司馬遼太郎「俄 -浪華遊侠伝- 上・下」講談社文庫
「太融寺の坊主がぬかしたわい。智恵より大事なのは覚悟や、と。覚悟さえすわれば、智恵は小智恵でもええ、浅智恵でもええ、あとはなんとかなるやろ」
【どんな本?】
今や国民的作家とまで言われる司馬遼太郎の異色作。時代は激動の幕末、場所は商人が仕切る天下の台所大阪。主人公は、なんと侠客、明石屋万吉。度胸と愛嬌と根性で名を成し、幾多の修羅場を潜り抜け、財を成しては失う浮沈の激しい人生を駆け抜けた、爽快な男の物語。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
下巻巻末の年譜によると、初出は1965年5月15日~1966年4月15日報知新聞連載、1966年7月講談社より出版。私が読んだのは講談社文庫の新装版、2007年6月15日第一刷発行、2010年9月15日の9刷。出せば売れる本だなあ。文庫本縦一段組で上巻約528頁+下巻約487頁=1015頁。9ポイント38字×16行×(528頁+487頁)=617,120字、400字詰め原稿用紙で約1543枚。普通の長編3冊分ぐらいの分量。
分量こそ多いものの、そこは天下の司馬遼太郎、読みやすさは抜群。彼独特のリズミカルな文章も相まって、とにかくスラスラ読める。他の作品では漢語が多かったりするのだが、この作品はあまり学のない人が主人公のためか、難しい言葉もほとんど出てこない。敢えて言うなら大阪が舞台なため会話がコテコテの大阪弁というぐらいだが、大抵の日本人は日ごろから漫才などで慣れてるから問題ないだろう。
【どんな話?】
豪商茨城屋の小僧、万吉、歳は11。殴られても泣かない可愛げのない奴。正月そうそう、父親が家出したため、万吉は親兄弟を養う羽目になる。まっとうな生き方じゃじゃとても養えんと考えた万吉、庄屋に掛け合い無宿人となる。
「いままでは悪事を働いたことはございませんが、これからは泥棒もするかもしれませぬ」
家族に迷惑がかからぬよう、縁を切ってくれ、というのだ。だからといって何か思案があるわけでなし、とりあえず稼ぎの道を探して歩きお初天神に行けば、子供ばくちが客を集めている。胴元の銭に目をつけた万吉、(この銭、とってやる)と決意を固め…
【感想は?】
司馬遼太郎は「~主義」だの「~思想」だのと小難しい扱いがされるが、この作品はそんな難しいもんじゃない。少年マガジンあたりで漫画化して連載すればヒットまちがいなしの娯楽作だ。そういう意味では、司馬作品では異色作と言えるだろう。「竜馬が行く」や「坂の上の雲」より、阿佐田哲也の「麻雀放浪記」や大藪春彦の「汚れた英雄」あたりと並べたほうが座りがいい。
司馬作品が小難しく扱われる理由の一つは、当時の社会情勢を詳しく書き込んでいて、それが作品の大きな魅力となり、時としてその魅力が主人公すら食ってしまうからだろう。SF者も司ファンが多いのだが、おそらくはジャック・ヴァンスと同様、「今とは異なった社会」の魅力に溢れているためだ。
この作品でも、幕末の大阪については充分に書き込まれている。商人の町大阪だけに、当時の経済情勢も垣間見え、それはそれでなかなかに魅力的だ。が、この作品では、それ以上に主人公の明石屋万吉が大暴れする。
己を浅知恵と割り切り、生きるには命を捨ててかかるしかないと覚悟を決め、敢えて危険に飛び込みハッタリとアドリブで切り抜ける。その人物像はヤンキー漫画の登場人物に近いが、べつに「トップを取ろう」という野望に燃えているわけじゃない。「自分みたいな奴が生きるには度胸しかない」と、生き方を定めているだけだ。つまりはハードボイルドなんだな。
「おれは体を粗末にして命を大事にしているのや」
などと、遊侠物だけあって、啖呵がいちいちカッコいい。ところがカッコよく啖呵と決めても、それだけじゃ終わらないのが大阪。婆さんから子分まで、突っ込みがキツいキツい。それなりの名を上げ稼ぎも増え、一声かければ数百人が集まる身の上となり、お上から召し上げの話があっても、住み込みで世話を焼く婆さんに落とされる。
「えらい世の中になったものや。つくづく長生きはしとうない」
「お前はんは、ばくち打ちやないか。つまり人の屑やないか」
「そのお前はんを、市民の上に立つ侍にさせてやろうというご時勢が情けない」
舞台装置がわからないと面白みが巧く伝わらないけど、こんな感じの爆笑場面がアチコチに仕掛けられてるのも、この作品の魅力。この後も新撰組に捉えられ、蔵の中で裸踊りをする場面があったりする。なんでそうなるのか判らないと思うけど、万吉以外にその理屈がわかる人はいないと思う。
もちろん、魅力はギャグだけじゃない。序盤で万吉が名を挙げるきっかけとなる、米会所の殴り込みからして、爽快さは抜群。幕府が相場に介入して米の値段を吊り上げたので、貧民は飢え、大阪の商人が悲鳴をあげて万吉に頼み込んでくる。引き受けた万吉、どうするかというと…
ケリをつけた彼を大阪庶民が迎えるシーンは、そのまんま物語のエンディングにしてもいいぐらいの盛り上がり。「カメラがロングで引いていき、群衆の大きさが次第に見えてくる」なんて風に動画が見えてきそうな華やかさ。
他の司馬作品だと、主人公は何かしら目的や野望、または「自分の役目」を心得てるものだが、万吉はそんなもの持ってないのも異色。己を極道者・世間の屑と定め、体を粗末にする事で生きながらえてきた万吉、それでも女房をもらい娘のたまきが産まれると…
「人に出来んことがあるのや。つまり世間のお人よりも命を粗末にできる、という能や」
「子供のころから、粗末にしてきた。万吉は命の粗末屋やという評判が立っていろいろと依頼がころがりこんできた。その能ひとつでいまめしを食うとる」
「このたまきの顔を見ていたら、その能がついつい鈍るがな」
嫁さんも苦労します。「つくづく、けったいな稼業の人のところへ嫁てしもた」などと愚痴ってる。
時は幕末から維新にかけて、幕府と大名の関係、蛤御門の変や鳥羽伏見の戦い異人との軋轢や維新後の選挙の様子などを絡め、司馬作品には珍しく「治められる側」から見た世相も読みどころ。なにせ主人公が極道なんで、隙間から覗き見する感じではあるけど、それはそれで「他の本も読んでみたい」という気にさせる。
司馬遼太郎の常で時折作者が読者に語りかける部分も、他の作品は「教養がにじみ出る」風なのに、この作品では講談調で弁士が素で語ってるような気分になってしまう。難しいことを考えず、娯楽作品として楽しもう。
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