イアン・アービナ「アウトロー・オーシャン 海の『無法地帯』をゆく 上・下」白水社 黒木章人訳
わたしが努めて本書の中にとらえようとしてきた、きわめて重要なものが二つある。それは、痛々しいほど無防備な海の実態と、そうした海での労働に従事する人びとが頻繁に味わわされる、暴力行為と惨状だ。
――プロローグ世界中で大小取り混ぜて毎年何万隻もの船が盗まれている。
――7 乗っ取り屋たち
【どんな本?】
陸に国境はあるが、海に国境はない。陸では警察が法を守る。だが海、特に公海上では守るべき法もなければ守らせる警察もいない。だから、海は陸と異なるルールが支配する。
漁船の違法操業,人身売買まがいの船員集め,自警団気取りの自然保護活動家,海の傭兵基地,密航者,違法廃棄,自称独立国家,堕胎船,そして捕鯨船団。
これらの裏には、海がもたらす富と、あやふやな国境、そして多くの国が関わる海ならではの事情がある。
ニューヨーク・タイムズの記者である著者が、世界中の海を巡って様々な船に乗り込み、波にもまれながら海の男たちに体当たり取材を続けて仕上げた、壮絶な海のドキュメンタリー。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は The Outlaw Ocean : Journeys Across the Last Untamed Frontier, by Ian Urbina, 2019。日本語版は2021年7月10日発行。単行本ソフトカバー上下巻で縦一段組み本文約287頁+293頁=約580頁。9ポイント46字×20行×(287頁+293頁)=約533,600字、400字詰め原稿用紙で約1,334枚。文庫なら上下巻または上中下巻ぐらいの分量。
文章はこなれていて読みやすい。内容もわかりやすい。巻頭に世界地図があり、舞台となった海や港が判るのも親切だ。量こそ多いが、エキサイティングでスリルあふれる場面が多いので、全編を通して楽しく読めるだろう。
【構成は?】
各章はほぼ独立しているので、気になった章だけを拾い読みしてもいい。
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- 上巻
- プロローグ
- 1 嵐を呼ぶ追跡
- 2 孤独な戦い
- 3 錆びついた王国
- 4 違反常習者の船団
- 5 <アデレイド>の航海
- 6 鉄格子のない監獄
- 7 乗っ取り屋たち
- 8 斡旋業者
- 写真・図版クレジット/原注
- 下巻
- 9 新たなるフロンティア
- 10 海の奴隷たち
- 11 ごみ箱と化す海
- 12 動く国境線
- 13 荒くれ者たちの海
- 14 ソマリ・セブン
- 15 狩るものと狩られるもの
- エピローグ 虚無
- 巻末に寄せて 「無法の太洋」の手綱を締める
- 謝辞/訳者あとがき/写真・図版クレジット/原注
【感想は?】
日本語版の上巻の表紙が挑発的だ。第二勇新丸、捕鯨船団のキャッチャーボート。意外と商売っ気あるじゃん、白水社。
その捕鯨船団とシーシェパードのチェイスを描くのは最後に近い「15 狩るものと狩られるもの」。著者はシーシェパードの船<アークティック・サンライズ>に乗り、追う側で取材する。1992年の捕鯨船団に乗り込んだ川端裕人「クジラを捕って、考えた」と一緒に読むと、より楽しめる。
なお著者の姿勢は双方から一歩引いていて、延縄漁のアガリをカスメ取る鯨の食害を語りつつ、日本の官僚組織の事なかれ主義もチクリ。
開幕の「1 嵐を呼ぶ追跡」は南氷洋でマゼランアイナメ(メロ/銀ムツ,→Wikipedia)の密漁船と、それを追うシーシェパードの追跡劇だ。ここではグローバル化が進む漁業の世界が垣間見える。密漁船の乗務員の多くはインドネシア人、幹部はスペインとチリとポルトガル、船籍はモンゴルだったりナイジェリアだったり。
こういう多国間にまたがる法的状況は、違法操業の摘発や調査を難しくする。その具体例として、この章は幕開けに相応しい。なおマゼランアイナメについては「銀むつクライシス」をどうぞ。
続く「2 孤独な戦い」は、経済的排他水域=EEZを荒らす中国や台湾やヴェトナムの密漁船を追うパラオ共和国の奮闘を描く。密漁船の狙いはフカヒレ。日本人もヒトゴトじゃない。連中はパラオが設置した人工浮漁礁で、獲物を横取りしている。だが、小国パラオが広いEEZを守り切るのは難しい。ちなみに世界の密猟の規模は…
食卓にのぼる魚の五匹に一匹は密漁で得られたもので、世界中の水産物ブラックマーケットの経済規模が2000憶ドル以上にもなっている
――2 孤独な戦い
このフカヒレの密漁、密漁船はヒレだけ切り取って他は捨てていた。船は狭く船倉も限られてるんで、高く売れるヒレだけ運べば稼ぎが増える。これは極端な例だが、漁業技術が進歩するにつれ目的外の魚も多く獲れるようになった。それらは…
漁網のサイズが大きくなり強度も増すにつれて、漁の対象以外の魚(釣りで言うところの「外道」、商業漁業では「混獲」)の水揚げも多くなっていった。現在、世界中の海の漁獲量の半分以上が、網から外されたら何の気なしに海に投棄されるか、すり潰されてペレット状にされて家畜の餌にされている。
――2 孤独な戦い
狙った魚ばかり獲れるわけじゃないだろと思ってたが、やっぱり、そうなのか。
「4 違反常習者の船団」「8 斡旋業者」「10 海の奴隷たち」では、漁船員の仕事っぷりと生活環境を描く。その様子は「スペイン無敵艦隊の悲劇」や「トラファルガル海戦物語」の水兵の暮らしと大差ない。得体のしれない食事、長時間の厳しい労働、悪臭にまみれた船内、ハンモックでギュウギュウ詰めの寝床、我が物顔で暴れまくるネズミ。昔も今も、海の暮らしは厳しいのだ。
なぜ漁船員の暮らしは厳しいのか。そもそも元から漁業は厳しいってのがある。漁船の空間は限られてるし、海は荒れる。でも、それだけじゃない。
わたしは過去何年にもわたって、石炭産業や長距離トラック業界や性産業、そして縫製工場やにかわ工場といった各種産業の凄惨な現場をごまんと取材してきた。そんなわたしでも、漁船で起こっていることには唖然とさせられた。この惨状の原因は一目瞭然だった――組合がないこと。漁業が本質的に有する閉鎖性と流動性、そして陸の政府の監視から隔てる、気の遠くなるような距離だ。
――4 違反常習者の船団
そんな厳しい漁船に、なぜ彼らは乗るのか。漁船員たちは、インドネシアやカンボジアの貧しい村の男たちだ。そんな彼らを、人買いのように「仕事をあっせん」する業者がいる。
雇われたリナブアン・サー村出身の数人の男たちは、三年の拘束規定が盛り込まれた新しい契約書へのサインを求められたという。その契約書には残業手当も病気休暇もないことも、そして週休一日で労働時間は一日18時間から24時間だということも明記されていた。さらには食費として毎月50ドルを差っ引くことも、船長の権限で別の漁船に配置換えできる(略)。給料は月ごとではなく、三年の契約満了時にまとめて家族に送金されることになっていた。
――8 斡旋業者
日本の外国人技能実習制度もあっせん業者について黒い話が多いが、たぶん元から斡旋業者はいたんだろう。日本は新たな売り込み先として便利に使われてるんじゃなかろか。
なお、買い手として本書が挙げているのは、台湾と韓国に加え、タイだ。原因はタイ経済が活況を呈したための人手不足ってのが皮肉。
2014年の国連報告によれば、タイの水産業界は年間で五万人の漁船乗組員が不足しているという。そしてこの慢性的な人手不足を、カンボジアとミャンマーからの何万人もの出稼ぎ労働者で補っているのが現状だ。その結果、彼らをまるで家畜のように売買する質の悪い漁船の船長が出てくる。
――10 海の奴隷たち
暗い話が多い中で、海の無法状況を逆手に取っているのが、「5 <アデレイド>の航海」のオーストリア船<アデレイド>。アイルランドやポーランドやメキシコなどローマ・カトリックが強い国では、堕胎を禁じている。それでも堕胎を望む女たちの希望が<アデレイド>だ。船が領海を出れば、適用されるのは船籍のある国の法だ。そこでオーストリア船籍の<アデレイド>に妊婦を乗せ、領海外で傾向妊娠中絶役を処方すれば、合法的に堕胎できる。
「彼女たちをオーストリアまで連れていく余裕は、わたしたちにはないけど」
「でも、オーストリアを少しだけ持ってくることはできる」
――5 <アデレイド>の航海
続く「6 鉄格子のない監獄」では、密航を企てる者たちに加え、奇妙な状況に置かれてしまった船員たちを描く。
破産宣告された船主が損切りに走って所有権を放棄した。そのせいで燃料や物資が底をついてしまった。もっぱらそんな理由で、乗組員たちは船に乗ったまま、はるか沖合や外国の港に置き去りにされる。
――6 鉄格子のない監獄
船主が船を捨てたため、船員たちは沖合に置き去りにされ、宙ぶらりんになってしまう。様々な国の法が絡み合う海で、法の隙間に落ち放置される者たち。いつだって、ツケを押し付けられるのは現場の人間なんだよなあ。
シーシェパードの船に乗っている事でもわかるように、著者は環境問題にも関心が深い。「9 新たなるフロンティア」では、海底油田開発にまつわる問題を掘り下げる。例えばタンカーの原油流出事故。あれ薬剤で処理すりゃいいのか、と思ってたが…
ほんの数カ月前までは万華鏡のような光景が展開されていた海底が、アスファルト敷きの駐車場に変わり果てていたのだ。化学分散材は原油を消散させたのではなく、実際には海の底に沈めて付着させていたのだ。
――9 新たなるフロンティア
言われてみりゃ原油はガソリンなどの軽い油からアスファルトなど重い油も含む。海上に浮かび外から見える軽い油は処理できても、海底に沈む重い油は海底に沈んだまま。だもんで、生態系は崩壊するのだ。そういう問題もあるのか。
「11 ごみ箱と化す海」では、海上石油プラットフォームの廃棄/再利用問題と共に、豪華客船による廃液の違法投棄を取り上げる。ここで出てくるプリンセス・クルーズ社(→Wikipedia)、もしやと思って調べたら、やっぱり。コロナ禍初期の2020年に横浜港で検疫対象となったダイヤモンド・プリンセス(→Wikipedia)の運航会社だった。
なお合衆国では、この手の違法行為の内部告発者には、徴収した罰金の一部を支払う制度があるとか。この件だと告発者クリス・キースが100万ドルを受け取っている。日本でも、組織に対する内部告発者には、それぐらいの報いがあってもいいのに。
「12 動く国境線」では、中国・ヴェトンナム・インドネシア・フィリピンが角突き合わす南シナ海を舞台に、力づくで国境が変わる様子を描く。日本の海上保安庁も、こんな緊張感を感じてるんだろうなあ。
地図に引かれている国境線は動かしようがないが、海の国境線と主権が及ぶ範囲は、ほぼ例外なく軍事力でいかようにも変わる。
――12 動く国境線
ここから終盤にかけ、剥き出しの武力がモノを言う緊迫した雰囲気が立ち込める。「13 荒くれ者たちの海」では、武器保管船に突撃取材だ。かつて海賊が跋扈したソマリア沖などのヤバい海域に、予め船を浮かべ「警備員」を置いておき、コトが起きたら武装した警備員を派遣する。要は海の傭兵基地だ。ところが…
武装警備員たちが持ち込んだ銃器は武器庫にしまい込まれるので、武器保管船は武器が欲しい海賊たちの格好の的になっている。
――13 荒くれ者たちの海
と、海賊の獲物になったりするから世の中はわからんw
こんな物騒な雰囲気がピークに達するのが、終盤に近い「14 ソマリ・セブン」。海賊騒ぎが落ち着いてきたソマリアやブントランドの政府の奮闘ぶりを取材しようと現地を訪れた著者。しかし政府側は疑い深く、著者も「そっちがその気なら」と…
七隻のタイ漁船については取材予定にない。それまで事あるごとに言い続けてきたとおりのことを、わたしは連邦政府側の人間にもブントランド側の人間にも言った。しかしその一方で、七隻を取材すべきなのかもしれないと考えるようにもなっていた。
――14 ソマリ・セブン
緊張感漂う描写が続く章なのだが、私は妙に笑えてしかたなかった。ホラー映画で笑っちゃう感じ。
奴隷労働と剥き出しの暴力が跋扈する遠洋漁船、そこに「人材」を供給する斡旋業者、違法操業を続ける漁船とそれを追う者たち、多国家間の法の抜け道を突く狡猾な船主や取り立て屋、そして利権を吸おうとする者たち。一筋縄ではいかない海のダークサイドを様々な切り口で見せる、迫力満点のドキュメンタリーだ。
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