藤沢周平「蝉しぐれ」文芸春秋
稲作にかぎらず、総じて農事は、やり直しのきかない真剣勝負のようなものだということも悟った。一年に一回だけの勝負である。
そのために手段をつくして用意がととのえられ、種が播かれ苗が植えられる。植えつけたあとも育成にしたがって作物の手入れをしないと物は育たない。そのために、たとえば田草取りの作業では、炎天下の田圃を這い回って村人は草を取るのである。そのようにして、一番草から三番草まで、領内の平野の隅々まで、人の手が三度地面を撫で回すのだ…
どんな本?
山本周五郎と並ぶ時代小説の大御所、藤沢周平の作品の中でも最も人気の高い長編小説。架空の藩、海坂藩を舞台に、若き下級藩士・牧文四郎の成長を描く。
というと、ナニヤラ高尚なブンガク作品みたいだけど、とんでもない。いや人物造形や心情描写がおろそかという意味ではなくて、淡い初恋や同門の仲間たちとの友情、剣のライバルとの葛藤などといった青春物の定番はもちろん、お家騒動や尊敬する父の秘密、そして剣戟アクションなど読者をひきつける要素を満載した、誰もが楽しめるサービス満点の娯楽作品。
いつ出たの?分量は?読みやすい?
初出は山形新聞夕刊1986年7月9日~1987年4月11日。自分が読んだのはソフトカバー、1988年5月10日第一刷で、2005年9月30日の22刷。多くのファンに長く愛されてます。縦一段組みで本文約430頁。43字×20行×430頁=369,800字、400字詰め原稿用紙で約925枚の大作。
量が多いが、文章の読みやすさは抜群。時代小説とは言っても決して堅苦しい文体ではなく、あの時代の雰囲気を漂わせつつも、現代の読者に不自然さを感じさせない、絶妙の職人芸を見せてくれる。構成も視点は文四郎固定、時系列も素直でこれみよがしな小細工はなし。
ただ、最近のハリウッド映画のように、出だしの5分で観客を驚かせる…といった性急な構成ではなく、少しづつ読者を引き込んでいく雰囲気の作品なので、いきなり派手なアクションは期待しないように。その分、じっくりと描かれた世界の中で展開する物語は、お話が進むに従って吸引力を増していく。
感想は?
実は藤沢周平を読むのは初めてで、ナニかと構えてたんだけど。
「もっと早く読んどきゃよかったあああぁぁぁ!」
なんというか、「面白い小説ってのは、こういうんだよ」という、お手本のような小説だった。
牧文四郎、15歳。午前中は居駒礼介の私塾に学び、午後は空鈍流の石栗道場で剣を磨く。剣の腕は将来を期待されているものの、学業は、まあ、アレだ。塾と道場で同門の親友は二人。細身で背の高い島崎与之助は、江戸の塾への留学を薦められるほどの秀才。早くに父を亡くした小和田逸平は、百石の小和田家当主で、少々がさつだが一本気な奴だ。
同門にも嫌な奴はいる。先輩の矢田作之丞は温厚だが、師範代の佐竹金十郎は根性一本やりの脳筋野郎だ。なまじ腕が確かで修行も真面目なので、下手に文句も言えない。山根清次郎は、塾で島崎与之助に席次を抜かれた逆恨みで、なにかとつっかかってくる。
最近は隣の小柳家の娘、12歳になる ふく が色気づいたか、裏の小川で顔をあわせても、そっけない態度で挨拶もしない。なんか俺、悪いことしたかなあ。
小和田逸平は、既に既に元服を済ませている。島崎与之助は学問で身を立てるだろう。この間の嵐では、見事な智恵でお役目を全うした父・助左衛門の姿を見た。血はつながらぬながらも、改めて尊敬の念を強める。だが、その父の周囲に、なにやら怪しげな男たちの影が…
道場の帰りに買い食いしては、カアチャンに叱られる文四郎。そのカアチャンは、がさつな逸平を嫌い秀才の与之助を歓迎する。こういった関係は、昔も今も変わらないなあ…などと思って油断したところに、突然の事件で当時の社会の厳しさを突きつけ、読者に冷や水を浴びせる。
事件に巻き込まれた文四郎から遠ざかる者もいれば、今までと変わらぬ者もいる。乗り越えようと必死に足掻くうちに、自然とできるつながりもある…吉か凶かは不明だが。やがて父の騒動の実態が見えてくる頃、その影響は文四郎の身にも迫ってくる。
静かに始まった物語は、進むに従ってアクション場面も増え、大きな騒動へと広がっていく。巻末近く、文四郎が決める啖呵の気持ちよさったら。
読みやすさ、面白さ、ともに山本周五郎と張り合うだけあるなあ。ただ、周五郎の作品で見える風景が、長屋の続く町並みなのに対し、周平氏の作品だと。
広いんだ、風景が。
土手の上から見る、延々と続く緑の田圃、みたいな感じで。ああ、川沿いに散歩したくなった。
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