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2024年8月の4件の記事

2024年8月30日 (金)

SFマガジン2024年10月号

「それはあなたの夢の形をしていない」
  ――斜線堂有紀「お茶は出来ない並んで歩く」

「おれたちに思いつけるような仮説は、きっと違う」
  ――神林長平「戦闘妖精・雪風 第五部」第15回

「上下の枚数を素数で準備したら、順番に着ていくだけでもカブリは最低限に抑えられるよ」
  ――菅浩江「世はなべて美しい」

 376頁の標準サイズ。

 特集は「ファッション&美容SF特集」。

 小説は11本+3本。「ファッション&美容SF特集」で6本、連載が5本+3本、読み切りはなし。

 「ファッション&美容SF特集」の6本。暴力と破滅の運び手「あなたの部分の物語」,斜線堂有紀「お茶は出来ない並んで歩く」,櫻木みわ「心象衣装」,池澤春菜「秘臓」,菅浩江「世はなべて美しい」,ジュヌヴィエーヴ・ヴァレンタイン「美徳なき美」紅坂紫訳。

 連載の5本+3本。神林長平「戦闘妖精・雪風 第五部」第15回,冲方丁「マルドゥック・アノニマス」第55回,吉上亮「ヴェルト」第二部第二章,夢枕獏「小角の城」第77回,飛浩隆「空の園丁 廃園の天使Ⅲ」第24回,田丸雅智「未来図ショートショート」3本「コオロギ狩り」「ロイとの景色」「VR祭りの夜」。

 「ファッション&美容SF特集」から。

 暴力と破滅の運び手「あなたの部分の物語」。マネージャーのタンギーの提案で、王子様役のフアンは部分をダクトテープで隠す羽目になった。なにせ、不規則な周期で機能的な状態になるのだ。先の大戦で、<連邦>の男性の多くが放射線で不妊化してしまった。これに対応するため、男性の外性器を遠隔地すなわち<連邦>の部分銀行が管理し…

 「部分」だの「機能的な状態」だのとかの、回りくどく堅苦しい言葉が妙に可笑しい作品。なんか真面目なテーマも含んでいそうなんだが、とにかく笑えてしょうがない。「あなた」の仕事とかね、もう切なくて悲しくて馬鹿々々しいw なにが悲しくてそんな仕事を背にゃならんのだw

 斜線堂有紀「お茶は出来ない並んで歩く」。やっと手に入れた ALICE and the PIRATES のワンピースをまといラフォーレ原宿に繰り出した扇堂伴祢は、BABY, THE STARS SHINE BRIGHT を着た巫女常出鶴に駄目だしされる。厳しい言葉だが、ロリータファッションへの情熱は本物だった。それから15年後、再会した二人は…

 仕事でも趣味でも、優れた導師やメンターに出会えることは滅多にない。出鶴のいでたちも行動も、ブランドに相応しくある姿を求めた結果なんだが、同時に「ごっこ」でもある。それでも、そこには確かにファッションへのリスペクトが溢れている。

 櫻木みわ「心象衣装」。ファッション界の公開新人オーディション、ネクスト・クロ――ゼットのファイナルに残った二人、ユーリと紫陽花は対照的で犬猿の仲だった。最終課題は心象ファッション。着用者の脳神経と連動し、その感情や内的反応を取り入れたファッション。一般的に生物模倣と併せて用いられる。

 ファッションとバイオ技術って未来的な気もするが、改めて考えると綿や絹や羊毛は生物素材そのものだし、藍やコチニールなどの染料も生物由来なワケで、とするとファッションとバイオ技術は新しいどころか伝統的な結びつきなのかも。そういや「織物の世界史」には色付きの繭を作る蚕の話もあった。とかは置いて、昭和の少女漫画っぽい味わいもある作品。

 池澤春菜「秘臓」。小学三年生の息子を送り出し、朝食を食べている夫に声をかけ、チヒロはサロンに出かける。サロンではレアを指名する。レアはエステックことアンブレラのエンジニアで、抜群の腕前を誇る。アンブレラは極薄の膜状装置で、ウイルスや有害物質から身を守るだけでなく、ちょっとした外見の補正もできる。久しぶりに会った旧友のアメちゃんは…

 美容に対し対照的なレアとアメちゃん。チヒロはややレア寄り。美容と考えると一次元の右と左で対照的となるけど、ファッションとして捉えると人により目指す方向性は様々で、幾何学的な意味での次元も多くなる。などと思いながら読んでたら、お話は意外な方向へ。

 菅浩江「世はなべて美しい」。<フィーリー>は骨伝導で音楽を流す。その時の状況に相応しい曲を指定し、自分の気分を調整する。そうやってカナは人間関係をしのいできた。地元に戻ったカナは、高校時代の人気者キョウの姿に驚く。怪我で、世界がすべて美しく見える疾患を抱えたキョウは、黒づくめでくすんだ姿になっていた。

 まあ、アレだ。スタイルのいいイケメンは、無難な格好でもカッコいいのだ、やっぱり。うう、くやしい。疾患のせいでキョウは人生ハードモードなのに、どうにも同情する気になれないw

 ジュヌヴィエーヴ・ヴァレンタイン「美徳なき美」紅坂紫訳。ファッション・モデルは、肩から腕を移植する。14歳以下で亡くなった子供の腕だ。マリアが19歳の時にメゾンは彼女を見いだした。腕を移植して6カ月間は人目から隔離し、上流階級のアクセントを叩きこむ。ビスポーグ誌は彼女を「薔薇とダイヤモンドの姫」と呼んだ。

 スラリとした妖精のような体形が多いファッション・モデルの世界では、何かと悪いうわさもあって、その辺を大きくデフォルメした作品。描いているのは華麗な世界ながら、ハードボイルド調にキレのあるキビキビした文体なのが、ファッション業界の冷たさと厳しさをうまく伝えている。

 連載。

 冲方丁「マルドゥック・アノニマス」第55回。シルヴィアを喪った<クインテット>は、事件の背景の調査を始めると同時に、迅速に体制を変えてゆく。ハンターはシルヴィアの死をイースターズ・オフィス攻撃に使おうと画策する。ウフコックは自らの姿を大衆の前に現してスピーチを行う練習を始めるが…

 ウフコックのスピーチ練習の場面が、この作品には珍しく微笑ましい。そうだよね、見た目だけなら、レイチェルの反応が普通だよね。能力はひどく物騒だけど。「勤勉な無能」には笑った。そしてますます人間離れしてくるレイ・ヒューズ。

 神林長平「戦闘妖精・雪風 第五部」第15回。零と桂城が乗った雪風が、ジャムを発見した。旧機体が投下したポッドの一つが5秒ほど信号を発した後に沈黙したのだ。ジャムがポッドを破壊したのか、またはジャムの偽信号か。高速で現場に向かう雪風の前に、異様な存在が現れる。

 今回の後半はシリーズを通した大きな曲がり角の予感。未知の脅威に突撃する雪風の後ろに控えるレイフが頼もしい…とか思ってたら、とんでもねえシロモノを積んでた。

 飛浩隆「空の園丁 廃園の天使Ⅲ」第24回。舞台は青野、啄星高校の文化祭。やはり区会の住人が、世界の描画制度を認識したり操作したりする描写にはギョッとする。そして『クレマンの年代記』にも影響が。

 吉上亮「ヴェルト」第二部第二章。革命はなったが、フランスは内外共に危機にある。外からはプロイセン・オーストリア・イギリスに攻められ連戦連敗、内ではフランス各地の騒乱に加え政権はジロンド派と山岳派で睨み合いが激しさを増す。そんな時に、バスティーユの襲撃を逃れたサド侯爵はパリに潜む。

 名前だけは知っていたマルキ・ド・サドことドナシアン・アルフォンス・フランソワ・ド・サド、この連載では作品を書いただけでなく…。えっと、なかなかに大変な人で、悪役ではあるけと、大物というより卑劣で狡猾って感じだなあ。いや今のところ噂だけで本人は登場してないんだけど。

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2024年8月25日 (日)

サイモン・マッカシー=ジョーンズ「悪意の科学 意地悪な行動はなぜ進化し社会を動かしているのか?」インターシフト プレシ南日子訳

正義を守るのは気分がいい
  ――第2章 支配に抗する悪意

人々は明らかに報復のために行動している場合でも、それに気づいていない。
  ――第4章 悪意と罰が進化したわけ

不公平な行動をした他者を罰するのは高いコストがかかるため、人間は自分たちの代わりに罰を与えてくれる神を生み出したのだ
  ――第7章 神聖な価値と悪意

神聖な価値は何よりも優先されるものであり、交渉の余地はない。
  ――第7章 神聖な価値と悪意

【どんな本?】

 人間はときおり理屈に合わないことをする。その一つが「意地悪」だ。自分が損をしてでも、他の者に害を及ぼそうとする。、本書はそんな行いを悪意と呼ぶ。

 では、どんな者が悪意を抱き、行動に移すのか。どんな動機・目的があり、どんな効果があるのか。生存競争で悪意は何か機能を果たしているのか。そして現代社会に悪意はどんな影響を与えているのか。

 経済学者は、功利主義者が多い。そのためか、彼らは悪意を見過ごし、または愚かさとして軽んじてきた。だが、時として悪意は社会に大きな影響を与えてしまう。

 臨床心理学と神経心理学の準教授が、悪意に基づく行動にスポットをあて、脳の機構から様々な実験そして社会現象など多様な挿話を取り上げ、生理学・生物学・心理学・経済学・社会学など多くの分野にまたがる視点で調べ分析し、その原因や社会に与える影響を語る、一般向けの解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Spite : and the Upside of Your Dark Side, by Simon McCarthy-Jones, 2020。日本語版は2023年1月30日第1刷発行。私が読んだのは2023年4月15日発行の第2刷。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約225頁に加え、本書出版プロデューサー真柴隆弘の解説4頁。9.5ポイント44字×17行×225頁=約168,300字、400字詰め原稿用紙で約421枚。文庫なら普通の厚さ。

 文章は比較的にこなれていいる。内容も特に難しくない。人と人との関係がテーマの本なので、誰にとっても身近な話でもあり、興味が持てる本だろう。

【構成は?】

 はじめに~第3章までは基礎を固める部分なので、頭から読んだ方がいい。以降はつまみ食いしてもいいだろう。

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  • はじめに 人間は4つの顔をもつ
    なぜ悪意は進化で失われなかったか?/悪の中にある全の起源
  • 第1章 たとえ損しても意地悪をしたくなる
    人間観をくつがえす研究/悪意に満ちた入札/最後通牒ゲームによる発見/配偶者や恋人への悪意/ビジネスでの悪意/選挙における鮎喰/終末論的な人/Dファクター
  • 第2章 支配に抗する悪意
    平等主義はなぜ生まれたか?/ホモ・レシプロカンス/文化が違えば公平さの基準も違う/正義中毒/怒りと脳/共感は人間が本来持っている?/コストのかかる第三者罰/安上がりな悪意/善人ぶる人への蔑視/悪意のソーシャルネットワーク
  • 第3章 他者を支配するための悪意
    ホモ・リヴァリス/限られた場所での競争/セロトニンが減ると悪意が高まる/勝負に役立つ
  • 第4章 悪意と罰が進化したわけ
    悪意をもたらす遺伝子/公平さと罰の起源/オオカミがヒツジのふりをする
  • 第5章 理性に逆らっても自由でありたい
    ブレイブハート効果/ドストエフスキーと実存主義的悪意/不可能を可能にする
  • 第6章 悪意は政治を動かす
    勝たせたくないから投票する/カオスを求める人々/悪意を刺激する/「悪党ヒラりー」/挑発的なメッセージと菜食主義/専門家にはうんざり/エリートが過剰になるとき
  • 第7章 神聖な価値と悪意
    神と罰/自爆テロ犯はなぜ生まれるか?/神聖な価値への冒とく/社会的疎外/宗教が新しいストーリーを提供する/アイデンティティ融合/人々の協力を促し、地球を救う方法
  • おわりに 悪意をコントロールする
    インターネット上の悪意にどう対抗するか?/気難しい性格と創造力/民主主義を弱らせないために/慈悲の怒り
  • 謝辞/原注/解説

【感想は?】

 日本語で「悪意」と書くと、悪いことのように感じる。だって「悪」って文字が入ってるし。

 とはいえ、悪意は必ずしも害ばかりをもたらすわけではない。確かに短期的には害をもたらす。悪意を持つ者・悪意を向けられる者の双方に。だが、長期的には利益をもたらす場合もある。もちろん、害ばかりの場合もあるんだが。

 悪意は誰にどんな利益があるのか。脳のどこが悪意を産むのか。文化や環境や心身の状態による違いはあるのか。ヒト以外の生物は悪意を持つのか。そして悪意は社会をどう変えるのか。そういった事柄を、本書は追及していく。

 その基盤を成すのは、著者が「最終通牒ゲーム」と呼ぶ心理学の実験だ。

 被験者は二人。被験者Aは10ドルを受け取り、被験者Bと分け合う。取り分の割合はAが決める。Bが納得すれば、Aの決めた金額で取引が成立し、双方が金を受け取る。だがBが取引を拒んだら、A・B双方が一銭も受け取れない。

 Bの立場で考えよう。自分の利益だけで動くなら、取り分がどれだけ少なくても納得した方が得だ。だが、取り引きを拒む人もいる。自分の取り分を失ってでも、Aの取り分を潰したいのだ。

 その理由は幾つかあるが、基本的には「ナメんじゃねえ」である。取り分が半々なら、なんの問題もない。だが、自分の取り分が極端に少ない場合は、全てをチャラにしたくなるのだ。

あなたが誰かに腹を立てれば、彼らはあなたにもっと気を使わなければならなくなる
  ――第2章 支配に抗する悪意

悪意は他者を利用するためにも他者から利用されないようにするのにも役立つ。
  ――おわりに 悪意をコントロールする

 と、周囲の者を牽制することもできる。本書が扱うのは個人の行動だが、組織や国家も悪意で動く事はある。大国が核ミサイルを突きつけ合うのが、その典型だ。「俺に撃ったらお前も滅びるぞ」って理屈ね。そう考えると、世界を理解するのに悪意は欠かせない概念でもある。

 ちと先走った。本書は、先の実験の様々なバリエーションも見てゆく。金額を10倍にしたり、酔っぱらいを被験者にしたり、ケニアやモンゴルなど世界各地の人で試したり。

 その結果、被験者の状況や生まれ育った文化・社会によって、悪意の現れ方が大きく違うのも見えてきた。金持ち喧嘩せずは、そこそこ当たってたりする。

 などの、「どんな者が悪意を抱くのか」も興味深いが、それ以上に危機感すら覚えるのが、「誰が悪意を持たれやすいか」だ。これを扱っているのは「第6章 悪意は政治を動かす」で、2016年の合衆国大統領選のドナルド・トランプvsヒラリー・クリントンを掘り下げてゆく。

この選挙は激戦で、両候補の差はわずかだった。それだけに、「悪意が切り札となった」説には説得力がある。が、落ち着いて考えると、ほんのわずかであっても、両候補に差をもたらす原因は何だって切り札となってしまう。つまり悪意じゃなくても、例えばトランプ陣営はSNSの使い方が巧かったとしてもいい。が、この記事でそれを言うのは野暮だろう。

 ここで調べているのは、いわゆるアンチ票である。嫌いな候補者の対立候補に投票した人、だ。両候補ともにアンチはいるが、ヒラリーの方が嫌われやすい。いわゆる「いけすかない」のだ。

 その要因の多くは、日本のリベラルや左派の政治家や支持者にも多く見られる。その理由を知ると、アンチに対し思わず「愚かな真似を」と言いたくなるが、まさしくその言葉こそがアンチを増やしているのだ。誰だって、見下されたり愚か者扱いされたらムカつくし。

 ではなぜリベラルが嫌われるか。その理由の一つは、リベラルは理性で考え決断を下すからだ。なんか理屈に合わないようだが…

理性はリソースを必要とする。
  ――第5章 理性に逆らっても自由でありたい

 理性的に考え判断するには、相応の知識と思考能力が必要だ。だが、日々の暮らしに追いやられている者には、知識を蓄える余裕も、深く考える時間もない。貧しくて進学できなかった者は、高学歴の賢そうな奴のご高説なんざ聴きたくないのだ。貧しい者の味方であるはずのリベラルが、その貧しい者から嫌われる原因が、ここにある。

 また、正論で追い詰めるのもよくない。

人間は正しくあるよりも自由でありたいと願うものだ。
  ――第5章 理性に逆らっても自由でありたい

 これまた「お前は正しいかもしれんが、いけすかない」って気持ちだろう。

 いずれにせよ、これらは理屈や利害ではない。感情の問題である。政治が感情で動くなんて…と嘆きたくもなるが、有権者の感情を逆なでしたら選挙で負ける。勝ちたければ、人の感情についてキチンと学び、落ち着いて考え相手の感情に配慮して行動すべきだろう。

 経済学の基本、「人間は合理的に考え自分の利益を最大化すべく行動する」という前提に異議を唱え、実験やアンケートで仮定を実証し、今まで見過ごされてきた人間のもう一つの行動原理を明らかにした本。

 というと凄い大発見のようだが、私たちの身の回りにも悪意は満ちあふれている。いささか居心地の悪い「あるある」集として読んでもいい。政治的には右派より左派向けで、それも「もちっと選挙を巧く戦いたい」と考える人には得る物が多い。もちろん、政治に興味は薄いが人間には深い興味がある人にもお薦め。

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2024年8月19日 (月)

イアン・カーショー「ナチ・ドイツの終焉 1944-45」白水社 宮下嶺夫訳,小原淳解説

(1945年の)ドイツ崩壊の理由は明白であり、よく知られている。しかし、なぜ、また、どのようにして、ヒトラーの帝国が最後の土壇場まで機能し続けたのかは、それほど明白ではない。本書はこのことを解明しようとするものである。
  ――序章 アンスバッハ ある若者の死

戦争最後の10カ月の戦線死者数が開戦以後1944年7月までの五年間のそれにほぼ等しいのだ。
  ――第9章 無条件降伏

【どんな本?】

 1945年4月30日、追い詰められたアドルフ・ヒトラーは自殺する。翌日、海軍総司令官カール・デーニッツが政権を引き継ぎ、連合軍との交渉に当たり、(書類上は)5月8日に無条件降伏を受諾、ドイツの戦争は終わった。これによりナチ・ドイツは完全に消滅する。

 戦争の終わり方は色々あるが、一つの国が完全に消えるまで戦い続けることは稀だ。たいていはどこかで条件交渉に移り、停戦へと至る。

 なぜナチ・ドイツは最後まで戦いつづけたのか。続けられたのか。

 ヒムラーなど政権上層部やヨードルなど軍の上層部はもちろん、東西両戦線の全戦で戦った将兵、空襲に怯える市民、地域のボスとして振る舞う管区長など、様々な立場・視点から戦争末期のドイツの様子をモザイク状に描き出し、政権が国を道連れにして滅びゆく模様を浮かび上がらせる、重量級の歴史書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は THE END : Hitler's Germany 1944-45, by Ian Kershaw, 2011。日本語版は2021年12月5日第一刷発行。私が読んだのは2022年1月20日発行の第二刷。単行本ハードカバー縦一段組み本文約501頁に加え小原淳の解説7頁+訳者あとがき8頁。9ポイント45字×20行×501頁=約450,900字、400字詰め原稿用紙で約1,128枚。文庫なら厚めの上下巻ぐらいの大容量。

 文章はやや硬い。内容は特に難しくないが、第二次世界大戦の欧州戦線の推移、特に1944年10月以降について知っていると迫力が増す。ドイツの地理に詳しいと更によし。

【構成は?】

 ほぼ時系列順に話が進む。特に忙しい人は、「終章 自己破壊の解剖学」だけ読めば主題はわかる。

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  • 主な登場人物/地図/謝辞/初めに
  • 序章 アンスバッハ ある若者の死
  • 第1章 体制への衝撃
  • 第2章 西部での崩壊
  • 第3章 恐怖の予兆
  • 第4章 束の間の希望
  • 第5章 東部の災厄
  • 第6章 戻ってきたテロル
  • 第7章 進みゆく崩壊
  • 第8章 内部崩壊
  • 第9章 無条件降伏
  • 終章 自己破壊の解剖学
  • 解説:小原淳/訳者あとがき/写真一覧/参考文献/原注/人名索引

【感想は?】

 多くの日本人は、特にこの季節だと、戦争というと太平洋戦争を思い浮かべる。

 太平洋戦争で、大日本帝国は消滅した。ナチ・ドイツ同様、大日本帝国も完全に滅びたのだ。領土を失い、政権が変わっただけじゃない、大日本帝国憲法を基盤とした、国家の体制そのものが潰れた。私はそう思っている。

 世界史的に、そこまで悪あがきを続けるケースは珍しい。例えば中東戦争だ。イスラエルと周辺のアラブ諸国は、武力衝突と停戦を何度も繰り返している。大日本帝国だって、日清戦争と日露戦争は、利権や賠償金や一部の領土の割譲でケリをつけた。

 そういう意味で、本書のテーマ、「なぜナチ・ドイツは国家を道連れにしてまで戦いつづけたのか」は、「終戦史」が描く大日本帝国の終焉と通じる所がある。が、その経緯はだいぶ違う。少なくとも、この二冊を読む限り。

 ナチ・ドイツは、トップがハッキリ決まってる。言わずと知れたヒトラーだ。そのトップは、確固たる信念を固めていた。

「われわれは降伏しないぞ」(略)「絶対にするものか。われわれは滅びるかもしれぬ。だが、世界を道連れにして滅びるのだ」
  ――第4章 束の間の希望

 連合国にとっても、ドイツ国民にとっても、迷惑な話ではある。が、滅びるときは国を道連れにする、そういう決意を国のリーダーは固めていた。となれば、残る疑問は、なぜ他の者は逆らわなかったのか、となる。

 戦況が不利になると、特に東部戦線でヒトラーは軍に無茶な命令を連発する。「一歩も退くな」とかね。で、「いや無理です」とか言い返せば更迭だ。それを歴戦の国防軍の将軍たちはどう見ていたのか。

ゴットハルト・ハインリキ(→Wikipedia)<自分のヴィスワ軍集団に課せられた任務は、ほんのわずかであれ成功する見込みは、まったくありません>
  ――第8章 内部崩壊

 判っていたのだ、駄目じゃん、と。にもかかわらず、将軍たちはヒトラーに従い続けた。この理由の追求が、本書の狙いの一つだ。

 この辺、将軍たちの評価は厳しい。例えばカール・デーニッツ。今まで実直な海軍提督だと思ってたけど、著者は「いやあんた盛んにヒトラー持ち上げてたじゃん」とバッサリ。

 戦後の国防軍神話、つまり国防軍は国を守るために戦ったのであって侵略を企てたのではないって説も、「将軍の皆さんはヒトラーとその思想に心酔してたよね、戦後の回顧録じゃ誤魔化してるけど」と容赦ない。

 本書が追及しているのは、軍だけではない。政府の高官も、だ。具体的にはハインリヒ・ヒムラー/マルティン・ボアマン/アルベルト・シュペーア/ヨーゼフ・ゲッペルスの四人である。もっとも、こっちの解答は、実にみもふたもないんだけど。

 この面子では、軍需大臣アルベルト・シュペーアの野心的かつ優秀ながら、やや冷めた感覚が異色だった。実業界との関係が深い分、良くも悪くも計算高いのだ。

 そんな、ヒトラーのそばにいた将軍や大臣たちだけでなく、ケルンなど地域の様子も、本書は豊かなエピソードを収録している。幾つかの地域、特に西部では、戦わず連合軍に投降した都市もあれば、最後まで足掻いた都市もある。これは当時の管区制度の影響が大きく、ヒトラーとの連絡が取れなくなっても、最後まで総統に忠誠を尽くした地域も多い。

 かと思えば、自分だけ逃げだした大管区長もいたり。いずれにせよ、ナチの統治体制はかなりしぶとかったのが伝わってくる。本書が暴くその理由は、少なくともドイツ人に心地よいものではない。だけでなく、一般のドイツ国民に対しても、「負けたとたんに被疑者ムーブ」と著者の筆は容赦ない。

 他にも、バルジの戦いとも呼ばれるルントシュテット攻勢(→Wikipedia)、名前からしてまるきしゲルト・フォン・ルントシュテット元帥がノリノリだったような印象だが、本音は「いや無茶だろ」と思ってたとか、なかなか切ない挿話も。

 国を道連れに滅びた独裁者は、他にイラクのサダム・フセインとルーマニアのニコラエ・チャウシェスクが思い浮かぶ。いずれの国も人物もドイツのヒトラーとは異なる経緯を辿った。何が違ったのか、それを考えてみるのも面白い。

 京極夏彦並みの分厚く迫力あるハードカバーだし、中身も見た目に劣らない充実ぶりだ。腰を据えてじっくり挑もう。カテゴリは一応二つ、軍事/外交と歴史/地理としたが、歴史と政治の割合が高いと思う。特に独裁を許すことの恐ろしさは、嫌というほど味わえる。

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2024年8月 6日 (火)

アダム・クチャルスキー「感染の法則 ウイルス伝染から金融危機、ネットミームの拡散まで」草思社 日向やよい訳

これはひとつのウイルス、あるいはひとつの感染爆発についての物語ではなく、僕たちの生活のあらゆる面に影響を与える感染という現象についての物語であり、それに対して僕たちに何ができるかについての物語である。
  ――序章

マサチューセッツ工科大学の研究者が、正確なニュースよりも誤ったニュースの方が、より速く、より遠くまで広がりやすい事を発見している。(略)人は新しい情報を広めえるのが好きだが、誤ったニュースは正確なニュースよりも一般に目新しい。
  ――第5章 オンラインでの感染

【どんな本?】

 新型コロナやエボラなどの感染症は、あるパターンにしたがって感染者が増減する。このパターンは、感染症ばかりでなく、意外なモノゴトの流行りすたりにも適用できる。コンピュータウイルスは、比較的に連想しやすい。デマやフェイクニュース、インターネット上の「バズる」なども、想像はつく。だが、金融危機や暴力犯罪はどうだろうか?

 数学を専攻した後、ロンドン大学衛生熱帯医学大学院で数理モデリングを教えている著者が、感染症対策で成立した数理モデルが様々なテーマに応用されている事例を紹介しつつ、連鎖的な金融危機の内幕やデマの広がり方を語る、ちょっと変わった一般向けの数学・社会学の解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Rules of Contagion : Why Things Spread and Why They Stop, by Adam Kucharski, 2020,2021.日本語版は2021年3月5日第1刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約379頁。9.5ポイント42字×17行×379頁=約270,606字、400字詰め原稿用紙で約676枚。文庫ならちょい厚め。

 文章はこなれていて読みやすい。内容も比較的にわかりやすい。著者は疫病対策に携わる数学者だが、数式はほぼ出てこないので、数学が苦手でも大丈夫。

【構成は?】

 序章と第1章は基礎を固める所なので、なるべくじっくり読む方がいい。第2章以降はそれぞれ独立した内容なので、気になった所を拾い読みしても大丈夫。

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  • 序章
    新型コロナウイルス重症化の解明/2つの対策シナリオ/あらゆる「感染爆発」が存在する/流行曲線でみる感染爆発/感染を比較し、解明する
  • 第1章 感染の理論
    ギランバレー症候群とジカ熱/数理モデルの夜明け前/マラリアの原因は「悪い空気」?/いかにしてマラリアを止めるか/マラリア伝染モデルの構築/「記述的手法」と「機構的手法」/実験できない問題に答えを出す/ロスの遺志を継ぐ者たち/「集団免疫」の概念の登場/ヤップ島の感染爆発を追う/ジカ熱を運んでいるのは何者か?/将来予測にも利用できる数理モデル/数理モデルを感染症以外に適用する/新製品の普及に必要な4タイプの人間
  • 第2章 金融危機と感染症
    間近で見た金融危機前夜/とりわけ目立った「住宅ローン」/群集の不安と強欲モデル化/バブルの主要な4段階/金融危機を疫学の知見で解明する/再生産数「R」/Rの4要因/スーパースプレッディングかどうか/ネットワークの構造を分析する/「エイズのコロンブス」の真偽/困難なスーパースプレッダーの特定/感染症による分断を避けるために/感染症と金融危機の類似/金融危機を引き起こしたネットワークとは?/金融危機の伝播を防ぐために何ができるか
  • 第3章 アイデアの感染
    概念は感染するのか?/ネットワーク調査の壁/接触行動から流行を予測する/人間で社会的実験は可能か?/既存のネットワークを利用する/複数の暴露による「複合伝染」/人は新しい情報を示されれば考えを改めるか?/バックファイア効果が実際に起こるのはまれ
  • 第4章 暴力の感染
    コレラの奇妙なパターン/暴力連鎖を分析する手立てはあるのか?/自殺の伝染/暴力連鎖を防ぐ3段構成/天然痘から学んだこと/データ調査もしていたナイチンゲール/調査vs安全/一回きりの暴徒化/テロと集団行動/モデルをどう利用するか/予測との付き合い方/オピオイドと現在予測/実態把握と制御/割れた窓を直せば犯罪は減るか?/オンライン交流の影響
  • 第5章 オンラインでの感染
    インフルエンサー登場/影響力があり影響されやすくもある人はいるか?/反ワクチンとエコーチェンバー現象/ソーシャルメディアがエコーチェンバー現象を加速する/コンテクストの崩壊/インターネットは格好の実験場/コンテンツも進化しなければ生き残れない/ヒッグス粒子の噂の拡散過程/威力の低い感染を正しく評価する/オンラインで流行を生む方法はあるか?/「のぞき見法」/指名式ゲームは感染爆発を産むか?/動画の人気3タイプ/測定値を評価することの罠/行動の追跡とその価値/人々を常にオンラインにさせるには/出会い系アプリと政治/高度化するターゲティングによる拡散/ミームの適者生存/東日本大震災でのデマ拡散はどうすれば減らせたのか/間違った情報に対抗していくために
  • 第6章 コンピュータウイルスの感染
    最初のコンピュータウイルス/マルウェアの諸症状/ワームの需要/生き残り続ける/コードシェアの問題/ウイルスのようにコードも進化する
  • 第7章 感染を追跡する
    進化の道筋をたどる/遺伝学的データからウイルスの時間と場所を特定する/遺伝子データ公開の障壁/言語・文化への応用/「垂直伝播」と「水兵伝播」/遺伝子データとプライバシー/GPSデータのブローカー/禁断の実験
  • 第8章 感染の法則を生かすために
    データがあっても常に問題を解決できるわけではない/困難な状況で最大限にデータを生かすために/大規模なデータ収集とその分析をどう進めるか/新たな感染に対応するために
  • 謝辞/原注/参考文献/索引

【感想は?】

 根本にある理屈は、「バースト!」や「複雑な世界、単純な法則」や「スモールワールド・ネットワーク」と同じだ。何かが伝播し蔓延する、そのパターンに関する本である。

 ただ、本書のアプローチは、数学が苦手な人にも親しみやすい。先の三冊が理論を詳しく説明しようとしているのに対し、本書は「現実にどんな事柄に使っているか、巧くいった点と巧く行かなかった点は何か」といった、生々しいトピックが中心だからだ。いわば数学の授業とニュース番組の違い、とでも言うか。

 さて、基礎となっている理屈は変数Rで説明が終わる。疫病で言えば、一人の感染者が平均何人にうつすか、を表す数字だ。これが1を超えれば、感染は広がる。1より小さければ、感染は収束する。

 これを理論化したのが、19世紀~20世紀初頭の医学者のロナルド・ロス(→Wikipedia)。マラリアの研究で1902年にノーベル生理学・医学賞を受賞している。そこで満足せず、更にマラリアの撲滅をめざして研究を続け、なんとあらゆる伝染症が感染を広げる過程の数理モデル化を目指すのである。

 そこで異端者であり先駆者でもある立場を覚悟した、彼の言葉がとても凛々しい。

「我々は最終的には新しい科学を打ち立てるだろう。しかしまず君と僕とでドアを開けよう。そうすれば、入りたいものは誰でも入ってこられる」
  ――第1章 感染の理論

 ここで私が驚いたのが、マラリア撲滅の試算。てっきり蚊を絶滅させにゃならんのかと思い込んでいたが、実はそこまでする必要はない。一定数まで減らせば充分なのだ。実際、「蚊が歴史をつくった」によると、一時期は猖獗を極めた南北アメリカもほぼ抑え込みに成功している。

 さて、先の再生産数Rなんだが、もう少し詳しく書くと、以下四つの変数が関係している。頭文字をとってDOTSと呼ばれる変数の内訳は…

  • Duration=持続時間。感染源となってから治るか隔離されるか死ぬかまで、何日かかるかを示す。当然、長いほどヤバい。新型コロナなら、罹患した人が引きこもっていればDが減る。
  • Opportunities=機会。新型コロナ患者が駅などの人の集まる所に行けば、Oは増える。自宅勤務が勧められる所以だね。
  • Transmission Probability=伝播に至る確率は、マスクなどで飛沫感染を防ぐのがこれだ。
  • Susceptibility=感受性は、ワクチンによる予防が該当する。

 さて、かようにマラリアの予防・撲滅を目的として研究が始まった数理モデルは、マラリアのみならず、あらゆる伝染病へと適用範囲が広がった。ばかりでなく、意外な分野にも進出してゆくのだ。

数理経済学者エマニュエル・ダーマン(→Wikipedia)「人間は限りある先見性と大きな想像力を持ち合わせている」「そこで、モデルは必然的に、創り手が夢にも思わなかったようなやり方で使われるようになる」
  ――第2章 金融危機と感染症

 このあたりは、数学が科学の女王にして奴隷たる所以がひしひしと感じられる所。その「創り手が夢にも思わなかったようなやり方」を紹介するのが第2章以降で、数学や理科が苦手な人でも楽しめるのはここから。

 アイデアやコンピュータウイルスは直感的にわかるが、金融危機や暴力の感染は、ちとわかりにくい。でも、ちゃんと数理モデルが応用できたりするから面白い。

 とはいえ、中には数理モデルに頼りすぎた弊害の話も出てきて、著者の姿勢は学者としての慎重さも保っている。やはり社会問題に使おうとすると、それぞれの人の立場や思想が出る上に、多くの要因が絡み合っているため、一筋縄ではいかないようだ。

 とまれ、マラリアの研究という、切実な問題から始まった研究が、異なる分野の数理モデルの助けを借りて、伝染病全般へと適用範囲を広げ、更に金融や防犯や広告などの全く異なる分野にまで進出した話として、なかなかに起伏に富んだ物語が展開し、野次馬根性で読んでも楽しかった。数学は苦手だが興味はある、そんな人にお薦め。

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