしてる。実に勿体ない。中身は面白いのに。

 まあいい。そんなワケで、予防原則と政策を語る本だ。ところで、予防原則って何だ?

 因果関係は明らかじゃないけど、なんかヤバそうだから対処しとこう、そういう考え方だ。

 これに基づく政策は幾つかある。有名なのは欧州の遺伝子組み換え食品規制や地球温暖化対策と、米国のイラク侵攻だ。日本の選択的夫婦別姓制度の不採用も、これだろう。

 その予防原則、大雑把に二つの極がある。弱い版と強い版だ。
 弱い版:「決定的な証拠がない」を規制を拒む理由にしちゃいけない。
 強い版:無害と証明できなきゃ規制する。

 著者は弱い版は認めるが、強い版はマズいよね、そういう立場だ。

 因果関係がハッキリ証明されていないのに規制しようってんだから、必ずしも合理的ってワケじゃない。そこにはヒトの心のクセが絡んでる。代表的なクセは次の5種類だ。

  1. 想起可能性ヒューリスティック:害を思い浮かべやすいと、よりヤバく感じる。
  2. 確率無視:滅多にない大事故を代表的な事例だと思い込む。自動車事故より飛行機事故を恐れる。
  3. 損失回避性:機会を失うことより損害を被る方を恐れる。
  4. 慈しみ深き自然:自然物は安全で人工物はヤバい、という思い込み。
  5. システムの無視:費用や副作用を無視する。

 どっかで聞いたことがある? そりゃそうだろう。この辺は行動経済学の成果だ。従来の経済学が合理的な人間を仮定して論を築いたのに対し、ヒトの判断や選択は時として非合理的だ、と行動経済学は明らかにした。非合理の原因の一つは、感情だ。

確率はリスクへの反応と大いに関係があるとされる一方で、感情が独立して評価されることはない。それは重要な役割を果たすものとは思われていないのである。
  ――第3章 最悪のシナリオ

 しかも、興奮すると更に理屈が通じなくなる。

一般的に言って、感情が関係しているときには確率無視が劇的なほどに高められる。
  ――第3章 最悪のシナリオ

 そんな連中が集まると、更に困った事態に陥る。

個人の判断が確率無視の特徴を持つ場合、(略)政府や法も確率を無視することになろう。
  ――第3章 最悪のシナリオ

 特に外敵の脅威は、強い反応を引き起こし、冷静な計算が出来なくなってしまう。

テロ事象は、確率無視の深刻なリスクを生む。
  ――第3章 最悪のシナリオ

 テロの他にも、人々を恐怖に陥れる原因は幾つかある。例えば周りの雰囲気だ。

多くの人は、(略)脅威を恐れるべき独自の理由を持っているからではなく、他人が恐怖を表現しているがために、(略)パニックに陥るのである。
  ――第4章 野火のように広がる恐怖

 時として恐怖は伝染するのだ。そして、同じ恐怖を抱える者たちが集まると、更に恐怖が膨れ上がったりする。

同じような意見を持つ人々が互いに熟議し合うと、概して彼らは、議論を始めた時点よりもずっと極端な視点を受け入れてしまう
  ――第4章 野火のように広がる恐怖

似た者同士が集まると更に極端な方向へ行くのは必ずしも悪い事ばかりじゃない。例えば音楽だとヒップホップやグランジが大きなうねりになったし、SFでもニューウェーブやサイバーパンクが盛り上がった。レイ・ブラッドベリも言ってる。「外へ出て、おなじような境遇の人々をさがすこと」。良し悪しはともかく、似た者が集うとより濃くなるのは確からしい。

 話を恐怖に戻そう。そういう恐怖を惹き起こす危険には、幾つかの特徴がある。

とても多くの文献が、非自発的な、恐ろしい、制御できない、そして、潜在的にカタストロフィ的なリスクは、非常に高いレベルの人々の心配を生み出すことを示唆している。
  ――第6章 費用と便益<

 自動車は運転するが飛行機は恐れる人がいる。自動車は自分で運転できる、つまり自発的で制御できるが飛行機はそうじゃない。そんな風に、被害の大きさや確率より、リスクの性質や形の方が、より強く人の感情に訴えるのだ。そして恐怖に囚われた人々は、予防原則を持ち出すのである。

 と言うと悪い点ばかりのようだが、著者も幾つかの予防原則は認めている。代表は地球温暖化対策だ。逆に途上国のDDT規制は批判している。DDTで蚊を減らせばマラリアの被害も減らせただろう。

一時期はマラリアが猖獗を極めた南北アメリカだが、今は相当に落ち着いているのは、DDTで徹底して蚊を減らしたためだ。逆にアフリカのマラウィは今もマラリアが猛威をふるっている(→「蚊が歴史をつくった」)。

 つまるところ、予防や規制には費用が掛かるし副作用もあるのだ。例えば米国は新薬の承認に厳しい試験を課す。お陰で薬害は少ない。でも、新薬が間に合わず亡くなる人もいる。どっちがいいんだろうか?

 そこで参考となるのが、費用便益分析(→Wikipedia)だ。なんか難しそうな言葉だけど、要は損得の見積もりです。対策しなきゃ被害は何ドルになるか、対策するには幾らかかるか。両者を比べて赤字か黒字か。そんな計算ね。

費用便益分析の最も重要な点は、何が実際に問題となっているかについてより具体的な感覚をもたらすことで、過剰な恐怖や不十分な恐怖に対する対応となることである。
  ――第7章 民主主義、権利、分配

 これが嬉しいのは、計算だってこと。そこに感情は絡まないのだ。もっとも、計算する際に、ヒトの命を金に換算したりもするんで、冷酷な話でもあるんだけど。計算した結果として、「あなたには○○ドル負担してもらいます」みたいな形で「タダじゃねえんだぞ」と思い知らせると同時に、落ち着くように促す効果もあるのだ。

 ただし、あくまでも費用便益分析は参考資料で、全てじゃないぞ、とも著者は言ってる。例えば、費用便益分析の計算で使う数字の一つがWTP(支払意思額、→Wikipedia)。リスクを負ってる人が、リスクを避けるために幾ら出すか、みたいな数字。保険料の一種かな。

WTPが提供するのは終着点ではなく出発点である。
  ――第7章 民主主義、権利、分配

 というのも、これ、人によって金額は大きく異なるからだ。分かりやすいのが豊かか貧しいかで、豊かな人は高い金額になる。そんな風に、負担するのは誰か、ってのも、策の性格に大きく影響する。

政府の規制による負担に直面するのが多数派ではなく少数派であある場合、不当な行動がなされるリスクはかなり増大する。
  ――第9章 恐怖と自由

 著者が例に挙げてるのは、第二次世界大戦時の米国政府が行った日系人の強制収容だ。この場合、少数派の日系人が「負担に直面」した。大多数の米国市民には何の影響もなかったので、当時はあまり騒がれなかった。が、911の後は、ムスリムや中東系の人が当局に目をつけられ、飛行機に乗るたびに尋問されたり。

 そんな風に、人々が恐怖に囚われると、政府は暴走しがちになる。行動経済学の成果の中でも予防原則を本書が取り上げたのも、恐怖がもたらす害が大きいからだろう。

恐怖はもっともグロテスクな類の人権侵害をもたらしうるのだ。
  ――結論:恐怖と愚行

 これらに対し、著者が提案する対策は「リバタリアン・パターナリズム」だ。なんだか分かんないよね。それも当然、著者が本書のために作った言葉だからだ。いやたぶんそうじゃないかな、と私は判断したんだが。

 個人の自由を重んじるのがリバタリアンだ。パターナリズム(→Wikipedia)は強者による押し付け、かな。正反対に思える両者の美味しいとこ取りを狙うのが、リバタリアン・パターナリズムだ。

 著者は401k(確定拠出年金制度)を例に出す。従来は労働者が望んだ時だけ年金に加入した。そのため年金加入率は低かった。これを労働者が望まない時だけ年金から退去できる、と変えると、年金加入率が一気に上がった。

 ってな感じに、望ましい選択肢を選ぶように誘導するが、あくまでも選択の余地は残すのが、リバタリアン・パターナリズムだ。デフォルト設定ってのは結構大事で、私もOSやアプリケーションは大半の設定をデフォルトのまま使ってる。本書の例の年金にしても、私は仕組みをよく分かってない。選ぼうにも、その知識がないのだ。だから、雇用側が勝手に決めてくれた方が楽だったりする。

「人々の選好は多くの分野において不安定であり適切に形成されていない、それゆえ、起点とデフォルト・ルールが極めて固着的でありうる」
  ――第8章 リバタリアン・パターナリズム

 本書が扱っているリスクにしたって、いちいち全部を勉強してたらキリないぞ、と思ったり。だから、知らないリスクに関しちゃ無視するのだ。

危険は「著しいもの」のように見えるか、さもなければ、存在すらしないように見えるのである。
  ――第9章 恐怖と自由

 自分でも、「その辺は偉い人/賢い人が巧くっやってくれるでしょ」、みたく考えてるフシがある。だもんで、リバタリアン・パターナリズムは上手くいくと思う。もっとも、悪用される危険も大きいんだが。

 見かけは地味で堅苦しい上に、文章がこなれておらず文体も堅苦しくとっつきにくいので、色々と損してる。が、行動経済学の成果を政治、それも民主的な政府による規制に適用するとどうなるか、特に恐怖がどう影響するか、みたいな内容で、中身は案外とエキサイティングだった。行動経済学に注目している人と、政府による規制に関心がある人にお薦め。

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