東浩紀「クォンタム・ファミリーズ」新潮社
当事のネットは、何兆もの自律判断プログラムはダミーエントリやトラックバックスパムなどをばらまく一方、同じくらいたくさんの修正ボットや削除ボットが動き回り、どれが人間の書き込みでどれが機械の書き込みなのかはだれも区別できず、たいへんな混乱に陥っていました。
【どんな本?】
インターネットやサブカルチャーに親しむ新世代の批評家・東浩紀が始めて著したSF長編小説。2010年(第23回)三島由紀夫賞受賞のほか、SFマガジン編集部編「SFが読みたい!2011年版」でも、ベストSF2010国内編で堂々3位に輝いた。著者が得意とするSFやインターネット関係のネタを大量にまぶしつつ、幾つかの並行世界を交錯しながら渡り歩く家族を描く。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
2009年12月20日発行。初出は「新潮」2008年5月号・8月号・10月号・12月号,2009年2月号・4月号・7月号・8月号、「ファントム、クォンタム」として掲載したものに加筆修正。単行本縦一段組みで本文約368頁。9.5ポイント43字×20行×368頁=約316,480字、400字詰め原稿用紙で約792枚。長編小説としては、やや長め。
初の小説だが、元々が著述を手がける著者だけに、文章は思ったよりこなれている。ただ、読者によっては内容的に敷居が高く感じる部分があるだろう。詳しくは後で述べるが、結論を言えば、わからない所は「なんか難しい事言ってるな」ぐらいに思っていれば充分。あまし構える必要はないです、はい。
【どんな話?】
2009年3月、大学人文学部准教授で、若者文化を取り入れた著作で知られる葦船往人36歳が、米国でテロ容疑で逮捕された。国内線の航空機に爆発物を持ち込み、自爆テロを狙った模様。だが犯行の背景事情は不明で、テロ組織との接点も見当たらない。葦船の交友関係からも、政治的な傾向は見つからなかった。
捜査が難航し、拘置が長引く中、奇妙な噂が流れる。「葦船は秘密裏に帰国している」と。
【感想は?】
いろいろと難しい言葉や理屈が出てくるけど、つまりは家族、それもトーチャンの話。著者と同年代で、妻子がいる男性に向けた、応援歌だ。
道具立てがイロイロとややこしく、真面目な読者は煙に巻かれかねない。主な道具は、以下の4種類だろう。
- ブログや2ちゃんねるなど、インターネット、それも web関係の社会・用語。
- ドストエフスキーやフィリップ・K・ディックなどの小説やSF。特に村上春樹の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」。
- カントやデリダなどの哲学。
- 量子コンピュータを基盤とした並行世界理論。
1.~3. は、この世界に既にあるもので、4. は著者が独自に創造したもの。このうち、小説としてのテーマに関わるのは 2. と 3. で、1. と 4. は、テーマを成立させるための小道具、または味付けのための薬味だ。
この記事を書く前に、ちょっと他の書評を幾つか読んだ。多くの人が、4. の量子コンピュータと並行世界で苦労してる。ハッキリ言おう。量子回路とかは、わかんなくて構わない。それは著者のハッタリだ。物語中で果たす役割は、特撮ヒーローが叫ぶ必殺技の名前と同程度に思っていい。お話の筋書きとして大事なのは並行世界で、量子回路は並行世界を成立させるための小道具でしかない。ドラえもんの「どこでもドア」みたいなモンだ。
並行世界は、ちょっとややこしいが、これも難しく考えなくていい。この世界と似てるけど、ちょっと違う世界がある、その程度で充分。キモは、世界によって時間が違う事。別の世界では、この世界と少し違う歴史を辿り、かつ時間も28年ぐらい先に進んでいる。何故かは、深く考えない事。そういうモンだ、で納得しておこう。あまし深く考えるとボロが見えちゃうから。
で、私は上の 2. と 3. もよくわかんない人だ。いやSFは好きなんだが、村上春樹は風とピンボールと羊しか読んでないし、ロシア文学はサッパリだ。まして哲学なんて「何それ美味しいの?」な始末。
それでも、この小説は充分に楽しめた。娯楽小説としても、冒頭で読者をひきつける仕掛けが、なかなか巧妙。新聞社のウエブサイトの記事の引用、という形で、インターネットに淫している現代の我々が食いつきやすい「ブログ」「コメント」「炎上」「はてなブックマーク」などの言葉を散りばめ、物語へと誘ってゆく。「そんな餌で俺様が…」などと思いつつ、しっかり釣られてしまう。
この記事冒頭の引用にあるように、事実と嘘、人とボットの区別がつきにくいネットの状況も、やっぱり読者を惹きつける。と同時に、物語の中でも、ちゃんと意味があるのが面白い。メッセージの文字列が Hello, World! とか、クスグリも気が利いてる。ネットで繋がる、ちょっとイタい人たちにも、思わず苦笑い。私のブログにもコメント下さい←をい
などのサブカルっぽい道具立ては、中盤から終盤に向かうに従って背景へと退き、むしろ主人公の葦船往人36歳のイタさが前面に出てくる。
恐らく著者自身を投影したであろう葦船往人、物語の主人公にしては、かなり情けなくてみっともなくて見苦しい。正直、中盤までは、私は彼が嫌いだった。身勝手で小心でメンヘルで、おまけにスケベで変態である。いやスケベで変態なのは許すが(←をい)、身勝手で卑劣なのはいただけない。フィリップ・K・ディック原作の映画で活躍するアーノルド・シュワルツネッガーとか大違いだ。
が、最後の最後、彼が最もみっともなく開き直る場面で、彼の印象は一気にひっくり返った。うん、許す。身勝手でいい。卑劣でいい。自己欺瞞でも、イカれてても、構わない。それでこそオヤジだ。オヤジは、それでいいのだ。滅茶苦茶だけど、作中で問われる「35歳問題」への解としては、なかなか実際的で役に立つ…実も蓋もないけど。
釣って、釣られて、そうやって私たちは生きてゆく。それでいいんだろう、たぶん。
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