エレーヌ・ブラン「KGB帝国 ロシア・プーチン政権の闇」創元社 森山隆訳
「この際はっきり言っておこう。隠れた最高権力者KGBはロシアの本当の主である。KGBに比べれば、政治団体も大統領も官僚組織も議会も、ただの表看板でしかない」
――ハンス・ヒュイン、ドイツの政治学者・元外交官
「ブッシュとプーチンの違いを知っていますか?」
「前者は戦争をするために大統領になったのです。後者は大統領に選ばれるために戦争を始めたのです」「FSB、内務省、国防相、すなわち<力の機関>がクーデターを起こすわけがない。何の目的でクーデターを起こす必要があるのだ?実権を取るためか?実権はすでにわれわれの手にある。エリツィンを倒すためにか?その必要はない。我々を任命したのは彼だからだ!」
――ウラジミル・プーチン、1999年7月にコムソモリスカヤ・プラウダ紙の取材にて
【どんな本?】
ロシアの犯罪組織・政治学を研究する著者が、1991年のソビエト連邦崩壊から2004年のプーチン大統領再選までの、複雑怪奇で混迷するソ連・ロシア政界の概況を、KGB(現FSB)を中心に共産党・マフィア・オリガルヒなど他勢力との対立と共闘といった視点で解説し、ロシアの脅威について警鐘を鳴らす。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は KGB Connexion, Le Systeme poutine, by Helene Blanc, 2004。日本語版は2006年2月20日第1版第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約350頁+訳者あとがき4頁。9ポイント43字×17行×350頁=約255,850字、400字詰め原稿用紙で約640枚。長編小説なら、ちょい長めの分量。
文章は比較的にこなれている。ただ、内要はかなり理解しにくい。詳細は追って。
【構成は?】
はじめに
第一章 ソヴィエト連邦の終焉とその真実
第二章 新興財閥のロシア
第三章 チェチェン・シンドローム
第四章 エリツィン劇からプーチン劇へ
第五章 プーチン化されたロシア
第六章 KGB――レーニンからプーチンまで
第七章 ロシアとロシアに仕える人々
訳者あとがき/地図/文献一覧/年表/人名索引
【感想は?】
一言で言えば、おそロシア。
政治的な本だ。著者の政治的な姿勢もハッキリしている。「現在のロシアは(旧)KGBによる独裁に向かっている、フランス人よ注意せよ」だ。
そう、「フランス人よ」なのだ。これは、フランス人向けに書かれた本だ。内容の理解しにくさは、著者の政治的姿勢と、フランス人向けである事が原因だろう。
昔からフランスはロシアびいきだった。アントニー・ビーヴァー&アーテミス・クーパーの「パリ解放 1944-49」でも触れられていたように、特に思想界・知識人にロシアびいきが多い。英米に対抗するためと、隣の強国ドイツを牽制する目的もあるんだろうが、今でもNATO内じゃ独自路線で歩調を乱し、外交でも旧東側に理解を示したがる。
などの背景事情を、この本は全く説明していない。著者略歴でも、「CNRS(国立科学研究センター、→Wikipedia)の犯罪学・政治学研究員」とあるが、どの国の組織かを書いていない。「フランスに決まってるだろ、それぐらいわかれよ」的な姿勢だ。これは訳者や編集もそうなのだが、著者も似たような姿勢で、基本的な背景の説明を省略しているのが辛い。
本文でも、例えばエリツィンが鮮やかに登場したクーデター(→Wikipedia)を、重要なトピックとして取り上げている。「あの事件の真相はこうなんですよ」と、この本は解説しているんだが、肝心の事件そのものについて、私はよく覚えていない。「こう報道されましたよね」→「でも真相はこうなんですよ」ときて欲しいのだが、いきなり「真相は…」とくる。
著者はロシアの専門家だから、表向きの報道や事件の推移を詳しく知っているだろう。だが、読者がそうとは限らない。ロシアへの関心が高いフランスで、ロシアに関心を持つ知識人向けに書いたのなら、これでいいのかも知れない。でも、日本の一般人向けとしては、かなり不親切だ。
著者が自分の政治的メッセージに熱中するあまり、その背景となる基本事情の説明の必要性に考えが至らなかった、そんな印象を受ける。
とまれ、著者の熱情は、ひしひしと伝わってくるし、その懸念も陰謀論で片付けるには、ちと符合する事実が多すぎる。この本で名前が出てくる三人を Wikipedia で調べてみた。→ボリス・ベレゾフスキー、→アレクサンドル・リトビネンコ、→アンナ・ポリトコフスカヤ。
さて。現ロシア大統領のウラジミル・プーチン、Wikipedia にもあるように、元KGBだ。この本は、いかにKGBがロシアの実権を握るに至ったか、なぜ実権を握れたか、KGBは何を目論んでいるか、KGBの者とはどんな人間か、を語っている。権力を握る経緯は、ソ連のブレジネフ(→Wikipedia)時代に遡る。
「ブレジネフが国家元首になって以来、ソ連共産党は巨大な犯罪組織になってしまったということだ。当時、政府機関として正常に機能しているのはKGBだけだったから、自然にKGBが国家の役割を果たすようになった」
金と権力の亡者として腐敗した共産党は機能不全に陥り、KGBが実権を握り、組織は膨れ上がる。ペレストロイカ・グラスノスチは民間企業を立ち上げたが、その多くにはKGBが潜り込んでいた。「ソ連人の14人に一人(10人に一人とする専門家もいる)は、KGBのために諜報員または工作員として働いていたとされる」。
やがてゴルバチョフ政権時のソ連崩壊、東欧の独立、ロシア成立へと至る。東欧の独立を「不良債権の処分」のように分析しているのが面白い。
よくわからないのがエリツィン政権時の新興財閥(オリガルヒ)勃興で、マーシャル・I・ゴールドマンの「強奪されたロシア経済」によれば、共産党幹部や工場長がマフィアと組んで国家財産を強奪した、となっているが、著者はこれにKGBも一枚かんでいた、としている。
特に怖いのが、チェチェン関係。著者はプーチンが選挙対策に仕掛けたものだ、と主張し、モスクワ爆破事件(→Wikipedia)も「FSBとGRU(軍情報局、→Wikipedia)が共同で行った」と示唆している点。FSBは忠実なチェーカー(秘密警官、→Wikipedia)であるプーチンに権力を持たせるために、選挙対策として危機を演出した、という筋書きだ。
いずれにせよ、役人は腐敗しマフィアによって流通も麻痺しているロシアでは、国民の多くが強力なリーダーを望んでいる。プーチンも貧富の差を了解している。「われわれは貧乏人によって構成された裕福な国である」。そう、国は裕福なのだ。今だって、世界第二位の原油輸出国なのだから。だが、加工産業は低迷している。
これに対し、プーチンはどうロシアを改革し、どこを目指すのか。著者はこう語る。「私はマフィア絡みのオリガルヒだったロシアが徐々にKGB主導の民主・独裁主義に移行してゆくと考える」。個人崇拝も始まっている。「2000年の新学期に、サンクトペテルブルグの学徒に、プーチンの幼少時代に関する本が配られた」。今日もこんなニュースがある。ロシア新歴史教科書に「プーチン氏の章」、露紙→AFP。
最終章は、フランスにおけるロシアの工作を警告している。昔から共産党は各国で活躍していて、例えばスペイン内戦では、組織的に反乱軍側の義勇兵を集め、スペイン国内でも暗躍していた(アントニー・ビーヴァー「スペイン内戦1936-1939」、ジョージ・オーウェル「カタロニア賛歌」、川成洋「スペイン内戦 政治と人間の未完のドラマ」)。
などと素直に読んでもいいが、フランスを日本に、ロシアを中国に脳内変換して読むと、最近のキナ臭い情勢が更に怖くなったりする。いや当然、ロシアも日本で色々やってるんだけどね。
著者は明確に反プーチンの姿勢を打ち出している。それを意識しながら読もう。
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