百田尚樹「永遠の0」講談社文庫
「これって、もしかしたら奇跡のようなことじゃないかと思っている。戦争に行った人たちが歴史の舞台から消えようとしている、まさにこの時にこの調査を始めたことは、何か運命的な巡り合わせのような気がしてならないんだ。もし、あと五年遅かったら、宮部久蔵のことは永久に歴史の中に埋もれてしまったと思う。だから、ぼくはおじいさんんを知っている人すべての話を聞かなくちゃいけないと思っている」
【どんな本?】
放送作家として「探偵!ナイトスクープ」の構成などを手がけた著者の、デビュー長編。既に映画化が決定し、2013年の公開が予定されている。太平洋戦争の終戦間近、神風特攻隊の一員として南西諸島沖に散った一人の海軍航空兵の戦歴を辿りつつ、戦場の様子から従軍した将兵の戦中・戦後の生き様・死に様、そして戦中・戦後の日本を描く長編小説。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
2006年8月太田出版より単行本を刊行。私が読んだのは講談社文庫版で2009年7月15日第1刷発行、2011年4月12日19冊発行。売れてるなあ。縦一段組みで本文約569頁+児玉清の解説13頁。9ポイント38字×17行×569頁=約367,574字、400字詰め原稿用紙で約919枚。そこらの長編小説なら2冊分の容量。
読みやすさは抜群。一般に戦争物はややこしい軍隊用語や兵器名などがやたら出てきて一見さんお断りな雰囲気があるのだが、この作品は現代の若者を読者に想定したのか、読みながら自然と用語や仕組みに詳しくなるよう工夫が凝らされている。
【どんな話?】
司法浪人で26歳の健太郎は、フリーライターの姉・慶子から仕事を頼まれる。二人の祖母は最初の夫を戦争で失い、残された娘(姉弟の母)と共に今の祖父に嫁ぎ、二人の男児(叔父)を生む。この最初の夫で血のつながった祖父・宮部久蔵の人物像を調べてくれ、というのだ。敬愛する今の祖父に気を使いながらも、姉弟は宮部の戦友を訪ね、彼の戦歴と人物像を調べ始めるが、その過程で浮かび上がってきた宮部の人物像は意外なものだった。
「奴は海軍航空隊一の臆病者だった」
【感想は?】
小説「祖父たちの零戦」。
「テレビ屋が書いた小説ね、お手軽なお涙頂戴だろ」などとナメて読み始めたら、最初の頁からガツンとやられた。「あれ?何か違うぞ」と思い始め、いきなり「特攻隊ってテロリストらしいわよ」などと言われてカッとなり、次々と出てくる戦友たちの話に「参りました」と降参して以降は、著者に翻弄されっぱなし。
戦後生まれの書いた戦争物だ。これまでの戦争物はけっこう敷居が高くて、当事の陸海軍の組織や兵器について、ある程度知っている人向けに書かれている。が、この本は、そういった所がとても親切。最初の頁から、こんな感じ。
俺は空母「タイコンデロガ」の五インチ高角砲の砲手だった。俺の役目はカミカゼから空母を守ることだった。(略)
我々の5インチ砲弾は近接信管といって、砲弾を中心に半径50フィート(約15メートル)に電波が放射されていて、その電波が飛行機を察知した瞬間に爆発する仕組みになっていた。
それとなく近接信管について、わかりやすく説明している。以後も「操練」や「予科練」など組織的な用語から、海軍航空隊の職務内容、軍用機の種類と役割、当然ながら零戦の特徴と他の戦闘機との比較、そして優れた操縦士たちが生み出した戦術などについて、こと細かく、だが決して煩くない形で丁寧に説明されていく。
だからと言って「なんだ、トーシロ向けじゃん」などと侮るなかれ。最初の取材相手、長谷川梅男元海軍少尉の語る空戦の模様、そして彼が誇る「石岡の体当たり戦法」から、ニワカ軍ヲタの私は完全に脱帽してしまった。なぜ体当たりなのか。なぜそれが彼の異名となるのか。その意味がわかった時、彼の心中にあるものが少しだけ見えてくる。
姉弟の取材に対応する人の多くは、戦闘機乗りとして出陣し、生き延びた人が多い。それぞれ生い立ちや性格は違うし、宮部との関係も違う。腕自慢の人も何人かいるのだが、面白いことに、それぞれ得意とする戦術・戦法が違う。詳しい人なら、「あ、この人はあのエースがモデルだな」などと見当がつくだろう。
ばかりではない。進むに従って、実在のエースたちがひょっこり顔を出す。苔の生えた軍オタなら、思わず細かい粗探しに走ってしまうところだ。この作品は、単なる作り話ではない。綿密な調査の元に書かれた、ノンフクションに近い作品でもある。巻末の主要参考文献は、まんま推薦図書一覧として使えそう。
戦闘レベルに加え、戦術・戦略、そして帝国陸海軍の組織にまで視野を広げ、著者は当事の日本の社会の構造から、その問題点まで、容赦ない批判を浴びせる。実在人物や史実上の作戦の背景を充分に書き込んであるために、著者の政治的メッセージは鮮烈な印象を残す。
彼の政治主張は多岐に渡るだけに、全面的に賛同できる人は少ないだろう。一部は賛同できるが一部には反発を覚える、という人が大半ではないか。それでいいんだと思う。なにせ複数の国家にまたがる大きな問題だ。議論の土台となる事実を掘り起こすだけでも大変な仕事になる。多くの人が多くの立場で多くの論を張り、その過程で各員が戦争に関する知識と洞察を深めること、著者はそれを目論んでいるんじゃないか。
第五章で宮部が語る零戦の航続距離の話は、エンジニア諸氏には耳が痛かろう。製品は、どうしようもなく組織の性格を反映してしまう。
などという戦争物としての魅力もあるが、同時に「あの時代」を生きた人々の物語でもある。宮部久蔵という人物を縦糸に、彼に絡まる様々な人々は、なぜ従軍し、どんな気持ちで戦地に赴き、戦ったのか。死の危険があると分かっていて、なぜ軍に志願したのか。特攻隊は、テロリストと同じなのか。「国のため」と、本当に思っていたのか。
次第に浮かび上がってくるのは、「戦死○○名」などと語られる数字の実態は、それぞれが人生を抱えた一人の人間だ、という当たり前の現実だ。当たり前ではあるが、それぞれの生まれと育ち、そして戦後の人生が加わると、全く重みが違ってくる。
物語は冒頭から姉・慶子の結婚話に始まり、幾つかのロマンスが作中で展開される。これがまた、なんとも泣かせるんだ。私が好きなのは、元海軍整備兵曹長・永井清孝。ビンボくさいオッサンとオバサンの色気のないラブシーンで、なんでこんなに泣けるんだか。
語りの圧巻は、元海軍上等飛行兵曹・景浦介山。元ヤクザのこの男、いきなり「俺は宮部が大嫌いだった。それこそ虫唾が走るほど憎んでいた」と一発かましてくる。そこから始まる彼と宮部の物語、そして景浦という男の人物像。素直に読んでも、腐った目で読んでも、感涙必至…と思ったら、やっぱり食いついてる人はいるのね。そりゃそうだわなあ。魅力的だもんね、景浦。
姉妹の祖父・宮部久蔵とは、いかなる人物なのか。彼と祖母の関係は。なぜ「臆病者」の宮部が特攻に出撃したのか。読み終えて再読すると、各登場人物の言葉が、最初とは違った意味で響いてくる。一気に読ませる娯楽作にして、再読に耐える傑作でもある。
ただし。決して通勤電車の中で読んではいけない。
追記:
宮部久蔵のモデルをお探しの方は、こちらの頁が参考になるでしょう。
→『永遠の0(ゼロ)』100万部突破と、百田尚樹さんの回想
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