宇田賢吉著「電車の運転 運転士が語る鉄道のしくみ」中公新書1948
発車のとき、運転士はなにを考えているのだろうか。筆者の経験では「よし、動いた」である。理由は起動不能の故障を経験しているからである。
――第2章 発車と加速「私たちは毎日レンタカーに乗るんですね、マイカーの乗り慣れた感覚とはまったく違う」
――第8章 運転士の思い
【どんな本?】
長年、国鉄の運転士として勤務したプロの運転士による、鉄道それも電気鉄道の原理・しくみから実際の規格・規約・機器の意味と役割と特徴、そして現場の運用から働く者の気持ちに至るまで、電車の全てを運転士の目で描いた著作。
新書という手軽な体裁でありながら、その中身は網羅的・専門的・本格的であり、鉄道という巨大かつ安全性が重要視されるシステムを、運用面から覗き見る本。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
2008年5月25日発行。新書版で縦一段組み、本文約260頁。9.5ポイント42字×17行×260頁=約185,640字、400字詰め原稿用紙で約464枚。長編小説なら標準的な分量だが、写真・イラスト・グラフなどを豊富に収録しているので、実際の文字数は8割程度。
専門家が書いた本だが、意外と文章はこなれている。ただし、内要はかなり本格的で、多少の数式も出てくる。といっても四則演算ぐらいなので、数学的にはそう難しくない、というか算数のレベル。
重要なのは理科、それも電気の基礎知識。特に重要なのは二つ、一つは電流と電圧の関係で、もう一つは電気モーターの原理。要求されるレベルは中学校卒業程度の理科だろう。加えて少しニュートン力学も必要だが、こちらは難しくない。自転車に乗れるか、スキーやスノーボードの経験者なら、理屈は分からなくても体感的に雰囲気は掴める。
【構成は?】
一部に難しい話が出てくる。じっくり読み込むなら、「ノッチ」の所は慎重に読もう。手早く全体を味わいたいなら、難しい所は読み飛ばしてもいい。それでも運転士という仕事が、いかにプロフェッショナルな技能と心構えに支えられているのかが、充分に伝わってくる。
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【感想は?】
この本は幼い頃に読みたかった。多分、書いてある事の大半は理解できなかっただろうけど。
傍から見ると、電車の運転は簡単そうに見える。自動車と違って進行方向を変える必要はないんだし、する事はスピードの上げ下げだけじゃないか。それでも、乗り物の運転士ってのは、子供の憧れの職業なのだ、やっぱり。
読み終えると、確かに憧れるに足る職業なんだなあ、としみじみ思う。それだけの専門知識・知見・経験・注意力・思考力・柔軟性・冷静さ・責任感が必要な仕事なのだ。とにかく、理解しなきゃいけない基礎知識と、憶えなきゃいけない規則、そして積み上げてゆくべき経験が、やらと多い。
なぜ大変なのか。原理は簡単で、重たいからだ。駅のホームには、乗車位置に印がある。運転士は、ここに乗り降りするドアが来るように止める。日頃から私は「電車ってのはそういうもの」と思っていたが、改めて考えると、これはとんでもなく精密な作業である。
私は一応自動車の運転免許を持っているが、かなり下手糞だ。あの精度でキチンと止められる自信はない。運転に自信のある人も多いだろう。だが、当日に借りたレンタカーで、ちゃんと車両の感覚が掴める人はどれだけいるだろう?
しかも、自動車はブレーキの効きが強いし速い。ペダルを踏めばすぐに効き始める。しかし電車は…
筆者の経験によれば、JR115系のブレーキ開始位置は、平坦線において、時速100kmのとき停止位置の580m手前、時速80kmで380m手前、時速60kmで220m手前となっている。(略)雨の日や下り勾配であればこの距離はさらに増大する。
しかも、運転士が運転する車両は毎日違う。車両によりブレーキの効きは違うし、車輪の減りも違う。雨が降れば滑りやすくなるし、乗客が多ければ重くなりブレーキが効きにくい。勾配も重要な要素で、下り坂じゃ止まりにくい。自動車に比べ安上がりに大量輸送ができるかわり、とても繊細なシステムで、操縦には大変な能力が必要なのだ。
などの運転士の仕事内容が中心だが、それ以外の鉄道の要素についても、詳しく書かれているのも本書の特徴。運転士が直接扱う車両については、もちろんモーター・ブレーキ・車輪・運転席など細かく書いてある。ばかりでなく、送電設備・パンタグラフ・レール・枕木・犬釘・バラストなど電車が直接触れるものに加え、ホームにまで触れている。
「コンビニみたく電車も終夜運転して欲しいなあ」と思っていたが、この本を読んで「こりゃ無茶だな」と諦めた。
列車を安全に動かすには、定期的な点検や保守が欠かせないのだ。例えば犬釘。これはレールを枕木に固定する釘で、「振動や衝撃によって緩みやすいので定期的な点検と打ち込みが必要」。これはレールも同じで、「最短では数ヶ月で交換限度に達するところがある」が「直線区間においては寿命が10年を超えることも珍しくない」。
要は激しく使えば減りも激しいって事。終夜運転して欲しいのは、山手線などの日頃からコキ使われる所で、それは同時に定期的な点検・交換の手間がかかる所でもある。数分ごとに列車が通る日中じゃ保守・点検は無茶だし、なら夜にやるしかないじゃないか。にも関わらず、滅多に始発が運休にならないJRって、やっぱり凄い。
などに加え、線路脇やホームから見える、様々な標識や数字の意味がわかるのも、本書の魅力。色とりどりのライトが点滅する信号機はもちろん、レールにある刻印や、数字が書かれた線路脇の謎の三角柱とか。ちなみに謎の三角柱の正体はキロポストで、起点駅からの距離をkm単位で示すもの。他にも速度制限を示す標識もあったり。
事故が起きたら大騒ぎになる仕事だけに、第6章は「安全のこと」として一章を割いている。ここで心に留めたいのが、事故訓練のこと。
人身事故についても、車両と人形と担架を用意して訓練を行う。当事者からは学芸会のようだと苦笑が漏れるが、本当に事故に遭遇したとき、この訓練が最も役に立ったとは経験者の弁である。
私も何かの訓練で人形相手に人工呼吸の訓練をした経験があるが、確かにあれは気恥ずかしい。幸い訓練が役に立つ機会は今の所はないが、無駄じゃないんだなあ、あれ。
など、運転についての細かい実情はもちろん、その根底にある力学の理論から、それを支える電車のテクノロジーや鉄道会社のシステム、安全確保の制度と工夫などの堅い話は盛りだくさんながら、同時にそこで働く運転士の気持ちを交えて親しみを増す、濃い内容ながらも多くの人に楽しめる本だった。
幼い頃、この本を読んでいたら、今頃は鉄道マニアになっていただろう。そして鉄道を破壊しまくったT.E.ロレンスが憎みまくっただろう。著者の鉄道への想いが自然と伝染してくるのだ。
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