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2012年12月23日 (日)

ケン・キージー「カッコーの巣の上で」冨山房 岩本巌訳

「いいかい、おれはこの病棟のいわば胴親になって、賭場をご開帳しようってわけだ。だからさ、とっととボスのところへ案内しろよ。ここでは、ほんとのボスが誰かをはっきりさせてやるんだから」

【どんな本?】

 1962年アメリカで発表されベストセラーとなり、その後1975年に映画化され、これも大ヒットした長編小説。婦長ラチェッドが隠然と君臨し、患者たちが去勢されたように卑屈に従う精神病院に、刑期逃れの仮病で入院してきた赤毛の男マックマーフィーが巻き起こす騒ぎを、古参で大男の入院患者ブルーム酋長ことブロムデンの視点で描く。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は ONE FLEW OVER THE CUCKOO'S NEST, by Ken Kesey, 1962。日本では1970年代に岩本巌訳で出版、その後1996年に同訳者により改訳・再販となる。私が読んだのは1996年6月22日の改訳版、第一刷。

 ハードカバー縦一段組みで本文約498頁。9ポイント45字×18行×498頁=約403,380字、400字詰め原稿用紙で約1,009枚。そこらの長編小説二冊分の大容量。やや時代を感じさせる言葉が出てくるが、文章そのものは意外と素直。ただ、妄想に囚われた精神病患者の視点で語られる物語なので、深読みし始めるとキリがない。

 なお、訳者による解説は堂々とネタバレしているので、気になる人は先に読まないように。

【どんな話?】

 その精神病院は婦長のラチェッドが静かに支配し、三人の黒人がその配下として患者を追い回している。大男の混血インディアンのブロムデンは口が聞けず耳も聞こえないフリをして、素直に掃除を続ける。手のかかる患者は電気療法やロボトミーで「協力的」になる。

 憂鬱な月曜日、その男はやってきた。赤毛のR・P・マックマーフィー。流れ者のギャンブラー、服役中の喧嘩で精神錯乱と鑑定され、作業農場での服役よりマシと考え入院してきた。明るく人懐っこいマックマーフィーは初日から「ここはおれが仕切る」と宣言し、「ボスは誰か?」と問う。そこで名乗りを上げたのは患者組合の委員長ハーディング。

 だが、本当に病院を仕切っているのは婦長のラチェッドだ。それに気づいたマックマーフィーは、毅然とラチェッドに立ち向かい、静かな病院を掻き回しはじめ…

【感想は?】

 激動の60年代の序章。できれば読む前に、著者について知っておいた方がいい。ヒッピーのハシリのような人で、セックス・ドラッグ・ロックンロールを地でいったような人だ。→Wikipediaのケン・キージー

 そういう背景を考えて読むと、これはまさしく「体制への反逆」の物語と読める。静かに病院に君臨し、医師すら己の思うままに動かし、規則によって病棟を精密機械のように管理する婦長ラチェッド。彼女の築き上げた体制に対し、羊のように素直に従う患者たち。その患者のサンプルが、語り手であるチーフことブロムデン。

 混血インディアンのブロムデンは大男だが、怯えきっている。耳も聞こえず口も利けないフリをして、用心深く日々をやりすごす。周囲の者も彼をナメkって、というよりほとんど無視している。他の患者も多かれ少なかれブロムデン同様に、素直に規則に従っている。

 そこに現れたマックマーフィー、最初のミーティングから本当のボスを見極め、鍛えたギャンブラーの目で計画を練り始める。

 ブロブデンがイカれているのは序段から明らかで、病棟が電子機械で管理されている・処方される薬には電子機器が隠されているなどの妄想に囚われている。つまりは「信用できない語り手」だ。だが、深く考えないで読んでいると、彼の妄想は統合失調症の被害妄想ではなく、世界の詩的な比喩じゃないかと思えてくる。

 訳者の解説もそんな立場で、病院は合衆国の小型模型であるかのような解釈だ。そういう視点で読むと、当事の「怒れる若者」の考え方が、少し見えてくる。これが、意外と(当事の感覚で)新しいものではなく、実は素朴で原点回帰的なのが面白い。

 性に注目してみよう。ここでは実社会と違い、女性である婦長ラチェッドが男性である患者を支配している。今気がついたが、患者は皆男性ばかりだ。このラチェッド、キッチリと事務的な装いをしながら、巨乳なのが皮肉。

 対するマックマーフィーは、野生のギャンブラーそのもの。言葉は下品で、性的な例えを多く使う。婦長が患者たちの「大切な玉」を突っつき出すと指摘する。パンツ一丁に帽子を被った姿で婦長の前にそそり立つ。この場面、私はプロレスラーのスタン・ハンセンを連想した。時代は違うが、彼のやっている事は男性性の誇示だ。

 「あなたたちのため」に規則で縛る婦長は、精神分析のユングっぽい言い方をすればグレート・マザーだろう。その支配力の凄まじさは、終盤近くのビリーの運命に現れる。

 そんな母親然とした婦長に飼いならされた患者たち。主人公ブロムデンも、その姓は白人の母親から譲り浮けたものだが、彼が思い出すのは偉大な酋長だった父親の事ばかり。そんな状況で、マックマーフィーは何を武器に立ち上がるのか。

 野生であり、男性性だ。まずは賭博で患者たちの勝負欲を刺激する。単純だが、確かに男はアツくなる。次に野球のワールド・シリーズ。これも野郎が浸る道楽だ。そしてバスケットボールで汗を流す。激しく体を動かせば気持ちが奮い立つ上に、闘争本能が目覚める。そして、仕上げは釣りだ。狩猟本能にまで火がつき、男の野生が復活する。

 機械と規律で支配された病院で、マックマーフィーは患者の野生を呼び起こして対抗しようとする。これに主人公ブロムデンの回想が重なってゆく。

 叛乱に立ち上がるマックマーフィーに、だが患者たちはなかなか同調しない。飼いならされた患者たちを、マックマーフィーは「ニワトリの突っつき」に例える。互いが監視しあい、足を引っ張り合って支配に迎合する状況を見事に表現する。毅然としたマックマーフィーを、患者たちは特別な者と見なし…

「あんたはいつも…勝ってばかりいる!」
「勝ってばかりだと、とんでもない」彼は目を閉じたまま言った。「呆れたね。勝ってばかりだと」

 最近はアニメでも等身大のヒーローが描かれたりするけど、マックマーフィーには特別な能力があるわけじゃない。マックマーフィーが感じていることは、果たして患者たちに通じるのか。

 つまりはラチェッドとマックマーフィーの対決の物語だが、それをどう解釈するか。支配 vs 自由、機械 vs 野生、女性 vs 男性、または 親 vs 若者か。ユング風にヒネって「死と再生の物語」などと解釈をしても面白いけど、ちと収集がつきそうにない。

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