「エジプト神話集成」ちくま学芸文庫 杉勇・屋形禎亮訳
私の遺骸が私の生まれた地に合一することより大事なことがあるだろうか。
――シヌヘの物語
【どんな本?】
ナイルを中心として紀元前四千年より前から文明を築いてきた古代エジプト(→Wikipedia)は、ピラミッドや遺跡に刻んだ碑文や、パピルスに書かれた文書など、多くの文字の記録を残した。
幸い現在まで残っている記録から、比較的に文学的であり、また解読が進んでいるものを集め、一般読者に紹介するのがこの本である。
英雄漂流譚や冒険物語、辛い暮らしと暗い世相を嘆く詩、リズミカルな語りで描く喜劇、王名を帯びたレバノンへの旅の記録、神々や王に捧げた賛歌、若い学生へのお説教、熱い恋心を綴った唄、そして神々の争いを描く神話など、バリエーション豊かなテキストが楽しめる。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
1978年4月30日刊行の筑摩書房刊「筑摩世界文学大系Ⅰ 古代オリエント集」より、『エジプト』の章を文庫化したもの。文庫版は2016年9月10日第一刷発行。縦一段組みで本文約505頁に加え、解説が豪華123頁。8.5ポイント40字×18行×505頁=約363,600字、400字詰め原稿用紙で約909枚。訳注や解説も含めれば上下巻でもいい分量。
ちなみに元の物語や文書は紀元前25世紀から紀元前10世紀頃までと幅広い。
喜べ。かなり読みにくいぞ←誤字ではない。
元々が既に滅びた言語で書かれている上に、残った碑文やパピルスもカスれたり破れたり散逸してたりと、一部しか残っていない。そのため文章の一部が抜けてたり、段落がゴッソリ飛んでたりする。訳者の仕事も、翻訳というより解読と呼ぶのが相応しい。
そんな不完全な記録から、できる限り原本の意味を忠実に日本語に移し替えたのが本書だ。だから文の途中で単語や句が抜けてるし、物語も途中で途切れたりする。
それだけ、原文に近い作品なわけで、オタクとしてはその濃さが嬉しいのだ。
なお、成立した頃の世相を反映した作品も多いため、Wikipedia などで古代エジプトについて調べておくといいだろう。また地名も出てくるので、Google Map や地図帳があると便利。だいたい西はリビア、南はスーダン、東はイラク、北はレバノンとシリアあたりが出てくる。
【構成は?】
それぞれの物語は独立しているので、美味しそうな所をつまみ食いしてもいい。なお、素人は解説を読みながらでないと意味が分からない作品が多いので、複数の栞を用意しておこう。
- シヌヘの物語
- ウェストカー・パピルスの物語
- 難破した水夫の物語
- 生活に疲れた者の魂との対話
- 雄弁な農夫の物語
- イプエルの訓戒
- ネフェルティの予言
- ホルスとセトの争い
- メンフィスの神学
- 二人兄弟の物語
- ウェンアメン旅行記
- 宰相プタハヘテプの教訓
- メリカラー王への教訓
- アメンエムハト一世の教訓
- ドゥアケティの教訓
- アニの教訓
- アメンエムオペトの教訓
- オンク・シェションクイの教訓
- ピラミッド・テキスト
- アメン・ラー賛歌(1)
- アメン・ラー賛歌(2)
- ラー・ホルアクティ賛歌
- アテン賛歌
- ナイル賛歌
- オシリス賛歌
- 単一神への賛歌
- センウセルト三世賛歌
- トトメス三世賛歌
- セド祭の碑文
- ミンの大祭の碑文
- 「後期エジプト選文集」より
- 訳注/解説/索引
【感想は?】
「エジオプト神話集成」というより、「古代エジプト文書集」が適切だろう。
「神話」とあるが、ギリシャ神話や日本神話のように、創世記から始まり人の世が始まるとかの系統だった話を期待すると、肩透かしを食らう。というか、食らった。
そもそも、全体として一貫したストーリーを持つ本ではない。今まで残っているテキストの中から、比較的に解読が進んでおり、かつ文学的な香りのするものを選んで集めた、そんな雰囲気の本だ。もっとも、Wikipedia によると、エジプト神話は時代によって大きく変わっているので、そもそも一貫した物語を期待するのが間違いなんだろう。
神様が活躍する物語も少ない。「難破した水夫の物語」と「ホルスとセトの争い」ぐらいか。超自然な事柄が出てくる話も少なくて、人間が主人公の世情を映す話が多い。それより多いのが、若者への戒めや、神々や王への賛歌だ。中には「税を免じてくれ」とか「支払いはまだか」みたいな事務的な手紙も入ってる。
だもんで、これで古代エジプト神話を知るのは、まず無理。そこは覚悟しよう。それより「数千年前の人がどんな記録を残したか」が、この本の大事な所。
私が一番気に入ったのは、「雄弁な農夫の物語」。泣いて笑えるコメディだ。
農夫クーエンアンプーは、家に妻と子を残し、収穫物を街へ売りに出かけたが、途中で小役人トゥトナクトにイチャモンをつけられ、売り物を巻き上げられてしまい、領主レンシに訴え出る。
このクーエンアンプー、農夫とは思えぬ豊かな教養と見事な詩情で流れるように言葉を紡ぎ出すのはいいが、レンシは彼の雄弁が気に入って一計を案じ…
クーエンアンプーの台詞、たぶん原文は韻を踏んだリズミカルな文章で、今でいうラップに近い感じなんだろう。当時のエジプトに演劇があったどうかは知らないが、巧みな役者が舞台で演じたら、きっとウケたに違いない。主役のクーエンアンプーは相当に難しいけど。今ならミュージカルにすると楽しいだろうなあ。
最も神話らしい話は、「ホルスとセトの争い」。跡目争いの話だ。
オシリスが没し、その子ホルスが後を継ごうとするが、オシリスの弟(ホルスの叔父)セトが割り込んでくる。ホルス側はイシス(オシリスの妻でホルスの母)・九柱の神々など、セト側は万物の主。セトは何度もホルスにイチャモンをつけては挑み…
幾つもの難問を突き付けられてはクリアしていくホルスの姿は、後の英雄物語の元型だろう。にしても女神ハトホルが万物の主に向かう場面や、セトがホルスを家に招くあたりは、この時代ならではのおおらかさ。
などの明るい作品ばかりでなく、メタルかブルースかって感じの暗い嘆きや不吉な予言の作品があるのも意外。
「生活に疲れた者の魂との対話」は、まんまブルースの詞になりそうな作品。「仲間たちは邪悪だ/心は貪欲だ/暴虐さが万人に近づいて」なんてフレーズと、「今は誰に語りかけられよう」みたいなリフレインが交互に続いていく。
対してデスメタルっぽいのが、「イプエルの訓戒」。これも「ほんとうに」のリフレインの後に、「弓手は準備ができている/悪疫は国中にあり/都市は破壊され」など、この世の終わりを感じさせる不吉な言葉が次々と続く。
確か古代エジプトは絶対王政で、じゃきっと刑罰は厳しいんだろうなあ、なんて思い込みを覆してくれるのが「メリカラー王への教訓」。
なんと「(たぶん罪人を)殺してはならぬ。(略)鞭打と拘禁とで罰せよ」ときた。ただし「謀反人は別」だけど。また「貴族の子弟と素性卑しきものとをわけ隔てするな。能力によって人をとりたててやれ」とかもあって、人道主義・能力主義は昔からあったんだなあ、と驚いた。リベラルな思想は昔からあって、別に近代の発明じゃないのね。
教訓物じゃ「ドゥアケティの教訓」が資料的な価値が高い。これは若者に書記を目指せと説く文書で、他の職業の嫌な所を次々と挙げていく。出てくるのは彫刻師・木樵・床屋・葦細工師・陶工・左官・大工・庭師・農夫・隊商・漁師など。
書記の待遇のよさを語る文書だが、加えて当時の職業がバラエティに富んでいて、分業が進んでいる事がうかがえると共に、ソレナリに職業選択の自由があった事もわかる。
解説もオタクには嬉しいネタが載ってて、旧約聖書や千一夜物語との関連を示したり、セド祭の死と復活の儀式を解き明かしたりと、その手の話が好きな人にはご馳走の連発。
元が元だけにスラスラと読める本ではないが、そこはオタクの執念と妄想力が試されるところ。伝説や民話の類が好きな人、ファンタジイのネタを探す人、怪しげな話が好きな人なら、是非読んでおきたい。なんたって、こういう実生活には役に立たない無駄知識こそがオタクの本領なんだから。
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