H・F・セイント「透明人間の告白」新潮社 高見浩訳
「残念ながら、話すことはなにもないね。きみの目に見えることがすべてさ」
【どんな本?】
ニューヨークに住み、ウォール街で働く証券マンが、事故に巻き込まれ透明人間になってしまった。便利だって?とんでもない。職場には顔を出せない、買い物もできない、楽しいパーティーもおあずけ、綺麗な女性も口説けない。現代のニューヨークで透明人間が生き延びる方法を真面目に、でもユーモアたっぷりに考察した、新人作家の異色のデビュー作。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は Memoirs pf An Invisible Man, by H.F. Saint, 1987。日本語版は1988年6月15日初版発行、私が読んだのは1991年11月25日の15刷。売れたんだなあ。今は新潮文庫と河出文庫から上下巻で文庫本が出ている。単行本縦二段組で本文約456頁+訳者あとがき5頁。9ポイントに10%ぐらいの扁平をかけた感じで26字×23行×2段×456頁=545,376字、400字詰め原稿用紙で約1364枚。長編小説二冊分ぐらいの分量。
翻訳物の小説としては、標準的な読みやすさ。SFとはいっても、小難しい理屈は出てこないのでご安心を。一部ソレっぽい記述はあるけど、「なんかハッタリかましてるな」程度に思って読み飛ばそう。本筋とは関係ないんで、何の問題もない。
【どんな話?】
ニック・ハロウェイはニューヨークに住む独身の証券アナリストだ。最近はニューヨーク・タイムスの美人記者アン・エプスタインにご執心で、昨夜やっと思いを遂げた。今日は彼女を誘ってマイクロ・マグネティックス社の発表会に行く。ところが何やら事故がおき、ニックは透明人間になってしまった。さっそく政府か軍だかの連中が現場を隔離し、ニックを「保護」しようと取り巻き始める。そりゃ透明人間は諜報じゃ便利だろうけど、モルモットになるのは御免だ。なんとか逃げ出したが、さて、どうやって自宅まで戻ろう?
【感想は?】
世の男性なら、一度は透明人間に憧れるだろう。いろんな所を除き放題だし。でも、落ち着いて考えてみよう。実は、色々と不便なのだ。マスコミにバレて客寄せパンダになったり、政府にバレてモルモットになる覚悟があるならともかく、一般人として生活がしたいなら、実はいろいろと不便なのだ。
まず、物がもてない。透明人間が物を持って歩くと、物が空中を動いているように見える。大騒ぎは必至だ。それじゃ、買い物だってできない。食料も買えないんじゃ、飢え死には確実。ニックは証券会社で働いてるけど、職場に顔も出せやしない。そもそも、普通に道を歩くのさえ困難で…
ってな感じに、現代のニューヨークで透明人間が生きていくための困難を、徹底的に誠実かつ現実的にシミュレートしたのが、この作品。その姿勢は誠実そのもので、透明となった場合の日常生活の困難さを、とことん下世話かつ生活感たっぷりに突き詰めていく。
お話を面白くしてるのが、ニックを追いかける政府の諜報機関の存在。ニックをモルモットか秘密スパイに仕立てたいらしく、しつこくしぶとく追いすがってくる。お陰でニックは自宅を追われ、ニューヨークでサバイバル生活を余儀なくされる。これがまた、ニューヨーカーである著者の特色がよく出ていて、少し変わったニューヨーク案内としても楽しめる。
このお話の場合、ニックは着ていた服や靴も一緒に透明になる。そのため、一応は服を着て出歩けるのだが、今着ている服以外を着たら、世間じゃ怪奇現象扱いされ大騒ぎになる。それが嫌なら、一張羅の着たきり雀で過ごさなくちゃいけない。他にも困難は次から次へと立ちふさがり、例えば髭はどうやって剃る?鏡を見たって、剃刀が空中を動き回ってるだけだし。
…などと生活上のこまごまとした事柄が、キッチリ書き込まれているのにはひたすら感心するばかり。車の運転も気をつけなきゃいけない。無人の車が動いてたら大騒ぎだ。じゃ公共交通機関を使えばどうかというと、これもまた大問題で、下手に人の体に触れたら大変な事になる。ってんで、あまり混んだ乗り物には乗れない。そもそも道を歩く事すら難しい。向うから人が歩いてきても、相手にはこっちが見えないから、こっちが避けなきゃいけない。前から来るのはなんとかなっても、後ろから走ってくる奴は…
などと透明人間がニューヨークで行きぬく難問を描くこの作品、このテーマを巧く生かしているのが、ニック・ハロウェイの人物像。ニューヨークをよく知る若い独身の証券アナリストで、特に宗教や政治的な拘りもない。適度にスケベで適度に愛想よく適度に職務熱心。売り買いは比較的保守的で業界の汚い所も知っており、それに対し開き直りもしなけりゃ憤りもしない。やや豊かな普通の人で、ニューヨークの群集に入れば目立たない、ある意味「社会的に透明」な人。
このため、お話は教条的にも政治的にもならず、徹底して「透明人間がニューヨークで生きていくには」というテーマを純粋に突き詰める形になり、読者の親近感を増す結果となった。
なにせ、最初の戸惑いから感心してしまう。透明人間が目を閉じたらどうなるか?意味がないのだ。目を開けているのと同じ。なぜって、まぶたも透明だから。わはは。
この辺、科学的に考えると少しアレで、実は透明人間は目が見えない。目に入る光を色覚細胞が捉え、それを視神経が脳に伝える事でモノが見えるんだから、目に入る光を完全にスルーしちゃったら、色覚細胞は何の反応も起こさず、脳に何の信号も伝わらない。でも、そーゆー所は突っ込まないのがお約束。
著者は真面目かつ誠実にシミュレートしてるけど、雰囲気は決して堅苦しくもなければ、絶望的でもない。これもニック君の人柄で、基本的に楽天的で前向き。タフガイ気取りもなければ使命感に燃えてもいない。女性の豊かな胸には未練たらたらだし、冷たいビールも大好き。ただ、人とおしゃべりできないのは寂しくて…
新人作家らしく、やや冗長な感があって、それがこの作品の最大の欠点。もうちょい絞って半分ぐらいの長さにすれば傑作なんだけどなあ。
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