F.W.クロフツ「樽」ハヤカワ・ミステリ文庫 加賀山卓郎訳
ワイン樽よりやや大きい。高さは3フィート6インチ(約1メートル)、直径は2フィート6インチ(約80センチ)近い。すでに触れたように、並外れて頑丈に作られていて、折れた部分から判断すると、樽板の厚さは2インチ(約5センチ)はある。それほどの厚さのものをまげるのはかなり骨が折れるのだろう。樽というより円筒に近く、その結果、上下の蓋は異様に大きい。
【どんな本?】
1920年にイギリスで発表された、ミステリ作家F.W.クロフツ(→Wikipedia)のデビュー作。樽に詰められた死体と金貨を巡り、ロンドンとパリにわたる「誰が・いつ・どこで」を巡る謎と、それを追う警察と探偵を描く、本格派推理小説の古典にして定番といわれる作品。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は THE CASK, by Freeman Wills Crofts, 1920。日本には1935年から紹介されているが(→Wikipedia)、私が読んだのは2005年1月31日発行のハヤカワ・ミステリ文庫版。文庫本縦一段組みで本文約487頁に加え、森英俊の解説「すべてはそこから始まった」12頁を収録。もちろん、解説はネタバレしていないので、先に読んでも大丈夫。本作出版の背景などを紹介しているので、詳しくない人には格好のガイドとなる。8.5ポイント40字×18行×487頁=350,640字、400字詰め原稿用紙で約877枚の大作。
訳文は今読むと「やや上品」な印象があるうが、これは作品発表の時代を意識した意図的なものかも。それより、重要なのは、イギリスとフランスの地理と、当事の旅行事情。なにせテーマが「誰が・いつ・どこで」だ。ロンドン←→パリ間の人とモノの移動・輸送経路と、その所要時間に詳しいほど、楽しみが増す。
【どんな話?】
ロンドンの埠頭に荷揚げされた樽の一つが破損し、中からソヴリン金貨21枚と女性の手が出てきた。他のワイン樽とは違い異様に重く頑丈だ。荷札も妙で、中央部分が切り取られ、荷受人の住所は裏から貼られた別の紙に書いてある。運送会社社長エイヴリーと担当のブロートンはロンドン警視庁に報告するが、そのスキに樽は荷受人のフェリックスに持ち去られてしまう。捜査を担当するバーンリー警部は聞き込みを始め…
【感想は?】
とことん辛口のミステリ。テーマを「誰が・いつ・どこで」の謎解きに絞り、その分、登場人物は恐らくは意図的に月並みな人物に描き、プライベートな描写は小説として成立するのに必要な最低限に抑えてある。例えばバーンリー警部が独身か既婚かすら分からない。なんか独身っぽい。
なんたって、肝心の探偵役まで次々と交代する始末だ。最初はロンドン警視庁のバーンリー警部、第二部に入るとパリ警視庁ルファルジュ警部との合同捜査となり、第三部では私立探偵のジョルジュ・ラ・トゥーシュへとバトンタッチする。私立探偵が出てくるんだから官警 vs 探偵となるかと思いきや、バーンリー,ルファルジュ両警部は、ほぼ完全に退場してしまう。なんという潔さ。あくまでテーマは謎解きで、人物の魅力で読者を引っ張る気はまったくない模様。
だいたい、書名からして素っ気無い。「樽」だ。読めば、まさしくテーマそのものを示しているのとわかるのんだけど。死体が入った樽が発見される。樽は特別なシロモノで、事件の前後、複雑にロンドンとパリの間を行き来している。「誰が・いつ・どこで」死体と金貨を詰めたのか、その謎を解き明かすのが物語の主題。
現代日本の読者にとって、これは少々敷居が高い。何せ当地の地名がホイホイ出てくるし、鉄道・水運事情が密接に関係してくる。現代日本の鉄道は東京駅中心になりつつあるが、中央線の下りは新宿発が多いし、東北線や上越線は上野発もある。当事のロンドンやパリはもっと徹底しているらしく、行き先によって北駅やサン・ラザール駅など様々な駅を使いわけている。この辺の事情が飲み込めてないと、肝心のトリックがよくわからない、というか、私はわからなかった。
もうひとつ、重要なのが時代性。1920年、日本の年号だと大正九年。第一次世界大戦が終わった直後で、国際連盟が発足した年。この当事、ロンドン・パリ間の旅行事情は、というと。物語中でパリからロンドンへ向かう場面の会話を拾ってみよう。時刻は午後の早い時間。
「行かなければならないのなら、すぐに発ったほうがよさそうだ。今晩海峡を渡り、ロンドン警視庁に、そうですね、明日11時にうかがいます」
所要時間はだいたい丸一日。地図で見ると、パリ・ロンドン間は直線距離で約350km。日本だと東京・京都ぐらいの距離。実際の移動距離は約500~600kmほどか。パリから鉄道でカレーまで行き、船に乗り換えイギリスのドーヴァーで上陸、再び鉄道でロンドンまで、というのが距離・時間ともに最短かな?あ、それと、この物語に空路は出てきません、念のため。そういう「珍しいガジェット」を使ったトリックではなく、至って(当事の感覚では)常識的な手段によるもの。
最近の高村薫などと比べると、人間関係の葛藤もほとんどない。ロンドン・パリの合同捜査にしても、妙な縄張り争いのような記述は全くなく、バーンリー警部&ルファルジュ警部のコンビもスムーズにチームを結成する。両名共に職業的な経験を活かした技巧には優れているものの、基本的には地道に足で手がかりを拾っていくタイプ。著者の関心はあくまで「謎を論理的に解明する」点にあり、人間の内面には踏み込まない。
その分、謎解き関係のネタは豊富で、なんと靴跡のイラストまでつけるサービスぶり。中盤では「今までにわかった手がかり」を箇条書きにしてリストアップしてる。捜査線上に浮かんでくるちょっとした機械や、その運用法も重要な意味を持っていたりして、こういった所は、本職の鉄道技士らしい几帳面さというか、エンジニア魂が炸裂してるなあ、なんて気分になる。
肝心の謎は、「おお、言われてみればそうだよね」という、至って常識的な、だが充分に読者の意表を突くもの。ミステリとしてはとことんフェアで、かつ堂々としたトリックだ。小説としては地味だけど、「とにかく謎解きが好き」で、メモを取りながら読むのも厭わないコアな人向け。
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