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2012年8月 6日 (月)

マイケル・B・オレン「第三次中東戦争全史」原書房 滝川義人訳

「イスラエル政府は、戦争に特定のゴールを設定したことはない。それは、ボトムアップの形で出てくる。軍から政治のトップへあがっていくのである。戦後になって初めて、政府が戦果を丸で囲み、これが政府のもともとの目的であった、と宣言するのである」  ――イスラエル軍作戦部長(当時)レハバム・ゼービ

【どんな本?】

 1967年。ソ連を後ろ盾とするシリアはイスラエル北部への砲撃を続け、イエメンに足を取られているように見えたナセルのエジプトはシナイ半島に大戦力を展開、国連緊急軍を退去させてチラン海峡を封鎖する。トランス・ヨルダンのフセイン国王は武力衝突を避けようとするが、その穏健な方針はパレスチナ系を中心とする国民の不満を呼び、王制の危機を迎える。

 ベトナムで足掻くアメリカのリンドン・ジョンソンはイスラエルへの支援には消極的であり、フランスのド・ゴールも戦闘機の引渡しを遅らせる。ファタハのテロはやまず、イスラエル政府は窮地に追い込まれるが、政府内でも開戦派と慎重派は互いに譲る気配を見せない。

 イスラエルは予備役を動員してシナイ方面を中心に防衛体制を固めるが、動員による経済負担は大きく、国庫の破綻が次第に迫ってくる。合衆国が提案する、多国籍船団によるチラン海峡通過計画「紅海レガッタ作戦」は西側諸国の協力を得られず、暗礁に乗り上げる。

 懸命の努力を続けたイスラエル首相エシュコルは、決断を下す。

「私は行動の時が来たと確信する。私は国防軍に対し、行動開始時と方法を決めるよう命令をくださなければならない」

 国際的には孤立無援の立場であり、兵力でも圧倒的な劣勢でありながら、たった六日間でイスラエルがエジプト・ヨルダン・シリアの三方面を相手に戦史上稀に見る圧勝を納めた六日間戦争こと第三次中東戦争。その背景と経緯、そして戦闘の様子を、元イスラエル防衛軍士官で駐米大使の著者が、多くの資料と取材により再現する。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Six Days of War : June 1967 and the Making of the Modern Middle East, by Michael B. Oren, 2002。日本語版は2012年2月5日初版第一刷発行。単行本で縦一段組み、本文約561頁+インタビュー(マイケル・オレン×ファド・アジャミ)15頁+あとがき6頁+訳者あとがき4頁+索引12頁+資料・脚注・参考文献95頁。本文だけなら9.5ポイント48字×20行×561頁=538,560字、400字詰め原稿用紙で約1347枚。長編小説なら2~3冊分。

 一つの戦争を描く本としては、訳もこなれていて、意外と読みやすい。ただ、一部、地図と本文で地名の表記が異なっている。軍事的な知識はあまり必要ないが、中東の歴史や地理、そして当事の世界・中東情勢がわかってないと、今の若い読者には辛いかも。例えば、当事のイランは王制で親米。

【構成は?】

 謝辞/まえがき
第1章 背景
第2章 触媒
第3章 危機
第4章 秒読
第5章 戦闘 第一日目、六月五日
第6章 戦闘 第二日目、六月六日
第7章 戦闘 第三日目、六月七日
第8章 戦闘 第四日目、六月八日
第9章 戦闘 第五日目、六月九日
第10章 戦闘 第六日目、六月十日
第11章 余波
 巻末付録 インタビュー(マイケル・オレン×ファド・アジャミ)
 あとがき/訳者あとがき
 索引/資料と表記について/脚注/参考文献

【感想は?】

 著者の経歴のためもあり、全般的にイスラエル寄り、というか、イスラエル軍の視点で見た第三次中東戦争、といった印象。例えば政治的な方面では、イスラエル政府内部の意見対立などは資料に基づいて詳しく書かれているのに対し、シリアの内部情勢は大雑把。まあ、その最大の理由は、アラブ側の資料はあまり公開されていないから、なんだけど。とまれ、エジプトやシリアの前線で戦った将兵の言葉も載っているので、できる限り多くの視点から資料や証言を集める努力をしている模様。

 内部事情を最も詳しく書かいてあるのはイスラエル。それに次ぐエジプトは、ナセルとアブダル・ハキム・アメル元帥。(トランス・)ヨルダンは一貫してフセイン国王の視点が中心で、シリアは外側から伺うかんじ。周辺国としてはアメリカが最も詳しく、ついでソ連。

 開戦までの4章は、息詰る緊迫感で胃がもたれる。周辺四国から締め上げられ、しかもエジプトとシリアのバックにはソ連がついている。アラブの流儀でマスコミに載るニュースの言葉はやたらと勇ましく、今日にでも攻めてきそうな按配。ただ、幸いにして、互いに連携を欠き足の引っ張り合いにも熱心。こういう所は、ラップの世界に似ているかも。

 鳥井順の「中東軍事紛争史Ⅲ」ではナセルの意図が判然としなかったが、この本ではアメルとの確執やイエメンでの苦戦による面子の泥をすすぐため、のように読める。もう一つ、エジプトで異様に思えたのが、シナイでの陸軍の壊滅の原因。この本では、その責任の多くをアメルに帰している。

 まずは軍内の指揮系統の混乱。当初のナセルの意図は防御的なもので、シナイ半島に戦力を集めチラン海峡を封鎖、イスラエルの第一撃を待って叩く、というもの。アメルはナセルの片腕と言える立場だが次第に独走がちになり、この際も参謀本部を通さず部隊をシナイへ移動させる。参謀総長まで任務を知らなかった、というから酷い。当初は防衛計画だったのが、アメルの独走で攻勢計画になり、前線の部隊は無秩序に次々と移動命令を受ける…目的は明かされずに。

予備兵やイエメンからの帰還兵など数万の人間が、シナイへ陸続と流れこんでいた。その多くは牛車に乗り、銃はおろか軍服もないみすぼらしい姿で、飢えを訴えていた。

 更にアメルは指揮系統をいじり…

最高司令部から第一線の現場に命令が届くまでに、六人をくだらぬ上級将校の手を経由しなければならなかった。そして、その要所要所には、例によってアメルの縁故者やとりまきが配置された。

 対するイスラエル軍、「軍は形式的なところがなく、敬礼とか隊伍を組んだ行列とは無縁の存在」で「下級将校でもその場で重大な決心をすることができた」。ま、実際、「指揮官先頭が常」なため指揮官の死傷率が高く、指揮権の委譲が異様に多いのもIDFの特徴。

 開戦時、イスラエル空軍は保有機200機あまりのうち「ジェット機のうち十二機を残して全機投入」。「平均三回、時間が許せば四回攻撃したが、第一回は爆撃、それ以外は地上掃射」。「攻撃の優先順位は、第一が滑走路破壊、その次がイスラエルの都市攻撃能力を持つ長距離爆撃機、第三が戦闘機の地上撃破」「最終目標が、ミサイル、レーダーそして支援施設」。対空戦力が最後なのは意外。

 これでエジプト空軍は壊滅。呆気にとられたのはイスラエルも同じ。「飛行一個中隊だけでひとつの航空基地を制圧し、完全に破壊できるとは、考えもしなかったのである」。空軍で特に対照的なのが帰投してから再出撃までの時間で、イスラエル8分エジプト8時間。

 エジプトは混乱、アメルは酩酊。ナセルは英米直接関与のデマを流す。地上戦ではネゲブ進撃をニュースで流しつつ、シナイの部隊には「極めて無秩序な一斉退却を命じた」。慎重に準備した防衛計画は破綻、総崩れとなってスエズへと将兵は雪崩れ込む…まあ、死守命令よりはマシか。アメルは将兵を残し峠とスエズの橋の爆破を命じる。スエズの対岸では「女達が列を作り立ちつくしていた。息子の安否を気遣い全土から集まってきた母親たちである」。

 四日目になるとイスラエル空軍には「無傷鹵獲のため、敵車両の破壊を中止せよ」なんて命令まで出る。五日目にはゴラン高原占領を目指しイスラエルはシリアにも進撃、国際圧力が高まる中、時間との競争でしゃにむに前進を続ける。

 この本で初めて知ったのが、戦後アラブ諸国でユダヤ人迫害がおきたこと。例えばエジプトには四千人のユダヤ人がいたが800名が逮捕された上に「資産を政府に差し押さえられた」。「全部で700名のユダヤ人が、アラブ諸国から追放された。多くの人がリュックだけで追い出されたのである」。

 この後、アラブではイスラムを核とした連帯が始まり、その一部は過激化して911へと暴走する。エジプトはムバラクの穏健政策を経由して、今は岐路に立っている。ヨルダンは黒い九月を経て、今はアメリカとアラブの仲介役として貴重な存在となった。シリアは…唯一、スエズの対岸で息子の安否を気遣う母親たちの場面が平和の希望って気がするんだが、どうなんだろ。

 前半は神経をヤスリで削られる政治劇、中盤から後半にかけては、むしろドタバタ喜劇としか思えぬほどのイスラエルとアラブ側の対照的な戦闘。リバティ号への誤爆の詳細も含め、圧倒的な量に相応しい充実した内容の本だった。

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