林純一「ミトコンドリア・ミステリー 驚くべき細胞小器官の働き」講談社ブルーバックス
実は、生物が生命活動に利用できるエネルギー(生命エネルギー)はATP(アデノシン三リン酸)が分解されてADP(アデノシン二リン酸)になるときに生じるエネルギーに限られている。
――第3章 ミトコンドリア 危険なエネルギー工場実験結果は、ミトコンドリアは、祖先のバクテリアのように、個々に独立した存在ではないことを明確に示している。また、その中にあるmtDNAは、特定のミトコンドリアに局在することなく、細胞内にある他のミトコンドリアの間を自由に動き回っている。
――第10章 巧妙に隠されていた驚異の連携防衛網
【どんな本?】
細胞の中には様々な器官があると生物の授業で習った。その一つがミトコンドリアだ。薬のカプセルみたいな形をして、エネルギーに関係しているらしい事を、うっすらと覚えている。
だが、最近のニュースでは、ミトコンドリアが話題になる事が多い。例えば鑑定ではミトコンドリアのDNA(=mtDNA)を使う時がある。なぜ核DNAではなくmtDNAを使うのか。また、mtDNAは完全な母系遺伝らしい。他にも老化や癌に関わっているとの説もある。
埼玉県立がんセンターに始まった筆者の研究生活を辿りつつ、主に1980年代~2000年代までの生命科学の進歩を背景に、ミトコンドリアの基礎から様々な研究成果まで、ミステリー仕立てで楽しく語る、一般向けの科学解説書。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
2002年11月20日第1刷発行。新書版で縦一段組み本文約280頁。9ポイント43字×16行×280頁=約192,640字、400字詰め原稿用紙で約482枚。文庫本でも普通の厚さの一冊分の文字量。ただイラストや写真を多く載せているので、実際の文字数は9割ぐらいだろう。
文章はこなれている。実はけっこう突っ込んだ話も出てくるが、意外とわかりやすい。イラストやグラフを巧く使っている上に、ミステリーらしく「謎の提示→推理・仮説→証拠集め→結論」の流れが、読者の興味を上手に煽っている。
【構成は?】
理系の本だけに、前の章を土台に次の章が展開する形なので、素直に頭から読もう。
プロローグ
第1章 ミトコンドリアとは何か
第2章 ミトコンドリアはどこからきたのか
第3章 ミトコンドリア 危険なエネルギー工場
第4章 癌ミトコンドリア原因説の真偽
第5章 癌ミトコンドリア原因説との対決
第6章 ミトコンドリアと母性遺伝
第7章 ミトコンドリア病で下された有罪判決
第8章 ミトコンドリアの謎を解くモデルマウス
第9章 老化とミトコンドリア
第10章 巧妙に隠されていた驚異の連携防衛網
エピローグ
研究者リスト/さくいん
【感想は?】
研究者って、探偵みたいだなあ。まさしくミステリーだ。
最近の生命科学は凄まじい勢いで進歩している。この本の出版は2002年、15年以上も前だ。「ちと古いんじゃないか」と思ったが、思い過ごしだった。
いや多分いろいろと古くなってるんだろうけど、私の頭はそれ以上に古かった…というか、わかってなかったんだけど。
第3章までは、導入部といったところ。他の科学解説書と同じく、以降で必要になる基本的なことがらが書いてある。ここで、既に幾つもの思い込みをひっくり返された。
ミトコンドリアが核とは別にDNAを持っているのは知っていた。だが、ミトコンドリアの形は予想外。教科書のイラストでは、米俵や薬のカプセルみたいな形をしてた。が、実際は違う。イトミミズか触手みたいなのが、ウニョウニョ動いてくっついたり離れたりしてる。全然違うじゃん。
とかの導入部を経て、第4章以降はいよいよ謎解きへと入ってゆく。
ここで示される最大の謎は、癌と老化。核DNAは核膜で守られているが、mtDNAは違う。だから活性酸素などで傷つき、変異しやすい。変異が溜まったmtDNAが癌や老化の原因なのでは? みたいな説だ。いかにも説得力がありそうだが…
大きな道筋としては、この謎を追いかける形で綴られている。が、人生も研究も一直線にはいかない。謎解きも著者の研究生活も、アチコチに寄り道しながらフラフラと進んでゆく。
ところが、道草と思っていた研究や身に着けた技術、または読み飛ばした論文や一緒に研究したなどの人脈が、思わぬところで謎解きの役に立ったりするのが、まるでよく出来たミステリー小説みたいで面白いところ。
その過程で、mtDNAは完全に母系遺伝で父親は全く関係ないのか、みたいな話も出てくる。やたら拘る人もいるが、ハッキリ言って科学というより気持ちの問題だ。そもそも…
核ゲノムの場合は30億塩基対もあるのに対して、ヒトのミトコンドリアゲノムの全長がたかだか1万6500塩基対しかない
――第4章 癌ミトコンドリア原因説の真偽
と、数が圧倒的に違う。もっとも…
真核生物の核DNAの(略)RNAに転写される領域はゲノム全体のわずか5%以下であるのに対し、この小さなmtDNAは(略)ゲノム全体の95%を遺伝子として利用している。
――第2章 ミトコンドリアはどこからきたのか
なんで、核ゲノム中の有効なのは1.5憶塩基対ぐらい。それでもmtDNAの1万倍ある。しかも…
受精卵に存在する正視由来のmtDNAはあったとしても微々たるものだ。マウスの卵に存在するmtDNAは50万個。これに対し、精子には、(略)mtDNAはわずかに50個程度しかない
――第6章 ミトコンドリアと母性遺伝
と、精子に限定すると更に少ない。そもそもミトコンドリアの役割は…とか言ってるとキリがないし、本論にも関係ないので、この辺にしておく。ちなみにこの謎も、実に意外な形でケリがつく。
また、犯罪捜査や考古学などでmtDNAが使われる理由も、この本でわかった。
(PCR法で)増幅する対象としては、核DNAもあるが、mtDNAのほうがより有効である場合が少なくない。その理由として、mtDNAは核DNAに比べ進化速度が速くその塩基配列の差が個体差に反映していること、死後も骨髄や歯髄の中に安定して残存すること、コピー数が極端に多く普段から増幅されている状態にあることなどの利点があげられている。
――第6章 ミトコンドリアと母性遺伝摂氏四度に保ってさえいれば、マウスが死んでから一ヵ月たった後でも、脳の神経細胞の中にあるミトコンドリアを、mtDNA欠損細胞に移植することができることがわかった。
――第9章 老化とミトコンドリア
と、残りやすい上に、調べやすいのだ。ただし、PCR法(→Wikipedia)は敏感なだけに、使う際にも注意が必要で。ちょっとした不注意で研究がオジャンになった例が、本書にも幾つか出てくる。犯罪捜査で使われるmtDNAの鑑定も、手順次第じゃ怪しい場合もありそうだ。
などの紆余曲折を経ながら辿りつく終盤は、SF者に極上のご馳走が並んでいるから乞うご期待。なにせテーマが突然変異と老化である。ここで明かされる核DNAとmtDNAの形や働きの違いは、不死やエイリアンに興味を持つSF者の妄想を掻き立ててやまない。それこそピーター・ワッツの世界だ。
と、ミステリーで読者を引っ張りつつ、終盤では「今、そこにあるSF」へと読者を誘う構成は、これが最初の一般向けとは思えぬ見事な仕掛け。楽しみながら科学の成果がわかるだけでなく、何より「科学の手順」が生々しく伝わってくるのが、ライブ感に溢れていてワクワクする。これだからブルーバックスは侮れない。
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