ジョー・ウォルトン「英雄たちの朝 ファージングⅠ」創元推理文庫 茂木健訳
この小説は、歴史に記録された暴政のいずれかを学んだ経験があり、次になにが起きるか熟知しているにもかかわらず、つい戦慄を覚えてしまうことに静かな満足が得られる人たちのために執筆された。
どんな本?
SFマガジン編集部編「SFが読みたい!2011年版」のベストSF海外編で、版元の違いにも関わらず堂々の2位に輝いた歴史改変三部作の第一作目。イギリスがドイツと単独講和を結んだ世界で、「戦後」まもない1949年のイギリスが舞台。「ファージング」とは、講和を主導したイギリスの保守系政治勢力の中心一族。
いつ出たの?分量は?読みやすい?
原書は Farthing, by Jo Walton, 2006年。日本語訳は2010年6月11日初版発行。文庫本で縦一段組み本文約430頁+訳注12頁+訳者あとがき8頁。8ポイント42字×18行×430頁=325,080字、400字詰め原稿用紙で約813枚。長編としてはやや長め。
訳文そのものは読みやすいけど、ブラック・プティングなどイギリスの文化・風俗に慣れないと辛いかも。とはいっても、イギリス風味がこの作品の重要な魅力のひとつなだけに、なんとも。また、同じ人物がある時は「アンジェラ」で、別のときは「ミセス・サーキー」なのは、翻訳物の常ではあるけど、ちと面倒くさい。登場人物一覧があるから助かるけど。
どんなお話?
ルーシーは夫のデイヴィッドと共にハンプシャー州の実家に来た。週末のパーティーに出席せよ、と母親のマーガレットに呼ばれたのだ。貴族感覚が心底染み付いたマーガレットと、進歩的なルーシーは折り合いが悪い。もともと親子の仲は冷たかった上に、ユダヤ人のデイヴィッドと結婚してからはなおさらだ。
パーティーには、彼女の(元)一族であり、またイギリス保守政界を牛耳るファージングが勢ぞろいしていた。父で貴族院議員のチャールズ、おじで貴族院議員のダドリー、アンジェラとその夫で下院議員のジェイムズ、ダフネとその夫で下院議員のマーク。
そんな豪華な顔ぶれのパーティーで、事件は起きた。
感想は?
最初にお断りしておく。今の私はまだ続く「暗殺のハムレット」と「バッキンガムの栄光」を読んでいない。だからシリーズ全体を見渡す俯瞰した視点を持たない。
この巻はミステリとして幕をあける。パーティーで起きた事件を機に警察が乗り込んできて、謎解きが始まる。主人公の一人は、ファージング一族の娘でユダヤ人と結婚したルーシー、もう一人は探偵役のカーマイケル警部補。どちらも知性的で現代的な人間として描かれる。
ミステリとしては、謎解きの過程で明らかになる登場人物たちの意外な裏事情が、ワイドショー的なビックリで一杯。「警部補は見た!上流階級の意外な真実!」とでも題してドラマ化すればウケるだろう。ミステリには疎いんだけど、こういう複雑怪奇な愛憎関係ってミステリには多いのかしらん。
登場人物はみなクセの強い連中ばかり。まずマーガレットがいい。生まれながらの貴族で嫌味なババ…もとい貴婦人。悪意のカケラもなく人を不愉快にさせる言葉を撒き散らし、それを当然と思っている。陰謀と人を操る術に長け、差別意識の塊で、デイヴィッドに対し平然とユダヤ人を侮蔑する。こういう賢くてしぶとい悪役がいると、ドラマは引き立つよなあ。
マーガレットと並び毒々しく光るお方がもう一人いて、彼女の嫌味な台詞が実にいいんだけど、活躍が終盤なんでここじゃ紹介ねきない。残念。ほんと、読んでてムカつくことしきり。
この作品を通し背景で静かに流れているのが、イギリスの階級社会と差別意識。主人公が貴族階級だったり、その夫デイヴィッドがユダヤ人であるのはまだ判りやすい方で、カーマイケル警部補のはもう少しややこしい。階級や人種ならともかく、彼がイングランド北西部ランカシャー州出身というのも、微妙に効いてくる。湖北地方になるのかな。
そのカーマイケル警部補自身がイングランドに対し持つ複雑な感情を、彼の登場シーン早々に明かしてくれる。とにかくこの作品内のイギリス人という奴は、何かと差別したがる連中のようで。まあ、イギリスは国旗からして地域の集合体だしなあ。
などといったドロドロした部分とは別に、「やっぱりイギリスだよなあ」と感じるのが食事のシーン。朝から「トーストにソーセージ、ベーコン、ブラック・プティングを頼む、あとフライド・ポテトも」だもんなあ。少しは野菜も取らないと胸焼けがするぞ。ボイルド・トマトもつけなさい。ただ、野ウサギのラズベリー・ソースがけってのはちょっと…。なんで向こうの人は肉に甘いソースをかけるんだろう。やっぱりポン酢と大根おろしだよねえ。いや私の趣味ですが。
お茶に拘るのも英国。上流階級の男はミルクティーを飲むものらしく、レモンを入れるのは男らしくないと看做す人もいる模様。でも中国茶(緑茶?)にレモンをいれるのは、どうなんだろ。昔アイルランドを旅行したとき、緑茶に角砂糖がついてきてびっくりした事があったなあ。
このお茶が登場人物を象徴するアイテムの一つになってる。作者は薄めのお茶が好みの模様。お茶と並んでルーシーとカーマイケルの共通点になっているのが、読書癖。
カーマイケルは唖然とした。版型、あるいは表紙の色でしか本を区別できない人間が、この世に存在しようとは。
人って自分が詳しいモノは他の人も同じぐらい詳しいと思い込む傾向があって、それを巧く表してる。いや普通区別つくよね、クラークとハインラインの違いぐらい←をい
なぜ改変した歴史を舞台にしたのかは、この巻だとぼんやりと仄めかされるだけだ。その辺はミステリの謎解きも絡んでくるので、ここでは敢えて割愛する。東京創元社のサイトに「礒部剛喜 ジョー・ウォルトン『英雄たちの朝』が暴き出す、第二次大戦下の隠された英国史」が詳しい。特にネタバレってほどでもないけど、読み解くのに参考になる。
創元推理文庫の常で登場人物一覧があるのは嬉しい。できれば目次もつけて欲しかった。中盤まで訳注があるのを見落とすドジは私だけじゃない…と思いたい。
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