マット・リドレー「繁栄 明日を切り拓くための人類10万年史 上・下」早川書房 大田直子/鍛原多恵子/柴田裕之訳
「テクノロジーが楽しいという考えを持つのはほんの一握りの人に限られている。残りの人は変化によって落ち込んだり、苛立ったりするんだ」
――マイケル・クライトン「社会は転換期を迎えており、すでに古き良き時代は終わりを告げていると主張する人が絶対に間違っていると証明することはできない。しかし私たちの先人もみな同じことを言い、その理由は現在と同じく明白そのものだった」
――トーマス・バビントン・マコーリー、1830年
【どんな本?】
化石燃料の枯渇・地球温暖化・人口爆発など、人類の未来を脅かす危機は常に事欠かない。そこで、未来を占う前に、ちょっと過去を振り返ってみよう。歴史から何かを学べるかもしれない。
文明以前の人類が海辺に住むなら、きっと漁をしていただろう。漁師が一人だけなら、自分で銛を作り魚を取るだろう。でも数十人いるなら、一人ぐらい銛職人が欲しい。銛職人が何十人もいるなら、銛を作る道具を作る人も出てくる。
キーワードは道具?いいえ。問題は、船を作っても、銛職人は魚が手に入らない。銛職人は、銛の代償として、魚を貰わなきゃ食っていけない。逆に、魚が手に入るから、銛職人は職人仕事に専念できて、腕を上げられる。そして銛職人が集まれば、職人用の道具を作る仕事も成り立つ。いい道具はいい銛を作るのに役立ち、漁獲量も増える。
キーワードは、交換、そして分業と専門化だ。これを活発にすることで、人類は発展してきた…にも関わらず、なぜか知識人は将来を悲観し続けてきた。
交換という視点を通じて人類の歴史を俯瞰し、また分業と専業化を推し進めるもうひとつの要素、イノベーションとそれを産み育てる、または阻む要因を探り、「人類の未来は明るい」と主張する一般向け啓蒙書。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は The Rational Optimist : How Prosperity Evolves, by Matt Redley, 2010。日本語版は2010年10月25日初版発行。今はハヤカワ・ノンフクション文庫から文庫版が出てる。私が読んだのは単行本のハードカバー上下巻。縦一段組みでそれぞれ本文約243頁+約231頁=約472頁に加え、訳者あとがき4頁。9ポイント45字×17行×(243頁+231頁)=約361,080字、400字詰め原稿用紙で約903枚。長編小説なら2冊分に少し足りない程度。
翻訳物のわりに、文章は比較的にこなれている。内容も特に難しくない。世界史に詳しい人なら更に楽しめるだろうが、義務教育で古代の四大文明を習いボンヤリ覚えている程度でも、充分に読みこなせる。長い文章を読むのに慣れていれば、中学生でも楽しめるだろう。
【構成は?】
上巻
プロローグ アイデアが生殖するとき
第1章 より良い今日――前例なき現在
第2章 集団的頭脳――20万年前以降の交換と専門化
第3章 徳の形成――5万年前以降の物々交換と信頼と規則
第4章 90億人を養う――一万年前からの農耕
第5章 都市の勝利――5000年前からの交易
下巻
第5章 都市の勝利――5000年前からの交易
第6章 マルサスの罠を逃れる――1200年以降の人口
第7章 奴隷の解放――1700年以降のエネルギー
第8章 発明の発明――1800年以降の収穫逓増
第9章 転換期――1900年以降の悲観主義
第10章 現代の二大悲観主義――2010年以降のアフリカと気候
第11章カタクラシー――2100年に関する合理的な楽観主義
謝辞/訳者あとがき/原注
【感想は?】
愉快、痛快、爽快。あなたが初期のJ・P・ホーガンが好きなら、迷わずお薦めする。またはアイザック・アシモフやスティーヴン・ジェイ・グールドやリチャード・ドーキンスが好きな人にも。
解説から先に読む人もいるだろう。これがまた、とっても爽快なのだ。ここでは、パソコン用マウスを例に取り、最初のボール内臓から始まりLED・レーザー・コードレスと進歩を紹介し、こう結ぶ。「やがて、マウス自体が別のツールにその座を譲る日が来るかもしれない」。この予言が、既に半分ほど成就しちゃってる。
タッチパネルだ。パソコン用はこれからだけど、スマートフォンはタッチパネルが当たり前だし、携帯用ゲーム機にも使われている。タッチパネルの普及は、同時に利用者を爆発的に増やした。だって親しみやすいし、わかりやすいもんね。私の知人にも、昔はゲーム機を毛嫌いしてたくせに、今はスマートフォンを駆使して Google Map を使いこなしている人がいる。山歩きが好きなので、地図は必需品なのだ。
こういう人に市場が広がったお陰で、Twitter なども利用者が増えた。私のブログも、携帯電話やスマートフォンで見てくれる人が増えている。元々が自己顕示欲でやってるんで、お客さんが増えるのは素直に嬉しい。
なぜこんな事になったのか。その鍵が、「交換」だ、と著者は主張する。
漁師と職人が魚と銛を交換すれば、お互いが得をする。銛職人が増えれば、工具を作る商売も成り立つ。そうやって人が集まり交換が活発になれば、様々な専門職が発生してくる。やがて船大工も出てくるし、船の材料の木を取る樵が、樵の斧を作る鍛冶屋が、斧の材料を集める鉱夫が…
と、人が集まることで専業化が進み、新しい道具や技術が生まれ、人類の生活は便利になってきた。これを、膨大な資料によって検証したのが、この本だ。
ところが、世の中には、自給自足こそ理想的な生活と考える人がいる。まあ、ある程度までは、私も否定しない。余裕があるなら、実は生活(というより家事)って、楽しいのだ。特に料理は。けど、忙しい時は外食で済ませたいし、ラーメン専門店も行ってみたいし、大人数でドンチャンするのも楽しいし、自分じゃ作れない異国の料理も味わいたい。
趣味で自家菜園を耕すのは構わないけど、「昔に帰れ」ってのは、ちと違う気がする。特に、極端な環境保護論者が、石油文明をヒステリックに否定するのは、なんか納得いかない。これを、見事なデータで検証してるあたりが、すこぶる爽快で気持ちいい。
京都議定書(→Wikipedia)で有名な1997年の京都会議こと第3回気候変動枠組条約締約国会議(→Wikipedia)。あれのデモンストレーションで、「未来の交通機関」として、とんでもないシロモノが飛び出した。なんと、馬車だ。私はあれで、「地球温暖化の原因は人為的なもの」という説に対し懐疑的になった。その底には、感情的な機械排斥があるんじゃないか、と。この本では、トラクターと馬の比較が出てくる。
馬を育てるには土地が要る。1915年、アメリカは2100万頭の馬がいて、全農地の1/3を餌の栽培に使っていた。1920年、中西部の121万ヘクタール以上が未開墾だった。鉄道から130km以上離れていて、収穫物を荷馬車で運ぶのに5日以上かかり、それが穀物価格を押し上げるからだ。
こういう自然回帰派や悲観論の根底には、「昔は良かった」という幻想がある。私はこれをエデン幻想と呼んでいるが、別にキリスト教に限ったことではなく、例えば孔子は周時代を理想と考えていた。この手の幻想を粉々に打ち砕くのも心地よい。
カラハリ砂漠のクン族から北部のイヌイット族にいたるまで、現代の狩猟民族の2/3がほぼ絶え間なく部族間の戦争状態にあり、87%が毎年戦争を経験していることがわかっている。(略)たいてい成人男性の死因の30%ほどが殺人だ。
産業革命で多くの農民が労働者になった。なぜか。農家の生活より、都会の生活の方がマシだからだ。だが、当事の知識人は貧民街の悲惨さを問題にした。なぜ農民の生活は話題にならず、都市の貧民の困窮は問題になったのか。ロンドンに住む知識人は、田舎の農民の生活なんか知らなかったからだ。
こういう状況は、今でもあまり変わらない。新しく珍しい事柄は話題になるが、ありがちな事は話題にならない。一時期、話題になった狂牛病では、何人が死んだのだろう? なんと、166人だ。ちなみに日本の交通事故の死者数は、年間4千人を越えている。ここ数年、少しずつ減ってはいるけど。さて、あなたは、どっちが怖い?
常に流行る自然崇拝や悲観論を叩きのめし、人類の未来は明るいと断言する爽快な本。黄金時代のSFや、カール・セーガンなどの科学解説書が好きな人なら、きっと楽しめる。こういう本こそ、若い人に読んでほしい。
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