メアリー・ウェルズリー「中世の写本の隠れた作り手たち ヘンリー八世から女世捨て人まで」白水社 田野崎アンドレーア嵐監訳 和爾桃子訳
本書の冒頭数章では工芸品としての写本に注目し、その後は写本作成にかかわった具体的な人々について詳しく見ていく。
――はじめに
【どんな本?】
洋の東西を問わず、印刷が発達する前は、手書きで本を写していた。日本や中国はモノクロで文字だけの本が中心だが、欧州ではカラーの挿絵を豊かに添えた凝った作りの本も多く、ケルズの書(→Wikipedia)に至っては、もはや美術品である。
現代の私たちから見れば極めて貴重な資料である写本だが、戦争や襲撃・相続・火事など、様々な理由でその多くが失われてしまった。特にブリテン諸島ではヘンリー八世の宗教改革に伴う修道院の解散による散逸も大きい。
これらの写本は、誰が注文し、どのような者たちがどのように作ってきたのか。どんな写本が今も残っているのか。いつ、誰が、どんな状況で発見したのか。
大英博物館で写本の研究員も務めた著者が、写本に加えその作り手にも注目して記す、ちょっとマニアックな一般向け歴史解説書。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は Hidden Hands : The Lives of Manuscripts and Their Makers, by Mary Wellesley, 2021。日本語版は2023年12月25日発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約258頁に加え、監訳者あとがき9頁。9ポイント46字×19行×258頁=約225,492字、400字詰め原稿用紙で約564枚。文庫なら普通の厚さの一冊分…だが、まず文庫にはならないだろう。なんといっても、カラーで収録した写本の写真が素晴らしいのだ。
文章は比較的にこなれていいる。内容はマニアックながら、必要な背景事情は本文内に説明があるので、歴史に疎くても大きな問題はない。贅沢を言えば、豪華な写本を見た経験があると迫力が増す。
【構成は?】
各章はほぼ独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。
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- はじめに
- プロローグ 羊皮紙錬成
- 第1章 発見
- 第2章 惨事すれすれ
- 第3章 写本の注文主たち
- 第4章 画工たち
- 第5章 写字生と書記たち
- 第6章 写字生と著者の関係
- 第7章 隠れた著者たち
- エピローグ 写本の衰退
- あとがき 過去の使用と誤用
- 謝辞/年表/監訳者あとがき/用語集/図版一覧/文献目録/原註/索引
【感想は?】
書名は「中世の写本」だが、主に扱っているのはブリテン諸島で、大陸はあまり出てこない。ちなみにケルズの書も出てこない。さすが英国人、陰険だぜ←違うと思う。
著者は写本の作り手に注目しているが、私は写本そのものに目を奪われた。実際には粗末な写本もあるんだろうが、本書は豪華なものや貴重なものを主に扱っている。貴重なものの一つは、聖カスバート福音書だ。見た目は地味で手のひらに乗る大きさだが…
聖カスバート福音書(→Google画像検索)の名で知られるこの書物は、重さ162g、長さ14cm横10cmと小さいが、記念碑的文化財の地位に恥じない特徴を備えている。聖カスバート福音書は、八世紀当時の装丁のままで現存し後世の手が加えられていない、ヨーロッパ最古の書物なのだ。
――第1章 発見
もう一つはファンタジイの定番、ベーオウルフ(→Wikipedia)だ。口絵に一部の写真がある。単色で文字ばかりだが、端正で丁寧な文字だ。
現存する古英語詩は実に希少なので、(略)現存する全作品を合わせても三万行ぐらいだろうか。『ベーオウルフ』は三千行ちょっと――現存する集成の実に1/10にあたる。さらに驚くのは、それらの詩の大半(ざっと2/3)がはわずか四冊の写本の中身なのだ。
――第2章 惨事すれすれ
かと思えば、とんでもなく豪華なものもある。
この(アミアティヌス)写本(→ クリスチャントゥデイ のニュース)は一巻本の聖書だ――高さ50cm、重さ34kg、フォリオは1030葉だから515枚もの皮が使われている。
――第2章 惨事すれすれ
サイズからして私たちの考える「本」とは別物だ。少なくとも「読む」ものではない。そんなシロモノを作るのに、どれぐらいの手間がかかったのか、というと…
ロマネスク時代(900-1200頃)の写字生は、一日に五から六時間労働で二百行の写字が可能だったと推定される。つまり、死ぬまでに作れる本は20冊程度だ。
――はじめに
当時の読み書きできる者は、現代日本の大学卒業生より貴重だろう。こういうレベルの本を一冊作るには、そんな者を二年間雇い続けるに足る費用が、最低でも必要だったのだ。いや他にも羊皮紙または紙やインクとかが要るんだけど。
しかも、挿絵が多い豪華本だと、チームでの作業だ。
写本作りや装飾は共同作業であり、製作者の個人名はほぼ資料に残らない
――第4章 画工たち
ここで紹介される画工の集団は、現代のアニメ・スタジオみたいな雰囲気がある。おまけにスケジュールも、建物並みの年月がかかってたり。
ウィンチェスター聖書(→Google画像検索)は、中世の彩飾技法の製造工程が実地に判る比類ない好例であり、(略)装飾には15年ほどかけたが、ついに完成しなかった。
――第4章 画工たち
そんな画工たちは、聖書の依頼主であるウィンチェスター大聖堂の壁画も手掛けていて、また職人の何人かはスペインのサンタ・マリア・デ・シヘナ王立修道院の壁画連作も請け負っている。当時は高名な工房というか職人集団だったんだろうなあ。
ということで、実際に手を動かして写本を作るのは、修道士とは限らない。特に後の時代になると、プロが組織で請け負っているのだ。
その写字生、けっこうフリーダムだ。というのも、勝手に注釈を書き込むなんてのは可愛い方で、文章を改竄して作品のテーマを正反対に捻じ曲げたりもする。
写本はわたしたちを原著者へ近づけはしても、完全に彼らにたどりつくことは決してない
――第6章 写字生と著者の関係
もっとも、そのおかげで、20世紀以降の写本の研究者は、同じ文学作品の別の写本を集め比較して、系譜を辿ったり作り手を特定したりももできるんだが。こういうイレギュラーが、研究者にとっては貴重で…
(ダラム司教リチャード・)ド・ベリーは自分の本にこの若者が注釈を書き込んだといっておかんむりだが、その書き込みこそが写本史家の糧になるのだ。
――あとがき 過去の使用と誤用
なんて呟いてる。そういった端々に、写字生や挿絵画家の個性が見えて、彼らも血の通った人間なんだと感じる瞬間も、研究者の喜びなのかな。その写字生、どんな人たちなのか、というと…
中世写本はすべて男性修道士が書いたのかという(略)世間通念には間違いが二つある。第一に、多くの写本は世俗の人々が書いているし、第二に、女性が手がけた写本も多数ある
――第5章 写字生と書記たち
そんなワケで、本書では写字生に限らず、製作依頼者にもスポットをあててたり。
中世の写本の大半は著者に依頼された書記の手によるもので、著者と書記が同一の例は稀である。
――第6章 写字生と著者の関係
その中で有名なのはヘンリー八世(→Wikipedia)だろう。彼が作らせた詩編集が、これまた強烈で。なにせ挿絵に本人がダゴリアテを倒すビデ役などで登場してたり。
やはり高貴な身分ながら、あまり知られていないのがノルマンディー公女エマ(→Wikipedia)。幸い彼女は「エマ王妃頌」を残したため、波乱に満ちた生涯が歴史に刻まれている。
対してマージェリー・ケンプ(→Wikipedia)は平民らしい。読み書きは出来なかったようで、「マージェリー・ケンプの書」は書記に書き取らせている。臨死体験や幻視などの神秘体験が中心のようだが、エルサレムに巡礼に行ったりと、なかなかに活動的で、それなりに豊かだった様子。
そんなエネルギッシュな人とは対照的なのが、世捨て人(→Wikipedia)。男も女もいるんだが、本書は女に注目する。というか、著者は先のノルマンディー公女エマやマージェリー・ケンプなど、歴史に埋もれがちな女に敢えて焦点を当ててるのも本書の特徴。
女世捨て人(男性形はアンカラライト)とは祈りと瞑想三昧の日々を送るために、自ら進んで独房に死ぬまで閉じこもった人をさす。
――第7章 隠れた著者たち
一種の引き籠りだね。さすがに独房の住み心地は快適とは言い難いようだが、食事などは差し入れてもらっていたようだ。
他にもアーサー王の死(→Wikipedia)のトマス・マロリー(→Wikipedia)が、濡れ衣じゃなくて本当にロクデナシだったりと、面白エピソードは多い。全体としてはいささか散漫な印象はあるが、写本をテーマとして知られざる歴史トリビアの本として楽しめたし、何より大量に収録した写本のカラー写真が素晴らしい。
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【いいわけ】
ということで、珍しく同じテーマ=写本を扱った白水社の本が三冊続きます。多分、写本が好きな編集者が担当したんだろうなあ。
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