ジョン・マン「グーテンベルクの時代 印刷術が変えた世界」原書房 田村勝省訳
(教皇カリクストゥス三世のためにグーテンベルクが印刷した1456年の教皇勅書で使っている)それぞれの文字の種類は二つや三つではなく、数十種類あったのである。
――第7章 金字塔グーテンベルク聖書の完成19世紀になって、インドにいたイスラム教徒がパンフレット、それから新聞を印刷しはじめる<までの400年間にわたり、印刷はイスラム世界になんのインパクトも与えなかった
――第9章 国際的に広がる印刷術(トレントの宗教会議が作った)『禁書目録』(Index Librorum Prohibitorum)は、なにが新しくて興味深いかを宣言してくれているので、プロテスタント系の出版社にとってはいい宣伝になったのである。
――第10章 ルターと宗教改革
【どんな本?】
ユハネス・グーテンベルク(→Wikipedia)、活字印刷の発明者として有名な人物である。彼が実用化・事業化した印刷技術は、ルネサンスや宗教改革そして科学の勃興へとつながった。だが、彼について記した記録は少ない。生年月日は不明だし、肖像画は全て想像したものである。
革命的な技術革新を惹き起こしたグーテンベルクは、どんな人物だったのか。資料が少ない分、推理や想像で大きく補う必要がある。著者はやや俯瞰した目で、彼が生きた時代や事業を興した都市マインツの状況など、背景事情からじっくりと描いてゆく。
そこで動き出すグーテンベルクは、天才的な発明家でも革命を呼びかける扇動者でもなく、執念深く開発した新技術を巧みに売り込んだ起業家が近い。
謎の多いグーテンベルクを主役としつつ、彼の生きた時代の様子を、主に都市部を中心に描く、一般向けの歴史解説書。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は The Gutenberg Revolution : The Story of a Genius and an Invention That Changed the World, by John Man, 2002。日本語版は2006年11月10日第1刷。単行本ハードカバー縦一段組み本文+補遺で約293頁に加え、訳者あとがき4頁。9ポイント45字×18行×293頁=約237,330字、400字詰め原稿用紙で約594枚。文庫なら普通の厚さの一冊分。
文章は比較的にこなれている。内容もわかりやすい。キリスト教、それもローマ・カトリックが強く関わっているので、キリスト教の歴史に詳しいと更に楽しめるだろう。
【構成は?】
ほぼ時代順に進むので、素直に頭から読もう。
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- 第1章 色あせた黄金の都市マインツ
- 第2章 シュトラスブルクでの冒険
- 第3章 クザーヌスとキリスト教世界の統一
- 第4章 印刷術発明への歩み
- 第5章 なぜグーテンベルクだったのか
- 第6章 聖書への道のり
- 第7章 金字塔グーテンベルク聖書の完成
- 第8章 グーテンベルクの名誉回復
- 第9章 国際的に広がる印刷術
- 第10章 ルターと宗教改革
- 本書について 人類第三の革命
- 補遺1 『42行聖書』の収支
- 補遺2 周辺諸国にわたったドイツの印刷職人たち
- 字体に関する注(原著)
- 訳者あとがき/参考文献
【感想は?】
資料の少ない人物の評伝である。そう、伝記ではなく評伝なのだ。
というのも。著者の筆はあくまで冷静かつ論理的であり、記録がなければないと白状してしまう。想像で補い面白い物語を語ろう、とはしていない。つまり、作家ではなく学者が書いた本なのだ。
そういう点で、日本語の書名は巧い。人物を描く際も、人物が置かれた状況や時代の情勢など舞台背景から、少しづつ人物に近づいてゆく。最終的にもアップで表情・感情を詳しく映すのではなく、全身像に留めている感がある。つまり、人物より背景に重心を置いた本であり、まさしく「時代」を描いた本なのだ。
著者の筆が落ち着いているためか、主人公のグーテンベルクも革命を望む狂信的な人物には思えない。挑戦的ではあるが、ありがちな企業家に近い。ただし、有名な42行聖書(→慶應義塾大学メディアセンター デジタルコレクションの036「42行聖書」)を見る限り、その品質へのこだわりには尋常ではない情熱を感じる。
とにかく、美しいのだ。安く量産するんだから適当でいいや、なんて気配は微塵もない。手書きの写本より美しく作ってやる、そんな執念が漂っている。その一つが行の両端を揃えた組み方だ。
デザインのなかのあるひとつの要素は、グーテンベルクによる発案の可能性がある。それは右端の余白をそろえることだ。
――第7章 金字塔グーテンベルク聖書の完成
写本は左端から書いてゆく。左端は揃うが、右端はガタガタになる。これが活字だと、単語の間の空白を広げたり減らしたりして調整すれば、右端も揃えられる。その分、必要な活字や職人の手間は半端なく増えるんだが。
その活字も美しさに拘っていたようで、ウムラウトや合字(リガチャ)などのバリエーションも揃えている。
ひとつの字体について約300もの異なるパンチ(=父型)が必要で、それぞれについて鋼鉄彫り文字とそれから鋳造された活字があり、このような文字で構成される各行が、1mmの何百分の1の精度で作られ、整えられなければならない。
――第5章 なぜグーテンベルクだったのか
タイプライタでわかるように、字体なども、もっと簡単にやろうと思えばできたのだ、少なくとも言語の構造的には。
アルファベット――ローマ字だけでなく、どのアルファベットにも同じ基本原則がある――が天才的なのは、典型的には25~40程度の少数の記号を用いて、言語上の音(略)をすべて表記できることにある。
――第4章 印刷術発明への歩み
そこそこの品質で妥協しなかったあたりに、彼の執念を感じる。
さて、彼の功績としては42行聖書が有名だが、それ以前から印刷の事業は始めていた。俗称「ドナトゥス」と呼ばれる28頁のラテン語の分析書で、当時の学生の必携書だ。「1450年頃に出荷された」ので、42行聖書の5年前だ。現代でも学生向けの参考書は書店の床面積の多くを占領している。つまり、売れるのだ。グーテンベルクは、出版人として優れた経営感覚を備えていたようだ。
かと思えば、こんなのも出版してる。
印刷術によって、理性、科学、および学問の普及が可能になったのであるが、それはむしろ遅々としていた。売れ行きがよかったのは、占星術、錬金術、秘話めいた伝説(グーベルクは『シビルの神託』(→Wikipedia)の出版で先陣を切った)など、古き良きがらくたのようなものだった。
――第10章 ルターと宗教改革
現代日本でも宗教組織は出版者や印刷業者にとって美味しい顧客だ。一定数の売り上げが見込めるし、たいていは払いもいい。当時のドイツの教会の影響力は、日本の宗教組織より遥かに強かっただろう。それだけにグーテンベルクも関係を結びたかったようだが、この頃の教会は内部に対立を抱えており、つく陣営は慎重に選ぶ必要があった様子。
にしても42行聖書、もっとこじんまりとした本だと思い込んでいたが、実際は「二部構成の、壮麗な、全体で1275ページに達する」とは。いくら新規の発明で市場を独占しているとはいえ、それこそ社運を賭けた野心的な計画だったんだろうなあ。
というか、実際に資金はショートし、出資者と裁判沙汰になってる。その資金を回収するためか、こんな事態にも。
印刷の美しい聖書が、しかも節ごとにバラ売りされていたのである。
――第7章 金字塔グーテンベルク聖書の完成
いずれにせよ、印刷術の衝撃は大きく、彼の弟子たちは欧州中に散らばって事業を始め、鼠算式に弟子を育てて印刷を普及させてゆく。やがてルターが登場し、炎上しながらも大スターになる。
ある推計によれば、1518-25年のあいだにドイツで出版された全書籍の1/3は彼(ルター)の著作だという。
――第10章 ルターと宗教改革
現在とは出版事情が異なるとはいえ、一国の出版物の1/3を占めるとは。割合で言ったら聖書や毛沢東語録も超えるんじゃないかな。ちなみに、印刷がどれぐらい書物の普及に貢献したのかを価格面で見ると…
手書きの聖書が30ポンド以上していた――そして労働者の年間賃金が2ポンドだった――時期に、(ウィリアム・)ティンダル(→Wikipedia)の新約聖書は4シリング(0.2ポンド)、ときにそれを大幅に下まわる価格で小売りされた。
――第10章 ルターと宗教改革
年収15年分もした本が、月収程度で買えるようになる。とんでもない価格破壊だ。そりゃ確かに革命と言っていい。
もっとも、その基盤を揃えたグーテンベルク自身は、印刷物の美しさには強い拘りがあるとはいえ、いささか挑戦的ながら優れた経営者、といった印象が強い。42行聖書でわかるように、教会と良好な関係を結ぶあたりは、やや保守的な傾向も感じる。
少ない資料から足跡を辿り、当時の時代背景も考慮しつつ、世界を大きく変えた人物を描き出そうとした著者は、物語としての面白さより歴史書としての誠実さを優先し、しかし意外なエピソードも豊富に収めた、読みやすい一般向けの歴史解説書になった。また、著者の目論見とは異なるが、歴史家がどんな資料を漁りどう解釈するのかも楽しめた。本と歴史が好きな人にお薦め。
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