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2020年11月23日 (月)

テッド・チャン「息吹」早川書房 大森望訳

「輪の右側は、輪の左側よりも数秒先んじているのです」
  ――商人と錬金術師の門

ここに刻むこの文章は、わたしが生命の真の源を理解し、ひいては、いずれ生命がどのようにして終わるかを知るにいたった、その経緯を記したものである。
  ――息吹

ボタンを押すとライトが光る。厳密に言うと、ボタンを押す一秒前にライトが光る。
  ――予期される未来

「ぼくが法人化したら、自由にあやまちが冒せる」
  ――ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル

人間は物語でできている。
  ――偽りのない真実、偽りのない気持ち

「神は私たちに対してなんの意志も持っていなかったのだとしたら?」
  ――オムファロス

「本音で話ができる相手がいるとしたら、それは自分だから」
  ――不安は自由のめまい

【どんな本?】

 2003年に短編集「あなたの人生の物語」で鮮烈なデビューを飾りSF各賞を総ナメにし、表題作は映画「メッセージ」として映像化されつつも、極端な寡作でファンをヤキモキさせた罪作りなアメリカのSF作家テッド・チャンによる、待ちに待った第二作品集。

 千一夜物語の世界にタイムマシンを組み込んだ「商人と錬金術師の門」,異世界の静かな終焉の予兆を描く「息吹」,人格?を持つソフトウェアを育てる者たちの葛藤が胸に迫る話題作「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」など、珠玉の9編を収録。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Exhalation, by Ted Chiang, 2019。日本語版は2019年12月15日初版発行。私が読んだのは2019年12月21日の3版。凄い勢いで売れてます。単行本ハードカバー縦一段組み本文約370頁に加え、作品ノート11頁+訳者あとがき16頁。9ポイント45字×21行×370頁=約349,650字、400字詰め原稿用紙で約875枚。文庫なら厚い一冊か薄い上下巻ぐらいの容量。

 文章はこなれている。科学や数学のネタを巧みに織り込んでいるが、あまりソレをアピールしているワケではないので、「少し不思議な話」として楽しんでもいい、というか、そういう風に楽しめるように書いている。

【収録作は?】

 それぞれ 作品名 / 原題 / 初出。

商人と錬金術師の門 / The Merchant and the alchemist's Gate / ファンタジイ&サイエンス・フィクション2007年9月号
 バグダッドの織物商人フワード・イブン・アッパスは教主に語る。市場で出会った錬金術師と不思議な輪の話を。その輪をくぐると、二十年前へと遡れる。輪にまつわる最初の物語は、縄ないの若者ハサンの幸運の話で…
 千一夜物語風なのは舞台と文体だけに留まらない。アッパスが教主に語り、その中で錬金術師がアッパスに語るなど、物語が入れ子構造になっているのも、千一夜物語の雰囲気を醸し出している。小道具としてのタイムマシンの使い方では、ハサンの妻ラニヤの話が見事だ。
息吹 / Exhalation / Eclipse Two 2008年
 われわれは空気から生命を得ている。われわれは毎日、空になった肺を満杯の肺と交換する。肺が空になると、身動きできなくなって死ぬ。毎年、元日の正午に触れ役が頌歌を暗唱する。ちょうど一時間で終わるはずが、今年は終わる前に一時間が過ぎてしまった。
 空気圧を動力としたロボットのような生物が、世界の終わりを予感する物語。実は私たちの世界でも似たような予言が科学者によってなされているんだけど、なにせ宇宙レベルの話なんで、あまし気にしてもしょうがない(ちょいネタバレ→Wikipedia)。語り手が真実に迫るために取る手段は、なかなかにマッドで古き良きSFの香りが漂って楽しかった。
予期される未来 / What's Expected of Us / ネイチャー2005年7月7日号
 予言機。小さなリモコン型の機械で、ボタンを押す一秒「前」にライトが光る。そして、光ってからボタンを押さないようにする試みは、すべて失敗する。この機械は恐ろしい事実を突きつける。未来は決まっていて、ヒトに自由意志などない、ヒトの選択は無意味だ、と。この事実に直面し、一種の昏睡状態に陥る者すらいる。
 哲学なら決定論(→Wikipedia)、心理学ならスキナー派(→Wikipedia)、物理学ならラプラスの魔(→Wikipedia)が実証されたら、ヒトはどうするか。ジョー・R・ランズデールや平山夢明あたりは、もっと違う世界を描くだろうなあ。こういったあたりに、著者の知的で穏やかな人柄が出ていると思う。オチのキレが素晴らしい。
ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル / The Lifecycle of Software Objects / 2010年単行本
 動物園の飼育係だったアナは、再び飼育係の職を得る。ただし相手は生き物じゃない。ディジエント、仮想空間用のペットAIだ。アバターは動物に似ていて、個性を持ち、ヒトの言葉を話す。今のところ知能は幼児並みだが、ヒトや他のディジエントとの交流をとおして成長する。発売当初は大いに売れたが…
 SFマガジン2011年1月号に掲載されたんだが、買い逃してしまいずっと悔しい想いをしていた作品。どこからか汚い言葉を覚えてきたり、妙な思い込みで思いがけない行動に出たりと、子育ての苦労が滲み出ているw
 と可愛らしく感じ始めたら「巻き戻し」なんて言葉が出てきて、「ああ、生き物じゃないんだ」と読者に冷水を浴びせる匙加減が絶妙。読み終えて改めて読み返すと、ディジエントの育て方も、タイガーマスクの虎の穴以上に冷酷で残酷な環境であることに気づいたり。理屈じゃ「結局は育てる者の気持ちの問題」だと思うんだが、それじゃ納得できないのがヒトって生き物で。
デイシー式全自動ナニー / Dacey's Patent Automatic Nanny / The Thackery T. Lambshead Cabinet of Curiosities 2011年
 レジナルド・デイシーは、1861年ロンドン生まれの数学者だ。雇った乳母が、息子ライオネルに酷い罰をあたえていると知り、理想の乳母を造ろうと思い立つ。1901年に発売された全自動ナニーは一時的に好評を得たが、不幸な事故でソッポを向かれ、お蔵入りとなってしまう。
 12頁の短編。子育てあるあるという点では先の「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」と似たテーマだが、語り口は軽妙かつユーモラス。昔から育児論は諸説もろもろで、育児書の売り上げを左右するのも、統計より「いかに自信たっぷりに語るか」だったりするんだよなあ。
偽りのない真実、偽りのない気持ち / The Truth of Fact, the Truth of Feeling / サブテラニアン・プレス・マガジン2013年8月号
 人生をデジタルで記録するライフログは、膨大な量の動画を残す。記録するのは簡単だが、お目当ての場面を見つけるのは大変だ。Remen はこれを解決する。「どこに鍵を置いた?」と訊ねれば、相応しい場面を探し出す。
 ジジンギが13歳のとき、村にヨーロッパ人モーズビーが来た。物語が好きなジジンギは、モーズビーに「文字」を学ぶ。文字を学べば、多くの物語に触れられる。
 文字も(当作品の)ライフログも、記録を残すのが目的だ。いずれも客観的な事実をヒトに突きつける。この着目点が見事。昔から航空業界はブラックボックスなど意欲的に記録を取ってきた。2019年はドライブレコーダーであおり運転が問題になった。これは他人の行為を記録したものだが、ブログ炎上の原因の一つは「自分が思う現実」と「人から見た事実」の食い違いだろう。
 などの「現代テクノロジーがヒトや社会に与える影響」を描く「わたし」のパートも面白いが、ジジンギが文字を習得してゆくパートも「言われてみれば」な気づきに満ちている。「この紙がそんなに古いはずがない」とか、確かにそうだよなあ。
大いなる沈黙 / The Great Silence / e-flex ジャーナル第56回ヴェエネチア・ビエンナーレ特別号2015年
 フェルミのパラドックス(→Wikipedia)。宇宙は広大であり、なら知的生命体に溢れているはず。なのに、なぜ人類以外の知的生命体は見つからないのか。アレジボ天文台(→Wikipedia)などで知的生命体のメッセージを探っているのだが…
 「タコの心身問題」を呼んだ直後だけにグサリときた。私たちが探しているのは、私たちが知性だと思うモノが発した、私たちが受け取ることのできるメッセージであって、いずれかが違っていたら、見つからないのも当たり前。今どきの航空機は手旗信号なんか使使わないように、メッセージの媒体が間違っている可能性もあるが、果たして。
オムファロス / Omphalos / 本書初出
 考古学は様々な手法を使う。交差年代決定法(→Wikipedia)は、木の年輪やアワビの成長輪などから時代を遡り特定してゆく。これにより、世界は8912年前に創造された事が明らかになった。決定的な証拠はヘソのないヒトのミイラだ。
 どんな民族も自分たちは世界の中心に住んでいると思っている、そんな説を聞いたことがある。たぶん文化人類学関係だと思う。アブラハムの宗教の世界観も、ヒトが世界の主人公であり、世界の中心に住んでいるとの仮定が根底にある。
 日本でキリスト教の布教が上手くいかなかった原因の一つは、これかも。日本の隣には隋・唐・明・清などの大帝国があった。日本人は昔から自分たちは周辺国だと思い知っていたのだ。
不安は自由のめまい / Anxiety Is the Dizziness od Freedom / 本書初出
 波動関数の分岐のたび、世界線も分かれてゆく。プリズムは他の世界線と通信する装置だ。これにより、別の世界の自分とも話ができる。あの時プロポーズを受け入れていたら? 生まれた赤ちゃんが男の子だったら? 人生の節目で、今の自分とは違う決断をしたら、どうなっていたか。知りたくない人もいれば、どっぷりとハマる人もいる。
 いいねえ、プリズム。他の世界線のテッド・チャン作品が読めるんだから。他の世界線の自分に働かせて、私はのんびり…とか思ったけど、きっと他の世界線の自分も同じことを考えるだろうなあw など、様々な使い方が、SFの面白さの一つ。そしてもう一つ、テッド・チャンならではの味もたっぷり仕込んである。
 往々にしてSF作家は、ガジェットが人類社会に対し与える影響を突き放し俯瞰した目で捉えがちだ。だが、テッド・チャンは、一人一人の心のひだに分け入ってゆく。他世界で成功した、または善良な自分を知っても、今の自分は変わらない。結局は、今の自分の人生と向き合わねばならない。では、どうやって向き合うのか。
 本格サイエンス・フィクションとしての評価が高い著者だけど、ナットやデイナの描き方は、著者の前向きで人を信じようとする傾向が滲み出ている。

 「もし~だったら」を考ええるのが、SFの面白さの一つ。「それで何ができるか」「社会はどう変わるか」をシミュレートしていく楽しさだ。それに加え、「それをヒトはどう受け取るか」を掘り下げてゆくのが、テッド・チャンの味だろう。

 「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」や「不安は自由のめまい」では、哲学的な問題として冷徹かつ理論的に考えながらも、一人の人間の心や気持ちに寄り添ってゆく。このバランスの妙が、テッド・チャンの人気がSFファンだけに留まらない理由だろう。いやピーター・ワッツのように理屈に振り切ったのも好きだけどね。

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