デイヴィッド・W・アンソニー「馬・車輪・言語 文明はどこで誕生したのか 上・下」筑摩書房 東郷えりか訳
本書は印欧祖語を取り巻く中心的な謎を、いまならば解くことが可能であると主張する。すなわち、誰が、いつ、どこでその言語を話していたのかを。
――第1章 母言語がもたらす期待と政治文献によって裏付けられた証拠もないのに、言語学者はどうやって再現された印欧祖語の正確さに確信が持てるのだろうか?
――第2章 死語をどう再構築するかスワデシュは基礎語彙の置換率を、文字に書かれなかった言語において分離や分岐が起こった年代を確定するための標準化された時計として利用したいと考えた。
――第3章 印欧祖語の最後の話し手 言語と時代1本章は印欧祖語の源郷の場所について、言語学的な証拠を挙げてゆく。(略)今日のウクライナとロシア南部に相当する黒海とカスピ海の北にある草原であり、ポントス・カスピ海ステップとしても知られている場所だ
――第5章 印欧祖語の源郷の場所 言語と場所(オックスフォード大学のダニエル・)ネトルは西アフリカの言語集団の平均人口は、農業の生産性と反比例することを示した。
――第6章 言語の考古学青銅とは何を指すのか? これは合金であり、最古のブロンズは銅と砒素の合金(砒素銅)だった。(略)砒素の含有率が混合物の2~8%ほどまで上がれば、できあがった金属は純粋な銅よりも色が薄くなり、冷やせばより硬くなり、溶かせば粘性が下がり、鋳造しやすくなることを古代の金属細工師が発見した。
――第7章 死滅した文化を再構築する方法狩猟採取民は総じて、将来のためにわずかな貯蓄をするよりも、その場で分かち合い、寛大に振舞うことに重きを置く。そのため、畜産への転換は経済的なものであるのと同じくらい、道徳上の問題でもあったのだ。
――第8章 最初の農耕民と牧畜民同じ場所に暮らすようになると、女性は一般により多くの子を産む。
――第9章 牝牛、銅、首長人は徒歩でも、よい牧羊犬が1匹いれば、200匹ほどの羊を集めることができる。馬に乗って、同じ犬がいれば、その一人の人間で500匹の群れを追い立てることができる。
――第10章 馬の家畜化と乗馬の起源 歯の物語前4200から前3800年にかけて気候が寒冷化したために、古ヨーロッパの農耕経済はおそらく衰退し、それと同時にステップの牧畜民がドナウ川河口周辺の低湿地と平原に押し入ってきた。
――第11章 古ヨーロッパの終焉とステップの台頭遊牧の日常の自給自足経済は外部の国家からの援助は必要としていなかったのだ。
――第13章 四輪馬車に居住する人びと廃れゆく言語にまつわる否定的な評価は、孫子の代によって重要度の低いものへと分類され直しつづけ、しまいには誰もおじいちゃんのように話したくはなくなるのだ。言語の交替とアイデンティティの蔑視は、密接に関連しているのである。
――第14章 西方の印欧諸語シンタシュタで行われた供儀の細部は、『リグ・ヴェーダ』に描かれた葬送儀礼の供儀と驚くほど似通っていた。
――第15章 北部ステップの二輪馬車の戦士最古の二輪馬車はおそらくステップで前2000年以前に出現したと考えられる。
――第15章 北部ステップの二輪馬車の戦士
【どんな本?】
印欧語は、中国西部のトカラ語・インドのサンスクリット語・アフガニスタンのパシュトン語・イランのペルシャ語から、ロシア語・ラテン語・ケルト語そして英語まで、ユーラシアの各地で使われている言語だ。これらは一つの言語=印欧祖語から枝分かれしたものと考えられている。それは、どこで生まれ、どのように広がったのだろう?
1991年のソ連崩壊に伴い、それまでアクセスが困難だったソ連の資料が使えるようになった。また元ソ連領だった所の学術調査も活発になる。これに伴い、それまで謎に包まれていた黒海とカスピ海の北岸や、ウラル山脈近辺の遺跡や遺物にも学問の光が当たり、意外なユーラシア史が浮かび上がってきた。
言語学と考古学の間に広がる溝に、ソ連崩壊後に手に入った豊富な資料を基に橋を架け、壮大な人類史を描き出す、人類史の専門書。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は The Horse, The Wheel, and Language : How Bronze-Age Riders from the Eurasian Steppes Shaped the Modern World, by David W. Anthony, 2007。日本語版は2018年5月30日初版第一刷発行。単行本ハードカバー上下巻で縦一段組み、本文約362頁+282頁=644頁に加え、訳者あとがき4頁。9ポイント45字×19行×(362頁+282頁)=約550,620字、400字詰め原稿用紙で約1,377枚。文庫なら上中下の三巻に分けてもいい大容量。
文章は比較的にこなれている。が、内容は思いっきり専門的で、かなり重い。ドラマチックで意表を突く仮説を、可能な限りの根拠に基づいて唱える本なので、やたらと専門的で細かい話が多い。充分に覚悟して読もう。また、舞台が黒海・カスピ海を中心にハンガリーから中国整備のアルタイ山脈にまで及ぶので、世界地図があると便利。また、序盤は発音記号が読めると良い。実は私は読めない。
【構成は?】
訳者あとがきによると、第1章の後に最終章=第17章を読むといい、とある。私もそう思う。第1章でテーマを示し、最終章で結論を出す、そういう形になっている。途中の章は、結論に至る道筋を証拠で固める役割だ。いささか専門的で細かい話が多く、本筋を見失いがちになる。
また、随所に地図や表や写真が出てくるので、栞をたくさん用意しよう。
- 上巻
- Ⅰ 言語と考古学
- 第1章 母言語がもたらす期待と政治
- 祖先
- 言語学者と自国至上主義者
- 母言語の誘惑
- 古い問題に対処する新しい解決策
- 言語の消滅と思考
- 第2章 死語をどう再構築するか
- 言語の変化と時代
- 失われた音をどう再構築するか?
- 忘れ去られた意味をどう再現するか?
- 失われた言語の形
- 死語を蘇らせる
- 第3章 印欧祖語の最後の話し手 言語と時代1
- 時代区分の長さ 言語はどのくらい永続するか?
- 印欧祖語の末日 母言語から娘言語へ
- 最も年長でもっとも奇妙な娘(あるいは従姉妹か?) アナトリア語
- 次に長い銘文 ギリシャ語と古インド語
- 親族を数え上げる 前1500年代にはいくつあったのか?
- 第4章 羊毛、車輪、印欧祖語 言語と時代2
- 羊毛の語彙
- 車輪の語彙
- 車輪はいつ発明されたか?
- 車輪の意義
- ワゴンとアナトリア源郷仮説
- 印欧祖語の誕生と死
- 第5章 印欧祖語の源郷の場所 言語と場所
- 「源郷」という概念の問題点
- 源郷を探す 生態学と環境
- 源郷を見つける 社会・経済的状況
- 源郷を突き止める ウラルとカフカースとの関連
- 印欧祖語の源郷の場所
- 第6章 言語の考古学
- 恒常的な境界地帯
- 移住がもたらす物質文化の変容
- 生態学的境界地帯 生計を立てるさまざまな方法
- 小規模な移住、エリート集団の募集、言語交替
- Ⅱ ユーラシア、ステップの開放
- 第7章 死滅した文化を再構築する方法
- 考古学の誕生
- 三時代区分の混乱
- 年代測定と放射性炭素の革命
- 食べていたものを知る方法
- 考古学上の文化と現存する文化
- この先で論じる大きな問題
- 第8章 最初の農耕民と牧畜民 黒海・カスピ海の新石器時代
- 「三人目」の神話と聖なる牛
- 開拓農耕民の移住
- 農耕民と採集民の遭遇
- 牛を受け入れなかった人びと
- 神々が牛を与える
- 第9章 牝牛、銅、首長
- 古ヨーロッパの銅の交易網
- 境界地帯に生まれた文化
- 牧畜への移行と権力の萌芽
- フヴァリンスクの供犠と副葬品
- カフカース山脈という障壁
- 牝牛、社会的権力、部族の出現
- 第10章 馬の家畜化と乗馬の起源 歯の物語
- 馬はどこで最初に家畜化されたのか?
- 馬はなぜ家畜化されたのか?
- 飼い馬とは何か?
- ハミ痕と乗馬
- 印欧語の話し手の移住とデレイフカのハミ痕
- ボタイと金石併用時代の乗馬
- 乗馬の起源
- 騎乗は文化に何をもたらしたか?
- 第11章 古ヨーロッパの終焉とステップの台頭
- 戦争と同盟
- 東方からの馬と儀式
- ドナウ川流域への移住
- 戦争、気候変動、言語交替
- 崩壊後
- 原註/索引
- 下巻
- Ⅱ ユーラシア、ステップの開放(承前)
- 第12章 ステップの境界に生じた変化の兆し 政治的権力の源泉
- 交流と侵入 ステップの五つの文化
- 都市よりも大きな町 トリポリエC1の特大規模の町
- メソポタミアとステップとの関係
- ウルク以前の北カフカース
- どこでいつ出会ったか?
- 大麻、馬、四輪荷車
- 変わりゆく世界の地域言語としての印欧祖語
- 第13章 四輪荷車に居住する人びと 印欧祖語の話し手たち
- 移動生活と言語
- 東の境界地帯を越えて アルタイ山脈への移住
- 埋葬されるワゴン
- なぜ東から広まった?
- 牧畜と遊牧の有利・不利
- 剣と斧と巨大な墓
- 海上交通の革新
- 第14章 西欧の印欧諸語
- 騎乗者の役割
- 移住の痕跡と言語の分離
- ステップの大権力者
- ドナウ川流域を遡る
- 二つの文化の接触と交流 ゲルマン諸語の起源
- ギリシャ語の起源
- 西方の初期印欧諸語の消滅
- 第15章 北部ステップの二輪戦車の戦士
- 世界最古の二輪戦車
- 森林境界地帯の消滅 森林の「縄目文」牧畜民
- 狩猟民、牧畜民、交易者
- 気候変動と技術革新
- 環壕集落と武器 二輪戦車部隊の新しい戦術
- 価値の競技会
- アーリア人の起源
- 第16章 ユーラシア・ステップの開放
- 青銅器時代の帝国とステップから来た傭兵
- バクトリア=マルギナ考古学複合体
- ユーラシア・ステップの開放
- 西部ステップの牧畜と採集 農耕なき定住
- ウラル山脈の東、様相Ⅰ 牧畜から交易へ
- 森林ステップ地帯の金属加工職人
- ウラル山脈の東、様相Ⅱ 技術と言語の拡散
- 『リグ・ヴェーダ』に残された痕跡
- ユーラシアを横断する橋
- 第17章 言葉と行動
- 馬と車輪
- 考古学と言語
- 補遺 放射性炭素年代についての註記
- 謝辞/訳者あとがき/原註/参考文献/索引
【感想は?】
うう、重い。
ジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」に雰囲気が似た書名だから、一般向けの本かと思ったら、とんでもない。とにかくやたらと細かく根拠に拘りまくる、考古学の本格的な専門書だ。
テーマを表しているのは、印欧語族である。西はアイルランドから東はインドまで、ユーラシアを覆っている(→Wikipedia)。南北アメリカやアフリカでも使われているが、この辺の歴史的経緯はみなさんご存じだろう。問題は、文書が残っていない紀元前の時代に、どうやって言語が広がっていったか、だ。
序盤では、言語学から謎に迫ってゆく。言語は生き物だ。某匿名掲示板が顕著なように、特定の集団では、特定の言語が発達する。この発達が一定の度合いを越えると、別の言語になる。日本国内だって沖縄と青森じゃ全く言葉が違う。というか、沖縄の言葉は琉球語と言っていいんじゃないかと思うが、それはさておき。
この変化に一定の法則がある、というのが驚きだ。まあ日本語だって旧仮名の「ゐ」は「い」と違う音だったと聞いたことがある。この変化の具合は、ちゃんと測れるのだ。音によって変化しやすい音もあれば、単語の重要性による違いもある。これらを総合して、数値化できるっていうのが凄い。この手法が、遺伝子の変化を調べる生物学の手法と似ているのも驚き。
ヲタクとして興奮しちゃうのが、『リグ・ヴェーダ』にアチコチで触れてるあたり。これは紀元前1500~1200年ぐらいに、インド北西部~パンジャブで編纂された。このインドの聖典に登場する神々・道徳観念・古インド語が、最初に文献として登場するのはシリア北部ってのに、厨二な心がビンビンと感じてしまう。
のはいいのだが、以降はひらすら学術的で専門的な話が進む。しかも、主な舞台は黒海とカスピ海の北岸、カフカス山脈の北に広がるステップ地帯である。
ここで発掘された遺跡や、その遺物について、とにかく細かい話が延々と続く。埋葬された人の姿勢や頭がどっちを向いているか。副葬品は何か。それぞれの素材は何で、どんな形をしていて、何に使ったのか。そして、年代はいつごろか。
補遺に「放射性炭素年代についての註記」なんてのがついているのでわかるように、正確さには偏執的なまでの拘りを見せる。放射性炭素年代法は万能だと思っていたが、そうではない事もわかった。魚をたくさん食べていると、本来より古い年代と測定されてしまうのだ。なぜって、魚は水底の古い炭素を多く含んでいるから。そこで窒素で補正して云々。
とかもあれば、土器の素材・文様・製造方法・焼成温度にもこだわりまくる。貝殻を混ぜるなんてのは知らなかったなあ。
中でも重要なのは馬だろう。「銃・病原菌・鉄」でも使役獣の重要性はアピールしていた。が、本書に出てくる馬の主な用途が、実に意外。なんと食用なのだ。つまり、印欧語の元祖を話していた人たちは、黒海北岸あたりの遊牧民で、馬と牛と羊を飼育してたんじゃないか、みたいな話になる。
牛や羊はわかるが、なぜ馬か。これの理由も面白い。つまりは冬を越すためだ。馬はもともと北方の種で、雪原でも蹄で雪を掘り返して餌をとれる。こんな芸当は牛や羊じゃ無理。だもんで、寒い地域で遊牧するには馬が便利なのだ。もっとも、おとなしく家畜化するには、気性が重要なんだけど。
食肉用から乗馬用への変化を追いかける10章では、変化の根拠としてハミ(→Wikipedia)の痕を調べる話を詳しく述べている。つまりは臼歯の減り具合なんだが、それが根拠となり得るか否かを確かめる過程では、獣医師や馬のトレーナーなどを訪ね歩き、数年かけて馬の臼歯を集める。牧場主も、考古学者がなぜ馬の臼歯を欲しがるのか、不思議に思っただろうなあ。
歯と言えば、遺跡から出てきた遺骨から、虫歯や貧血の症状を調べているのも、考古学の変化を感じさせる。「むし歯の歴史」にもあるように、穀物を多く食べると、虫歯になりやすい。逆に肉や魚が中心だと、虫歯は少ない。壺の底に残った粒なども合わせ、これで当時の食糧事情がわかるわけ。
やはり科学の進歩を感じるのが、花粉だ。水中や土中に残った花粉の種類を調べれば、周辺にどんな植物が生えていたか、気候はどうだったかがわかる。
そして青銅である。一般に青銅といえば銅と錫の合金と思われているが、最初は銅と砒素だったってのは意外だ。というのも、錫の鉱山は滅多に見つからないからだ。わかっているのは…
錫鉱山はどこにあったのだろうか?(略)最も可能性のある産地は、アフガニスタンの西武と北部(略)古代の採鉱地は発見されていない。もう一つの可能性はザラフシャン川流域で、ここでは古代世界最古の錫鉱山がサラズム(タジキスタン北西部)の遺跡付近で見つかっている。
――第16章 ユーラシア・ステップの開放
とすると、メソポタミアやインドでは、どうやって錫や青銅を手に入れたのか。こういった多くの証拠から浮かび上がってくるのは、実に壮大な古代人類の交易ネットワークなのだ。なんかワクワクしてきませんか。
一般向けのフリをしているが、とんでもない。考古学者がプロに向けて書いた、本格的な専門書である。それだけに証拠固めは詳細を極め、正直ウザいと感じる部分も多い。また出てくる地名も馴染みのないロシア語が多く、そこでつっかえたりもする。が、時代の霞を越えてうっすらと見えてくるビジョンは、胸躍るものがある。充分に体力と気力を整えて挑もう。
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