リチャード・バック「イリュージョン 悩める救世主の不思議な体験」集英社文庫 佐宗鈴夫訳
「人々がもとめているのは、ぼくじゃない。奇蹟さ!」
「魔法使いから知っていることを教えられたら、それはもはや魔法ではなくなる」
「学生たちはきまって簡単なことを難しくしてしまう」
【どんな本?】
「かもめのジョナサン」で大ヒットを飛ばしたアメリカの作家リチャード・バックが、その7年後に出したメルヘン/ファンタジイ長編。
夏も盛りを過ぎた頃。ジプシー飛行士のリチャードは、同業のドナルド・シモダに出会う。古い複葉機で田舎を飛び回り、広い牧草地を見つけては降り立ち、近くの客を集めては10分間3ドルで空の旅を楽しませる。気ままな商売だが、時には人恋しくなることもある。
ちと風変りだが気が合いそうだし、商売も巧い。しばらく一緒に旅をしようと思ったが、実はとんでもない奴だった。ニュースに出ていた自動車修理工の救世主が、彼ドナルド・シモダだったのだ。
著者リチャード・バックならではの極めて楽天的な哲学が色濃く出た、メッセージ色の強い寓話。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は Illusions : The Adventures of a Reluctant Messiah, by Richard Bach, 1977。日本語版は、少なくとも以下4種が出ている。
- 1977年9月30日発行 村上龍訳 集英社 単行本 副題:退屈している救世主の冒険
- 1981年3月25日第1刷 村上龍訳 集英社文庫 副題:退屈している救世主の冒険
- 2006年4月 佐宗鈴夫訳 集英社 単行本
- 2009年5月25日第1刷 佐宗鈴夫訳 集英社文庫
村上龍訳と佐宗鈴夫訳は、文体も内容もかなり違う。
村上龍訳では、主人公の一人称は地の文だと「僕」で、会話中は「俺」。対して佐宗鈴夫訳は、いずれも「ぼく」だ。全般的に、佐宗鈴夫訳はお行儀がいいが、ジプシー飛行士同士の会話としては村上龍訳の方がしっくりくる。
問題は内容。これは間違いなく佐宗鈴夫訳の方が原書に忠実で、よりリチャード・バックの思想に近い。村上龍訳は、独自のエピソードを勝手に加えてたりする。二人が美人局にひっかかる場面などは、村上龍の創作らしい。
実は手元に1978年版のペーパーバックがあって、ちと確認したんだが、やはり美人局の場面はなかった。もしかしたら原書もハードカバー版とペーパーバック版で違うのかと思ったが、そういう事でもないようだ。
また、 2)村上龍訳の集英社文庫版に限り、円池茂のイラストが幾つか入っていて、なかなかいい味を出してる。
結論として、村上龍訳は超訳で、佐宗鈴夫訳は原作に忠実。私は村上龍訳の方が好きだが、この作品が持つヤバさは、佐宗鈴夫訳の方がストレートに伝わってくる。
今回読んだのは佐宗鈴夫訳の集英社文庫版。文庫本187頁に加え、訳者あとがき6頁。9ポイント38字×16行×187頁=約113,696字、400字詰め原稿用紙で約285頁。バーナード嬢大喜びの薄さだ。
【感想は?】
大好きで若い頃に村上龍訳で何度も読み返していた本だ。新訳でどうなるかと思ったが…
驚いた。こんなにヤバい本だったのか。もともと、クリスチャン・サイエンスに入るなど、ちとアレな人だよな、と思っていたが、「ちと」どころではない。この人、紛れもない本物だ。
お話は、思想的・哲学的なものだ。著者の思想を読者に伝える、そのために物語の形を借りる、そういう作品である。ジプシー飛行士のリチャードが、救世主のドナルド・シモダ(ドン)に出会い、ドンに導かれて救世主としての修業をする、そういう物語だ。
この世はどういうものか。何のために人は生きているのか。どう生きるべきか。そのために最も大切なものは何か。そういった哲学的な問題を、リチャードとドンが語り合い、また幾つかの実習を通し、次第にリチャードが身に着けてゆく、そういう形で物語は進む。
著者の哲学は、いかにもアメリカ人らしい楽天的なもので、大嫌いな人と大好きな人に分かれるだろう。その判断は簡単。冒頭、14頁ほどの短い寓話がある。この寓話が気に入れば他にも気に入る所があるだろうが、腹が立つなら、さっさと放り出すのが吉だ。この作品は、あなたの好みに合わない。
どんな哲学か。
それは、究極のリバタリアニズムと言っていい。私たちは、みんな自由だ。今のあなたの境遇は、あなたが自ら選んだものだ。私たちは、なんだってやっていい。なんだってできるのだから。
無茶苦茶だと思うかもしれない。でも、この物語を読むに従い、次第に洗脳されてゆく人もいる。私もそうだった。まあ、洗脳は完全じゃなかったけど。
これは、村上龍が勝手に追加した美人局のエピソードの効果が大きい。あの挿話で、著者が主張したかった完全性が損なわれた。その分、先鋭性は鈍ったが、親しみやすさは増した。
お気楽ご気楽な哲学だが、それを可能にしたのは、1970年代のアメリカの状況が大きい。
嵐の1960年代が過ぎ、政治の時代が終わった。好景気が続き、食い詰める者は減った。産業は発展を続けるものの、政府の監視は比較的に緩く、もともと自由と自立を尊ぶ国民性も相まって、社会にスキ間が沢山あり、ケッタイな商売が成り立つ余地が充分にあった。
それを象徴するのが、主人公二人の稼業、ジプシー飛行士。私がこの作品に惚れた理由の半分以上は、この商売にある。
時代遅れの複葉機に乗り、田舎を飛び回る。休耕地や放牧地などの適当な空き地を見つけては着陸し、地主の許しを得て臨時の飛行場にする。近くに住む人を集めては、10分間3ドルの空中散歩を味わってもらう。一通り稼いだら、荷物をまとめて次の町へと飛んでゆく。
航空法なにそれ美味しいの?ってな無茶苦茶な商売だが、著者は実際にこの稼業で食ってけるか試している。その記録が「飛べ、銀色の空へ」で、近いうちに紹介したい。
まさしくその日暮らしの風まかせ、自由気ままなドサ周りの暮らしで、いつだって野宿だし、メシはアリ付サンドイッチならマシな方で、リチャードのパンときたらオガクズと牧草だらけの石膏味。それでも、煩い上司に頭を下げる必要もなければ、出世の速い同期を嫉むこともない。
満員電車に詰めこまれて通勤している者にとっては、羨ましくてしょうがない。こういう、思いっきり手足を伸ばして昼寝できる暮らしには、どうしたって憧れちゃうのだ。
読み方によっては劇薬で、人生を誤る可能性もある。が、日々の暮らしや仕事で息が詰まる想いをしている人にとっては、頭の上の重苦しい雲の隙間から青空がのぞく、そんな気分になる。ちょっとだけ気分が軽くなる、そんな作品だ。
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