トニー・ホルヴィッツ「青い地図 キャプテン・クックを追いかけて 上・下」バジリコ 山本光伸訳
大いなる志をもって、わたし以前のだれよりも遠くへ、
さらに人間の限界と思われる所まで旅を続ける
――キャプテン・クックの日記より
【どんな本?】
ジェームズ・クック(→Wikipedia)、通称キャプテン・クック。1728年10月27日イギリスのヨークシャー州マートン生まれ。貧農の子としてうまれながら、厳しい階級社会のイギリスで水兵から艦長にまで叩き上げ、世界周航の航海を任される。三度にわたる航海は合わせて10年ほど、航行距離は約32万kmとなり、ほぼ月までの距離である。
主に太平洋を中心とした彼の航海は多くの発見をもたらし、空白だった世界地図の1/3を埋めた。北西航路を求める三度目の航海中、越冬と補給のため立ち寄ったハワイで、島民との争いで没する。時に1779年2月14日。
彼に興味を持った著者は、彼の資料を集めると共に、彼が訪れた地を巡り、その航海の痕跡と、彼の来訪がもたらした変化を探ってゆく。タヒチ、ニュージーランド、アラスカ、そして生誕の地ヨークシャー。
当事の航海は、どんなものだったのか。キャプテン・クックの来訪を、当事の人々や今の人々はどう感じているのか。なぜクックは大航海をなしえたのか。なぜ彼は殺されたのか。そしてキャプテン・クックとは、どんな人物なのか。
ジェームズ・クックの謎を追いかけて南太平洋を巡りつつ、押し寄せる西洋文化の奔流がそれぞれの土地にもたらした変化と、その中で生きる人々を描く、海と冒険と歴史のルポルタージュ。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は Blue Latitudes, by Tony Horwitz, 2002。日本語版は2003年12月25日初版第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約328頁+372頁=約700頁。9ポイント43字×17行×(328頁+372頁)=約511,700字、400字詰め原稿用紙で約1,280枚。文庫本の長編小説なら2冊分ちょいぐらいの分量。
翻訳物のノンフィクションとしては、文章はとてもこなれていて読みやすく、スラスラ読める。内容も特に難しくない。敢えて言えば、南太平洋を中心とした世界地図か、地球儀があると迫力が増す。
【構成は?】
内要は章ごとにほぼ独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。が、出来れば「プロローグ」と「第一章 」は最初に読んだ方がいい。全体の印象が大きく違ってくる。
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【感想は?】
現代の日本に生まれたことに感謝。
クックゆかりの地を、ジャーナリストの著者が訪ね歩く、そういう本だ。各章で、著者はそれぞれの土地を訪ねている。ご覧のとおり、クックが旅した太平洋、それも南太平洋が中心である。例外はクック生誕の地ノースヨークシャーと、海軍に入ったロンドンぐらい。
それぞれの章は、大きく分けて二つのパートからなる。ひとつは、来訪当事のクックたちを描くもの。もう一つは、現地を訪ねた著者が、クック来訪の痕跡を探しつつ、現地でのクックの評判や、今の港や町の様子を見て歩く部分。
その前に。まず、著者は、当事のクックの航海を再現する船に乗り込み、水夫の修行を体験する。オーストラリアの財団が、クック第一の航海で使ったエンデヴァー号(→Wikipedia)の複製を造り、それで彼の足跡を辿って世界一周する企画だ。各寄港地で採用された希望者は、18世紀の水夫の生活を体験する。
エンデヴァー号、三本マストの元石炭運搬船で、全長約32m、幅約9m。帆船だから、当然エンジンはない。進むにも向きを変えるにも、風と海流と帆と舵が頼りだ。ここでの水夫生活がどんなものか。
とにかく狭い。寝床はハンモック、一人当たりの幅は約36cm。船が揺れればハンモックも揺れ、隣に寝ている奴がぶつかってくる。朝飯はトーストとかゆを5分でかきこむ。仕事は床を拭きテーブルを拭き食器を洗い、甲板ではロープを引き緩め縛る…甲板上数十mの横桁の上で。甲板でも、下手に綱の近くにいると、綱に巻き込まれて海に放り出される。
実際、復元航海では落下事故も何回かあったらしい。命綱のお陰で助かったが。
重労働でひざはがくがく、手はタールで真っ黒、体のアチコチは擦り傷・捻挫・火傷だらけ。いつだって睡眠不足の上に、やってくる船酔い。水夫長曰く「三日三晩吐きつづけたやつはいないよ」。やがて著者は、シャワーや髭剃りも忘れてゆく。んなヒマあるかい、と。
なんという奴隷生活。ブラック企業なんてもんじゃない。おまけに当時は「乗組員の死亡率40%という割合は、当時としては並外れた数字ではない」。しかも、当事の水夫は「たいていは十代後半で、12歳の子供までいた」。
しかも。クックの目的は、探索である。GPSや無線機はもちろん、海図も冷蔵庫もない。さすがに現在位置は天測でわかるが、海の向うに何があるかは、何もわからない。当事の航海の恐ろしさは、「第六章 グレートバリアリーフ――座礁」で身に染みる。
いまでこそ美しい観光名所だが、ここでのグレートバリアリーフは恐怖の森だ。遠浅で波が荒い。珊瑚礁は起伏が激しく、突然に水深が浅くなる。こんな所に動きの鈍い帆船が迷い込んだら、いつ座礁してもおかしくない。しかも、木造船である。硬い珊瑚は太い竜骨も軽く引き裂く。
などという、当事の航海の凄まじさも面白いが、それぞれの土地の昔と今の違いは、苦い記述が多い。
最初に出てくるタヒチでは、1774年の人口20万4千人(クックの見積もり)から1865年には7169人に激減している。結核・天然痘などの伝染病に加え、アルコール中毒や内戦のためだ。
ニュージーランドでは、マオリと植民者の対立が浮かび上がる。「マオリではクックは嫌われ者なのよ」。そう、クックの前に、既にマオリはニュージーランドを発見し、住み着いていた。当時も、クックを迎えたのは戦いの踊り、ハカ(→Youtube)だった。20世紀半ばで消えかけたマオリの文化を、今は若者たちが蘇らそうとしている。
全般的に暖かい南太平洋の島々を扱う章が多いが、三度目の航海ではアラスカにも立ち寄っている。それまでの島々の人々は「始めて白人を見た」のだが、ここのアレウト族は既に白人と出会っていた。ロシアの毛皮商人だ。
彼らの歴史も複雑だ。豊かな毛皮を手に入れるため、ロシアの毛皮商人は銃と大砲でアレウト族を奴隷にする。救いの手を差し伸べたのは、ロシア正教会である。キリル文字を元にアレウトの文字を作り、学校を開く。1867年にアメリカがアラスカを買い入れるが、放置。暫く平和な時代を送るが…
当時クックを迎えた人々の末裔は、その多くが受け継いだ文化を失い、かといって西洋文化にも同化しきれず、今でも迷っている。蘇らせようとする者、忘れようとする者。などの苦さを中和してくれるのが、同行者のロジャー。
クックと同じノースヨークシャー生まれで、今はシドニーに住んでいる。ヨットを持つベテランの船乗りで、大酒のみ。イギリス生まれのくせに今はオーストラリアにすっかり染まり、口を開けば下品な冗談ばかり。思索に沈む著者を、何かと茶化すロジャーは、この本に明るい息抜きを与えてくれる。
クックは世界中を旅した。そのためか、彼のマニアも世界中に散らばっている。ヴァージニアに住む著者はもちろん、地元ノースヨークシャーのコーデリア・スタンプ、ロンドンのキャプテン・クック協会会長クリフォード・ソーントン、アラスカのリック・クネヒト、ニュージーランドのシーラ・ロビンソンとアン・イラヌイ・マガイア。
今から思えばちっぽけで粗末な船で、誰も知らない海へと乗り出し、偉大な航海を成し遂げた男。彼が作った海図のいくつかは、1994年まで使われた。だが彼によって開かれた航路は、やがて呵責のない侵略者を呼び込み、そこにいた人々の生活や文化を粉々に打ち砕いてしまう。恐らく彼は、我々日本人にとってのペリーのような存在なんだろう。
柔らかく読みやすい文章で、当事のクックの厳しい航海と、それを迎えた現地の人々の思い、そして現代文明の侵食の中で生きている太平洋沿岸の人々を描く、親しみやすいながらも考えさせられる、口当たりは軽いが中身は重い本だ。
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