ロイ・アドキンズ「トラファルガル海戦物語 上・下」原書房 山本史郎訳
ナポレオン・ボナパルト「我々が海を支配しなければならないのは、たった6時間でよい。そうしたら、イギリスという国はもはやこの世に存在しなくなる」
――第1章 侵略…艦尾や艦首には数門程度の砲しか設置する余地がないため、軍艦の火力は舷側に集中していた。標準的な戦術は、戦艦の艦首または艦尾に対して垂直の位置につけることだった。こうすれば敵に対して片舷斉射をフルに見舞えるいっぽう、敵からはほんの数門の砲撃しか浴びない。
――第3章 舞台はととのったトラファルガル海戦は帆走の木造戦艦からなる二つの艦隊が、まともにぶつかり合う最後の大決戦となる。
――第4章 戦闘開始フランス・スペインの艦艇は、合計で三万名の人員を擁していたので、17000名だったイギリス艦隊に比べて、ほぼ倍の兵力だった。ところが、フランス・スペインの乗組員のうち、多くは陸兵だった。
――第4章 戦闘開始(フランス艦ルドゥターブルの)643名の乗組員のうち、522名が戦闘不能となったが、そのうち死者は300名、負傷者222名だった。
――第7章 殺戮あの当時、我々(フランス・スペイン連合艦隊)はマストを狙うことを原則としており、敵に真の損害をもたらすために、大量の砲弾をむだに使った。(略)彼ら(イギリス艦隊)は…水平に砲撃した。そのおかげで、たとえ砲弾が直撃せずとも、少なくとも海面を跳ね、跳弾としてきわめて大きな効果があった。
――第8章 地獄絵図海戦の日に沈んだのは、爆発したアシルただ一隻だったが、それにつづく一週間のあいだに、さらに14隻のフランス・スペイン連合艦隊の船が難破もしくは沈没し、その結果イギリス軍の手に残った捕獲艦はわずか四隻(バハマ、サンイルデフォンソ、サンファンネポムセーノ、スウィフトシュール)にすぎなかった。
――第11章 ハリケーントラファガル海戦のニュースはフランスで一か月以上のあいだ首尾よく隠匿され、ついに新聞各紙がその話を掲載するにいたったときには、フランス・スペイン連合艦隊の空前絶後の大勝利として、大本営発表がなされた。
――第12章 使者たち(英国海軍の)多くの者にとって、トラファルガル海戦の勝利の報酬として得たものは、死ぬほどの退屈と、未来への不安だった。
――第15章 英雄、それに悪者スペインは、(略)トラファルガル海戦は名誉ある敗北と考え、(略)戦闘に参加したスペイン人士官はみな昇進をえて、どの水兵も兵士もその日のために三倍の給料をもらった。
――第15章 英雄、それに悪者
【どんな本?】
1805年10月21日。ネルソン率いるイギリス艦隊27隻と、ヴィルヌーヴ率いるフランス・スペイン連合艦隊33隻が、スペインのトラファルガル岬沖で激突する(→Wikipedia)。帆船同士の戦いとしては史上最大級であり、またナポレオンが席捲するヨーロッパの命運を左右する戦闘でもあった。
この戦いはどんな経緯を辿ったのか。それぞれの艦はどう戦ったのか。そして、戦いが終わったあと、戦士たちにはどんな運命が待ち受けていたのか。
戦闘記録だけではなく、当時の風俗や軍艦そして乗り込んだ者たちについて、艦の構造・操艦・各所の住み心地にはじまり、軍船の積荷、砲の射程・精度・威力や発射までの手順、将兵の給与・食事・排泄・就寝・着衣、それぞれの部署や役職の平時・戦闘準備・戦闘時の行動などを、公的な資料に加え新聞や水兵の私信まで動員し、綿密かつリアルに再現した、迫真の歴史書である。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は Trafalgar : The Biography of a Battle, by Roy Adkins, 2004。日本語版は2005年11月10日第1刷。単行本ハードカバー縦一段組み上下巻で本文約249頁+237頁=約486頁に加え、訳者あとがき5頁。9ポイント45字×18行×(249頁+237頁)=約393,660字、400字詰め原稿用紙で約985枚。文庫本でも上下巻ぐらいの分量。
文章は軍事物とは思えぬほどこなれていて読みやすい。また内容も当時の軍事・政治情勢から庶民の生活・風俗に至るまで綿密に描いているわりに、素人にも分かりやすく懇切丁寧に説明しているので、拍子抜けするほど素直に頭に入ってくる。また帆船の構造や操船方法など、初歩的なこともイラストを使って説明していて、入門書としても優れている。
敢えて言えば、戦場となるヨーロッパ西部の地図があるといいだろう。また、随所に戦闘図や用語説明などが入っているので、栞をたくさん用意しておこう。
【構成は?】
ほぼ時系列順に進むので、素直に頭から読もう。
- 上巻
- 図版一覧(地図、海戦図、軍艦)/口絵
- はじめに 商売をおぼえる
- プロローグ 初弾発射
- 第1章 侵略
- 第2章 戦い前夜
- 第3章 舞台はととのった
- 第4章 戦闘開始
- 第5章 初弾発射
- 第6章 第二撃
- 第7章 殺戮
- 第8章 地獄絵図
- 注釈/出典一覧
- 下巻
- 図版一覧(地図および海戦図)/口絵
- 第9章 降伏
- 第10章 失って、そして勝った
- 第11章 ハリケーン
- 第12章 使者たち
- 第13章 余波
- 第14章 勝利の果実
- 第15章 英雄、それに悪者
- 船と艦長/謝辞/参考図書/注釈/訳者あとがき/出典一覧/参考文献
【感想は?】
原書房って、ややマニアックな本が多いと思っていたが、この本で大きく印象が変わった。
いや内容がマニアックなのは確かだ。なにせ帆船同士の戦いを再現するって本だし。が、信じられないほど初心者に親切に書いてある。C・S・フォレスターのホーンブロワー・シリーズなどの帆船小説を読む前に、これを入門書として読んでもいいぐらい。
なんたって、表紙を開いたら見返しにいきなり、帆船の帆と甲板の名前をイラストで説明してる。裏表紙にはマストと索の説明だ。実際、私は読みながら何度もこのイラストを見直した。また、「上手回し」「下手回し」などの基本的な用語も、その理屈から使い道まで、素人にもわかよう、イラストを交えて書いてある。なるほど、上手回しは速いけど難しく、下手回しは遅いけど易しいのね。
なにせ舞台は19世紀初頭だ。外国でもあるし、21世紀に暮らす私たちにはピンとこない、どころかとんでもない勘違いをしかねないところも多い。そういう部分を、懇切丁寧に教えてくれるのが、この本の嬉しい点。私のようなSF者にとって、こういう私たちとは全く違う暮らしの描写は、とっても美味しいご馳走なのだ。
例えば当時の通信システム。今なら携帯電話一発だが、当時は無線なんかない。手旗信号がせいぜいだ。これが艦隊だと、広い範囲に艦が散らばってるんで、手旗信号のリレーになる。だもんで、敵艦隊がカディス港を出たとの報は、発信してからネルソンに届くまで二時間もかかってる。ばかりか、戦闘が終わってから勝利の報がロンドンに届くまでも、戦闘後に艦隊が嵐に巻き込まれた事もあって…。
やはり迫力あるのが、艦上の暮らしを描くところ。食事も酷いもんで、とにかく何でもすぐ腐る。水だって川の水を樽に詰めただけ。「数日もたてば(略)腐臭を放った」はいいが、「それがふたたび旨くなり、飲料可能となることも多かった」って、なにそれ怖い。ブランデーがあるんだから蒸留技術はあったはずなんだが、原因である細菌とかは知られてなかったのだ。
バターやチーズもすぐ腐る。が、腐ったバターはロープに刷り込む。それで防水性を高めしなやかになるが、臭いは…。堅パンも最初は堅いが、やがて軽くグズグズになる。ゾウムシが沸くのだ。「この虫は食べると苦い味がした」って、ひええ。おまけにネズミも走り回り、これも水兵の腹の足しになった上に、壊血病も防いでくれた。とはいうが、病気になるがネズミを喰うかって、かなり厳しい選択だよなあ。
そんなんだから入浴や洗濯は推して知るべしで。つくづく、電気と冷蔵庫の有難みを感じてしまう。加えてトイレの話もちゃんと出てくる。水洗便所はもちろんトイレットペーパーなんかない時代だから…
とかの暮らしの描写も鮮やかだが、戦闘についても知らないことばかり。かの有名なネルソン・タッチにしても、思い込みを見事に覆してくれる。敵の縦列に対し横から二列で突っ込んでいく、あの有名な戦術だ。
突っ込んでいくと書くと勢いよく突っ走ったように思えるが、当日はほとんど風がなかった。だもんで、戦闘準備が終わってから、実際に弾が飛んでくるまで、数時間かかっている。先頭にいるコリングウッドが乗るロイヤルソヴリンも大変で、数十分も敵艦隊の片舷斉射を受ける。その間、ひたすら耐えるだけ。艦隊の形こそ日本海海戦と似ているが、実際の戦い方は全く違うのだ。
となれば指揮の方針も全く違う。ネルソンが狙ったのは、敵味方入り乱れての泥仕合だった。
サー・ホレイシオ・ネルソン「…混戦にもっていくつもりなのさ。それがわたしの狙いなんだ」
――第5章 初弾発射ネルソンはわざわざ特別の取り決めをおこない、戦いがはじまってしまえば、それぞれの艦長が独自の判断によって行動してもよいことにしておいた。
――第5章 初弾発射
勝手にやれってワケだ。なぜかというと、イギリスの方が練度が高く、それぞれがサシでやりあえばまず勝てると踏んだから。もっとも、それだけじゃなく、互いが撃ち合えば砲煙で真っ白になり、命令の伝えようがないってのもあるけど。たいした自信だけど、当時の軍は通信手段の問題もあって、前線指揮官に大きな権限を与えるのは普通だったんだろう。
これを敵の司令官ヴィルヌーヴが、ちゃんと見通してたってのも意外だった。
ピエール=シャルル=ジャン=バティスト=シルベストル・ド・ヴィルヌーヴ「彼らは我々の戦列の真ん中を突っ切り、〔わが艦隊本体から〕分断された艦艇に兵力を集中させて包囲し、粉砕するだろう」
――第3章 舞台はととのった
ヴィルヌーヴの最後は下巻で描かれるんだが、これを読むとナポレオンの印象が大きく変わる。
砲についても、撃つまでの手順が細かく書いてあって、「確かにこれじゃたいした精度は期待できないなあ」と嫌でも納得できる。なにせ点火から発射まで数分かかるし、その間に艦も波で揺れる。だからよほど近くないと当たらないのだ。実際、砲口が敵艦にぶつかる場面もよく出てくる。これが実に怖くて…
何が怖いと言って、火事が怖い。現在の火薬は火がついても燃えるだけだが、当時の火薬は爆発する。だから、弾薬室は最下層にある。ここに入るには、持ってる金属をみんな取り出さなきゃいけない。当時は照明もカンテラなんだけど、もちろん火なんか持ち込むワケにはいかず…
そんなわけで、敵艦の砲口は怖い。弾が出てくるってだけじゃなく、砲口は熱くなってる。この熱が船体や索や帆に移ったら、艦が燃えて爆発炎上してしまう。だもんで、敵艦の砲口に水をかける場面が何度も出てくる。というか、そういう間近な距離で撃ち合ったのだ。
弾丸にしても当時は信管なんてない鉄の球。または散弾銃がわりのぶどう弾(→Wikipedia)だ。ならたいして怖くない、なんて思ってたんだが、これも大間違い。
弾丸が貫通すると、さしわたし30ヤードの空間に木の裂片を雨のように降らせ、そこにいる者を殺傷する。
――第4章 戦闘開始
おまけに、艦を貫通すりゃともかく、艦内に弾丸が残ると、これがゴロゴロ転がって人を踏み潰す。だもんで、撃つ方も、至近距離だとワザと貫通しないように火薬を減らしたり、砲に弾丸を二つ三つ込めて勢いを殺したり。しかも負傷した後も怖い。当時は感染症も知られてない。医者がやるのは、使いまわした刃物で傷ついた手足を切り取るだけ。麻酔もないから…
もっともすばやい医師が、もっとも手術の成功率の高い医師であった。
――第8章 地獄絵図
さっさと切らないと、患者が痛みでショック死しちゃうのだ。この手術の様子もミッチリ書いてあるので、スプラッタなホラーが好きな人は楽しみにしておこう。
と、そんな具合に、単に海戦を描くってだけじゃなく、当時の艦上の暮らしを、かぐわしい?香りが漂ってきそうなほど、詳細かつ鮮明に、かつ素人にも分かりやすく書きこんであって、これが迫力を増している。戦闘の記録なんでカテゴリはいちおう軍事/外交としたけど、むしろ歴史の一場面を再現するって点で、とても面白い本だった。
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