クラウディア・ブリンカー・フォン・デア・ハイデ「写本の文化誌 ヨーロッパ中世の文学とメディア」白水社 一条麻美子訳
「革命的」な影響をもたらして、その時代の人々から熱狂と同時に疑惑の目で迎えられたメディアの革新が、過去に二回あった。口承から書記への転換と活字印刷の発明である。このうちの最初の「革命」、つまり本の文化の形成と中世(西暦800年から1500年)における文学世界の成立がこの本のテーマである。
――序カロリング朝のテキストを見る限り、書記は1日に1ページ25行を最大7ぺージ書写できた。
――第1章 本ができあがるまで 4 書記(印刷が出現しても)16世紀初めまで本の出版点数が10から15%しか伸びなかった(略)。新たなジャンルの登場が必要だった。それがビラ、パンフレットの類いである。
――第1章 本ができあがるまで 8 印刷術という革命絵を読むのはテキストを読むのと同じように、訓練を必要とする。
――第3章 本と読者 1 開く・読む
【どんな本?】
中世ヨーロッパの写本は、当初は教会や修道院が主な製作の場となったために、時祷書などの宗教書が中心だった。だが時代が進むにつれ、王侯貴族が出資・発注するなど製作体制の変化があり、中身もドイツ語などの俗語で書かれた詩や物語が増えてゆく。
カッセル大学の中世ドイツ文学講座で教鞭をとる著者が、中世の写本とそれをめぐる環境・状況を詳しく語りつつ、中世におけるドイツ語の文学が「本」として記録に残る形になってゆく経緯を描く、一般向けの歴史解説書。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は Die literarische Welt des Mittelalters, Claudia Brinker-von der Heyde, 2007。日本語版は2017年8月10日発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約237頁に加え、訳者あとがき8頁。9ポイント48字×20行×237頁=約227,520字、400字詰め原稿用紙で約569枚。文庫なら普通の厚さの一冊…だが、モノクロとはいえ図版が魅力的なので、たぶん文庫にはならないだろう。
文章はこなれていて親しみやすい。内容も分かりやすいが、中世の詩人を語る部分は、各詩人の作品mなどについて相応の前提知識が必要。素人の私は読み飛ばした。
なお、あちこちで図版を参照しているので、図版目次が欲しかった。
【構成は?】
全体として写本そのものから、写本をめぐる環境・社会状況、そして著者の関心事項である文学の写本へと向かってゆく。写本に疎いなら、素直に頭から読もう。
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- 序
- 第1章 本ができあがるまで
- 1 材料の調達
- 2 書く・描く
- 3 写本製作の場
- 4 書記
- 5 本の外見
- 6 写本の値段
- 7 保管とアーカイブ化
- 8 印刷術という革命
- 第2章 注文製作
- 1 文学の中心地
- 2 文学愛好家とパトロン
- 3 文学マネージメント マネッセ写本
- 4 愛書家 ある15世紀貴族の図書室
- 第3章 本と読者
- 1 開く・読む
- 2 身体としての本
- 3 五感と読書
- 第4章 作者とテキスト
- 1 詩人 匿名・自己演出・歴史性
- 2 作品 伝承・言語・文学概念
- 訳者あとがき/参考文献/町名・人名リスト/注と典拠/索引
【感想は?】
写本関係も三冊目ともなれば、読む側も基礎知識ができて多少は飽きるかと思ったが、なかなかどうして。
そもそも、中世ヨーロッパの世界が興味深い。「小説家になろう」の転生物でカブれた者にとっては、なにかと意外な事が多い。その一つが、都の不在または旅する都だ。
「旅する宮廷」というのは、初期中世において通常の支配形態だった。(略)君主は(略)宮廷の面々を引き連れて移動する。推定によると、王に付き従っておよそ1000人の集団が(略)都市のネットワークを渡り歩いた。
――第2章 注文製作 1 文学の中心地
そうでもしないと、各地の有力者を抑えきれなかったんだろうか。押しかけられる諸侯や都市にとっても、大騒ぎだったろうなあ。ホテルの類は発達してないだろうから、君主は領主の館に泊まるとして、従者はどうしたんだろう。
君主はともかく、物語を歌い語る詩人たちも暮らしは過酷だ。いや貴族階級の詩人もいるんだけど、身分のない者は。
街道にあふれていた危険に対し遍歴芸人は身を守る術を持たず、法の庇護も与えられなかった。(略)床屋、町医者、曲芸師、乞食、歌手等々がひとまとめにこのような扱いを受け…
――第4章 作者とテキスト 1 詩人 匿名・自己演出・歴史性
定住しない芸人は極東でも似たような扱いだが、床屋と町医者はどういう事なんだろう? まあいい。少なくとも中世で貴族出身でない詩人は最下層の立場だったわけだ。そして、そんな時代に、写本製作は主に修道院が担っていた。
精力的に活動する修道院にとって本は贅沢な調度品ではなく、教育義務を果たし、説教をし、聖書研究を行うために必要不可欠な道具だった。(略)それゆえ本を保管する図書室と写字室は、常に修道院の中心だった。
――第1章 本ができあがるまで 3 写本製作の場
しかも、それは教養ある者が独占する、格式高い世界でもあった。
12世紀以前のヨーロッパ文学は、修道院と聖職者に占有されたラテン語の世界だった。
――第2章 注文製作 1 文学の中心地
このラテン語がヨーロッパの学問に与えた影響は極めて大きいと思う。現代は英語が学問の国際語みたくなってて、母語が英語の者が有利だけど、昔はラテン語が国際語だった。だから国や地域の母語による有利不利は小さい反面、学問を学ぶ前にラテン語を身に着ける必要があり、大きな関門になっていたはず。
それはともかく、作られる写本にも、ハッキリとした格の違いがあった。
本のサイズは内容によって決まってくる。フォリオ(二つ折り版)が使われるのは豪華版聖書、典礼書、時祷書などで、文法書、短い論考などの実用書には四回折ってできるセクストデシモ(16折り版)が使われた。
――第1章 本ができあがるまで 2 書く・描く
しつこいようだが、あくまでも中世初期の話である。当然ながら、話し言葉と書き言葉も違う。
中世では、話し言葉と書き言葉の間に明確な違いがあった。話されていたのはさまざまなドイツ語、書かれていたのはラテン語だったのだ。
――第4章 作者とテキスト 2 作品 伝承・言語・文学概念
かような初期中世から、中世後期には俗語で書かれた物語の写本が世に出るようになる。教会や修道院の知識ある僧が用いる聖なる器具だったのが、俗世の者が俗な目的で造り使う道具も出てきたのだ。しかも、中身は英雄や恋愛や小話・ギャグからニュースや風刺など、バラエティ豊かに育ってゆく。
35.5×25cmという、(マネッセ)写本(→Wikipedia)の大きさも注目される。
――第2章 注文製作 3 文学マネージメント マネッセ写本
そうなった原因の一つは、本が身近になった事だろう。なにせ羊皮紙は値が張る。
13世紀以降、新たな素材が重要性を増し、写本製作におおきな変革をもたらした。紙の登場である。
――第1章 本ができあがるまで 1 材料の調達
この紙、安く手に入る代わりに、格は低かったのは前の記事にある通り。その分、俗な物語本への道が開かれたんだろうか。とまれ、その変化の様子を本書はあまり語らない。あくまで、社会での写本と物語と詩人の立場を記すのみだ。
その物語の立場も、中世初期には写本に相応しいものではなかった。そもそも記すものではなかったのだ。
11世紀末までの俗語文学は、口承で伝えられることがほとんどだったし、またそうされるのがふさわしいジャンルだと考えられていた。旅芸人、歌手、詩人は歌、伝説、メルヘン、物語を、書写されたテキストを使うことなく歌い語った。
――第3章 本と読者 1 開く・読む
それも、語るのではなく、歌うものだったらしい。ただし、曲と詩の関係はけっこうフリーダムだ。
抒情詩ミンネザング(→Wikipedia)は疑いなく「聞く」文学であったと言える。(略)中世の詩人たち(略)は自ら作曲するか、手持ちのレパートリーのなかの有名なメロディーに合わせて詩を書いた。使えるメロディーには限りがあったので、逆にテキストをメロディーに合わせて創作したのである。
――第3章 本と読者 1 開く・読む
歌手が勝手に詩を変えたのだ。これは写本も同じで、当時の人たちは文章も勝手に書き換えた。少なくとも物語の写本は、そういう流儀だったのだ。これを印刷が変えてゆく。のだが、それは後の時代の話。
しかも詩人たちは、その場その場のアドリブで歌を変えてゆく。
確かなのはミンネザングが、その時々の上演状況に合わせて形を変える可能性のある「ワーク・イン・プログレス(進行中)」の作品だったということである。
――第4章 作者とテキスト 2 作品 伝承・言語・文学概念
これ、現代のジャズやロックやヒップホップのミュージシャンがライブでやってるのと同じだよね。というか、当時の詩人はまさしく現代の流行歌手みたいなモンで。ラブソングを歌う歌手は恋する乙女を演じているのであって、歌の主人公そのものじゃないように、恋の詩を奏でる詩人も、恋してるワケじゃない。まあ、ウケを狙い敢えて勘違いさせるって手口もあるけど。
そんな物語の写本は、現代の出版とは大きく異なる経路・体制で製作が始まった。
中世の文学は後に買い手が見つかることを期待して書かれるのではなく、すべて注文制作で、まず「購入」され、それから制作された。
――第2章 注文製作 2 文学愛好家とパトロン
パトロンが「こういう本を作れ」と命じて、プロジェクトが始まるのだ。ちなみにパトロンはたいてい王侯貴族ね。で、パトロンは、原本に対し「こう変えろ」と指示したりする。現代のように「オリジナルに忠実に」なんて思想はないのだ。
お陰で同じ物語でも、写本によってあらすじが違ってたりする。
現代のわれわれから見て写本の第一の特徴とは、どれひとつとして同じものがないその個性である。(略)しかし、すべての写本の基礎となる、学校教育の最初に習うような標準文字があったこと、そして活字はすべて、古典古代を手本として中世に作り上げられた写本の書体を基にしていることについては、あまり知られていない。
――第1章 本ができあがるまで 2 書く・描く
とすると、物語の原型はどうだったのか、なんて話も出てきて、現代は研究者の考え方も変わってきたらしい。
それはともかく、このくだりではもう一つ、とても興味深い話題が展開する。様々な書体のデザインは、どこから来たのかって話だ。モダンな印象の Times New Roman も、ルーツにはカール大帝が関わってたり。
文学研究者らしく、あちこちに当時の詩の引用が入るのはご愛敬だろう。モノクロながら豊富に収録した写本の写真も、見ていて楽しい。また、出資・プロデュースなど製作体制の話も面白かった。中でも最も興奮したのが、書体をデザインし生み出すくだりだ。こんな風に具体的に指摘されると、写本を見る目も一段と精度と解像度が上がる。特に中世ヨーロッパの文学に興味がある人は、ぜひ読んでおこう。
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