サイモン・ウィンチェスター「博士と狂人 世界最高の辞書OEDの誕生秘話」ハヤカワ文庫NF 鈴木主税訳
それは単純に「大辞典」と呼ばれた。計画の段階から、ほとんど考えられないほど大胆かつ無謀であり、大きな困難と不遜のそしりを覚悟でのぞまなければならなかった。だが、ヴィクトリア女王時代のイギリスには、この仕事にふさわしい大胆さと無謀さをもちあわせた男たちがおり、彼らは予測される危険に立ち向かうだけでなく、それ以上の大きな仕事を成しとげた。
【どんな本?】
OED、オックスフォード英語大辞典。41万語以上,180万以上の用例を収録し、全12巻を70年もかかった大辞典。その特徴は、収録された言葉の意味を示すだけに留まらず、単語の意味の歴史を示す点だ。この無謀な計画には、多くのボランティアの参加が不可欠だった。
壮絶な計画の主な編纂者だったジェームズ・マレー博士は、用例の収集で秀でた貢献を示す一人の篤志家に気づく。ウィリアム・チェスター・マイナー、ロンドン近郊に住むアメリカ人。几帳面な蔵書家で教養と工夫の才にあふれる人物と思われるマイナー氏の正体は、意外なものだった。
無謀で大胆、だが計り知れない文化への貢献をなした大辞典編纂の実像を、それを牽引した特異な二人の人物を中心に描く、傑作ノンフィクション。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は The Professor and The Madman - A Tale of Murder, Insanity, and the Making of the Oxford English Dictionary, by Simon Winchester, 1998。日本語版は1999年4月早川書房より単行本で刊行。私が読んだのはハヤカワ文庫NFで2006年3月31日発行。縦一段組みで本文約325頁+豊崎由美の解説6頁。9ポイント39字×17行×325頁=約215,475字、400字詰め原稿用紙で約539枚。長編小説なら標準的な分量。
文章は比較的にこなれている。内容も特に難しくない。ノンフィクションとはいえ、物語仕立てなので、特に構える必要はない。小学生の壁新聞程度でいいから、手書きで紙の出版物を編集したり、同窓会などの幹事で往復葉書を整理した経験があると、更に楽しめる。
【構成は?】
はじめに |
7 単語リストに着手する |
物語仕立てなので、素直に頭から読もう。
【感想は?】
つくづく、コンピュータというのは有難い。
辞書編纂の実際の職務内容が出てくるのは、中盤あたり。当時はコンピュータなんて便利なモンはないから、みんな手作業だ。恐らく一単語一枚のカードにして、それをABC順に棚にしまう。カードを書くのも並べるのも、全て人手。今なら「とりあえずデータベースに突っ込んどけ」で終わる話だし、並べ替えだってコマンド一発。
ついでにカードは全部郵送。これも今なら「ネットでいいじゃん」って事で、Wikipedia なんて便利なシロモノが出来てる。
OED の特徴は、「正しい意味」「正しい言葉」を収録しているのではない、という点だ。言葉は時代と共に変わるし、地域や集団によっても違う。例えば RPG、ゲーム好きにはロール・プレイング・ゲームだし、軍事オタクには携帯型対戦車火器で、事務系の計算屋にはプログラム言語の一つだ(→WikipediaのRPG)。
そこで「これが正しい」と言い張るのではなく、「こんな意味でこういう風に使われた」と、複数の意味と用例を全部収録してしまえ、というのが、OEDの野心的な所。んなもん一人で収集しきれるわきゃないんで、ボランティアを募る。この「ボランティアを募る」って発想が、いかにも議会制民主主義と株式会社の国イギリスらしい。
これで大量のボランティアから、単語の用例とその出典を書いたカードが集まってくる。当初の編纂者ハーバート・コールリッジはカードの数を6~10万枚と見積もったが、「最終的に600万枚を越えるカードが篤志閲読人から送られてきた」。
今ならこの作業、Google が数億のWebサイトに対し自動でやってたりする。逆に言えば Google みたいな仕事を人手でやるわけで、それに必要な労力と根気はどれほどになるのやら。まあ少し前までは書籍の索引を作るのも、なかなかの手間だったんだけど。
ってな編纂の仕事も凄まじいが、これに貢献したマイナー氏の工夫も凄い。予め自分の蔵書から単語の索引を作ってカードに整理しておく。用例の要求があったらカードと蔵書を突き合わせ、用例を書き加えて編纂質へ送る。一人で辞典を編纂してるようなもんだ。結果…
このときから、彼らのスタッフは、(略)問題の語はどれかを決め、クローソンに手紙を書いて要求すればよくなったのだ。
このマイナー氏の仕事も今ならコンピュータで効率よくやれちゃったりするんだが、当時はペンとカードでやるしかなかった。なんでマイナー氏が、こんな地味で面倒くさくて神経を使う仕事をボランティアで始めたか、ってのが、この本の重要なテーマ。
裕福で教養豊かな米国人のマイナー氏、実は殺人を犯し精神病と診断され、精神病院に収容されていたのだ。殺されたジョージ・メリット氏にしてみりゃたまったモンじゃないが、マイナー氏が殺人に至るまでの経緯は、なかなか痛々しい。
医師の技能も持つ人だけに、元々は誇り高く情感豊かで正義感もたっぷり持ち合わせた人なんだと思う。彼がボランティアに応募した動機は、教養人としての気高さを感じるし、その職務スタイルは理知的で柔軟な思考能力と、几帳面で勤勉な強い意志が伝わってくる…それが後の悲劇を招くんだが。
対するマレー博士は、貧しい出自からの叩き上げ。の割に、この本から感じるのは、「苦労人」って言葉がふさわしい、人あたりが柔らかな学究の徒。後半に展開するマイナー氏との交流も、互いに尊敬と親愛が交じり合う、教養人同志の大人の友情が滲み出てくる。
まあ、それまでマレー博士の周囲に出てくる人物が、フレデリック・ファーニヴァルを初めとしてアクの強い人が多いんで、穏やかに学問や仕事の話ができるマイナー氏は、マレー博士にとって心のオアシスだったのかも。
なんで辞書があんなに値段が高いのか納得できると共に、それを成し遂げた人達への畏敬の念も湧いてくる。と同時に、同じ時代に対照的な生い立ちで育った二人の男の友情物語でもあり、悲劇が生んだ壮大な業績という皮肉な物語でもある。書籍が好きな人なら誰でも楽しめると思う。
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