ジュディス・L・ハーマン「心的外傷と回復 増補版」みすず書房 中井久夫訳 小西聖子解説
一般に思い込まれている「虐待の世代間伝播」に反して、圧倒的大多数の生存者は自分の子を虐待もせず放置もしない。多くの生存者は自分の子どもが自分に似た悲しい運命に遭いはしないかとしんそこから恐れており、その予防に心を砕いている。
【どんな本?】
戦場で生死の境をさまよった将兵,保護者からの虐待から生き延びた子供,収容所などで監禁・拷問された人,強姦の被害に遭った女性など、極限状況を潜り抜けた場合、人は精神の安定を失い、時として奇矯と思える行動に走ることがある。一般に心的外傷(PTSD、→Wikipedia)と呼ばれる現象だ。
それは歴史的にどのように認識・研究され、どのような対応がなされてきたのか。どんなメカニズムで、どんな症状を示すのか。どんな状況が症状を引き起こすのか。回復にはどんな治療や看護が必要で、どんな段階を経るのか。
豊富な症例と研究例に基づいて、主に治療や看護・支援に携わる者に向け、現代のPTSD研究・臨床の状況を俯瞰し、同時に倫理的・政治的な姿勢を鼓舞する。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は TRAUMA AND RECOVERY revised edition, by Judith Lewis Herman, M. D. , 1992。日本語版は1999年11月25道発行。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約393頁。9ポイント43字×19行×393頁=約321,081字、400字詰め原稿用紙で約803枚。長編小説なら長め~2冊分に少し足りない程度。
レイアウトが独特で、頁の上1/4~1/5ぐらいが別欄になっていて、各頁に1~3個、本文の要約みたいな短文を掲載してある。軽く長し読みするには便利なんだろうけど、本文をじっくり読もうとすると、微妙にリズムが崩れるんだよなあ。
専門家向けの本ではあるが、訳者は一般向けにも気を使っているようで、できるだけ専門用語は控える工夫をしている。が、それでも解離(→Wikipedia)や多重人格障害(→Wikipedia)など専門用語は残り、内容の深刻さも手伝って、読み通すには相応の覚悟と工夫が要る。
症状を引き起こす原因として、一見関係なさそうな従軍経験と強姦被害だが、「自分じゃどうしようもない危機的状況」って点は同じであり、症状も似た感じだし、世の中で生きる時に感じる難しさも似たようなモンだ。特に後半では全ての原因に共通する用語を使った説明がなされる。例えば「グループ」、これは似たような体験をした人が集まり話し合う集団を示す。
こういう一般的な言葉はモノゴトを正確に伝えるのには向いているが、ヒトの頭には入りにくい。もっと具体的な言葉で説明してくれないと、ピンとこない。そこで読者が軍ヲタなら、これを「退役軍人会」や「戦友会」と読み替えよう。社会運動に興味がある人なら、「○○被害者の会」や「○○被災者の会」でもいい。あなたが感情移入しやすい互助組織・団体を「グループ」に代入すると、本書はグッと切実なメッセージを伝えてくる。
【構成は?】
謝辞/序
第一部 心的外傷障害
第一章 歴史は心的外傷をくり返し忘れてきた
ヒステリー研究の英雄時代/戦争(外傷)神経症/性戦争の戦闘神経症
第二章 恐怖
過覚醒/侵入/狭窄/外傷の弁証法
第三章 離断
損なわれた自己/易損性と復元性/社会的支援の効果/社会の役割
第四章 監禁状態
心理学的支配/全面降伏/慢性外傷症候群
第五章 児童虐待
虐待的環境とは/ダブルシンク/二重の自己(ダブル・セルフ)/身体への攻撃/子どもが成人すると
第六章 新しい診断名を提案する
誤ったレッテル貼りとなる診断/新概念が必要となった/精神科患者としての被害経験者
第二部 回復の諸段階
第七章 治癒的関係とは
外傷性転移/外傷性逆転移/治療契約/治療者へのサポート・システム
第八章 安全
問題に名を与える/自己統制の回復/安全な環境を創る/第一段階を完了するには
第九章 想起と服喪追悼
ストーリーを再構成する/外傷性記憶を変貌させる/外傷性喪失を服喪追悼する
第十章 再結合
たたかうことを学ぶ/自分自身と和解する/他者と再結合する/生存者使命を発見する/外傷を解消させる
第十一章 共世界
安全のためのグループ/想起と服喪追悼のためのグループ/再結合のためのグループ
付 外傷の弁証法は続いている
解説(小西聖子)/訳語ノート/訳者あとがき/原注/人名索引/事項索引
【感想は?】
重たい。物理的にも、内容的にも、経済的にも(税抜き¥6,800)。
冒頭は、被害者より、それに対する社会の反応から始まる。これが怖い。世間は、どう反応するか。同情して手を差し伸べる?うんにゃ。「これを意識から排除することである」。つまり、「んな残酷な事が本当のワケないじゃん、責任のがれしたくてフカしてるんだろ」的な対応だ。
大抵の人は、面倒くさいんで傍観の立場をとる。ところが、ここで著者は読者の退路を絶つ。傍観は、加害者に都合がいいのだ。「この争いの中で中立的位置を維持することは倫理的に不可能である」と。そして、ヒステリーの原因と治療を巡る精神医学の歴史的な経緯の中で、フロイトの画期的な発表と、それに対する世間の憎悪に満ちた反発、そしてフロイトの転向のエピソードを紹介し、この問題は政治的なモノである由を明らかにしていく。
そうやって、著者は読者を倫理的・政治的な争いに引きずりこむ。実際、この本を巡っては、同意と反発、双方の陣営ともに強烈な敵意に満ちた論争になっていて、一種の宗教戦争に似た雰囲気がある。覚悟しよう。
さて。ここで面白いのが、ヒステリーという女性特有に思われる症状が、男性の戦争神経症とソックリである点。第一次世界大戦・第二次世界大戦、そしてベトナム戦争を経て、戦争神経症は世間に認知され、そして児童誘拐の被害者やヒステリーとの共通性も明らかになっていく。
全体は二部構成だ。前半は心的障害の症例を語り、後半は回復を語る。いずれも、「心的外傷」という形で、男性に多い戦争神経症と、女性に多い強姦被害を並列に語っている。著者はフェミニストを自認しているが、どうもソレは単純な「女性解放」的な意味合いより、性差を超えた「傷つき苦しむ者への共感」を多く含んでいるように感じる。
アメリカでPTSDが広く認知されたのはベトナム戦争であり、ソ連(ロシア)ではアフガン戦争だった。双方の共通点は、他国で戦って負けた戦争である点だ。勝った戦争じゃ世間は復員兵をもてはやすが、負けた戦争では冷たくあしらう。そう、映画「ランボー」のように。その理由を、本書は見事に要約している。
…被害者を取り巻く社会の人々は外傷の予後に影響力がある。周囲からの支持的な反応は事件の打撃力を和らげ、逆に否定的、敵対的な反応はダメージに上乗せされて外傷症候群を重症化するだろう。
復員後の冷たい世間の反応が復員した将兵の症状を悪化させ、表面化して社会問題と化した。復員兵に冷たかったのは第二次世界大戦後の日本も同じなのだが、世間もそれどころじゃなかった。この本ではグループ、つまり似たような体験をした人々が集まって話し合う組織・集団を適切に運営すれば回復に役立つとしている。日本の多くの戦友会(→Wikipedia)も、親睦を目的としながら、陰では互いの心を支えあう重要な役割を果たしているんじゃなかろか、などと思ってしまう。こんな記述もあるし。
友だちというのは午前四時に電話をかけて<ぼくは今45口径のピストルを口に突っ込みそうな気がする>と話せる奴のことだ。(略)わかってもわうにはやはりベトナム帰還兵でなくちゃ。(略)これでどーっと気がゆるみ、ほーっとするね。
ややこしいのが、「助けの必要を認めることが被害者の敗北感をつのらせることもある」点。語ることは回復の助けにもなるんだが、同時に誇りを傷つけかねない。そこで大義名分が必要になる。この本に何回か名前が出てくる小説家のティム・オブライエンなどは、それを巧く整合させている例だろう。
最近の精神医学は薬物を積極的に使う方向みたいで、本書も終盤近くでその効用を認めている。が、それでも回復には長い時間がかかる事と、また政治的な問題である点もくり返し強調される。症状が治療に当たる人に「伝染」する話も出てきて、素人が下手に手を出すと事態を悪化させかねない。
悲惨な境遇の人が次々と出てくるので、はっきり言って不愉快な本だ。だからといって、もっともらしい理屈で正当化し「この本は悪い本だ」などと不愉快な気分を正当化するのも、子供じみている。あまりに深入りすると気分が滅入るので、共感能力の豊かな人は、充分に心身の調子を整えて挑もう。
それと。軍ヲタなら、従軍記の読み方が変わるかもしれない。
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