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2024年10月 4日 (金)

マーチイン・ファン・クレフェルト「戦争の変遷」原書房 石津朋之監訳

本書は一つの目的をもって書かれている。(略)戦争を行っているのは誰なのか、そもそも戦争とはどういうものなのか、なぜ戦うのか、といった事柄である。
  ――はじめに

我々の社会も含めて、戦争を経験しているあらゆる文明社会が制限を設けている。
  ――第3章 戦争とはどういうものなのか

クラウゼヴィッツによれば戦闘力にとって主要な二つの障害は、不確実性と摩擦である。ここに硬直化を加えてもよかった
  ――第4章 どのようにして戦うのか

戦争とは、誰かが誰かを殺して始まるのではないのであって、自分たち自身が報復として殺されるのを覚悟した時点で始まるのだ。
  ――第6章 なぜ戦うのか

その昔、小火器が戦士とその重い甲冑に取って代わったように、大型で高価で強力な兵器が廃れ、小型で大量に生産でき、どこででも利用できる兵器に移行する
  ――第7章 戦争の将来

【どんな本?】

 ベトナムから、ソマリアから、アフガニスタンから、米軍は撤退した。装備は一級品で訓練も行き届き充分に統率もとれていた。空軍は空を支配していた。米軍は世界最強のはずだった。だが負けた。なぜだ?

 著者はその解をクラウゼヴィッツの戦争論に求める。米国はクラウゼヴィッツの説に従って軍を派遣した。だが、ベトナムもソマリアもアフガニスタンも、クラウゼヴィッツが前提とした条件に沿っていなかった。前提が間違っているのだから、思った通りにはいかない。

 有史以前から、人々は戦争をしてきた。だが、その動機・意味・目的・方法などは、時代や地域や文化により、大きく異なる。クラウゼヴィッツが考えていた戦争は、彼の生きた時代と社会のものだ。そして現代の戦争は、彼の時代の戦争と変わりつつある。

 イスラエルのヘブライ大学で教鞭をとる軍事史の著者が、歴史上の戦争を例に挙げ、我々の考える戦争と大きく異なると指摘し、またクラウゼヴィッツの生きた時代と社会情勢を語り、なぜ彼が戦争論に至ったか、なぜ彼の戦争論が現代に通用しないのかを解説し、近未来の戦争の形を模索する、危険で挑発的な軍事哲学書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は TheTransformation of War : The Most Radical Reinterpretation of Armed Conflict Since Clausewitz, by Martin Van Creveld, 1991。日本語版は2011年9月22日第1刷。単行本ハードカバー縦一段組み本文約365頁に加え、監訳者の石津朋之による解説「戦争の将来像 『戦争の変遷』を手掛かりとして」21頁。9.5ポイント43字×18行×365頁=約282,510字、400字詰め原稿用紙で約707枚。文庫なら厚めの一冊分。

 文章は学者らしくかしこまっているが、それだけだ。まあ軍事関係の本はたいてい文体が堅苦しいんで、そういうもんだとい思っておこう。内容は有名な戦いなどを例に出して語るため、相応の歴史それも世界史の知識が必要だが、(恐らく訳者が)割注などで本文中に説明しているので、素人でもどうにかついていける。

【構成は?】

 前の章を受けて後の章が展開する形なので、素直に頭から読もう。

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  • 日本語版への序文 マーチン・ファン・クレフェルト
  • はじめに 本書の目的、内容、構成
  • 第1章 現代の戦争
    軍事的均衡/核戦争/通常戦争/低強度戦争/失敗の記録
  • 第2章 誰が戦うのか
    クラウゼヴィッツ的世界/三位一体戦争/総力戦/非三位一体戦争/低強度紛争の復活
  • 第3章 戦争とはどういうものなのか
    プロイセン人にとってのラ・マルセイエーズ/戦争法規 捕虜/戦争法規 非戦闘員/戦争法規 武器/戦争に関する法律
  • 第4章 どのようにして戦うのか
    続・プロイセン人にとってのラ・マルセイエーズ/戦略について 軍隊の創設/戦略について 軍隊の妨げとなるもの/戦略について 軍隊の使用
  • 第5章 何のために戦うのか
    政治的な戦争/非政治的な戦争 正義/非政治的な戦争 宗教/非政治的な戦争 生存/変貌する利益
  • 第6章 なぜ戦うのか
    戦う意思/手段と目的/緊張と安心/余談 女性/戦略的思考の限界
  • 第7章 戦争の将来
    誰が戦うのか/戦争とはどういうものなのか/どのようにして戦うのか/なぜ戦うのか
  • 来たるべきものの姿
  • 解説 「戦争の将来像 『戦争の変遷』を手掛かりとして」石津朋之
  • 主要参考文献/索引

【感想は?】

 最初に言っておく。クレフェルト先生はタカ派、それもバリバリのタカ派だ。しかも「戦わなきゃやられるから」じゃない。「俺は戦争が好きだ」と言っちゃうのだ、この人は。誤魔化そうとしないだけ誠実だが、開き直ってる分、余計に始末に負えない。

我々が戦争をする本当の目的は、男たちが戦争を好み、女たちが自分たちのために戦う男たちを好むからである。
  ――第7章 戦争の将来

 そして、「俺だけじゃねえぞ、人間は戦争が好きなんだ」と、私たちが目を背けている事実を突きつけてくる。

人々は、言うなれば、戦争そのものとそれに関するあらゆることを体験する、ただそれだけを目的として戦うのであある。
  ――第6章 なぜ戦うのか

戦争は真剣さを最高の形に表現するものであり、まさに遊びである。
  ――第6章 なぜ戦うのか

人々はしばしば戦うために目標をつくりだす。  ――来たるべきものの姿

 そういう人が書いた本だ、と予めハッキリ示しておく。本書は危険な人が書いた危険な本なのだ。

 本書はクラウゼヴィッツの戦争論を批判する本だ。クラウゼヴィッツは、戦争についてこう考えた。

  1. 戦争を行うのは国家だ
  2. 戦争は暴力の無制限の行使だ
  3. 戦争は目的を達するための手段だ

 彼が生きた時代のヨーロッパは、ギリシャの都市国家や中世の封建制と異なり、「国家」が地位を固め領土を支配していた。この動きは現代へと向かい、国際連合の結成で「国家」は更に地位を確固たるものにする…少なくとも、先進国に住む者たちの脳内では。

 いずれにせよ、戦争は国家の専業だし、その動機・目的は利害だ、と私たちは思い込んでいる。

  1. 戦争遂行は政治的配慮の元にあるべき
  2. 戦争していいのは政治的理由だけだ
  3. 戦争の準備は政治が最も重要な基準であるべき

 著者もクラウゼヴィッツの偉大さは認めているようで、彼がそう考えたのは、彼が生きた時代がそうだったからだ、と情状酌量もしている。

戦争に対するクラウゼヴィッツの考え方は、1648年以降、戦争は圧倒的に国家により遂行されていたという事実にもっぱら根ざしているのだ。
  ――第2章 誰が戦うのか

 彼だけじゃない。現代に生きる私たちも、国家の方針を決める政治家たちも、クラウゼヴィッツの考え方に囚われてきた。それも、そういう時代背景のせいだ。

 第二次世界大戦は、まさしく国家vs国家の戦いだった。戦後も国家と戦うために軍を保ち装備を整え将兵を鍛えてきた。だが、今や国家vs国家の戦争は滅多に起きない。

今日、軍事力の多くは、世界の大部分において、政治的な利益を伸ばすとか守るための手段としてはまったく機能していいない。
  ――第1章 現代の戦争

 確かにロシアがウクライナに攻め込んでるけど、NATOの通常戦力がロシアの牽制になってないって意味じゃ、この指摘も当たってるのかな? そんなわけで…

すでに今日、もっとも強力な最新鋭の軍隊は現代の戦争とほとんど無関係な存在になっている
  ――第1章 現代の戦争

 米軍は強いけど、朝鮮戦争を最後に、「前線を形成する戦争」を戦っていない。ベトナムもアフガニスタンもイラクも、そういう戦いじゃなかった。

今日の軍隊がゲリラやテロリストに対して思うような成果を上げられない理由の一つは、彼らが基地や兵站線をもたないからである。このためゲリラやテロリストは通常の意味では包囲されることがない。
  ――第3章 戦争とはどういうものなのか

 たいてい、装備はゲリラの方が貧弱だ。だから、被害はゲリラの方が大きい。それでも、ゲリラは戦いを続ける。というのも、そもそも目的が違うのだ。米軍は利害で戦っているが、北ベトナム軍は国家の存亡を賭けているし、アルカイダは宗教的な正義が目的だ。

生存にかかわる戦いでその共同体が死に物狂いになっている場合には、通常の戦略用語は通用しない。
  ――第5章 何のために戦うのか

 こういう相手には理屈が通用しない。

利益を重視する戦争の力は限られており、当然ながら、それを政治目的を達成するための手段ではない戦争と対抗させると、多くの場合敗北を招くだけである。
  ――第5章 何のために戦うのか

 困ったことに、最初は利害で始まった戦争が、違う目的にすり替わってしまうこともある。

血が流されれば流されるほど――たいていは我々自身の血だが、敵の血が流れる場合もある――それは神聖化される。
  ――第6章 なぜ戦うのか

 末期の太平洋戦争も、これだった。そして戦って亡くなった将兵は、祀るべき存在になるし、戦いの目的は神聖なものでなければならないのだ。でなければ、亡くなった将兵を愚弄することになる。困った理屈だが、感情には訴えるんだよな。

 実際、歴史的には、少なくともタテマエじゃ利害以外の理由で戦った例も多い。

旧約聖書において民族間の戦争は、それぞれの民が崇める神々の優劣が証明されたり反証されたりする戦いでもあった。
  ――第5章 何のために戦うのか

 キリスト教も十字軍があった。イスラム教も、元は戦う宗教だった。

コーランは世界を二つに分けている――イスラムの家と戦いの家(非イスラムの世界のこと)である。この二つは絶えず交戦状態にあるとされていた。
  ――第5章 何のために戦うのか

 などと最初は過激だったのが、次第に穏健になるのは世界的な宗教になるための通過儀礼なんだろうか。

12世紀になってから(略)法学者によってはイスラムの家と戦いの家の間に三つ目のカテゴリー、契約の家を設けた。この言葉は、イスラム教を信仰してはいないがイスラム世界と条約を結んだ国を指す。
  ――第5章 何のために戦うのか

 いずれにせよ、これらの戦争で戦った者たちは賞賛される。少なくとも、彼らの同胞には。

 もっとも、これが成り立つのは、双方が同じ立場の軍隊の時だけだ。例えば現在、イスラエル軍はガザで戦っている。そして、多くの非難を浴びている。なぜか。あまりに戦力が違いすぎるからだ。

強者がが弱者に対して行う行為はほぼすべて残虐行為と考えられている
  ――第6章 なぜ戦うのか

 ハマスは弱い。前線を形成したら、すぐに全滅するだろう。だから逃げ隠れする。往々にして市民を楯にして。それでも、非難されるのは戦車に乗ったイスラエル軍なのだ。だって弱い者いじめじゃん。

 と、ここまで書いて、今になって気が付いた。クレフェルト先生は、現在のガザにいるイスラエル軍将兵の立場でも、「俺は戦争が好きだ」と言うんだろうか? いやどう考えてもネタニヤフとは話が合わなそうだが。

 さすがにソ連崩壊直後の1991年の本なので、ロシアのウクライナ侵攻までは予言できていない。が、ハマスとヒズボラとフーシ派に囲まれたイスラエルの苦境は、困ったことに当たっちゃってる。著者の苦り切ってるだろうなあ。などと、以降の国際情勢も答え合わせとして楽しめる。いや物騒な本なんだが。いずれにせよ、戦争を考えるには必須の本だ。

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