加藤尚武「現代倫理学入門」講談社学術文庫
すべての人間が聖人となるなら、よい社会秩序ができるだろうが、実現の見込みはほとんどない。これは最高級の倫理である。実際には人間は聖人でないという前提で、社会の運営方法を設計しなければならない。その時すべての人間に要求される倫理水準は、低ければ低いほど、実現の見込みが高い。
【どんな本?】
放送大学の教材「倫理学の基礎」をベースに、書籍というメディアにあわせ編集・加筆・削除したもの。
現代の倫理学で議論となっている様々な事柄を、わかりやすい例に基づいて一般向けに解説すると共に、倫理学の様々な立場での解とその長所・短所を説明する、倫理学の入門書。著者は功利主義の立場を取っているが、共同体主義など他の立場での主張も挙げている。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
1997年2月10日第1刷発行。文庫本の縦一段組みで本文約244頁+あとがき3頁。9ポイント38字×16行×244頁=約148,352字、400字詰め原稿用紙で約371頁。短めの長編小説の分量。
入門書とはいえ元が教科書なので、相応の覚悟は必要。二重否定などのややこしい表現が多少残っているし、解説付きではあるが専門用語も少し出てくる。ただし内容的には特に前提知識は要らないので、中学二年生程度の読解力があれば読みこなせるだろう。
【構成は?】
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教科書とはいえ、比較的に各章は独立している。まえがきで「本書の中心となっているのは、第11章」とあるので、気になった人は「第11章 他人に迷惑をかけなければ何をしてもいいか」を味見してみよう。
【感想は?】
倫理学についてズブの素人なら、この本の前に児玉聡の「功利主義入門 はじめての倫理学」を読んでおいた方がいい。倫理学とは何か、倫理学にはどんな流派があって、それぞれどんな特徴があるのか、全体を俯瞰できる。
その「功利主義入門」で「倫理学の入門書としては今日でも最初に読むべき本」と絶賛しているのが、この本だ。著者は功利主義の立場だが、他の立場での主張も取り混ぜ、現代の倫理学の全体を見渡し、状況報告をしている。
各章のタイトルは、人をひきつけるよう巧く工夫されている。「人を助けるために嘘をつくことは許されるか」「10人の命を救うために一人の人を殺すことは許されるか」「10人のエイズ患者に対して特効薬が一人分しかない時、誰に渡すか」。誰だって、反射的に自分なりの解は出せるだろう。
しかし、多くの人は「…んじゃないかな」程度の確信で、何かモヤモヤしたものが心の中に残ると思う。血気盛んな中学生なら、こういった問題を友人と熱く語れるだろうが、いい歳こいたオッサンになると、さすがに気恥ずかしくて語れない。だからって忘れたわけじゃなく、ただ日々の生活の悩みの方が切羽詰ってるってだけの話だ。
そういった事柄を、根本の原理に遡って考えているのが、この本である。
ただし、困った事に、この本に明確な回答は出てこない。というのも、倫理学の各流派によって解が違うからだ。この本はあくまでも入門書・教科書であるので、それぞれの流派の解と問題点を並べ、「…ってな点が現代の議題となっています」的な形で〆ている。
どうも倫理学というと、何か高尚で現実離れした学問のように思えるが、読んでみると、意外とそうでもない。個人の行動を規定するのが倫理だと思い込んでいたが、この本には、多数決を基盤とした民主主義や、自由な売買を認める経済学なども絡んでくる。つまりは「どんな社会がより優れているか」を考える学問でもあるのだ。
例えばこの記事の最初の引用である。エンジニアなら、こう置き換えるかもしれない。
高品質の部品を使えるなら、優れた製品を作れるだろう。でも高品質の部品を揃えるのは難しい。より品質の低い部品でも優れた性能を発揮できる方が優れた設計だし、市場でも成功しやすい。AK-47がいい例だ。作りやすく使いやすくメンテも楽なので、子供でも使える←をい
社会を工業製品の設計、ましてや人殺しの道具に置き換えるのはどうかと思うが、あまし禁欲を押し付けられる社会は窮屈だし、どっかに無理がありそうだ。多少は緩いが治安はいい、そんな社会こそ住みやすい。なるたけ規制は緩くして、各人の自由を最大限に保障したら、巧くいくんじゃないかな。
ってなのが「最大多数の最大幸福」で、「じゃ多数決で決めましょう」と思ったら、大変な事になっちゃったのがルワンダの虐殺。多数派のフツ族が少数派のツチ族を虐殺しはじめて(→Wikipedia)。「ここでは民主主義という前提が、軍事的対決を生み出す大きな要因となっている」。
これを防ぐには公平な第三者の介入が必要、という結論になっている。
しかし果たして現代の国際社会で「公平な第三者」なんているんだろうか。70年代ぐらいまではスウェーデンあたりが、この介入者の役割を果たしてきた印象がある。日本がPKOに積極的になった原因の一つも、この辺なのかな…などと考え始めると、倫理学も相当に生臭くキナ臭い学問に思えてきたり。
「近代哲学の夢は、倫理学の内容を数字や幾何学のように展開することだった」なんて話は、グレッグ・イーガンが好きな人なら思わず引き込まれてしまう部分。いやコンピュータが行動の是非を計算できたら…なんて考えると、色々と面白い話が出来そうだし。残念ながら「その夢は消えてしまった」と続くんだけど。
それぞれの章で取り上げる話題は、一見素朴に見えるが、実は長い歴史があって深い思索が必要だったりする。物理的には薄い本だし、その気になれば一日で読めるが、課題を考え込むとキリがない。変わった読み方としては、物語、特にSFやファンタジイ創作のネタとして使うと美味しそう。ちょいと歯ごたえはあるが、それに相応しい内容を含んだ本だった。
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