V・K・アルセニエフ「デルス・ウザラ」小学館地球人ライブラリー 安岡治子訳
「本当にわからないか、カピタン?」デルスはまだ呆れていた。「若い人爪先から先に足運ぶ。年寄り必ず踵擦り減らす」
【どんな本?】
著者アルセニエフが1907年の夏から冬にかけ行なった、ロシア沿海州の日本海に面したシホテ・アリニ山脈の探検旅行の報告書「ウスリー地方の密林で」の一部。
探検旅行には、著者のほか植物学者や軍の射撃兵、そして現地のガイドとしてベテラン猟師のデルス・ウザラが同行する。豊かな生物層を誇る密林にはクロテン・ノロジカなどの獲物もいれば、虎・熊・狼など危険な猛獣も潜んでいる。元から住んでいたターズ、増えてきた中国人、入植を始めたロシア人など様々な人が、それぞれのスタイルで生活している。
生粋の狩人デルスを案内人として、当事の沿海州の密林の様子を伝える自然史であり、そこに住む人の生活を綴る生活史であり、また森の中で獲物を追う狩人デルスの優れた知性と能力と独特の世界観を描く物語でもある。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は В дебрях Уссурийского края(ウスリー地方の密林にて), Влади?мир Кла?вдиевич, Арсе?ньев, 1926 収録のДерсу Узала。翻訳の底本は1987年にモスクワのムィスリ社より刊行のもの。私が読んだ小学館版は2001年11月20日初版第一刷発行の抄訳版。角川文庫版や東洋文庫版が完訳らしい。
単行本ハードカバー縦一段組みで本文約259頁。9.5ポイント44字×19行×259頁=約216,524字、400字詰め原稿用紙で約542枚。標準的な長編小説の分量。
とっつきにくい印象のあるロシア文学とは思えぬほど、日本語はこなれていて読みやすい。親しみやすさは、翻訳者が豊富なアメリカ文学の平均を上回っている。話そのものも、探検旅行なのでわかりやすい。その上で、植物や動物や地形に詳しいと、更に迫力を増すだろう。
【どんな話?】
1907年の夏、著者アルセニエフら一行は、沿海州たシホテ・アリニ山脈の探検に出かける。ガイドは、馴染みのデルス・ウザラだ。経験豊かな猟師のデルスは、沿海州の密林では実に頼りになる。天候の変化や動植物の生態に詳しく、危険な野営地はすぐに見抜く。顔が広く、近隣の集落でも彼がいれば信用してもらえる。そして、森に生きる者として価値観も独特で…
【感想は?】
物語としては短いながら、ロシアで長い人気を誇るのもよくわかる。
いわゆる小難しいロシア文学とは、全くちがう。むしろハインリヒ・ヒラーの「セブン・イヤーズ・イン・チベット」のような、人里を遠く離れた秘境探検物語だ。比較的に植生が貧しいチベットと違い、こっちはシベリアの密林で、植物も魚も鳥も獣も豊かで、中には虎や熊や猪など獰猛なのもいる。とてもダイナミックで生命力に溢れているのだ。
もう一つの違いが、タイトル・ロールのデルス・ウザラ。地元ツングース系のベテラン猟師で、この地ではとても頼れる男。意図的に舌足らずに訳した彼の台詞は、物語が進むに従い大きな効果をあげてゆく。
人ってのは愚かなもので、舌足らずな話し方をする者は賢くないと思い込んでしまう。加えて冒頭では中国人に騙されたりと、ちと頼りなげに見えるデルス。それが森に入ると、知識の広さ,注意力の細やかさ,そして洞察力の鋭さに驚かされる。冒頭の引用は、野営地の跡を見て、どんな者がどんな風に野営したのかを当てる所。足跡一つから、彼がどれほど多くの情報を読み取ることか。
現代の日本に住んでいれば、生活に必要なものは大抵手に入る。夜だって、少し歩けばコンビニエンス・ストアがある。それがどれだけ恵まれているかは、冒頭で紹介されるデルスの取引で実感させられる。彼が獲物のクロテン二匹と引き換えに手に入れたのは、毛布・斧・鍋・湯沸し・薬莢、そして錐(はり)。つまり、当事の沿海州は、テントや衣服を繕う針すら、手に入らない環境なわけだ。
そういう環境で生きてきたデルスだから、大抵のモノは自分で作ってしまう。これは著者のアルセニエフも同じで、探検旅行に持ってゆくモノも冒頭に出て来て、錐・鉋・鑿・やすり・鋸など大工道具まで持ってゆく。「んなモン、何の役に立つんだ?」と思ってたら、ちゃんと役立つ場面が何度か出てきた。
なんというか、「旅行」という言葉の意味が、私が考えるのと全く違うのだ。基本的に行程は徒歩だし。時として、一日かけて4kmちょいしか進めない、なんて所もある。食料だって、多くは自前だし。
沿海州なんて寒そうな所に、どれほど獲物がいるのかと思ったら、とんでもない。ノロジカはしょっちゅう出てくるし、体重200kgを超えるヘラジカもいる。後半でデルスが披露するシカの調理法には、思わす涎がダダ漏れになる。とまれ、それだけ獲物が多けりゃ、ソレを狙うのは人ばかりじゃない。そう、虎も…。
ってな豊かな自然の描写に加え、その中で生きる人々の物語も、この本の欠かせない魅力。これがまたロシア・中国・朝鮮の国境が近いためかバラエティ豊かで、元から住んでいるターズ(韃子),最近の進出が著しい中国人と朝鮮人,ロシア人の入植者などが入り乱れてる上に、日本人の商人まで入り込んできている。
そんな人々の人生が、この本にはギッシリと詰まっている。特に心に残るのは、第九章に出てくる、狩猟小屋に独りで住む老いた中国人リ・ツンビンの物語。細長い指は、特別な育ちを感じさせる。そんな男が、なぜこんな辺鄙な所で独りで住んでいるのか。連続物のTVドラマなら、この場面だけでも泣ける回になるだろう。
かと思うと、意外と豊かな生活をしているロシア人の集落があったりする。馬や牛を多く飼っていて、「寒さの厳しい沿海州で冬の飼葉はどうすんの?」と思ったら、これが意外な事に…
旅行ってのは、才覚がモノを言う。一般に旅慣れた人ほど、荷物が少ない。オツムが軽いほど荷が重くなるのが旅行で、お陰で私はいつもヒイコラ重たい荷物を抱えている。軽装で出かける人に憧れるのだが、なかなかそうは行かない。これを実感させられるのが、やはり冒頭のデルスの言葉。
「貧しい猟師が逃がしてやった魚の恩返しで金持ちになるが、欲深い女房のせいですべてを失う話」に対する、デルスの感想が、あまりに見事。そういう生き方が出来る人には、やっぱり憧れてしまう。
ロシア文学というと、難しくてお堅い印象があるが、この作品は全く違う。未開の大地をさすらう冒険物語であり、意外と豊かで野生に満ちたタイガを描く風物詩であり、また人里離れたタイガの中で逞しく生きる人々の様々な人生のエピソードも面白い。山が好きな人、旅行が好きな人、動植物が好きな人、異郷や冒険に憧れる人なら、きっと楽しめる、ダイナミックな冒険物語だ。
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