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2010年10月12日 (火)

船戸与一「蝶舞う館」講談社文庫

「ハノイやホーチミンとはべつの論理が働くんだよ、辺境ではね。中部高原はベトナム国内で形成された最前線だ。そういうところじゃ国家は容赦しない。人権だの何だの言ったところで何の意味もないんだよ」

 現代のベトナムで、民族紛争を抱える中部高原地域を舞台に、圧倒的な力の前に抗い流され利用する男たちを描く、船戸与一お得意の国際ハードボイルド小説。

 菱沼大介は、ベトナムで旅行代理店を営んでいる。日本人向けに、ベトナムでの宿やチケットの手配・当局との交渉に当る仕事だ。今、彼は、日本のTV番組制作会社が企画した、ベトナム戦争終戦30周年記念番組の手配に携わっている。番組制作は始まったばかりだが、どうも波乱含みだ。特別リポーターの元アイドル、知念マリーは高慢でいう事を聞かず、製作会社社長の宮永はマリーの顔色を伺うばかり。ディレクターの瀬戸とは意気投合したものの、根拠不明の自身を漲らせている。

 ダクラック省の省都バンメトートの公安局第二課長のグエン・タイ・ハイは忙しい。中部高原地域は多様な少数民族が多く住み、多数派であるキン族との諍いが絶えない。最近はキリスト教プロテスタントの福音主義派を中心にして、ベトナム国家によるモンタニャール(少数民族)弾圧を、民族破壊として世界に発信し、それに人権団体が呼応して大騒ぎする。ハノイは世論の顔色を伺って「手荒いやり方は控えろ」と言うが、ヌルいやり方じゃ中部高原地域は収まらないってのが、わかってないんだ。

 文庫本で約670頁。ハードボイルド調のクセはあるものの、読みにくいわけじゃない。ただ、前半は、見慣れないベトナムの人名を覚えるのに苦労した。分量に相応しく登場人物も多い上に、それぞれが複雑な背景を持っているんで、多少の覚悟は必要。とはいえ、冒頭に主要登場人物の一覧があるんで、あまり気にする必要はないかも。後半に入って主な登場人物が集まりだすと、物語は一気に加速するんで、あっという間に読み通せるだろう。

 船戸与一は、現代史のひだを描く作家だ。大国同士の戦争や発展しつつある新興国の陰で展開される、血生臭い少数民族独立運動や階級闘争、世代間の対立など、表立って大きく報道される事のない軋轢を、エネルギッシュに書き続けてきた。
 今回、彼が舞台に選んだのはベトナムの現代史。一般には、資本主義 vs 共産主義・アメリカ vs ソビエト・南ベトナム vs 北ベトナムという判りやすい対立構造が知られている。ベトナム戦争当時の報道は、悪辣なアメリカ軍と、それに抵抗するベトナム解放戦線という構図が多かった。ところが、それほど簡単に割り切れるモンじゃないんだよ、と著者は警告する。

「ベトナムが解放されたあと、処刑された連中はべつとして、再教育キャンプに送られたのは南ベトナム政府軍の兵士たちの次に、北ベトナムやベトコンに好意的だった知識人たちだよ。物乞いや犯罪者たちはそういうところに押し込められはしなかったんだ。つまりな、北ベトナムやベトコンに好意を示した知識人たちは敵視された」
「戦争をやってたんだ、奇麗ごとばかりはありえない。しかし、南ベトナム政府や米軍のでたらめに激怒してた知識人たちは北ベトナムやベトコンに過度の希望を抱いてた。サイゴンが陥落すると、その期待は失望に変わる。そういう失望はどのような回路を辿って組織化されるかわからない。共産党はそれを畏れて知識人たちを再教育キャンプに送った。その体質はいまも変わらないと思う」

 現在、ベトナムはドイモイ政策で順調に経済成長を遂げていて、日本からの投資も盛んであり、海外旅行先としても人気を集めている。しかし、本質的には共 産主義国家であり、かつ民族対立を抱えている。ハノイやサイゴン(ホー・チ・ミン)はともかく、地方では報道規制が厳しく、胡散臭い外国人は公安に監視さ れる。というのも、国内、特に中央高原部では、多数を占めるキン族と、多様な少数民族の軋轢があるからだ。冒頭に引用した台詞が、それを象徴している。

 フランスやアメリカに対し、民族の自治を求めて毅然と立ち向かう北ベトナム。その構図が、ここではひっくり返って、ベトナム国家という強大な力に対し、民族の誇りをかけて挑むモンタニャールという形になる。かと言って、アメリカやフランスを擁護しているわけでもない。フランスやアメリカもまた、自国の利益のためにモンタニャールを利用した。モンタニャールも一枚岩ではなく、アメリカに協力する者もいれば、ベトコンに与する者もいる。そもそも、モンタニャールというのは総称で、各民族同士で言葉が違うため、会話にはベトナム語を使う必要がある。

 などというややこしい背景も魅力だが、私はディレクターの瀬戸明広が気に入った。無根拠な自信家で、山師根性旺盛。特ダネのために自ら隠しカメラを抱え、サイゴンの商売女を買って体当たり取材する。現実に傍にいたら迷惑極まりないけど、こういう奴がいると物語りにメリハリが出て盛り上がるんだよね。

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