マイケル・L・パワー,ジェイ・シュルキン「人はなぜ太りやすいのか 肥満の進化生物学」みすず書房 山本太郎訳
本書はヒトの生物学(ヒューマンバイオロジー)についての本である。(略)
本書は、どのようにすれば肥満を予防できるか、肥満を「治療」できるかといった問題に解答を与えるものではない。ヒトがなぜ、そしてどのように肥満になるかを理解しようという試みなのである。
――はじめに ヒューマンバイオロジー、進化、肥満唾液中に含まれる消化酵素アミラーゼはデンプンを単糖類に分解する。デンプンの消化は食物が嚥下される前から始まっているのである。
――第2章 私たちの遠い昔の祖先肥満と栄養失調は同じ集団のなかで見られるばかりでなく、同一個人においても見られる。
――第5章 進化、適応、現代の試練肥満は同時に、血中の低いカルシフェジオール濃度とも関係しており、それはビタミンD欠乏症のリスクを増大させる。(略)脂肪組織の大きな塊は、過剰なビタミンDや他の脂溶性ビタミンを脂肪組織に貯蓄し隔離してしまう。
――第10章 食べるということの逆説
【どんな本?】
ご存知のように、アメリカ人はやたらと太っている。もっと酷いのは南太平洋の島々で、ナウルでは70%以上の人が肥満と判断された。これは世界的な傾向で、エピデミックと言ってよい。そのためアメリカでは回転ドアや自動車のチャイルドシートも大きくなり、航空機の燃費も悪くなった。
遺伝子の異常で太る人もいるが、それは肥満者の5%未満だ。今の肥満は、進化の過程でヒトの体に備わった性質と、高カロリー小運動の現代生活とのミスマッチと考えていいだろう。
と言うと何かわかったような気になるが、具体的にはどういう事なんだろう? 食物を食べ、消化し、エネルギーまたは脂肪に変える際、私たちの体の中では何が起きているんだろう?
脳は、胃は、腸は、肝臓は、脂肪細胞は、それぞれ何を分泌し、分泌物はどこに作用し、どんな反応を引き起こすのか。そこにはどんな遺伝子のどんな働きが関わっているのか。それぞれの遺伝子は、長い進化の過程で、どんな環境で生き延びるために、どんな役割を果たしてきたのか。
食物の摂取・消化・吸収・加工・保存・利用のプロセスを、生化学的に細かく調べ、ヒトの体の複雑さ・巧妙さを描き出すと共に、現代科学の先端で行われている研究の成果と不明点も紹介する、一般向けのやや高度な科学解説書。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は The Evolution of Obesity, by Michael L. Power and Jay Schulkin, 2009。日本語版は2017年7月18日発行。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約333頁に加え、訳者あとがき5頁。9ポイント46字×19行×333頁=約291,042字、400字詰め原稿用紙で約728枚。文庫本なら厚めの一冊分。
文章はやや硬い。なんたって、みすず書房だし。内容も、かなり難しい。専門書ってほどでもないが、高校卒業程度の化学や生理学の知識か、または知らない化学物質の名前が出てきてもビビらない度胸が必要。だって単糖とかウロコルチンとか弓状核とか、小難しい言葉がしょっちゅう出てくるし。
【構成は?】
原則として前の章を受けて次の章が展開する形なので、素直に頭から読もう。
- はじめに ヒューマンバイオロジー、進化、肥満
- 第1章 肥満への道
肥満を測定する/肥満の流行は本当に存在するのか?/世界の肥満者割合/健康上の帰結/健康以外の帰結/肥満の流行に対する理解/肥満と進化/何が肥満を引き起こすのか?/なぜ、太らない人もいるのか?/まとめ
- 第2章 私たちの遠い昔の祖先
初期のヒト/大きな体を持つことの利点/食物と適応/進化の歴史における食物の変化/ヒトの消化管/食物の腸内滞留時間/デンプンの消化/私たちの消化機構と現代の食事/「不経済な組織」仮説/まとめ
- 第3章 食事の進化
ヒト、食物、食べるという行為/食事とは何か?/チンパンジー、肉食、そして食事/食事と脳/協働と忍耐/チンパンジーとボノボ/協調と公平性/獲物と捕食者/協働と効率/まとめ
- 第4章 進化、適応、ヒトの肥満
ミスマッチ・パラダイム/恒常性パラダイム/アロスタティックロード/過去から受け継いだ機械装置/怠けることは、一つの適応か?/旧石器時代の食事/稀なものが貴重になる/ハチミツ/脂肪/脳と脂肪酸/まとめ
- 第5章 進化、適応、現代の試練
現代の食事/カロリーを生む液体/フルクトース(果糖)/高グリセミック指数食/カロリー源として以上のもの/外食/一人前のサイズ/身体活動/建造環境/睡眠/栄養転換/ひいマンと栄養失調/肥満は伝染するのか?/まとめ
- 第6章 エネルギー、代謝、生命の熱力学
エネルギーと代謝/生命の熱力学/エネルギーを取り除く/「食べる」こととエントロピー/エネルギー支出/エネルギー総支出量/「不経済な組織」仮説の再検討/エネルギー摂取/エネルギーバランス/均衡試験/エネルギーの貯蔵/エネルギー貯蔵組織/エネルギー貯蔵とエネルギー要求性/まとめ
- 第7章 情報分子とペプチド革命
進化的視点/情報分子/ペプチド革命/ホルモンと内分泌腺/消化を助ける内分泌腺/脳腸ペプチド/膵臓ポリペプチド/レプチン物語/ニワトリ・レプチンの興味深い例/レプチンの栄養機能/魔法の弾丸か鉛の散弾か/まとめ
- 第8章 食欲と飽満
満腹感、飽満、食欲/食欲を制御する信号/脳、食欲、そして満腹ということ/代謝モデル/代謝と肥満/まとめ
- 第9章 食べるための準備を整える
パブロフ再検討/脳相反応/制御生理における期待反応の重要性/摂食における期待反応の重要性/脳相反応の証拠/味覚の役割/脂肪に対する味覚は存在するか?/中枢神経の貢献/脳相インスリン反応/まとめ
- 第10章 食べるということの逆説
食欲における脳相反応の役割/満腹における脳相反応の役割/情報分子の多様な機能/食欲と飽満、そしてエネルギー収支/まとめ
- 第11章 脂肪の生物学
脂肪組織/内分泌系/脂肪組織と内分泌機能/ステロイドホルモンとしてのビタミン/ビタミンDと脂肪組織/ステロイドホルモンと脂肪/レプチン/レプチンと妊娠/腫瘍壊死因子/アディポネクチン/神経ペプチドY/肥満と炎症/中心性肥満と末梢性肥満/まとめ
- 第12章 脂肪と生殖
脂肪、レプチン、生殖/脂肪過多における性差/中心性肥満 対 末梢性肥満/性ホルモンが脂肪蓄積と代謝へ与える影響/レプチンとインスリン/脂肪の代謝/生殖における脂肪の利点/太った赤ん坊/脂肪と女性の生殖/脂肪、レプチン、思春期/肥満と出産/肥満、妊娠、出産の結果/まとめ
- 第13章 肥満の遺伝とエピジェネティクス
古い遺伝学/新しい遺伝学/一塩基多型/子宮内での代謝プログラミング/貧困、栄養、心疾患/エピジェネティックな要因/倹約遺伝子/子宮内プログラムの機構/倹約遺伝子仮説への批判/ヒトの多様性/体脂肪分布と代謝/ピマ・インディアン/同類婚と肥満の流行/緯度と食事中の脂肪/まとめ - 訳者あとがき/表/参考文献/索引
【感想は?】
みすず書房の本だけあって、ダイエットの教本としてはからきし役に立たない。なんたって…
肥満は、摂取カロリーが消費カロリーを上回るという驚くほど単純な事実に起因する。
――第1章 肥満への道
と、みもふたもない。得られる教訓は、せいぜい、バランスのいい食事と適度な運動ってぐらいだ。そういう点では、小学校の家庭科の教科書の方が遥かに役に立つ。
とはいえ、多少は小技的に役立ちそうな事もある。例えば、甘い物だと…
摂取された果糖(フルクトース)は同カロリーのグルコース(ブドウ糖)より摂取の際のインスリン反応が弱い。(略)もし、インスリンが満腹に重要な役割を演じるならば、高果糖のコーンシロップで味付けしたような食物は、潜在的には(単位)カロリーに対して低い満腹感しか示さなくなるだろう。
――第9章 食べるための準備を整える
果糖はカロリーの割に満腹感が少ないので、つい摂りすぎちゃうのだ。「甘い物は別腹」ってのは、本当だったんだね。他に重要な栄養素だと、カルシウムが印象に残る。
習慣的なカルシウム摂取が、ボディマス指数や体重増加、体脂肪量と逆相関することを示す多くの研究結果がある。
――第4章 進化、適応、ヒトの肥満
カルシウムが足りないと運動しても贅肉が落ちにくい、のかもしれない。マウスの実験では、そんな結果が出た。ただしヒトへの影響は分かっていない。また、妊娠・出産・授乳でも大事で…
一般に女性は授乳期間中に、3~10%ものカルシウムを骨から失う。(略)食事中のカルシウムはほとんどこうしたカルシウム代謝に影響を与えない。高カルシウム食は、妊娠期間中に骨カルシウム量を増加させるが、授乳期間中のカルシウム補助食品は、(略)尿からのカルシウム排泄を増加させるだけである。
――第12章 脂肪と生殖
赤ちゃんが育つ時、当然ながら赤ちゃんの骨も育つ。骨の主な原料はカルシウムだ。そのカルシウムは、母乳から得る。その乳のカルシウムは、母体の骨からきている。でも出産後にカルシウムを摂っても手遅れで、オシッコとして出ちゃう。カルシウムは妊娠中に摂らないと意味ないのだ。
つか、母親ってのは、まさしく骨を削って子供を育ててるんだなあ。もちろん、赤ちゃんは骨だけで出来てるわけじゃない。ガリガリどころか、たいていはプニプニしてる。ヒトの赤ちゃんってのは、哺乳類の中でも異様に脂肪が多いのだ。特に赤ちゃんの脂肪は大事で…
赤子では、エネルギー支出の50%以上が脳代謝のために使用されている。ヒトの赤子の脳のエネルギーコストは、チンパンジーの赤子と比較して三倍か、それ以上に上る。
――第12章 脂肪と生殖
ヒトの脳はバカでかい。デカいだけあって、燃費も悪く、多くのエネルギーが要る。それを賄うためにも、脂肪は大事なんだが、ヒトの乳は意外と脂肪が少ない。だから、体の肉付きが大事なのだ。
加えて、ヒトの赤ちゃんは、凄まじい勢いで成長する。特に脳の成長は著しい。その脳は、大半が脂肪でできている。だもんで…
ある種の脂肪酸は、脳の適切な成長と発展に必須である。
――第4章 進化、適応、ヒトの肥満
一般に脂っこい食べ物はダイエットの敵だ。重さが同じなら、油のカロリーは炭水化物の三倍もある。だからといって、若い人が油を摂らないと、ヤバい事になるかもしれない。
と、そんな風に、ダイエット本だと思うと、「どないせえちゅうねん」と暴れたくなるぐらい役に立たない。これはそういう本じゃないのだ。ヒトが何かを食べる時、体の中で何が起きているのか。食べ物として摂ったエネルギーを、ヒトの体はどう使い蓄えるのか。そういう事が書いてある。
これがやたらと複雑で。胃は胃液で食物を溶かし、腸は吸収し…と、それぞれの臓器は何かの役割を担っている。が、それだけなく、臓器同士は化学物質で連絡を取り合うのだ。例えば…
脳と消化管は多くの脳腸ペプチドで結ばれている。(略)たとえば胃で産生される腸ペプチドであるグレリンは、下垂体に働き成長ホルモンの分泌を促す。また、食欲を刺激する。
――第7章 情報分子とペプチド革命
そんな風に、腹が減ったら食欲が増え、たくさん食べたら食欲がなくなるのも、当たり前だと私たちは思っている。でも、そのメカニズムを調べると、胃や腸と脳が連絡を取り合い、調整し合っている。このメカニズムは体の具合にもよって、寝不足だと食欲が増えたりする。当然、肥満も影響して…
ヒトやラットには、強固な脳相インスリン反応が存在する。食物の咀嚼や味覚情報に反応して、膵臓は素早くインスリン分泌を開始する。(略)
肥満した人では、脳相インスリン反応が欠如しているか減弱していることが多い。
――第9章 食べるための準備を整える
などと、太ることで消化能力が変わったりもする。気分も関係あって、例えば苦しみや悲しみや恐怖を感じると、胃腸はウロコルチンや副腎皮質刺激ホルモン放出ホルモンを出す。これは食欲を減らし、「直腸運動を促進する」、と書くと偉そうだが、つまりは漏らすのだ。
お陰で体は軽くなり、胃腸に回ってた血は脳や筋肉に回るんで、判断も動きも速くなる。これは「[戦争]の心理学」にもあったなあ。この現象、ちゃんと生理学的にも解析されてたんだね。
ってな具合に、胃腸だけでなく脳や膵臓、そして皮下脂肪に至るまで、私たちの体は化学物質による情報ネットワークで繋がってて、盛んにメッセージをやりとりしているらしい。脳を中心とした神経系によるトップダウンのネットワークってイメージは、これでガタガタと崩れてゆく。
SF者としては、なんかワクワクする話だよねえ。とすると、AIによるシンギュラリティってのは、やっぱり無理で、身体が必要なのかも、それならそれで、IoTが突破口に…ってな妄想は置いて。
体の話に戻ろう。それぞれの化学物質と、それが意味する情報や命令は、必ずしも一対一に対応しているわけじゃない上に、タイミングや位置によってメッセージの意味は違い…
と、肥満をネタにしつつ、その実はヒトの体が秘めた複雑怪奇な化学物質駆動型の情報ネットワークの一端を解き明かし、また環境の変化に応じて動的に平衡のバランスを変えてゆくアロスタシスなる概念を紹介するなど、体が持つダイナミックな性質を語る、現代科学ならではの興奮に満ちた本だった。
ただし、文章は硬いし、専門用語も容赦なく出てくるので、相応の歯ごたえがあるのは覚悟しよう。
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