ブライアン・カプラン「選挙の経済学 投票者はなぜ愚策を選ぶのか」日経BP社 長嶺純一・奥井克美監訳
本書は民主主義がいかに失敗するかについて、これまでとは違った議論を展開していく。その基本となる考え方は、投票者は無知よりもさらにたちが悪いというものである。
【どんな本?】
著者は経済学者でリバタリアン、つまり「小さい政府」を信奉し、特に経済政策では規制緩和を主張する立場。
一般に民主主義だと、投票者は自分が最も得をする政策を支持すると思われている。が、現実には、(主に経済的な面で)投票者に損をさせる政策が支持される場合も多く、実際に採用され投票者に損をさせてきた。
この現象の原因を、従来の経済学者は「投票者は自分じゃ合理的な選択をしていると思っている、だが無知だから選択を誤るのだ」と説明してきたが、著者はこれと異なった意見を主張する。投票者は「敢えて自分が損をする選択をするのだ」、と。
そんな事がありえるのか。具体的には、どんな現象なのか。どうやって、その現象を証明したのか。それはどんなメカニズムなのか。そして、どうすれば改善できるのか。
「民主主義には重大な欠陥がある」と告発する、刺激的で挑戦的な本。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は The Myth of the Rational Voter: Why Democracies Choose Bad Policies, by Bryan Caplan, 2007。日本語版は2009年6月29日第一版第一刷発行。ハードカバー縦一段組みで本文約400頁+訳者あとがき11頁。9ポイント42字×18行×400頁=302,400字、400字詰め原稿用紙で約756枚。長編小説ならやや長め。
はっきり言って、読みにくい。問題は三つ。まず、経済学や統計学に疎い者には難しい内容であること。これは、まあしょうがない。次に、経済学用語の「外部性」や統計用語の「回帰分析」などの専門用語を、何の説明もなく使っていること。せめて用語解説をつけて欲しかった。そして最後に、これが最大の問題なのだが、悪文であること。詳しくは後述。
【構成は?】
まえがき
序章 民主主義のパダドックス
第一章 集計の奇跡を超えて
第二章 系統的なバイアスを含んだ経済学に関する思い込み
第三章 米国民と経済学者の意識調査(SAEE)
第四章 古典的公共選択と合理的無知の欠陥
第五章 合理的な非合理性
第六章 非合理性から政策へ
第七章 非合理性と供給サイドから見た政治
第八章 市場原理主義 vs. デモクラシー原理主義
終章 愚かさ研究の勤め
各章の注/参考文献/訳者あとがき
序章と終章以外の全ての章は、章末に「まとめ」がついてる。つまり「わかりやすさ」に、配慮はしてるんだよなあ。
【感想は?】
内容は挑発的でエキサイティング。気に入るか腹を立てるかは、人によるけど。
というのも。著者はリバタリアン(→Wikipediaのリバタリアニズム)だから。「大抵の事は政府より市場の方が巧くやる、例外もあるけどね」ってな立場で、保護貿易・価格統制・最低賃金に反対し、移民受け入れ・企業の業務効率化による大量解雇を歓迎する立場。詳しくはウォルター・ブロック「不道徳教育 擁護できないものを擁護する」をどうぞ。そういう著者の姿勢を、「言語道断で全く話にならない」と考える人には、不愉快な本だろうから、近寄らないが吉。
もうひとつ、気になるのが、文章が凄まじく読みにくい点。いや、著者は努力してるんだ、いろいろと。
各章の末尾に「まとめ」をつけたり、時折グラフを入れたり、読者が実感できる例え話を入れたり。けど、文章をわかりやすくする、至極基本的で簡単な技術が欠けている。そのくせ美文にしようと変に文章をこねくりまわすから、かえって酷い文章になってしまう。とりあえず 二重否定を肯定形にするだけでも、だいぶ違う。
訳者は監訳者を含め六人。皆さん経済学の専門家であり、著述の専門家ではない。恐らく「わかりやすさ・親しみやすさ」より、「正確さ・原文に忠実であること」を優先して翻訳したんだろう。だが、「投票者に経済学の知識を普及させよう」が、著者の主張のひとつだ。「不道徳教育」のように超訳しろとまでは言わないが、もう少し素人にとっての「わかりやすさ・親しみやすさ」に配慮して欲しかった。
ではあるけど、内容はいろいろとエキサイティング。まず、普通の人は考え方にバイアス(偏り)がある、などどいきなり読者を挑発する。偏りの代表は四つ。
- 反市場バイアス:価格競争は売り手買い手双方に良くない。価格や利子は統制すべき。
- 反外国バイアス:移民は脅威だ。貿易を統制しないと国内企業が潰れみんな失業する。
- 雇用創出バイアス:自動化・機械化したら仕事が減ってみんな失業する。
- 悲観的バイアス:社会は昔より悪くなった。未来はもっと悪いだろう。
以上四つは間違ってるよ、と著者は主張する。例えば反外国バイアスの例で、当時の日本の貿易黒字が脅威と見なされていた点について、「じゃ、あなたとコンビニの貿易収支について考えてみようか」などと挑発してくる。はてさて。
この著作で最も感心したのは、今まで経済学で無視されてきたモノに、大きな光を当てている点。つまりは人々の選択(というより世論)の不合理性なんだが、今まで経済学者は、その原因を無知だと思い込んできた。人は利己的で、かつ合理的だ、ただ充分な情報を持たないだけだ、と。
ところが、そういう理屈じゃ説明できない現象がある。例えば、「9・11事件の二週間後、その数(市民の政府への信頼度)は二倍以上の64%になった」。「消費者のゼネラル・モーターズ(GM)に対する信頼が、重大事故によるリコール後に高まるということは考えにくい」。
こういう不合理性を、著者は実に経済学者らしく説明する。なぜ一見不合理に見える選択をするのか。支払いは人々自身の財だ。それと引き換えに、何を得ているのか。
人々が関心を寄せる財の一つとして、自分の世界観がある。自分たちの宗教的な信念や政治的な信念が誤っていることを知って、いい思いをする人はきわめて少ない。
一票差で議席が決まる事は滅多にない。自分の票が現実に政策に影響を与える可能性が極めて低いなら、せめて自分の信念は守ろう、そういうことだ。また、感情的な拘りもある。本書では毒物学と化学物質の例が出てくるが、今の日本なら放射能が感覚的に判りやすい。
内容は挑発的で斬新だし、世論調査の結果などは興味深いエピソードが多い。ただ、文章は酷いんで、その辺は覚悟しよう。
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