ヘンリー・ペトロスキー「ゼムクリップから技術の世界が見える アイデアが形になるまで」朝日新聞社 忠平美幸訳
ありふれたものは、一見、単純に思えるだろうが、それらを考案し、開発し、製造して市場に出すことは、ひどくむずかしいかもしれないのである。
――はじめに工学者ドン・クロンキスト「おびただしい数のBOPP(Broken-Off Pencil Point, 鉛筆の折れた芯先)にかんして不可解なのは、どれもこれも大きさと形がほぼ同じだったことだ」
――2 鉛筆の先と分析技術的な企画は、それが定められた時点での最低限の期待値を明示する反面、メーカー側が追及する性能水準を制限するものではない。
――5 ファクシミリとネットワーク技術者が最高の成果をあげるのは、製品の未来の顧客――航空会社であれ乗客であれ――と意見を交換するときなのである。
――6 飛行機とコンピュータ治水は、農業社会が確立してからの数千年間で工学技術が成しとげた最もすぐれた功績の一つである。
――7 水と社会1850年代、ごく高い塔という考えには重大な欠点があった。どうやって人びとを地面から最上部まで運ぶかである。
――9 建物とシステム
【どんな本?】
土木工学の研究者であるとともに、モノや技術の進歩の歴史を辿って楽しく軽妙な読み物に仕上げるヘンリー・ペトロスキーによる、連作コラム集。
書類をまとめるクリップ。気軽に書ける鉛筆。布製品に欠かせないジッパー。私たちの身の回りにあるモノは便利で使いやすく、単純だと思われている。だが、それらが現在の形になるまでには、様々な紆余曲折があり、幾つもの特許に支えられており、今なお改良が続いている。
これが大型旅客機や上下水道や橋や高層ビルなどの大がかりなモノとなると、機能と技術と費用に加え、社会・自然双方にわたる環境とへの影響や、地域住民や政府との関係など、より多くの事柄と結びついてくる。
それらのモノがなぜ今のような形になったのか。エンジニアたちはどんな要素を考えねばならなかったのか。どんな失敗があり、どんな工夫で乗り越えてきたのか。
身近なモノから有名な建築物まで、様々な工学の失敗と成果を豊富なエピソードで紹介しつつ、曲がりくねった道を辿って進む工学の世界を紹介する、一般向けの工学解説書。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は INVITATION BY DESIGN : How Engineers Get from Thought to Thing, by Henry Petroski, 1996。日本語版は2003年8月25日第1刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約280頁に加え、名和小太郎の解説5頁。9ポイント46字×18行×280頁=約231,840字、400字詰め原稿用紙で約580枚。文庫なら普通の厚さの一冊分ぐらい。
文章は比較的にこなれている。応力だの剪断力だのといった物理学の言葉が出てくるが、わからなければ読み飛ばしていい。「名前が違うんだから違う力なんだろう」ぐらいで充分。それより大事なのは、時代と共に考え方や設計の目標が変わってゆくこと、その変わり方の原因と過程の物語にある。
【構成は?】
各章はほぼ独立しているので、美味しそうな所だけをつまみ食いしてもいい。
- はじめに
- 1 ペーパークリップと設計
材料の弾力性/針金をクリップに成形する/ゼムクリップ/クリップの改良/変更と競争/形と機能/クリップの特許の実例/さらにいくつかのクリップの特許 - コラム もっといいペーパークリップをデザインする
- 2 鉛筆の先と分析
片持ち梁/シャープペンシルの先/木軸の鉛筆/BOPP(鉛筆の折れた芯先)/BOPPに目をこらす/さらなるッ分析/分析結果を分析する - コラム 鉛筆を描く
- 3 ジッパーと開発
スライド・ファスナー/フックレス・ファスナー/関連する開発/プラスチックのジッパー - コラム 再密封できるっていうけれど、いま密封されてるの?
- 4 アルミニウム缶と失敗
アルミニウムの飲料缶/環境面での失敗 - コラム こいつを、きみに
- 5 ファクシミリとネットワーク
ファクシミリ送信器/電話ネットワーク/ファクシミリ伝送の標準化/社会的、文化的要因/ファクシミリ装置のさらなる発達 - コラム 同じなのに、ちがう
- 6 飛行機とコンピュータ
概念設計/従来の航空機設計/コンピュータ支援設計/フライ=バイ=ワイヤー/エンジンと経済性/ヒューマンファクター - コラム 「当機は禁煙になっております」
- 7 水と社会
給水と排水/下水道/シカゴの事例/設計の問題/数理モデルとコンピュータ・モデル/水質/その他の問題 - コラム 「パリの下水道へようこそ!」
- 8 橋と政治
サンフランシスコの橋/初期のベイブリッジ案/片持ち梁橋/さらなる提案/場所の選定/最終的な設計/橋と交通/橋と地震 - コラム 実現できることをする
- 9 建物とシステム
水晶宮/塔とエレベーター/ウールワースビル/超高層ビルとエレベーター/高層ビルの揺れやねじれ/予期せぬ問題/環境要因 - コラム 世界一のっぽの建造物 それはシカゴにはない
- 解説:名和小太郎/図版クレジット/索引
【感想は?】
これまで読んできたペトロスキー本の「まとめ」みたいな本だ。
ペトロスキーは鉛筆やフォークや橋など色々な工業製品について、それがなぜ今の形になったのかを、地道な調査で明らかにしてきた。現代の私たちには単純に思える鉛筆も、今の形にたどり着くまでには幾つもの失敗と小さな成功が積み重なっているのだ(→「鉛筆と人間」)。
同じテーマが、最初の「1 ペーパークリップと設計」でも繰り返される。昔から書類をまとめる需要はあったが、使われていたのはピンだ。面倒くさいし、下手すると指に刺さったり外すときに書類を破いてしまう。単純かつ完璧に思えるゼムクリップも、針金の端が紙に引っかかったり大量の紙はまとめきれなかったり厚すぎたりと、状況によって不具合は幾らでも見つかる。
新たな改良型クリップの特許が脈々と続いている事実が証明しているように、多くの発明家にとって、完璧なクリップはいまだ達成されていない目標なのである。
――1 ペーパークリップと設計
結局は状況と目的によって相応しいクリップを使い分ける羽目になるわけで、プログラミング言語が際限なく増えていくのも似たようなモンなんだろう。もっともプログラミング言語の場合、プログラマが言語を作るのが好きってのもあるけどw
そのプログラミング言語、今は LISP みたいなS式や PostScript みたいな逆ポーランド記法は廃れてて、c言語に似た文法が流行ってる。分の区切りはセミコロンって奴ね。関数の引数もたいてい値渡しだし。演算子の優先順位が面倒臭いんで私は好きじゃないんだが…
同じ基本理念を土台にして多様化や改良が進んでゆくのが、たいていの工学的な研究開発の特徴である。
――3 ジッパーと開発
まあハードウェアもノイマン型ばっかしだし、OSも unix 亜流か Windows 亜流ばっかだしなあ。なお、この章では、終盤でジップロックが出てきたのには驚いた。言われてみれば機能はジッパーと同じだね。ところでズボンのジッパーにナニを挟んで痛い思いをした男は多いと思うんだが、あれ防ぐ工夫はないんだろうか? もっとも、できても宣伝が難しいけどw
そんな風に、モノの進化は失敗と改善の繰り返しだ。もちろん、技術者も経営者も失敗したいワケじゃない。
ある設計をどんな方法で試験しようと、つねにその根本にある方針は、失敗を未然に防ぐことである。
――4 アルミニウム缶と失敗
デバッグは大事だよね。にも関わらず、飲料用の缶は何度も進化を繰り返してきた。年寄りは、オープナーが必要な缶を覚えているだろう。飲む際はオープナーで蓋に二つの穴、空気穴と飲料を出す穴を開けるのだ。さて、ピクニックにオープナーを持ってくるのを忘れたアーマル・フレイズは、「プルトップ式のアルミ缶を一晩で考案」した。
アイデアそのものは単純なんだけど、みんな「缶とはそういうもの」と思っていたのだ。こういう「なんか不便」って気持ちが、技術を進歩させるんだなあ。
ところがそのプルトップも、タブのポイ捨てが問題になる。この解決はさすがに一晩でとはいかず…。今のモノの形ってのは、幾つもの失敗の上に成り立っているんです。
缶みたく生産者→消費者って関係のモノならともかく、ファクシミリは送信者と受信者の双方が装置を持ってないと意味がない。ここでは新聞社によるファクシミリ放送に驚いた。昔のSFには出てくるけど、本当にあったんだなあ。すぐテレビに席捲されたけど。また日本が熱心だったのも意外。欧米はアルファベットが少ないからテレックスでイケるけど、日本語は文字が多いから符号化が大変なのだ。
これが大型旅客機や建物みたく大規模なモノや、水道や橋など公共のモノともなると、何度も失敗を繰り返すワケにはいかない。だもんで設計の段階で多くの人の意見を聴くんだが、そこで考えにゃならんのは強度や精度など技術的な問題に限らず、美観や法律、そして関係各省庁との調整が必要になったり。前例の有無や有名な事件も重要で…
あらゆる工学の取り組みは、それをとりまく文化や政治や時代によって方向づけられ、その逆もまたいえるのである。
――8 橋と政治
と橋を例に言ってるんだが、次の「9 建物とシステム」では911で潰れたツインタワーが出てくる。これ当時の流行りでチューブ構造なんだけど、ご存知の通り床が崩落した。こういう有名な事件が、橋やビルの設計にも影響してきたり。
この章では他にも高層ビルが抱える意外な問題が出てきて、ブルジュ・ハリファはどうなってるんだろ、とか妄想が膨らむのだ。ケーブルなしエレベーターとか、まるきし軌道エレベーター試作機みたいでSF者の胸が熱くなる。理屈は上下に動くリニアモーターカーなんだけどね。
ペトロスキーの他の著作に比べると、取り上げるテーマが広くてバラエティ豊かな味が楽しめる分、掘り下げは少なくてやや薄味な感はある。頁数も少なくとっつきやすいので、ペトロスキーを最初に読む人に向いてると思う。
【関連記事】
- 2016.05.30 ヘンリー・ペトロスキー「鉛筆と人間」晶文社 渡辺潤・岡田朋之訳
- 2015.01.22 ヘンリー・ペトロスキー「フォークの歯はなぜ四本になったか 実用品の進化論」平凡社ライブラリー 忠平美幸訳
- 2014.01.17 ヘンリー・ペトロスキー「もっと長い橋、もっと丈夫なビル 未知の領域に挑んだ技術者たちの物語」朝日新聞社 松浦俊輔訳
- 2007.03.03 ヘンリー・ペトロスキー「橋はなぜ落ちたのか 設計の失敗学」朝日選書
- 2017.8.25 ジョナサン・ウォルドマン「錆と人間 ビール缶から戦艦まで」築地書房 三木直子訳
- 2016.02.24 J・E・ゴードン「構造の世界 なぜ物体は崩れ落ちないでいられるか」丸善株式会社 石川廣三訳
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