ドミニク・ラピエール「歓喜の街カルカッタ 上・下」河出文庫 長谷泰訳 2
「三十年も石のカーリーばかりを拝んできたが、こんど拝むのは、骨も肉もあるカーリーだ」
「娘はわたしのものじゃない。結婚の日までは、神からの借り物で、あとは将来の夫になる男性のもんだよ」
「わたしの鈴だ、とってくれ」と、彼はいって、最後に一度だけ、鈴をかじ棒にぶつけて鳴らした。「厄除けのお守りだよ」
【どんな本?】
ドミニク・ラピエール「歓喜の街カルカッタ 上・下」河出文庫 長谷泰訳 1 から続く。
インド屈指の大都市であり、ベンガル地方の州都でもあるカルカッタ(現コルカタ)には、インドのあらゆる地域から人が集う。その一画に、スラム街アーナンド・ナガル(歓喜の街)がある。
歓喜の街に居をすえたフランス人の若きカトリック司祭ポール・ランベールの目を通し、出稼ぎのリクシャーワラ,チャイ屋の主人,ハンセン氏病患者,去勢者,「森の人」,建築作業員,工場で働く児童,マフィアのボスとその手先,辛抱強く働く女性たちなど、スラムの人々の暮らしと、インドの隠された社会と仕組みを描く、衝撃のノンフィクション。
【フランス人司祭ポール・ランベール】
ハザリ・パルはベンガルの農民であり、彼の視点描くのは「普通のインド人が見た大都会カルカッタ」だ。それに対し、西洋人の視点で見たインドを描くのが、フランス人の若き司祭ポール・ランベールのパート。
キリスト教は、時々びっくりするほど奉仕の心に溢れた人を生みだす。マザー・テレサが有名だが、この本のもう一人の主人公ポール・ランベールも、異常とすら思える奉仕精神の塊だ。
なにせ、「最も貧しい者と起居を共にする」ために、よりによってカルカッタ最悪の土地に居を据える。便所は共同で二時間まち。多少なりともインドを知っている人ならお馴染みだが、大きい方でも紙なんか使わない。部屋の前には下水溝があるんだが、屎尿汲取人のストライキで…
部屋の中でも安心はできない。歓迎しかねる客が次々とやってくる。蚊やゴキブリなんざ可愛いもので、百足・蠍・蜥蜴・ネズミ・南京虫などがひっきりなしにやってくる。
それでも敢えて踏みとどまるポール君、「起居だけでなく食事も住民と同じものを」などと殊勝な事を考えたのが運のつき。このくだりは、インドを貧乏旅行した事のある人なら「無茶しやがって」とニンマリする所。こういう「あるある」ネタは煙草の吸い方やホテルのしこいボーイなど随所にあって、それだけでも飽きない。
どんな国や地域でも、その土地の人と仲良くなるには、言葉を覚えなきゃ話にならない。ロクに辞書もない環境で、古文書解読のような苦労をしてヒンディー語とベンガル語を覚えた彼は、ちょっとした医療行為で英雄に祭り上げられ、組織立った奉仕活動へと歩み始める。そこでアンケートを取った結果…
まっ先にあがった要求は、夜間学校をつくることだった。一日じゅう地区の工場や商店やティー・ショップで働く子供たちが、読み書きを学べる学校である。
そう、スラムじゃ子供も働いている。まずは物乞いだが、これは体の一部が欠けているなどハッキリした障害がある方が有利だ。ゴミ集積場を漁る仕事は、競争が激しい。そこでゴミ収集車の運転手と組み、自分たちの縄張りに近いところにゴミを落としてもらう。蒸気機関車の運転手に賄賂を渡し、石炭を分けてもらう事もある。
こういった「仕事」を描く部分では、一見混沌に見えるインドの社会が、実は極めてシステマチックにネットワーク化されている事がわかる。といっても、ネットワークを流れるのは情報と賄賂なんだが。
【宗教】
ポール君の宗教は、もちろんカトリックだ。壁にキリストの肖像を張り、朝晩に拝む。宗教熱心なのはインド人も負けちゃ居ない。向かいのチャイ屋はヒンディーで、「オーム」と祈りの声を上げる。これにポール君が影響されていくあたりが楽しい。郷に入っては郷に従えだ。クリスチャンでも柔軟な人はいるのだ。彼を受け入れるヒンドゥー側も大らかなもんで。
その神大系のなかにイエス・キリストも、ブッダやマハーヴィーラやマホメットと同じ資格でいるものと考えている。こういう預言者たちもことごとく、いっさいを超越する偉大な神の権化なのである。
と、ある意味、八百万の神を祀る日本人に感覚は近い。ただしインドの方が遥かに熱心だが。
仏教徒も出てくるが、どうやらチベット人らしい。日本人の感覚だと「いやチベット仏教は別物だし」と思うのだが、これはチベット仏教側から見たら「日本の仏教こそ別物」なんだろうなあ。
【別格】
細かくカーストが分かれているので有名なインドだが、そこからすらはみ出る者もいて、こういった人々の暮らしは余程インドに詳しくないとわからない。この本では、ハンセン氏病患者・去勢者・「森の人」などが出てくる。
かつて日本でもハンセン氏病患者を隔離したように、インドでも激しい差別がある。罹患した者はカーストを追われ、家を叩き出される。既に治療法が確立しているのだが、長く定着してしまったしきたちはなかなか消えない。著者は後もインドのハンセン氏病患者のため尽力するのだが、それは別の話。
はじきだされた者も、彼らなりに集団を作って互いに助け合う。その一人アヌアルの縁談のエピソードは、めでたいようなちがうような。
やはりインドで独特の地位にあるのが、ヒジラこと去勢者。元男性だが、去勢して第三の性となった人々。彼?らも集団をなして暮らしている。単に集まっているだけでなく、国中に彼らなりのネットワークが張られ、互いに助け合う体制が出来ているのも驚きだ。差別される者どおし、昔から助け合ってきたんだろうか。
厳しいカースト制度の中で差別される彼らだが、彼らを必要とする状況もあって。こういった部分を読むと、カースト制度にもそれなりに利点があるのかな、などと危険な考えを抱いてしまう。
「森の人」、アーディーヴァーシー。一万年~二万年前、最初にインドに住み着いた人の末裔。ジャングルに住み、その中で畑を耕し、森の恵みを活用して生きてきた。だが地主に追われ、小屋に火をかけられ、流れ流れてアーナンド・ナガルにたどり着く。こういった、近代化・産業化に追われる人が、この本には何度も出てくる。
国家として産業化を推し進めるのはいいが、それによって職ばかりか家まで失う人が大量に出てしまう。明治日本の近代化は、そういった人々を工場で吸収したのはいいが、労働環境は劣悪だった。発展途上国では、相変わらず似たような事が起きている。
産業化による成功は歴史に残るが、その影で使い潰された人は滅多に歴史に残らない。目立つ物ばかりに注目してしまうヒトの性を、いい加減自覚して歴史を書いてもいいんじゃなかろか。
【児童労働】
児童労働の場面も多々あるが、微笑ましい場面もある。その一つが、定食屋マクシムを営む回教徒のナーセル親父。従業員10人中、5人は13歳に満たないスラムの子供で、月給10ルピー(約250円)に賄いつきで、朝の7時から真夜中までコキ使う。と書くと酷い因業親父のようだが…
うち三人は精神薄弱者で、道路で乞食をしていたのを親父が拾い、店に住み込ませた。他の二人は「目の見えない者と片目の者」だ。
厚遇とは言えないが、ちゃんと一人前の労働者として扱っているのだ。たいした旦那である。おまけにマルクス主義的共産党の地区細胞責任者というから、ワケがわからない。イスラム教の共産党って、アリなのか?
【儀式】
ヒンドゥー教でもイスラム教でも、インドじゃお祭りは派手に祝う。その中で「ラーマーヤナ」(→Wikipedia)の舞台が演じられる場面は、かなりワクワクする。スラムの者が総出で舞台を演じるのだ。「たいていの者は本文をひと通り暗記している」にも関わらず、何度も見た場面で泣き、笑う。
こういう国民的な叙事詩があるってのは、ちと羨ましい。日本だと…桃太郎は尺が短すぎるし、源氏物語は子供向きじゃないし、平家物語は暗い。何かいいのないかなあ。
などの集団的な儀式もあれば、個人的な儀式もある。出産祝い、結婚式、葬式だ。出産祝いは比較的に控えめだが、葬式と結婚式は大変だ。それでも葬式は突然やってくるためか、インドにしちゃ大人しい方だが、結婚式は人生を賭けた大勝負となる。いやホント、マジで。
上巻の最初から重いボディブローを打たれるようなカルチャー・ショックが溢れるこの本で、いい加減こっちも慣れたと思った終盤にきて、主人公ハザリが大勝負に出る場面じゃ完全にノックアウトされてしまう。なんというか、命の意味が全く違うのだ、私とハザリじゃ。
因習と言えばそれまでだが、一人の男の生き様として、ここまで突き詰めた者は、やっぱり尊敬に値するし、それはそれで幸福なのかもしれない。これはもう、小ざかしい理屈でどうにかなるモンじゃない。
などとモヤモヤした後に来る大騒ぎのエンディングでは、ひたすら唖然とするばかり。やはりインドは理解しがたい。
【最後に】
貧しさ・無知・搾取・争いなど醜い部分もあれば、食うや食わずの者たちが互いに気遣いあい助け合う場面も多々出てくる。混沌に見えて実は合理的なシステムもあれば、隅々まで腐敗にやられ麻痺した制度もある。インドの底知れなさが分かるだけでなく、そこに生きる人のナマの人間性を剥きだしにし、衝撃が連続する迫真の傑作ノンフィクションだ。
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