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2024年3月18日 (月)

ティモシー・ワインガード「蚊が歴史をつくった 世界史で暗躍する人類最大の敵」青土社 大津祥子訳

比較的短い人類の20万年の歴史を通して、この世に生存した累計1080億人のうち、蚊によって520憶人が殺害されたと推定される。
  ――はじめに

マラリアが慢性化して雪だるま式に増加したことが、ローマ帝国の衰退と滅亡への直接的な原因であった。
  ――第4章 蚊軍団 ローマ帝国の興亡

病気の兵士は(略)死亡した兵士の倍の重荷となる(略)。病気の兵士は(略)人的資源や物資を消費し続ける。(略)蚊媒介感染症の場合、病人は仲間の兵士たちに感染を広げる仲介者にもなり、感染が継続する。
  ――第15章 自然界からの不吉な使い 南北戦争

【どんな本?】

 蚊。夏になると出てくるウザい奴。現代の日本ではその程度だが、戦後しばらくはマラリアで苦しむ復員兵も多かった。

 蚊は病気を媒介する。マラリア・黄熱病・デング熱などだ。今でこそマラリアの治療法や黄熱病の予防法がある。しかし、現代的な医療が確立する前は、多くの人々が蚊によって苦しみ、往々にして命すら奪われた。それは個々の人に限らず、時として歴史の流れすら左右したのである。

 古代ギリシャからローマ帝国、そしてコロンブス以降は南北アメリカ大陸やカリブ海の島々まで、人類の歴史に暗い影を落とし続けている蚊とそれが媒介する感染症について、歴史上のトピックを漁り蚊の影響力を力説する、一般向けの歴史解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Mosquito : A Human History of Our Deadliest Predator, by Timothy C. Winegard, 2019。日本語版は2023年6月10日第一刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約543頁。9ポイント46字×19行×543頁=約474,582字、400字詰め原稿用紙で約1,187枚。文庫なら上下巻ぐらいの分量。

 文章は比較的にこなれている。内容も特に難しくないが、第8章以降は南北アメリカ史を細かく探ってゆくため、その辺に詳しいとより楽しめるだろう。なお、本書はあくまで歴史書であり、例えばマラリア原虫の生態など科学的な面にはほとんど立ち入らないので、そのつもりで。

【構成は?】

 全体として時代順に話が進むが、各章はほぼ独立しているので、興味がある所だけを拾い読みしてもいい。

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  • はじめに
  • 第1章 蚊がもたらす有毒な双生児 マラリアと黄熱
  • 第2章 適者生存 熱の悪霊、フットボール、鎌状赤血球のセーフティ
  • 第3章 ハマダラカ将軍 アテネからアレクサンドロスまで
  • 第4章 蚊軍団 ローマ帝国の興亡
  • 第5章 悔い改めない強情な蚊たち 宗教危機と十字軍
  • 第6章 蚊軍団 チンギス・ハーンとモンゴル帝国
  • 第7章 コロンブス交換 蚊とグローバル・ヴィレッジ
  • 第8章 偶然の征服者 アフリカ人奴隷制度と蚊が米大陸に加わる
  • 第9章 順化 蚊の環境、神話、アメリカの種
  • 第10章 国家におけるならず者たち 蚊と英国の拡大
  • 第11章 疾病と言う試練 植民地戦争と新たな世界秩序
  • 第12章 不可譲の刺咬 アメリカ独立戦争
  • 第13章 蚊の傭兵たち 解放戦争と南北アメリカの発展
  • 第14章 「明白な天命」と蚊 綿花、奴隷制度、メキシコ、米国南部
  • 第15章 自然界からの不吉な使い 南北戦争
  • 第16章 蚊の正体を暴く 疾病と帝国主義
  • 第17章 こちらがアンだ、君にとても会いたがっている 第二次世界大戦、ドクター・スース、DDT
  • 第18章 沈黙の春とスーパーバグ 蚊の復活
  • 第19章 今日の蚊と蚊媒介感染症 絶滅の入り口?
  • 終わりに
  • 謝辞/註/参考文献/索引

【感想は?】

 夏に読んではいけない。蚊が怖くて蚊取り線香が手放せなくなる。

 本書のテーマは蚊が媒介する感染症だ。主役はマラリアで、その存在感は大きい。相方が黄熱だろう。

 歴史学者が書いた本だからか、歴史上のトピックは数多く出てくる。その反面、科学・医学的な記述は少ない。せいぜい、この程度だ。

唾液腺の中で、このマラリア原虫は蚊を巧みに操り、蚊に血液凝固抑制物質を作らせないようにし、一回の吸血中で最小限の血の量しか取り込めないようにする。これによって蚊は、必要な量の血を得るため吸血回数を増やさなくてはならなくなる。
  ――第1章 蚊がもたらす有毒な双生児 マラリアと黄熱

 この程度といいつつ、マラリア原虫の悪辣さがよく出ている挿話だろう。こんなマラリアの悪辣さは、地域の文化にも影響を与えてきた。

過去に蚊媒介感染症が多かった国々では、キクは死や悲しみを連想させるか、あるいは葬儀や墓標への献花としてのみ差し出される。逆に蚊媒介感染症がほとんどない地域では、愛や喜び、生命力を象徴する。
  ――第2章 適者生存 熱の悪霊、フットボール、鎌状赤血球のセーフティ

 これは除虫菊が蚊を遠ざけるため。どうも蚊と疫病の関係は昔からウッスラと知られていたらしい。日本じゃキクは仏様の墓前に供える花なわけで、ならかつてはマラリアや黄熱が流行ったのかと思ったら、真相は全然違った(→山と渓谷オンライン日本で「仏花といえば、キク」になった意外な理由)。

 ローマ帝国も蚊に苦しめられ、また時として蚊に助けられた。特にローマはポンティノ湿地が近く、ハンニバルも蚊に苦しんだ模様。つか、なんだってそんな所に永遠の都を築いたんだろ?

 以降もローマは蚊による感染症に苦しめられるのだが、キリスト教の流行にも蚊が一役買っていたとは。

カリフォルニア大学生物学&感染症教授アーウィン・W・シャーマン
「(ローマ帝国で)キリスト教はほかの宗教とは異なり、宗教上の義務として病人の看護を説いた。看病を受けて健康状態を回復した人々は感謝の念を抱いてキリスト教信仰に傾倒した」
  ――第5章 悔い改めない強情な蚊たち 宗教危機と十字軍

 やがてコロンブスがアメリカに到達し、欧州列強が南北アメリカに進出する。この際、困ったシロモノまで南北アメリカ多陸に持ち込んでしまったせいで、人類の歴史は大きく変化してゆく。

コロンブス交換が始まると、(略)アメリカ大陸原産のハマダラカは元々無害だったが、すぐさまマラリア媒介蚊となったのだ。
  ――第7章 コロンブス交換 蚊とグローバル・ヴィレッジ

 困ったことに当時の北米は現代とまったく風土が違い、蚊にとっては天国だった。これが合衆国の歴史にも大きく関わってくる。

当時(1600年代)の北米東北部には今日の40倍の個体数のビーバーがいたため、広範囲にわたって泥の深い湿地が拡がり、その面積は現在の2倍だった。蚊にとってこうした湿地帯は、理想的な活動の場だったにちがいない。
  ――第9章 順化 蚊の環境、神話、アメリカの種

 それでも移民の波は続く。中にはどうにか生きのびて子を残す者もいる。その子の多くが命を落とすが、生き延びた者は耐性を持っている。親の世代にとって欧州が故郷だろうが、子の世代にとっては生まれ育った土地が故郷だ。

米大陸で生まれて代々続いてきた世代が(蚊が媒介する感染症に)順化済みだったのは、北米だけでなくキューバやハイチ、その他多くの植民地でも同様だった。こうした住民たちにとって、頼みの綱はもはや母国へと伸びてはいなかった。
  ――第11章 疾病と言う試練 植民地戦争と新たな世界秩序

 そんな子たちを、「母国」は縛り付けようとする。だが、子たちは自分たちの優位を充分に知っていた。地の利を生かし、子たちは自由を勝ち取ってゆく。

ハイチ独立運動の指導者トゥサン・ルヴェルチュール(→Wikipedia)
「フランスから来た白人たちは、(略)最初は善戦するが、すぐに病に倒れてハエのようにばたばたと死んでいく。フランス軍の人数がいよいよ減ってきてから、執拗に攻撃して打ち負かす」
  ――第13章 蚊の傭兵たち 解放戦争と南北アメリカの発展

 このあたり、米国の血にまみれた歴史が延々と続く。にしても、当時の戦争の様子は私たちが考える戦争とは大きく様相が違う。

米英戦争での合計死者数は先住民連合と民間人を含めて35,000人に達し、その80%が病死で、大多数はマラリア、腸チフス、赤痢によるものだった。
  ――第14章 「明白な天命」と蚊 綿花、奴隷制度、メキシコ、米国南部

機関銃の発明者ガトリング(→Wikipedia)の、「これで戦死者が大幅に減るだろう」との言葉に対し、彼の愚かさをあげつらう向きもある。だが、先の数字を見る限り、彼の思考は当時としちゃ自然な発想だったのだ。残念ながら塹壕と鉄条網が彼の想いを裏切るのだが。

 などと猛威を振るったマラリアに、天敵が現れる。キニーネだ。何故か見つかったのは元来マラリアがないアンデス。不思議な話だ。とまれ、キニーネがマラリアに効くと判明した経緯は、残念ながら本書じゃ軽く触れられるだけ。

 とまれ、キニーネの発見は、特にアフリカの歴史に大きく関わってくる。

インドネシアでオランダがキナノキのプランテーションを強化したことで1880年代に「アフリカ分割」が可能になったが、それ以前は蚊媒介感染症がヨーロッパによる干渉侵略からアフリカを守っていた。
  ――第8章 偶然の征服者 アフリカ人奴隷制度と蚊が米大陸に加わる

 それまでアフリカを守っていた蚊=マラリアの盾が、キニーネによって破られてしまう。と同時に、今までやられ放題だった人類が、やっと蚊に一矢報いた話でもあるんだが。

 そんな便利な盾を、人類は当然ながら戦争にも使う。南北戦争で、北軍は南部へのキニーネの搬入を止めるのである。

(南北)戦争が始まった年に、1オンス(約28.35グラム)のキニーネの平均価格は4ドルだったが、1863年には23ドルに高騰していた。1864年の終わりには、封鎖破りの船から供給を受けての闇市場では、1オンス当たりの価格が400~600ドルだった。
  ――第15章 自然界からの不吉な使い 南北戦争

 こういう米国の成功体験が、現代でも「まず経済封鎖」となる米国の外交方針に残っているってのは、考えすぎだろうか。

 まあいい。キニーネに続き、マラリアや黄熱の感染経路が分かるにつれ、人類は反撃に出る。

ハバナで(米軍)衛生将校の長を務めたウィリアム・ゴーガス医師(略)の断固たる決意のおかげで、1902年には黄熱がハバナから完全に根絶された。1648年以来初めてのことである。
  ――第16章 蚊の正体を暴く 疾病と帝国主義

 更に、大量殺戮兵器であるDDTが登場し、蚊との戦いは一気に人類優位に傾く。特に米軍の徹底ぶりは凄い。

米国では戦争遂行を目的として途方もなく大がかりなマラリア・プロジェクトと連携させ、1942年には既に(DDTの)大量生産を開始していた。同プロジェクトは、核兵器のマンハッタン計画と同水準の機密、警備体制、規模となっていた。
  ――第17章 こちらがアンだ、君にとても会いたがっている 第二次世界大戦、ドクター・スース、DDT

 このDDT信仰は戦後も続き、占領地域でも大規模に散布した。

イタリアでは、DDTと新たな抗マラリア薬のクロロキンの力を借りて、1948年にはマラリアによる死亡者がゼロとなった。
  ――第17章 こちらがアンだ、君にとても会いたがっている 第二次世界大戦、ドクター・スース、DDT

 日本でも、進駐軍にDDTを体に振りかけられた、なんて体験談がよくあった。今でこそ毒性を云々されるDDTだが、当時は毒性が分かっていなかった。とはいえ、利害を計算すると、当時の日本の状況じゃ利の方が大きいんじゃないかと思う。

 などと万能に思われたDDTだが、生命はしぶとい。

蚊の種によって異なるが、DDT耐性の獲得には大体2年から20年かかった。
  ――第18章 沈黙の春とスーパーバグ 蚊の復活

 蚊は、たかだか2年で耐性を得てしまう。この進化の早さには恐れ入る。個体数が多いのに加え、大量に卵を産んで多くの子をなす、蚊の生態が有利に働いているのかも。

 それはともかく。幸い日本で発生するマラリアは、海外旅行の帰国者ぐらいだ。行政も充実していて、例えば2014年にデング熱が発生した際は、東京都が徹底した対策を取った(→国立感染症研究所代々木公園を中心とした都内のデング熱国内感染事例発生について)。一応は先進国で組織も充実しており、発生場所も一か所だけだから充分に対応できたが、貧しく政情が不安定な国で、アチコチで発生してたら、そうはいかない。

今日では、マラリア患者の85%はアフリカのサハラ砂漠以南で発生し、同地では人口の55%が1ドル未満で生活している。マラリア症例数に占める地域別割合は、東南アジアが8%、東地中海地域が5%、西太平洋地域が1%、南北アメリカがおよそ0.5%である。
  ――第19章 今日の蚊と蚊媒介感染症 絶滅の入り口?

 アフリカにおけるマラリアの猖獗ぶりを訴える文章なんだが、南北アメリカの少なさにも驚く。巧く対策を施せば、ある程度までは抑え込めるんだろうか。

 全編を通し、人が死にまくる本なので、かなり気力を要する本だ。また、米国の読者を想定しているためか、米国史、それも黎明期の、現住民虐殺など暗黒面を容赦なく暴く挿話が多く、歴史の暗黒面が好きな人には嬉しい本かもしれない。とまれ、暖かくなる前に読み終えたのは良かった。蚊が沸きだす季節には、下手な怪談よりよほど恐ろしい本である。

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